戦争と音楽と坂本龍一

Piece for Illia、この曲を聴いた時に「あぁ又やったんだな、この人は。」と言うのがファーストインプレッションだった。
彼が何を又やったのかと言えば、勿論インスパイア音楽のこと。特に坂本龍一の場合、楽曲中のインスパイア成分が95%、残りの5%が坂本龍一の成分だと言っても過言ではない。
 

Piece for Illia


彼(坂本龍一)の場合、この現象は(私が知る限りでは)今に始まったことではない。
その昔はラジオ番組内各所に「新人発掘」なる企画を立ち上げては多くのアマチュア・ミュージシャン等から毎週のようにデモテープを募り、もしかしたら坂本のプロデュースの元にデビューが叶うかもしれないと言う夢を抱いた若者たちの希望の灯を、坂本はどれだけむしり取って来たことだろう。
 
看板「世界のサカモト」は私達、音楽仲間の一部では「パクモトリュウイチ」と呼ばれている。(※その時の衝動で何の躊躇もなく、坂本龍一が他のアーティストの作品を堂々とパクることからこの名が付いたと言われている‥。)
昭和から現在に至る数十年もの間、坂本のある種卑怯な作曲スタイルを内緒話として嘆く声も多数聞こえて来たが、数の力で多くの人たちの嘆きが闇に葬られて来た。
 
実は先程Twitterにも投稿したが、私は音楽家として今、とてつもなく腹が立っている。
 

 
勿論パクモト、‥じゃなくて、坂本龍一が同じ国籍の同じ音楽家であることも腹立たしいが、それよりも現在進行形で戦火にあるウクライナの民謡『Verbovaya Doshchechka』の美しい旋律をパロディーのように切り崩し、メロディーの一部の音の配列と音域を1オクターブ移動しただけでその他の音楽の雰囲気等を原曲の民謡そのままの状態で残した楽曲に対し、「作曲: 坂本龍一」とクレジットし、あたかもウクライナの悲惨な状況を嘆く体(てい)の楽曲として世に輩出した彼の言動はもっと許せない。
 
この作品には坂本龍一ともう一人、ウクライナのヴァイオリニストのイリア・ボンダレンコ氏がクレジットされている。楽曲はイリア・ボンダレンコ氏の音色に触発されたことから生まれたように、坂本龍一の談として言い伝えられている。

だが幾ら何でもウクライナの村の民謡に楽曲を似せて作った坂本自身の作品と言われるものを、戦火の真っただ中にあるウクライナの若い演奏家を起用した上、ロシア製の爆弾で粉々になった学校と瓦礫の上でそのヴァイオリニストに演奏させ、それをプロモーションビデオとして配信して平然としていられる作曲者(?)・坂本龍一の感性が余りに卑劣極まりない。
 

 
そこで私は Piece for Illia の原曲として演奏されたYouTubeを先ず探し出して聴いてみた。それが以下の動画である。
 

 
音楽に精通している人であれば一目瞭然だが、このアンサンブルには余計な西洋コードが加えられていない。
せいぜい旋律が三音以内に制約され、ルートとなるベースが固定されていない為、どこか伴奏のない女性コーラスに似た不安定さが楽曲の魅力となって聴こえて来る。
 

上のYouTubeの楽曲は “Verbovaya Doshchechka”。邦題だとカタカナで「ヴェルボヴァヤ・ドシェチカ」と書かれてあり、この作品はウクライナの村の民謡(春の民謡)と言われるものだそうだ。
とても美しい曲なので気になって、スペルを調べてYouTubeで検索したら以下の動画がヒットした。
 


やはり東欧独特の音の韻を踏んでおり、そこはかとなくアルメニア民謡にも通ずる哀しい中にも芯のある音楽が心に沁み渡る。
パクモト‥ じゃなくて坂本龍一はヴァイオリニストのイリア・ボンダレンコ氏ではなく、実はこの民謡に触発され、楽曲のインスパイア成分95%(ほぼウクライナ民謡)の旋律とかなり不自然な西洋コードを複合させた音楽を、物マネすれすれであるにも関わらず自身の作品と称して世に出したと言っても良いだろう。
 
あえてこれを「盗作」と言わないのは旋律が全く同じではないからだけであり、音楽は旋律だけで構成されている訳ではなく、コードやモード、楽曲のニュアンスや全体の印象も含めて楽曲が完成する。
 
何より心からウクライナ国内の停戦を願い、ウクライナの未来を祈り、尚且つウクライナ民謡 “Verbovaya Doshchechka” に触発されたと言う坂本龍一の声が真実ならば、何故原曲の民謡をありのままカバーしなかったのかが私には理解出来ない。
「インスパイア」と言う言葉を使いながらも最終的には坂本龍一自身の楽曲として世に出したかった彼の強い欲だけが、楽曲の前面に泥のように散乱しており、それらがウクライナ全体を酷く汚しているように私には思えてならない。
 

坂本龍一「ステージ4」のガンとの闘病を語る

 
昨日 2022年6月7日、早朝から坂本龍一についての不穏なニュースが世界を駆け巡った。
彼自身が今とても苦しい状況に在りながら、それでも彼が「パクモト」から抜け出せないのはやはり、生まれ持った彼の「業」ゆえなのだろうか‥。
 
仮に何かを盗むのであれば、せめてそれが愛する人の為に‥ と言う美しい美談であればまだマシだが、(例えるならば)ルパン三世の物語の主役が時折嘆く美しいつぶやきのような噂が彼の周辺から聴こえて来ることは、おそらく今後二度と無いだろう。
せめてこれ以上坂本が日本人或いは日本の音楽家たちの誇りを汚さぬよう、心から祈るばかりである。
 

Laufey from Iceland

今日は良いニュースが一つと、そうではないニュースが早朝から世界を駆け巡り、さらに私も体調が今一つだったところに加えとても重要な打ち合わせを一つ控えており、気持ちの浮き沈みがとても激しい一日だった。
 
巷のいずこでは「ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール」の最終選考で賑わっており、私も参加者の演奏を一つだけ聴いてみたが、兎に角つまらないと思いYouTubeをそそくさと閉じたところだった。
何が面白くないかって言えばそれは決まっており、自身の作ったものでもない音楽をただ完成度だけを追い求めながらどれだけ汗をかいて演奏したところで、結局再演者のエゴだけが音楽を埋め尽くすだけの愚行にうんざりして疲れてしまうだけ。

