『言葉にできない』ー JUJU その他の面々 [音楽評論]

本当に言葉に出来ない程、誤魔化しの効かない音楽がこの世には沢山ある。この記事で取り上げたこの作品言葉にできない(作詞/作曲: 小田和正)もそんな一曲と言えるだろう。

既に作者本人である小田和正氏が2019年?にセルフカバーしているが、やはりそれでも原曲のメタリックなメロディーラインはゆらゆらと陽炎のように揺らめきながら崩壊し始めている。
だがやはりここは作者本人とあって、程好い崩れ感を大きく損なわないよう上手く誤魔化せていると言えるかもしれない。

 

 

だが肝心な「違う、きっと違う‥」の辺りから「一人では生きて行けなくて‥」の辺りはサクサクと慌てて歌い過ぎて行くので、何だか夜道で誰かに後を追けられている女性が小走りに追手から逃げているように聞こえてしまい、聴いていてどうにも落ち着かない。
歌が上手くならないまま年老いたシャンソン歌手の余興に当てられたみたいに、心拍数だけが上がって上がって私の方が息が切れそうだ。
 

原曲度外視でこれは良い!と思ったのが、EXILEAtsushiさんの同曲のカバーだった。
この歌手、顔やいで立ちに若干崩れ感、汚れ感はあるが、この作品『言葉にできない』の解釈は至ってシンプルでナイーブで清潔感に溢れており、無駄なアドリブや歌手が誇張したがる「クセ」を最小限に抑え込んだ表現がとても好印象だった。

 

 

色々調べて行くと、なんと最近はお昼のワイドショーではお馴染み(私は余り好きじゃない、この人‥)のAHN MIKA(アン・ミカ)がカバーしているではないですか。

偽善臭がプンプンしているかと思いきや、意外にそうではなかったのが驚きだった(笑)。
でもあの独特な「嫌味」なコブシは健在。本当にアン・ミカのこの嫌味感はもう一生このまま、治らなそうですけど。

 

 

そしてこれはもう音楽のルール自体を完全無視して平然と歌い切っているのが、クリス・ハートさん(笑)。一体この歌手のルーツはどこにあるのか、ここまで何でも歌ってしまう歌手ともなると何が何だか判然としない。
 

小田和正の持つメタリックなメロディーラインのエッセンスを、何だかどこか分からない国とか世界観に完全に持ち去っている。
クリスマスの教会で、美しく青い目をした青年に誘拐された子供が初めて覚えた英語の曲みたいに、別の楽曲と言ってもいい程むしろ完成されているから『言葉にできない』と言うより言葉が出ない

 

 

そして何よりアン・ミカよりもムカっ腹が立って気持ち悪かったのがこの人、JUJUの解釈。
そもそもJUJUの発声は声量の無い人が「いかにも歌える人」に見せ掛ける為の嫌味な細工が施されたものであり、声帯で一旦発声した声を声帯から浮かすように力を抜いた瞬間に振り幅の深いビブラートを掛けることで、往年のジャズ歌手みたいに聴かせるとても狡い手法を用いている。

しかもレコーディング版では冒頭の、かなり長いタイムをアカペラで堂々攻めて来る。大した度胸だ。
エンジニアの人選にもお金を掛けているのか、私が先に指摘した「狡い発声」は上手に誤魔化されていて、どこか儚げなJUJUの色合いを全面に出しているが、ミックスはけっして良いとは言えない。
この作品の持つ独特の「濡れ感」が失われており、パッサパサの髪をさらにパスパスにドライヤーで乾かし過ぎてチリッチリになった、大昔の人形の髪みたいで薄気味悪い。

 

JUJUの、ヴォーカルの音と音の継ぎ目に発声時に新たに生まれる「要らない音」がクッションとして挟まっているから、それが本来のメロディーラインを見事に叩き壊してしまっている。
おそらくこれは日本人がブラック系にメロディーを寄せて再構成する時、「それっぽく聴かせる」時に使う発声の手法で、余り上手ではないのにそれらしく聴かせようとする歌手の中では比較的当たり前に用いられている発声の技法の一つと言えるだろう。

 

小田和正 作詞・作曲『言葉にできない』の解釈の中で最も場末のスナック的で不快感満載のJUJUの音源をレコーディング版とLive版(途中で他の歌に変わってしまうので一部のみ)の両方を、この記事の最後に掲載しておく。

ようこそ、言葉にできない夜の新宿、スナックの世界へ!

 

 

 

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転身し続ける歌手 – 羽根田征子(はねだゆきこ)

シティーポップ・シンガーだった羽根田征子さんの過去アルバムが先月末にサブスク解禁されたので、懐かしくなって聴いていました。
 

 

そのついでに最近の彼女はどんな活動をしているのかと思い調べてみたところ、何とファド歌手に転身していた (2010年頃) ことに、さらに驚きました。
本場ポルトガル仕込みと言うよりは、完全に「和製ファド」と言うべき仕上がりのアルバムに、正直意気消沈しました。
 
個人的に私は本場のファドが好きです。但し古めかしいファドではなく、最近のファドに限定して。
羽根田征子さんのアルバム「Fadista」には古めかしいファドがラインナップされる中、私の記憶が正しければラスト曲の「Tears」は本場ファド歌手「Mariza」のオリジナル曲ではなかったかと‥。
※誰かご存じの方はコメント欄で教えて下さい。
 
アマリア・ロドリゲスの名曲ファド「暗い艀」に関して言えば、訳詞も余り響いて来ないし歌唱法も「Mariza」そっくりと言う感じで、今さらあえて彼女がファドを歌わなければならない理由が見つからない。

 

 

