弟・山田大輔の虚像と実像 – 後編 –

弟・山田大輔の虚像と実像 – 前編 –」の続きを綴ります。

 
私の初婚は当時の恩師を激怒させる内容でしたが、相手のあることなのでその詳細についてはここには綴らないでおきます。
紆余曲折、母のマッチポンプの末に得た解放区と新婚生活は、蓋を開けてみれば想像すらしなかった苦労の連続でした。とは言えそれが私の選んだ道だったので、不平不満は言えませんでした。

波瀾の結婚生活を開始してからも私は、時々実家を訪問していました。そうすることが親孝行だと言う強迫観念が、私をそうさせていたのだと思います。
 
元々私は実家からは排除された存在なので、当然のように実家の合鍵は持っていませんでした。
もっぱら実家へ行く時には母に、当然のように手土産を求められました。金銭的にも全く余裕など無い私に、よくもそんなことが言えたものだと今なら腹も立ちますが、当時の私はまるで精神を病んだ何かしらの生き物の抜け殻のようで、毒親に歯向かう気力など全く持ち合わせていなかったのです。

時折「訪問する」(帰るのではなく、訪問する)実家では、私の行くタイミングに合わせて弟も在宅するのがルールみたいになっていました。当時は(結局亡くなる間際まで)弟・大輔のメインの仕事は他にあって、その合間にサブの仕事として「家庭教師」をやっていたと聞いており、私が実家に帰る時は授業の時間を調整して自宅に居てくれたみたいでした。
私は実家に行く度に西荻のこけし屋のケーキを必ず8個買って、重い足取りでマンションに向かったものでした。
 

弟・大輔は元々皮膚が弱い子でしたが、何年か毎に私が実家に行く度に皮膚(特に頭皮)を真っ赤に爛れさせ、見ている私の方が燃え上がりそうな痛みを感じました。
大輔はマクドナルドのハンバーガーが大好きで、私が実家を訪問した時にも「僕の昼ご飯」と称してよくマックから紙袋を抱えて買って来て、美味しそうに食べていたのを思い出します。
 

 
2012年秋、(父の遺産整理の時の家族会議を除き)私が最後に実家に帰ったのは多分、前に飼っていたうさぎ「桃樹」が3歳の頃だったと思います。2004年かその翌年の初夏が、元気な大輔とじっくり話した最後だったかもしれませんが、その時既に弟の虚言は高みに達する目前でした。
 

弟・大輔は自身を「政界の裏側を暗躍し、目が飛び出るようなビッグネームの人々と連日会食し、官邸にも自由に出入りする立場だ」と話していましたが、その目はどことなしに虚無で理由の分からない虚脱感が全身を覆っているように見えました。
大輔に彼の生活や職業についての詳細を尋ねようと何度か試みたこともありましたが、私がそうしなかった理由はただ一つ。テレパシーを使って彼の内面を覗き込んだ時に、そこが真っ白いベールで覆われたまま何も視えなかったからでした。

今にして思えばその頃には大輔自身が吐ける嘘も上限に達しており、完璧なまでの虚像を作り上げる以外に話せることが彼には何も無かったのかもしれません。なので2004年頃に見た弟・大輔の印象は「虚無」そのもので、彼の体からは異様なまでの油っこい臭いが立ち込めて長く一緒に居られなかったのを憶えています。
 

私には、人の心拍数を聴き取る聴力が備わっています。
2004年頃の大輔からは物凄く速い速度の心拍数が常に聴こえていて、むしろ母の高血圧よりも私はそちらの方が気になりました。ですが毎日一緒に彼と暮らしているわけでもないので、大輔の速過ぎる心拍数について話すことは遂に出来ませんでした。
 

 
桐朋小学校時代、あれだけ陸上部で鍛えていた彼の身に一体何が起きていたのか、今の私ならばもっと正確に捉えることが出来たかもしれません。でも当時の私には無理でした。

後に、父の遺産整理の際の家族会議の時に初めて聞いたのですが、桐朋小学校時代の大輔はどこかクラスではみ出してしまっていたらしく、クラスメイトとは距離があったとのこと。
「登校しても何もすることがないんだよ。だから走るしかなくてね‥。」
父の位牌のあるリビングで、そう話していた大輔の声が今も悲しげに蘇ります。
 

正確な日にちは遂に訊けなかったのですが、そんな大輔が父の闘病中に心臓の発作で倒れて入院生活を余儀なくされたのが、おそらく2010年か2011年頃のことではないかと(彼の話の端々から)察しています。
私がその話を聞いたのはやはり父の遺産整理に於ける家族会議の時でしたが、「次同じことが起きたらもう後がないんだ‥。」 と、大輔が噛みしめるように話していた時の渋い横顔が強く印象に残っています。

久し振りに聞いた大輔のか弱い、尚且つ辛い話は短時間で切り上げられました。母が何故か大輔を睨みつけており姉弟の会話の時間を追い剥ぎのように奪い取り、その直後からまるで息を吐くような、大輔独特の嘘談義が始まりました。
そこには弟・大輔が某有名私立大学の社会科学の分野で、教授として教鞭を執っていると言う内容も含まれていました。学問として社会科学を立ち上げた自分は張本人であり、自分は社会が今最も必要としている人物だ‥ と言う話もしていたのですが、その話はどこかうすら寒く聞こえて来ました。
 

ふと疑問を感じ、私が(大輔が教鞭を執っていると話す)大学名を尋ねると彼は即座におどけたような表情をして、「僕は芸名で教壇に立って学生を教えてるから、それは言えないよ。美樹ちゃんだって芸名で活動してるでしょ?それと同じだよ。」と言い、おもむろに全く違う話題に話を変えたので私もすかさず「そう言えばパパ、確か渋谷に物件を持ってたわよね?」と応戦。

すると大輔は想定外の私の質問に動揺したのか、その後の対応がみるみるうちにしどろもどろに変わって行ったのを私は見逃しませんでした。
 

 
大輔と最後に話をしたのが2012年の確か9月、その2年後に彼はりえさん(仮名)と結婚、それから一年後の2015年の11月17日に弟・山田大輔は他界しました。
 

大輔が私を結婚式に招待しなかった理由は、私に自分の実像を暴かれることを強く恐れたからでした。これは死後の大輔本人の魂からも直接聞いたので、間違いありません。
 
私は「暴きの星」を持っています。不穏、不審に感じたことは徹底的に追及し、日の光に晒す。それはいつからかの過去世から脈々と私の魂に沁み付いた習性であり、使命でもあります。
過去世の記憶では、私が不審を感じて暴いた「星(ホシ)」の大半が、世の中から忽然と消滅して行きました。
勿論のべつ幕なしにそれを目的としていたわけではありませんが、私のシュールな嗅覚の標的となった人たちの殆どが、日の当たる世界から忽然と消えて行ったのです。
あくまで私が経験した三回の「くのいち」時代の記憶ですが、私の魂がそれらの記憶を今も忘れずに居ます。
 

弟・山田大輔はそんな、私の習性を酷く恐れていました。彼も根っこが摩利支天ですから、当時は無意識だった私の稀有な習性にむしろ彼の方が先に気付いていたのかもしれません。
 
2012年秋から数か月が経過したある日、あることで私はメール上で大輔と激しい口論になりました。
私が二度ホームレスになったこと、その過程で一度命を落としかけたことその他、一定期間私がスピリチュアリストとして別名を掲げて活動していたこと、それらの全貌詳細などについて「僕は全部知っていたよ。」と言って得意満面に私を往(い)なそうとしたので、その振舞いに対し私は「‥つまり全てを知った上で私を見殺しにしたわけね。」と返信。
それが彼の逆鱗に触れ、それこそが大輔が私を自身の結婚式に招待しなかった理由であり、さらには父亡き後、表向きの家族のイベント全般からの私を徹底して排除し続けた(表向きの)理由でした。
 
私の知らないうちに大輔は姉を家族から完全に除外した形でりえさん(仮名)と結婚式を挙げ、大輔がお世話になっていた学習塾の創設者T.O氏を仲人に立てていました。(この辺りの下りについては、ここでの記載は省略します。)
 

 
弟・大輔は人生の多くを、虚偽で塗り固めていました。

政界の裏側を暗躍している、特別かつ偉大な存在であること。
世に「社会科学」を学問として立ち上げ、その部門の教授として芸名で某有名私立大学で教鞭を執っていたこと。
自身が強い霊感を持ち、死後の父と頻繁に対話を重ねながら山田家との関わりを深めて行き、権力者の虚像をかぶり続けていたこと。

