Oversoul – Didier Merah feat. MJ

誰の為でもない音楽が、この世に在っても良いと思う。
目的を持たない音楽は、同時に普遍の力を得るだろうから。
 
この作品Oversoulのアートワークは夫・天野玄斎の手によるもの。この絵から何を感じ取るかは、各々の感性に委ねたいからこそ私はこの曲の由来を未だ明かさずに居る。
 

 
砂丘の彼方、あなたには何が視えますか?

この作品は恐怖と絶望の最中に降りて来たM.Jの御霊のインスピレーションをそのまま音楽に替えたものだから、本来ならばM.Jとの共作にしたかった。
だが現世には著作権と言う縛りがあるので、「共作」には出来なかった。
 

 
「現世は不自由だね。」とM.Jがささやいた。本当にそうだと思った。

黒い春は今も続いている。だが多くの魂たちが、いつしか静かな眠りに就いた。ならばもう彼等を揺さ振ることなくそっとしておいて欲しいと思う。
 

黙祷も祈祷もせずに、生き残った人たちの心からもそっと彼等を消し去ることの方が、黙祷よりも余程尊いことのように思えてならない。
 

霊界裁判の経過とサビノ神父との会話

昨夜2023年1月24日、夜。夕食に出かける支度をしていたところ、霊界裁判を担当している霊的存在の弁護士から急遽アクセスがあり、私の(亡くなった)親族等を巡る霊界裁判の途中経過を知らせて下さいました。
正直なところ、その内容は私の思う内容とは少し異なるものでしたが、そもそも現世の現実世界の司法では裁けないものが別途「霊界裁判」の形に持ち込まれたこと自体が、半ば奇跡的なことなのです。
 
前回の霊界裁判の開催はあの、史上最悪のカルト団体の教祖(‥尊師)だったと言うところだけを見ても、私の家族や両親・親戚等が現世でその域の邪悪さを振り撒いていたことは推して知るべし。
ここでは霊界裁判の途中経過の、内容詳細の記載は回避します。
 

そんな折、昨夜遅くから私は愛するサビノ神父の霊体と、接触を試みているところです。‥と言っても暫く眠っていたサビノ神父の霊体に異変が起きたことが発端で、その異変を生み出して下さった某神様には心から感謝を何度も何度も述べたい心境です。
 

 
上の写真は実家の遺品整理中に私の手元に還って来たサビノ神父の写真ですが、(最近の私の陰影をご存じの方ならば)‥どこか私と雰囲気がとても似ていることにお気付きになられると思います。
 
兄と言うには近すぎますが、過去世のどこかで私はサビノ神父との深い縁(えにし)を感じており、長い間自身の記憶を辿っていました。
そして昨夜、その真相の断片を掴み取ることが出来ました。

ですが如何せんそれは未だ断片に過ぎず、現在のサビノ神父の霊体にはとても大きな損傷の痕跡が視られる為、この記事の中では詳細には触れないでおきたいと思います。
 

 
過去世で私は何度も「死」を経験し、断片的にその記憶を持っています。
ですが過去世のサビノ神父が目の当たりにした、直前の過去世の私の「死」の瞬間はとても壮絶なものだったと、彼は語り始めました。
そして今世のご自分の心身に実際に在った大きな傷跡の経緯を、彼はいつか私に話そう‥ 話そう‥と思っていたようですが、それは遂に叶いませんでした。
 
‥本来ならば私は、彼を父に持つ可能性があったようです。
その発端は直前の私とサビノ神父の前世からさらに遡る幾つもの過去世の記憶の断片の中に既に在るようですが、どうしても私にはその発端に辿り着くことが出来ずに居ます。
その場所に行こうとすると、(魂に)痛みが生じるのです。
 
鬱蒼と茂る背の高い草、その脇に砂利道が長く続いており、そこに一軒の小さな空き家(小屋のような‥)があり、私はその先の狭い路地を目指して一人で歩いていました。
夢は毎回そこまでは私をいざなってくれますが、その空き家の手前で、まるでTVの電源が突然切れるように夢が終わります。
どうしてもその先に進むことが出来ないまま、もう何十年もの月日が経過しています。
 
