暑気払い

昨日は暑気払いをかねて、久々に焼き肉を堪能して来ました。
数年前に比べると食欲が若干低下したのか、予定していた皿数を消化出来なかったのはショックでした。
 

色々なことを考える今日この頃。
つい半年前くらいまでは兎に角同業者や芸術方面の人達と繋がりを持つことを考えて来たのですが、音楽家の多くが自己愛が激しく、殆どの音楽家たちが他の人の音楽を正確に聴くことが出来ないと言う壁に何度もぶち当たりました。
なのでこれからは異業種の人達との繋がりに、着目して行きたいと感じています。その方が、良い人間関係を築けるので。
 
又、別の意味でも私の音楽を異次元級の音楽として、又私を音楽家・芸術家として向き合ってくれると思いました。
 

 
本来、音楽家が他の音楽家の作品を正確に評価出来ないことは、きわめて致命的です。
仲間同士を褒めちぎり合うのではなく、双方の人間的価値を正確に見極めると言う意味で、同業者にそれが出来ない人達がこれ程までに多いから、今の堕落した音楽業界に至ったとも言えるでしょう。
 
 
何度も言いますが、私はバッハ(J.S.Bach)でした。
過去世バッハの私にはバッハとしての人生の蓄積とその記憶があり、音楽の父・バッハが考える次世代の音楽のいろはが私の中には既に詰まっています。
 
「格の違い」を双方認識し合いながら、適切な人間関係を持ちたいと願うばかりです。
  
 

バッハ (J.S.Bach) と言う過去生の自分

私が過去世 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ であることは、あくまで私の過去の魂の履歴に過ぎません。
何故自分がその人であることを確信するに至ったか‥ と言うご質問はこれまでにも何度か投げ掛けられていますが、それは簡単に言えば「あなたは何故自分が人間であると確信するに至ったのですか?」と言う質問と、内容はほぼ一緒です。
なので答えるまでもありません。
 

他人事としてバッハの偉大さを挙げるとすれば、例えば以下のようなことになるでしょうか。
 

  1. 教会音楽、或いはゴシック様式の礎を築いた最初の人であること。
  2. 対位法と言う前人未踏の音楽理論を確立した、最初で最後の人物であること。
  3. 即興演奏の名手であったこと。これが後のサロン音楽文化の基礎となった点は見逃せません。
  4. 空間音響学の基盤を構築した最初の人物であること。
  5. 何より音楽全般の父として、作品や生き様、音楽理論に於ける彼の多くの実績が後世に受け継がれていること。


挙げればきりがないのですが、現在私が次世代の音楽の基盤を新たに構築している点を理解出来る人であれば、私がその人 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ であったことに於いては矛盾を感じない筈です。
ですが全てはあくまで、私の過去世の魂の変遷でしかありません。私は私、Didier Merahでありそれ以上でも以下でもないと同時に、現在に至るまで私のような人物が二人と存在しないことも又事実です。
 

 
Didier Merahは現在、自身の半生のお片付けの真っ最中です。未だ手の負傷も完治していないながら、新作のメモだけは日々湧き出て困っています(笑)。
人生の大掃除中にて、暫くは音楽評論や音楽紹介、音楽鑑賞にエネルギーを注ぎながら次の自分に備えて準備中です。
 
作品のみならず生き様を含む全てを次世代のサンプルとして確立しようと試みている最中なので、これからの私の言動はきわめてシンプルできわめて歯切れの良いものに進化して行くことになるでしょう。
 

一見優しい音楽を生み出している私ですが、言葉はとても辛辣でストイックです。
付け焼刃な甘ったるい同情は、一切しないことをポリシーとして生きています。私に何かしら話し掛ける時は、「歴史上の音楽の父」として、そして「次世代の音楽の母」を目の前にしていると言う気概と覚悟をもって接して下さい。
以後、このルールに反する内容(言葉遣い含む)のDMやメールには、返信はしないつもりです。

礼節は尽くして下さい。お願い致します。
 

 

回り始めた人生の輪

時々、物事が思うように行かない時は、ゆったり、まったりと優雅な気分に浸れる場所で美味しいお料理を堪能するに限ります。
日曜日もそんな感じで、美味しいフレンチのカジュアル・フルコースを頂いて来ました。

とにもかくにも母(故)や弟(故)の念もかなり薄まり、彼らの呪いのような圧が無いだけでも物事が順調に捗り始めていることは確かです。
 
唯一弟(故)の嫁の「りえさん(仮名)」が未だ、母の死亡診断書のコピーすら法定相続人の私に開示しない辺りは何とも釈然としません。
彼女には、色々な物事の引継ぎを、きちんと最後まで執り行う義務があると私は思っています。
ですので、弟(故)の嫁がそうした重要な書類を持ったまま私から逃げ回り続けていると言う、‥彼女のそういう言動が長期的にまかり通る筈がありません。

 

