台湾Popの新星 – 韋禮安 WeiBird

このところ、台湾のポップスがめちゃめちゃ熱い。兎に角出るもの出る曲の全てがハイクオリティーであり、何よりソングライターがぞろぞろひしめいている辺りは日本の同じ業界では既に追い付けないくらい、粒が揃っている。
 

中でも私のイチオシのシンガーソングライターがこの人、韋禮安(William Wei Li An)
1987年3月5日、台湾・台中生まれの彼の生み出す上品でソフトリーなメロディー、歌詞、そしてサウンドはさながら極上のラム酒でも飲む時のようにマイルドで優しい。
 

新作Don’t Show Itは全編英語で歌唱され、黙って聴いていたら中国系のシンガーとはおそらく誰も気づかないだろう。
(※古き良き、ブリティッシュ・ロックバンド プリファブ・スプラウトに通ずるそこはかとなくノスタルジックな曲調は、リスナーに時代錯誤を引き起こさせる。)
 

 

カメラの焦点が熱帯魚が泳ぐ水槽に当てられたまま、その向こう側に一人の女性があてどもなくやり過ごしている独特の映像は、ここ最近の韋禮安の配信する幾つかの動画に共通している、ある種の「人に対する美しい拒絶」を匂わせる。
 

ひょっとすると韋禮安と言う人は心のどこかに、永遠に消すことの出来ない痛みを隠し持っているのかもしれない。
この評論を書いている私自身がそうであるように、人は誰にも視えない場所にひっそりと傷を隠し持つ生き物だ。その人が笑顔であればある程その痛みは繊細で脆くて、絶対に誰の手も触れさせまいと必死でそれを隠そうとするものかもしれない。
 

 

韋禮安のニューアルバムI’M MORE SOBER WHEN I’M DRUNKには9曲の珠玉の作品が収録されているが、中でも私が好きなのはこの作品Leave This Bedだ。
 
この作品のPVに、人物は一人も現れない。焦点の合わない一台の車に少しずつカメラがズームしたり離れたりしながら、楽曲の要所要所に車だけがその輪郭を露わにして行く。
その車に接近しているのは人なのか、人の心なのか或いは魂か、それとも地縛霊のような何物なのか‥、PVの最後まで明かされない謎に悶々とさせられるからついに何度も視てしまう不思議なPVに、私は完全に心を鷲づかみにされたようだ。
 
ロックオン!
 

 

彼の「掴みどころのない世界観」に魅入られながら、過去アルバムSounds of My Lifeも聴いてみるが、此方も秀作である。
印象としてはどこか、遠い過去に捨てられたままの廃屋に迷い込んだままその中で一つの生を振り返るような、本当に不思議なサウンドが広がって行く。
 

中でもM-11這樣好嗎 How About This』が個人的にはドストライクで、何度も何度もこの作品を聴いている。
この作品にはPVも存在するが、私個人的には映像を通さずに音楽だけを聴いていたいと思った。あえて映像化しない方が、作品の持つ曖昧なところに想像力がかきたてられ、解釈にむしろ深みを与えてくれるような気がしたからだ。
 

 
 
どの作品にも通じているがこの人 韋禮安の歌い方がどこか、マイケル・ジャクソンを想起させる。
特にロングトーンの中盤から後半の縮れ感のある細かいビブラートがランダムなのに美しく、彼の心の彼方にそっと息を潜めている「傷跡」を包み込む水の紋様のようで、胸が張り裂けそうになる‥。
 

さてこの記事の最後に、韋禮安が2021年にリリースしたニューアルバムI’M MORE SOBER WHEN I’M DRUNKのアルバムリンクを貼っておきたい。
そこがイングランドなのかチャイナタウンなのか‥、或いはそれ以外なのかが分からない迷宮の世界がアルバム全体に広がって行く。

是非、音のマトリックスとしてご堪能頂きたい🎧

 

声のないシャンソン – “Que reste-t-il de nos amours” (残されし恋には)

悲しい時に聴くシャンソンは、人の声よりもインストゥルメンタルが良いかもしれない。
 
しんしんと風が凍り付く冷たい冬の夜、珍しく(ずっと大っ嫌いだった)シャンソン – “Que reste-t-il de nos amours” (邦題: 「残されし恋には」) を聴いている。
勿論下のLinkはヴォーカルのないバージョンで、ここのところ人の肉声を回避しながら音楽に接している私にはうってつけの内容だ。

 

 

この作品は シャルル・トレネ が生み出した名曲中の名曲であるが、私はこの作品が好きではなかった。

おそらくこの作品との出会いが良くなかったのだ‥。未だ私が和製シャンソン歌手の伴奏に従事していた頃に、訳詞家 古賀力氏がこの作品を「十八番」として毎日歌っていたが、それが余りに物真似臭くて段々と嫌気がさして来た。
 

 

物真似ソングの伴奏者には、否が応でも同様に「物真似」を要求されることになる。古賀力氏が歌う “Que reste-t-il de nos amours” に於いても同様で、最初は良い曲だ‥ と思いながらも次第に物真似臭さが鼻に付いて来て、最終的には大っ嫌いな一曲となって行った。
 

話しを「声のないシャンソン」に戻すと、最初のリンク “Que reste-t-il de nos amours” (Paolo Fresu | Richard Galliano | Jan Lundgren) 版は、Live録音とは言え「作品性」に特化した録音版であり、表現の全てが細やかでナイーヴで洗練されており、その上シャンソンにありがちな「崩れ」や「泥酔感」が一切見られない。
 

フランスはネイティブの Richard Galliano(リシャール・ガリアーノ)が参加しているにも関わらず、ネイティブのアコルディオン奏者を差し置いてイタリア人トランペッターの Paolo Fresu が楽曲のTopの座に君臨しているあたりが何とも皮肉めいていて、クールでカッコいい🎺


なにせ楽曲を底からしっかり支えているスウェーデンのピアニスト Jan Lundgren (ヤン・ラングレン)氏のハーモニー構成が何とも上品で美しく、ヤン氏のピアノに触れる度にいかに「音楽に関わる人に於けるアカデミックな教育の下地」が大切か‥ について、深く考えさせられる。
 

 

さてこの名曲 “Que reste-t-il de nos amours” (邦題: 「残されし恋には」) をざっくり検索していたところ、何と同曲を歌手の岩崎良美さんが歌っている動画を見つけた。

 

 

控え目なヴォーカルは相変わらず上品だ。
ギタリストが所々コード・プログレッションを間違えている為、後半岩崎良美が若干俯き加減にそのミステイクを上手く誤魔化しながら歌い切っている様子が(専門家の私から見れば)手に取るように分かるが、これも「生演奏好き」から言うところの「ライブの醍醐味」と言うことになるのだろう。
 
全編をフランス語でしっかりと歌い切っている辺りは高感度大であるが、やはり他国の表現者のライブと比較するとツメの甘さが拭い切れない。

 
音楽を演奏する上で重要なことは、「百年後に残せる音楽を奏でる精神」ではないだろうか。少なくとも私の場合、かつて和製シャンソン & カンツォーネ等の伴奏者に従事していた時には、上記の心得を一瞬たりとも忘れたことがなかった。
仮にその日その夜のヴォーカリストが何かの拍子に表現を投げ出してしまったとしても、私はそれを一切度外視しながらその日の仕事に集中したものだった。

だが今こうして振り返ると、当時の夜な夜なの演奏がいかに実力不足で内容が不十分だったのかと、多くの心残りが蘇る。
 

 

だが、世界には上の上、その又上が居るものだ。
Paolo Fresu | Richard Galliano | Jan Lundgren‥この三人が繰り広げて行くアルバム Mare Nostrum もそんな「上のその又上」の人々が奏でる至極の作品だ。
 

悲しい人もそうではない人たちも、今この瞬間共にこのアルバムで心を一つに出来れば‥ と願いながら、この記事の最後にアルバム Mare Nostrumを置いて記事を終わりにしたい。
 