私は長く日本のシャンソン・カンツォーネ・ファド~ラテン業界に身を置いていた一人であるが、この業界に流れ着く人たちの大半が上に書いたジャンルの音楽を本当は愛して等いない。
だが日本で歌手として活動して行くにあたり、年齢的にも「演歌」や「ムード歌謡」以外に楽曲をあてがわれるのが関の山である。それを回避し、尚且つ歌手活動を突き進めて行くには海外でポピュラーと言われる何かしら王道のジャンルを選ぶ必要に迫られる。
 
そこで日本の中年以降の歌手は、シャンソン、カンツォーネ、ジャズ、ラテン等の、既に誰かによって歌い尽くされた楽曲が集まる業界の選択に迫られる。
そこで大概は「ジャズ」か「シャンソン」にジャンルを絞って行く。特にシャンソンやカンツォーネ等の場合、楽曲を大胆にいじくり倒してもまかり通ってしまうので、脱アイドルを狙う中高年の歌手達にとてつもなく愛されている。
 
ファドの場合若干特殊なジャンルとされているものの、ある程度「ポルトガル節」「ファド節」に慣れて来ると体がすんなり楽曲を受け容れてくれるが、やはり基礎知識が足りない人がファドを扱うとどうしても「演歌」的歌唱法に寄ってしまうのが難点だ。
羽根田征子さんの場合、残念ながらこの例に当てはまるだろう。
 
そうまでしてでも歌の世界に身を置いていたいと言うご本人の執念だけが伝わって来るものの、肝心のファド、ファド愛は殆ど伝わって来なかったのが残念だ。
 
仕事でこのアルバムの編曲に関わった編曲者の仕事も非常に月並みであり、わざわざこのアルバムを「新譜」として接する必然性を全く感じない。
古い楽曲の焼き直しを聴く程、私も暇ではないのでね‥(笑)。

  

 
そして続けて最近の羽根田征子さんの活動を追って行くと、どうやら「瞑想」「禅」「マインドフルネス」‥関連のボイスヒーリングの方面へ、さらに転身していることが分かってもっとびっくりした私です(笑)。

 
作品を聴いてみたのですが、喉の奥をガッツリ絞めた発声法がカンに障ります。
勿論「ボイスヒーリング」を深く追求した結果ならばそれに対しては私もきっと共感しただろう。だが、どういう角度で聴いても彼女が何かを探求したようには見えず、声の端々から「アタシって良い人でしょ?」と言う周囲への強い共感を求める偽善願望がチラチラして、長く聴いていられない(笑)。
しかも全体を通して「嘘っぽさ」だけが滾々と響いて来るので、1分以上聴くことが出来なかった。

 
ま、音楽はあくまで個人の趣味嗜好に左右されるので、こういうタイプが好きなリスナーはどっぷり浸かってみるのも良いだろう。

 

 

※最新の情報だと、羽根田征子さんは『Johanna Yukiko Haneda』を公式に名前を再々変更している。

音楽の日 – Day of Music

毎週金曜日は私にとっての「音楽の日」。その月その週の世界の音楽の新譜を粛々とチェックして行く。その中で気になる曲をストックし、プレイリストへと突っ込んで行く。
私にとって趣味であり、仕事でもあるこの作業をもうかれこれ数十年、私は止めることなく続けている。

さしずめ頭の体操でもあり、しいては比較音楽学のベーシックともなる知識を収集する時間でもあり、私にとってこれ程趣味と仕事を程好く兼ねた作業は無いだろう。

気質的には排他的な感性を持つ私だが、音楽だけは例外だ(笑)。如何なる国、如何なる民族、如何なるジャンルの音楽も余すところなく吸収して行く。

 
昔某アイドルグループ等のシングル曲のセレクトに携わっていた時、どう見ても私の仕事の実質的なタイムとデモテープのタイムが全く矛盾していることについて会議のテーブルに「問題案件」として持ち上がった。
勿論私にとってそれは何の問題もないことだったが、会社としては大きな問題だったようだ。

仕事は闇雲に真面目にやれば良いと言うものではない。要領の良さと時短の知恵があれば、その分多くの仕事を進めることが出来る。

 
私の場合の音楽の見極め方として(もうこれは時効なのでネタバレ含む)のコツは、先ずイントロのコード~Aメロの駆け上がり方を視る。ここで大体の楽曲のインプレッションや音速(これは私が思う感覚を用語化した単語)を見極める。
次にAメロの解決を視ずに先にBメロ~「サビ」を聴く。次に1コーラス目のラストを確認したら、次は概ね曲の中間部に出て来る間奏前の「中サビ」に突っ込んで行く。

概ねここで曲の全容を把握出来るので、仮に一曲3:45のタイムの楽曲を診断するに必要な全タイムは何と30秒から多くても60~80秒で済む。
例えばこのプロセスで100曲のデモテープをチェックするのに真面目に聴いていたら「300min (about 5時間) 」のタイムが必要な作業を、私なら90min~120min、つまり多く見積もっても2時間弱でこなして作業場を引き上げることが出来る。

要はこの分量のミスマッチが社内の会議で問題となった‥ と言う話し。だが如何せん当時の私の仕事(社員ではなくアルバイトの分際ではあったけど)はほぼ完璧だったので、結果的に誰も私に「お咎め」を刺すことが出来なかった。
めでたしめでたし‥ じゃなくて(笑)‥。

 

勿論心底気になった楽曲のみ、フルサイズで試聴する。さらに好きになって惚れ込んだ曲であれば、何度も何度も聴き返して行く。
映像記憶のみならず音の記憶が私の場合、超越している為、大体2回から3回も聴けば楽曲全体を記憶し保管することが出来る。難点を挙げれば「飽き」が早々に訪れてしまうことだろうか。

 


