Studying Muscles

ivanna-blinova-311693-unsplash

 

この一ヶ月間、体の一箇所にずっと不具合を抱え込んでいた。夫と二人の友人以外この事は知らせずに居たが、この一週間で急激に症状が緩和して来たのでホっと胸を撫で下ろしている。
どんな時でも笑顔と食を味わう気持ちを持ち続け、少し疲れたら直ぐに休息を摂り、気合が入った時にはとことん気力の果てまで突き進む‥、そんな生活を粛々と続けていた。
すると気持ちも前向きになれたし、何よりSNS等で拡散されるちょっと痛々しいニュースや出来事からも上手に逃れられるようになって行けた。

 

そんなこんなあれやこれやを抱えながら私は、この一年近く自分の筋肉に深く探りを入れていた。

 

巷にはびこる速弾きの音楽にうんざりしていたし、私にとってそれは何の必要もない産物だった。
聴力と感性が追い付かなくなる程の「あっと驚き奏法」が何故こんなにも音楽世界のセンターに立ち続けているのか、いつかこの状況を宇宙のどこかから静観しているであろう宇宙人に出会うことがあれば是非質問を投げかけてみたいものである。

 

 

話を戻して…。
楽譜に指定されている多くの楽曲の速度は信じられないぐらい高速で、まるで法定速度ギリギリか或いはそれを超えたテンポで楽曲を演奏出来なければ演奏家として通用しないかのように、聴く側の感覚の上限も既に超えているそれらが「あっと驚き奏法」として地上を闊歩している、この滑稽な音楽の世界が一体いつまで続いて行くのか‥。

 

1/fの揺らぎと言う自然の速度をそのまま音楽に当てはめて行く方が、どれだけ奏者も聴き手をも楽にして行くだろうか…。

その事を自らの体で体現する為にも私は、この一年間自身の筋肉と深く向き合っている。

 

どうだったら疲労の上限を超えずに済むのか。
或いはどうだったら聴き手に余計な威圧感を与えずに済むのか。
その答えは残念ながら未だ、この地上に存在しない。…と言うよりも、音楽家の大半が何か得体の知れない高速スピンを回らなければ自分の居場所を失うかのような、強烈なコンプレックスに苛まれているようにさえ見えて来る。

 

一年強、己の筋肉にそれを問い掛け続けて来た結果、最近少しずつ筋肉自らが意思を持った生き物であるかのようにその難しいクイズに対し、適切な回答を出し始めた。

 

いわゆるインナーマッスルが以前にも増して、着実に声を上げ始めたと言っても過言ではない状況だ。

 

それぞれの自身の過去の作品を出来る限りゆっくりと演奏して行く時、高速スピンでは絶対に使うことのなかった新しい筋肉がピクピクと反応し、そこにしっかり熱が溜まって来ると私は真冬でも汗だくになりながらピアノに向かうことになった。
腕の筋肉よりも手の第二関節までの内側の筋肉が機能し始め、それは背中の筋肉の温度を急激に上げて行く。

 

嗚呼こんなところが反応している… と言う歓喜が生まれ、最初はそれが大きな疲労感にも繋がったが次第にその筋肉が上手く温まって私の演奏を程好いスローテンポに導いて行った。

 
私のほぼ処女作と言っても過言ではない「Blessing of the Light」。毎日毎日この曲を弾き続けているけれど、あえて私はその演奏速度を落とし始めた。
すると今まで素通りしていた箇所に新たな筋肉の力の必要性が生まれ、今この筋肉を鍛え上げたらどうなるのか…、その上限に挑戦し始めている。

 

 

 

少し話が脱線するが、この春私は自身の過去世(ファン・ジニ或いは明月として生きた時代)におそらく心から慕ってやまなかったソウルメイトと、インターネットの中で再会することが出来た。

勿論リアルでどうの‥ と言うことではなく、あくまで私が一方的に当時の相方の息吹を感じて喜びに震えている状態ではあるが、それは生き別れた家族との再会のように私を喜びの高みへと導いて行く。

