音楽評論: Max Richter, Mari Samuelsen, Robert Ziegler – “Movement Study”

最近は主に「作曲」「アカデミック」と言う観点で音楽に接している私、Didier Merah。日々雑多な音楽に触れて行く中で、色々な視点で音楽に触れながらも分析には余念がありません。
 

クラシック音楽からアンビエント、Dubやアフリカ音楽~フラメンコから中東と本当に切れ間なく情報を脳内に蓄積 ⇨ 更新して行く中で、必然的に音楽を聴き分けて行く自分が在ります。

百年後、千年後に残る音楽を目指す私のような作曲家(芸術家)は、きわめてレアなタイプかもしれません。多くの音楽家が自己実現タイプの活動を軸とし、中でも多いのがパフォーマンス・タイプのアーティストだと言えます。
純粋に作曲だけに注力している作曲家を私は、この数十年間殆ど目にしていません。多くの作曲家が気付くと人前に顔や演奏する姿を露出したがり、その殆どが曲芸の域を出ないものばかりでうんざりします(笑)。


 


そんな中、過去世バッハであり大のオルガン好きな私の鼓膜に突き刺さって来たのがこの人、Max Richterマックス・リヒターと言うアーティストのアルバムVoices 2でした。
オルガンの音色をベースとした、おそらく「Voice」と思われるパーツは打ち込みでしょう。なのにとても自然な音に整頓され、とても聴き易い音に仕上がっています。
 

Max Richterマックス・リヒター は自身のジャンルを「ポスト・クラシック」と命名し、クラシックと言う頑丈な外壁を持つ音楽ジャンルの垣根を越えて多ジャンルとのコラボレーションを目指すアーティストとして、自身を位置付けて活動しています。

https://ontomo-mag.com/article/interview/maxrichter-20190408/

 

丁度今日の私は良質なアンビエント・ミュージックを探していたので、そんな折彼の作品はドストライクでした。ですが彼を調べて行くうちに出て来た「ポスト・クラシック」がもしも彼のメインのジャンルだとしたら、やはりそれは正統派のクラシック音楽にはカテゴライズせず、BGM音楽として私の中に記録するに留まるのかもしれません。
 

クラシック音楽に高い垣根を設置しているのは何を隠そう、そうしたクラシック音楽に強烈な美意識と権威主義を見い出さんとする音楽家自身であり、それが一般のリスナーのクラシック音楽離れを同時に誘発している要因であると私は思っています。
勿論既存のクラシック音楽に良質かつシンプルな作品が少ないことも大きな要因ですが、Max Richterマックス・リヒター のように優れた感性と音楽教育の基礎を施された音楽家が、自らを「実は懐の広い音楽家であるのだ」と誇示し過ぎる余りに、かえってアカデミック音楽からリスナーを遠ざけてしまう点は何とも残念としか言いようがありません。
 

また最近のアンビエント・ミュージックの欠点はと言えば、メインのメロディー(旋律)を持たない点にあります。
手持ちの機材の偶発性を利用し、自分の気に入った周波数で背景となる音像をセットし、それを幾つかのコードに分配し、繋げて長いセンテンスを何度かループしながら一曲を構成して行くのですが、あくまでそこにあるものは「人の心と記憶に残るメロディー」とは全く別物の「音の残像」を超えない何かであり、それは「曲」の形態を取っていません。
 

残りそうで残らない音楽だけど何となく聴いている瞬間だけは心地好く、日常生活の中では発生することのない借り物の感情や感覚を誘発してくれる音楽なので、それを「良い音楽」として認識する人達も一定数は現れるでしょう。
ですが聴いた後1時間もすれば多くのリスナー達も現実世界に戻って行きますから、先程まで接していた音楽は彼等の現実とは無関係な「何か」として、それらは日常生活には不要不急の何物か‥ として記憶の片隅で幻のように温存され、やがて消え去って行きます。


