音楽から読み解く世界情勢 [2022.06.12]

特にどこかの企業から依頼を受けているわけでもなく、雑誌の連載を抱え込んでいるわけでもなく、毎週末の世界の新譜チェックはもはや私のライフワークとなりつつある。
勿論需要と供給のバランス等考えるまでもなく、これは私の為の記録の作業であり執筆活動である。

私がSpotifyやAmazon Musicに作り上げて行く各シーズン毎のプレイリストを、実際どのくらいの人たちが求めてくれているのかなんて考えるまでもなく、私は私のスタンスで音楽を通じて世界を見つめる。
 

世界は新型コロナウィルス・パンデミックに続いて、次の新たなパンデミックの流れへと既にシフトし始めている。
丁度先週某日に私は、以下の記事を躊躇なく更新している。

 


この記事には予想以上に多くの来訪者が世界各国からあるようだが、だからと言って私の言わんとするところを読者層が掴み取ってくれたかどうかはまだ判然としない。
そんな折、今週の新譜チェックの中にあの大御所 Paul Winter が『Ukrine Spring』を堂々リリースした。

 

 
楽曲『Ukrine Spring』にはPaul Winterともう一人、Henrique Eisenmannと言うブラジルのジャズ・ピアニストが参加しており、クレジットは二人の連名で記録されている。

Paul WinterについてはWikipediaをご覧頂ければと思う。
私はもうかれこれ数十年間彼の活動や作品に触れているが、今こうして彼のWikipediaを読んでみて気が付いたことがあるとすれば、意外に彼が日本国内では余り広く知られていないのではないかと言うことだった。
 

私がかつてL.A.と東京を往復していた頃、まさに世界はニューエイジ・ミュージック全盛期だったが、その頃日本はと言えば小室哲哉をはじめとするダンス音楽真っ盛りで、その頂点にTRFや華原朋美等が君臨していた。

世界と日本はそれだけ大きく価値観がズレており、日本国内で若干流行し始めていたニューエイジ・ミュージックもどこか癒し系パロディー音楽のジャンルのように扱われ、レコード店に行ってもクラシックとかジャズの棚の片隅に小さく新譜が陳列されており、その中の一枚か二枚程度が新譜として試聴盤を出しているような状況だった。

 


話しを『Ukrine Spring』に戻そう。
遡ること約一ヶ月前に、坂本龍一がPiece for Illiaをリリース。ウクライナの若きヴァイオリニスト、Illia Bondarenkoをウクライナ国内に実在する被災地の瓦礫の上に立たせ、坂本自身が書いたとされるウクライナ民謡そっくりのオリジナル曲をIllia Bondarenkoに演奏させた。

問題の動画が世界的に物議を醸しだして間もないが一方で、その陰にひっそりと隠れるようにして世界に発信された大御所 Paul Winter & Henrique Eisenmann の二人が奏でる『Ukrine Spring』は、しっかりと感覚を研ぎ澄ませて聴けば誰でも分かるように、圧倒的な存在感を放っている。
 

坂本龍一のPiece for Illiaと、対する Paul Winter & Henrique Eisenmann の二人が奏でる『Ukrine Spring』。両音楽の決定的な違いは後者の祈りの思いが圧倒的であること。
前者の「ウクライナの若きヴァイオリニストを瓦礫の上に立たせ、そこで作曲者・坂本龍一の音楽を演奏させる」のとは違い、Paul Winter & Henrique Eisenmann の両者が共に「己」を完全に消し去り祈りに没頭している点は、リスナー各自が絶対に無視してはいけない点だと私は訴えたい。

祈る人が祈りに没頭する時、そこに祈る人の存在が一時的に消失する。
視覚的な祈りではなく、ただ脈々と祈る思いだけが辺りを全て包み込み、それが音楽家自身であればそこに音楽だけが静かに紡ぎ出されて行くのみだ。

 

