私の半生と苦痛 – ④Yellow Sky – 黄色い空

直前の過去世のイタリア、トスカーナの空はいつもどこか緑がかっていたような記憶があります。でもそれは美しい自然の色、地球の色彩の一部だったと思います。

幼少期、多分5歳から6歳、地元の教会幼稚園に少しだけ通って卒園する前に(ある理由により)やめることになった後の私は、両親からの心身への尽きない暴力(虐待)によって少しずつ身も心も叩き壊されて行く過程にありました。
子供にとって、親は絶対的な存在です。なので当時の私は自身の過酷なまでの両親からの暴力は、誰もが経験する普通のことだと思っていました。
 
ピアノの練習と共に始まる母親の暴力を母自身は英才教育だと言い、それは毎日止むことなく公然と行われていました。彼女は何故か私の目(眼球)を狙うようにして、自分の手の関節で私の目を何度も何度も殴りかかって来ました。
特に理由があったかどうかと訊かれたら、私にもそれはもう分かりません。ですが私ののんびりとした動作や、子供離れした私の一言一句が彼女のカンに障ったのでしょう。
兎に角何かと口実を付けてはマンションの一室にある北の練習部屋のドアを乱暴に開けて、私の目を狙っては何度も何度も幼い私を殴り続けました。
 
その合間に母は何事もなかったように夕食の支度をし、煮ものが一個仕上がると私の部屋に来ては又私の目や頬を殴打し、一通り殴り終えると又夕食の支度に取り掛かり、次は家族4人分のカキフライに衣をまぶし終えると又私の練習部屋に来ては、先程の続きのように私の目を何度も何度も殴りかかりました。
 
当然私に抵抗すること等許される筈もなく、私の右目は真っ赤と真っ青の中間のようなおかしな色になって腫れ上がり、冷水で顔を洗う時にまでその箇所がズキズキと痛むような、子供が普通ならば経験し得ないような痛みを常に引きずっていました。
 

 
頭上に広がる空がずっと黄色かったことも、当時の私にとっては普通のことでした。クラスの友人が時折つぶやく「空が青くて綺麗‥。」と言う言葉の意味がよく分からず私に視えている空はずっと、緑がかった黄色のままでした。
 
私が小学校の低学年の頃、夏になると殆ど毎日のように光化学スモッグ警報が発令されました。その空を見ていたクラスメイトたちは口々に、「今日は空がいつもより黄色いね。」と言うのですが、私にはいつもとさして変わらない普通に黄色い空に見えていたので、いつからいつまでが光化学スモッグ中で、いつからいつまでがそうではない空なのか‥、全く見分けが付かなかったのです。
それよりも時折、視界の真ん中に誰かがカッターで勢いよく紙を切るような線が走ることがあり、それが私の目の異常から来るものだとは知らずに「こんなものなのかな。」と思いながら過ごしていました。
※後に私が33歳の時に出会ったアメリカ在住(アメリカ系ギリシャ人)の精神科医によってそれが、母親からの虐待によって発症したPTSDの現象の一つだと判明します。
 

小学校低学年の頃から私は自分では気づかない何かしらの色々な能力を学校の教師に買われ、英語の朗読の会に急遽出場が決まったり、お習字の都展にエントリーが決まったり‥ と、両親の想定外のイベントに引っ張りだこになって行きました。
当然それらは課外授業の一環として部活のように「午後練」の時間が設けられ、私は親に内緒で午後練にひっそりと参加していました。
私にとってはそれがとても楽しい時間であり、安らぎのひと時だったのです。
 
お習字の都展にエントリーする際には半紙に二文字を書く、シンプルな稽古を何時間も続けることになり、放課後の校舎に残っては夜遅くまで何度も何度も「希望」と言う字を書き続けました。
母が一切介在出来ないこの時間は私にとってはとても神聖な静寂の時間でもあり、私は心ゆくまで「希望」の二文字を書き続けました。でも日も暮れて夜6時にもなると、母親が黙ってはいないのです。
静かに文字を書いている校舎の2階の教室に怒鳴り込んで来て、「一体いつまで続くんですか?もう外は真っ暗なのに!」と言い、監督の教師に怒鳴りかかった声を今でも私は忘れることが出来ません。
 

 

母の異様な形相を見た担当教師は慌てふためきながら、「もうあと一枚で仕上がるところなんですよ。もう少しだけお待ち下さい。」と言い、母親を別の教室に誘導すると私に目配せをして、「ゆっくり書いていいからね、落ち着いて。」と言って15分近く母の話し相手になってくれました。

その間に私は、5枚分の「希望」をしっかりと書き留めました。
そして各半紙の左隅に自分の名前を小筆で書いてそれを黒板近くの大きな箱に一枚一枚置いて、別室で大声で喚き立てている母の元に向かいました。
すると母は教師には見えないように私の手の甲をこれでもかと言わんばかりに思いっきりつねって、顔ではにっこりと微笑みながら「さあ、早く帰ってピアノのお稽古をしなきゃ!」と言って、私を教室から引きずり出しました。
 
家に帰ると室内が黄色く染まっていました。当時の私の目には、白熱灯の光も黄色く視えていたようです。しかも明るさが他の人が見ているそれよりも若干暗く写り込んでいた事を、33歳の私の心の病を診断したアメリカ人の精神科医によって後から知りました。
 