勿論料理だって胃袋に入ってしまえばそれまでではないのか‥ と言われたらそうなのですが、芸術作品や音楽、絵画等はその印象だけでも心の中にしっかりと刻印したいと私は思います。
なので私の場合は「刻印に耐え得る音楽」に(最近は)特化した楽曲作りに努めていますが、その片鱗を持っている音楽家がそうではないジャンルの音作りの方に舵を切って行く様を見ていると、時折胸が痛みます。
 

まるでそんな私の胸の痛みを弔うようなこの作品のオルガンとコーラスの音色が、さらに今現在の地球上に広がる多くの悲しみと痛みに祈りの霧を撒いて行くようなこの作品が、何故か今日は心に沁みて来ます。
こういう音楽の聴き方も好いのではないかと思わされるその作品『Movement Study』を最後に、この記事を〆たいと思います。

 

 
※アルバム『Voices 2』のSpotifyのLinkはコチラです。 ⇩

 

音楽紹介: [MAD] Plastic Love – Mariya Takeuchi (Cover) | Millie Snow

この作品『Plastic Love』(作詞・作曲: 竹内まりや – 1984年4月25日 リリース)がこの数年、再度ブレイクしている。世界中の多くの歌手(プロ・アマ問わず)等がこぞってカバーしており、中でもMillie Snowと言うタイの歌手(ピアニスト 兼 ダンサー)が歌うこのテイクが際立って光っている。

何が光っているかって、元来ライブとかカバーソング等が好きではない私がドハマりする程の編曲・再演のクオリティーの高さ、その一言だ。

 

Madpuppet Studioはどうやらタイ国内の、音楽制作スタジオだと書いてある(Facebook Pageより)。サポートを努めるミュージシャンはこのスタジオから配信されるYouTube動画の大半の演奏を担っている。と言うことは、日本式で言うところの「小屋付きのミュージシャン」と言うことになるが、これが凄い。

 

動画の演奏者を(歌手を含め)、以下に記載しておく‥。

Performed by
 Vocal – Sirichada Ruamrudeekul
 Keyboard:
Janpat Montrelerdrasme
 Drums:
Nantanat Thanupongcharat
 Bass: Oangkit Tangcharoen
 Guitar: Aphiwich​ Deepairojsakul​

 
動画全編をご覧頂ければ一目瞭然だが、特に間奏のKeyboardとGuitarの掛け合いがメッキメキに冴えているのがお分かり頂けるだろう。
日本国内のミュージシャンに、ここまでキレた、冴え渡ったアドリブを乱射して来るミュージシャンはおそらく皆無だろう。しかもお二人とも遠近感を狂わせるような大きなボディーを持っているが、それはこのお洒落で地盤の安定したアドリブを常に解き放つ為にあると聴き手を説得して来る辺りのパワー(圧)が素晴らしい。

ドラムを担当している Nantanat Thanupongcharat 、Instagramのプロフィール欄に「1994」と記載されているところを見ると、おそらく1994年生まれの現在27歳の若きミュージシャンだと思われるが、要所要所のライブ・パフォーマンスに於けるブリッジの入れ方・抜き方が既にベテランの域に到達しているようにも視えて来るから不思議だ。

 

 

さて、肝心のヴォーカルのMillie Snowは幾つかの名前を持ちながら活動しており、この記事で紹介しているYouTubeには「Sirichada Ruamrudeekul」と記載されているが、公的な芸名はおそらく「Millie Snow」で合っているだろう。

 

 

Instagramの中ではクラシックバレーの基礎をきちんと踏んだ、彼女の美しいダンス動画にもお目にかかることが出来る。
 

 
実は私は「唐田えりか」さんのファンなのだが(笑)、 Millie Snow ‥ どこかえりかさんに似ているように見えてひと目でファンになってしまった私って、ただのミーハーなんだろうか ^ ^;

いえ、それだけではなくしっかりとした発声に表現のセンスも素晴らしい。天は時に一人の人間に対して二物も三物も与えてしまうのだから、本当に人間とは不公平な生き物だと思う。

 