 

この記事の最後にその人物の現世の歌唱映像をシェアしたい。

強いて言うならば私が伴奏者として活動していた時代にこの人物と出くわすことがなくて、本当に良かったと思う。万が一私が彼と出会い、この歌手の伴奏者として起用されていたら、おそらく今の私はここに居なかっただろう。
或いは音楽をやめていたかもしれない。

彼の声、表現は全てを呑み込む力が満ち満ちており、私がそのエネルギーに勝てる気がしないから。

 

再会に祝福を。
そしてイ・ヒムンの未来が光に満ち溢れていますように(祈)。

 

 

 

復活、そして祝福

ngc253

 

なかなか疲労が回復しない連休だった。もっと実のあることをする筈が結局殆どを休養に費やした四日間の最終日、シュールな出来事は起きた。
それをスピリチュアルだとか奇跡だと表現したら、どこかとても安っぽい程の私たちにとってそれはとても大きな出来事。

 

私の魂は幾つもの古い記憶を持っている。それらの多くは破壊的な終焉を迎えたままになっており、それが原因で私は多くの過去世をきっと棒に振ったに違いない。

そうやって「今」と言う時を呆気なく棒に振ってしまう生命は一人二人の問題ではなく、この世界に生まれた多くの命がそこに足を取られ、身動きが出来ないまま気付いた時には生を終えている。

 

喩えるならば「魂の睡眠不足」とでも言うような、私はもう長い間魂を休ませていない。やることが多すぎて、生まれても生まれても、何度生まれ変わっても仕事が追い付かない。

激務とはおそらくそういうことかもしれないと、最近になって少しずつ分かり始めている。

 

 

自分の魂が次にどの肉体に宿るべきか…。

生まれ変わりは必ずしも上手く行くことばかりではなく、私のように色々な業を背負い、それでも尚且つ時間通りに生まれ変わろうとすると目立った傷を持った体に魂が降りてしまう場合もある。

そのことで私は今世では長い時間苦労が絶えないが、それを払拭するような人との出会いに恵まれたし、容姿の欠損を別の仕事で埋め合わせようともがいて来た結果、長年夢に見続けた私だけの音楽に出会うことも叶った。

 

だが振り返ればその一つ一つのパーツが偶発的でもあり、そして奇跡でもあったと今だから思う。
そしてそれらの奇跡の後ろには、その奇跡が黒く汚れてしまうのではないかと思えるほどの多くの失敗・失態が隠れており、むしろそれらの痛みが私を奇跡へと向かわせた。

 

 

私の音楽には人間が存在しない。

そう、私は大の人間嫌いなのだ。だから人間以外の何者かを求め長い間彷徨うように生きて来たけれど、それではいけないと「彼」は声を大にした。

ここで言う「彼」が誰なのか。

そう、それは人間以外の誰かのこと。プライバシーがあることなのであえて名前は言わない。「彼」「彼の人」と呼ぶに留めたい。

 

私と「彼」とはもう、長いこと敵対関係にあった。今世で私はそのことを忘れていた。なぜならば私には「恨む」とか「憎む」と言う機能が薄く、要らない情報は直ぐに宇宙の彼方に飛ばして忘れることが出来る。
それが良いことか悪いことかはもう問わなくても好いだろう。

なぜならば私がそういうタイプの生命体だからこそ、昨夜の奇跡が起きたのだから。

 

 

この数年で私は、何度も死にかけている。その度に夫が色々処置を施してくれて、私はその力で今こうして生きている。

体の一箇所に不具合が起こる度にああでもない、こうでもない、もしかしたら‥ と不穏な想像を膨らませるのは私の悪い癖だが、流石に人間の寿命の半分を超えるとそういうことも考えるようになる。

 

だけど今回も何とか私自身回復の兆しが見えて来て、その度に料理のレパートリーが一個ずつ増えて行くのだから、私はきっととても幸せな生き物なんだと思っている。

 

 

