8. 表現とインテリジェンスについての考察 vol.2

【前書き】
前記事7. 表現とインテリジェンスについての考察では、クラシック音楽を演奏・解釈するにあたり最も重要な「インテリジェンス」について綴った。

本来ならばこの記事は全く別の内容を執筆する予定だったがそんな折り、noteにてとても気になる(悪い意味で)記事を見付けた。その記事にはクラシック音楽の演奏及び解釈に於ける誤りが正々堂々と書かれてあり、放置しておけないと思い、急遽この記事に差し替えて執筆することにした。

本記事では、既存のクラシック音楽業界のトップに君臨している審査員に対し、鋭いアンチテーゼを斬り込む。同時に今の日本の演奏家及び世界のクラシック音楽奏者に最も欠けているエレメントについて積極的にメスを入れながら、私の見解を述べて行く。

(以上 前書きにて。)

 

飯田有抄のショパコン日記60〜審査員の海老彰子先生に聞く。国際舞台で求められるもの

 

上のスクリーンショットは、前書きに述べた「気になる記事」、飯田有抄のショパコン日記60〜審査員の海老彰子先生に聞く。国際舞台で求められるものの冒頭部分である。
 
「第18回ショパン国際ピアノコンクール」には多くの日本の若きコンテスタントがエントリーしたが、その殆どが「欧米風の物真似」の域を出ないレベルであり、日本の古い体質(価値観)とするところの「欧米万歳主義」が突出していたように私は感じている。
(日本のコンテスタント等の)各々が持つ精神性や創造性よりも欧米選手陣のそれらを上位と捉え、そのボーダーラインに追い付き欧米のコンテスタントと肩を並べることが最終的なゴールと言う考えの元に組み立てられた、和製クラシック音楽界の悪しき指導と風潮の側面が想像以上に露呈した。
 

前記事7. 表現とインテリジェンスについての考察でも述べた通り、「第18回ショパン国際ピアノコンクール」に於ける日本人コンテスタントと海外のコンテスタントを比較した場合に、日本人に圧倒的に足りないものは「インテリジェンスである」と私は解く。
ここで言う「インテリジェンス」とは哲学、精神性、スピリチュアルな観点からの音楽解釈を含む「解釈と表現の知的熟成」を指している。あえて付け足すとしたら、個性を突き抜けたところに在る普遍的な表現解釈に至ることが望ましい。
 
だが記事飯田有抄のショパコン日記60〜審査員の海老彰子先生に聞く。国際舞台で求められるものには「第18回ショパン国際ピアノコンクール」で審査員を務めた日本人審査員の談として、こう述べられている。

演奏芸術というのは、最終的には一人でやっていかなければならない。たった一人で2000人の聴衆を相手にし、その人たちを演奏で説得するだけの力がなければならないこともあります。ひょっとするとその演奏で「人生が変わってしまった」という聴衆が出てきてもおかしくないほどの、インパクトあるものがアートです。
 
この解釈は大きな間違いであり、ショパンの意図に関わらず闇雲に聴衆にウケる一種のパフォーマンス・ショー的要素の強い表現解釈こそがアートだ‥ とでも言っているようにしか聴こえない。
上記に求められているものはパフォーマンスの才能であり、音楽或いは音楽性とは一切関係のないものである。
 
そもそも「ショパン国際ピアノコンクール」が全曲ショパンの楽曲で競われるものである以上、作曲者・ショパン以外の個性等不要である。ショパンが主役であり、演奏者は機材と化すべき‥ と言うのが私の考えだ。
よってインパクトも不要であり、そこにただ脈々とショパンのエレメントが在るだけで音楽は完成する。完成させなければならない。
 
上記(赤文字部分)のコメントには続きがある。
海老彰子 は日本の「伝統美」や日本人が持つ「謙虚さ」を半肯定しながら、逆にそれらが日本の演奏家の「毒」‥ つまり彼女が言うところの「個性」を打ち消す要因となる‥ と言う意味にも取れる、彼女のコメントが(岡本太郎の名を借りた)最終的には安易な「音楽表現に於ける毒性賛美」に転じている辺りは、ただただ表現解釈のど素人としか言いようがない。
 