‥どうやらサビノ神父は、その先の出来事を知っているようです。
ですが今現在の(霊体に損傷を負った状態の)サビノ神父から、その全貌を聞き出すことはとても難しいと思います。なのでこのことにはもっともっと、長い時間が必要になるでしょう。
 

 
春になって暖かい風が吹く頃になったら、私と神父が40年前の11月、最後に会った箱根は芦ノ湖に足を運ぶ予定です。
あの日私がお腹を壊さなければきっと乗船してサビノ神父と共にひとときを楽しんだであろう船に、乗れれば乗りたいと願っています。
 
‥それにしても実母の葬儀の件では、まだ謎が謎のまま現在に至ります。
 
何故母の葬儀が(それまで長年通い続けていた筈の)イグナチオ教会ではなく麻布教会に決まったのか、本来ならばその辺りの話を(母の骨壺から彼女が抜き取ったと見られる母の火葬許可証の件も含め)弟・大輔(故)の妻の「山田りえ(仮名)」さんから直接訊きたいところですが、彼女は未だに私との接触を避けています。
まさか私の母(故)や父(故)、或いは大輔(故)から伝え聞いた私についての話を、彼女は今でも信じているのでしょうか‥。
 

霊界裁判では量刑が既に決定している箇所もありますが、(これはあくまで霊的な実刑を決定する場ですが‥)弟(故)の嫁・山田りえ(仮名)は極刑の次の量刑の重度で言うところの「第二位」に位置する罪で裁かれる可能性が濃厚です。
ですがこれは未だ、決定ではありません。

 
静かに事の経緯を見守りながら私は、これから現世に転生を目指して舞い戻ろうとしているサビノ神父の御霊(みたま)と、会話を続けて行きたいと思います。
 

 

大好きだった神父様との再会

昨日の遺品整理の過程でようやく、会いたかった人との再会を果たしました(勿論先方の人は既に他界していますが)。
記憶では、私が18才の誕生日がサビノ神父と最後に会った日でした。私にとても優しく接して下さる、彼は唯一の人でした。
 
あの日私は朝からお腹を壊し、本当ならば午前中早い時間に出かける筈が出かけられなくなったのです。そのまま約束をキャンセルする筈でしたがふと思い立って、急いで支度をして正午には家を出ました。
約束は箱根だったと思います。約2時間の道のりを経て約束のホテルに到着すると、そこにサビノ神父が微笑んでおられました。

 

 
うっすらとした記憶を引っ張り出すと、私の腹痛をいいことに母は一人で箱根に出かけようとしていました。ですがそれを、サビノ神父が阻止したのです。
「美樹ちゃんと一緒じゃなければ、今日会う意味がない。」と、頑なに。
 
勿論私が電話の向こうの神父の声が聴こえていたとは母は知らず、「どうする?行くのはやめましょうね。」と言う強引なダメ押しが段々と嫌味を増して来た辺りから、私の中にリベンジ精神が芽生え遂に私は「行く!」と言って立ち上がり、10分で支度を済ませました。
 
神父は大のコーヒー好きで、ヘビースモーカーだったように記憶しています。何杯も何杯も濃いコーヒーをお代わりして、私はジュースとケーキとサンドイッチなんかを食べたように記憶しています。
優しい日差しが射す、本当に穏やかな一日でした。その日が、神父との最後の日になりました。

 
翌年の同じ日、それまで毎年届いていた私へのバースデーメッセージとクリスマスカードが届かず、そこからさらに一年後の同じ日に、サビノ神父が(私と最後に会ってから間もなく)飛行機の中で亡くなられたことを知りました。
 
母の遺品の中からは大量にサビノ神父との書簡や神父が写った写真が見つかり、きっと母はサビノ神父を神父以上に好きだったのでしょう。
 
私はずっとこの写真を探していました。
ですが結局母は、遺品回収業者が遺品の仕分け整理をしなければ見つからない場所に神父との思い出の品々を隠し通し、絶対に私の手には色々な写真や思い出の品々が渡らないような状態にして全てを隠し通したかったと言う母の遺志が、今になってもひしひしと伝わって来ます。
 