そんなことを言ってしまったら世界中から殆どの演奏家が消えてなくなってしまうかもしれないが、再演音楽は余程再解釈が美しいか或いは斬新であるか‥ でもない限り、消えてなくなってしまって良いと私は思っている。
 

Laufey
 

そんな私のか弱い日常の憂鬱を払拭するように、YouTubeのサイドバーに久し振りに彼女‥ Laufey(ラウフィー)の新譜Fragileが現れた時はもう、どうにもこうにも救いの女神が現れたような感動で涙腺がウルウル緩んでしまった。
 

 
Laufey(現在23歳)はアイスランドのシンガー・ソングライターであり、自身の音楽のルーツは古いジャズに由来するとインタビューでも話している。
 

  
最近のポップス系のシンガー・ソングライターは何かと扱いが簡単なジャズ系~ボサノヴァ系に作風を逃げ込ませる風潮が強いように感じるが、彼女の場合は仮に楽曲の構成がジャズ & ボサノヴァ系だったとしても他のアーティスト等と同じように捉えるべきではないかもしれない。

一つには彼女の表現手法、特にヴォーカルの声の緩急の付け方にとてつもないケルトを感じさせる。さらに地声と裏声(時々微かに挟まるヨーデル含み)の両方を微弱な声量で動き回る点が、他の同ジャンルの歌唱法とは大きく異なること。
 
もう一つの要因として、メロディーラインがとてもクラシカルでオーソドックスな流れを踏んでおり、ともすると旋律の無休感(長い旋律が連続しており、間に呼吸を挟まないで歌い切る歌唱法等)がオペラやフランス歌曲にも通ずる揺らぎを含んでいる点。
その揺らぎがボサノヴァ(或いはジャズ)系のバッキングに乗ってしまうと、一見するとごま油で一度炒めてしまえばどんな野菜や肉類であっても全て「中華料理」に括られてしまうように勘違いしそうになるが、実はそうではない。


なのでむしろ彼女 Laufeyには余り自身の音楽ジャンルを「古いジャズに影響された何か」だとか、「ボサノヴァ的な何かである」‥等と限定して自身の音楽の器を狭めて欲しくないと、他人事ながらとても気になった。
 

 
その人が本物であるかどうか、真の表現を志している人であるかどうかを見極める時に、私はそのアーティストに先ずオーソドックスなスタンダード作品を演奏(カバー)させたり歌わせたりすることに決めている。
その意味では、彼女の歌うカバー曲「I Wish You Love」の表現はもはや、Laufeyの若さを超越している。
 
この作品は日本国内でもジャズ系やシャンソン系シンガーの多くがカバーしたくなる曲・第一位に選ばれる曲だが、殆どの歌手が「オレオレ」「あたしあたし」‥のエゴが全面に出てしまい、正直音楽にも作品もなる前に沈没してしまう。
その意味でLaufeyのような、ある種の「自分」の大部分を消しゴムで消しながら彼女の持ち味である声質とロングトーンだけをしっかりと残しただけの、ある意味利他的とでも言うべき音楽解釈は、長年音楽を書き続けて来た私でもただただ脱帽の域だ。
 

  
ここでは彼女の学歴にはあえて触れなかったが、ご覧の通りLaufeyは色々な楽器を操りながら各々の楽器の音色からさらに新たな構成や表現に挑んでいる。
楽器によって表現手法を変えて来るところが彼女の特技或いは魅力とも言えるが、最終的には外界の情報に惑わされることのないLaufey自身の音楽に到達して行ってくれることを、いち音楽評論家としては期待したいところである。
 

さて、この記事の〆はそんな多彩なLaufeyの最新作「Fragile」の、彼女自身のギターの弾き語りの動画を貼っておきたい。
 
若干ヘッドフォンのボリュームを上げながら、時折今にも消えそうになるLaufeyの地声と裏声の狭間のケルトを感じながら、まさに今雨季に差し掛かった日本の湿っぽい夜に新たな清涼感を添えられれば幸いだ。
 

 

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音楽から読み解く世界情勢 [2022.05.28]

毎週末の新譜チェックが少し負担に感じていた5月半ば。考えてみれば「五月病」と言う言葉があるように、5月とはそういうシーズンだと言うことをふと思い出した。
そんなことならば少しだけ休息を挟みながらのんびりやろうかと思っていたが、どうやらそうも行かない状況だ。

恐らく今月のどこかで私は、日本国内では「大御所」と言われている「或る人」からTwitterのアカウントをブロックされたようだ(笑)。
そんな大御所からご丁寧にブロックされるのは、ある意味では芸術家冥利に尽きる。私もそろそろ(先方から見たところの)大御所の仲間入りを果たす前兆かもしれず、これはきっと名誉なことだと思って良いだろう。

箸にも棒にもかからない人間をわざわざブロックする大御所など居ないだろうから、この記念すべき年に私は新たな勲章を得たと思い、堂々と今後の芸術家・音楽評論家人生に踏み出そうと思う。
 

一日遅れたがさっき、世界の新譜チェックが無事終了した。今回はSpotifyとAmazon Musicの両方に新しいプレイリストを開設し、公開した。
両サブスクリプションの使いやすいのがSpotify、でも音質の点ではやはりAmazon Musicに軍配が上がる。

 


‥と、折角音質の良いAmazon Musicの方のプレイリストの埋め込みを期待したが、どうやらこのブログでは表示出来ない仕様らしいので、Twitterのリンクを貼っておくことにする。

 


今週のサブスク新譜情報も、やはり単曲ないしはEPサイズの配信が目立って多かった。
だが中には久々の楽曲配信の大御所の作品も点在し、ワールド・ミュージック・フリークとしてはとても嬉しい週末となった。

特にGérald Totoの新譜 Dérivé Larel La、さらにはDori CaymmiがMônica Salmasoと組んでリリースした新譜 Canto Sedutor には嬉しさを通り越して泣かされた。

 

 

今週は日本勢はJ-Pop界隈も頑張っている。
良い曲は国籍・ジャンルを問わずガシガシ紹介して行くのが、私・Didier Merah流だ。
ただの音楽好きとは異なり私は芸術家としての教育の基盤を持ち、尚且つ世界中の多くのジャンルの音の構成分析を得意とする。付け加え、そのどのジャンルにも無い新たな音楽を生み出す、私は稀有な存在だ。

そんな私が紹介する音楽に国境などもはや存在しない。良いものは良い!と言う信念に加え超越した感性とジャッジメントの上に厳選した楽曲に、良くないものなどある筈がない。
要は自信満々でセレクトして行く毎週末の新譜は、他の誰のプレイリストにもない面白い選曲だと言いたいわけだ。
 