弟・大輔の本職「家庭教師」が大輔の身上書の中では「講師」と記載されていましたが、思うに「社会科学」の創設者として某有名私立大学で教鞭を執っていた‥ と言う話も全て嘘です。

 

私は色んな手を尽くして大輔の足跡を調査したのですが、どうやって探してもそこに大輔の痕跡はありませんでした。
某有名私立大学の「社会科学」科に、教授として「在籍している」と言う仮説がそもそも間違っていたのです。仮説を「在籍していない」に設定すると、これまでの矛盾が全て埋まって行きます。

思えば大輔の妻・りえさん(仮名)に大輔が、どれほどの真実を語っていたのか否かと言う点を思うと、ある意味りえさん(仮名)も、弟・大輔の虚言が作り上げた虚像の被害者なのかもしれません。
ですが大輔の妻・りえさん(仮名)が母の死後に私に対してして来たことを見る限り、そこにはもはや同情の余地すらありません。
 

 

 
※父他界後に弟・大輔はあらためて、それまでの山田家の「姉排除」のしきたりを継承し、それがさらに現在では妻・りえさん(仮名)へと引き継がれ、今は大輔の妻・りえさん(仮名)が山田家になり代わって従妹たちと共に私を排除し続けています。

 
ですがもしかすると、正当な理由もないのに長年に渡り私を排除し続けた側が、最終的には排除されることになるかもしれません。
 

私の生存や連絡先を知っていたにも関わらずそれを「知らなかったこと」として、喪主を買って出て執り行った母の葬儀後、大輔の妻・りえさん(仮名)は結局法律上の理由で母の納骨が出来なかったようです。

母の遺骨は私の実家のリビングに、墓地の権利書を付けて放置された形になり、現在に至ります。
そして大輔の妻・りえさん(仮名)が私に無断で勝手に執り行った母の葬儀その他、りえさん(仮名)が中途半端なやり方で山田家の最期の人を火葬し、親族に関する名簿或いは葬儀の参列者の名簿等を持ち去ったまま私から今現在も尚逃げ続けている為、私は母に関わる親族その他母の知人や友人に対し、納骨の報告や訃報の通知さえ出来ないまま現在に至ります。
 
ですので上にも書いたように、私が山田家の墓に母を納骨しても、おそらく誰もそれを知ることなくひっそりと何年も誰一人墓参りにさえ来て貰えない状況に至るかもしれません。
勿論私がそれを望んでいるわけではないのですが、私以外の親族全員が私を排除し続けたことが結果、山田家の三人の死者をそういう状況に追い込んだとしても誰も、何も言えないでしょう。
 

私に行われた父の最初の差別や虐待、しいては弟・大輔が私に対し行った「見殺し」がある意味では、彼等にそのまま因果応報のように戻って行ったとも言えます。そう思うと、今日までの全ての出来事の不可解な空洞や矛盾が全て埋まって行きます。
因果応報とはまさに、このような状況を指す言葉だと私は思っています。
 

私は、虚像で人生を塗り固めた弟・山田大輔や母・山田雅枝とは違い、真実と本音だけで今後も生きて行くつもりです。
物事は「ルール通り」がベストであり、法の抜け穴ばかりを追い掛けて生きることに於いては、全く適切だとは思いません。弟・大輔はどこか「法の抜け穴ばかりを塞いで生きて行く」ことの方を、自身が学んだ法律の中で習得し過ぎたように見えます。

つまりそういう背徳の念を常に抱え込んだことが、最終的に大輔の心臓に大きな負担を掛けたのではないかと思うと、そこに弟・大輔のもう真の死因の種があったのではないか‥ と言うのが私の今の結論です。
 

弟・山田大輔の虚像と実像 – 前編 –

この記事の記載を予告した日時からは既に一ヶ月が経過しましたが、この記事を書くには多くのエネルギーを消耗するでしょう。
御周知のように我が家は今、目下の遺産整理の最中に在ります。その合間を縫って私は、第三の人生の立て直しと魂の休養を継続しています。
 

 
圧は毎日のように揺り返しを繰り返しますが、抗わず受け容れず、そして巻き込まれぬように細心の注意を払いながら日々、魂を磨き、夫婦共に覚醒の手を緩めぬ努力は怠っていません。
 

弟(山田大輔)夫婦に対して、今現在も様々な思いが駆け巡ります。特に気になっている点の一つとして、弟の真の死因が何だったのか‥ と言うことが挙げられ、妻・りえさん(仮名)の周囲で弟と母の二人が(恐らく)似た状況で亡くなっていたことを考えると、彼等の死因の真相が一体何だったのか‥ について姉としてとても気掛かりではあります。
 

私は親族二人の死因に於いて、既に一つの仮説に到達しています。
ですがその仮説についてはこの記事での明記は控え、弟・山田大輔の表と裏の顔と彼の魂の真実について、私の知る限りをここに記載したいと思います。
ここでは死後の大輔の魂から直接聞いた話も含めながら綴って行こうと思いますので、心してお読み下さい。
 

弟・山田大輔: 2014年11月 結婚式の写真

 
私の知る限りでは、弟・山田大輔の魂の大元が摩利支天を名乗る忍びだったとのこと。

摩利支天を名乗っていた忍びは妖術使いとして一時その名を広め、過去世で私が「くのいち」だった一つの時代の私の最期を仕留めたと記憶しています。
私は何者かに背後から、首を右側から斬られて命を落としています。それはとても壮絶な最期だったので、転生した今世でも私は当時の記憶を忘れることが出来ません。
 
当時の私の首斬りを命じたのが忍び「摩利支天」であり、実際に私の首を斬り落としにかかった人物二人は、忍び「摩利支天」に命じられた部下の忍びたちでした。
(後に私は当時の私の首を斬り落としたであろう、忍びの「摩利支天」の部下の二人の生まれ変わりの男女ともリアルで会っています。)
 

切っ掛けは全く別件ではありますが、私は小学校3年生の夏に首の右側を起点として頸椎捻挫を患っています。元々体のその方向が弱い為首の右側にだけ発作が起きたと記憶していますが、あの瞬間に妙なビジョンが過ったのが何故だったのか‥。今にして思えばそうした魂の変遷は続いており、今世の私に誰かが「体の右側」に対する注意喚起をしてくれたのかもしれません。
 

同じ家にヨハン・セバスティアン・バッハと摩利支天の二人の魂が姉弟として転生した‥ 等と言う話は確かに前代未聞ですし、唯物主義者からは一笑に付されて終わってしまう話かもしれません。ですがこれは紛れもない事実です。
 

 
幼少期、特に未だ小学校に入学する前の弟はとても純粋で、姉思い、母思いの優しい人でした。
時折無鉄砲な行動に走るところはありましたけど、彼の言動の全てには彼なりの美学や哲学があり、子供だったにも関わらず大輔はそれを一貫させて生きていました。
 
私が小学校3年生の夏にYAMAHA JOC(ジュニア・オリジナル・コンサート)の作曲競技のイベントに急遽出演することが決まった時も、大輔は合歓の里までついて来てくれました。
その時に、私が練習しているスタジオの近くで途中から虫捕りに夢中になって迷子になる‥ と言う大珍事を起こしてくれましたけど、翌日私がステージで本番の即興演奏を演っている最中もハラハラしながら客席で私を応戦していてくれたのを、今でも憶えています。

そんな大輔が最初の挫折を味わったのは、おそらく彼が桐朋学園「子供のための音楽教室」に入室し、姉と同じピアノを勉強し始めた頃に母が放った一言が原因だったと、死後の大輔が話してくれました。
そもそも姉がヨハン・セバスティアン・バッハ、即興と作曲と空間音響の名手だったわけですから、誰もが私のようにその場その時々で瞬時に作曲が出来る筈が無いのです。弟も楽譜の譜読みと暗譜にはかなり苦戦し、その度に母が「美樹(私の本名)にだって出来るのよ!貴方に弾けない筈がないでしょ!」と言って、ピシャリ!と弟の腕や手の甲を引っ叩く音が、私の居る隔離部屋にまで響き渡りました。
 

その度に弟・大輔の気持ちは凹み、どうやっても姉の技術を超えることが出来ないのは自分の怠慢のせいだと思って頑張ってはみたものの、中学受験を表向きの理由に彼は桐朋の子供のための音楽教室もピアノも、つまり音楽に於ける一切合切から身を引きました。
ですがそれはただ単に大輔がピアノや音楽を辞めるのとは異なり、大輔の魂に「この世の超えられないもの」と言う実績と記憶を刻印したことになりました。
それを機に弟・大輔は日に日に変貌を遂げて行き、自分自身の本音を周囲に一切吐かなくなって行ったように思います。
 