 

 
表現が極限まで洗練されたもの、それが芸術である。

それは個性云々等到底足元にも及ばず、既に個性を突き抜けた普遍性の領域に到達し得るものである。むしろ個性よりも重要な要素が「原作者の意図」ならびに演奏者自身が持つ「インテリジェンス」である‥ と言う発想すら持たない(知らない)人物が、権威の袈裟を着て不要不急かつ過剰な個性推奨論を展開すること自体がアンインテリジェンスである。
 
記事飯田有抄のショパコン日記60〜審査員の海老彰子先生に聞く。国際舞台で求められるものには随所に 海老彰子の個性論がところ狭しと展開されており、ある種の「個性に対するコンプレックス」を強烈に感じさせる内容になっている。
海老彰子 自身がそもそも未完成であり、自身の未完成が引き出す強いコンプレックスが彼女の音楽人生の原動力になっている以上、この人物からまともな音楽論・芸術論ないしは表現論を導き出すことはもはや不可能だ。

自身の未完成を軸とした強烈なコンプレックスと強い承認欲求、及び権威主義的な発想以外、何一つ音楽や文化を突き詰めては思考していないこのような人物がクラシック音楽界のトップ周辺をこれ見よがしにうろつき、世の汚れを知らない若い演奏者や表現者を惑わす発言に対しては是が非でも警鐘を鳴らすべきだと思い、この記事ではその旨執筆の必要性を強く感じ、思い切って筆を執った。
 
ここ最近の全てのジャンルの音楽表現に共通する、間違いだらけの「強烈なインパクト」
ポップス等を例に取ればそれは「イントロ」に集約されることが多く、イントロだけがインド風やケルト風味で偽造されてはいるものの、主メロに突入した途端可もなく不可もなしの普通のポップスに味変してガッカリさせられる。
 
それに似た現象がクラシック音楽界の中でも起きており、兎に角何かしら取って付けたような横暴で強引かつ身勝手な表現解釈に転じ、音楽の冒頭にインパクトを持たせながら聴衆の注目をモノにすることばかりを最近の若い演奏者等は考えているように見えて、物々しいまでの不快感に苛まれる。
 
さらにそうした歪んで尚且つ下品な個性推奨論をゴリ推しする 海老彰子のような人物がクラシック音楽業界のトップに君臨している限り、この間違った価値観を若い演奏家が信じて国際舞台に堂々と遠征しに行く‥ と言うような滑稽な現象は、今後も続くに違いない。
深く恥ずべきことである。
 


音楽の主役は何を差し置いても、作曲家以外には存在し得ない。

仮に「個性」の断片を許容するならば、それは音色や音質等に託すべきではないだろうか。取って付けたような演出など不要であり、むしろ排除すべきである。
ショパニストに「サムライ」の装飾等も不要である。
つまり個性自体が不要なのだ。究極、楽譜通りに弾けば良い。
 
仮に個性を強調したいのであれば、是非とも演奏者本人のオリジナルの楽曲で表現の極限へと到達すべきである。オリジナルを持たない演奏家は「演奏者」と言う機材に徹し、ひたすら原曲や原作者の意のままの音楽を追求し、又作曲者の感性に深く寄り添い、自身の表現スキルを昇華させ洗練させることに集中しなければならない。

もしかするとそこで初めて原曲を超えた不可思議なエレメントが発生し、それが第二の個性として原曲への微かな調味料ほどの効果をもたらすかもしれない‥ 程度の、きわめて控え目な表現解釈に終始すべきである。
 