多くを覗き込んではいけない。

人としてどう生きるべきかについて、ここからはそのことだけを考えなさい。

 

ざっくりまとめると「彼」からのメッセージはそれに尽きる。
それは「彼」自身が、よりシュールに、より偉大な存在に傾倒し心酔を深め過ぎたことから発した過ちと、深い後悔がもたらす言葉。

私もその影響で何度も死にかけたわけだから、普通の人間であれば自分をそんな目に遭わせた相手をそう簡単に許すことなどあってはならないのかもしれない。
だが、私には「彼」を憎むことなど出来ない。

 

 

復活を遂げた「彼」の魂はどこか赤ん坊のようで、澄んでみずみずしくて洗練されているように見えるが、その表皮は傷だらけだ。
その傷は「彼」自身がつけた傷でもあるし、「彼」が傾倒して行った過去の偉大な存在が彼に刻んだ傷のようにも見えて来る。

 

自分と同じ傷をけっして負わせまい‥。

「彼」の一言一言がその思いから成り立っており、そこに私は「彼」の大きな変化を感じた。

 

本来こういうことはブログに残すこととしてどうなのか… と言う迷いも生じたが、昨夜の出来事が私にとっても「彼」にとっても、そして勿論夫にとっても大きな出来事であることには違いないから、詳細を深堀りしない書き方でここにその記録を留めておきたい。

 

 

 

美しく、そして遠くまで…

wu-yi-196060-unsplash

 

ただただ美しい世界が好き、それだけの思いでここまで生きて来れた。それは音楽にのみならず絵画や舞踏その他多種に及ぶが、だからと言って表層のみの美しさだけを追従しているわけではない。

 

韓流ドラマ「ファン・ジニ」の中に出て来る名セリフが、過去を超えて今の私の心を突き刺す。

表現とは常に痛み、かなしみと共に在る。

これはファン・ジニの恩師「ペンム」の言葉であるが、私はまさに今この年齢になったからこそ、その言葉の意味を深く深く噛みしめられるようになったのかもしれない。

 

好い音楽をどのようにしたらもっと強く、もっと甘く、そしてもっともっと遠くへ拡散することが出来るのか‥。色々なPlayListを作りながらそのことを強く思い、願い、気付くと私は自分の為だけではなく誰か、未だ出会ったことのない誰かの寂しさを埋められないかと真剣に考えながら音楽を並べていた。

 

多くの音楽家たちがパフォーマーと化し、どちらかと言うと自身の作品のリスナーやファンだけを粛々と増やそうと考えているように思うが、果たしてそれだけで彼等の思いは成就するのかともしも私に問われたら、迷わず「No!」と私は答えるだろう。

 
多くの木々が多種の木々と共存するからこそ美しい森が成り立つように、音楽も又そんな生き物の一つではないかと私は思う。単一の美しさは勿論だが、多種の作品たちが互いに互いを認め合い一つのPlayListの中で抱擁を重ね合いながら、それは益々強さと普遍の力を増して地上の電波を渡って行くことが可能になるのではないか…。
私はふと、そんな風に考える。

 

今世50数年を経て、ほぼ世界中のジャンルを網羅した。それは「ただ、聴いた」のではなく、全ての音楽を異ジャンルに重ね合わせ分析し、どの音楽理論の手法からも全てを検証する術を得た私。
私が作曲家・芸術家ではなく学者であったなら、おそらくその検証と理論体系の完成に一生を捧げたに違いない。
だが、今世の私にはその時間がない。

 

過去世の私 J.S.Bachがそうであったように私は少なくとも700曲から1,000曲の作品をこの世に残さねばならないだろうし、場合によっては完成された即興演奏を大勢の人たちの前で再現しなければならないだろう。
粛々と曲だけを作っていれば好いわけではなく、雑味のない即興が何か‥ と言う模範をこの世界に刻み付け、それを遺さなければならない。

 