音楽の日。今日、新しくプレイリストを立ち上げた。
本当は「秋」、つまり9月から11月までの楽曲で一つのプレイリストに仕上げる予定だったが、それが不可能になるくらい多くの楽曲が手元に集まってしまった為、前プレイリストから新プレイリストに内容を引き継ぎながら振り分けた。

 

前プレイリストは此方 ⇩

 

先々週辺りから新譜全体がとてもダークな色合いへと、変化し始めた。それは「秋」を意識していると言うよりも、先行きの見えない不安を抱えたミュージシャン等が表現の矛先や方向性を見失った現象とも一致しているように感じる。

比較的ブライト感(陽気さ)を維持しているのがイタリアン・ポップスだったりブラジリアン・ミュージックだったりする。
中でも私が好きだったのが、Didier Sustracの “L’ Amour ça nous travaille“、そして Ornella Vanoniの “Tu Me (con Virginia Raffaele)” だった。

 

 
良い音楽は時空を超える。だが悲しいことに、歌詞、声のあるものの命は短いのも又事実だろう。

地球人は同じ地球人の声質にノスタルジーを感じるし、プレアデス人はやはり同じ種の声質に郷愁を感じるだろう。そう考えると「声」を用いた音楽が時空を超えて拡散して行くことは、想像以上に至難の業である。
だから私は「声」の世界を退き、「音」に全てを賭けて生きている。

 
そう言えば二週間程遡るだろうか。とあるSNSのメッセンジャー経由で私が粛々と進めている「民族音楽の研究」について、質問のメールが寄せられた。あらたまったご挨拶の無い簡略的な、言ってみれば「今どきの若者」のメールと言った感じで質問も大雑把で、何より私に興味が全く無さそうな内容であった(笑)。
そういう無礼な人間に対しては、私も無礼な対応で返すことに決めている。相手がガチ(真剣)で私に興味があれば、私がどれだけ無礼な返信を返したとしても相手の方が食い下がって来るだろうし、此方の無礼な返信で途絶えるメールであればそれ以上引き延ばす必要も無いだろうし。

 

権威に全く縁のない私の研究、と言っても私が突き進んでいる道の後に人は誰も居ない。
クラシック音楽と民族音楽、~アンビエント・ミュージックやDub Techno、Lo-Fi Chill Music等の全ての音楽をクラシック化し、糸で輪っかにして繋げて理論化して行く作業を他に誰がやっているだろうか?
前人未踏の研究に権威等、必要ないのである。

だが多くの若い人たちは内容よりも「権威」の方を必要としており、中身が薄っぺらであってもそのことには気付かないのだから手に負えない。

 

何れ世界中の音楽人口が激減する時が来るだろう。その時になって、あれがない、これがなくなった‥ 等と言って私に泣き付かれても、今この瞬間の私をルックダウンしている人々に掛ける言葉を私は持ち合わせていないし、その必要もない。
その時が来たら是非とも、存分にお困りあそばせ。

 

と言うわけで、この記事の最後に今日出来たてほやほやの新プレイリストを貼って、〆とさせて頂きます。
ご清聴ありがとう御座います。

 

KWON EUN BI “Door” レコーディング風景と解説

2021年4月下旬に予定通り活動を終了したIZ*ONEのセンターだったクォン・ウンビが、ソロ活動を開始しました。
その皮切りとなるシングル「Door」は好調な滑り出しで、韓国各メディアの注目度も高いようです。

 


今回この記事のTopに添付したのは、シングル曲Doorのレコーディング風景です。


完成形だけを紹介してああだこうだと論じている記事は他にも複数ありますが、私が注目したのはむしろバックステージで行われていた非常に繊細なレコーディングのプロセスの方でした。

昔々私が未だ業界にひっそりと出入りし暗躍していた頃から歌手のレコーディング風景をかなり多く見て来ましたが、正直なところここまで繊細で表情豊かで尚且つとても穏やかな作業を余り目にしたことがありませんでした。

特に日本の歌謡曲やPopsの歌手の多くが偽善的であり、本編の仕事よりも「気遣い」や「腰の低さ」の方がスタッフのポイントが高く、実際の作業はと言えばさしてパっとしない普通以上でも以下でもないクオリティーである場合も多いのが現状です。
中には熱心さを売りにしている歌手も居ましたが、どこか「何度も何度も果敢に挑戦する(或いは録り直す)姿勢はあくまでポーズで、実際には今もさっきも一つ後のテイクも殆ど仕事としては変化が視られない‥ なんてことも多々ありました。

ですがクォン・ウンビの上の動画を観る限り、全ての同じ個所‥ 例えば3テイク録り直した場合の全てのテイクが違う表現で歌われているところが凄いです。



IZ*ONEでセンターを努めていた頃は正直余り冴えた印象が無かったのですが、ウンビはソロで光るタイプの歌手かもしれません。

よく居るのです。例えばAKN48の前田敦子のように、グループのセンターと言うポジションだと光輝いて見えたのにソロになった途端焦点が定まらなくなってしまったような類いの歌手が。
その点、ウンビの場合は逆で、おそらく今後良い楽曲と良い振り付けに恵まれ続けることが出来れば益々、彼女は華やいで光輝く存在になるに違いないと私は予想しています。

因みに「Door」の作詞・作曲者は以下のようにクレジットされています。

作詞︰권은비、황현(MonoTree)、정호현(e.one)
作曲編曲︰정호현(e.one)、황현(MonoTree)


アルバムOPENを全曲私は試聴していますが、本音を言いますとシングル曲Door以外の作品は余りパっとしません。
恐らくミニアルバムはアリバイであり、シングル曲一本に全てを集約したのでしょう。どっちに転がってもいいように、こういう作戦はままあるので余り驚きません。

