音楽評論: Max Richter, Mari Samuelsen, Robert Ziegler – “Movement Study”

最近は主に「作曲」「アカデミック」と言う観点で音楽に接している私、Didier Merah。日々雑多な音楽に触れて行く中で、色々な視点で音楽に触れながらも分析には余念がありません。
 

クラシック音楽からアンビエント、Dubやアフリカ音楽~フラメンコから中東と本当に切れ間なく情報を脳内に蓄積 ⇨ 更新して行く中で、必然的に音楽を聴き分けて行く自分が在ります。

百年後、千年後に残る音楽を目指す私のような作曲家(芸術家)は、きわめてレアなタイプかもしれません。多くの音楽家が自己実現タイプの活動を軸とし、中でも多いのがパフォーマンス・タイプのアーティストだと言えます。
純粋に作曲だけに注力している作曲家を私は、この数十年間殆ど目にしていません。多くの作曲家が気付くと人前に顔や演奏する姿を露出したがり、その殆どが曲芸の域を出ないものばかりでうんざりします(笑)。


 


そんな中、過去世バッハであり大のオルガン好きな私の鼓膜に突き刺さって来たのがこの人、Max Richterマックス・リヒターと言うアーティストのアルバムVoices 2でした。
オルガンの音色をベースとした、おそらく「Voice」と思われるパーツは打ち込みでしょう。なのにとても自然な音に整頓され、とても聴き易い音に仕上がっています。
 

Max Richterマックス・リヒター は自身のジャンルを「ポスト・クラシック」と命名し、クラシックと言う頑丈な外壁を持つ音楽ジャンルの垣根を越えて多ジャンルとのコラボレーションを目指すアーティストとして、自身を位置付けて活動しています。

https://ontomo-mag.com/article/interview/maxrichter-20190408/

 

丁度今日の私は良質なアンビエント・ミュージックを探していたので、そんな折彼の作品はドストライクでした。ですが彼を調べて行くうちに出て来た「ポスト・クラシック」がもしも彼のメインのジャンルだとしたら、やはりそれは正統派のクラシック音楽にはカテゴライズせず、BGM音楽として私の中に記録するに留まるのかもしれません。
 

クラシック音楽に高い垣根を設置しているのは何を隠そう、そうしたクラシック音楽に強烈な美意識と権威主義を見い出さんとする音楽家自身であり、それが一般のリスナーのクラシック音楽離れを同時に誘発している要因であると私は思っています。
勿論既存のクラシック音楽に良質かつシンプルな作品が少ないことも大きな要因ですが、Max Richterマックス・リヒター のように優れた感性と音楽教育の基礎を施された音楽家が、自らを「実は懐の広い音楽家であるのだ」と誇示し過ぎる余りに、かえってアカデミック音楽からリスナーを遠ざけてしまう点は何とも残念としか言いようがありません。
 

また最近のアンビエント・ミュージックの欠点はと言えば、メインのメロディー(旋律)を持たない点にあります。
手持ちの機材の偶発性を利用し、自分の気に入った周波数で背景となる音像をセットし、それを幾つかのコードに分配し、繋げて長いセンテンスを何度かループしながら一曲を構成して行くのですが、あくまでそこにあるものは「人の心と記憶に残るメロディー」とは全く別物の「音の残像」を超えない何かであり、それは「曲」の形態を取っていません。
 

残りそうで残らない音楽だけど何となく聴いている瞬間だけは心地好く、日常生活の中では発生することのない借り物の感情や感覚を誘発してくれる音楽なので、それを「良い音楽」として認識する人達も一定数は現れるでしょう。
ですが聴いた後1時間もすれば多くのリスナー達も現実世界に戻って行きますから、先程まで接していた音楽は彼等の現実とは無関係な「何か」として、それらは日常生活には不要不急の何物か‥ として記憶の片隅で幻のように温存され、やがて消え去って行きます。


勿論料理だって胃袋に入ってしまえばそれまでではないのか‥ と言われたらそうなのですが、芸術作品や音楽、絵画等はその印象だけでも心の中にしっかりと刻印したいと私は思います。
なので私の場合は「刻印に耐え得る音楽」に(最近は)特化した楽曲作りに努めていますが、その片鱗を持っている音楽家がそうではないジャンルの音作りの方に舵を切って行く様を見ていると、時折胸が痛みます。
 