肝心な動画の紹介が最後になってしまったが、ここまでの解説を読んでから動画『[MAD] Plastic Love – Mariya Takeuchi (Cover) | Millie Snow』を観ると又、違った味わい方が出来ることを期待して、この記事を〆たいと思う。

 

音楽評論: “Amazon River” – Didier Merah

レコーディングの日付けは2019年8月24日。丁度この頃アマゾンでは火事が多発し、とても危機的な状況になっていました。
音楽で出来ることには限界がありますが、何もしないよりは行動あるのみ。そう思い私は、この作品を録音しました。

アルバム『World of Nature』の皮切りとなる作品で、アルバムの物語にもけっして明るい未来が見えず、精神的にもかなり追い詰められながらの創作活動が続きました。
 


恐らく私は、自然神に呼ばれたのかもしれません。姿や形は無くても、意識や思考だけが生命として存在する‥、私は彼らをそう思い、そう呼んでいます。
 

今朝も別のSNSで私が発信したことが誰かの神経を逆撫でしたのか、頭上からイグアナの変種に噛み付かれるようなリプライがTwitter経由でスマホに届き、その相手は言いたいだけのことを言って私をアクセスブロックして去って行きました。
私の音楽は音楽から生まれるのではなく、そんな不穏な日常の隙間からも生まれ出て来ます。
 

クラシック音楽もジャズもシャンソンもタンゴも‥、兎に角世界中の音楽のジャンルを一周も二周も三周もしました。ですが結局、私の欲しいものはどこにもありませんでした。
ならば自分で作り出す以外に方法が見つからず、現在に至ります。

 

記憶に残るメロディーと、ヒステリックに盛り上げない展開部、その後にそよ風のようなアドリブが少しだけ木の葉を揺らし、そこに無限の残響が折り重なって行く音楽。
私はそんな残響の調べを、いつかどこかで聴いた記憶がありました。

その記憶がいつ、どの時代の私が持っているものかはとうとう分からないままですが、確かに私はどこかで聴いたのです、残響の音楽を。

 

かなしみは光に、喜びはペダルに乗せて、Didier Merahの両手は際限なく跳躍し続けます。
その間約14分間になりますが、レコーディング中の記憶が全くありません。どの作品をレコーディングしている時も、私は音楽の遥か彼方の意識の世界へと飛翔しています。

ろくに鍵盤も視ないで演奏しているのに、よくも殆どミスもなく弾けるものだと自分でも驚きます(笑)。


アマゾンは今、少しずつ静寂を取り戻しつつあるようです。それと言うのも、皮肉にも新型コロナウィルス肺炎のウィルス・パンデミックが功を奏したと言っても過言ではありません。
人々の動きや経済を断続的に止めることで大気が安定し、地球は季節感や環境のペースを若干取り戻しています。
 
 


もしかするとこの作品「Amazon River」は、人類の長きの大罪に対し反省や自粛を促す音楽なのかもしれません。

今、人類は自然神から、少しだけの猶予を与えられている最中です。未だ引き返すことは可能です。
遠い遠い時代の、遥かリラ星が未だ健在だった頃の人類の祖先の魂が、自然神の怒りを少しだけ鎮めてくれているように思えてなりません。


note記事と同期掲載にて。

音楽評論: “MIND CIRCUS” 聴き比べ

Tokimeki Recordsひかりさんが、中谷美紀さん1996年にリリースしたアルバム「食物連鎖」からの「MIND CIRCUS」をカバーしました。


ひかりさんも中谷美紀さんも両者共に甲乙付け難い表現力を持った歌手ですが、こういう時何を基準に音楽や歌を楽しめば良いのかといつも、私なりに苦心惨憺します。
そもそも人の声が余り好きではないのになまじ「歌」に関わる仕事に30年近く携わって来ると、言いたくもないのにうんちくを垂れてしまうのが嫌~な意味での不治の病的な職業病にも思えて来て、正直自分でも笑ってしまいます(笑)。

 