その連続が後に私が綴る、弟・山田大輔の虚言癖に基づく「虚像」の原点と直結しているのではないかと、私は思っています。
 

そもそも弟・大輔は、音楽そのものが大好きでした。他の同じ世代の子供たちのように、モテるから‥ とか目立つから‥ と言う理由ではなく彼は、心から音楽が好きだったと私も思います。
特にトランペット等の金管楽器の音色に触れると、どこかハードボイルドな中に漂う一種のロマンティシズムに敏感に反応を示し、時折涙目になりながらその音色を追い掛けていたのを今でも記憶しています。
 

 
私はテレビを観ることを母に強く禁じられていましたが、母が外出した時等に大輔が「一緒に観ようよ‥。」と言って度々私をテレビの前に駆り出してくれて、その時に観ていた番組が「愛の戦士レインボーマン」や「宇宙戦艦ヤマト」、「ルパン三世」等だったなぁ~と、振り返れば懐かしい話も沢山あります。
 

大輔は子供の頃から超能力や霊界等に強く憧れており、母の持つ強大な霊力に対しては微かな嫉妬と敵対心を抱いていただろう‥ と言うことが、姉の私にもひと目で分かる瞬間がありました。
ですが姉の持つシュールな力に対して弟・大輔は、ライバル心や敵対心を持つことはありませんでした。その純真な性格が激変した切っ掛けが上に書いた「音楽を巡る母の叱咤と暴力」であり、その酷い現場を既に姉の私と母との真に間近に見ていた彼が、せめて自分自身の心身だけは守りたいと願ったとしても、私にはそんな彼を責めることなど出来ません。

その(弟・大輔が両親の暴力や暴言等から身を守る為の)手段が「両親には絶対に本音と真実を語らないこと」だったとしてもそれしか方法がなかったことぐらい、姉の私だからこそ今ならば容易に判断が付きます。
一般的に言うところの「正しい判断基準」が当時の私達、「山田家」には一切通用しないことを、言うまでもなく当時の彼も骨身に染みて感じていたことでしょう。
 

大輔の真剣で純粋な目が段々と濁り始めたのは、彼が一浪の末に東大の法学部に入学した直後からでした。
私が大輔と暮らしたのは(私の計算が合っていれば)丁度彼が東大の2年生になった頃で、私はその年の秋頃に実家を出ています。私と弟の年齢差は4歳、私が家を出たのが24歳の秋の終わりでした。
 

私は母親に、早々に家を出て行くように‥ と毎日のように言われ、無謀とも思える手段を経て何とか結婚(初婚)相手を見つけて、母にその人と会わせる段取りまで漕ぎ着きました。
ですが母は当時の私の初婚の相手との喫茶店面談の時、「あなたのような下品な人に美樹は相応しくないわ。あなたみたいな人に娘を、本当は渡したくなんかないんですよ‥。」等と思ってもいないことを口走る、いわゆるマッチポンプで私と当時の初婚の相手との仲を引き裂こうとしました。
 

ですが私は這う這うの体(ほうほうのてい)を駆使してでも、あの毒気の強すぎる実家を離れたかったのです。
実家を出る最後の夜、弟は私に何か言おう言おうとしては母や父に発言を遮られ、最終的には私が何故段ボール箱を4~5個だけを持って実家を追い出されなければいけなかったのか、その本当に理由を知らぬまま寂しそうに私に手を振ってくれた、あの時の弟・大輔の手が妙に小さく視えた瞬間が今も脳裏を過ります。
 

大輔はその後、急激に変貌を遂げて行きます‥。
 

後編に繋げます。‥

祝杯とターニングポイント

もし弟・山田大輔(故)が存命ならば、一昨日(6月2日)が彼の誕生日だった筈。でも、彼はもうこの世には居ません。
身内のみならず知人や友人にも、これでもかと言う程弟・大輔(故)はありとあらゆる嘘を吐き、偽りの経歴で自身を塗り固めた結果、そうした言動のストレスが大輔(故)の持病をますます悪化させて行ったように思います。
 

2012年の冬、父の遺産整理の件で十年ぶりぐらいで実家に帰った時、弟(故)は既に大病を患い、大きな手術を終えた後で彼の体はボロボロでした。
その時に彼は私に「自分は某大学にてハンドルネームで教鞭を執っている。」‥と話していましたが、それが全くの嘘だったことが後から薄々発覚しました。

大学で教鞭を執る際には、その人が既に芸名やペンネーム等で著名人になっている人物でもない限り、ハンドルネームで教壇に立つことは通常出来ません。ですが弟・大輔(故)は私に「匿名でW大学の社会科学科で教鞭を執っているんだよ。」と、堂々とそう言い切りました。
 

私は生まれ付いて、「暴きの星」を持っています。それは過去世からの私の宿命として、魂に刻印された習性でもあります。ですから怪しいと感じたことや不審に思ったことは、徹底的に調べ尽くします。
その結果、弟が私に当時話していた大学の「社会科学」の科目で教鞭等を執っていた形跡がなかっただろうと言うことまで、私は知っていました。

その辺りの経緯は後日、又あらためて綴ろうと思います。
 

  
それより今週は、この半年間の色々な出来事に一つ大きな区切りを付ける大きな出来事がありました。
それはとてもおめでたいことではありますが、余り明け透けに書くと嫌味にも響いてしまいかねないので、ここでは省略します。

ですが私達夫婦でひっそりと、都内某所で「幻の古代牛」と言われている原種の牛肉のサーロイン・ステーキを堪能して来ました。
これまでに味わったことのない、本当に素晴らしいお味と感触。
 

見栄を張るのではなく、本当に心から美味しいものを口にすることの歓びをようやく、50代半ば(夫は40代後半)で夫婦でこうして堪能出来る、この幸せが長く続きますように。

そして私達の新たな門出に、静かに祝杯を上げました。

 

※ここから下は、Instagramには綴っていない部分になります。⇩
 

私は幼少時代から高校生時代まで、実母に常にみすぼらしい格好をさせられて通学していました。一年に一着のピンクのジャンパーと紺色のスカート、せめても‥ と言う感じでトレーナーだけは二着買い与えられ、Tシャツも多分二着程度しか持っていなかったと記憶しています。

実際には母の方が資産家だったにも関わらずそれは家族全員の誰も知らず、「うちは貧乏でお金がないの。」と彼女は常に言い続け、外食も近所のお蕎麦屋さんか皿うどん等で、その中でも一番価格の低いメニューを私は選ばされていました。
ですがいざ母が亡くなり、蓋を開けてみると、内情は私がそれまで知っていたものとは全く違っていました。実際母は、司法書士も驚いて目を丸くするほどの資産家だったと言っても過言ではありませんでした。

それらの資産を彼女は家族には絶対に発覚されては困る為、家の中に仮想敵の形で私にその役を与え、彼女の預金通帳に何かある毎にそれが父にバレないよう、家の中に揉め事をでっち上げ、深夜まで父に私をお説教させる‥ と言うドラマを長年仕組み続けました。
 
人間疲労すれば、必然的にその他のことには目配りしなくなります。ただ疲れて眠るだけです。なので母は、父(或いは父が亡くなった後の弟にも)に疲労と言うギフトを与えながら、自分自身だけの資産を箪笥の中に仕舞い込み、それを頑なに守り続けてこの世を去って行きました。
 

結果的に私はそれらの全財産を相続することになったわけで、ある意味幸運だったと言えるでしょう。法定相続人が唯一私一人だったと言うこともあり、誰とも争うことなく、母が何十年間もの間(私を虐待しながら秘密を死守し続けて)守り続けて来た彼女自身の資産を全て私が相続することが出来ました。
 
近日中に我が家は転居等も控えている為、ここから色々な準備が目白押しのスケジュールになるでしょう。
私が引き継いだ遺産を「人生57年間の虐待と家族間排除の慰謝料」と思うと、まだまだこの程度では(相続した遺産の額は)正直足りません。ですがここは「足る事を知る」精神を持ち、私はようやく夫と二人で私自身の人生を思うように自由に前向きに歩み出せると思っています。
 

 
こういう言い方はどうなのかな‥ とも思いますが、あえて書きますと、2021年からのウィルス・パンデミック中のドタバタに翻弄され、多くの人たちが危険なワクチンを接種したことの後遺症で今後バタバタと命を落とすことになるかもしれません。

幸い私たち夫婦は、危険な未知のワクチンを一度も接種していません。
夫の計算計画通りに私たちは免疫向上の為のサプリメントを複数服用し続けて、かれこれ10年近くが経過しました。勿論油断大敵ですが、少なくとも新型コロナワクチンを接種していない分、既に接種してしまった多くの人たちのように「自己免疫力の喪失(低下)」と言う最悪の事態は免れられると確信しています。