「マツケンサンバⅡ」はサンバか否か‥

「マツケンサンバⅡ」が厳密には「サンバ」ではなくマンボかルンバ‥ と言う音楽評論を目にしました。

マツケンサンバⅡ、正確には「マツケンマンボ」か「マツケンルンバ」?音楽学者が解説

 
音楽には色々な解釈がありますが、上記の説に於いては半分が正解であり、半分は不正解と言えます。

サンバ論或いはサンバの解釈をする際に、度々持ち出されるのが「リオのカーニバル」です。リオのカーニバルが「サンバ論」のベースとなるサンバ解釈は方々で展開されていますが、「リオのカーニバルこそがサンバである」‥ と言う視点も、あくまで規模の問題です。
 

基本的にリオのカーニバルの音楽(主にリズム体)の特徴として、大所帯の打楽器「バトゥカーダ」が主として16ビートの3、7、11、そして15の箇所にアクセントを感じるリズム体をキープしながら演奏されるのが特徴です。
バトゥカーダ」は本来ヴォーカルのない音楽演奏形態を指し、主にスルド、アゴゴ、カウベル、カイシャ、アビート(ホイッスル)等と言った多くの楽器で編成が組まれ、リオのカーニバルではダンサーの後ろに大きな台車が組まれチームを鼓舞しながら会場を練り歩きます。

 

 
確かに「マツケンサンバⅡ」の原曲にはバトゥカーダ が入っていません。
 

 

元記事【マツケンサンバⅡ、正確には「マツケンマンボ」か「マツケンルンバ」?音楽学者が解説】⇦ では《マツケンサンバⅡはマンボかルンバ、ないしはキューバの音楽「モントゥーノ」かもしれない》‥ と書かれていますが、どれも正解ではありません。

ざっくりとこの音楽はシンプルに、「ラテン音楽」である‥ と言う認識の方が正しいと言えます。
 

少し視点を変えて、さらに説明を加えましょう。
「マツケンサンバⅡ」には複数のトラックが存在し、それぞれ個性的なアレンジが施されています。
その中で同曲が見事にサンバ・チルアウトに編曲されているのが、以下のトラックです。⇩

 

 
上記のトラックでは若干ですがリズムセクションが増幅されており、リオのカーニバルのバトゥカーダ 程ではないですが、ブラジルのサンバにかなり近づいている箇所が数カ所あります。
 
リズムの刻みが16ビートから、さらにかなり細かく刻む別の打楽器が背後にミックスされていて、若干付点がかった「Swing(オンダ)」を入れて打楽器がミックスされている為、リズムに空気感と躍動感が感じられます。

time 2:36 辺りから段々とSwing(オンダ)がきつくなっており、そこに「オーレ!」がリピートされている為、かなり強いサンバ感を感じることが出来ます。
よ~く聴くと、バスドラが増幅されてミックスされているので、低音部に重厚感も感じられますね。

これは「マツケンサンバⅡ」のシングルバージョンには無いアレンジになっているので、エレクトリック・サンバとして聴いたり踊ったりすることが可能です。
まぁどんなに背後に強力なリズムが来ても、上様にとっては最早どうでもいいことのようにも見えます。楽しけりゃーいいんですから、上様は!(笑)

  

 
 
音楽、特に『舞曲』やダンス・ミュージック、リズム・ミュージックを解釈する時に必要なことは、知識よりも感性です。
ドラムの何々が何ビートを刻んでいるから「これはサンバである」と言う数学のドリルの回答を導き出すような杓子定規な解釈は、私から見ればとても短絡的に見えます。

特に民族音楽はリズムだけではなく、そこに発祥地の「モード」や言語の特徴等が折り重なって一個の世界観を形成して行きます。なので、正しいか否か‥ を超えた音楽分析力が求められます。
 

元記事マツケンサンバⅡ、正確には「マツケンマンボ」か「マツケンルンバ」?音楽学者が解説⇦ ではどこか、マツケンブームに乗って何かしらアンチテーゼのような一家言を叩き出すことで筆者が音楽評論界に二次的な旋風を巻き起こそうとしているようにも見えます。
ですがどこか筆者の音楽解釈のツメの甘さが目立ち、多くの音楽を複合的に解釈しようとすることを拒絶しているような意図が見え隠れしている点に、個人的には問題を感じてなりません。

音楽解釈の自由性を許さない、或いは音楽を感じるマインドに余計なバイアスを掛けて行くような音楽評論は、リスナーの自由性を大きく阻害することになりますので、そのような文献にうっかり遭遇した時は出来れば余り真剣に読まずに通過することをオススメします(笑)。

 
さて、この記事で折角「バトゥカーダ」に触れたので、今私が個人的にイチオシのAAINJAAのバトゥカーダの動画を最後に置いて、記事を終わりにします。

 

作業と音楽と、グレイ星人と – “Ryuichi Sakamoto + Alva Noto — The Glass House”

こんなにも心を落ち着かせてくれる音楽を夢中で求めるのは、今、私が人生57年の中で最も大きな転機を迎えているからだと思う。
 
私を除く実家の最後の家族が2021年12月初旬に突然この世を去り、彼等の歴史の最後を私が見取ることになった。特に母の壮絶な最期を目の当たりにし、この家の一員として私が生まれた理由や家族や親戚が徹底的に私一人を家族・親戚の輪から排除しに掛かった本当の理由は何なのか‥ 等、これからの第三の人生をリスタートする上で私は、今起きていることの全てを一度まとめたいと思っている。
 
‥こんな時に聞きたくなるもの、そして私の音楽評論家一年目、2021年の音楽評論記事の最後を飾るに相応しい人、相応しい音楽はやはりこの作品だと感じた。
 

 

過去の私を知る人はなぜ、私が彼・坂本龍一氏の作品を私自身の人生の節目の音楽評論の素材としてセレクトしたのか、それをきっと薄々感じ取ってくれるだろう。
 

ここのところアンビエント・ミュージックの大半が模造品の様相を呈しており、これと言って目立つ作品に出会えてはいなかった。
だからこの作品 “Ryuichi Sakamoto + Alva Noto — The Glass House” が唯一無二の作品かと問われると、即座に「Yes!」とは言い難い側面もあるが、2020年から2021年の、この混沌とした時代に静かに、そして不穏なまでに冷静に寄り添ってくれる不思議なアンビエント・ミュージックだ。
 

 

冒頭近くの「A」の音から物語は始まり、途中から “Glass House” に静かな雨が降り始める。これが必然なのか偶然なのかは最早神のみぞ知る事実だが、兎に角全てが厳かに美しく、尚且つ無機的な一面を孕んで進んで行く。
 

冒頭の「A」を起点とした各々の音の断片は次第にコード「Dm」として形になり、それが楽曲全体をワンコードとして包囲し始める。
坂本、Alva Noto等の音の断片に雨音が混ざり合い、やがて坂本が “Glass House” 自体をマレットで鳴らし始める頃には時間の感覚が麻痺して来る。
 

 

地上で奏でられている音楽にも関わらず、空間自体は既に「酸素を持つ宇宙空間」と化している。極力露骨な電子音を叩き出さないよう用心に用心を重ねながら、坂本が “Glass House” にマレットを当てて行くと画面上ではそれが若干「作業」に見えて来る点が、少々残念ではあるが‥。
やはり音楽は純粋に、「音楽」として感じ取りたい。
 

 

たとえ瞬時的にでもそこにパソコン画面やApple(🍎)のマークが視えてしまうと若干集中力が疎外され、我に返った瞬間に彼等の「作業」を感じ取ることになり、正直しらけてしまうのだ(笑)。
 

だがそれはそれとして、この作品 “Ryuichi Sakamoto + Alva Noto — The Glass House” がアンビエント界の中でも秀逸な音楽であることには変わらない。
勿論とても不定形であり機材や環境の偶発性に依存しなければならない点は、音楽として見ればとても不安定であり普遍性の域には到達していないだろう。だが、アンビエント・ミュージックのそれが良さであり欠点でもあると言う点を踏まえながら、この作品に関してはその不安定要素を私はポジティブに解釈し、受け止めたいと思った。
 

心が不安定な時には、むしろ不安定要素(不確定要素)の高い音楽の方が精神を気持ち好く揺さぶってくれるし、不安定な精神状態にむしろ安心材料を与えてくれるから不思議だ。
 