いつも思うのですが名曲をカバーしたがる人達のマインドには、個人的に興味と疑問の両方が湧き起こります。

音楽はその時、その季節、その時の素材、そしてその時に関わる作曲家の全部の軸が揃った瞬間に命を授かります。なのでカバーや再演時には、「あの瞬間」の鮮度は既に失われていると言っても良いでしょう。

極論、作品をレコーディングした時が頂点で、それ以後は日増しに劣化が進み、音楽は思い出の中で有限の命を持つことしか出来ません。なので出来れば名曲をカバーするのはやめて欲しいなと、個人的には思うわけです。

その意味ではこの「MIND CIRCUS」にも同じことが言えるかもしれません。
やっぱり頂点は1996年、坂本龍一さん(作曲 / 編曲)に売野雅勇さん(作詞)の繊細な世界観が折り重なり、そこにガラスのナイフのような感性を持った当時の中谷美紀さんの声が乗って、原Key(F-Maj)で不愛想に繰り広げられるどこか抜け殻のような彼女の声質がこの作品にはピタっとハマっていたように思います。
 


但し。表現力の豊かさ、厚みと言う点ではおそらく ひかりさんが 一も二も上手を行っていることは周知の事実です。
これは皮肉としか言いようのない現象ですが、こと「歌」の世界ではこのような皮肉な現象が頻繁に起きているのが現実です。

加齢や声の状況によってKeyを上げ下げする歌手を私は多く見て来ましたが、基本として音楽は原Key(その曲が最初に誕生・歌唱された時のKayの意味)で歌い続けることが理想です。そのKey自体に既に命やDNAの原型が完成していて、それを壊してしまうと楽曲本来のラインが完全に崩れてしまうからです。

同じ洋服をサイズ違いで年月を越えて着続けるぐらいならば、いっそ新品を新調した方が身の為です。音楽の場合は絶対に、そうすべきです。
そして、「もう歌わない」「歌うことをやめる」「この作品を手放そう」と決断を下せるのは、何を隠そう歌手自身です。ズタボロになってから否応なくその決断に至るよりは、未だ輝いている時に撤退することが望ましいと思います。


余談ですが中谷美紀さんが1996年にリリースしたアルバム『食物連鎖』には、名曲が多数収録されています。中でも私が今聴いても良い作品だと思った一曲が「LUNAR FEVER」。作曲は高野宏さん、作詞は森俊彦さんです。

 


歌詞もなかなか素晴らしいです。

興味のある方は⇨ コチラ ⇦で読んでみて下さい。ゾクっとするような言葉の断片が聴き手を瞬殺してくれること、間違いなしです。

本題のひかりさんの歌唱力や表現については、特に加筆することはありません。良くも悪くも「可もなく不可もなく」と言った感じで、私個人的には「声質が好き」「原曲よりは表現が若干豊かである」と言う意外に特筆すべきことが見つからなかったのです。

上手なのに特に心に残らない歌と言っても過言ではなく、これはもしかすると歌手としては大きく損なタイプかもしれません。下手でも人の心にインパクトを与える歌を持っていた方が、長い目で見た場合には「得をしている」とも言えますから。
 

ま、私は作曲家タイプの芸術家ですから、表現よりも楽曲がどうなのか‥ に目が行ってしまうのかもしれません。その意味ではこの作品『MIND CIRCUS』はその名曲ぶりから、多くの女性歌手を泣かせ続けながら現在に至るのかもしれません。

良くも悪くも、メロディーセンスの点では「無類の色男」の素質を存分に秘めています。私がもしも歌手を続けていたとしたら、きっとこの強烈な毒牙にハマり込んでカバーを試みて自滅していたでしょう。それ程魅力的な楽曲が坂本龍一氏から連続して放たれていた時代も、もう遠い昔の話です。