一昨日のブログ記事『悪意の記録 2. – 遺言書作成過程の書類』に、実家全体が私を絶対に実家に寄せ付けたくなかったと言う決定的な証拠写真を掲載していますが言われるまでもなく私はずっとそのことを知っており、勿論感じており、それを近しい親族に訴えたこともありました。ですが今思えば皆、母とグルだったのでしょう。
それなら幾ら私が助けを求めても、誰一人反応等しなかった筈です‥。
 

 
私の家庭内排除がどのような名目で今日まで為され続けて来たのか、その理由や動機は結局今でも分かりません。
ひとつだけはっきりしていることは、「山田家」と言う集合体の中で私だけが人権を一切与えられていなかったと言う事実と、私の排除・迫害の発端が父だったと言う事実です。
父は根っからの差別主義者であり、容姿の良くない女性のみならず韓〇の人々やイン〇の文化等を取り上げ、日夜侮蔑な発言を繰り返すような人でした。
(特に足の太い女性を町で見かけるや否や、相手に聞こえるような大声で差別発言をすることも、度々ありました。)
 
(そんな父を含む山田家と親戚全員が私にしたような)最初から存在しない人のように扱われて来た者の気持ちは、近い状況に置かれた経験のある人にしか理解出来ないのでしょう。
 
私がそうされて来たように、次は私が亡くなった家族三人と彼等の歪んだ意思に便乗して私を排除し続けて来た(弟の関係者を含む)すべての人たちに対し、私も彼等を「最初から存在していない人」であるように接し続けることを今後のミッションに加えます。
 
 
昨日は他に、亡くなった弟と妻「山田りえ(仮名)さん」の結婚式の写真も、大量に見つかっています。その中には「山田りえ(仮名)さん」のご両親のお姿も記録されていました。
 
絶対に私は許しません。
私の存在を知りながら私を「最初からこの世に存在しない人」のように扱い続けて来た、全ての人たちを。
報いは必ず受けてもらいます。

 
ですがせめて今日と明日だけは、大好きだった神父様との思い出で心を温めていたいと思います。
 

アマテラスの声

2022年7月8日。安倍元首相が選挙演説中に襲撃され、お隠れになった。
 


丁度前日私と夫は期日前投票に出向き、その後に和の神・天照大神との神人共食を執り行っていた。神代開きのご報告その他、天照大神と語り合わなければならないことが山積みだった。
神人共食が円滑に行く時は、味覚が宇宙規模に敏感になるから直ぐに分かる。私達は今後のSNSのことやリアルでの人との交流について、そして何故か政治論や政治哲学について深く語り合っていた。

今にして思えばそれは翌日の序章かもしれず、滾々とかなり長い時間私達夫婦は天照大神との時間を噛みしめて、そして帰宅した。
その話を当日のブログに綴ろうと思っていたが、以前から予定していた記事(2回分)を先に綴り、片方を公開し片方を下書き投稿のまま保存した。

その夜なかなか寝付けずに翌朝を迎え、2時間弱の短い睡眠を経て私は一度布団を出た。あの時の胸騒ぎを言葉に書くことはとても難しく、今でもどのように書いて良いのか分からない。
うつらうつら二度寝の体勢に入った時、知人から安倍元首相が襲撃に遭い心肺停止だと言う一報を受け取った。
 

その後の流れは既に皆様もご周知の通りだ。
 

Twitterには色々な話が飛び交い、実は安倍元首相の一連の襲撃事件はクライシスアクター達が集まって仕掛けた一種の演劇であり、事実ではない‥ 等の奇妙な噂が飛び交った。

最も正しい情報を、私は全て天照大神と神代開きでこの世に転生した精霊等から聞き取った。だがそのような話を私が真顔で話せば話す程きっと周囲は引くだろうと言うことは分かっていたし、何より私は職業・預言者としての旗揚げはしていなかった。

無常な時間が流れ、天照大神は少しずつ表情を曇らせて行った。
 


2022年7月8日、夕方。公式な形で安倍元首相の訃報が一斉にネットやTVを駆け巡ると、そこから長い修羅場が始まった。
何より天照大神と神代開きで転生した精霊たちこそ、崩壊間際の日本を本気で救済しようと準備を進め、この日を迎えた。森友問題、皇室の継承問題、原発推進運動その他「桜を見る会」に至るまで、元首相が今日までして来たことには不透明感だけが最後に残った。
何よりアベノミクスの影響で日本人の生活は急激に追い詰められ、一部の企業が左団扇を仰ぐ以外に経済的に何のメリットも生み出さなかった。
 