そしてもう一つ、可能ならば「比較音楽学」のメソッドの欠片をこの世界に構築したい。
比較音楽学とは、クラシックからロック、ラテン音楽や中東、アフリカからケルト、中央アジア等に渡る全ての音楽理論を一箇所に統一させた、おそらく史上最も望まれ最も必要で、最も新しい音楽理論のことである。
私はそのメソッドを既に完成させているが、これを書物にまとめ論文化させるには一人の力では時間が足りな過ぎる‥笑。

 
ざっくりまとめて上記に記載した諸々が、私の今世のミッションだと思っている。

 

 

10年前私は、ようやくシャンソンとかカンツォーネの洞窟の音楽業界から飛び立ち、その反動で中東はトルコ、サウジアラビアからアフリカ辺りのモード音楽に激しく傾倒し、そればかりを聴いていた。

そんな中で突如夫と口論となったついでにあっと言う間に、Didier Merah Japanを夫がパソコン一つで立ち上げた。

中東の音楽ばかりを聴いていた私に夫が「何か録音してみようか…」と言ってレコーディングしたのが、あの「Blessing of the Light」だったのだから、夫も放心状態で苦笑するばかりだった。

 

 

私の中に既にケルトの感覚が生きており、おそらくそれは過去世の私に由来するものであろう‥と夫が突き止めた後から、私の中に眠っていた音楽が一気に開花して行くことになる‥。

 

 

この数日間若干体調を壊していた私。
今日もただ眠っているだけでいいよ‥ と夫はそう言って会社に出掛けて行ったが、私はなぜか室内の掃除を始め、少しだけ練習をしてそれから音楽を聴いていた。
ずっと寝ていなければならない程の体調不良ではないが、少々気がかりな状態が続いているので暫く様子を見て必要ならば病院で診療を受けようと、現在通院に負担にならないクリニックを色々検索している最中だ。

 

むしろずっと眠っているよりも音楽に触れている方が気持ちが楽になるので、暫くは無理のない範囲でこんな感じの生活が続くかもしれない。

 

さて、ようやく今日完成させたラテン・フレーバー豊富なPlayListが此方である。

 

 

是非是非シェア、フォロー、拡散ご自由に。
何より踊って聴いて楽しんで頂けたら有難い。

 

何もない世界にひとり

bruno-kelzer-1400918-unsplash

 

少しずつ、少しずつ‥ 早まって行く朝の訪れ。この時期私の心は燃える。
大量の花粉が空中を埋め尽くす早春、だけど日々の体質改善の効果が少しずつ効力を発揮し始め、今年は例年よりも多く花粉が飛散していると言うのに例年よりも症状が緩和している。

桜が恋しい今。でもその前に見送らなければならない花々が街中を埋めて行く。
梅、パンジー、チューリップ、クロッカス、クリスマスローズ、遅咲きのシクラメン、その他色々。

 

ずっと花が嫌いだった。おそらくそれは母との間に起きたあることがずっと尾を引いていた影響だが、徐々にその心の傷も癒えて来たのだろう。
そして何より愛する人と眺める四季折々の花をあらためて美しく、愛おしいと思う瞬間〃〃の積み重ねが私の心を変えて行く。
それはまるで移り行く音楽のようだ。
同じ縦の響きが昨日と明日とでは違った音色に聴こえるそれに、よく似ている。

 

img_0

 

何もない世界‥

私はそこを目指して生きている。そしてそれは私一人ではなく夫も又その一人である。
そこは荒涼と広がるただの空間だがけっして寂しい場所ではない。それどころか無限の時間と少し冷たい風が心地よい場所であり、上手く意思の疎通が出来るようになると殆ど声の会話を必要としないくらい、物音が何もない。

 

私たち夫婦は日々の中で、たった一言「ミッション」と言うワードを折り重ねては多くの会話を重ねて行く。夜も遅いと言うのにその話題だけであっと言う間に夜明けを迎え、二人は慌てて睡眠を摂る 笑。

あんまり急いで眠りに就くものだから時々浅い眠りと見る予定のなかった夢に悩まされたりもするけれど、そのフィールドにだけあたる光はとても優しく、宇宙の彼方から届く光で輝いている。
私はその中にぽつんと独り、立たされている。