 
ところで‥。
 
坂本が何度か Glass House の窓を連打した後に一瞬写り込んだこの「グレイ星人」と思われる映像は、意図的なものだろうか。
芸術家でありながらもコンタクティーでもある私としては、この画像がとても気になって仕方がないのだが‥。⇩
 

グレイ星人らしきもの‥

 
特にYouTubeの記録を観ていると、坂本が “Glass House” 自体を連打する音声が「異星から忍び寄る足音」のようにも聴こえて来る。
もしもそれを意図したものだとすれば、この作品自体が別の意味を持つ。

文字に書けば「陰謀論」として片付けられ、良くない意味で差別されるであろう何かしらのメッセージ性をこの音楽が存分に含んでいるとしたら、これはまさに「未知との遭遇」の音楽版と言えるだろう。
坂本龍一Alva Noto がタッグを組んで繰り広げられる音楽だ。そのぐらいのことは簡単にやってのけるだろう。
 

 

アンビエント・ミュージックの制作現場を視える化することが、必ずしも良いことばかりとは言い切れない。機材や多くのコンセントやコード、場合によっては波形や楽譜、手元の様子等が視えてしまうことで夢が失われる。
それを「クールでカッコいい」と思う人も多々居るのは知っているが、私はこういう「作業現場」をあまり見たいとは思わない。
出来れば音楽は作業現場を可視化せずに、聴力や聴覚だけで感じ取りたい派である。
 

さて、この記事の最後に一応Spotify版の Ryuichi Sakamoto + Alva Noto — [Glass] を貼っておく。
視ないで聴くか、視て聴くか‥、その両方から視えて来る各々のアンビエント・ミュージックがきっとあるだろう。
 

情熱のソングライター “Alejandro Sanz”

日本ではおそらく余り馴染がないだろう。だが、私はアジアの片隅からずっと注目し続けているのがこの人、スペインのシンガー・ソングライターのAlejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)だ。
 

先ずスペインのポップスを語る時に必要になるのが、フラメンコと言うジャンルだ。
日本人にとってフラメンコと言うと「オレーイっ」等と掛け声を掛けながら歌ったり踊ったりする、むしろ商業フラメンコの方だ。だがフラメンコと言っても奥が深い。
近年では音楽のジャンルとしては珍しいケースで、2010年にはユネスコによってスペインの無形文化遺産に登録されている。
 

『フラメンコの歴史と発展にはヒターノ(スペインにおけるロマ、いわゆるジプシー)が重要な役割を果たしている。』とWikipediaにも記載されているように、主にこのジャンルはロマによって演奏されたり歌唱されることが多く、そのロードムーヴィーとして有名な作品をあえて挙げるとすれば、映画監督 トニー・ガトリフ が監督を務めたラッチョ・ドロームを私はここに挙げたい。
 

 
さて本当ならばここでフラメンコについての記述をもっと突き進めるよう、我が社「Didier Merah Japan」の社長から通達があったのだが、フラメンコのうんちくを書き始めるとフラメンコの紹介なのかそれともこの記事の主役である Alejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)の紹介なのかが本当に分からなくなるので、やはり悩んだ末ここは主役を Alejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)に譲り渡し、内容をシンプル化したいと思う。
 

一つだけ書き添えるとしたら、民族音楽的なフラメンコの源流は楽器「ギター」に始まる。大元はクラシックギターに民族的なモードが合わさったもの、それがいわゆる「フラメンコ」の原点であり、今多くの人たちがそのジャンルの名前を聴いて連想する「ダンス主体」「リズム主体」のフラメンコは観光産業を発展させる過程で商業的に発展を遂げた形の、一種の商業フラメンコであり、そもそものこのジャンルの源流に在ったテイストとは異なるジャンルと言っても良いだろう。
 

さらに元を辿れば、フラメンコの発祥は「アラブ地域」とする説がある。


『複数の移民同士が旅の途中で出会い触れ合い‥寝食を共にし、モード色の強いアラビック音楽とクラシックギターの奏でる和声(コード進行)が見事なまでに合体した音楽がフラメンコの発祥である‥』、とは誰も言っていない(笑)。
だがなぜか私はその源流発祥の光景をまるで昨日見て来たことのように知っている。

まぁ余りシュールなことを書き過ぎると古いタイプの音楽学者に呪われそうなので、この話しの文字起こしはここで一旦止めておく。
 

 
さて、肝心要のこの記事の主役 Alejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)が2021年冬に、アルバムSanzを世に放った。
彼の場合はもともとスペインの民族的なモードを起点としたメロディーメーカなので、正確には彼の音楽を王道「フラメンコ」と呼ぶことは出来ない。だがしいて言うならば「ネオ・フラメンコ」と言った方がそれに近いだろう。

1968年12月18日生まれの Alejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)は、今年で52歳になる。まさに油の乗り切った世代の、王道の音楽を生み出す音楽家である。

 

 
アルバムSanzでは「ネオ・フラメンコ」的なテイストを持つ作品の他に、やはりここは営業を兼ねた意味合いなのか、M-2 “Iba のようなアメリカンテイストを持つ楽曲等も登場する。
正直アメリカに迎合するタイプの音楽をこのようなアルバムの中に見る度に、私は少しだけモチベーションが落ちてしまうのだ(笑)。

そもそもその民族にしか持ち得ないものを何故手放してまで、アメリカ万歳型の「売れ線」を狙わなければならないのかと、情けなくなるからね‥。
  

だがその次 M-3 “Yo No Quiero Suerte で、まるでいきなり目が覚めたみたいに Alejandro が拳を振り上げて立ち上がる。
王道のフラメンコのテイストの楽曲と歌唱表現の奥に、これまた王道クラシックの失われた歴史の中の「ロマン派」のコード進行の断片が浮かび上がると、多くのリスナーの中にその当時の微かな記憶が呼び覚まされ、胸をかきむしられるようなノスタルジーに身も心も包囲されて、きっと誰もがそこから一歩も動けなくなるに違いない。
 
M-4 “Rosa ではアフリカ音楽にも通ずるリズムを刻んだ打楽器とコーラスに始まり、それはまるで人々が互いに行き交う旅の途中の光景のように次第にスペインのコードやモードと折り重なりながら、そこにしか生まれ得ない一個の音楽を形成し、成長して行く。
そして歌手 Alejandro はけっして、他の経験値の浅い歌手たちのようにヒステリックに絶叫するような愚かな歌唱表現には及ばず、朝起きてシャツを着てズボンのベルトをしめて歯を磨く為に洗面台に立つかのように、きわめて普通に生活するように楽曲を最後まで歌い切って行く。
 
そして M-6 でようやく、アルバムリードのMares De Miel がお目見えする。まるでアルバム全体が舞台を見ているような鮮やかな構成になっており、この曲がアルバムの中心をしっかりと支えているのがよく分かる。
 

 

上手く日本語翻訳に至ることは難しいが、歌詞も印象的だ。
 
人は何度も行き来し、生まれ変わり再びここに戻って来る。
私はあなたに戻り、あなたになった私は再び出会う。
それは輝きの瞬間。
僕は毎日美しい女性と出会い、その中に魂の友を見つけて歓喜するだろう。
あなたが私を導き、昨日までの私を変えて行くに違いない‥。

 

ま、ざっと言えばこんなことが綴られている。それが上のPVを見てもよく分かる。

このアルバムSanzの中で最もフラメンコらしい一曲は、おそらく M-10 に収録されいるGeometríaだろう。
勿論冒頭に書いたような「オレ~イっ」等と掛け声を掛けるようなリズム体ではなく、いわゆる「バラード・フラメンコ」と言ってもよい素晴らしい一曲だ。

そしてこのアルバムのオオトリは、フルオーケストラが楽曲全編を包み込んで抱きしめて行くY Ya Te Quería。この曲で、アルバムSanzが静かに幕を下ろす。
 

M-10Y Ya Te Queríaを翻訳にかけてみると、まるで神々の人類への愛を感じさせる内容であることに気付く。
タイトルは「そして、私はすでにあなたを愛していた」と言う意味。
「わたしたちの中に、既に神々は種として宿っている、私は既に愛されていたのだ‥」と言う意味のセンテンスがリフレインで繰り返され、これは人類への新たな目覚めを呼び掛ける内容のバラードの大作だと言わざるを得ない。