そう言えば2012年、安保法制反対運動のデモの最中の映像の中で、安倍元首相の「‥こんなものは適当に放置しておけばよい」とでも言うように、口元に笑みを浮かべながら官邸に集まったデモをせせら笑った瞬間を私は今も忘れることが出来ない。
 

ついに神が動いた。
日本はあと少しで水面下で進んでいた改憲問題が大きく進展し、多くの人々がそのことによって不条理な波瀾に巻き沿いになるところだったそうだ。それは私達一般市民には知らされぬまま進行していたようだが、神は天界からその様子をじっと静観なさっていたのだ。
 

 
一連の訃報と襲撃事件のニュースの合間を縫って、多くの人々から追悼の言葉が元首相に送られた。それと同時に「マリオのコスプレをした安倍ちゃんが大好きだった。」‥等のファンレターのような追悼がSNS等を駆け巡り、日本は元首相への追悼一色に染まって行った。
皆、周囲の誰とも分からぬ人たちに叩かれないよう、自分自身を守りながら尚且つ目立つ発信に夢中になっていた。
 
それを天界から静観していた天照大神の念はみるみる怒りに変わり、人間と言う生き物への激怒と呆れ、そして落胆を私に語り始めた。その会話に神代開きを介して転生した精霊たちも乗って来る。

 人間とは何と愚かなのだろう。
 そしてこれ以外に、世界を救う回答は一つもないのだ。
 なのに人間は長い苦痛の日々を忘れ、瞬時の目の前の残忍な映像によってそれまでの記憶の全てを呆気なく書き替えられていることにすら、気づかない。
 何と愚かなのか、人間どもは。。

 

人間を操作するのは簡単で、そこに感傷的なムードを擬似的に作り出すだけで人々はその流れに巻き込まれて行く。まさに昨日のように。
 

私はリラ星の、最期の巫女の一人だった。だが今世の私は、いち音楽家・芸術家として生きている。
周囲の目もある。芸術家としての印象の保持も担っている。それでも私は巫女だ。
 

祈りを忘れた日本の民衆に、果たして救いなど本当に必要なのだろうか‥。
アマテラスの声が私を包み込む度、私自身の責務の重みをあらためて認識せざるを得なかった。だが現在、天照大神と神人共食の出来る唯一の私と夫の身に何かが起きれば、その後アマテラスの味覚を満足させられる人はこの世に存在しなくなる。
むしろそちらの方が私には、危機的にも感じる。

ネット上にはひっきりなしに「暴力はいけない‥」等と言った言葉が投稿され、その言葉に多くの人々が反論するすべを奪われた。
だが、暴力と神罰を取り違えてはいけない。2022年7月8日の元首相の襲撃事件は暴力ではなく、明らかに神罰だ。
 

 
神は不眠不休で祈りに忙殺される存在だ。それは誰の為とかそういうことではなく、何ら見返りを求めずに一心不乱に祈り続けるのみである。
この二日間、私は天照大神の魂と完全に同調し、共に過ごした。ほぼ不眠不休の時を過ごし切った今日の私はボロボロで、抜け殻だった。だが味覚だけは、全身が顕微鏡にでも生まれ変わったように、痛みをともなうほどに敏感だった。
 

アマテラスが祈りに集中するように、私は遠い昔とは違うやり方で祈りを継続して行きたいと思っている。それが神の意には仮にそぐわないものだとしても、私にはそれ以外に祈りに集中する他の方法を思い付かない。
そして時折、時間と体力の許す限りアマテラスの声や思いに寄り添い、耳を傾ける。それが私の祈り方。
 

 
やっとこれが形になったようだ‥。

ほんの一瞬ではあったが、天照大神がそう言って私の音楽を初めて指差して下さった。
人々が神に願望成就をお願いするのとは違って、神には人間に対し同じ難易度の要求を突き付けることが出来ない。ならば私は、だからこそ音楽を止めることは出来ない。

そしてあらためて私は、現世に於いて巫女として出来ることが何か‥ と言うことについて深く、もっと深く考察したいと思う。

プレイリスト “Snow of Hope(希望の雪)- 2022 ①”