Henrique Eisenmann


Ukrine SpringでPaul Winterの背景で静かなキーボードを奏でているHenrique Eisenmannだが、普段はとても騒がしく刹那的なジャズを演奏している人物である。正直この種のジャズは、私は悉く苦手である。
だがこの『Ukrine Spring』の中のHenrique Eisenmannは別人のように、オーソドックスなクラシックスタイルのバッキングに徹している。
  

どういうわけか上記の楽曲のHenrique Eisenmannが演奏している箇所の音質が全体を通じて歪んでおり、使用している楽器も然程状態が好くないことも垣間見える。
さらに時々大胆なミスタッチが連発している様が専門家の耳には一目瞭然だが、それを超えて無休の祈りが音楽全体を包み込んで行くので、音質の歪みやらミスタッチなどもはやどうでも良くなってしまうから音楽とは誠に不思議なものだと思う。
 

対する坂本龍一は若きヴァイオリニストを瓦礫の上に立たせたことを猛烈にアピールして来たが、むしろPaul Winter & Henrique Eisenmann の二人が奏でる『Ukrine Spring』のレコーディングのロケーションがどうなっていたのかの方に、私の興味は移って行く。
そのロケーションがどうであったとしても彼等にとってはむしろどうでも良いことで、ただただ寡黙な祈りだけを音楽に乗せて世界の空に飛ばして行ったところに、本物の音楽魂を感じるのみである。

 

『お茶』 – UA

 
ここまでこの記事のタイトルから大きく脱線して、先週末の世界の新譜の一曲にスポットを当てて綴って来たが、今週のメインのプレイリストは M-54: 『お茶』 – UA からスタートしている。

 

 

J-Popはここのところ作りが大雑把で音楽未満の新譜が乱立しているが、この作品お茶はなかなか良い作品だ。
UAのこれまでの印象として強かった「粘りが強くしつこい歌唱表現」が一掃され、どこか海外のチルアウト・ミュージックにありそうな小ざっぱりとした短いブレスのライトなヴォーカルが爽やかで、個人的に好みである。
 

そして前記事Laufey from Icelandでも紹介した曲LaufeyのFragileが、UAの次に並ぶ。
 

 

実際に更新出来た楽曲の数が少ないのは、おそらく私の感覚(感性)の感度がさらに向上したことによるもので、選曲がかなり厳しくなっているのを自分でも感じている。

新しい感染症が全世界に拡散し始めている今、これから何が起きるか分からなくなって来た。
今聴ける音楽に集中し、これからも出来る限り良質な音楽を紹介出来れば良いと思っている。

 

 

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戦争と音楽と坂本龍一

Piece for Illia、この曲を聴いた時に「あぁ又やったんだな、この人は。」と言うのがファーストインプレッションだった。
彼が何を又やったのかと言えば、勿論インスパイア音楽のこと。特に坂本龍一の場合、楽曲中のインスパイア成分が95%、残りの5%が坂本龍一の成分だと言っても過言ではない。
 

Piece for Illia


彼(坂本龍一)の場合、この現象は(私が知る限りでは)今に始まったことではない。
その昔はラジオ番組内各所に「新人発掘」なる企画を立ち上げては多くのアマチュア・ミュージシャン等から毎週のようにデモテープを募り、もしかしたら坂本のプロデュースの元にデビューが叶うかもしれないと言う夢を抱いた若者たちの希望の灯を、坂本はどれだけむしり取って来たことだろう。
 
看板「世界のサカモト」は私達、音楽仲間の一部では「パクモトリュウイチ」と呼ばれている。(※その時の衝動で何の躊躇もなく、坂本龍一が他のアーティストの作品を堂々とパクることからこの名が付いたと言われている‥。)
昭和から現在に至る数十年もの間、坂本のある種卑怯な作曲スタイルを内緒話として嘆く声も多数聞こえて来たが、数の力で多くの人たちの嘆きが闇に葬られて来た。
 