 

 

既に目覚めた人たち、既に覚醒を始めた人たちが音楽家の中にこうして存在することに、私は歓びの涙を流さずにはいられない。
日々の小さなことに腹を立てている暇はないのだ。地球を想い、自然神を想い、地球の外の生命体に思いを馳せ、彼等と心から繋がる為の方法を模索し、その傍らで私も私自身の音楽を完成させて行く為の旅を止めてはならないと、今あらためて神に誓いを立てた。

 

アルバムSanzを聴き終えた時、思わず感謝の念があふれ出る‥。それは深いため息とともに全身を下から上に駆け上がり、太陽を目指して放たれて行った。
 
私の心の深い場所と幾つもの惑星や、星々の自然神等との繋がりを得る度に、私は自身が音楽家であることを心から祝福する。そして小さな自分の存在の全てを、いつまでも愛し続けたいと願って止まない。
 

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Chouchou(シュシュ)と最果ての女神

かねてから私が個人的に注目している日本の男女(夫婦)のユニット Chouchou が、2年振りにニューアルバム最果のダリアをリリースした。
 

 

アルバムタイトル『最果のダリア』の「最果て」の「て」をあえて抜いている理由について、彼等は一言も語っていないが、日本語として「最果て」から「て」が抜けていると若干違和感を感じる。
私が実はコテッコテの日本人だからなのか、それとも否か‥。おそらく「最果て」から「て」を抜いたことには何か、彼等なりの理由があるのだろう。そう思うことにしよう。

今回のアルバムで注目すべき点は、さっと要約すると以下の3点に集約される。
 
juliet Heberle のヴォーカルが穏やかに、尚且つ無理のない発声になったこと。そして彼女の歌唱表現から承認欲求が、完全に抜け落ちた点。
 
②何より arabesque Choche のメロディーメイクがシンプル化し、これまでのアルバムに見られる過剰で不要な冒険欲が一切削ぎ落とされた点。
このことによってメロディー自体が普遍性を帯びたことは、他のJ-Pop系のライター陣の域を一歩二歩飛び出て、楽曲全体のクオリティーが格段に向上した。
 
③ゲストプレイヤーとしてギタリスト maya Kawadias が参加したことにより、これまでの「俺って凄いぞ!」的な、Chouchouの楽曲全般に横たわっていた嫌味が全て抜け落ちた点。
そのことにより、むしろユニット Chouchou のカラーが際立って来たことは皮肉とも言えるが、私は良いことだと捉えている。

 

juliet Heberle の真骨頂は「声」ともう一つ、独特な「詞」の世界。本作品最果のダリアでもそれは引き続き健在であるが、むしろ以前よりもシンプルで歌詞表現が控え目になった分、楽曲に詞が乗った時の音速が飛躍的に向上した点は見逃せない。
それでいて、歌詞だからゴロ合わせでしょ?と思われそうな随所随所であっても、その作品自体を散文詩としても読ませてしまおうと言うこれまでの意気込みは変わらない。
つまり完成した歌詞であると同時に、未完成(楽曲の余地を残したと言う意味)な散文詩として完成されている。
 

あえて一曲一曲の詳細の解説は、私自身の作品ではないのでここでは割愛するが、このアルバム全編を聴いた後にふと、岩崎良美の過去のアルバム『月夜にGOOD LUCK』の冒頭の『夏の扉』が心の中に現れた。

 

 

岩崎良美はこのアルバムをリリースした直後に或ることが理由で声を失い、一度芸能界から身を引いている。
この曲夏の扉(作詞: 長谷川孝水 / 作曲: Bobby Watson)で、岩崎良美はそれまでの楽曲全般に見られた、生まれ付きの「美声張り上げ系」の歌唱スタイルをガラリを変えて、出来る限り静かに静かに、静寂を壊さぬ声量と表現スタイルをキープしている。
今にして思えばこの頃から彼女のメンタル或いは体のどこかに変化があり、こういう歌い方になったのかもしれない‥ と憶測することも出来る。あくまで憶測の域を出ないが。
 

一方Chouchouのアルバム最果のダリアでヴォーカルと詞を担当している juliet Heberle の場合も声質の変化を私は見逃さなかった。
ここではあえて理由詳細の記載はしないでおくが、以前のアルバムと比べると彼女の声のホワイトノイズ系の成分が増している。
それが理由で、それまでの彼女が持っていた高音域のツヤ感が消えたことによりむしろ、彼女の声質の少女性から女性性への、声の変貌を感じ取ることが出来る。

聴く人によっては、それを「母性」と感じる場合もあるようだ。私の場合は「母性」と言うよりもっと広い意味での「女性性」を、彼女の声から感じて仕方がない。
 

彼等は自身の音楽を「エレクトロニック」とカテゴライズしているが、本来ならばもっと広いカテゴリーである「J-Pop」に分類しても良さそうだ。だがそのカテゴリーでは上に上がつっかえており、色々ブランディングの観点からもやりにくいのだろう。

だが arabesque Choche  の才能あふれるメロディーメイクの才能を、「エレクトロニック」や「ポスト・エレクトロニック」等のマイナー・ジャンルに閉じ込めてしまうことにより、そのジャンル・カテゴリーでは確かに首位に駆け上がれるのかもしれない。だとしても、arabesque Choche 自身の持つメロディーセンスがこの、地味なジャンルの彼方に追い遣られるのは、ただただ勿体なく感じてならない。
 

今回のアルバムで特に印象に残った作品は、『Sapphire』『Flashback』。そしてもう一曲、Orionである。本音を言えば、私が今現在「歌もの」のメロディーメーカーを辞めていて良かったと、胸を撫で下ろした。
楽曲Flashbackでは arabesque Choche のサブドミナント発車のメロディーに、 juliet Heberleのシンプルで洗練された言の葉ワールドが控え目なのに、大胆に炸裂して行く。

 

 
そしてM-7Orionを聴いた時、 juliet Heberle の背後に突如中森明菜が現れた。彼女なら、この曲を違う視点で見事に歌い込むだろう‥ と。
当時私が芸能界で何をやっていたかについては触れないが、ふと、中森明菜のJEALOUS CANDLEが蘇った。
 

 

名曲は時空を超える。私はそう確信している。
勿論両曲を比較することなど馬鹿げているが、名曲を論評する時はその対象として名曲を持ち込んで比較することが望ましい。

又、 arabesque Choche の編曲の随所に、どこか坂本龍一氏の「耳」の片鱗を感じるのだ。もしもこの楽曲に maya Kawadias が参戦していなかったら、もっとそれが露骨に感じられただろう。だがことある毎に maya KawadiasがChouchouの空間に茶々を入れるので、 サウンド全体が丸みを帯びて深みが増して行く。言ってみれば maya Kawadias はChouchou邸の座敷童のような存在に近いかもしれない。
上手に上手に二人を邪魔しながら、幸運の種を蒔いて行く不思議な人だ。
 

楽曲Lovers & Cigarettesの冒頭から、 juliet Heberle の声の背後にうっすらと男性のヴォーカルがかぶっている。この手法が妙に坂本龍一氏の「耳」を彷彿とさせ、何やら私は懐かしい。
そしてM-5Girlの中サビの、男性ヴォーカルがうっすらと顔を覗かせる瞬間、arabesque Choche の背後霊のように坂本龍一の「耳」が金粉を撒き散らす。

 

 
このアルバムの音楽評論を書くにあたり、私はこれまでの数十年間の新旧J-Popを引っ張り出して彼等のテイストと何が異なるかについて、丹念に紐解いて調べて行った。
そして何を比較対照として並べて行くべきかについても色々考えあぐねたが、殆どのJ-Popが Chouchou のその輝きに惨敗した。

佐野元春、松任谷由実、中島みゆき、椎名林檎、宇多田ヒカル、藤井風…、雑魚ではなく良質・売れている作家を比較してもっとゴリゴリ語り潰したかったが、Chouchouの音楽がそれを許さなかった。

音楽評論をする時、何が良くて何がいけないのか‥ を綴ることは必要最低限のルールである。なのでその為の音楽資料を探したが、むしろ比較することが罪であるかのように、arabesque Chochejuliet Heberleの二人の睨みに評論する側の私が推し潰されそうだった。
 

最近の多くのメロディーメイクは、佳境に差し掛かるとラップに逃げる傾向が強い。殆どのJ-Pop、K-Popを含むアジアのポップス全般にそれは見られ、全体を一個の音楽として魅せて行く音楽が激減した。
だが未だ、Chouchou が残っているではないか!
 