7. 表現とインテリジェンスについての考察

【前書き】
前記事6. ポーランドのショパニストたちでは、本国ポーランドのショパニストたちの比較検証について筆を走らせた。

本記事では「第18回ショパン国際ピアノコンクール」を観戦しながら思った表現とインテリジェンスについての私ならではの考察に的を絞って、表現分析を行って行こうと思う。

(以上 前書きにて。)

 


私自身、若い頃には多くのピアノ・コンクールに嫌々エントリーして来た人である。戦う側と観戦する側の両方を多く経験して来たが、先ず今でもくっきりと記憶していることは多くの若いコンテスタント等が日頃歪んだスパルタ教育に飼い慣らされている影響なのか、ただ「動く」「動かす」「ミスなく演奏する」ことだけを目標とし、肝心の作曲家への啓蒙や楽曲の知的解釈、形而上学的な考察に全く手の届かない思考で演奏している光景だ。
 
学生コンクール等ではJ.S.Bachをはじめとする色々な作曲家の作品が課題曲として定められているが、何を聴いても皆同じ音色、そしてクラシック・ピアノを習う上でどうしても叩き込まれてしまう「肩をくねくねさせて演奏する」嫌な癖や、「口を大きく開けてパッパッパ‥ 等と言いながらあたかもメロディーを歌い込んで演奏している」ような変顔の癖等までしっかりと教え込まれ、そうすることで自身が各楽曲の解釈の深みに到達しているかのような演出に余念がない。
会場の客席で見ている此方が赤面し、逃げ出したくなるくらい彼等の演奏も表現も滑稽で腹が立って来る(笑)。
 
それも致し方ないわけで、殆どの演奏者やコンテスタント等はコンクールにエントリーする上で有利な教授に師事しており、作曲家が何を思い、表現とはどのようなものであり、また感情や衝動及び戦意ではないもっと知的でインテリジェンス豊かな解釈をしよう‥ 等とは誰も考えていない。
隣近所の若い同業コンテスタントよりも優位にウケて、強いインプレッションを与えるにはどうすべきかと日夜考え、その結果「速度」「あえて解釈に突飛なクセを付けた圧倒的なインパクト」を持つ演奏解釈に辿り着くことになる。
確かにそういう表現をしておく方が簡単と言えば簡単で、審査員も深い考察をすることなく「印象」の強さだけで点数を上げて行くことが出来て一石二鳥だ。

 

ところで私がここの取り上げる「インテリジェンス」とは可能な限りの感情表現を抑え込み、感情よりも知性を、その知性を駆使した表現分析を優位に思考した音楽表現を指す。

この、重要なポイントだけで見た場合、「第18回ショパン国際ピアノコンクール」にエントリーした殆どのコンテスタントがそれ(インテリジェンス)に欠けていたと言っても過言ではないだろう。
そもそもインテリジェンスとは後から鍛えて身に付くものではない。これはもうどうにもならない。
 
若干スピリチュアルに寄った表現になるが、表現者は生まれ付いての表現者でありそれなりの蓄積を霊体が既に積んでいる。つまり何等かの過去世の記憶を霊体が既に保有した状態でこの世に降臨した現象が「その人」であり、それはとても稀なことなのだ。

私の場合は過去世がJ.S.Bach、つまりバッハであったから、生まれ付いて残響の音色や音楽の目的等を既に知っていた。知っていたと言うより記憶の片隅に在ったので、若い頃スッカスカのピアノで練習していた時は毎日がストレスだらけだった。
石造りの教会で深い音色のオルガン音楽ばかりに接していたバッハにとって、現在のスッカスカの、マイクや音響を殆ど度外視したような一般の会場のピアノの音色は音楽未満であり、その劣悪な音響状態に置かれたピアノをいかに効果的に鳴らすか‥ 等と言う発想自体が間違っていると思っている。
 