J-Popあり、Tangoあり、アフロ・ミュージックもあればアルメニアのポップスもある楽しいプレイリストを聴いていると、何故世界から戦争が絶えないのだろうか‥ と言うふとした落胆が胸を過る。
音楽の力が及ばないのだとしたら、私達音楽家の責任重大だ。だから私は世界を変える為に、自身の創作活動だけではなく音楽評論家、比較音楽学者としての厳しい表現力にさらに磨きを掛けたいと思っている。
 

 
そう言えば2022年春に晴れて6人でデビューを果たした、宮脇咲良も参加する韓流女性グループのLE SSERAFIMからいきなり一人脱退した形で、5人で活動を再開したようだ。
理由詳細は不明なので(噂の域なので)、ここではその理由については省略するが、6人よりは5人の方が確かに見た目にも残念ながらスッキリした感じに見える。

人生には色々なことが急遽降り掛かる。だから良からぬことをしたり、思ったりしない方が身の為である。
 

 
さて、この記事のラストを何の曲で飾ろうかと十数分迷ったが、先週分のPlayListの更新分から、私の大好きなTitiyoが久し振りにVocalを放ったこの作品を貼っておきたい。
自然と体が動き出す曲‥ と言うだけでなく、楽曲としての出来栄えも高い一曲だ。

ご堪能あれ!💛
 

 

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「ラヴ・スコール (峰不二子のテーマ)」と作詞者・槙小奈帆

このところ、80~90年代のCity Popsのカバー曲のサブスク配信が盛んだ。つい先日も何とも懐かしい今井優子の『真夜中のドア』のカバーを聴きながら、一人昭和の街並みを妄想しつつその世界観に歓喜したばかりだった。
 

  

思えば昭和の後期に、軒を連ねるように名曲のリリースが相次いだ。この作品『真夜中のドア』もその一曲だ。

そもそもこの作品をインドネシアの歌手 Rainych が2020年にカバーしたことでアジアに真夜中熱が再燃し、大ヒットの狼煙が焚き付けられたと言う話も伝わって来る。Rainychの声質はどことなく、日本で言うところの「初音ミク」のような感じの無機質なオモチャボイスで、正直私は余り好きではない。
だが、こういう声質が流行る理由は何となく理解は出来る。

 

 
その後日本ではTokimeki Recordsがゲストボーカルにひかりを招き、この作品をカバーしたが、これがなかなか夜の歌舞伎町のスナック色の強いさびれた感じがして良いのだ(笑)。

 

 
同じ曲を2019年に中森明菜もカバーしている。此方は完全にサルサのビートに編曲がしっかりと為されていて、私は好きだ。
 
こういう挑戦には賛否両論のレビューが付き纏うものだが、元曲通りが良いと言うのであれば原曲だけを聴けば良い。原曲にいかに寄り添いながらもどれだけ跳ね除けて再編して行くのか、それがカバー・ミュージックの妙味でもあるのだから、こういう機会を与えられた歌手や編曲家には思う存分遊んで欲しいところである。
 

 
さて、話を「ラブ・スコール (峰不二子のテーマ)」に戻さなければならない。
 

「ラブ・スコール (峰不二子のテーマ)」、このタイトルを聞く度に私は作詞者である槙小奈帆の陰影を思い出す。かつて私がシャンソン界で伴奏者としてトップに君臨していた頃は、大っ嫌いな歌手のTop3.に名前を挙げても良い程の人物だった。
センス、性格、演歌さながらの歌唱法‥ どれを取っても良いところ等一つもない人だと言っても過言ではない。

知名度のない新人歌手やピアニスト等、槙小奈帆に運悪く共演の出番が当たってしまうと、兎に角とことん虐め尽くされて帰されたものだった。だが伴奏者とは因果な商売であり、一度歌手に気に入られようものならその後の共演の出番にお断りを入れること等、けっして許されない分際だった。
だが、私は最後までこの歌手との共演に断りを入れ続け、どこかでうっかり遭遇しても無視し続けた(笑)。

 
そんな私が日本のシャンソン界にうんざりして2011年に業界を撤退し、その後偶然Facebookで「槙小奈帆」の名前を見掛けた時には即座に彼女のアカウントをアクセスブロックに処した。
色々と面倒臭い人なので、金輪際関わりを持ちたくなかったからだ。

だが、そんな折も折、最近になって「ラブ・スコール (峰不二子のテーマ)」を多くの歌手等がカバーしており、その度に作詞者欄に「Sanaho」とか「槙小奈帆」の名前を見掛けるようになり、私の音楽評論家魂がゾワゾワと疼いたのだ。
既に私は和製シャンソン界を撤退しており、今や槙小奈帆とは上下や同業者のしがらみも無い。ならば音楽評論家として大胆なジャッジメントを加えたところで、双方に何らリスクも無いだろうと判断し、つい最近になって槙小奈帆のCD「ネレイス」を中古で購入した。

 

CD「ネレイス」: 槙 小奈帆

 
作詞者自らが歌う「ラヴ・スコール (峰不二子のテーマ)」は恐らくこのアルバムの目玉と思いきや、どことなく捨て曲のような状態でアルバムの冒頭に収録されている。
彼女自身の日本語詞は封印され、全編フランス語で槙小奈帆は堂々と歌い切っている。バックを務めるピアニストはおそらく美野春樹氏だろう。どうりで饒舌を超えてお喋りで、うるさい。
 
しかも肝心の最後の最後のコードがミスタッチによるディスコードになっており、ベースの音がFから半音ズレて「E」を押している。これは明らかなミスタッチだと誰もが分かるのに訂正が為されなかったのは、多分‥ だが槙小奈帆に「この為」だけに二度歌わせ、録り直しをさせるわけには行かなかった業界特有の忖度だったのではないかと思う。
本来のコードとは全く異なるディスコードでラストに突っ込んだままの楽曲は、何とも後味が悪過ぎる。‥だがこういうところにも人柄や音楽のセンスが露骨に出てしまう辺り、本当に怖い。
 

同アルバムの2曲目以降はもう、聴くに値しないレベルだ。これが演歌のアルバムだと言うならば歌唱力が圧倒的に足りないし、これがシャンソンのアルバムだと言うなら喉にこぶしを込めたような歌唱法に大きな支障を感じざるを得ない。