少しだけ胸をキュンキュンさせながら、そのWaveに溺れないように私は遠くから、坂本龍一氏の今後とこの作品の行く末を静かに見守りたいと思います。


この記事の最後に、そんな最近の坂本龍一氏の作品の中で気になった作品『andata』をワンオートリックス・ポイント・ネヴァーがカバーした方のYouTubeを貼っておきます。
原作よりも ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー のカバーテイクの方が、精度が高い気がせずにはいられません。感性の問題か、民族的なルーツの問題か或いはその両方の要因が、完全に原曲を押し潰した格好になっています。
特に途中から断続的に加わって来るスチールドラムの音色と若干のオルガンのバックがこの曲に不似合いな分、聴き手に強烈なインパクトを与えて来ます。
 
なにせ一周も二周も、或いはそれ以上も軌道を巡りながら結果的に全ての要素がバッハに回帰して来る彼等の活動が、過去世バッハの私をゾクゾクさせてくれます。
思わず「お帰りなさい」と呟いてしまいました(笑)。
 


音楽とは本当に不思議な生き物だと思わざるを得ません。
 

音楽紹介: Afgan – M.I.A (feat. Jackson Wang) (Official MV)

Afganはインドネシアのシンガーソングライターです。

このPVを観ていたら、ふと‥ 三浦春馬さんの最後のシングル曲Night Diver にとても雰囲気が似ているような気がして、思わず胸が熱くなって途中で二回も動画を止めてしまいました。

三浦春馬さんの、あの繊細さとAfganの一種の表現のナイーブさに共通項を見い出したのは、もしかしすると私だけではないのかもしれません。

歌詞を翻訳してみたのですが、どうしても私にはタイトルにもなっている「M.I.A」の意味が分かりませんでした。
それでもこの作品が何か、叶いようもない愛、恋‥ 等に対する報われない思いを表現しているように思えてなりません。

現在のJ-Popにこういう曲があるでしょうか?
何か全てが回答ありきの音楽で、私には最近のJ-Popがとてもつまらなく思えます。

物事は、特に人間関係の機微を表現する時、そこに出し切れない回答が幾つあっても好いのでは‥ と私は考えます。
答えが無いから、人はその答えに向かって人生を賭けて走り続けて行くのですから。

※この記事はnoteと同期投稿です。是非、noteの記事から応援・サポート等よろしくお願い致します。

音楽紹介 – “SARSARIYA” Video Song | MOHENJO DARO | A.R. RAHMAN | Hrithik Roshan Pooja Hegde


コロナ禍で世界的に映画業界が停滞している中、これは2016年のインド映画『Mohenjo Daro』からのピックアップ曲、「Sarsariya」のミュージックビデオです。

作曲者はあの、名だたるA.R. RAHMAN氏。
インドのカースト制の影響か、現在のRAHMAN氏の父親も音楽家で同じ名前でした。おそらく日本は歌舞伎で言うところの襲名制のような感じで、代々名前と同じ仕事を受け継いで行くのがインド式なのでしょう。


私は既にこのA.R. RAHMANを1997年辺りからずっと聴いているのですが、映画『Dil Se』のテーマ曲、『Chaiyya Chaiyya』以降冴えた作品に巡り合えず暫く聴いていませんでした。
あいにくこの作品も日本のインド好き、ボリウッド好き周辺で騒ぎになる程度で、然程日本ではヒットしませんでしたが、汽車の上に大勢が乗車してダンスを踊るシーンが早朝のワイドショーTV等では頻繁に紹介されていたように記憶しています。

そんな折、とってもお節介で親切なFacebookが「オススメビデオ」として「Sarsariya」のショート・バージョンを私に知らせてくれました。⇩

インドでは殆どの映画の歌のシーンを「プレイバック・シンガー」が受け持っています。これは役者が歌うのではなく、踊れる役者がメロディー部分を口パクした状態でその裏で元曲を別の歌手が歌うスタイルを指します。

この「Sarsariya」に関しては、男性パートをShashwat Singh(シャシュワット・シン)が、女性のパートをShashaa Tirupati(シャシャー・ティルパティ)が担当しています。
二人ともSpotifyのプロフィール欄には「プレイバック・シンガー」と明記されています。おそらくオリジナル曲を持たず、映画の吹き替え用の楽曲だけを専門に歌うことを生業としているのでしょう。