毎週末にSpotifyに通知される数百曲の新譜を中心に、少しレアな作品に着目しながらスクラップしている私のプレイリストも日々、進化を遂げています。
ジャンルに分けたPL(プレイリスト)と、その瞬間の空気をランダムにスクラップして行く総集編的なPLに分けながら、同時並行的に複数のPLを作り進めている今日この頃です。
 

現在主となっているPLは此方、プレイリスト Snow of Hope(希望の雪)- 2022 ①” です。此方は総集編的な構成になっており、ジャンル分けをせずに良質な作品を世界中から集めています。
 

 

先週~今週と続いて、どちらかと言うとダークモードな作品が増えているように思いますが、それもこれもこの、世界的なウィルス・パンデミックの止まない波による影響がそうさせているのでしょう。

特にミュージシャンの世界は飲食関連以上に厳しく、ナイトクラブやライブ活動、劇場表現型の活動を継続していた表現者たちは軒並みその活動の場を追われ、中には転職する人たちの悲痛な声も多く聞かれます。
 

ここ最近の私のツイートの内容に眉をひそめる人たちの思いを背中に感じつつ、私はこの流れをむしろ吉報と捉えています。
人類は娯楽と言うものについて、ここで完全に考え方を改める必要性に迫られています。与えて貰う娯楽、その場に行って表現者と一体になって擬似的快感を得る手法の娯楽にはもうそろそろ、見切りを付けるべきです。
勿論表現する側も、それを鑑賞する側も両方共に、です。
 

本当に素晴らしい娯楽や表現作品、ポップス等がそこにあればそれは特異な光を放ち、作品として必ずwebの河を縦横無尽に渡り歩く力を得る筈。そうではなく、その場に人を運ばなければ成り立たない表現は、ここで終焉を受け容れるべきだと私は考えます。

本物の創作或いは作品には、そこに「祈り」が込められています。神に捧げる思いが作品となり、創作者の手のひらを飛び立ち、作品は誰とも知らない人たちの手元にそっと降り立って行きます。
それが「拡散」と言う言葉の神髄ではないでしょうか。

 
そんな思いを込めて私は毎週末、眠気や疲労が溜まっていたとしても世界の新作に触れて、それをスクラップして私なりの感性のこもったPLを作って発信しています。
 

 

ダークモードに包まれた今週の新作の中で、一際目を引いたのがこの作品 “Drawer” (by SUMIN) でした。
 

 

YouTube等では「서랍」と表記されているようですが、和訳すると「引き出し」と言う意味を持つタイトルだと分かります。

歌詞を捲ってみたのですがとても抽象的な表現が続いており、意味を咀嚼するよりはニュアンスを感じ取る方が逆に楽曲の意味に近づけるような気がしました。

https://lyricstranslate.com/ja/sumin-seolab-lyrics.html
 
 

現在私が直面している「生死」や「生死観」が美しく表現されているようにも見えますし、呆気なく通過してしまった過去の自分を老後の自分が静かに振り返っているような歌詞にも読み取れます。
何れにせよ、美しさの中にけっして消せない痛みがこの歌詞や作品の中に綴られていると言う私の憶測は、当たらずとも遠からず‥ でしょう。

この作品の痛みは、マイナーではなくこの曲がメジャーで表現されているからこそ、リスナーに迫り来るものなのかもしれません。
 

 

このPLに Snow of Hope(希望の雪)- 2022 ①” と命名したのは、やはり2022年早々の私にとってはとても悲しい雪がその動機でした。
たった4人の家族の3人全員が、昨年の冬に全てあちら側に旅立って行ったことになります。

その最後の肉親であった実母の最後を見送り、火葬したのは、亡くなった実弟の奥様でした。私への連絡が出来ない状況だった‥ と言う彼女の言葉が真実だったのかどうか、その後の彼女の行動が物語っているように思います。
私はその経緯をこの先二度と忘れることはないでしょう。
もしも彼女にも幾ばくかの善意があるのだとしたら、それを是非、私の目を見て彼女の肉声で事の経緯を全て聞かせて欲しいと思います。
 