多くのコンクールがその状況で開催され、気象条件や集客状況等に音響や残響が酷く左右される中で演奏されるショパンで無事入賞出来ればもう、それだけで奇跡である。


日本人は国際試合に於いて、見た目(容姿等)に於いて既に不利である。

そもそもが日本人は全体的に「平たい顔族」であり、彫りの深い海外選手と並ぶと表情の緩急が乏しく何もかもが扁平に見えてしまう。
彫りの深い海外勢は顔の筋肉を少し動かしただけで思慮深そうな演出が可能であり、さもオレ様は深く深~く音楽や作曲家を理解しているんだぞ、と言う演技が出来てしまう辺りは、日本人が同じ舞台に立つ上で大きなハンディを背負っていると言えるだろう。
 
この、日本人が全般的に陥っている「平たい顔族」を、ではどのパーツでリカバーすべきかと考えた場合、やはり「インテリジェンス」だと私は考える。
だが各々のコンクールやコンテストには年齢制限が設けられている。なので若くして「インテリジェンス」で戦いに出る上では、なかなかリスクが大きいとも言えるだろう。生まれ付きの表現者を見抜く側にもインテリジェンスが必須となり、審査員の質が大きく問われることになる。
 
とまぁ上げて行けばコンクールそのものの議論が必要になるわけだが、そうなると手っ取り早いところで目に視える「運動神経」や「身体能力」に基礎点のベースを置いておけ!と言うことに辿り着く。それが結果的には身体能力に大きく依存しながら新進気鋭の演奏者を輩出してしまう、致命的な負の要因となっている。
 
 


今この記事を書きながら J J JUN LI BUI 氏のJ J JUN LI BUI – third round (18th Chopin Competition, Warsaw)を試聴しているが、やはり表現が短絡的に聴こえて来る。
それでも日本勢のどのコンテスタントよりも表現は深めであるが、フォルテの音が荒れており情念でショパンを解釈しているので流石に「天界の音色」には聴こえない。
 
感情やエモーションを音楽で突き抜けて行くには、全てに於けるエモーショナルな感覚を一旦手放す必要が生じる。
特にロマン派の音楽を演奏する人たちはその点をはき違えていることが多く、音楽のダイナミズムを感情で表現しようとする為音楽の全体像が崩壊して行く。その場その場の音をどう叩き込むか‥ に意識を奪われ、その楽曲の全体像に対してのピアニッシモ或いはフォルティッシモをどう弾き込んで行くべきか‥ と言うロマン派を演奏する上で最も重要な観点が抜け落ちてしまう。
それがJ J JUN LI BUI 氏の、特に「Ballade in F major, Op. 38」では顕著に顕れてしまったようにも見える。
 
音のアタック部分だけで勝負に出ているので全般的に音楽が繋がりを欠いており、モールス信号のようなスタッカートの音粒が鼓膜を刺激しているだけの音楽解釈に陥っている。それが音楽の「荒らされた感」の要因となっていることを、指導者も本人も気づかないままここまで来てしまったことはただただ不運だとしか言いようがない。
 
 


J J JUN LI BUI 氏が演奏していた「荒れたバラード」と同じプログラム「Ballade in F major, Op. 38」を、小林愛美 さんも弾いている。
 
前置きを付けるとすれば先ず、ショパンを演奏するに相応しいいで立ちとは言い難い点が女性の私には引っ掛かる。髪型と衣装がチグハグで、ロマン派ショパンを演奏するにあたりなぜこの人が、これからバレーボールの試合にでも出場するようなパッツンヘアにしちゃったのかが疑問である(笑)。
日本人の「平たい顔族」をより強く強調したかったのか或いは、「戦いの場」に装飾やお洒落等は不要だと考えたのか、何れにせよパツンと固めたヘアスタイルがショパンのまろやかでロマンティックな曲調に大きく負の影を落としているように思えて来る。
 