 
私は既に夫の家に嫁いでいるわけですが、夫の霊団がかなり強力なので、天照大神を始め夫の巨大な霊団が私達夫婦の前途をサポートしてくれると信じています。
その意味でも、弟(故)の嫁の今後のことは各霊団の判断と英断に託すことがベストでしょう。
因みに。某霊団を怒らせたことにより母の霊体は彼らに抜き取られ、その三か月後に母は他界しています。
 
因果応報。人の行いは必ず、自分自身に返って来るのですから。

 

 

私は次の人生に向けて、粛々と準備を進めて行きます。
 
幸い私を巡る新たな人間関係はとても良好で、皆さん本当に良くして下さっています。
Instagramで弟の嫁の「りえさん(仮名)の知人」の体(てい)で現れ、私にDMを送って来られた方が言うような、私を「危険人物」のように言う人は、私の親戚・親族と「りえさん(仮名)」ご本人やその周辺の人達だけです。
 
個性的な生き方をしている人と、言動が危険極まりない人との区別は付けなければいけません。さしずめ私は前者の側の人間です。
だって、芸術家ですから(笑)。
 
芸術家を名乗る人、しかも私はJ.S.Bach(バッハ)の生まれ変わりですから、凡庸な生き方をする筈がありません。
その辺りは是非、ご理解頂きたいものです。

 

音楽評論: Max Richter, Mari Samuelsen, Robert Ziegler – “Movement Study”

最近は主に「作曲」「アカデミック」と言う観点で音楽に接している私、Didier Merah。日々雑多な音楽に触れて行く中で、色々な視点で音楽に触れながらも分析には余念がありません。
 

クラシック音楽からアンビエント、Dubやアフリカ音楽~フラメンコから中東と本当に切れ間なく情報を脳内に蓄積 ⇨ 更新して行く中で、必然的に音楽を聴き分けて行く自分が在ります。

百年後、千年後に残る音楽を目指す私のような作曲家(芸術家)は、きわめてレアなタイプかもしれません。多くの音楽家が自己実現タイプの活動を軸とし、中でも多いのがパフォーマンス・タイプのアーティストだと言えます。
純粋に作曲だけに注力している作曲家を私は、この数十年間殆ど目にしていません。多くの作曲家が気付くと人前に顔や演奏する姿を露出したがり、その殆どが曲芸の域を出ないものばかりでうんざりします(笑)。


 


そんな中、過去世バッハであり大のオルガン好きな私の鼓膜に突き刺さって来たのがこの人、Max Richterマックス・リヒターと言うアーティストのアルバムVoices 2でした。
オルガンの音色をベースとした、おそらく「Voice」と思われるパーツは打ち込みでしょう。なのにとても自然な音に整頓され、とても聴き易い音に仕上がっています。
 

Max Richterマックス・リヒター は自身のジャンルを「ポスト・クラシック」と命名し、クラシックと言う頑丈な外壁を持つ音楽ジャンルの垣根を越えて多ジャンルとのコラボレーションを目指すアーティストとして、自身を位置付けて活動しています。

https://ontomo-mag.com/article/interview/maxrichter-20190408/

 

丁度今日の私は良質なアンビエント・ミュージックを探していたので、そんな折彼の作品はドストライクでした。ですが彼を調べて行くうちに出て来た「ポスト・クラシック」がもしも彼のメインのジャンルだとしたら、やはりそれは正統派のクラシック音楽にはカテゴライズせず、BGM音楽として私の中に記録するに留まるのかもしれません。
 

クラシック音楽に高い垣根を設置しているのは何を隠そう、そうしたクラシック音楽に強烈な美意識と権威主義を見い出さんとする音楽家自身であり、それが一般のリスナーのクラシック音楽離れを同時に誘発している要因であると私は思っています。
勿論既存のクラシック音楽に良質かつシンプルな作品が少ないことも大きな要因ですが、Max Richterマックス・リヒター のように優れた感性と音楽教育の基礎を施された音楽家が、自らを「実は懐の広い音楽家であるのだ」と誇示し過ぎる余りに、かえってアカデミック音楽からリスナーを遠ざけてしまう点は何とも残念としか言いようがありません。
 

また最近のアンビエント・ミュージックの欠点はと言えば、メインのメロディー(旋律)を持たない点にあります。
手持ちの機材の偶発性を利用し、自分の気に入った周波数で背景となる音像をセットし、それを幾つかのコードに分配し、繋げて長いセンテンスを何度かループしながら一曲を構成して行くのですが、あくまでそこにあるものは「人の心と記憶に残るメロディー」とは全く別物の「音の残像」を超えない何かであり、それは「曲」の形態を取っていません。
 

残りそうで残らない音楽だけど何となく聴いている瞬間だけは心地好く、日常生活の中では発生することのない借り物の感情や感覚を誘発してくれる音楽なので、それを「良い音楽」として認識する人達も一定数は現れるでしょう。
ですが聴いた後1時間もすれば多くのリスナー達も現実世界に戻って行きますから、先程まで接していた音楽は彼等の現実とは無関係な「何か」として、それらは日常生活には不要不急の何物か‥ として記憶の片隅で幻のように温存され、やがて消え去って行きます。