振り付けで印象的なのは、途中で猫のような振りが三段階に分割しながら、その合間に爪を立てながら「シっ」と言ってお茶目な顔をする箇所。

 

 

⇧の動画の丁度タイムで0:45から0:51辺り(2コーラス目にも同じ個所が出て来ます)になりますが、この振り付けを考えた人はきっと天才です。

 

 

最後に「Door」のPVらしき動画を貼っておきます。


PVらしき‥ と書いたのは正式なPVが公開されておらず、動画サイトの会社らしきアカウントからのムーヴィーしか出ていなかった為です。
こういう時韓国語が理解出来たら、もっと色々すんなりと調べられるのでしょう。

と言うわけで、この記事は文字発信型SNS「note」新着記事と同期で掲載しています。
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記事: https://note.com/didiermerah/n/n106e478321d4

 

吉田美奈子と闇の中の私

特にこの二週間近く私は、大好きだった(なぜ過去形になっているのかと言う理由は記事後半で)吉田美奈子さんの旧作を、多くの時間を費やして聴いている。
私が長い間歌の伴奏をやって来た日々の中、ほぼ同時期で最も輝いていた美奈子さんを私は、こともあろうに全て見失ってしまっていたことに気が付いた。そのことの気付いた時には既に、美奈子さんは刻々と輝きを失い始めていた。

 

1998年頃からの10年近く、私は人生で最も深い闇の中を歩んでいただろう。
勿論表面的には最も輝いていた時期とそれとが重なっており、時折当時の友人の誰かに私が置かれていた状況を話しても、誰一人取り合ってはくれなかった。だが私の闇は人が想像するよりも深く険しく、PTSDから全快出来ていなかった私のメンタルは一時期の回復を裏切るように刻々と悪化して行った。

最近メンタリストDaiGo氏のYouTubeの発言が問題になっているが、私も他人事ではなかった。
どっちに他人事ではないのかと言うと、上に書いた当時の私がまさにホームレス生活の真っ最中だったと言う意味での「他人事ではない」と言う意味である。

 

切っ掛けは単純なこと。ある日諸々の重圧に、張り詰めていた心の糸がぷつんと切れてしまった。
もう何もかもがどうでも良くなり、生きる気力も活力も仕事への熱意も何もかもが突然色褪せて、生きていることや生きようとする気力が遠い昔のことのように思えた。

一度そういう状況になってしまうとあとは加速度を付けて転がり落ちて行くだけで、気付くと私は都内のある場所に遭難から生き延びた人のように崩れ落ちていた。正直そこからのことは、今も殆ど思い出せない。
その後持病の発作が起きて当時の恩人に命を救われて、ある冬の朝病院のベッドの上で目が覚めるまでの多くの出来事を、私は今でも明確には思い出すことが出来ずに居る。

 


2008年2月14日にSNS「mixi」で現夫が私のホームに足跡を残してくれた瞬間、止まっていた私の運命の輪が回り始めた。
色んなことに疲れ果てていた私は丁度、亡霊の館からの転居を命からがら果たしたばかりだった時。愛兎の先代「桃樹」と共に人生の再起をはかっていたある夜、夫が人生の呼び鈴を高々と鳴らしてくれた。

一言二言のmixiメッセージの直後に私達は直ぐに電話で会話を開始し、それが一週間とか十日とか続いた辺りからもう、これは会って目を見て話しをしないと携帯電話代で彼が破産してしまいやしないだろうかと心配になり、その夢は丁度一ヶ月後の2008年3月14日に実現する運びとなる‥。
 

吉田美奈子さんの話題に話しを戻そう(笑)。

丁度私が闇の時代の奥底に在った頃の彼女が、今振り返ると一番輝いていたように思えてならない。そしてその当時の美奈子さんの年齢に、少しずつ私が接近している。

YouTube吉田美奈子LIVE STUDIO721 2004/9/25を視る前に私は、本音を言うと別の最近の美奈子さんの動画に強いショックを受けた。
それは私が思う彼女とは全くの別人のように変わり果てた、老いた彼女の姿に対するものだ。

吉田美奈子と低音楽団】ライブの裏側に密着!【ゴールデンウィーク特別編

 
人間生きていれば、いつかはそういう時が訪れる、とは分かっているものの、やはりその状況を目にすると冷静ではいられない。
だが、揺れ動く私の中に目を引く作品があった。YouTube吉田美奈子と低音楽団】ライブの裏側に密着!【ゴールデンウィーク特別編】の中で美奈子さんが歌う「夜の海」(11:37辺りから)だ。

 

 
基本的に私は生演奏否定派であり、作品を生み出す瞬間の大きなエネルギーこそが真の音楽だと言う持論は今も変わっていない。だがそんな私の持論を、老い始めた美奈子さんが一瞬だけ変えて行こうとする。

発声もよろついて声のアタックのポイントもずれて、出したいタイミングで本来出すべき声が出ていない。エネルギーと若々しさが枯れ始めた美奈子さんではあるが、振り絞るような声には不思議と何かしら説得力を感じさせるものがある。

それでも音楽評論家としてこのライブを冷静に論評するならば、やはり音楽以前の何かがごっそり抜け落ちた「唸り」が在るだけで、音楽としては聴けない‥ と言うのが本音である。

 

だが時に音楽は、そうした絶妙の悪条件が出揃った時だからこそ初めて、人々に音楽以上の何か目に視えない感覚を互いに引き出して行く場合があるのかもしれないと、私はこの人 吉田美奈子さんのライブだけは別ものと考えようと意識を改めかけている(未だ完全に改めたわけではないけれど)‥。

 