心に残る音楽、記憶に残るメロディーの最大の武器は、旋律の帯である。

ヴォーカルの癖に逃げ込むことなく、何があってもヴォーカルが最後の壁一枚で音楽や楽曲を守り抜かなければならない。その力が Chouchou にだけ備わっているのは、一体何故なのか。

常に音楽を「声」と言う壁一枚で守り抜く juliet Heberleの歌声には、何かとてつもない大きな悲しみや痛みが宿っている。それがどの楽曲であっても脈々と音楽を溶かし込み、聴き手にその一部を悲しみのトリガーとして刻み付けて行く。
だがそれはやがて、愛、優しさを湛えながら大河となって聴き手の心を上から下へと滑り落ちて行き、体や魂のど真ん中の「心」へと激しくたたみかける。
 

日本のメロディーメイカーがこぞって失ってしまったもの(大自然にも通じる何か)が、ここ Chouchou の世界には未だ、ほぼ手つかずのまま残っている。
フランスの名水Volvicが遂に今年、地球から姿を消してしまったがそういう事態にならないように、是非とも透明で澄んだまま Chouchou には生き続けて欲しいと願わずにはいられない。

 

 

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オーダーを遥かに上回るクールで奇想天外な記事を、筆者の豊富な脳内データから導き出して綴ります!

7. 表現とインテリジェンスについての考察

【前書き】
前記事6. ポーランドのショパニストたちでは、本国ポーランドのショパニストたちの比較検証について筆を走らせた。

本記事では「第18回ショパン国際ピアノコンクール」を観戦しながら思った表現とインテリジェンスについての私ならではの考察に的を絞って、表現分析を行って行こうと思う。

(以上 前書きにて。)

 


私自身、若い頃には多くのピアノ・コンクールに嫌々エントリーして来た人である。戦う側と観戦する側の両方を多く経験して来たが、先ず今でもくっきりと記憶していることは多くの若いコンテスタント等が日頃歪んだスパルタ教育に飼い慣らされている影響なのか、ただ「動く」「動かす」「ミスなく演奏する」ことだけを目標とし、肝心の作曲家への啓蒙や楽曲の知的解釈、形而上学的な考察に全く手の届かない思考で演奏している光景だ。
 
学生コンクール等ではJ.S.Bachをはじめとする色々な作曲家の作品が課題曲として定められているが、何を聴いても皆同じ音色、そしてクラシック・ピアノを習う上でどうしても叩き込まれてしまう「肩をくねくねさせて演奏する」嫌な癖や、「口を大きく開けてパッパッパ‥ 等と言いながらあたかもメロディーを歌い込んで演奏している」ような変顔の癖等までしっかりと教え込まれ、そうすることで自身が各楽曲の解釈の深みに到達しているかのような演出に余念がない。
会場の客席で見ている此方が赤面し、逃げ出したくなるくらい彼等の演奏も表現も滑稽で腹が立って来る(笑)。
 
それも致し方ないわけで、殆どの演奏者やコンテスタント等はコンクールにエントリーする上で有利な教授に師事しており、作曲家が何を思い、表現とはどのようなものであり、また感情や衝動及び戦意ではないもっと知的でインテリジェンス豊かな解釈をしよう‥ 等とは誰も考えていない。
隣近所の若い同業コンテスタントよりも優位にウケて、強いインプレッションを与えるにはどうすべきかと日夜考え、その結果「速度」「あえて解釈に突飛なクセを付けた圧倒的なインパクト」を持つ演奏解釈に辿り着くことになる。
確かにそういう表現をしておく方が簡単と言えば簡単で、審査員も深い考察をすることなく「印象」の強さだけで点数を上げて行くことが出来て一石二鳥だ。

 

ところで私がここの取り上げる「インテリジェンス」とは可能な限りの感情表現を抑え込み、感情よりも知性を、その知性を駆使した表現分析を優位に思考した音楽表現を指す。

この、重要なポイントだけで見た場合、「第18回ショパン国際ピアノコンクール」にエントリーした殆どのコンテスタントがそれ(インテリジェンス)に欠けていたと言っても過言ではないだろう。
そもそもインテリジェンスとは後から鍛えて身に付くものではない。これはもうどうにもならない。
 
若干スピリチュアルに寄った表現になるが、表現者は生まれ付いての表現者でありそれなりの蓄積を霊体が既に積んでいる。つまり何等かの過去世の記憶を霊体が既に保有した状態でこの世に降臨した現象が「その人」であり、それはとても稀なことなのだ。

私の場合は過去世がJ.S.Bach、つまりバッハであったから、生まれ付いて残響の音色や音楽の目的等を既に知っていた。知っていたと言うより記憶の片隅に在ったので、若い頃スッカスカのピアノで練習していた時は毎日がストレスだらけだった。
石造りの教会で深い音色のオルガン音楽ばかりに接していたバッハにとって、現在のスッカスカの、マイクや音響を殆ど度外視したような一般の会場のピアノの音色は音楽未満であり、その劣悪な音響状態に置かれたピアノをいかに効果的に鳴らすか‥ 等と言う発想自体が間違っていると思っている。
 
多くのコンクールがその状況で開催され、気象条件や集客状況等に音響や残響が酷く左右される中で演奏されるショパンで無事入賞出来ればもう、それだけで奇跡である。


日本人は国際試合に於いて、見た目(容姿等)に於いて既に不利である。

そもそもが日本人は全体的に「平たい顔族」であり、彫りの深い海外選手と並ぶと表情の緩急が乏しく何もかもが扁平に見えてしまう。
彫りの深い海外勢は顔の筋肉を少し動かしただけで思慮深そうな演出が可能であり、さもオレ様は深く深~く音楽や作曲家を理解しているんだぞ、と言う演技が出来てしまう辺りは、日本人が同じ舞台に立つ上で大きなハンディを背負っていると言えるだろう。
 
この、日本人が全般的に陥っている「平たい顔族」を、ではどのパーツでリカバーすべきかと考えた場合、やはり「インテリジェンス」だと私は考える。
だが各々のコンクールやコンテストには年齢制限が設けられている。なので若くして「インテリジェンス」で戦いに出る上では、なかなかリスクが大きいとも言えるだろう。生まれ付きの表現者を見抜く側にもインテリジェンスが必須となり、審査員の質が大きく問われることになる。
 
とまぁ上げて行けばコンクールそのものの議論が必要になるわけだが、そうなると手っ取り早いところで目に視える「運動神経」や「身体能力」に基礎点のベースを置いておけ!と言うことに辿り着く。それが結果的には身体能力に大きく依存しながら新進気鋭の演奏者を輩出してしまう、致命的な負の要因となっている。
 
 


今この記事を書きながら J J JUN LI BUI 氏のJ J JUN LI BUI – third round (18th Chopin Competition, Warsaw)を試聴しているが、やはり表現が短絡的に聴こえて来る。
それでも日本勢のどのコンテスタントよりも表現は深めであるが、フォルテの音が荒れており情念でショパンを解釈しているので流石に「天界の音色」には聴こえない。
 
感情やエモーションを音楽で突き抜けて行くには、全てに於けるエモーショナルな感覚を一旦手放す必要が生じる。
特にロマン派の音楽を演奏する人たちはその点をはき違えていることが多く、音楽のダイナミズムを感情で表現しようとする為音楽の全体像が崩壊して行く。その場その場の音をどう叩き込むか‥ に意識を奪われ、その楽曲の全体像に対してのピアニッシモ或いはフォルティッシモをどう弾き込んで行くべきか‥ と言うロマン派を演奏する上で最も重要な観点が抜け落ちてしまう。
それがJ J JUN LI BUI 氏の、特に「Ballade in F major, Op. 38」では顕著に顕れてしまったようにも見える。
 