 

これから町は新型コロナワクチン接種で免疫力を劇的に低下させた人たちで溢れかえり、尚且つその弱った体を別のウィルスが攻撃すると言う酷い事態が折り重なって行くと思います。
既にワクチンを接種してしまった人たちは夜も昼も不安に苛まれるだけで、そこに救いはありません。不安から逃げる為に、ワクチンを接種していない人たちに対する憎悪も彼らの心中には生まれるでしょうし、何より誤って未知のワクチンを打ってしまった彼ら自身の不安を解消する為に現実逃避のような行動を取る人たちも、今後増えて行くでしょう。
 

昨日も私のTwitterの「或るツイート」が、見事に炎上しました(笑)。
多くの反論や捨て台詞等が投下されましたが、私は出来る限りの範囲でそれらに珍しく打ち返してみました。私が何を言い、どう反論するのか‥、それを私の知らない人たちが私には悟られぬように見ていることでしょう。
それを意識しながらの私のTwitter上の変化球は、恐らくワクチンを既に接種してしまった人たちには濁った爆弾のように、心身に歪みながら突き刺さって行ったかもしれません。
 

私にも人情はあります。なので正論で他者を論破するだけが正しいやり方だとは、思っていません。そうしてはいけない人たちも居ると言うことを、私も又学んで知っていますから。
 
そして何より今後、昨日まで元気そうに見えていた人が突然‥ と言う事態も増えて行くでしょうから、正しい言葉の針だけを相手に突き立てることも少し控えなくてはいけないと思っています。
 

まだまだ書きたいことがありますが明日も予定がある為、ここは筆を分けようと思います。
近日中に弟・山田大輔(故)の真実について、綴ろうと思っています。
 

心の傷(あれから五ヶ月が経過し‥)

昨夜は、士気を高める為の大切な和会食を、夫と堪能しました🥢
たらの芽をとことん味わう為の和のお料理の数々に感動し、料理長ともお話しする事が出来ました。
 

 
このところ色々な方面で会食が続いていますが、初めてお会いする方々からも私はとても愛され、大切にされているのを強く感じ、それを深く噛みしめています。
特に先日夫の会社の方々が開いて下さった夫の退職の送別会では、その会社の社長や会長とも和やかにお食事を楽しむことが出来ました。勿論皆さんとても親切でしたし、私に対してとても優しく接して下さいました。
 

本来私は社交的な性格だった筈。57年もの間、親族には「やれ危険人物だ」とか「やれ、秘密にしておきたいことを見境いなく白日の下に晒す怖い人だ」‥ 等と言う風に私は扱われ続けて来たのですが、そんな親族等の私に対する認識や接し方が大きな間違いである事を親族ではない他人の関係性の方々が一つ一つ、丁寧に証明して下さいます。
 

本来の自分に戻る事、本来の自分を取り戻す為のプロセスはきわめて順調です。後は今日まで私を排除疎外し続けて来た親族・親戚及び弟・大輔(故)の関係者達に対し、どう対処・対応して行くべきか‥。
 
私個人の力量の壁がある事は重々分かっているので、この辺りは専門家の力をお借りする事がベターなのでしょう。
 

 
差別、虐待、謂れのない排除‥、私に対するそのような状況に何の疑いも持たないどころか、私に一度も会ったことのない人達にそのような状況を肯定され続ける事に対し、私はそれを受け容れるわけには行きません。
今日はその辺りの状況や心情等を夫と共に再認識し、その後に備えた諸々に対する思いと覚悟を新たにする為の会食を執り行いました。
 

InstagramのDMで弟・大輔(故)や母・山田雅枝(故)と深く関わりのあった「他人」と言う体(てい)で綴られたメッセージを再度読み返し、仮にそれが弟(故)の奥様ではない第三者だったとしたならば、書かれてある内容はそれはそれで大きな問題が山積しています。

弟・大輔(故)の奥様が会ったこともない私を陰で「危険人物」だ‥ 等と特定し、他の人とその認識を共有しているとしたら私も、そうした状況へと至った経緯や事の真相を是非、追及しなければなりません。
 

 
今日まで時間は十分にありました。
母が亡くなったのが昨年の2021年12月1日でしたから、それから5ヶ月は経過したことになります。
その間に彼らの誰一人として私に対し一度の謝罪もなく今日まで時を経て来た事や、その間弟・大輔(故)の奥様が未だに私から逃げ回っている事や‥。

その他、我が家の遺産強奪について弟・大輔(故)の奥様である「りえさん(仮名)」が某弁護士に相談を持ち掛けた件まで、ここで一旦事の流れを整理し、私達夫婦はその次のプロセスに進まなければなりません。
 

本来の私がどんな人間であり(根は温厚で社交的な人間であるにも関わらず)、それをどのように(誰に)捻じ曲げられ、事実とは異なる事を私の知らない親族やその関係者の隅々にまで吹聴され、長い時間をかけてその諸々の連鎖の過程で得た私の心の傷は、客観的に見ると私が思っているよりもうんと深くえぐれているようにも見えます。
その深くえぐれた傷口にさらに塩を塗りたくるような言動に平然と及んで行った人達には是非ともそれが間違いであるだけでなく、大きな罪だと言う事に気付いて頂きたいと願っています。

 

シャトーブリアン

堰を切ったようにこのところ、物事が上手く行き始めたような気がします。それもこれも、長年私を押し潰して来た「圧」の根源が一先ず、この世界から消えたことによる影響なのでしょう。
ずっと「圧」には悩まされ続けて来ました。今治療途中の「ばね指」も「圧」による弊害の一つですが、少しずつ、薄皮を剥ぐように治っています。
 

勿論亡くなった母だけではなく弟(故)の嫁も含め、私を良く思わない人達全てが居なくなった訳ではないのですが‥、例えば弟・大輔(故)の嫁・りえさん(仮名)が(管理費の高い)同じマンション別階からひっそりと消えて転居せざるを得なくなったように、これまで私の前途を平然と押し潰して来た人達にそのツケが全て跳ね返って行く事になると思います。

母が亡くなる約三ヶ月半前の夏のある日、大きな霊団の手筈により(母が)霊体を剥奪された瞬間の音を聴きました。あの、妙な鈍く重い音はこの先一生、記憶から消えることはないでしょう。
その三ヶ月半後に、母は永眠しました。
生命と霊体との繋がりを、あの時程身近に感じたことは今までなかったと思います。
 
全ては母自身のこれまでの言動が引き寄せたこと。同情の余地はありません。彼女が招いた最期だったと、私は思っています。
 

近い将来、私は母が逝った後に残された実家をリフォームし直して、そこから第三の人生をスタートする予定です。
因みに実家マンションの管理費は、およそ一軒で15,000円/月ぐらいになります。我が家(実家の両親)は二軒分を一軒として最初に購入している為、物件の維持費は倍になります。そこに毎月積み立て修繕費がさらに管理費と同等額乗って来ます。

つまり部屋の維持費だけでも毎月数万円には上るので、流石に中医学関連店舗のバイト代を主な収入源に生計を立てている弟(故)の嫁・りえさん(仮名)一人では、このマンションの家賃の支払いの継続は無理だったと思います。
 

 
まだまだ前途多難ではあるものの、第三の人生に向けた一つ一つが一気に進み始めています。それもこれも、法破りな方法ではなく一個ずつを誠実に、何より私が肝に銘じるように人と正直に向き合っているからこそもたらされる、「神様からのご褒美」ではないかと私は感じています。
 

そんな私と夫の現実的な一歩(いえ、二歩から三歩‥)を祝し、昨夜は美味しいシャトーブリアンをたっぷりと堪能して来ました。
若干疲れが出ていた私も珍しく赤ワインを頂き、ライスは省いてその代わりに野菜サラダを多めに摂取し、栄養価を考えつつも味覚を大いに揺さぶってくれる内容の良い食事を堪能しました。
 

 
美味しい料理は「何を食べたか」に加え、「誰と食べたか‥」がとても大切な記憶として積み重なって行きます。さしずめ今の私は、夫と食卓を囲む時間に幸せを感じています。
 

昨夜夫と二人で、シャトーブリアンを食べながら思いました。
もしも弟・大輔(故)の嫁・りえさん(仮名)が最初から私に誠意を尽くしこれまでの詳細を全て正直に話し、尚且つ私の目を見て心から私に詫びを入れていたなら、共にシャトーブリアンを食べる未来があったかもしれないと‥。
 