そうこうしながら彼女の旧作を最初はサブスクリプションで探していたものの、配信されているアルバムは余り多くはなかった。
丁度私が完全に闇落ちしていた頃の彼女のアルバムは、まるで示し合わせたかのようにサブスクリプションには登録されておらず、それどころか各CD自体も絶版に近い状況になっており、やっと見つけたかと思うとプレミアが付いて酷く値上がりしていた。

そんな折、私がそっとAmazon 欲しいものリストにラインナップしていた美奈子さんのCDを、数名の誰かが私の自宅に贈り届けてくれた。今、それを聴いている‥。

 


音楽は心で奏でるものではない。技術とスキルの蓄積と、さらに付け足すならばテレパシックな感覚を以て生み出すことが望ましい。

自らの稚拙な経験だとか恋愛の過去話だとか、そんなものを題材にしているからここ最近の日本のポップスは質が著しく低下したのだと私は思っている。
だからと言って「大人のポップス」等と言う、さらに体たらくな音楽を聴く等もっての外である(笑)。

その意味で言えば、吉田美奈子さんの多くの楽曲、アルバムに於いては感覚が硬質でとてもメタリックな構成になっている。けっして陳腐な恋愛模様等描いてはおらず、どこか哲学的で形而上学的な世界を描いているように思える。
それがけっして嫌味にならないのは、おそらく美奈子さんの高貴な気質や生い立ち等が要因かもしれない。

 

Didier Merahのプロデューサー 天野玄斎氏は数々の名言を飛ばすが、私にある日こう言った。

芸術家とは職業ではなく、生き様を指す言葉である。


私は彼のこの一言によって眠っていた全ての感覚を叩き起こされ、目覚め、気付かされ、現在に至る。それは私にとっての大きな礎であり、未来の光だ。

 
私は吉田美奈子さんと干支が同じで、一周違いで私も今の彼女に追い付く。だがその頃には美奈子さんはさらに一周先の彼女を生きている。
ロングヘアーもカーリーヘアーでもなくなった彼女が一周先の未来にどんな音楽を奏でているのか、ある意味怖くもあり、楽しみでもある。
そこに私 Didier Merah の将来が折り重なる時、音楽界にどんな変化が起きているのかと考えるだけで、とてつもなくわくわくして来る。
 
 
追記:
ピアニストとして一つ気になったことがあるとすれば、 YouTube吉田美奈子LIVE STUDIO721 2004/9/25 の中で鍵盤担当の 倉田信雄さん が本当に素敵な演奏をしていた事。
段々と日本から良い音楽家や音楽評論家が消えて行く今、私は両方の肩書を抱えてこれからも切磋琢磨して行こうとあらためて心に誓った。

 

音楽紹介: REGGAEON – Alebi (ალები)

この三年近く、ジョージア(旧 グルジア)のPopsに私はハマっている。
良い曲が多数あるのでSNS等に紹介したいのだけど、どうにもジョージア語が特殊言語感満載で、ようやくGoogle先生のお力を借りて翻訳してタイトルや歌詞を読み取るのが精いっぱいである。
 
原語紹介だと、演奏者その他のラインナップはこうなる。 ⇩

🎤 ვოკალი – ლაშა ნოზაძე
🎤 ბექ ვოკალი – მარიამ კიკვილაშვილი
🎤 ბექ ვოკალი – მარიამ დოლიძე
🥁 პერკუსია​ – ირაკლი მენაღარიშვილი
🎹 Keyboards, FX – ნიკა წერეთელი
🥁 დრამი – კაკი ჯაფარიძე
🎸 გიტარა – აჩიკო ციმაკურიძე
🎸 ბას გიტარა – პაკო კობალაძე
🎷 საქსოფონი – კახა ჯაგაშვილი
🎺 საყვირი – გიორგი გაბრიელაშვილი
 

これではほぼ解読不可能なので、一旦英語形式に翻訳してみるとこうなる。 ⇩
 

🎤 ვოკალი – ლაშა ნოზაძე
🎤 ბექ ვოკალი – მარიამ კიკვილაშვილი
🎤 ბექ ვოკალი – მარიამ დოლიძე
🥁 პერკუსია​ – ირაკლი მენაღარიშვილი
🎹 Keyboards, FX – ნიკა წერეთელი
🥁 დრამი – კაკი ჯაფარიძე
🎸 გიტარა – აჩიკო ციმაკურიძე
🎸 ბას გიტარა – პაკო კობალაძე
🎷 საქსოფონი – კახა ჯაგაშვილი
🎺 საყვირი – გიორგი გაბრიელაშვილი


⇧ これでようやく演奏者や参加者の名前だけは読み取ることが出来る状態。

 
タイトルの「REGGAEON」を調べてみたが「コレ」と言った確定的な意味は判然としないにせよ、おそらく「レゲトン」の意味ではないかと思われる。曲自体がレゲェなので、きっとそうだとう‥ と言う憶測にて。
 
 
日本人だからと言って全てのミュージシャンが「和」の音楽を演ってはいないように、多くの国々でも音と表現手法の多様化は今や当たり前なのだろう。
何を、どのスタイルを、誰が選択しても好し。それが作品として成り立つのであれば、借り物音楽上等である。その意味ではこの作品は、上質な借り物音楽、借り物スタイルとして成り立っている。
 

それにしても、日本の音楽界以外を見回して常に思うことは、中年から初老の表現者や楽器奏者を熟達者或いはプロとして容認して行く土壌がきちんと育っている点だ。
日本では先ずヴィジュアルが優先され、上手で優秀なミュージシャンであってもその容姿が若さを失った途端に、ナントカ山に追放されんばかりの扱いを受けるのが関の山だ。
 
勿論それは日本だけではないと思うが、日本はそれがある意味顕著な気がする。
 
 
音楽解説をもっとしたいのだけど、本当にジョージア語が全く分からず、歌詞翻訳も存在せず、ただただ楽曲的な優秀さを紹介するに留める他に方法が無いが、全く紹介すらも無いよりはマシだろう。
 