肝心のバラードの演奏について述べるとしたら、良い楽器を使用しているにも関わらず四畳半が透けて視えてしまう‥、つまり貧乏臭いのだ。
普段ファミチキをメインの主食にしているのかと思う程の貧相なテイストが漂っており、けっして豊かな気持ちにリスナーを導いてはくれない。
楽曲の解釈もせせこましく、ちまちましており、狭いのにやたら仕切りの多い一軒家の風呂場から道に迷ってしまい、戻りたい場所に戻れなくなってしまった時ような圧迫感と不安感にリスナーを導いて行く演奏解釈だ。
 
小林愛美 さんもどちらかと言うと身体能力型の演奏であり、それが楽曲全体の構成をちまちま細切れに切り刻んでしまっている。又フォルティッシモからピアニッシモに瞬時に移行した時に感覚の方がピアニッシモに移行出来ていない為、音色が雑に聴こえて仕方がない。
それは冒頭の段階で既に表れており、肝心のバラードのトップの旋律が投げ遣りに聴こえる。
しいてはそれが日本人特有とも言える「平たい音楽」を生み出しており、真っ平(まったいら)で何の味も素っ気もない、日にちの経った給食の食パンを間違って口に放り込んでしまった時のような残念感しか感じない。
 

では結果的に誰がこの、インテリジェンスを兼ね備えていたのかと言うと、このコンクール「第18回ショパン国際ピアノコンクール」にエントリーしたコンテスタントの中で言うとこの人、Alexander Gadjiev (アレクサンダー ・ガジェヴ) の名を私はあえてここに書いておきたい。

 

 
好き嫌いを超えて、この人の解釈は非常に哲学的であり、エモーションを突き抜けた楽曲解釈の種を持っている。
けっしてショパンを過剰に感情表現することはなく、身体能力さえも一旦頭脳解析にまで持ち上げてそこから音楽を再構成しているので、音色に言いようのない深みを感じさせる。
特にトップのメロディーのフレーズの頂点を打鍵する時、うっかりとその頂点の音をフレーズの中で最も強く打鍵するような幼稚な表現がどこにも見当たらず、それが一種の「音の含み」「間の含み」を生み出す卓越した表現スキルを垣間見せる。
 
だが何度も言うが、私はこの方 Alexander Gadjiev (アレクサンダー ・ガジェヴ) 推しと言うわけではなく、どちらかと言うと時折、どこか過剰な自信家の相を顔で演出する辺りに嫌味すら感じている(笑)。
だが音楽評論とはそういうことではなく、評論家自身の好き嫌いを超えた何かしらを論評する必要があり、その点で私は本記事の「インテリジェンス」と言う要素であえて金賞を選ぶとしたらこの人だ‥ と言うことだと付け加えておきたい。
 
 
それにしても‥。
「Ballade in F major, Op. 38」に限らずこの時代の多くの音楽が中間部で激しく展開しまくる起承転結の荒い曲調を持っており、私個人的にはそれさえなければ穏やかに食事中でも聴けるクラシック音楽になったのに‥ と舌打ちせざるを得ない。

音楽の中に、激昂は要らない。
ただただ穏やかに、メインの旋律だけが穏やかにさざ波のようにそこに在れば良いのだ。
 
時代のいたずらで翻弄されたロマン派の、未来型のロマン派の復活は未だ始まったばかりである。普遍的で激昂しないロマン派の音楽、そんな音楽が既に生まれていることについて、何れ誰かが語ってくれる日を私も楽しみに待ちたい。
  

6. ポーランドのショパニストたち

【前書き】
前記事5. ピアノに於けるショパンの競演では主に、世界最高峰と言われるピアノメーカーの比較をショパンの表現に照らし合わせながら評論を進めて行った。

本記事では「第18回ショパン国際ピアノコンクール」で激しい熱戦を繰り広げた本家、ショパンの出生地・ポーランドの演奏者を3人だけピックアップして、ショパンの霊体から降りて来た霊体評論に私の主観を重ね合わせながら著述を走らせて行く。

(以上 前書きにて。)

 

第18回ショパン国際ピアノコンクール入賞者

 


