愛とタイ料理と古巣

少し日常に変化を求めたくなり、週末の金曜日の夕方から母校のある仙川へ足を運んだ。
未だ日のある時間に母校を覗く予定だったが、何となく気分が乗らなかったので、真っ直ぐに仙川の西友の裏路地にあるタイ料理店ヴィエンタイに直行した。

ずっと会いたかったオーナー、サカオラさんが優しく私を出迎えてくれた。昨夜遅くサカオラさんのLINEにヴォイス・メッセージを入れておいたので、今日私が店に行くことを彼女は既に知っていた。

その昔、我が家が今よりも経済的に厳しい状態にあった時代に、彼女には本当にお世話になった。ランチタイムを外した時間にサカオラさんは頻繁に私を(昔彼女が別の場所で経営していた)お店に呼び出しては、無料で店のまかない料理を私に沢山食べさせてくれたものだった。

それが数か月間続いた後にいきなりサカオラさんが「アタシ店ヤメル!」と言い出して、当時の店(ヴィエンタイ)がいきなり閉店。数か月間を経て今の仙川の別のタイ料理店の居抜きの場所に、サカオラさんが新しい「ヴィエンタイ」を開店したのがかれこれ、2019年某日のことだった。
(中略‥)
 
昨年末から私の生活環境が激変し、それと同時に食生活も味覚も変わった。以前よりも食が細くなり、それと並行して自然とウェイトも落ちて行った。
店に着くや否やサカオラさんが「アラ、少シ痩セタネ~!」と言ってにこやかに私を出迎えてくれたが、どこか少し元気が無くて心配になった。でも彼女が作り出す料理は今の私の体に、しみじみと‥ これでもかと言うくらいにしみじみと沁み渡って行く。

 

 
以前ならば何をどれだけ出されても生真面目に完食出来た私だったが、今は当時とは勝手が違う。私もコスパの良い体になっている分、胃袋の収納量には制約が生じる。そのことをサカオラさんに話すと、丁度良い分量の料理を盛りつけてくれた。

上の写真の牛肉煮込みヌードルのスープは、なんと漢方薬を使って出汁を取ったとサカオラさんが話してくれた。そうとは知らなくても、このスープからは何とも優しい味が醸し出されて心も、そして思い出までもじんわりと癒してくれた。
 

何となくもう一皿小皿料理が欲しくなり、フライドポークのようなエキゾチックな肉料理をオーダーした。付けダレに辛味の効いた調味料が付いており、それが又夏の暑さをポ~~ンと吹き飛ばしてくれる。
 

 
昨年夏の今日と同じ頃、私はヴィエンタイの常連客の一人とSNS上で酷い口論になり、人間関係が拗れ、それが原因で店に行くことを控えていた。私と拗れたその人は仙川の住人であり同時にヴィエンタイの常連でもあるので、迂闊に店に行けばどうしてもどこかでは対面せざるを得なくなる。

そうはならないよう私は先方のテリトリーには近付かないよう気を張っていたが、一昨日辺り‥ ふと、サカオラさんの顔が脳裏に過り、彼女にどうしても会いたくなった。なので昨日・金曜日は夫に外出の許可を得て、兎に角仙川に向かったのだった。
 

サカオラさんと何を話したのかについては、当然ここには書けない。表には出せない内容が多かったからだ。
私とサカオラさんとは「そういう話」を躊躇いなく話せる仲。どうして、いつからそうなったのかは正直私にも分からないが、普段頻繁に会っているわけではないのに逢えばナイショ話に花が咲くのが私達流だった。
昨夜もそうなったが店が意外に忙しく、彼女と多くを話すことは出来なかった。
 

 
2時間強をヴィエンタイで過ごし、会計を済ませて外に出た時に、厨房からサカオラさんが私を追い掛けて来てくれた。そのまま彼女は厨房を放り出して、10分程度ではあったけど立ち話を楽しんだ。
 

段々と日が長くなり19時を過ぎても外は明るかったが、一度日が暮れてしまうと辺りは独特な夏の静寂に包まれ、もの悲しい空気に心が押し潰されそうになった。
きっとそれは、その場所が私の古巣の「仙川」だったから‥ かもしれない。

サカオラさんと少し立ち話をして、彼女とハグをして「また来るからね」と言って彼女と別れると私は、そのまま仙川駅とは逆方向に歩き出した。確かめたいことが幾つもあって、その幾つかをこの目で確認したかった。
 

学生時代に足げく通ったアンカーヒアのある通りを真っ直ぐに、母校の校舎に向かって突き進んで行くとその場所はいつの間にか別の店舗に変わっていた。
Facebookでは2018年3月4日以降店舗の更新が止まっており、その後何度か仙川に行った時も店はずっと扉を閉めたままだった。もう一度だけあの「唐揚げランチ」と「トマトシチュー」が食べたかったので、仙川に行く度に機会を覗っていた。

昨年5月までは確かに、そこに「アンカーヒア」の店舗だけはあったが、今日は跡形もなく消えていた‥。
 

立ち止まれば涙が溢れ出そうだったので、そそくさとそこを立ち去った。その足で昨年の同じ時期には未だ建て替え工事中だった、夜の母校(桐朋学園音楽大学)を見に、歩を進めた。
 