音楽は言語の壁を超えて行くべきだ。
出来れば、彼等の表情や響きからリスナーが率先して、テレパシー等のシュールな感覚で彼等の感性に突撃して行くことが望ましい。
 
 

 
この記事はnoteと同期掲載しています。
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記事Link: https://note.com/didiermerah/n/n3d1bb61bcbe9

音楽評論: Max Richter, Mari Samuelsen, Robert Ziegler – “Movement Study”

最近は主に「作曲」「アカデミック」と言う観点で音楽に接している私、Didier Merah。日々雑多な音楽に触れて行く中で、色々な視点で音楽に触れながらも分析には余念がありません。
 

クラシック音楽からアンビエント、Dubやアフリカ音楽~フラメンコから中東と本当に切れ間なく情報を脳内に蓄積 ⇨ 更新して行く中で、必然的に音楽を聴き分けて行く自分が在ります。

百年後、千年後に残る音楽を目指す私のような作曲家(芸術家)は、きわめてレアなタイプかもしれません。多くの音楽家が自己実現タイプの活動を軸とし、中でも多いのがパフォーマンス・タイプのアーティストだと言えます。
純粋に作曲だけに注力している作曲家を私は、この数十年間殆ど目にしていません。多くの作曲家が気付くと人前に顔や演奏する姿を露出したがり、その殆どが曲芸の域を出ないものばかりでうんざりします(笑)。


 


そんな中、過去世バッハであり大のオルガン好きな私の鼓膜に突き刺さって来たのがこの人、Max Richterマックス・リヒターと言うアーティストのアルバムVoices 2でした。
オルガンの音色をベースとした、おそらく「Voice」と思われるパーツは打ち込みでしょう。なのにとても自然な音に整頓され、とても聴き易い音に仕上がっています。
 

Max Richterマックス・リヒター は自身のジャンルを「ポスト・クラシック」と命名し、クラシックと言う頑丈な外壁を持つ音楽ジャンルの垣根を越えて多ジャンルとのコラボレーションを目指すアーティストとして、自身を位置付けて活動しています。

https://ontomo-mag.com/article/interview/maxrichter-20190408/

 

丁度今日の私は良質なアンビエント・ミュージックを探していたので、そんな折彼の作品はドストライクでした。ですが彼を調べて行くうちに出て来た「ポスト・クラシック」がもしも彼のメインのジャンルだとしたら、やはりそれは正統派のクラシック音楽にはカテゴライズせず、BGM音楽として私の中に記録するに留まるのかもしれません。
 

クラシック音楽に高い垣根を設置しているのは何を隠そう、そうしたクラシック音楽に強烈な美意識と権威主義を見い出さんとする音楽家自身であり、それが一般のリスナーのクラシック音楽離れを同時に誘発している要因であると私は思っています。
勿論既存のクラシック音楽に良質かつシンプルな作品が少ないことも大きな要因ですが、Max Richterマックス・リヒター のように優れた感性と音楽教育の基礎を施された音楽家が、自らを「実は懐の広い音楽家であるのだ」と誇示し過ぎる余りに、かえってアカデミック音楽からリスナーを遠ざけてしまう点は何とも残念としか言いようがありません。
 

また最近のアンビエント・ミュージックの欠点はと言えば、メインのメロディー(旋律)を持たない点にあります。
手持ちの機材の偶発性を利用し、自分の気に入った周波数で背景となる音像をセットし、それを幾つかのコードに分配し、繋げて長いセンテンスを何度かループしながら一曲を構成して行くのですが、あくまでそこにあるものは「人の心と記憶に残るメロディー」とは全く別物の「音の残像」を超えない何かであり、それは「曲」の形態を取っていません。
 

残りそうで残らない音楽だけど何となく聴いている瞬間だけは心地好く、日常生活の中では発生することのない借り物の感情や感覚を誘発してくれる音楽なので、それを「良い音楽」として認識する人達も一定数は現れるでしょう。
ですが聴いた後1時間もすれば多くのリスナー達も現実世界に戻って行きますから、先程まで接していた音楽は彼等の現実とは無関係な「何か」として、それらは日常生活には不要不急の何物か‥ として記憶の片隅で幻のように温存され、やがて消え去って行きます。


勿論料理だって胃袋に入ってしまえばそれまでではないのか‥ と言われたらそうなのですが、芸術作品や音楽、絵画等はその印象だけでも心の中にしっかりと刻印したいと私は思います。
なので私の場合は「刻印に耐え得る音楽」に(最近は)特化した楽曲作りに努めていますが、その片鱗を持っている音楽家がそうではないジャンルの音作りの方に舵を切って行く様を見ていると、時折胸が痛みます。
 

まるでそんな私の胸の痛みを弔うようなこの作品のオルガンとコーラスの音色が、さらに今現在の地球上に広がる多くの悲しみと痛みに祈りの霧を撒いて行くようなこの作品が、何故か今日は心に沁みて来ます。
こういう音楽の聴き方も好いのではないかと思わされるその作品『Movement Study』を最後に、この記事を〆たいと思います。

 

 
※アルバム『Voices 2』のSpotifyのLinkはコチラです。 ⇩

 

音楽紹介: [MAD] Plastic Love – Mariya Takeuchi (Cover) | Millie Snow

この作品『Plastic Love』(作詞・作曲: 竹内まりや – 1984年4月25日 リリース)がこの数年、再度ブレイクしている。世界中の多くの歌手(プロ・アマ問わず)等がこぞってカバーしており、中でもMillie Snowと言うタイの歌手(ピアニスト 兼 ダンサー)が歌うこのテイクが際立って光っている。