「第18回ショパン国際ピアノコンクール」に於けるポーランド本国からの入賞者は、Jakub Kuszlik(Poland / 24歳)ただ一人のみだった。

総じて本国・ポーランドの演奏者の特徴として、過剰なショー要素の強いパフォーマンスを控えている点が印象的だった。ともすれば弾き映えのしない、地味な印象を与えかねないショパンの解釈は、本国ポーランド人だからこそ可能な「一歩引いた表現」と言えるだろう。

私はこの、「一歩引いたショパンの解釈」をとても好意的に受け止めることが出来たが、数人のショパンコンクール観戦メイトに質問したところ、「う~ん、これと言って印象はないかな‥。」と言うような内容な回答が複数寄せられた。
 
本物を知る人間だけが、この「一歩引いた表現」に到達することが出来る。
同じことが英語の表現にも言えるが、英語に慣れない日本人が英語を話す時は何もかもがオーバージェスチャーになってしまうのと一緒で、これは今回のショパン・コンクールに於ける日本人演奏者等の過剰表現の形振りにも当てはまる。

 

Jakub Kuszlik

 
話しを元に戻して Jakub Kuszlik氏の全てのプログラムを今回、この記事を執筆するにあたり聴くことにした。

先ず音色の上品さがファースト・インプレッションとして響いて来たが、次に印象的だったのがこの演奏者の、全てに於いての気迫と一種のロック魂のようなアウェイ感に満ち満ちている点だった。
 
けっして美形とは言えないが、この人がショパンの生まれ変わりかもしれない‥ と思うと、確かにその片鱗を感じずにはいられない。が、ショパンは未だこの世に転生を果たしていないので、この話は私のたられば論として受け流して頂きたい(笑)。
 
Jakub Kuszlik氏の、ある種のツヤ消し感のあるショパンの表現は長時間彼の演奏を聴いていても色褪せず、尚且つ飽きることもない。
表面のふくよかさに相反する身体能力の切れ味も鋭いが、けっして身体の切れ味に依存してはいない。その意味では似たような身体能力の切れ味を持つ Bruce (Xiaoyu) Liu 氏と比べてもショパンの意図により近く、Jakub氏が首一つも二つも表現の奥深さに於いては上を行っている。

ただ、ワルシャワ・フィルハーモニック・シンフォニー・オーケストラの持つ、独特の音色と解釈の墨絵のようなシックさとJakub氏の持つ音色のツヤ消し感が合わさってしまうことにより生じる「-1」の相乗効果が、ショパンの求める「天界の音色」の一部を打ち消してしまう為、アンサンブルとしての華やかさには欠ける。
 
むしろJakub Kuszlik氏は完全ピアノソロのショパニストとしての方が、私個人的には加点要素が多いように感じている。彼の持つロック魂が炸裂した「お一人様ロック・ショパン」に、今後の期待を私は寄せている。
  
 

 
もう一人、私がとても気になって何度も聴いていた演奏者がこの人、Piotr Alexewicz(Poland / 21歳)である。
 
実はこの人の上の写真はこの記事を書く為に後から見つけ出したものだが、実際に「第18回ショパン国際ピアノコンクール」で彼が戦った時は「戦士」としてのいで立ちなのか、上のプロモーション写真とはおよそ似付かぬいで立ちでステージに立っていた。
 

PIOTR ALEXEWICZ – third round (18th Chopin Competition, Warsaw)

 
どちらかと言うと、日本語で言うところの「無骨者」と言った表現に近いが、そこには虚飾も見栄も張ったりもなくただただ素直なショパンの音色が在り続けた。
私はこの「嘘偽りのないPiotr氏のショパン」に好印象を持った。同じことを、ショパン(霊体)本人も語っている。
 
けして華やかさを過剰に引き出すことはないが、音色の緩急の付け方がいかにもショパンであり、尚且つマズルカの「舞曲」テイストがこの人の場合とても強く、段々とショパンを聴いていると言うよりそこから完全に「マズルカ」の世界にリスナーを引っ張り込む力が圧倒的に強かった。
 