正規のボイス・トレーニングもおそらく為されておらず、良く言えば「ハスキー」でかすれた本当に耳障りな発声が延々と続いて行くので途中でディスクを止めた。これ以上このアルバムを聴き続けることは、流石に無理だった。
 

 
良い表現とは「過剰な情念を挟まない、客観的かつクールな表現」を指す。その意味で、槙小奈帆の表現は聴き手の自由度を著しく阻害した、カッカとした熱さだけが粘着いた炎のように吹き出すだけで、ただただ風通しが悪いものだと私は感じてならない。
 
アルバム「ネレイス」の冒頭のフランス語の「ラヴ・スコール (峰不二子のテーマ)」の、どこか「他所様の言語を拝借させて頂きます」‥ 的な引きの表現の方に彼女がもっと磨きをかけることが出来たなら、きっともっと多くのリスナーに愛されたに違いない槙小奈帆の名作(作詞)、「ラブ・スコール (峰不二子のテーマ)」の別バージョンをこの記事の〆に貼っておくことにしよう。
 

同じ演歌でも、石川さゆりの演歌はどこか爽やかだ。槙小奈帆の重苦しいシャンソン・ド・演歌の声の怨霊を綺麗さっぱり忘れて、和装モンマルトルの世界に浸って頂ければ幸いである。
(※歌手とは、声優さながらその作品に応じた歌い分け、声の使い分けを怠らない人を指す。)
 

 

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音楽から読み解く世界情勢 [2022.04.26]

どこか緊迫感を高めながら世界中が一進一退する2022年、春。
地球はどこに向かって加速しているのか、それとも失速しているのか‥。数年前のシリアに続いて、再び瓦礫の国が増えて行く。
 

音楽は全てを物語る。
毎週末に世界中から配信されるあらゆるジャンルの新譜を追っていると、誰もが不安を抱えながらその場でフリーズしかけているように見える。
相変わらず今週も単曲での新譜が多く、次いでミニアルバム・スタイルの新譜が続いて行く。Lofiの新譜のクオリティーが先週よりも若干落ちているのが気になりつつ、その一方でやはりダブ・ステップの新譜が先週より増えているように感じる。
 

私がコレクションしているメインのプレイリストには、ダブ・ステップのようなある種、戦争の音声を意識させるような音楽をあえてリストインしていない。音楽はあくまで心の癒しの役割を果たすべきであり、尚且つ私は音楽の中に「祈り」の有無を強く求めたいと願っている。だからダブ・ステップやDeep House系の音楽をコレクションしない方向で、PLを作成している。
 

今シーズンのメインのPLは此方。
 

 
今週の更新は、M-45 “About Love” – The Soultrend Orchestra · Papik · Alan Scaffardi から。
 

About Love · The Soultrend Orchestra · Papik · Alan Scaffardi

 

各ジャンル、各アーティスト等の新譜からアルバムを辿り、実際に紹介されているアルバムリードの楽曲とは異なる別の楽曲をPLにコレクションする事も度ある。

先週末、一人Sufiの大物が過去アルバムのリマスター版をサブスクから再配信していたので、それをここにご紹介しておきたい。

Omar Faruk Tekbilek のアルバムSound of the Sultans (Remaster)である。
 

 
アルバムタイトルに『Remaster』と書かれてあるが、最初のリリースは私の記憶だと10年近くは過去の遡るだろう。だが正確な最初のリリース年月日がいくら調べても見つからないので、明言は避けておく。
 
Sufiについて、又、Omar Faruk Tekbilek氏についての記載はあらためて、別記事で触れることにしよう。本記事は私が編集しているPL(プレイリスト)についてと、ここ数週間の世界から配信される音楽の傾向と世界情勢との関係性について、内容を集約したいので。

 
もう一人、イタリアはカンツォーネ歌手、ロッサナ・カサーレの新譜Trialogoも良い。この作品はアルバム全体を通して聴く方が、印象が良いかもしれない。
 

 

このアルバムの中でも、特にオススメ作品を挙げるとしたらアルバム・タイトルの『Trialogo』だ。

歌手、ロッサナ・カサーレとの出会いは当時渋谷にあった大型CDショップ「HMV」の試聴コーナーだった。アルバムタイトルはLo Stato Naturale。ジャケ写が何とも色っぽく、仕事の合間にその写真を見てしまった後暫く私は、現実の世界から意識が遠退いてしまったことを今でも忘れない。

 

Lo Stato Naturale – Rossana Casale


度々私が書いている「メインのプレイリスト」の他に、ジャンル別に仕分けしている専用のPL(プレイリスト)が複数あり、特に今年の3月以降は若干コレクションのジャンル分けのスタイルを変えている。

リズム主体で主メロが曖昧なチルアウト系やLofi系の新譜は、メインのPLではなくBGM用のPL『⛪️New Chillout Times 2022′ ②』の方にコレクションする用、仕分けを変更している。

 

 
とは言え音楽のカテゴライズとはとても難しく、又各楽曲が単一のジャンルに仕分け出来ない場合も多々ある為随所に例外は発生するが、全体が一つのまとまったラジオ・ステーションとして成立するよう、毎週のコレクションにはこれでも苦労しているのが現状だ。
勿論リスナーとは何の関係もない話しと言ってしまえば身も蓋も無いが、自身が音楽家・作曲家でありながらこれ程までに他のアーティストの作品を大量に紹介している音楽家も珍しいだろう(笑)。
 

そうこうしながら先週は、私自身の次のアルバムに収録したい新曲のモチーフを幾つも五線紙にメモしており、そろそろ手の負傷と向き合いながら鍵盤練習の復帰を狙って行きたい気持ちも山々だが、兎に角無理は出来ない。

プライベートの大きな変化も続いている為、身体以上にメンタルのコンディションを度々大きく崩している事にも注意を払いながら、少しスローペースで音楽と関わって行くことが今はベターだ。

 

Kim Oki

 
さて、この記事の最後を飾るのは、最近私が注目している韓国のオルタナティブ・ジャズ系のサックス奏者 & 作曲者のKim Okiのアルバム『Greeting』からMoonlightともう一曲、韓国はパンソリ歌手のLee Hee MoonとKim Okiが共演しているPV『어랑브루지』の2作品で締めくくりたい。

 

 

 