音のアタック部分だけで勝負に出ているので全般的に音楽が繋がりを欠いており、モールス信号のようなスタッカートの音粒が鼓膜を刺激しているだけの音楽解釈に陥っている。それが音楽の「荒らされた感」の要因となっていることを、指導者も本人も気づかないままここまで来てしまったことはただただ不運だとしか言いようがない。
 
 


J J JUN LI BUI 氏が演奏していた「荒れたバラード」と同じプログラム「Ballade in F major, Op. 38」を、小林愛美 さんも弾いている。
 
前置きを付けるとすれば先ず、ショパンを演奏するに相応しいいで立ちとは言い難い点が女性の私には引っ掛かる。髪型と衣装がチグハグで、ロマン派ショパンを演奏するにあたりなぜこの人が、これからバレーボールの試合にでも出場するようなパッツンヘアにしちゃったのかが疑問である(笑)。
日本人の「平たい顔族」をより強く強調したかったのか或いは、「戦いの場」に装飾やお洒落等は不要だと考えたのか、何れにせよパツンと固めたヘアスタイルがショパンのまろやかでロマンティックな曲調に大きく負の影を落としているように思えて来る。
 
肝心のバラードの演奏について述べるとしたら、良い楽器を使用しているにも関わらず四畳半が透けて視えてしまう‥、つまり貧乏臭いのだ。
普段ファミチキをメインの主食にしているのかと思う程の貧相なテイストが漂っており、けっして豊かな気持ちにリスナーを導いてはくれない。
楽曲の解釈もせせこましく、ちまちましており、狭いのにやたら仕切りの多い一軒家の風呂場から道に迷ってしまい、戻りたい場所に戻れなくなってしまった時ような圧迫感と不安感にリスナーを導いて行く演奏解釈だ。
 
小林愛美 さんもどちらかと言うと身体能力型の演奏であり、それが楽曲全体の構成をちまちま細切れに切り刻んでしまっている。又フォルティッシモからピアニッシモに瞬時に移行した時に感覚の方がピアニッシモに移行出来ていない為、音色が雑に聴こえて仕方がない。
それは冒頭の段階で既に表れており、肝心のバラードのトップの旋律が投げ遣りに聴こえる。
しいてはそれが日本人特有とも言える「平たい音楽」を生み出しており、真っ平(まったいら)で何の味も素っ気もない、日にちの経った給食の食パンを間違って口に放り込んでしまった時のような残念感しか感じない。
 

では結果的に誰がこの、インテリジェンスを兼ね備えていたのかと言うと、このコンクール「第18回ショパン国際ピアノコンクール」にエントリーしたコンテスタントの中で言うとこの人、Alexander Gadjiev (アレクサンダー ・ガジェヴ) の名を私はあえてここに書いておきたい。

 

 
好き嫌いを超えて、この人の解釈は非常に哲学的であり、エモーションを突き抜けた楽曲解釈の種を持っている。
けっしてショパンを過剰に感情表現することはなく、身体能力さえも一旦頭脳解析にまで持ち上げてそこから音楽を再構成しているので、音色に言いようのない深みを感じさせる。
特にトップのメロディーのフレーズの頂点を打鍵する時、うっかりとその頂点の音をフレーズの中で最も強く打鍵するような幼稚な表現がどこにも見当たらず、それが一種の「音の含み」「間の含み」を生み出す卓越した表現スキルを垣間見せる。
 
だが何度も言うが、私はこの方 Alexander Gadjiev (アレクサンダー ・ガジェヴ) 推しと言うわけではなく、どちらかと言うと時折、どこか過剰な自信家の相を顔で演出する辺りに嫌味すら感じている(笑)。
だが音楽評論とはそういうことではなく、評論家自身の好き嫌いを超えた何かしらを論評する必要があり、その点で私は本記事の「インテリジェンス」と言う要素であえて金賞を選ぶとしたらこの人だ‥ と言うことだと付け加えておきたい。
 
 
それにしても‥。
「Ballade in F major, Op. 38」に限らずこの時代の多くの音楽が中間部で激しく展開しまくる起承転結の荒い曲調を持っており、私個人的にはそれさえなければ穏やかに食事中でも聴けるクラシック音楽になったのに‥ と舌打ちせざるを得ない。

音楽の中に、激昂は要らない。
ただただ穏やかに、メインの旋律だけが穏やかにさざ波のようにそこに在れば良いのだ。
 
時代のいたずらで翻弄されたロマン派の、未来型のロマン派の復活は未だ始まったばかりである。普遍的で激昂しないロマン派の音楽、そんな音楽が既に生まれていることについて、何れ誰かが語ってくれる日を私も楽しみに待ちたい。
  

4. ピアノソロの楽曲から演奏者を読み解く

【前書き】
前記事3. ショパンの表現についての評論では主に、ショパンのピアノ・コンツェルトを聴く時に気を付けなければならない点を含む、コンツェルトの楽曲全体を先導して行く指揮者にもスポットを当てながら解説を進めて行った。

本記事では私が今回気になった出場者5名にスポットを当て、「第18回ショパン国際ピアノコンクール」は三次予選のピアノソロの演奏に於ける各々の解釈へとさらに焦点を絞り込み、評論・解説を進めて行く。

(以上 前書きにて。)

 

 
一人目はこの人、ALEXANDER GADJIEV(アレクサンダー・ガジエフ)氏。イタリアはゴリツィア市生まれの26歳。
丁度YouTube『ALEXANDER GADJIEV – third round (18th Chopin Competition, Warsaw)』の冒頭を聴いている最中だが、特徴としてはどこか印象派の絵画のように、あえて音のアタックを不鮮明にしたところからスモークのような、柔らかく怪しい打鍵が醸し出す音色がとても印象的である。
それはどこかモネやルノワールの絵画のぼやけ感を想起させ、ロマン派からその後の近代派(スクリャビンないしはエリック・サティー)辺りの楽曲がこの人には似合うような気がして来る。
 
この動画の中で彼は「Shigeru Kawai」のピアノをセレクトしているが、このピアノが意外にショパンを演奏するには有利である。
中音域では「FAZIOLI」のまろやかさに似たソフト感を持ち、高音域に行くに従って「Steinway & Sons」の持つ華と「FAZIOLI」のくぐもり感の両方を兼ね備えている為、打鍵が素直に音色に反映される危ういデメリットをも併せ持つ楽器と言えるだろう。
個人的には「KAWAI」のピアノには余り好い印象を持っていないのだが、この「Shigeru Kawai」は良くも悪くも憎たらしささえ感じる。要は、うっかりすると惚れ込んでしまいそうに、所々好きな音色が浮き上がって来る‥ と言う意味で。
 
この難解で憎たらしい楽器をこの方 ALEXANDER GADJIEV(アレクサンダー・ガジエフ)氏は見事に使いこなしている。
逆に楽器が変わると途端に表現がゴツくなり、実際にSpotifyでリリースされている音源には正直私は余り惹かれなかった。

上の動画で特に好きだったプログラムは、Mazurkas, Op. 56/ No. 1 in B major (13:57~)。気になる方はカーソルを動かして、是非聴いてみて頂きたい。

 

 
二人目はこの人、JAKUB KUSZLIK(ポーランド出身)の演奏者。1996年12月23日生まれ、24歳。冬の神と二日違いで生まれた、文字通り見るからに神のような演奏者だ。どこか風貌が似ている(笑)。

ショパンと同じ祖国の血を持ち、ふくよかな体から生まれ出る柔らかで深みのある、ある種樹液のような深くて渋い音色が特徴だ。
 
この動画では若干ミスタッチも目立つが、冒頭の『Fantasy in F minor, Op. 49』の解釈は嫌いではなかった。嫌いではなかったと言うことは特に「好きでもなかった」と言う意味になるが、表現がやや短絡的でその場その場で感情が移り変わるのか、一個の世界観が持続しないのが欠点と言えるだろう。
 