亡くなった母は頻繁にりえさん(仮名)を呼び出しては、近くのレストランや和食のお店等でリーズナブルな洋食やお蕎麦などを食べに出掛けていたようです。私なんかよりしっかりとお金を貯め込んでいた筈の母でも、流石に気兼ねなくシャトーブリアンを、りえさん(仮名)と共に食べるようなことは無かったようです。
なぜならば母は自分には高価なものを、他者にはそうでないものを恩着せながら差し向ける人でしたから。
 
母はあくまで亡くなった大輔の身代わりとしてのりえさん(仮名)と、接していたのではないでしょうか。一人の人間としてではなく、あくまで彼女・りえさん(仮名)は弟(故)・大輔の身代わりでしかなかったと思うと、それはそれで何ともやりきれない気持ちになります。
  

 
かつて若かりし頃に少しだけ料理人もどきを仕事にしたことがあり、私の味覚はかなり冴えています。細かい調味料を全部言い当てるには至りませんが、食すことで多くの料理の情報を舌の上で吟味分析することが出来ます。
 
食べることが大好きだった母(故)や弟・大輔(故)はそれぞれ食の好みは違いましたが、もしも私を味方にしていれば、もっと多くの楽しい食卓を共有出来たことでしょう。
同様に、大輔(故)の奥様のりえさん(仮名)も、接し方次第では私から多くのものを引き出せた筈です。私は根っこは、ケチでも意地悪でもないので。
本当に残念です‥ としか言いようがありません。全ては因果応報、自身が発したものや心掛けは全て未来の自分に返って行きますから。
 

さて、この記事に貼り切れない写真が数枚あるので、そちらはサクっとInstagramに掲載しておきます。
 
57年目の私の春は、なんと解放的なのでしょう。美しい桜の花々を何度も愛で、そして木々たちと静かに会話を楽しむことも出来ました。
 

 

でも私の本当の春は、これから訪れます。
 

私と桜と神様と

久々にスピリチュアル系の記事を書いています。‥と言うのも、ここ数日間の桜の花々が余りにも美しく、ずっと見上げているとこれまでの全ての苦悩や悲しみが一斉に洗い流されて行くような感覚になったからです。
 

40代前半、現在の夫と結婚するまでの私は、とある理由により、大の「桜嫌い」でした。
かれこれ20代前半に私は実家を出ていますが、それまでは毎年春になると家族で「お花見」と言う名の過酷な修行が控えていました。
私にとって、家族の行事は常に虐待と隣り合わせでした。
 

ここ最近のブログ記事にも綴っているように、私は生まれ付き顔に刻まれた大きな傷跡(呼吸器障害と連結していますが‥)が理由で、両親に「みっともない女児」として扱われ、家族や親族の行事からは常に排除され続けて来ました。
冠婚葬祭は愚か、夏の旅行や春のお花見その他の全ての行事の直前になると、私は決まって母の謂れのない暴力を受けていました。理由は何でも良かったのです、母にとっては。
私が良からぬ行動を起こし、「こんな状態では旅行になど行けないわね。」と言う理由を母は毎年無理矢理作り出し、人前に出られない程の青い痣が顔じゅうに広がるまで彼女は私を殴り続けました。
 

当然そんな状況ではお花見どころではなくなり、家族がお花見に行っている間私は否応なく自宅で留守番をせざるを得ない状況になり、毎年春のこの時期になると、(24歳で実家を出た後でも)私はそのトラウマと格闘しなければなりませんでした。
その影響で、春の鬱は私が現在の夫と結婚するまで付き纏いました。

 

 
ですがそれは、ある事を機に改善されて行きます。

記憶にある限りで書くと、2010年3月にKono Hana Sakuyaを録音した時が最初でした。

 


そして二度目が、2018年にリリースしたアルバムWa Jazzの中で、天照大神(あまてらすおおみかみ)を描いた時でした。
 

 

これはこのブログのこの記事で初めて書くことですが、アルバムWa Jazzのアートワークの「和」を久々の書道で描いた直後に私は、天照大神と或る約束を交わしました。
それは、「より強く天照大神と私とのパイプを深める意味も含め、毎年神様の頬を撫でるような優しい思いを心に、桜の花々を愛でること」です。
 
この約束はどこか私自身のマインドのブロックを開放させてくれるような意味合いを持っており、それから私は毎年、何れかのSNSやInstagram、時にはFacebookの個人アカウント(現在は執筆停止しています)等に、その年の桜を沢山撮影し、収めて来ました。
勿論デジカメを未だ持っていないので、これまで掲載して来た桜の写真は全てスマートフォンで撮影したものになります。
 

 
これはこの記事に書こうかどうか迷ったのですが、お姫様(天照大神を私は普段、こう呼んでいます)に「書きなさい」と言われたので、そのままここに書きますが‥。
 

最近よく言われる「低級霊」と言う言葉について。
この言葉に表されている「低級霊」は現実的には、存在しないとのことです。お姫様(天照大神)の直々の言葉なので、これは間違いないでしょう。
 
※よく「低級霊」を動物霊のようなものとくっつけて考えているヒーラー未満の人達の話しを聞きますが、土台動物や人間以外の生き物の言葉や思い等を理解出来ない人間に、動物霊を語る資格はありません。なので、以後動物霊や低級霊等を引き合いに特定の個人の霊格を貶めるような文言を見掛けたら、それは全て、その言葉を発した人から特定の人物への個人攻撃或いは嫉妬心の代弁だと思った方がベターです。※
 
理屈は至ってシンプルです。
ものの「霊」とは、生前の所業によって決定されます。つまりその生命が生き物として生きていた時分にどのような功績を残したのか‥ が、死後の霊格の基盤になると言うのが一つの仮説。
もう一つの仮説は、その「生」がそれまで歩んで来た命と振舞いの変遷(例えば陰徳をどれだけ積んでいるか‥等)が、死後の霊格の基盤になると言うものです。
 

私の場合はリラ星に巫女として生きた時代からの長い月日とその間の陰徳を霊体が積んでいる為、上記の両方を跨いでいると言うのが神々の共通認識としてあるようです。
 
但し私の霊体の基盤が人間離れしている為、私がその現世現世各々でどれだけ普通に振る舞っても、そこには既に「高い霊格」が付いて回ります。
つまり私が人間としてだけではなく、仮にその他の生き物に生まれ付いたとしても、降臨した段階で既に高い霊格を持っている為、なかなか普通の世界に馴染みにくいと言うデメリットを併せ持っているとも言えるかもしれません。
逆にそのデメリットの裏返しとして、私がどんなジャンルで何を行ったとしても「普通」の枠をあっさり超えてしまう為、余り庶民的な人との関わりを持たない方が物事が上手く行くと言う、何とも言えない特徴もあるようです。
 

人と馴染めないことには色々な理由がありますが、「私の場合はそもそも庶民的な現世世界が私の馴染むべき世界ではない為、無理に馴染む必要がない」と言うのが、これまで密かに関わって来た神々の共通の回答として弾き出されています。
 
この「馴染めない」を強引に「価値のないもの」とか「低級霊に取り憑かれている」‥等と言う現象と結び付けようとする人が一部居るようですが、そもそも「低級霊」と言う実在しないものを引き合いに持って来る段階で、ナンセンスとしか言いようがありません(笑)。
 

 
私は常に孤独であり、孤高です。
過去と現在と未来を同時に見据え、その世界に何をもたらせば最も良い世の中になるのか‥ と言う事を常に考えて生きています。
それは個人的に関わっている誰かに特別なクーポンをもたらすようなものとは全く異なる為、至って表面的には地味に見えます。現世的には「何もしていない人」のように見られることも多々あるようですが、私は別に構いません。
 

今日、実は生まれて初めてモンブランの高額な万年筆を購入し、今その感触を堪能したところです。
本物に触れると、それまで触れて来た本物未満との大きな差に気が付きます。勿論本物未満にはそれはそれの良さがありますが、本物に触れた後にはもう、それ以前には戻れなくなります。
本物以外を必要としなくなるのです。

 
スピリチュアルもそれと同じです。
他者の、私に対する評価も同様です。実際に私と深く関わった人の中に、私を悪く言う人は居ません。(勿論、マウント目当てで最初っから私に対し、いつかマウントを取ってやろう‥ と目論んで近づいて来た人については、これには当てはまりません。)
 
確かに私はとても難解な人間であることは重々承知ですが、芸術家なのだから当然の事です。むしろ、いっつもペコペコ人に頭を下げて身の丈よりも小さくまとまっている方が、余程不自然です。
 