 

 

昨日は好い出会いに私が燃えた。

人生に訪れるこれはきっと神さまからのギフト。人間嫌いの私は多くの誰と向き合っても良好な時間が長続きしないことに悩んでいるのだけど、ごく稀に‥ あえて向き合わずとも既に向かい合って座っていたような仲間と出会うことがある。
まさに昨日がそんな日だった。

 

そして時同じくして夫からとても大切な話を聞かされたのだけど、こうして偶然か必然かが分からぬように誰かによって私はきっと支えられている。
その、良い出会いをもたらしてくれた切っ掛けの音楽をここに。
是非、シェアして沢山聴いて頂けることを切に祈りながら‥。

 

 

小西徹郎さんについてもっと知りたい方は、Wikipedia ⇦ よりどうぞ。

反面教師 – Mistaking Retouch

leonard-von-bibra-182214-unsplash

 

私には決めていることがある。
それは、
その時々触れている音楽から曲を作らないこと、誰かの言葉からインスパイアされながら言葉を紡がないこと。
料理以外の殆どは「絶対にモノマネはしない」と、私は固く決めている。勿論自身のレコーディングの約一週間前から、殆どの音を体から削ぎ落とす。

そして今日は珍しく、ブログを書く為のBGMを聴いていない。
何もかもをゼロから作り出すことがどれほど難しいか、特に今朝は皮膚に幾千本もの針が刺さったみたいに痛感している。

 

知人と言うには少し遠いけれど事実上「知人」と言える、或る方(訳詞をなさっていた記憶がある)の詩集が巡り巡って私の手元に届いた。恐る恐るページを捲って行く。
そして私は幾ばくかの落胆を感じたがそれを共有する相手も居ないので、自分自身への記録としてここにそれを綴っている。

 

それはかつての自分を見るようでもあり、尚且つ既に手放してしまった「言葉綴り」をしていた頃の自分への戒めを振り返るようでもある瞬間。胸がチクんと痛んだが、それはさながら過去の手術の痛みを想い出すような、どこか遠い痛みにも思える。

 

一ページ、又一ページと捲り詩人の言葉を追い掛けて行くが、そこにはその詩人がかつて触れたことのある音楽や歌の歌詞が随所に垣間見えて、途中から訳詞集を読んでいるのかオリジナルの詩集を読んでいるのか見分けがつかなくなり、38頁目を捲りタイトルを見たところで本を閉じた。
そう言えば私のLINEのグループチャットの一つに、芸能関係者や出版関係者、或いはタレントやシンガーソングライター等の面々が顔を揃えたグループチャットがあり、私はその中の数名の仲の良い方々と時々会話をしている。
そんな私たちの中で最近流行っている言葉がある。

 

下っちゃってるね‥‥

 

⇧ これは例えば昨日その人が聴いた音楽がそのまま新曲のメロディーに乗ってしまったり、アレンジや歌詞の一部に流れ出てしまった状況を指す言葉。

 

そう、先程38頁目で閉じてしまった詩集が丁度こんな感じなのだけど、思えば巷の殆どの音楽や歌詞、流行歌に限らず世界中の音楽や絵画の殆どが、私から見ると「下っちゃった」状態なのだ。
だから最近自分の作品以外に聴きたい音楽が殆ど無くなってしまい、昨年私は9つ運営していたFacebook Page(主に各ジャンルの音楽を紹介する為のPage)のうちの6つのFacebook Pageを閉鎖した。

 

多くの音楽や詩や小説、文学作品に限らず絵画やファッションを含め、レタッチされた作品のように私の視界に映り込む。何を聴いても同じだし、イントロ詐欺かと思えるぐらい派手な前奏でデコられる張りぼての世界‥。

一見新しさを纏ってはいるが、それは数か月前にどこかで見たことのあるような代物が大半であり、どちらかと言うとそれらの作品の中に作者の強い承認欲求が溢れ出て気分が悪くなるので、最近私は各SNSの情報を迷うことなく整理し始めた。