何が光っているかって、元来ライブとかカバーソング等が好きではない私がドハマりする程の編曲・再演のクオリティーの高さ、その一言だ。

 

Madpuppet Studioはどうやらタイ国内の、音楽制作スタジオだと書いてある(Facebook Pageより)。サポートを努めるミュージシャンはこのスタジオから配信されるYouTube動画の大半の演奏を担っている。と言うことは、日本式で言うところの「小屋付きのミュージシャン」と言うことになるが、これが凄い。

 

動画の演奏者を(歌手を含め)、以下に記載しておく‥。

Performed by
 Vocal – Sirichada Ruamrudeekul
 Keyboard:
Janpat Montrelerdrasme
 Drums:
Nantanat Thanupongcharat
 Bass: Oangkit Tangcharoen
 Guitar: Aphiwich​ Deepairojsakul​

 
動画全編をご覧頂ければ一目瞭然だが、特に間奏のKeyboardとGuitarの掛け合いがメッキメキに冴えているのがお分かり頂けるだろう。
日本国内のミュージシャンに、ここまでキレた、冴え渡ったアドリブを乱射して来るミュージシャンはおそらく皆無だろう。しかもお二人とも遠近感を狂わせるような大きなボディーを持っているが、それはこのお洒落で地盤の安定したアドリブを常に解き放つ為にあると聴き手を説得して来る辺りのパワー(圧)が素晴らしい。

ドラムを担当している Nantanat Thanupongcharat 、Instagramのプロフィール欄に「1994」と記載されているところを見ると、おそらく1994年生まれの現在27歳の若きミュージシャンだと思われるが、要所要所のライブ・パフォーマンスに於けるブリッジの入れ方・抜き方が既にベテランの域に到達しているようにも視えて来るから不思議だ。

 

 

さて、肝心のヴォーカルのMillie Snowは幾つかの名前を持ちながら活動しており、この記事で紹介しているYouTubeには「Sirichada Ruamrudeekul」と記載されているが、公的な芸名はおそらく「Millie Snow」で合っているだろう。

 

 

Instagramの中ではクラシックバレーの基礎をきちんと踏んだ、彼女の美しいダンス動画にもお目にかかることが出来る。
 

 
実は私は「唐田えりか」さんのファンなのだが(笑)、 Millie Snow ‥ どこかえりかさんに似ているように見えてひと目でファンになってしまった私って、ただのミーハーなんだろうか ^ ^;

いえ、それだけではなくしっかりとした発声に表現のセンスも素晴らしい。天は時に一人の人間に対して二物も三物も与えてしまうのだから、本当に人間とは不公平な生き物だと思う。

 

肝心な動画の紹介が最後になってしまったが、ここまでの解説を読んでから動画『[MAD] Plastic Love – Mariya Takeuchi (Cover) | Millie Snow』を観ると又、違った味わい方が出来ることを期待して、この記事を〆たいと思う。

 

音楽評論: “Amazon River” – Didier Merah

レコーディングの日付けは2019年8月24日。丁度この頃アマゾンでは火事が多発し、とても危機的な状況になっていました。
音楽で出来ることには限界がありますが、何もしないよりは行動あるのみ。そう思い私は、この作品を録音しました。

アルバム『World of Nature』の皮切りとなる作品で、アルバムの物語にもけっして明るい未来が見えず、精神的にもかなり追い詰められながらの創作活動が続きました。
 


恐らく私は、自然神に呼ばれたのかもしれません。姿や形は無くても、意識や思考だけが生命として存在する‥、私は彼らをそう思い、そう呼んでいます。
 

今朝も別のSNSで私が発信したことが誰かの神経を逆撫でしたのか、頭上からイグアナの変種に噛み付かれるようなリプライがTwitter経由でスマホに届き、その相手は言いたいだけのことを言って私をアクセスブロックして去って行きました。
私の音楽は音楽から生まれるのではなく、そんな不穏な日常の隙間からも生まれ出て来ます。
 

クラシック音楽もジャズもシャンソンもタンゴも‥、兎に角世界中の音楽のジャンルを一周も二周も三周もしました。ですが結局、私の欲しいものはどこにもありませんでした。
ならば自分で作り出す以外に方法が見つからず、現在に至ります。

 

記憶に残るメロディーと、ヒステリックに盛り上げない展開部、その後にそよ風のようなアドリブが少しだけ木の葉を揺らし、そこに無限の残響が折り重なって行く音楽。
私はそんな残響の調べを、いつかどこかで聴いた記憶がありました。

その記憶がいつ、どの時代の私が持っているものかはとうとう分からないままですが、確かに私はどこかで聴いたのです、残響の音楽を。

 

かなしみは光に、喜びはペダルに乗せて、Didier Merahの両手は際限なく跳躍し続けます。
その間約14分間になりますが、レコーディング中の記憶が全くありません。どの作品をレコーディングしている時も、私は音楽の遥か彼方の意識の世界へと飛翔しています。

ろくに鍵盤も視ないで演奏しているのに、よくも殆どミスもなく弾けるものだと自分でも驚きます(笑)。


アマゾンは今、少しずつ静寂を取り戻しつつあるようです。それと言うのも、皮肉にも新型コロナウィルス肺炎のウィルス・パンデミックが功を奏したと言っても過言ではありません。
人々の動きや経済を断続的に止めることで大気が安定し、地球は季節感や環境のペースを若干取り戻しています。
 
 