 
この記事の最後に、2018年にリリースしたアルバム『Wa Jazz』から、天照大神(あまてらすおおみかみ)の威厳と慈愛を余すところなく表現した『Miyabi』(YouTubeのDidier Merahのトピックからの引用)を掲載します。


【予告】
近日中に、亡くなった私の弟・大輔との思い出話と近況を綴ります。

 

私の半生と苦痛 – ⑥遺産横取り計画の全貌

 

弟(故)・山田大輔の妻「りえさん(仮名)」について、少し触れてみます。
これは実家の遺品整理中に発掘した「身上書」からの引用です。
 

弟(故)・山田大輔の妻「りえさん(仮名)」 経歴

千葉県某所出身。開業医の長女として生まれる。
慶應義塾大学 薬剤部卒業。
職業は薬剤師。
「大学病院では主に抗がん剤治療に携わっていた」と、勤務先のウェブサイトに記載されています。
 
家族関係は両親と妹が一人。多数の親族に恵まれている様子。
ある時期を機に西洋医学から中医学に魅了され、漢方の世界に入り、現在に至る。
 

弟に結婚を勧めたのは、姉の私でした

弟(故)「山田大輔(本名)」とのなれそめを私は知らないのですが、2012年に私が父の遺産整理の過程で実家に帰った時に、大輔本人から聞いた話しによればその時点で「りえさん(仮名)」とは既に10年強の交際期間があったとのこと。
その会話の中で大輔に結婚を勧めたのは、姉である私でした。

「そんなに良い人が居るんだったら、モタモタしてないで早く結婚してもいいのでは?」と言った会話を、今も忘れません。
その会話から数時間後に大輔の携帯電話に「りえさん(仮名)」から連絡があり、その電話で大輔が「今、姉が帰って来てるから詳しいことは後で‥」と言ってリビングを出て内緒話しをしていたので、「りえさん(仮名)」が私に2021年12月26日の電話で私について「全く存じ上げませんでした。」と言った言葉は明らかに嘘です。
 
弟(故)・大輔と私が実際に目を見て話しをしたのは結局、2012年の晩秋が最後になりました。その後大輔とは何通かのメールの末にふとしたことが原因で文字の口論になり、それが切っ掛けで疎遠になりました。
そのまま大輔は私に対して憤慨感情を継続させ、姉の私を招待しない方向で一世一代の晴れ舞台である結婚式へと突入して行きますが、死後の大輔本人から聞いた話しには伏線がありました。
 
結婚式直前で、「やはりこのままでは良くないのではないか‥」と母や「りえさん(仮名)」、数人の親戚或いは友人に相談をしたようですが、そこで「精神薄弱児をそのようなおめでたい席に招くのは如何なものか‥」と釘を刺されたとのこと。
そのまま押し切られるように、姉である私に秘密のまま2014年秋に大輔と「りえさん(仮名)」の結婚式は開催され、その一年後に大輔は持病の悪化と急変により、亡くなりました。
  

弟・大輔逝去後の「りえさん(仮名)」の変遷

大輔が亡くなった後、「りえさん(仮名)」と母・山田雅枝との関係性は大輔の生前にも増して深くなり、双方共に色々と心に思惑を抱いた状態で交流が続いて行きます。
※これは母の遺品から見つかった複数のメモの他、(生前に)母が誤って一斉送信したメールの原文等からその様子を推しはかることが出来ました。
 
母の毎年の手帳メモには、毎年年末に訪れる「りえさん(仮名)」の誕生日プレゼントのメモ書きが詳細に記録されており、未遂に終わった2021年・年末の「りえさん(仮名)」へのプレゼント予定は、どうやら「ローストビーフ」だったと言うことも分かっています。

 
又、両親の親戚関係のイベントの中にも母は悉く「りえさん(仮名)」を連れ回していた形跡があり、その中の一つが以下のように写真に残されていました。
 


左から「りえさん(仮名)」母・山田雅枝、従妹(A家)の「なみさん(仮名)」、一番右が同じく従妹の「えみさん(仮名)」です。

 

この記事のタイトルになっている「遺産横取り計画の全貌」の主役として、従妹(A家)のえみさん(仮名)」「りえさん(仮名)」と連盟でS弁護士に「山田雅枝様相続の件」で相談依頼を持ち掛けていますが、二人共に山田雅枝の遺産を相続する権利はありません。
あくまで私に内密に、私を阻害しさえすれば山田家の遺産を相続出来るかもしれない‥ と言う安直な欲深さが、彼女等を急き立てた結果の暴挙と言えるでしょう。
 

「遺産横取り計画書」と思われるメモの中に、母が度々「自宅をりえさん(仮名)とえみさん(仮名)に譲りたいと思っている。」‥ と言っていたとかいなかったとか、そのような記載がされていましたが、自分の過去の経歴(母自身の離婚歴その他)を隠し通す為に娘を長年虐待し続け弟にさえその事実を隠して来た人。

そして母自身がかなり大きな財産を隠し持っており、兎にも角にも「大輔、大輔のため」と言う理由で私の人権を奪い続けて来た人が、いざ、大輔が心臓に爆弾を抱え大きな手術をした時に大輔の入院費や治療費を一銭も出さなかった人です。
そのような人が自分以外の他人に本気で財産を譲ること等、絶対にあり得ません。
 
※結果的に大輔は母の虚言を最後まで信じ通し、母にはお金がなくてとても辛い思いをしている‥ と思い続け、それが実は全くの嘘だったことを死後に知ることとなった大輔の心情を思うと、流石に姉として私の方が辛くなりました。
母、山田家の全てが嘘の上に建てられた虚像の城だったわけですから。
 
又そのような戯言を真に受け、欲の皮を突っ張らせた上、依存するような「りえさん(仮名)」や従妹の「えみさん(仮名)」にも、問題大ありです。
 
母はどうやら「りえさん(仮名)」に母名義の携帯電話を渡し、その電話料金を母名義のクレジットカードで支払っていた形跡が見られ、さらには毎月「りえさん(仮名)」にお小遣いまで渡していた‥ とのメモ書きも、母の遺品から見つかっています。
ですがそれは自宅を譲りたい云々とは関係のない言動であり、「本物の娘=精神薄弱児」と言う偽造の設定が生み出したもの。
母は人生の復讐を遂げるかのように偽物の娘に依存し続けながら、自身が孤独に陥ることのないよう身を守っていただけのことだと私は見ています。
 

遺産横取り計画の全貌

さて、前置きはこのくらいにして、領収書と一緒に見つかった「遺産横取り計画書」とでも言うべきもののコピーを、この記事の最後に公開します。
 
母の亡くなった家に入り、母のバッグや持ち物、通帳等を丹念に家探しした上、親族でもないあかの他人が法定相続人を出し抜いて弟が懇意にしていたS弁護士と共にこのメモを作成し、それに対して「実費預り金: 50,000円」を受け取った上で弁護士も相談依頼を受けていました。
この写真を見て、誰の言うことが真実なのかどうか、是非ともご自身の目でご確認下さい。
 

私の半生と苦痛 – ⑤遺産横取り計画

「静かに弔いたいので‥」 

2021年12月26日夜、亡くなった母の携帯電話から弟(故)の嫁 りえさん(仮名)が放った、この印象的な言葉が今でも耳に焼き付いて離れません。
そして彼女のこの言葉の裏にある不穏な残響をあの時私は確かに聴き取り、その電話の後、心を落ち着けながら何度か亡くなった母の携帯電話に連絡を入れますが、ただ一度の彼女からの折り返し電話の後、とうとう彼女は私からのその後の電話を取りませんでした。
 
私が母の携帯に連絡を入れたのは2021年1月6日以来、約一年振りのことでした。
母は一応クリスチャン‥ と言うことで我が家では通っていた為、毎年クリスマスシーズンは何かと行事に追われていると言う体(てい)で外出が増えていました。
 
晩年の母がクリスマスをどのように過ごしていたのかについては、考えるまでもありませんでした(あくまで結果論ですが‥)。
でも、いつも通りであれば昨年2021年もきっと忙しくしているかもしれないと思い、私はクリスマス明けに一度電話をしてみようと思い、母の携帯に連絡したのが2021年12月26日でした。
 
2021年12月26日、昼間に数回連絡を入れたのですが繋がらず、夜遅くになって母の携帯電話に再度連絡を入れるとその電話に、「もしもし!山田雅枝の携帯です!」と、まるで飲食店に足を踏み入れた常連客を迎える店員のような元気な声で弟(故)の嫁 りえさん(仮名)が電話口に現れました。
 