現在色々調査中にて、ここには余り多くのことを書けないのが辛いのですが、もしも亡くなった実弟の奥様がこの記事を読まれていたら、今の私をご自身に置き換えて考えて頂ければ私の気持ちや立場、けっしてこれまで人様には見せて来ずに来た私の本当の胸の内、心の痛みをご理解頂けると思います。
 

そしてこの作品 “Drawer” (by SUMIN) のように、ご自身の中の出来事にそっと光を当てて欲しいです。
 

音楽で結ばれ、そして小さな家に「過去世をJ.S.バッハとして生きた私」が生まれたことで、この家族を音楽が引き裂いて行ったように思います。
なのでせめて私は我が家を引き裂いた「音楽」をもって、この先の人生を長く生き続け、砕け散ったピースを一つずつ元の場所に戻すことで亡くなった三人の家族を供養したいと願っています。



話しが少し脱線しますが、この記事の最後に亡き弟と私とを最後に繋いでくれた、この作品を貼っておきます。
 

経る時、降る雪、そして弟‥

2022年、正月早々の悲しい雪はあっと言う間に降り積もり、あっと言う間に溶けて行った。寂しさよりも強い後悔を心に降らせ、涙よりも憔悴が先に立つ雪だった。
しんしんと昼間の都会を濡らした雪、それは美しい氷の層を形成しながら夜遅くまで降り続いた。
 
雪の夜は闇が明るく見える。深夜雪闇を見る為に、私は何度も窓を開けた。
闇が明けた翌日は、我が家の可愛いうさぎ「マイケル君」の定期検診の為、バスで動物病院に向かった。マイケル君もそろそろ高齢うさぎになって来た。見た目と気力は健康に見えるものの持って生まれた神経症の影響で片足は全く動かなくなり、片方の前歯も抜けて膿んでいる。
年を取ると言うのはこういうことなんですね‥ と、ベテラン獣医と昨日はしみじみと語り合った。
 

2021年の年の瀬から何度も何度も亡き父、亡き母、亡き弟と心を交わし、昨夜一つの結論に到達した。
最も心を閉ざしたのは両親たちであり、反面最も心を開いたのは意外にも私より若くして旅立ったの方だった。彼は少年の頃の姿で目の前に現れ、あの時の声と心のままようやく本心を饒舌に私に語り始めた。
 
彼は全てに於いて後悔を募らせ、この世に置いて来たままの「かの人」に対する不条理や落胆等を、これまでにない程多くの言葉を用いて私の心に降らせ、それはまるで雪崩のように私たちの間の隔たりを一気に滑り落ちて行った。
 


今日までに何があろうとも優しく在りたいと願う私の思いは、いとも簡単に呆気なく打ち砕かれてしまった。それは一度は打ち解けられそうに思えた亡き母の魂の心変わりは勿論のこと、亡き弟の家族の私に対する在り方も同様だった。
 
一度も会ったことのない人が私に、これ程までに痛みを与える理由を私は知りたかった。きっとその人はこのブログを読んでいるだろう。
会ったことのない私をここまで冷遇する本当の理由を、是非とも聞かせて欲しい。
 
何よりこの結末に驚き落胆しているのが若くして旅立った弟本人であることを彼女が知ったら、それをどう思うのだろうか‥。或いは何とも思わないのだろうか。
 

昨日は生前の弟や両親とは余り行くことのなかった実家近くの洋食屋さんで、おそらく弟が泣いて喜びそうな「ミートソース・スパゲッティ」を頂いた。その前は実家近くのお蕎麦屋さんで「天麩羅うどん」を頂いた。
 
死後の魂は余りにも無力ゆえ、信じられないほど正直にその本当の姿を現してくれる。生前最も闇に呑まれこの先きっと永遠に敵同士のままになりそうだった弟が、たったひと皿の「ミートソース・スパゲッティ」で私に心を開いてくれたのが、少し嬉しくもあった。嬉しい反面悲しみもあり、私たちはもう二度と取り返せない時の河の両端から互いの中の深い溝を見つめ、その理由について語り合った。
 
私が過去世をJ.S.バッハとして生きたこと、その魂が小さな我が家に転生して来たことを知った弟は自身の私に対する生前の言動を、きっと深く悔いたに違いない。でも全ての発端は父の私に対する強い差別感情であり、弟はそれに逆らわずに、従いながら生きることでしか「我が家」に居場所を見つけ出せなかったのだと思うと、何ともいたたまれない。