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クラシック界の新進気鋭・藤田真央を分析する

このところ何かとクラシック音楽界を賑わせているこの人、藤田真央と言う名前を頻繁に見掛けるので遂にYouTube~Spotifyの音源を聴いてみた。

先ず率直に聴いた感想を述べてみると、一言で言うと音楽表現が幼稚だ‥ と言う一点に尽きる。
まさかこの人がまだ幼気な子供だったらと言う懸念もあり慌てて藤田真央氏のプロフィールを捲ってみたが、どうやら成人式を迎えたばかりの年齢には到達している事が判明。ならば一人の大人の演奏家・表現者としてのジャッジメントを加えても良かろうと言う判断に至り、この記事を書いている。
 

音楽ライター・高坂はる香と言う人がTwitterでやたら藤田真央を褒めちぎっていたので、どうにも気になったことが切っ掛けで色々私まで彼の音源を追い掛ける羽目に陥ってしまったが、正直時間の無駄だったかな‥ と後悔している(笑)。
 

  
やはり人の言葉はアテにならない。‥と言うより、高坂はる香が「音楽ライター」であって「音楽評論家」ではなかった‥ と言う点をうっかり見落としていた私がいけなかったのだ。
こういうところはしっかりと、見落とし・抜かりなく精査しなければならない。

高坂はる香のTwitterのTLで紹介されていたのが、以下のYouTube。どうやら2022年1月19日(水)19:00 東京オペラシティ コンサートホールで開催された藤田真央のピアノリサイタルのダイジェストから、ショパンのバラード 第三番の一部だ。
 

 

良く言えば「個性的」だが、裏を返せば身勝手で作曲者: ショパンを全く無視した浅はかな亜流解釈のショパンと言っても良いだろう。
コメント欄にも「賛否が分かれるだろう‥」と言ったような内容のコメントが散見されるが、こういう遠慮がちなコメントではなくはっきりと「これはショパンでも音楽でも何でもない!」と言えないのは、受け身体質の強い日本人の弱さでもあるだろう。

(藤田真央の楽曲の)解釈が断片的で、一個の音楽として楽曲を俯瞰出来ていないし、しかもそのくせやったりげな表情で人格者を演じているのが余りにも滑稽で、絵的にも見ているのが辛くなる。
これはクラシックの演奏家に多いパターンで、なぜかドヤ顔でやったりげで崇高な人格者を顔芸で演じてしまう人達が多いのは、何を隠そう彼らの知性と自信の無さの顕れなのだと私は思っている。

そもそも作曲者の意図や感性を超えた演奏家(再演者)自身の個性等、全く以て不要である。
この点を勘違いし、「自己の新たな解釈」を無謀に加えたがる再演家が、まだまだクラシック音楽界に蔓延しているのが現状とも言えるが、この傾向は出来れば全てのクラシック音楽の演奏家達が早々に脱却しなければならない大きな課題の一つである。

付け加え、高坂はる香のような安易に勝ち馬に乗りたがるタイプの音楽ライターが、表現の稚拙な若い表現者をやたら持ち上げるこの状況にも大いに問題を感じる。
あくまで業界関係者や世論が今誰に注目しているか‥ と言う流れに上手く乗って、自分自身の感性とは全く関係のない、あくまで売れ線演奏者のCDやコンサートチケットの売り上げに貢献することだけを目的とした音楽評論もどきを見抜けない、一般のリスナーの罪も深い。
 

 
話しを藤田真央に戻そう。

藤田真央のWikipediaに掲載されている略歴を見るかぎり、多数のコンクール受賞歴があり、日本国内のTV番組にも多数出演する等、年齢と職歴が反比例するような状況だ。

だが気を付けなくてはならない点は、あくまで藤田真央は未だ演奏者としては未開の地であり、尚且つそうした学習を要しない程の突出した才能に恵まれているわけではないと言う現実を彼が抱えていることだ。
藤田真央はあくまで平凡な商品であり、それ以上でも以下でもないと言う点を的確に見抜く音楽評論家やマネージャーが付かない限り、あっと言う間に天狗になり、あっと言う間にこの世から消されることにもなりかねない。

余生は一部の熱狂的なファンに囲まれ、それなりに幸せな演奏家生活は全う出来るだろう。勿論それだけで満足であれば言うこと等何も無いが、そんな状況をみすみす放置しているだけでは、日本から音楽史や世界史に名を刻む芸術家は生まれないだろう。
 

普遍の表現、圧倒的なまでの音楽解釈力、美しい音色、そしてそれが音楽であることすら忘れさせるような圧倒的な演奏能力、最低でもこの4つの才能を持たなければ歴史に爪痕は残せないだろう。
尚且つ演奏家の宿命は、「再演を続ける」ことだけに忙殺され、没後50年も経過すれば殆どの演奏家はこの世から消えて行く運命を背負っていることである。

やはり歴史に名を刻む為には、演奏者(表現者)自らが音楽を生み出すことが必須である。身も蓋も無い話しだが、これは真理と言っても過言ではないだろう。

 
このところ私自身が公私共に多忙になり、今日はここで執筆を終わりにしたい。この記事の最後に正直言って「何てことをしてくれたんだ!」と怒りキレそうなまでに、私の大好きなこの作品(『亡き王女のためのパヴァーヌ』)を穏やかに崩壊させてくれた、藤田真央のこの音源を貼っておきたい。
 

 

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MinakoとPonta、そして”Town” (2002)

今日は楽曲ではなく一個のLive映像にフォーカスして、記事を書き進めて行きたい。

昭和生まれの私の青春は、この人‥ 吉田美奈子と共にあったと言っても過言ではない。その吉田美奈子と同世代に大貫妙子やユーミン、坂本龍一等が居て、この年代はミュージシャンラッシュだと言っても良いだろう。

だが私はユーミンでも大貫妙子でも尾崎亜美でもなく、やはり吉田美奈子の声を力強さを常に追い求め続けたが、遂に今日まで彼女のLiveに行くことが出来なかった。
忙しかったとかお金がなかったとか、色んな言い訳を並べ立ててももう時は戻らず、あの黄金時代の吉田美奈子に会うことは叶わなくなってしまった。
 

 

名曲『Town』は1981年11月21日にリリースされた吉田美奈子のアルバム、『MONSTERS IN TOWN』のオープニングを飾ってお目見えした作品だ。その後「ここぞ!」と言う時に吉田美奈子は必ずこの曲をリストアップし、多くのライブハウスをブイブイ賑わせて来た。