簡単な挨拶を言った後に私が「ところで何でこんなことになっているのですか?」と質問すると、りえさん(仮名)はさっきの元気な接客口調で「頂いた電話でこんな話しもなんですが、実は12月1日にお母様がお亡くなりになられました!」と、まるで俳優にグラミー賞の受賞の連絡でも入れるような元気な口調でたたみかけて来ました。
 
続けて彼女は、「義母の逝去の件やその後の一連の詳細その他については一旦自身が決めた弁護士に相談をした後に、弁護士経由であらためて年明けに私に連絡をしようと思う。」と伝えて来ました。
ですが既にその時点で直接りえさん(仮名)と私とが連絡が取れているのだから、以後の連絡事項については直接やり取りがしたいと思いその旨をりえさん(仮名)に話すと、「こういうことは弁護士を間に挟んだ方がいいので‥。」と、彼女はあからさまに口ごもりました。
 
間髪入れずに母の死因について私が質問をするとりえさん(仮名)は、「はぁ‥、多分‥ 老衰だと、思う‥ のですが‥。」と釈然としない口調でそう言うとその後に、こう付け加えたのです。

「年末は静かに弔いたいので、年が明けてから弁護士経由であらためてご連絡します。」と。
その言葉に私は、「貴女は興奮すると、ところ構わず大声でわめき散らして事を荒立てる頭のおかしな人なんでしょう?だから兎に角しばらくの間、静かにしていて下さいね!」と、暗黙に私を気のふれたおかしな人だと念を押すような心情が強く込められているのを感じました。
 
以後の連絡手段についてもう一度質問を投げかけると、りえさん(仮名)は「山田家関連はこの電話に集約したいので。」と言い、自分の連絡先に関する情報を私には一切伏せた上で、亡くなった母の携帯電話のみを連絡先に指定し、用事がある時はショートメールを使うようにと私に指示しました。
 
余りの彼女の物言いに私は一瞬圧倒されましたが、それよりも2021年12月1日の「母の永眠の件」を25日間も私に黙っていた、彼女の言動と動機の方に私は不穏と疑いの感覚を持ちました。
そして12月1日から25日間の謎の空白に、強い疑念を感じました。
 

時系列 箇条書き

2021年12月1日 母(山田雅枝)逝去。
 
2021年12月5日 
弟(故)の嫁 りえさん(仮名)は遠方から伯母の娘の二人の従妹姉妹の なみさん(仮名)えみさん(仮名)を呼び出し、りえさん(仮名)が所持していた合鍵を使い、3人で実家に突撃。実家玄関で倒れて亡くなっている母を発見(第一発見者はこの3人)。
  
2021年12月9日
母の死亡届がりえさん(仮名)によって、役所に提出される。
 
2021年12月10日 
麻布教会にて、りえさん(仮名)が喪主となり麻布教会で葬儀が執り行われる。その後喪主 りえさん(仮名)が母を火葬する。
※この間の全てのプロセスは私に無断・内密に執り行われました。
 
2021年12月20日
りえさん(仮名)と従妹の妹の方のえみさん(仮名)が二人連名で、弟が懇意にしていた弁護士を訪ねる。
案件は「山田雅枝様相続の件」
 
2021年12月26日
クリスマス明けに私が約一年ぶりに母の携帯電話に連絡を入れる。その時りえさん(仮名)に初めて、母が2021年12月1日に逝去していた件を告げられる。
 
2021年12月27日
早朝、りえさん(仮名)が所有している母の携帯電話にショートメールで、「至急実家の鍵と母の携帯電話を返却して欲しい」旨、伝える。
 


 
2021年12月29日
正午近くにりえさん(仮名)が発送したレターパックを受け取る(差出人の住所は実家)。
中に電源を入れっぱなしの母の携帯電話と、実家の合鍵と思われる鍵が梱包されていた。
手紙は無し。
同日午後、急遽夫と実家へ行く。りえさん(仮名)から昼に送られて来た鍵が、実家の合鍵であることが判明。

廃墟同然に変貌した室内に茫然とするも、気になる箇所をチェック。母宛ての未開封の書類や手紙の一部を開封し、一旦帰宅。
 
2021年12月31日
リビングの死角となっている段ボールの中から、「山田雅枝様相続の件」と書かれた領収書ともう「遺産横取り計画書」とでも言うべき書類が見つかる。
 
 


to be continued…

私の半生と苦痛 – ④Yellow Sky – 黄色い空

直前の過去世のイタリア、トスカーナの空はいつもどこか緑がかっていたような記憶があります。でもそれは美しい自然の色、地球の色彩の一部だったと思います。

幼少期、多分5歳から6歳、地元の教会幼稚園に少しだけ通って卒園する前に(ある理由により)やめることになった後の私は、両親からの心身への尽きない暴力(虐待)によって少しずつ身も心も叩き壊されて行く過程にありました。
子供にとって、親は絶対的な存在です。なので当時の私は自身の過酷なまでの両親からの暴力は、誰もが経験する普通のことだと思っていました。
 
ピアノの練習と共に始まる母親の暴力を母自身は英才教育だと言い、それは毎日止むことなく公然と行われていました。彼女は何故か私の目(眼球)を狙うようにして、自分の手の関節で私の目を何度も何度も殴りかかって来ました。
特に理由があったかどうかと訊かれたら、私にもそれはもう分かりません。ですが私ののんびりとした動作や、子供離れした私の一言一句が彼女のカンに障ったのでしょう。
兎に角何かと口実を付けてはマンションの一室にある北の練習部屋のドアを乱暴に開けて、私の目を狙っては何度も何度も幼い私を殴り続けました。
 
その合間に母は何事もなかったように夕食の支度をし、煮ものが一個仕上がると私の部屋に来ては又私の目や頬を殴打し、一通り殴り終えると又夕食の支度に取り掛かり、次は家族4人分のカキフライに衣をまぶし終えると又私の練習部屋に来ては、先程の続きのように私の目を何度も何度も殴りかかりました。
 
当然私に抵抗すること等許される筈もなく、私の右目は真っ赤と真っ青の中間のようなおかしな色になって腫れ上がり、冷水で顔を洗う時にまでその箇所がズキズキと痛むような、子供が普通ならば経験し得ないような痛みを常に引きずっていました。
 

 
頭上に広がる空がずっと黄色かったことも、当時の私にとっては普通のことでした。クラスの友人が時折つぶやく「空が青くて綺麗‥。」と言う言葉の意味がよく分からず私に視えている空はずっと、緑がかった黄色のままでした。
 
私が小学校の低学年の頃、夏になると殆ど毎日のように光化学スモッグ警報が発令されました。その空を見ていたクラスメイトたちは口々に、「今日は空がいつもより黄色いね。」と言うのですが、私にはいつもとさして変わらない普通に黄色い空に見えていたので、いつからいつまでが光化学スモッグ中で、いつからいつまでがそうではない空なのか‥、全く見分けが付かなかったのです。
それよりも時折、視界の真ん中に誰かがカッターで勢いよく紙を切るような線が走ることがあり、それが私の目の異常から来るものだとは知らずに「こんなものなのかな。」と思いながら過ごしていました。
※後に私が33歳の時に出会ったアメリカ在住(アメリカ系ギリシャ人)の精神科医によってそれが、母親からの虐待によって発症したPTSDの現象の一つだと判明します。
 

小学校低学年の頃から私は自分では気づかない何かしらの色々な能力を学校の教師に買われ、英語の朗読の会に急遽出場が決まったり、お習字の都展にエントリーが決まったり‥ と、両親の想定外のイベントに引っ張りだこになって行きました。
当然それらは課外授業の一環として部活のように「午後練」の時間が設けられ、私は親に内緒で午後練にひっそりと参加していました。
私にとってはそれがとても楽しい時間であり、安らぎのひと時だったのです。
 
お習字の都展にエントリーする際には半紙に二文字を書く、シンプルな稽古を何時間も続けることになり、放課後の校舎に残っては夜遅くまで何度も何度も「希望」と言う字を書き続けました。
母が一切介在出来ないこの時間は私にとってはとても神聖な静寂の時間でもあり、私は心ゆくまで「希望」の二文字を書き続けました。でも日も暮れて夜6時にもなると、母親が黙ってはいないのです。
静かに文字を書いている校舎の2階の教室に怒鳴り込んで来て、「一体いつまで続くんですか?もう外は真っ暗なのに!」と言い、監督の教師に怒鳴りかかった声を今でも私は忘れることが出来ません。
 

 

母の異様な形相を見た担当教師は慌てふためきながら、「もうあと一枚で仕上がるところなんですよ。もう少しだけお待ち下さい。」と言い、母親を別の教室に誘導すると私に目配せをして、「ゆっくり書いていいからね、落ち着いて。」と言って15分近く母の話し相手になってくれました。