他の演奏者と違って「歌」或いは「歌う」と言う要素には欠けており、それがショパンらしからぬ音楽としてリスナーを若干煙らせてしまうようにも感じたが、あえて「歌」感をマイナスし、それを頑固に全ての演奏に通じさせて行く底力にはある種の将来性を私は感じている。
 
何より身体能力の切れ味でショパンを華麗に演出し切ってやろう‥ と言う野心のないところが、誰よりも印象が良かった。それをコンクールの審査員がどのように受け止めたのかは定かではないが、彼の音色には絵画で言うところの「ルノワール」のような色合いが強く感じられ、リスナーを瞬時に感激させたり瞬殺するようなショック性が無い代わりに、兎に角長く長く低空飛行を試みるハングライダーのように視えて、ともすると一日中ずっと彼の演奏を聴いていられる。

 

 

そしてこの記事にもう一人、本国ポーランドのショパニストを挙げるとしたらこの人、Kamil Pacholec(Poland / 23歳)だろう。

 

KAMIL PACHOLEC – final round (18th Chopin Competition, Warsaw)

 
この人も又他国で本コンクールを戦った演奏者とは異なり、ツヤ消し感要素の高い控え目なショパンを演奏している。
特に印象的だったのは、ワルシャワ・フィルハーモニック・シンフォニー・オーケストラのツヤ消し感の高いシックな音色にKamil Pacholec氏のピアノが乗ると本来ならばツヤ消し感が増す筈が、上品かつゴージャスな音色に変貌した点である。
 
しかも指揮者共々本家ポーランドの人だと言う点が幸いしたのか、演奏中慎重に互いにアイコンタクトを重ね合い、互いの呼吸に真剣に同調している辺りが何とも好印象だった。
 
ショパン自身はどちらかと言うとワンマン・ワンオペタイプの作曲家であったから、彼が為し得なかった「ピアノコンツェルト」をショパン本人は幻想と妄想の中で書き切ったようだが、こうして実際に音になって天界のショパンに届いて行くことになるとはゆめゆめ思いもしなかっただろう。
 
厳密に言えば、Kamil Pacholec氏の奏でるショパンは「天界の音色」にはまだまだ距離と課題はあるものの、永遠の眠りを静かに、時に厳かに華やかに包み込んで行く音色としてショパン本人も、両者(ワルシャワ・フィルハーモニック・シンフォニー・オーケストラKamil Pacholec)の組み合わせにはとても満足しているようだ。
 
二次予選の動画『KAMIL PACHOLEC – second round (18th Chopin Competition, Warsaw)』を視る限りでは、ピアノソロになった時、音の立体感に若干乏しい印象を受ける。
おそらく身体能力はさほどでもなく、スタミナが足りていないのかもしれない。高音が低音の重量に完全に潰されており、ショパンの書き遺した彼独特のメロディー(主旋律~副旋律‥)の抑揚に欠けて聴こえてしまうのが残念だった。

 

 
ショパンの意図する「天界の音楽」とは何なのか‥。
それを徹底的に模索し、表現し尽くす為には、演奏者(演奏家)に絶対的に必要な「霊力」或いは「霊体」が三者三様全く足りていない。
 
勿論霊力が無ければショパンが弾けない‥ 等とは言い切れないが、楽譜に記録されたものだけで音楽の根幹までを表現するにはかなり無理がある。
残念なことに、この記事に挙げた三人全てが霊体「ショパン」に通じていない。勿論同コンクールの審査員も同様なので、これが厳密に「ショパンコンクール」であるかどうかはショパン本人が最も疑問に感じている点である。
 
ショパンを表現する為のコンクールなのか、或いはショパンの楽譜を厳密にステージ映えするように再現する為のコンクールなのか‥。
実はショパン本人は、そのどちらも望んでいない。そこに作曲家・ショパンが存在する余地は全く以て残されていないからである。