まるでそんな私の胸の痛みを弔うようなこの作品のオルガンとコーラスの音色が、さらに今現在の地球上に広がる多くの悲しみと痛みに祈りの霧を撒いて行くようなこの作品が、何故か今日は心に沁みて来ます。
こういう音楽の聴き方も好いのではないかと思わされるその作品『Movement Study』を最後に、この記事を〆たいと思います。

 

 
※アルバム『Voices 2』のSpotifyのLinkはコチラです。 ⇩

 

Monday and the smell of rain

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いつもと少し違う朝の匂い。いつもこの時期は窓を全開にして新緑の香りを存分に体に取り入れるシーズンなのに、今年は既に雨の匂い、梅雨の匂いが街全体を包み込んでいる。

雨の匂いは私を憂鬱にするだけでなく、あの怠重い偏頭痛を連れて来る。昨夜半から既に頭痛が来ていたが、あえて頭痛薬を呑まずに眠りに就いた。目が覚めてからの好い状態を期待したがその期待は呆気なく裏切られ、今まさにこうしている時も頭内に心臓がもう一つ増えたような痛みと「ズシン、ズシン」と言う音が木霊し続けているので、致し方なく頭痛薬を呑んだ。

 

昨日 日曜日は丸一日布団と台所の往復で過ぎて行った。日中ハニーレモン(温)を飲んだ時のあの感動が忘れられず、この記事を書き終えたら再びハニーレモンを入れて飲む予定である🍋

 

いつもと少し違う朝、それは私が大嫌いなリストを何故か急に聴く羽目に陥ったからそう感じているのかもしれない。

 

遂に学生時代、私はリストを一曲もものにすることが叶わなかった。

そもそも右手の一部の腱が人より短く、或る時実技の教師にその腱を修正する為の手術を勧められたが私はそれを拒否した。
私の目指す音楽は「速弾き、高速回転のパッセージ」の先に無いことを、私は生まれた時既に知っていた。それは私がかつてJ.S.Bachだった頃の記憶に基づくもの(と言うことは現在の夫と結婚してから分かったことであるが)であり、天井の高い教会で奏でる美しい音楽とその残響がけっして「速弾き、高速回転のパッセージ」から生まれるものではないことを、魂が記憶していたからに違いなかった。

 

Twitterのプロフィールには「私の過去世がJ.S.Bachであった」ことを、そっと書き添えている。それは余りに普通のことのように綴られたものだから、その一文を目にした音楽ファンの目にはきっとそれが冗談のように映っているのかもしれない。

でもそれで好かった。バッハの生まれ変わりが今ここに居ることよりも、その生まれ変わりが今何を求め、何をしているか… のことの方が余程大切なのだから。

 

 

2018年 春。Didier家は結婚10周年を迎える。

その為私たち夫婦は今年の前半は恒例の「大型連休レコーディング」等の作業の手を全て止めて、ただただ普通の夫婦のようにそっと結婚記念日の為のイベントを考えている。

派手に旅行に行くでもなく、派手にセレブ的お茶会に興じるでもなく、私も夫も大好きなステーキを静かに頂く。たったそれだけのことがこの数年間全く出来ていなかったので、今回はいつもよりはグレードの高いお肉を堪能したいと思って予定を組んでいる。

 

 

それより…。
段々とエチュードが不足して来た。例えばChopin、ラフマニノフその他色々。何が不満かと言うと楽曲構成。特に、全編を通じて感情的なパッセージと場面展開に演奏者を翻弄する構成になっている古今東西のエチュードに、段々腹が立って来た。

既存のエチュードを練習しても、インナーマッスルが少しも鍛えられないことに私は気付いている。だったらもうDidier Merahのエチュードを書くしかないと言うことで、実は今月中旬辺りに既にその一曲目の構想に着手している。

 

同時にあと2・3個の企画が脳内で同時に進行している為、今の私の脳ミソは常に熱く燃えている。
今この記事を書いている最中も、冷房をパワフルにして脳のクールダウンに勤しんでいる。まるでデータセンターの如く、考える物事が増えて行く毎に私の小さな脳がフル稼働するので、兎に角暑くて暑くてたまらない(笑)。

 

それにしても、リストってなんでこう… 賑やかしばかりなんだろう。
綺麗な箇所が幾つもあるのに、それが長続きしない。「ガーーー!」っといきなり感情的な強打音が出て来るから、ホント心臓に好くない。

 

全編ピアニッシモの美しいパッセージだけで好いのに。