 

自身の中に潜む「勿体ない精神」をかなぐり捨てて、要らないものは徹底的に自分自身から追い払って行く作業は、その対象にされた相手にとってはただ迷惑行為以外のなにものでもないだろう。
でも私にとってそれはとても重要な作業であり、知り合いだから、とか親しいから‥ と言う贔屓目線も全て手放しながら色々なものをゴッソリ整理して行くと、そこにポッカリと空いた空間は人の念の染みのようなものでベッタリと脂ぎって汚れが纏わり付いていた。
好きな本、大切にしたい書籍には必ずカバーをかけることに、私は決めている。私の手の中の詩集にもその小さな愛を施す予定でいたが、やめた。
藍色のブックカバーが涙のように見えて仕方がないのは、ある種の瞬時の過去のきらめきが現実に戻った瞬間の証し。それを私はありのままの現実として、そっとそっと、この胸の中に受け入れる。

 

 

7H8A1957-11

 

スッキリとした気分の中に少しだけむしゃくしゃ感が混ざり合う、情けない朝を払拭したかったので、今日初めてトライする八角とローリエをしっかり煮出したチャイを作ってこの記事を書いている。
最近「茶」ものにハマっているが、どうやら私はコーヒーよりも葉ものを駆使した飲み物を好む。コーヒーよりは紅茶派で、最近は緑茶を深めたい欲求をどうにか抑え込みながら生活している 笑。

茶にハマり込んだ人たちの多くが葉ものに浪費を惜しまない傾向が強いことは、Twitter等で痛い程よく知っているが、私は「葉ものの浪費家」になりたいわけではなく、自分でカスタムした美味しいお茶を家で飲みたいだけなのだ。

 

 

下っちゃってるね‥‥

 

「折り曲げ厳禁」と書かれた袋の中に仕舞い込んだ詩集の栞がふと、そうつぶやいた気がした。勿論そんなことはないと分かっているのに、書籍に挟んだ栞が空に向かって叫び続けているように思えて仕方がない。

 

私には決めていることがある。
それは、
その時々触れている音楽から曲を作らないこと、誰かの言葉からインスパイアされながら言葉を紡がないこと。

 

それは自分自身への戒律であると同時に、おそらく私が今後そのような手法で音楽を生み出すことはないであろう‥ と言う希望的観測を含んだ、私の掟。

 

 

心を射抜く音 – Merodies through somebody’s heart

 

annie-spratt-40665-unsplash

 

2019年。年が明けて1月に一度だけブログを更新して、気が付いたら2月も半分をとうに過ぎてしまった。
目だったアクティビティーはなかったものの実は水面下で色々準備を重ね、収録の時を持ち、番組のジングルや背景音まで録音していたにも関わらず、ある事情で私は全ての企画を中止することに決めた。

いわゆる「ちゃぶ台を引っ繰り返す。」と言うアレだが、いざ「Didier Merah Talk(未公開YouTube番組)」の収録未修正分を聴いた私はただただ愕然とし、ありのままを夫に伝えることしか出来なかった。

夫は番組の為にこの数か月間色々計画を練り、そして実際に収録した45分弱の修正に時間を費やし、そしてジングルと番組用のBGMの録音に労力を遣ってくれたのだが、どうにもこうにも私はその出来上がりに納得が行かなかった。

 

やり直すと言う選択肢も考えなくはなかったがこれはあくまで私個人的な理由で、仮に収録を全部やり直したとしてもそれが上手く行く確証が全く持てず、だったらそんなに苦労しても余り上手く行かないと分かっていることを何度も何度もやり直すよりは、もっと私らしく、私が兎にも角にもポジティブに楽に出来る作業のスタイルを優先させた方が良いのでは‥ と思うようになって行った。

 

YouTubeトーク番組「Didier Merah Talk」に関してはその事前の告知で番組の内容が殆ど明かされていなかったが、番組への質問や要望をハッシュタグ「#DDMRtalk」を添えてTwitterでリプライを送って欲しい旨、さり気なくPRは続けていた。