問題の「名演奏」は、吉田美奈子のLive DVDにも収録されているが、今回はYouTubeに個人がアップした映像のリンクを貼っておきたい。
  

 
これは2002年12月25日、クリスマスに行われたLive映像だが、もう兎に角凄まじいとしか言いようがない。
丁度この頃の私は前職・シャンソンの伴奏とその合間にアイドルグループのマネージメントのアシスタントに追われている最中で、吉田美奈子のLiveのスケジュールを追い掛ける暇もエネルギーもない状態で忙殺されていた。
 

オープニングのファンキーなギターはまさしくギターの神・土方隆行のソロでスタートし、その後から村上 “ポンタ” 秀一がバスドラでギターをグイグイと追い詰めながら、長いイントロの途中辺りから吉田美奈子が歌舞伎ソウルのように長いカーリーヘアを振り乱し、彼女のトレードマークの肘鉄ダンスで客席とステージの両方を湧かせて行く。
 

 
このLive映像の凄いところは吉田美奈子、そして各メンバーの競演は勿論のこと、全員が一体となって音楽を形成している点にある。
 
日本のPopsにこれが見られるのはきわめて稀なことであり、現在のJ-Popの多くがヴォーカリスト主導・その他のメンバーはエキストラの扱いを受けるのが主流であり、各パートが完全に孤立した状態で音楽として成り立っていないものが大半だ。

動画3:12辺りからいきなり始まるキーボーディスト・倉田信雄のロング・ソロは見事で、所々アドリブの粗さは見えるものの兎に角42kmマラソンを堂々完走して行くように楽曲の最後までアドリブの手を緩めない。そして休みなく、隙のないパッセージを繰り広げて行く。
その後から「オレの出番だぞ!」と言わんばかりに、土方隆行の長いギターソロが後を追う。

それは音のネヴァー・エンディング・ストーリーを生で視るような規模で、一糸乱れぬ正確かつクールで獰猛さをにじませたファンクギターで土方式 “Town” がステージを疾走して行く。

そして絡み付くような倉田信雄のアドリブと野太い村上 “ポンタ” 秀一のドラミングが、その野太さを控え目に控え目に抑えつつも楽曲の軸をしっかりと支えて行く。
 

 

残念ながら村上 “ポンタ” 秀一は、2021年3月9日に脳出血で逝去した。なのでもうこの偉大なメンバーで音の饗宴を聴くことは一生出来ない。

他のアーティストとの共演では特に感じることがなかったのだが、特に吉田美奈子と村上 “ポンタ” 秀一とのステージ上の掛け合いは見事である。
 
見た目のオーラのバランスは勿論、互いに見えない何かで深く繋がっているのを私はずっと感じていた。吉田美奈子にとって彼以外のドラマーは居ないだろう‥ と言う私の予感通り、最近の彼女はまるで生気が抜けたイワシのように声を振り絞って歌う姿が悲しげで、色々な意味でこのパワフルな音楽がこの先永遠に現れないことは残念としか言いようがない。
 

 

だが、全ての生は栄枯盛衰。どんなに華やいで見えても、いつかは乾いて枯れてこの世を去って行く。きっと私にもいつかその日は訪れる。
 
最近の吉田美奈子はジャズ系のピアノ・デュオとのコラボ・セッションをメインとし、日本の北から南を移動しながら細々と音楽活動を続けているようだ。勿論以前のようなパワフルな声は立ち消えてしまい、いわゆる老後の生涯教育のような歌を歌って生きているように見える。

動画Town (Live)が2002年の収録、と言うことは、吉田美奈子が49歳の時のライブ映像と言うことになる。女性特有の色々な物事が発生しつつも、桜で言うところの満開を過ぎて散り始めた頃に相当するだろう。

油が充満した後に揮発し始めた時のように、女性で言い替えると最もキツい香りを放ちまくる世代がこの、40代後半から50代後半と言える。私が今丁度その時期に差し掛かっているが、私の場合はどうなるのだろうか‥ と言う思いを抱きながらこの動画Town (Live)を、今日は何度も観て良い時間をじっくりと楽しんだ。
 

 

さて、この記事の最後に、多分上の動画と同じ頃に収録されたと思われる吉田美奈子の、この動画を貼ってお別れしよう。
この猛々しく、かつ神々しい吉田美奈子とその仲間たちの素晴らしいセッションを、とくとご覧あれ!
 

 

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音楽から読み解く世界情勢 [2022.04.04]

東京の桜は前半晴天に恵まれ、後半は雨に祟られながらも何とか小枝にしがみつくように花びらをまとわりつかせ、耐えているように見える。
一方世界は少しずつ混迷の雲行きを深め、それはここのところ配信される多くの音楽の傾向にも現れているように見える。

特に2022年3月25日から同年4月1日の両金曜日の、各サブスクリプションの新譜チェックは何とも陰鬱な気持ちで進んで行った。
特徴としては以下の状況が挙げられる。

ダブステップの楽曲、及びLo-Fi系の作品がとても多かった。
②単曲配信が予想以上に増えていた。(アルバムのような曲数の多い音楽の配信が少なかった。)
③一曲のタイムの短い作品が増えていた。

 

上に挙げた①のダブステップの楽曲が増える時は、世界が混迷の谷底に突き進んでいた前回のシリア内線の頃を思い出させる。無謀な理由で多くの人々が命を落とし、シリアが壊滅状態に追い込まれたのが前回の、ダブステップが世界的に流行した時期であり、現在もそれと似た状況がウクライナで見られるのは皮肉としか言いようがない。

人の気持ちがどこか、言いようのない臨戦態勢に陥っている証拠のようで、この状況をこんなに立て続けに見るとは想像していなかっただけに心が不安で大きく乱れて行く。
  

日本経済新聞より、現在のウクライナの光景の一部

 
穏やかで尚且つ心が晴れやかになるような音楽が聴きたいのに、特にこの二週間の中で更新された音楽の大半が重く、暗く、どんよりとした空気に満ちていた。
それでも何故かそのような重苦しい音楽が聴きたくなるのは、恐らく人間の本能のようなものが作用しているからに違いないとさえ思えて来る。

 

 
コロナ禍、ウィルス・パンデミックが塗り替えて行った世界をその上からさらに異常気象が襲い掛かり、そこに戦争が折り重なって行く、この時代に受け入れられる音楽を真剣に考えている人達はほんの一握りであり、多くの音楽家たちは「目先の金銭を得ながら生き延びる為の音楽」や「自己実現の為の音楽」を生み出すことで手一杯に見える。
 