桐朋学園の現在の学生ホール (2022.06.17 21:10頃)

 
「もぐら」の巣と呼ばれた昔の校舎とは違う立派な建物が、そこに聳え立つ。勿論私の知る、遠い思い出の中の懐かしい校舎はもう、そこには無い。

同じ場所なのに違う世界がそこにはあって、私は何度も過去の記憶をダブらせながら「今」を認識しようと努めたが、なぜかどうしても今日に限ってそれが上手く行かない。
恩師・三善晃氏と過ごした時間はもう、ここには流れていない。同じ時の末端に居る筈。だけど今と過去とはどこかで分断されてしまった、そんな気がしてならなかった。
 
どこからともなく届くトロンボーンの音色。そこに折り重なるように、さらに遠くから微かに風に乗って聴こえて来るオーケストラの音色‥。きっとこんなに遅い時間だけど、学生オケのメンバーが音を重ね合わせているのだろう。
 

前に進まねば。ここに長く居たら気が滅入りそうだ。
そう思ったので私は又、元来た道を引き返したらそこに、こんな日に限って懐かしいブティックに突き当たる。本当に何と言う日だろう‥。
 

 
学生時代、未だ(亡くなった)母の虐待が日常的に行われ、思うように衣服も買えずに居た頃によく通りがかっていたブティックだった。
当時、学生の私には未だ背伸びしなければ着れない服だったが、今夜の私ならばこんな服も似合いそうな気がした。

もう母もこの世を去り、私のファッションの妨害をする人はこの世に一人も居なくなった。
さっき「ヴィエンタイ」を出た時にサカオラさんが、「アト、4~5キロ痩セタラモット綺麗ニナルヨ~」と言ってくれたが、確かに私もそう思っている。
存分にお洒落がしたい。昔、あの5人組のアイドルのステージ衣装のアイディアを昼夜を問わず捻り出していた時とは、何もかもが違う。今は自分自身を綺麗に着飾らせてあげたい。
 

‥色んな思いを巡らせながら向かう21時半の仙川駅は、何ともエキゾチックだ。もうけっして若くはない私が、若い頃の感性のフィルターをそこに重ね合わせながら見つめる仙川駅の広場は、傷だらけの当時の私とその傷跡を今も少しだけ滲ませている数十年後の私が出会う、唯一の交差点だ。

 

 
買ったばかりのOladannceのイヤフォンにDidier MerahのNew Motherを開通させ、大音量で聴きながら私は足早に京王線の駅に向かった。

微かに背後から、恩師の気配を感じた。振り返れば電車を何台も乗り過ごしてしまうかもしれない不安に駆られながら私は、「今」と言う時間と風をぎゅっと手に握りしめ、下りの電車に飛び乗った。

 

エッセイ 『カオマンガイ』

ギフトは未だそこに在った。雨は程好く降り続いており、人々の喉や粘膜に心地好い湿度を与え続けてくれている。
この分だと今日は、ようやく咳喘息からも開放されるに違いない。予感がしたので早々と外出の支度を始めたが、その予感が10分後に的中する。  
 

「よかったらタイランチ、行きませんか?」 …

はつらつとした文字が、待ち受け画面を突き破って踊り出す。
 

段々と友人が若年化して行くことは、きっと佳きこと。
私が長くこの世に留まり、ワクチンを打った知人達は10年後には多分誰もいなくなるだろうから、なるべくクールで知的でユーモアを交えても態度が崩れ落ちない、そんな要素を備えた若い友人を私は心から求めていた。

 

23歳の彼女は今年の初春までは医療従事者の卵だったが、この世界情勢を踏まえある日いきなり結婚し、その勢いで何の躊躇もなく医師人生を投げ出して、愛する一人の青年の為に生きる将来を選択した。
(私の)夫がテレワークから日勤にシフトする日程を彼女には教えてあるので、頃合いを見て連絡が来る。今日がまさにその日だった。

 

偶然だが二人の食べたいものが一致したので、おんなじメニューを大盛りで注文する。段々と思考回路も体の細胞も同化して来るみたいだと彼女は言うけれど、そんな彼女も感覚が少しずつ開き始めているのかもしれない。 以心伝心の確率が徐々に上がって行く。

 

彼女が悪夢を見る度にLINEのメッセージが届き、話しを聞いて欲しいと懇願して来る。悪夢の主人公が、私の母親らしき人物だからだ。
母は一体これまでに何人の人達を苦しめ、さらにここからどれだけの人達を苦しめたいのだろうか‥。
私を拒絶しながら尚も、未来の私に干渉しようと企んでいるようにも見えて来る。

 

 

悪夢は私の夢でも起きており、立て続けに三日間私は「光る魚」の夢を見た。
いかにも「夢」の、あり得ないような場面設定だが、とある伊豆の海の向こう側におびただしい数の「光る体」を持つ大きな魚の群れが幾つも現れては、海岸に向かって泳いで来る夢だ。