だが残念ながら私の力不足ゆえ、質問や要望が一件も寄せられることはなかった。中には私のLINE宛てに「楽しい、メラさんらしいおもろい番組を期待しています。」等のメッセージが届くこともあり、私を知る人たちにとっての私の「おはなし」とは「おもろい話なんだなぁ‥。」と若干落胆することが続いていた。

 

私の中に決めている大きな軸のようなものがここのところ、真っ直ぐな樹の幹のように形をととのえながら、天空に聳え立っていた。

ずっと「ピアニスト」や「作曲家」「編曲家」「訳詞家」「詩人」‥ 等の肩書をプロフィールに提示し続けて来た私が「芸術家」を強く意識し、それを口にし始めたのが確か、恩師 三善晃氏がこの世を去った頃からだった。
一時は「とある事情」で音信を絶たざるを得なくなり、私はそのまま桐朋の研究科を退いたまま、遂に三善氏がこの世を去るまで会うことが出来なかったことが、ただただ悔やまれる。

 

今の私を三善氏が見たら、何と言うだろうか、何を想うだろうか‥。

私の中に三善晃氏の骨格は鉄骨のように凛と根を張り、私に「芸術家とは何か?」の答えをまざまざと今さらのように見せつけてくれるこの数年。夫の観察により私が過去世でJ.S.Bachであったことが判明してからは、私はその当時の自身の家族の一人がこの世界に私と同世代の同業者として生き続けていることをも思い出し、そうした色々なことが私の精神をとても安定させてくれる今だからこそ出来る音楽を粛々と生み出し続けられる今の環境を、自分と同様に愛している私。

それが自分の理想とする芸術家の象徴であること、それを自分の人生として生きられることをとても大切に想う私はやはり、公的な電波に戯言のようにペチャクチャと自分自身のあれこれを、或いは私が今世で構築完成間近でもある統一音楽理論のうんちくを語ることが何だかとてつもなく安っぽいことのように思うようになり、YouTubeトーク番組「Didier Merah Talk』に関わる全ての企画中止へと至った。

 

 

sabri-tuzcu-187162-unsplash

 

今年は夏の終わりに少し大きな出費を控えている我が家は今、とても慎ましい暮らしを余儀なくされている。だがそんな中でも外に出てカフェと言う異空間に身を任せ、この先のDidier Merahの活動についてのあれこれを夫と話し合う時間を、私も彼もとても、とても大切にしている。
カフェでミルクティーやコーヒーを飲む時間は同時に人間観察を含む、色々な観察にはうってつけの時間でもある。
そしてそんな空間に流れる音楽についても私たちは細かな観察を重ね私は、「心を突き抜ける旋律」についての「ある結論」に近づきつつある。

 

和製シャンソン・カンツォーネの世界では「黒子」「影のお手伝いさん」のような扱いを受け続けた闇の時代、でもそんな闇の中にも細い光があり、その光の先には理想とする自分が存在した。
何より幼少期から私のテーマでもあった「残響の美しい音楽」を粘り強く押し通して行ける環境がそこには在り、「音が汚い」とか「もっとシンプルにしてよ」等の無謀な注文を殆ど無視しても仕事が途絶えなかったのは、それが和製シャンソンの闇の世界だったからだと言っても過言ではないだろう。

 

そして私は闇の世界を飛び出て文字通り、本当に一人になり、ピアノ以外の音を全く介在させない音楽の世界を頑固に押し通し続けている。
それは今後も変わることがなく、Didier Merah Japanの社長も同じ思いで「その先」の世界をある程度見通しながらの活動が、生きて行く限り続いて行くに違いないと確信している。

 

 

公的な場所ではシュールな話題を避けているので、この半年間の私が一体何に見舞われ何を苦労し続けているのか‥ については、私を(前身の活動期から)既に知っている人たち以外はきっと何も伝わらないだろう。