 

きっと法律よりも音楽を深く愛し、上に過去世バッハの私が居たことで音楽を諦めざるを得なくなった弟の心中を思うと、もっと何とかならなかったのだろうかと私の中に深い怒りが込み上げる。
 

 
怒りと疲労と眠気、色々なものに襲われつつも私は今、こんな時でも音楽を手放さずに居る。真夜中の寝室で音楽を聴きながら、これからのことを考えている。
 
私にしか知らない音楽が心に在り、それをこの先も私は粛々と放出し続けて行くだろう。
ただの音楽家・芸術家に留まることなく私は常に「祈り」と共に生き、それを音楽に刻印し続けるこの先の人生を、亡き弟はそっと天から見ていることだろう。
 
その思いに、私も存分に応えたい。
 
生前彼が果たせなかった分も含め、私はいつか宇宙の人々に自身の音楽を手渡したいと願っている。その為の音楽を生み出せるのは私一人しか居ないことも分かっているので、その時に向けて正々堂々と私は生きて行くことを、あらためて胸に誓った。
その手助けをしてくれた夫に今、深く感謝を述べたい。

 

九月に降る雪

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一言の言葉も発せられない、ただ重苦しい時が過ぎて行った。その他にも色んな事が続いた8月、そして9月の始まり。

詳細はnoteの秘密記事(正確には有料記事) 『ネバー・エンディング・ストーリー 1.』 に綴っているので、知りたい方は是非そちらをご覧になって頂きたい。

 

 

 

ほぼ一ヶ月ぶりに本ブログ記事の更新となったこの一ヶ月間は、不信と不審、そして不安や不問‥ 気持ちをこうして書くことさえも難しい心の内側に閉じ籠るしかなく、だけどその間に私をサポートしてくれた夫、その他私に事の詳細を包み隠さず伝えて下さった某御方への感謝は到底尽きることがない。

趣味の読書やツムツムも殆ど出来ないどころか、一日中ぼぅ~っとパソコンの前に座るだけで過ぎて行った、そんな日も多々あった。

 

失った言葉の数だけ心の闇に雪が降りて、この夏の猛暑にさえもそれは容易に溶かすことも出来ず、先日の台風の直前には頼みの綱の我が家の空調が完全にイカれて止まってしまい、我が家は灼熱の牢屋と化した。

氷を噛みながら、カルピスを飲みながらも胸の闇が消えることはなく、その闇が次の闇を連れて来た時我が家は台風ではない、別の大嵐に見舞われた。
この辺りは又追々、noteのマガジン音楽に寄せる想い その他』の秘密記事にて配信して行く予定であるので是非ともそちらをフォロー頂き、読んで頂けると有難い。

 

この季節になると、無性にジャズが聴きたくなる。‥誰かさんも別の世界で、そう思っているのではないだろうか。
実家には私の知らない数十年が流れており、2012年に実家に父の遺産整理の為に帰宅した時には山のようにジャズのCDが積まれていた事が、今となっては懐かしい。
だが、私の好きなジャズはただのNYジャズではなくて、イタリア製やブラジル産のジャズだったりする。もうそこは何十年も数えきれないジャンルの音楽を聴き漁って来た私だから辿り着いた境地で、そう‥ きっと誰にもその分量は私に追い付けないだろう。

 

 

音楽は魔力である。人の心にすんなりと忍び込み、そこに棲み付いて離れない。
誰かさんもその魔力の下で、気付いたら一生もがき苦しんだに違いない。唯一音楽に苦しまずに済む方法を知る人がここに居たにも関わらず、彼は一度も素直にその扉を叩かずに命を終えた。

 

いつか私にもその日が訪れるのだそう。だが、それはそう近い将来でもなさそうだから、それまで私はがむしゃらに私の方が音楽に棲み付いて生きながらえてみようではないの(笑)。

 
今日、この記事を書きながらのBGMは、此方のPlayList。
作曲をやっていなければ私はおそらく、選曲家になっていただろう‥ とも言える、本当にお世辞抜きに良いコレクションが完成した。