この最後に、サウンドトラック『Mohenjo Daro』のSpotifyのリンクを以下に貼っておきます。音楽だけでも十分に楽しむことが出来ます。

立ち止まる黒鳥 – Andre Gagnon(音楽評論)

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久しくその音色を聴いた時、一体何が起きたのかと思う程のアンドレ・ギャニオンの変貌ぶりには驚きました。それはアンドレの真骨頂と言うよりもむしろ、過去世の私 J.S.バッハの復活のように聴き手を錯覚させるに十分な音楽だったからです。

 

 

でも、人には色々な時期、心情、そしてその時々に追い求めている表現手法があるのだから、人類にとっての音楽の父・バッハに恋焦がれる現代の音楽家を誰が責めることなど出来るでしょうか。
それにしても、アンドレ・ギャニオンの中に起きた一種のタイムスリップ、或いは古典回帰がいつ、どの時点から始まったのかについては是非、ご本人にお伺いしたい心境になりました。

 

アルバム『Impression (1983年リリース) 』からのピックアップ曲『めぐり逢い(Comme Au Premier Jour)』の世界的なヒットがしいては今のヒーリング・ミュージックの火付け役となったこと、それがアンドレにとっての幸運だったのか、それとも悲運だったのかはおそらく本人でさえも謎かもしれません。

 

この音楽が地球の上空を悠然と一羽の白鳥のように飛び交い、音楽の世界に一個の大きな航路を描いて行きました。
丁度大学に進学した頃と重なり、『めぐり逢い』は思春期の私の脳裏に大きな火薬を投げ掛けました。同年、日本では杏理さんの『Cat’s Eye』、YMOの『君に、胸キュン』、松田聖子さんの『ガラスの林檎』『Sweet Memories』等が綽綽とヒットを飛ばしていた頃。

 

歌ありきの日本の歌謡曲の黄金時代の少し奥まった巣穴から、ひっそりと現れたニューエイジ・ミュージックの波は、その後世界的にブームとなるスピリチュアル(精神世界)の流行の始まりと同期しながら、サブカルチャーとして王道のすぐ隣の路地裏で少しずつ、そして急激にその流れの速度を上げて行きました。

 

 

 

アンドレ・ギャニオンの独走を許すものかと日本国内でも、西村由紀江さん、村松健さん、加古隆さん、倉本裕基さん、坂本龍一さん、日向敏文さん ~妹尾武さん等の多くの音楽家が軒を連ね、海外からはEnigma、ディープ・フォレスト、マイケル・ナイマン、ジョージ・ウィンストン、ジャン・ミッシェル・ジャール、シークレット・ガーデン.. と挙げればきりがない程のミュージシャンが現れ、一つのブームを形成して行きました。

 

彼等に共通する一つの音楽的な要素として挙げられるのは、全ての表現者たちの音楽の中には必ず、フレデリック・ショパンが心の奥底に棲んでいたことではないでしょうか。

 

ロマン派を代表する音楽家・作曲家と言って良いショパンは、その後の音楽家に大きな影響を与え続けるに留まらず、本来ならばその後に生まれた筈のロマン派の大きな流れを全て吸収し、後継者にその流れを受け継ぐことなくあの世に全てを持ち去ってしまったように思えてなりません。

 

ニューエイジ・ミュージックが流行したもう一つの要因として挙げられるのは、そんなショパン没後の音楽のムーヴメントが近代音楽の短いブームを経由して現代音楽に横暴なまでに受け渡されてしまったことです。

 

調性音楽を愛する(ショパンを心に住まわせた)多くの音楽家たちは、現代音楽には一切関心が無かったはずです。なので現代音楽主流の今の音楽業界の中から一人、また一人と飛び出して、理想に最も近いニューエイジ・ミュージックや映画音楽等の業界に自身の拠り所を求める以外に、方法が見い出せなかったのでしょう。
本当に不運としか言いようがありません。

 