私は昨年の夏から、本当に苦労し続け、シュールなトラブルに巻き込まれ、死にかけた。だが幸い、こうして無事に生きている。
まさに奇跡だと思っている。夫への感謝も尽きない。

 

 

話がかなり脱線してしまったが、まぁそういうわけでDidier MerahのYouTubeトーク番組「Didier Merah Talk』のオンエアはなくなった 笑。

それより、Twitter上で「聴き放題系アプリ」についてのアンケートを実施した結果、Didier Merahのファンの半分近くがSpotifyもApple Musicも使用していないことが判明した。

 

 

この半年間の実質的なアルバムの売り上げが(聴き放題系アプリの台頭により)激減している中、それでもファンの方たちは「アルバムを聴きました。」と仰って下さるので、皆さん一体どのようにして私のアルバムを聴いて下さっているのか、それについては本当に心から知りたいと思っている。

このブログをお読み頂いた方へ是非、わたくしのアルバムをどのようにして聴いて下さっているのかについて、TwitterでもFacebook Pageでも好いのでお知らせ頂けると有難い。

Twitterの場合はハッシュタグ #DDMRListening ⇦ を添えてツイート頂けると有難い。
よろしくお願い致します <(_ _)>

 

最後に最近私がSpotifyで作成したPlayListを公開し、ブログを〆たいと思います。
Didier Merahの作品も、さり気なく収めています🎵 ⇩

 

楽しいことだけ – enjoying life –

phil-botha-1308059-unsplash

 

色々あった2018年、明けて2019年。しょっぱなから再び色々あり、ブログの更新がすっかり遅くなりました。

遅ればせながら、あけましておめでとう御座います🎍

年明け早々世間的にも色んなことがあり、私のLINEがひっきりなしにその話題の報告やら相談事のメールが行き交う中、実は私はそれらの殆どを(申し訳ない…)既読スルーしていました。

やらなきゃいけない事が山積しているのになかなかその「やらなきゃいけない事」に着手出来ず、日々のちょっとした筋トレでふぅふぅ言いながらの毎日を何とかやり繰りする中ようやく昨日、予告(予定)していたDidier Merahのラジオトーク『Didier Merah Talk(仮) 第一回放送分』のトーク部分の収録を終えました。

 

『Didier Merah Talk(仮) 』はDidier Merah 初のYouTubeの番組で、本当は昨年末に収録を予定していたのですが私が酷い風邪に見舞われた為、延び延びになっていました。

 

未だ色々なことが手探りで、尚且つ私はトークと言う動作が余り得意ではない為、流石にこの一週間色々考え過ぎて気持ちが滅入ってしまい、一旦はこの企画自体をやめてしまおうかと思っていました。

そんな折、夫が「肉でも食べに行こうか。」と近くのステーキハウスに誘い出してくれたお陰で何とかモチベーション ゼロから75まで上昇し、昨日の収録に辿り着けました。

 

最近はすっかりTwitterでのショートな投稿がメイン化しているわたくし。これではいけないと思い、今日のオフを利用して今年最初のブログを何とか投稿出来た‥ と言うわけです 笑。

 

色々書きたいこともありますが、今は無理をせず。今年は『緩く、楽しいことだけ』をモットーに、極力楽しいことだけに目を向けて、ストイックを捨てて少し怠け気味に過ごすことに注力しようと思っています。

 


2019年 元旦にApple Musicのアカウントを作りました。
もしもApple Musicをお使いの方は是非、フォローして下さい。

https://itunes.apple.com/profile/didiermerah

 

Spotifyのアカウントも実名からアーティスト・ネームに表記名を変更出来たので、どこからでも私を追跡できる状況になっています。
此方も是非、フォロー & 拡散 & シェア、よろしくお願い致します🎧

https://open.spotify.com/user/didiermerah?si=mnmEyhjUTI2VCma3A2ecSw

 

 

最後に今日の音楽はコチラ。
昨年大ヒットした「USA」のインド・パロディーです。笑えます🇮🇳🤣