その間に私は、5枚分の「希望」をしっかりと書き留めました。
そして各半紙の左隅に自分の名前を小筆で書いてそれを黒板近くの大きな箱に一枚一枚置いて、別室で大声で喚き立てている母の元に向かいました。
すると母は教師には見えないように私の手の甲をこれでもかと言わんばかりに思いっきりつねって、顔ではにっこりと微笑みながら「さあ、早く帰ってピアノのお稽古をしなきゃ!」と言って、私を教室から引きずり出しました。
 
家に帰ると室内が黄色く染まっていました。当時の私の目には、白熱灯の光も黄色く視えていたようです。しかも明るさが他の人が見ているそれよりも若干暗く写り込んでいた事を、33歳の私の心の病を診断したアメリカ人の精神科医によって後から知りました。
 
私のPTSDは小学校低学年にして既に発病していたのでしょう。
青空を知らぬまま私は高校生になり、それが改善されないまま大学に進学すると、私の視界に映り込む横断歩道の白線までも黄色く染まり、当時の私が五線紙の白い紙の色さえも認識出来ていなかったことを後から知りました。


牛乳やお豆腐、ヨーグルトや体操着の「白」が私にはずっと黄色に視えていたのですが、それを不自然とは思わないまま大人になった頃には、私の心は常に恐怖心との戦いに怯え、その合間に時折この世のものとは思えない何かの影に付き纏われるようになり、今思えば私は崩壊寸前まで壊れていたように思います。
 
ですがそのような最中でも私は、社会性だけは放棄しませんでした。
なので母や生前の弟がもしも私のことを「ピアノだけは弾けるかもしれないけど、突然奇声を上げて所かまわず大騒ぎをする気のふれた人だ。」‥ 等と言っていたとしたら、それは全くの嘘偽りです。

もしも私をそういう人だと誤解している人がいらしたら是非、私に対する認識を改めて頂きたいです。
 

to be continued…

私の半生と苦痛 – ③荒れた室内と母の晩年の訳詞

 
弟も、そして母も、本質の部分では似ていたのかもしれません。
誰かが作り出した軋轢、それが段々と角質のように厚い層を作り、頭のてっぺんからつま先まで一つの家庭を数十年掛かりで覆い尽くして行きました。
 
母が10年近くをかけて作り出して行った我が家の廃墟のような室内を今、私と夫の二人でコツコツと整理している最中です。その最中にも人の本性や本音は見え隠れし、言い方は良くないかもしれないのですが母も弟も、音楽と言うジャンルで私を超えよう‥ 超えよう としていたように見えてなりません。
 
その証拠に最期にきっと母が座っていたであろう茶色のソファーの、その脇にあるガラスのテーブルに何故か一枚だけ、私が音楽監修を務めた時のCDをコピーしたMDがひっそりと置かれていました。
それはMDを渡した私にしか知り得ない母からのサインのようで、少しだけ胸が締めつけられます。
 

 
生きていればどこかに、「超えてはいけない壁」が存在します。私にとって恩師 三善晃氏自身がそうであったように、仮にその壁が自分の目の高さよりも低く下がって来た場合であっても、絶対にそれは超えてはならないのです。
母や弟にとって私がそうであったと、遂に彼らは自身の命が果てるまで気付かなかったか或いは認めたくなかったのか‥、どちらにせよ私に強烈な敵対心とライバル心を燃やし、私と言う壁を軽々と超えられるだろうとタカを括ったのでしょうか。

 
私にとって、これからが三度目の人生の始まりとなるでしょう。
これまでに粛々と培われて来た「実家からの排除」と言うぶ厚い障害壁は、今の私であればそれ程苦労はせずに取り除けるかもしれません。ですがそれはあくまで物理的なこと。
実際に四人居た家族の三人がこの世を旅立った、その現象を一人受け容れた心の空洞はそうそう簡単には埋まりません。たとえそれが宿敵、もしくはダークサイドの差し金となり果てた彼らであったとしても、私と逝ってしまった三人の家族とが出会う前にはもう戻れないのです。
 

母はそれまでは家族の誰かが使っていた部屋の大半を自分の部屋にして、父と弟が旅立ったその時から6年の時を使い、コツコツと我が家をゴミ屋敷に変えて行きました。
勿論私はその間一度も実家を訪ねることはありませんでしたがそれは母が、私が実家に帰ることを強く拒絶したからでした。それもその筈、あの状況を流石に私には見せられなかったことでしょう。
そして何より「私・美樹」と言う娘がここで顔を出されては、その時まで頑なに「最初から存在しない娘」と言う、彼女が必死で作りあげた台本が崩壊しかねない‥。そんな不安が過ったから、私からの「家に行っても良い?」と言う何度かの提案を蹴り続けたのだと思います。
 

お風呂場の脇にある母専用の部屋は膝まで沈む程のゴミの山と化していましたが、その大半が衣服でした。
しかも買ったまま一度も着ていない衣服も多く、しかもそれはどこかパーティーや歌の勉強会やコンサート等に出演する時に着るような、派手な服がとても多いのには驚きました。

 

 
その山積した派手な衣服の原因は、母が遺した幾つものシャンソンの「訳詞」が物語っているように思えました。
作曲、演奏、編曲のみならず一時は訳詞家、歌手としてステージに立った私を、母もどこかで見聞きして知っていたのでしょう。母が真剣に訳していたのはフランスのシャンソン歌手(兼 作曲・作詞家)Henri Salvador の名曲でもあるJardin d’Hiverでした。
 
これは私がもしも三回目の訳詞コンサートを開催していたら、お披露目する予定で2000年の秋に訳した作品でしたが、二回目の訳詞コンサート「時を超えて Vol.2」が散々な状態になり、その翌年の春に私は訳詞も歌手も全てから手を引いたと言う経緯がありました。
同時に三回目の訳詞コンサートの開催は夢と消え、途中まで書いていた「Jardin d’Hiver」の私の訳詞と比べても、母の訳詞は音符に文字を必死で当てはめただけのお粗末なものでした。

 

 
本物の愛とそうではない偽善的な愛とは、見る人が見れば必ず見分けがつきます。
母の音楽への愛も、そして弟への愛も、同じように偽善的な愛に他ならないと私は感じています。あくまで主体は自分自身、その自分を着飾る為の全ては道具に過ぎず、それは弟も、家族と言う箱も彼女にとっては同じ「道具」だったのでしょう。
 
ですが家族は目の前の家族を「良い」ように見ようとしたがるものですから、どうしてもその人の本質が仮に悪であったとしてもそこから目を逸らし、別の何かでその人の本質をねじ曲げて認識してしまうことが多いのかもしれません。
 

小学生の時、母に連れられて初めて「銀巴里」と言うシャンソニエに足を踏み入れた時、そこで小海智子さんが三つ編みを結ってシャンソンを歌っていたのを今も覚えています。
「あら、可愛いお嬢ちゃんね。」と言って彼女は、私にアイスクリームをご馳走して下さいました。その小海智子さんと私が10数年の時を経て吉祥寺某所に実際にあったシャンソニエで共演するとは、母も思ってもみなかったでしょう。
 
シャンソン誌「る・たん」にはある時期から、いきなり私の名前が乱射する鉄砲玉のように掲載され始めました。そこに「歌手: 小海智子 / ピアノ: 山田美樹」と言う一行を見た時の、あの苦々しい表情をした母の顔を私は見逃しませんでした。
 
それはある時実家に帰った時にふとシャンソンの話題になった時、私が持ち歩いていた冊子「る・たん」を何気なく母が見た時のことでした。口では「あら、いいわね貴女。」と言いながら、眉間に深く寄った深い皺としかめっ面になった一瞬を私はしっかりと見ていました。
 
母は特に最期までの数年間、多数のシャンソンを訳詞していたみたいでした。そのメモや印刷されたものがリビングのガラスのテーブルの書類の下からわんさか見つかり、私はそれらを母の遺品の形見として持ち帰って中身を読んでいますが、彼女の写真も訳詞もセンスが良いものとは言えません。
要は彼女にはアーティストの才能が元々ないのに、顔に傷のある娘の私になんか負けてられない‥ とでも思ったのかもしれません。
余り上手く行っていない訳詞をとにもかくにも「仕上がった!」と言う事にして人前で歌っていたであろう彼女の胸中を察すると、どことなく憐れです。
 
結果的には私の真似事に失敗していた彼女とは最後の最後まで会わなくて本当に良かったと、今だから胸を撫で下ろしています。
 

 
to be continued…