勿論料理だって胃袋に入ってしまえばそれまでではないのか‥ と言われたらそうなのですが、芸術作品や音楽、絵画等はその印象だけでも心の中にしっかりと刻印したいと私は思います。
なので私の場合は「刻印に耐え得る音楽」に(最近は)特化した楽曲作りに努めていますが、その片鱗を持っている音楽家がそうではないジャンルの音作りの方に舵を切って行く様を見ていると、時折胸が痛みます。
 

まるでそんな私の胸の痛みを弔うようなこの作品のオルガンとコーラスの音色が、さらに今現在の地球上に広がる多くの悲しみと痛みに祈りの霧を撒いて行くようなこの作品が、何故か今日は心に沁みて来ます。
こういう音楽の聴き方も好いのではないかと思わされるその作品『Movement Study』を最後に、この記事を〆たいと思います。

 

 
※アルバム『Voices 2』のSpotifyのLinkはコチラです。 ⇩

 

Monday and the smell of rain

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いつもと少し違う朝の匂い。いつもこの時期は窓を全開にして新緑の香りを存分に体に取り入れるシーズンなのに、今年は既に雨の匂い、梅雨の匂いが街全体を包み込んでいる。

雨の匂いは私を憂鬱にするだけでなく、あの怠重い偏頭痛を連れて来る。昨夜半から既に頭痛が来ていたが、あえて頭痛薬を呑まずに眠りに就いた。目が覚めてからの好い状態を期待したがその期待は呆気なく裏切られ、今まさにこうしている時も頭内に心臓がもう一つ増えたような痛みと「ズシン、ズシン」と言う音が木霊し続けているので、致し方なく頭痛薬を呑んだ。

 

昨日 日曜日は丸一日布団と台所の往復で過ぎて行った。日中ハニーレモン(温)を飲んだ時のあの感動が忘れられず、この記事を書き終えたら再びハニーレモンを入れて飲む予定である🍋

 

いつもと少し違う朝、それは私が大嫌いなリストを何故か急に聴く羽目に陥ったからそう感じているのかもしれない。

 

遂に学生時代、私はリストを一曲もものにすることが叶わなかった。

そもそも右手の一部の腱が人より短く、或る時実技の教師にその腱を修正する為の手術を勧められたが私はそれを拒否した。
私の目指す音楽は「速弾き、高速回転のパッセージ」の先に無いことを、私は生まれた時既に知っていた。それは私がかつてJ.S.Bachだった頃の記憶に基づくもの(と言うことは現在の夫と結婚してから分かったことであるが)であり、天井の高い教会で奏でる美しい音楽とその残響がけっして「速弾き、高速回転のパッセージ」から生まれるものではないことを、魂が記憶していたからに違いなかった。

 

Twitterのプロフィールには「私の過去世がJ.S.Bachであった」ことを、そっと書き添えている。それは余りに普通のことのように綴られたものだから、その一文を目にした音楽ファンの目にはきっとそれが冗談のように映っているのかもしれない。

でもそれで好かった。バッハの生まれ変わりが今ここに居ることよりも、その生まれ変わりが今何を求め、何をしているか… のことの方が余程大切なのだから。

 

 

2018年 春。Didier家は結婚10周年を迎える。

その為私たち夫婦は今年の前半は恒例の「大型連休レコーディング」等の作業の手を全て止めて、ただただ普通の夫婦のようにそっと結婚記念日の為のイベントを考えている。

派手に旅行に行くでもなく、派手にセレブ的お茶会に興じるでもなく、私も夫も大好きなステーキを静かに頂く。たったそれだけのことがこの数年間全く出来ていなかったので、今回はいつもよりはグレードの高いお肉を堪能したいと思って予定を組んでいる。

 

 

それより…。
段々とエチュードが不足して来た。例えばChopin、ラフマニノフその他色々。何が不満かと言うと楽曲構成。特に、全編を通じて感情的なパッセージと場面展開に演奏者を翻弄する構成になっている古今東西のエチュードに、段々腹が立って来た。

既存のエチュードを練習しても、インナーマッスルが少しも鍛えられないことに私は気付いている。だったらもうDidier Merahのエチュードを書くしかないと言うことで、実は今月中旬辺りに既にその一曲目の構想に着手している。

 

同時にあと2・3個の企画が脳内で同時に進行している為、今の私の脳ミソは常に熱く燃えている。
今この記事を書いている最中も、冷房をパワフルにして脳のクールダウンに勤しんでいる。まるでデータセンターの如く、考える物事が増えて行く毎に私の小さな脳がフル稼働するので、兎に角暑くて暑くてたまらない(笑)。

 

それにしても、リストってなんでこう… 賑やかしばかりなんだろう。
綺麗な箇所が幾つもあるのに、それが長続きしない。「ガーーー!」っといきなり感情的な強打音が出て来るから、ホント心臓に好くない。

 

全編ピアニッシモの美しいパッセージだけで好いのに。