真夜中の海、幻想的なのにどこかスリリングで冷ややかな映像は、私が寝返りを打つまで続く。 ストーリーも大体決まっているので、おそらくどこかの過去世で私は同じような経験をし、それが記憶の糸くずとなって現世の私の喉元にずっと引っ掛かったままになっているのだろう。

 

カオマンガイ

 

「ジンジャーライス、美味しいですよね。」‥

彼女は敬語を絶対に崩さない。私がどんなにラフに話し掛けても彼女は最初に会った時のまま、態度を変えない。そんな彼女の礼儀正しさが私は大好きで、彼女が未だ高校生だった頃からずっと友人関係が続いている。

 

彼女もワクチン接種を思いとどまっている。
同僚や後輩たちが次々と「職域接種」の赤紙を受け取り、集団接種会場へと駆り立てられて行く光景を彼女はきっと、苦しみながら静観していることだろう。  

「本番、最初は今年の冬ですね‥。」

私達は海外の論文を共有し、彼女はそれを翻訳し直して私に正しく説明してくれる。


「副反応じゃなく、怖いのはサイトカインストームの方なんですよね。どんなに話しても、同じ医療従事者達の方がむしろ耳を貸してくれなくて‥。」
彼女は時折泣きそうになりながら私の右手に彼女の左手を重ねるようにして、何とか号泣を止めている。  

「すみません‥、話題を変えますね。どうしてもこう、なんとなくこういう話しになっちゃってごめんなさい。」‥

 

彼女の周囲から友達が減っているのは、目に見えて私にも分かる。
意見の合わない人達と遠ざかったり、或いはワクチンを接種した同じ年の友人がある日突然帰らぬ人になったり、きっと未だ若いから心の整理も付けにくいのだと思う。
良くも悪くも諦めが悪い、でもそれが若さの象徴だから私はそんな彼女を娘のように思い、あえて何も言わない時もある。

 

同じタイミングでカオマンガイを完食した二人。一昨年ならばその後に「コーヒー、ご馳走しますよ。」と彼女が財布を握ってくれていたが、世界はそんな気楽な人と人の関わりを許さない空気で満ちている。  

私: 「続きはLINEでね。帰ったらメール入れるから。」

Zoo呑みならぬ動画なしのLINE喫茶ごっこを開始して、かれこれ90分が経過した。  

 

「今日も楽しかったです。又ご一緒して下さい、私からお誘いしますから。」

ランチのテーブルで全く同じ内容のカオマンガイを前に、各々のカオマンガイを撮影してLINEで交換したら、どっちがどっちのカオマンガイだか分からないくらい似た写真が2枚並んでしまった。  

 

私:「こっちが私(Didier)のカオマンガイよ!だってサラダとスープのお皿をこそっと引っくり返しておいたから。」  

 

来世、生まれ変わる時は姉妹がいいと彼女から頻繁に言われるようになったが、もしもそうなれたら絶対に喧嘩だけはしないように、遺産相続争いにだけはならないようにしたいわね‥ 等と色気のない能書きを垂れる私を娘のように慕ってくれる彼女との関わりが、一日でも長く続きますように‥。

家族のように

 

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昨日午後あたりから急に気持ちも体調も落ち込んで、結局夕食も摂らずに朝まで深い眠りの中に居た。
早朝夫にバナナミルクを作って彼を会社に送り出した後、何となく喉が痛むので何度も何度もうがいをして日課の練習に入った。
練習が終わり、静かに水を飲む。最近は兎に角水を頻繁に飲むようになり、それが私の第二の持病の悪化をかなり防いでくれていることに気付いてからは、何をする前にも後にも必ず水を飲むようになった。

 

ランチをどうしようかと思っていると5駅向こう側からLINEで連絡があり、例の試食会をするから来てよ‥ とカタコトの日本語でヴォイスが残っていた。行こうかどうしようか少し迷ったが、こういう時にはむしろスパイス系を摂取した方が好いと思い、サクっとシャワーを浴びて駅まで歩き電車に乗った。

向かうはタイ料理店。

 

出されたものは何と、ソムタムと言う青パパイヤのサラダからタイ風スープ、そしてバッタイ未満の残った麺をタイ風に味付けして炒めたもの、その他色々。
ぶっちゃけた話、店舗の定食よりも多分豪華なまかない食で、店員以外の客人は私だけだった。家族のように迎え入れられた気分で、お腹も心も一杯になった。

 

タイではね、生野菜も手でボリボリ食べるよー。

 

ママの大きくて愛くるしくてパワフルな、声の解説が付いて来る。この店ではこうしてランチ後の休憩中に、スタッフがテーブルを囲んで家族のようにご飯を頂くのだとか。

 

お姉さんも家族よー。いっぱい食べてってねー。

 

何だか異国の母親を見つけたような気持ちになり、何度も何度もお料理に、ママに、そしてスタッフの方々に手を合わせ感謝の意思表示を続けた。
幸せな気持ちだった。

 

帰宅後、練習第二ラウンドを軽くこなし、刑事ドラマ「相棒」を観たら少し休もうと思いながらこの記事を書き始め、現在に至る。
そろそろ休もうと思う。