実は先程Twitterにも投稿したが、私は音楽家として今、とてつもなく腹が立っている。
 

 
勿論パクモト、‥じゃなくて、坂本龍一が同じ国籍の同じ音楽家であることも腹立たしいが、それよりも現在進行形で戦火にあるウクライナの民謡『Verbovaya Doshchechka』の美しい旋律をパロディーのように切り崩し、メロディーの一部の音の配列と音域を1オクターブ移動しただけでその他の音楽の雰囲気等を原曲の民謡そのままの状態で残した楽曲に対し、「作曲: 坂本龍一」とクレジットし、あたかもウクライナの悲惨な状況を嘆く体(てい)の楽曲として世に輩出した彼の言動はもっと許せない。
 
この作品には坂本龍一ともう一人、ウクライナのヴァイオリニストのイリア・ボンダレンコ氏がクレジットされている。楽曲はイリア・ボンダレンコ氏の音色に触発されたことから生まれたように、坂本龍一の談として言い伝えられている。

だが幾ら何でもウクライナの村の民謡に楽曲を似せて作った坂本自身の作品と言われるものを、戦火の真っただ中にあるウクライナの若い演奏家を起用した上、ロシア製の爆弾で粉々になった学校と瓦礫の上でそのヴァイオリニストに演奏させ、それをプロモーションビデオとして配信して平然としていられる作曲者(?)・坂本龍一の感性が余りに卑劣極まりない。
 

 
そこで私は Piece for Illia の原曲として演奏されたYouTubeを先ず探し出して聴いてみた。それが以下の動画である。
 

 
音楽に精通している人であれば一目瞭然だが、このアンサンブルには余計な西洋コードが加えられていない。
せいぜい旋律が三音以内に制約され、ルートとなるベースが固定されていない為、どこか伴奏のない女性コーラスに似た不安定さが楽曲の魅力となって聴こえて来る。
 

上のYouTubeの楽曲は “Verbovaya Doshchechka”。邦題だとカタカナで「ヴェルボヴァヤ・ドシェチカ」と書かれてあり、この作品はウクライナの村の民謡(春の民謡)と言われるものだそうだ。
とても美しい曲なので気になって、スペルを調べてYouTubeで検索したら以下の動画がヒットした。
 


やはり東欧独特の音の韻を踏んでおり、そこはかとなくアルメニア民謡にも通ずる哀しい中にも芯のある音楽が心に沁み渡る。
パクモト‥ じゃなくて坂本龍一はヴァイオリニストのイリア・ボンダレンコ氏ではなく、実はこの民謡に触発され、楽曲のインスパイア成分95%(ほぼウクライナ民謡)の旋律とかなり不自然な西洋コードを複合させた音楽を、物マネすれすれであるにも関わらず自身の作品と称して世に出したと言っても良いだろう。
 
あえてこれを「盗作」と言わないのは旋律が全く同じではないからだけであり、音楽は旋律だけで構成されている訳ではなく、コードやモード、楽曲のニュアンスや全体の印象も含めて楽曲が完成する。
 
何より心からウクライナ国内の停戦を願い、ウクライナの未来を祈り、尚且つウクライナ民謡 “Verbovaya Doshchechka” に触発されたと言う坂本龍一の声が真実ならば、何故原曲の民謡をありのままカバーしなかったのかが私には理解出来ない。
「インスパイア」と言う言葉を使いながらも最終的には坂本龍一自身の楽曲として世に出したかった彼の強い欲だけが、楽曲の前面に泥のように散乱しており、それらがウクライナ全体を酷く汚しているように私には思えてならない。
 

坂本龍一「ステージ4」のガンとの闘病を語る

 
昨日 2022年6月7日、早朝から坂本龍一についての不穏なニュースが世界を駆け巡った。
彼自身が今とても苦しい状況に在りながら、それでも彼が「パクモト」から抜け出せないのはやはり、生まれ持った彼の「業」ゆえなのだろうか‥。
 
仮に何かを盗むのであれば、せめてそれが愛する人の為に‥ と言う美しい美談であればまだマシだが、(例えるならば)ルパン三世の物語の主役が時折嘆く美しいつぶやきのような噂が彼の周辺から聴こえて来ることは、おそらく今後二度と無いだろう。
せめてこれ以上坂本が日本人或いは日本の音楽家たちの誇りを汚さぬよう、心から祈るばかりである。