もしかするとこの作品「Amazon River」は、人類の長きの大罪に対し反省や自粛を促す音楽なのかもしれません。

今、人類は自然神から、少しだけの猶予を与えられている最中です。未だ引き返すことは可能です。
遠い遠い時代の、遥かリラ星が未だ健在だった頃の人類の祖先の魂が、自然神の怒りを少しだけ鎮めてくれているように思えてなりません。


note記事と同期掲載にて。

音楽評論: “MIND CIRCUS” 聴き比べ

Tokimeki Recordsひかりさんが、中谷美紀さん1996年にリリースしたアルバム「食物連鎖」からの「MIND CIRCUS」をカバーしました。


ひかりさんも中谷美紀さんも両者共に甲乙付け難い表現力を持った歌手ですが、こういう時何を基準に音楽や歌を楽しめば良いのかといつも、私なりに苦心惨憺します。
そもそも人の声が余り好きではないのになまじ「歌」に関わる仕事に30年近く携わって来ると、言いたくもないのにうんちくを垂れてしまうのが嫌~な意味での不治の病的な職業病にも思えて来て、正直自分でも笑ってしまいます(笑)。

 

いつも思うのですが名曲をカバーしたがる人達のマインドには、個人的に興味と疑問の両方が湧き起こります。

音楽はその時、その季節、その時の素材、そしてその時に関わる作曲家の全部の軸が揃った瞬間に命を授かります。なのでカバーや再演時には、「あの瞬間」の鮮度は既に失われていると言っても良いでしょう。

極論、作品をレコーディングした時が頂点で、それ以後は日増しに劣化が進み、音楽は思い出の中で有限の命を持つことしか出来ません。なので出来れば名曲をカバーするのはやめて欲しいなと、個人的には思うわけです。

その意味ではこの「MIND CIRCUS」にも同じことが言えるかもしれません。
やっぱり頂点は1996年、坂本龍一さん(作曲 / 編曲)に売野雅勇さん(作詞)の繊細な世界観が折り重なり、そこにガラスのナイフのような感性を持った当時の中谷美紀さんの声が乗って、原Key(F-Maj)で不愛想に繰り広げられるどこか抜け殻のような彼女の声質がこの作品にはピタっとハマっていたように思います。
 


但し。表現力の豊かさ、厚みと言う点ではおそらく ひかりさんが 一も二も上手を行っていることは周知の事実です。
これは皮肉としか言いようのない現象ですが、こと「歌」の世界ではこのような皮肉な現象が頻繁に起きているのが現実です。

加齢や声の状況によってKeyを上げ下げする歌手を私は多く見て来ましたが、基本として音楽は原Key(その曲が最初に誕生・歌唱された時のKayの意味)で歌い続けることが理想です。そのKey自体に既に命やDNAの原型が完成していて、それを壊してしまうと楽曲本来のラインが完全に崩れてしまうからです。

同じ洋服をサイズ違いで年月を越えて着続けるぐらいならば、いっそ新品を新調した方が身の為です。音楽の場合は絶対に、そうすべきです。
そして、「もう歌わない」「歌うことをやめる」「この作品を手放そう」と決断を下せるのは、何を隠そう歌手自身です。ズタボロになってから否応なくその決断に至るよりは、未だ輝いている時に撤退することが望ましいと思います。


余談ですが中谷美紀さんが1996年にリリースしたアルバム『食物連鎖』には、名曲が多数収録されています。中でも私が今聴いても良い作品だと思った一曲が「LUNAR FEVER」。作曲は高野宏さん、作詞は森俊彦さんです。

 


歌詞もなかなか素晴らしいです。

興味のある方は⇨ コチラ ⇦で読んでみて下さい。ゾクっとするような言葉の断片が聴き手を瞬殺してくれること、間違いなしです。

本題のひかりさんの歌唱力や表現については、特に加筆することはありません。良くも悪くも「可もなく不可もなく」と言った感じで、私個人的には「声質が好き」「原曲よりは表現が若干豊かである」と言う意外に特筆すべきことが見つからなかったのです。

上手なのに特に心に残らない歌と言っても過言ではなく、これはもしかすると歌手としては大きく損なタイプかもしれません。下手でも人の心にインパクトを与える歌を持っていた方が、長い目で見た場合には「得をしている」とも言えますから。
 

ま、私は作曲家タイプの芸術家ですから、表現よりも楽曲がどうなのか‥ に目が行ってしまうのかもしれません。その意味ではこの作品『MIND CIRCUS』はその名曲ぶりから、多くの女性歌手を泣かせ続けながら現在に至るのかもしれません。

良くも悪くも、メロディーセンスの点では「無類の色男」の素質を存分に秘めています。私がもしも歌手を続けていたとしたら、きっとこの強烈な毒牙にハマり込んでカバーを試みて自滅していたでしょう。それ程魅力的な楽曲が坂本龍一氏から連続して放たれていた時代も、もう遠い昔の話です。

少しだけ胸をキュンキュンさせながら、そのWaveに溺れないように私は遠くから、坂本龍一氏の今後とこの作品の行く末を静かに見守りたいと思います。


この記事の最後に、そんな最近の坂本龍一氏の作品の中で気になった作品『andata』をワンオートリックス・ポイント・ネヴァーがカバーした方のYouTubeを貼っておきます。
原作よりも ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー のカバーテイクの方が、精度が高い気がせずにはいられません。感性の問題か、民族的なルーツの問題か或いはその両方の要因が、完全に原曲を押し潰した格好になっています。
特に途中から断続的に加わって来るスチールドラムの音色と若干のオルガンのバックがこの曲に不似合いな分、聴き手に強烈なインパクトを与えて来ます。
 
なにせ一周も二周も、或いはそれ以上も軌道を巡りながら結果的に全ての要素がバッハに回帰して来る彼等の活動が、過去世バッハの私をゾクゾクさせてくれます。
思わず「お帰りなさい」と呟いてしまいました(笑)。
 


音楽とは本当に不思議な生き物だと思わざるを得ません。