三次予選でセレクトした楽器は「Steinway & Sons」。
オーソドックスな音色を持つピアノだが、どうにもこの楽器は何を演奏しても「Steinway & Sons」の音楽を再構築してしまうようだ。なので楽曲冒頭のインプレッションが良い分、曲が進んで行くにつれてリスナーを飽きさせてしまう欠点も併せ持っているように私は感じてならない。
 
だが、そんな「聴き手を飽きさせる楽器」を JAKUB KUSZLIK は比較的上手く使いこなしている。だが反面、彼自身の解釈のクセが段々鼻に付いて来る。
スタッカートの出し入れに特徴があり、けっしてスタッカートの音色が良くないわけではないが、兎に角クセが強いので段々と、あ~又か、あ~又あのスタッカートが来た‥ と思うと後半に向けて苛つきが生じて来る。
ここは好みの問題なので、彼のような表現スタイルを好むリスナーはさながら唐辛子の強い料理を好む人の如く、きっとたまらない演奏者だと夢中になるに違いない。
※残念ながら私はそこまで惹かれることはなさそうだ(笑)。
 
唯一決定的な長所を挙げるとしたら、ショパニストの多くが勘違いして身に付けてしまう「クラシック演奏家のエゴのない点」である。オレオレ、凄い俺様‥ と言う、多くのショパニストが持つ独特のエゴが全く見られないので、長時間聴いていても疲れない。
行く行くこれは彼の、大きな武器になるだろう。

 

 
三人目は二次予選の時から妙に気になっていたこの人、EVA GEVORGYAN。なんと、アルメニアとロシアの血を引く17歳の高校生だ。
 
17歳とは思えない舞台度胸を持ち、若さゆえの猛々しさが時折音楽のアウトラインを崩しそうにもなるが、今回の演奏では彼女の持つ「若さ」が意外にも武器になったと言って良いだろう。
良くも悪くもリベンジ能力に長けている。演奏も解釈も若い分所々で解釈の気紛れ感が音楽に小さな隙間を空けて行くのだが、その都度その度にそれを取り返すかのような表現の荒業を使ってリベンジを掛けて来る。
 
彼女の武器は、なんと言っても音色だろう。それもただ、女性らしい美しく柔らかい‥ と言うだけでなく、どこか数学者が奏でる「音の緻密さ」を感じさせる。ショパンも良いが、むしろ私は EVA GEVORGYAN の古典ものを聴いてみたいと思った。
ベートーヴェンやブラームス、或いはシューベルトからシューマン辺りをどんな風に演奏するのか是非聴いてみたい。
 
動画冒頭の楽曲『Fantasy in F minor, Op. 49』、途中からかなり派手にぶちかまして来る。若干荒さもありつつ、やはり音色に華があるので何とか楽曲のラインの乱れをそれでリカバーすることに成功している。
 
彼女も「Steinway & Sons」をセレクトしているが、もしかすると『Bösendorfer(ベーゼンドルファー)』が彼女の音色には合っているかもしれない。

唯一の欠点は、表情が汚い点。他の演奏家の「クラシックを演奏する時の妙な表情」を真似しているのか、楽曲の進行とは関係のない変顔が段々気になって来る。この変顔パフォーマンスの癖は、出来ればそれが体に沁み付く前に取り除いておいた方が良さそうだ。

 

 
4人目はこの人、MARTÍN GARCÍA GARCÍA。スペイン出身の24歳。24歳の割にはどこか年齢不相応の「老け感」のある演奏者だ。
 
お国柄がスペインと言うだけあって、舞曲にはそれなりの芯とコシと粘りを感じさせるが、兎に角演奏中のハミングが煩い。それにこの演奏者もよくある「クラシック演奏者の変顔パフォーマンス」が完全に板についてしまっており、ヴィジュアルと言う点では私は落第点を付けたくなる程気分が悪い。
パっパっパ‥ と口を鳥のように大きく開けてメロディーをなぞる辺りは、名前を出して申し訳ないが若い頃の仲道郁代さんを彷彿させるものがあり、見ている此方が段々と呼吸困難になりそうで苦しくなる。
 
恐らく両者の共通項として、「呼吸が浅い」か或いは「呼吸が短い」と言う致命的な欠点を持っている。一個のセンテンスが短いので、常に犬のようにはぁはぁ息が切れんばかりの浅い呼吸が癖になっているのだろう。
 
又、ショパンと言うよりネオ・フラメンコでも聴いているようなスパニッシュなこぶしが効いており、それを当の作曲者であるショパンは余り快く思っていないようだ。
ただ、『Sonata in B minor, Op. 58』の解釈は思ったよりは悪くない。表現に立体感があり、内旋律の際立たせ方が独特で、音楽の伏線をしっかりと出して来る辺りに表現スキルの個性と熟達さを垣間見ることが出来る。
 
だが如何せん変顔と歌声がもれなく付いて来るので、どうにも私はそれが気になって気になってショパンの楽曲に集中出来ない。

 

 
5人目はこの人、角野隼斗さん。千葉県出身の26歳。
私がこの演奏者を取り上げた理由は、他でもない彼の演奏がなんともクラシックには全く不向きなのに、本人が「俺様ってカッコいいぜ!」と思い込んでいる滑稽さである。
 
彼は既にYouTuberとして多くのファンを持つ人であるが、それが仇になっている感は否めない。
そもそもクラシックよりはロック魂の方が突出しているが、それだって本家 エリック・クラプトンと比較すると骨の髄までロック魂、ブルース魂が浸透しているわけではなく、全てが中途半端でええカッコしいの性格が「何をやっても頂点を極められない弱さ」の要因を生み出していると言える。
 
なまじ指が動くからか、「こんなのチョロいぜ!」と思いながらショパンを弾いているのが傍目には完全にバレているのに、本人だけがそれに気付いていない。まさに「裸の王様」のようだ。
 
Mazurkas, Op. 24 / No. 4 in B flat minor』 (7:20~) の演奏も、表面的には一見上手く行っているように聴こえるが、解釈の彫りが浅く、殆ど何も考えずにひたすら身体能力を武器に弾き進めている。
ショパンが最も嫌うタイプの演奏者だ。

特にこの曲『Mazurkas, Op. 24 / No. 4 in B flat minor』は民族音楽によく見られる同主短調がふんだんに用いられており、コードで言う第三音が上下する度にエキゾチックなコード(和声)をなぞって行くが、それをここまで無頓着に弾いて平然としていられる神経の太さはある意味圧巻だ(勿論悪い意味で)。
 
又トップのメロディーが他の音色にかき消され、表現が平面的であっても本人はさほど気にしていないらしく、この状態だったらむしろ自動演奏で鳴らして頂いた方が聴き手の気持ちが乱れることもない。
高級ホテルのバーのBGMにゲーム音楽が流れているみたいで、本当に不快感だけが湧き出て仕方がない。不適切感きわまりない‥(笑)。
 
まぁ本人も職業欄に「YouTuber」と書いているので、暫くは持って生まれたルックスと恐ろしいまでの自信に支えられてそこそこ音楽業界を賑わせてくれるだろう。
後世に残る音楽家になれないであろうことは本人もきっと知っているだろうし、最初からそれを求めていないだろうから、せいぜい若いファンたちにちやほやされながらこの先そう長くはないミュージシャン・ライフを謳歌すれば良いと思う。
 

 
とまぁ長々と評論して来たが、これでもまだまだ書き足りない。
でも流石に他の演奏家の演奏を聴き続けるには体力の限界なので、本記事はここで終わりにさせて頂きたい。
  

『言葉にできない』ー JUJU その他の面々 [音楽評論]

本当に言葉に出来ない程、誤魔化しの効かない音楽がこの世には沢山ある。この記事で取り上げたこの作品言葉にできない(作詞/作曲: 小田和正)もそんな一曲と言えるだろう。

既に作者本人である小田和正氏が2019年?にセルフカバーしているが、やはりそれでも原曲のメタリックなメロディーラインはゆらゆらと陽炎のように揺らめきながら崩壊し始めている。
だがやはりここは作者本人とあって、程好い崩れ感を大きく損なわないよう上手く誤魔化せていると言えるかもしれない。