まるで秘密結社のように闇の真ん中に暗躍する現代音楽。それは権威主義の象徴として長く音楽業界の中心に君臨し、現代の作曲技法の揺るがぬスタイルのメインであるかのように、多くの音楽家たちを翻弄し続けています。
確かに今でも根強くその作風が愛され生き残っているかのように一見傍目には見えてはいます。ですが、実際に現代音楽の作風や作曲技法を心底愛してやまない作曲家も、そして一般の音楽ファンも、実は言われている程多くはないかもしれません。

 

ドカーン!、ビヨーーン!、ハッヒョーーン!… と減7度の跳躍を折り重ねながら不穏に楽曲展開を繰り広げて行く音楽は、食事中や育児中になど到底聴けるものではありません。精神が不安定になるばかりではなく、お昼寝中の幼い子供たちに悪夢を引き寄せる要因にもなりますから、私はそのような音楽を日常生活の中にメインに取り入れることは絶対にお薦めしません。

 

 

 

私の記憶が正しければ上の作品『明日』を平原綾香さんが (2005年に) カバーした後、アンドレ・ギャニオンのピアノ作品のリリースの勢いが長い時間止まったように見えました。

この作品はわたし個人的には、アンドレ・ギャニオンの多くの作品の中でも『めぐり逢い(Comme Au Premier Jour)』に次ぐ高いクオリティーを持つ作品と言っても、過言ではないでしょう。

 

 

 

平原綾香さんの少し説教臭い表現手法は余り好きとは言えないですが、この作品に関しては彼女への当て振りで楽曲が書かれたのではないかと言う程ぴったりとフィットしているように感じます。それが平原氏の説教臭い歌い方を見事にオブラートにくるんでおり、気の利いた小品に仕上がったのかもしれません。

 

ロマン派の潮流がフレデリック・ショパンを最後に一旦止まった後、チャイコフスキー、サン・サーンス、ラフマニノフ… とそれはそれは多くの作曲家が現れては消えて行きました。

又革命や戦争の絶えない時代とも折り重なって、ショパン以降の多くの作曲家たちの作風は必ずと言って良い程メインテーマ以外は大砲でも飛んで来るのではないかと言う、荒れ狂うパートがふんだんに楽曲に詰め込まれ、それが多くの音楽ファンのクラシック音楽離れの要因になったのではないでしょうか…。

 

又、次から次へとピアノの名手が生まれ、さながら陸上競技でも競い合うように高速・爆音・無休運動の演奏スタイルがその主流であるかのように音楽の表現世界を独占して行ったことは、今にして思えば不運だったとしか言いようがありません。

 

不思議なのは、ある程度職歴を積んだ演奏家や作曲家の多くが、J.S.バッハの作風に必ず立ち返ろうとすることです。

それだけバッハがこの世に与えた音の影響が大きかったとは言え彼は、もう過去の人です。バッハの対位法や平均律の世界から飛び立って、次世代の穏やかなクラシック音楽の世界を誰かが大きく構築してくれるのではないかと、私自身もその日を他人事のように暫くの間そっと見守っていましたが、未だその念願は叶っていません。

誰も手を付けないのであれば、未来と過去の多くを知っている人間がそれをいち早く構築し、席巻して行く他にはないと思います。

 

ただ、気がかりなことがあるとすれば、これまでフレデリック・ショパンの居た椅子を狙い定めながら生き長らえて来た多くの音楽家たちの将来です。その一人が、アンドレ・ギャニオンと言う音楽家であり、彼は今湖面に動かぬブラック・スワンの如く、石のように黙り込んでいます。
アンドレ・ギャニオンのベスト盤を除く最新作が冒頭でも触れた、アルバムBaroqueになります。

 

作者を言われなけばおそらく、多くのリスナーがこの作品がアンドレ・ギャニオンのアルバムであることには気付かないかもしれません。

長い時間を時代の転換期と言う湖面で過ごした後のアンドレが、そこからどこに向かって歩み出し、羽ばたき始めるのか‥、私も固唾を飲んで見守りたいと思います。