それを作者自らの、或いは楽曲のPRを任された広告担当者等が美しい言葉で言い替えながら、各サブスクリプションから配信されるどこかうつろなメロディーは、瞬時的に世界の空を流れては行くが、殆どの音楽が人々の心に着地することなく上空でひと夏の花を咲かせ、枯れて行く運命にあるように、私には見えて仕方がない。
 

上に少しだけ触れた「ダブステップ(Dub Step)」の他にもう一つ、「ダブ(dub)」と言うジャンルがあり、此方は比較的コンスタントに様々なアーティスト(DJ系がメイン)が作品を配信しているようだ。

ダブ(dub)は、レゲエから派生した音楽制作手法、及び音楽ジャンルである。ダブワイズ(dubwise)とも呼ぶ。ダブ制作に携わる音楽エンジニアのことを特にダブ・エンジニアという。語源はダビング(dubbing)であるとされている。
Wikipediaより引用

 

だが最近流行っているダブ(Dub)は上記のダブとも異なっており、ワンパターンのリズム、ほぼワンコード & ワンベースの上に黒玉で言うところの「ドミソ」のような3音で形成されるブロックコードが団子状態で延々と継続しながら、レゲエでも何でもない単調かつエレクトロニックなリズム帯で構成された音楽の事である。
 

 
 

 
そんな薄暗い地上の真ん中に一組だけ、何とも言えず鮮やかな色彩を放つアルバムを見つけた。
La Isla Centenoと言う、多分コロンビアないしはメキシコ発祥のユニットがリリースしたアルバムCanciones Para El Volcánだ。
 
このご時世の悪い現象が幻覚なのではないかと思わされるような、この甘くて太陽の匂いのする音楽の花束をふと胸の中に抱きしめたらもう、現実には戻れなくなりそうで怖くなるほどの多幸感で満たされて行く。
 

 
 
根が南国の血を引いているせいなのか、こういう南の島に咲く花のような音楽を聴くと、どうしても血が騒ぐ。もう黙っていられないのだ。
同系統のユニットでもう一組、私が大好きなユニット「Monsieur Periné」からも丁度3週間前に、『Nada』がリリースされている。

 

 

このPVの内容がとても怪しげで美しいので、楽曲最優先の私がどうしても画像に目を惹かれながらこのPVを何度も何度も凝視し続けている。

この地域に見られる独特の宗教観と性認識の在り方が私は好きで、この種のPVを見つけるととことん堪能し尽くすまで貪ってしまうのはやはり、芸術家の性(さが)なのかもしれないが。
 

 
世界はこれからどこに向かって突き進んで行くのだろうか‥。
ここでタイミング良く「ウクライナのポップス」をご紹介出来れば良かったのだが、色々聴いてみたものの私があえて紹介する程の作品が一曲も見当たらなかったのはきわめて残念だ。
勿論音楽は好みに左右されるところが大きいとは言え、「これぞ!」と言う作品が結局一曲も無かった。

と言うわけで、この記事の最後は若干変わり種ではあるが、アラビックモード満載なこの一曲の動画を貼って記事を〆たい。
Jovanotti と Enzo Avitabile、両者共にイタリア人なのに醸し出て来る音楽はアラビックモード満載‥ と言う不思議な作品『Corpo a corpo』を、最後にお一つどうぞ。
 
※先週更新したばかりのDidier Merah監修のプレイリストMiracle of Spring 2022. ③の103曲目にも収録しています。
  


※歌詞は コチラ から読むことが出来ます。

 

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混乱の時代と音楽家たち

毎週金曜日は各音楽系サブスクリプション上での「新譜チェックの日」と決まっていますが、特にこの2週間の世界各国の新譜には翳りが見えるように思えて仕方がありません。

全体的に見てフルアルバム形式の配信が少なくなっており、EPないしはシングル曲で配信の頻度を上げている音楽家が目立っています。
長期的な制作時間を要するアルバムで配信の頻度を下げるよりも、毎月1曲ないしは2曲、人によっては毎週1曲ずつ楽曲を更新しているケースも頻繁に見られ、それだけ多くのミュージシャンや表現者たちが将来的な不安を感じているのではないかと言う、これはひとえに表現者等のメンタル面の不穏が強く露呈した形とも言えるかもしれません。

確かに私自身、手の負傷の長期化も原因しているとは言え、コロナ禍から戦争、異常気象等のニュースと常に接しているがゆえに、流石に長期的なスパンで音楽を創る環境にはないと言うことを痛感しています。
かと言って日和見的に単曲を更新して行こう等とは思っていないとしても、そう言う活動形態に陥ってしまう表現者等の心情は重々理解することが出来ます。
 

ここで重要なことは、各表現者が何を生み出そうとしているのか、という点だと言えるでしょう。
作品を生み出そうとしているのか、それとも商品を量産してお金に替えることを重視しているのか‥等。

これはあくまで主観ですが、特にヨーロッパを中心とする一部の音楽家の中に「ロング・Covid」の傾向を感じます。常に倦怠感に見舞われ、踏ん張りが効かなくなっているような、そんな印象を楽曲の中からも強く感じています。
 

特に新型コロナワクチンの接種に於いて、私は「反対」あるいは否定的な意見を持っています。
そもそも現在は未だ治験中のワクチンを無責任に接種させる世の抑圧の傾向に問題がありますが、その流れに逆らうことの出来ない社会的弱者が音楽家や芸能関係者等に多いことも又要因の一つなのでしょう。

結局世の流れの負を請け負うのは、きまってこういう社会的弱者たちなのです。
 

 
主にSpotifyを利用しながら毎週末、私はメインのプレイリスト+αの複数のプレイリストを更新しています。
メインのプレイリストではジャンル不問で多くのその季節の新譜を中心に、ざっくりとジャンル紹介も兼ねてスクラップしています。その他はジャンル別に、そのプレイリストのテーマに応じてさらに細かくスクラップしています。
 

今週は各新譜の単曲が全部で170曲余あり、その中でアルバム配信されているものを全てチェックして行くので、合計2,000曲近くを一日の半分を使って聴き込んで行ったことになります。
特に現在は、Spotifyを初めApple MusicとAmazon Musicの3つのサブスクリプションを同時並行的に動かしている為、今日は7時間近くの時間を費やして新譜のチェックをしたことになります。
 

 

今週の更新は、[M-94 “Nada” – Monsieur Periné] からになります。
普段は比較的陽気な楽曲を配信している Monsieur Periné が、今回は喪失感を強く表現したネガティブな新曲を出していますが、これが彼らにとっては珍しく大曲となっている辺りに時代の陰を感じずにはいられません。
必聴です。
 