 

 

だが肝心な「違う、きっと違う‥」の辺りから「一人では生きて行けなくて‥」の辺りはサクサクと慌てて歌い過ぎて行くので、何だか夜道で誰かに後を追けられている女性が小走りに追手から逃げているように聞こえてしまい、聴いていてどうにも落ち着かない。
歌が上手くならないまま年老いたシャンソン歌手の余興に当てられたみたいに、心拍数だけが上がって上がって私の方が息が切れそうだ。
 

原曲度外視でこれは良い!と思ったのが、EXILEAtsushiさんの同曲のカバーだった。
この歌手、顔やいで立ちに若干崩れ感、汚れ感はあるが、この作品『言葉にできない』の解釈は至ってシンプルでナイーブで清潔感に溢れており、無駄なアドリブや歌手が誇張したがる「クセ」を最小限に抑え込んだ表現がとても好印象だった。

 

 

色々調べて行くと、なんと最近はお昼のワイドショーではお馴染み(私は余り好きじゃない、この人‥)のAHN MIKA(アン・ミカ)がカバーしているではないですか。

偽善臭がプンプンしているかと思いきや、意外にそうではなかったのが驚きだった(笑)。
でもあの独特な「嫌味」なコブシは健在。本当にアン・ミカのこの嫌味感はもう一生このまま、治らなそうですけど。

 

 

そしてこれはもう音楽のルール自体を完全無視して平然と歌い切っているのが、クリス・ハートさん(笑)。一体この歌手のルーツはどこにあるのか、ここまで何でも歌ってしまう歌手ともなると何が何だか判然としない。
 

小田和正の持つメタリックなメロディーラインのエッセンスを、何だかどこか分からない国とか世界観に完全に持ち去っている。
クリスマスの教会で、美しく青い目をした青年に誘拐された子供が初めて覚えた英語の曲みたいに、別の楽曲と言ってもいい程むしろ完成されているから『言葉にできない』と言うより言葉が出ない

 

 

そして何よりアン・ミカよりもムカっ腹が立って気持ち悪かったのがこの人、JUJUの解釈。
そもそもJUJUの発声は声量の無い人が「いかにも歌える人」に見せ掛ける為の嫌味な細工が施されたものであり、声帯で一旦発声した声を声帯から浮かすように力を抜いた瞬間に振り幅の深いビブラートを掛けることで、往年のジャズ歌手みたいに聴かせるとても狡い手法を用いている。

しかもレコーディング版では冒頭の、かなり長いタイムをアカペラで堂々攻めて来る。大した度胸だ。
エンジニアの人選にもお金を掛けているのか、私が先に指摘した「狡い発声」は上手に誤魔化されていて、どこか儚げなJUJUの色合いを全面に出しているが、ミックスはけっして良いとは言えない。
この作品の持つ独特の「濡れ感」が失われており、パッサパサの髪をさらにパスパスにドライヤーで乾かし過ぎてチリッチリになった、大昔の人形の髪みたいで薄気味悪い。

 

JUJUの、ヴォーカルの音と音の継ぎ目に発声時に新たに生まれる「要らない音」がクッションとして挟まっているから、それが本来のメロディーラインを見事に叩き壊してしまっている。
おそらくこれは日本人がブラック系にメロディーを寄せて再構成する時、「それっぽく聴かせる」時に使う発声の手法で、余り上手ではないのにそれらしく聴かせようとする歌手の中では比較的当たり前に用いられている発声の技法の一つと言えるだろう。

 

小田和正 作詞・作曲『言葉にできない』の解釈の中で最も場末のスナック的で不快感満載のJUJUの音源をレコーディング版とLive版(途中で他の歌に変わってしまうので一部のみ)の両方を、この記事の最後に掲載しておく。

ようこそ、言葉にできない夜の新宿、スナックの世界へ!

 

 

 

※noteの新着記事と同期投稿です。よろしければ是非、note記事から投げ銭 or サポートで応援頂ければ幸いです。

https://note.com/didiermerah/n/nf92aa749a1e0

転身し続ける歌手 – 羽根田征子(はねだゆきこ)

シティーポップ・シンガーだった羽根田征子さんの過去アルバムが先月末にサブスク解禁されたので、懐かしくなって聴いていました。
 

 

そのついでに最近の彼女はどんな活動をしているのかと思い調べてみたところ、何とファド歌手に転身していた (2010年頃) ことに、さらに驚きました。
本場ポルトガル仕込みと言うよりは、完全に「和製ファド」と言うべき仕上がりのアルバムに、正直意気消沈しました。
 
個人的に私は本場のファドが好きです。但し古めかしいファドではなく、最近のファドに限定して。
羽根田征子さんのアルバム「Fadista」には古めかしいファドがラインナップされる中、私の記憶が正しければラスト曲の「Tears」は本場ファド歌手「Mariza」のオリジナル曲ではなかったかと‥。
※誰かご存じの方はコメント欄で教えて下さい。
 
アマリア・ロドリゲスの名曲ファド「暗い艀」に関して言えば、訳詞も余り響いて来ないし歌唱法も「Mariza」そっくりと言う感じで、今さらあえて彼女がファドを歌わなければならない理由が見つからない。

 

 

私は長く日本のシャンソン・カンツォーネ・ファド~ラテン業界に身を置いていた一人であるが、この業界に流れ着く人たちの大半が上に書いたジャンルの音楽を本当は愛して等いない。
だが日本で歌手として活動して行くにあたり、年齢的にも「演歌」や「ムード歌謡」以外に楽曲をあてがわれるのが関の山である。それを回避し、尚且つ歌手活動を突き進めて行くには海外でポピュラーと言われる何かしら王道のジャンルを選ぶ必要に迫られる。
 
そこで日本の中年以降の歌手は、シャンソン、カンツォーネ、ジャズ、ラテン等の、既に誰かによって歌い尽くされた楽曲が集まる業界の選択に迫られる。
そこで大概は「ジャズ」か「シャンソン」にジャンルを絞って行く。特にシャンソンやカンツォーネ等の場合、楽曲を大胆にいじくり倒してもまかり通ってしまうので、脱アイドルを狙う中高年の歌手達にとてつもなく愛されている。
 
ファドの場合若干特殊なジャンルとされているものの、ある程度「ポルトガル節」「ファド節」に慣れて来ると体がすんなり楽曲を受け容れてくれるが、やはり基礎知識が足りない人がファドを扱うとどうしても「演歌」的歌唱法に寄ってしまうのが難点だ。
羽根田征子さんの場合、残念ながらこの例に当てはまるだろう。
 
そうまでしてでも歌の世界に身を置いていたいと言うご本人の執念だけが伝わって来るものの、肝心のファド、ファド愛は殆ど伝わって来なかったのが残念だ。
 
仕事でこのアルバムの編曲に関わった編曲者の仕事も非常に月並みであり、わざわざこのアルバムを「新譜」として接する必然性を全く感じない。
古い楽曲の焼き直しを聴く程、私も暇ではないのでね‥(笑)。

  

 
そして続けて最近の羽根田征子さんの活動を追って行くと、どうやら「瞑想」「禅」「マインドフルネス」‥関連のボイスヒーリングの方面へ、さらに転身していることが分かってもっとびっくりした私です(笑)。

 
作品を聴いてみたのですが、喉の奥をガッツリ絞めた発声法がカンに障ります。
勿論「ボイスヒーリング」を深く追求した結果ならばそれに対しては私もきっと共感しただろう。だが、どういう角度で聴いても彼女が何かを探求したようには見えず、声の端々から「アタシって良い人でしょ?」と言う周囲への強い共感を求める偽善願望がチラチラして、長く聴いていられない(笑)。
しかも全体を通して「嘘っぽさ」だけが滾々と響いて来るので、1分以上聴くことが出来なかった。

 
ま、音楽はあくまで個人の趣味嗜好に左右されるので、こういうタイプが好きなリスナーはどっぷり浸かってみるのも良いだろう。

 

 

※最新の情報だと、羽根田征子さんは『Johanna Yukiko Haneda』を公式に名前を再々変更している。