 

※余談ですが、ここのところnoteから配信している音楽評論記事が立て続けに、note公式のマガジンにスクラップされています。

https://note.com/note_entertain/m/m483015f01945

 
これまでは比較的レアな楽曲を紹介する為に綴って来た音楽評論ですが、やはり私も人間ですし食べて行かなければなりません。その為には多くの読者やファンを、私の記事に集めて行く必要も感じています。
 
コンテンツの質の向上も目指しており、ここからは題材素材を吟味しながら多くの読者にヒットし得る執筆についても考えながら、各記事を更新して行きたいと思っております。
その為、記事と記事の配信の間が若干空くことにもなりますが、その分内容をギュっと凝縮しながら執筆して行きたいと心しているところです。
 
何卒記事をご拝読の折には是非、note記事からサポート等(投げ銭)で応援頂ければありがたいです。
よろしくお願い致します。

https://note.com/didiermerah
 

 

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毒と表現 – 槇原敬之 “Hungry Spider”

「毒にも薬にもならない」と言う言葉があるが、その逆に「毒が洗練されると薬になる」と説いたのは我が夫 天野玄斎氏である。

あることを機にこの数日間、マッキーこと槇原敬之のHungry Spiderを聴き込んでいる。何故こんなにもこの旧作に惹かれるのか‥等と言うことは棚に上げ、兎に角聴き込んで行くとあることに気付く。
 

 

この作品がリリースされたのは1999年、J-Pop界隈が少し右肩下がりに流れを変え始めた頃に遡る。当時私は東京とL.A.とを往復しながらメンタル(PTSD)の治療に集中していた頃で、私が当時先に「Hungry Spider」の英語バージョンを聴いたように記憶している。
 

 

2022年、春。世界人類が前代未聞の強毒ウィルスと戦い続けている今だから、尚更感じることも多々ある。
マッキーのこの作品からはきらきらと光り輝く希望ともう一つ、強烈なまでの毒性を感じてならない。この「毒」こそがマッキーの最大の武器・魅力であり、毒のない反省人種の槇原敬之には何の魅力も無いと言っても過言ではないだろう。

だが彼の容姿がマッキーが強く胸に秘めている毒性の障害壁となり、口から多くの毒液を吐く時に初めて放たれる玉虫色のオーラは年々軽減され、彼自身がまるで血液を体からごっそり抜かれたように時間をかけながら生気を失って行ったように見える。
 

多くの人々がマッキーに求めたものは一体何だったのだろうか?
恐らく芸歴が増えて行くと多くの表現者たちはそれにともなう「人柄」や「人格」を求められるようになり、本来不完全な美を武器にする表現者たちが周囲からの軋轢の中で窒息しながら、自らの武器を置いてしまう。

周囲はその「武器を置いた表現者」を完成品だと歪んだ認識をし、表現者たちは次第に「みんなの歌」のような何の変哲もない歌を無難に歌い(作り)始めるが、内面は悶々としている。それを周囲は知らないし、感じ取ろうとする人達も殆ど居なくなる。
 

「宣候」-アートワーク

 

そんな折、2021年10月25日、彼自身の物々しい空気が解かれる前にアルバム宣候がリリースされた。
未だ夜が明けない朝に空に飛び立って行った鳥の気配を纏いながらも、一見それまでとは何ら変わりないルーティーンのようにこのアルバムが世界にお目見えしたが、このアルバムでマッキーは先ずは謝罪のような音楽からスタートして行く。
 

 

世が彼に要求するように反省に反省を重ねながら、それでももうこれ以上は同じ場所に留まることが出来ない渇いた獣のようにマッキーは世界に新たな一歩を繰り出して行くが、その背中はどこか痛々しく悲しげだ。
 
このアルバムの中で個人的に特に気になった曲は、M-10「好きなものに変えるだけ、そしてM-11「HOMEの2曲だ。
特に「好きなものに変えるだけ」には1999年、「Hungry Spider」を自由自在に歌っていた頃のマッキー本来の毒性の欠片がほんの少しだけ見え隠れする。その「ほんの少しの毒性」がどこか痛々しく情けなくて、こうして人の表現世界は常識と言う凶器によって打ち砕かれて行くのだと言うサンプルをまざまざと見せつけられているようだ。
 
M-11「HOME」では、マッキーが元々持っていると思われる「虹色の旋律」が復活している。みずみずしくきらびやかでメロウなメロディーラインとコードプログレッションが見事に合体し、どこか初期の荒井由実に似た時代の煌めきが復活する。
 

「好きなものに変えるだけ」歌詞より抜粋

 

この歌詞を読んだ時、同じ時代を別の場所で生きていた私が知っている、キラっと光る毒性を前歯と瞳の奥に潜ませながらTVに毎日のように出演していた槇原敬之の片鱗が仄見えて、年甲斐もなくうるっと来てしまった。
 

そう言えばこの曲を調べている最中に、2017年12月13日に開催された「FNS歌謡祭」でマッキーがこの作品を、miwa・山本彩・鷲尾伶菜の3人と共演している動画を見つけることが出来た。
期待しながら動画の再生ボタンを押したが、「Hungry Spider」の持つ毒々しさは既に失われ、いいオジサン「槇原敬之」が自身の中に微かに蠢く毒性の欠片を振り絞らんと戦っているように見えて泣けて来る。
 

 

共演している3人の女性歌手の中で、マッキーと対等の毒性を持っているのは恐らく山本彩だけだ。だが山本彩には毒性こそマッキーと対等でも歌唱力・表現力が追い付かず、尚更いいオジサン未満のマッキーが舞台中央にポツンと孤立している感は拭えない。
 
槇原敬之が描こうとした「毒」を彼自身が存分に発揮する機会をとことん奪われた結果、彼は恐らくそれを別の形で発散する以外の道を絶たれたのかもしれない。
それに似た表現者を私は他にもごまんと見て来たが、ここまで露骨に毒性と言う武器を削がれた表現者としては、マッキーはかなりレアなケースかもしれない。
 

 

さて、この記事の最後に、多分生演奏のアレンジをミックスしたと思われる「Hungry Spider」のPVを見つけた(公式ではない)ので、それを最後に貼っておきたい。
 
毒蜘蛛マッキーと真人間風マッキーが交互に映し出されるが、結局のところどちらが彼自身なのか‥。各々様々思いを巡らせながら新たな発見に至れば幸いである。