私のPTSDは小学校低学年にして既に発病していたのでしょう。
青空を知らぬまま私は高校生になり、それが改善されないまま大学に進学すると、私の視界に映り込む横断歩道の白線までも黄色く染まり、当時の私が五線紙の白い紙の色さえも認識出来ていなかったことを後から知りました。


牛乳やお豆腐、ヨーグルトや体操着の「白」が私にはずっと黄色に視えていたのですが、それを不自然とは思わないまま大人になった頃には、私の心は常に恐怖心との戦いに怯え、その合間に時折この世のものとは思えない何かの影に付き纏われるようになり、今思えば私は崩壊寸前まで壊れていたように思います。
 
ですがそのような最中でも私は、社会性だけは放棄しませんでした。
なので母や生前の弟がもしも私のことを「ピアノだけは弾けるかもしれないけど、突然奇声を上げて所かまわず大騒ぎをする気のふれた人だ。」‥ 等と言っていたとしたら、それは全くの嘘偽りです。

もしも私をそういう人だと誤解している人がいらしたら是非、私に対する認識を改めて頂きたいです。
 

to be continued…

私の半生と苦痛 – ③荒れた室内と母の晩年の訳詞

 
弟も、そして母も、本質の部分では似ていたのかもしれません。
誰かが作り出した軋轢、それが段々と角質のように厚い層を作り、頭のてっぺんからつま先まで一つの家庭を数十年掛かりで覆い尽くして行きました。
 
母が10年近くをかけて作り出して行った我が家の廃墟のような室内を今、私と夫の二人でコツコツと整理している最中です。その最中にも人の本性や本音は見え隠れし、言い方は良くないかもしれないのですが母も弟も、音楽と言うジャンルで私を超えよう‥ 超えよう としていたように見えてなりません。
 
その証拠に最期にきっと母が座っていたであろう茶色のソファーの、その脇にあるガラスのテーブルに何故か一枚だけ、私が音楽監修を務めた時のCDをコピーしたMDがひっそりと置かれていました。
それはMDを渡した私にしか知り得ない母からのサインのようで、少しだけ胸が締めつけられます。
 

 
生きていればどこかに、「超えてはいけない壁」が存在します。私にとって恩師 三善晃氏自身がそうであったように、仮にその壁が自分の目の高さよりも低く下がって来た場合であっても、絶対にそれは超えてはならないのです。
母や弟にとって私がそうであったと、遂に彼らは自身の命が果てるまで気付かなかったか或いは認めたくなかったのか‥、どちらにせよ私に強烈な敵対心とライバル心を燃やし、私と言う壁を軽々と超えられるだろうとタカを括ったのでしょうか。

 
私にとって、これからが三度目の人生の始まりとなるでしょう。
これまでに粛々と培われて来た「実家からの排除」と言うぶ厚い障害壁は、今の私であればそれ程苦労はせずに取り除けるかもしれません。ですがそれはあくまで物理的なこと。
実際に四人居た家族の三人がこの世を旅立った、その現象を一人受け容れた心の空洞はそうそう簡単には埋まりません。たとえそれが宿敵、もしくはダークサイドの差し金となり果てた彼らであったとしても、私と逝ってしまった三人の家族とが出会う前にはもう戻れないのです。
 

母はそれまでは家族の誰かが使っていた部屋の大半を自分の部屋にして、父と弟が旅立ったその時から6年の時を使い、コツコツと我が家をゴミ屋敷に変えて行きました。
勿論私はその間一度も実家を訪ねることはありませんでしたがそれは母が、私が実家に帰ることを強く拒絶したからでした。それもその筈、あの状況を流石に私には見せられなかったことでしょう。
そして何より「私・美樹」と言う娘がここで顔を出されては、その時まで頑なに「最初から存在しない娘」と言う、彼女が必死で作りあげた台本が崩壊しかねない‥。そんな不安が過ったから、私からの「家に行っても良い?」と言う何度かの提案を蹴り続けたのだと思います。
 

お風呂場の脇にある母専用の部屋は膝まで沈む程のゴミの山と化していましたが、その大半が衣服でした。
しかも買ったまま一度も着ていない衣服も多く、しかもそれはどこかパーティーや歌の勉強会やコンサート等に出演する時に着るような、派手な服がとても多いのには驚きました。

 

 
その山積した派手な衣服の原因は、母が遺した幾つものシャンソンの「訳詞」が物語っているように思えました。
作曲、演奏、編曲のみならず一時は訳詞家、歌手としてステージに立った私を、母もどこかで見聞きして知っていたのでしょう。母が真剣に訳していたのはフランスのシャンソン歌手(兼 作曲・作詞家)Henri Salvador の名曲でもあるJardin d’Hiverでした。
 
これは私がもしも三回目の訳詞コンサートを開催していたら、お披露目する予定で2000年の秋に訳した作品でしたが、二回目の訳詞コンサート「時を超えて Vol.2」が散々な状態になり、その翌年の春に私は訳詞も歌手も全てから手を引いたと言う経緯がありました。
同時に三回目の訳詞コンサートの開催は夢と消え、途中まで書いていた「Jardin d’Hiver」の私の訳詞と比べても、母の訳詞は音符に文字を必死で当てはめただけのお粗末なものでした。

 

 
本物の愛とそうではない偽善的な愛とは、見る人が見れば必ず見分けがつきます。
母の音楽への愛も、そして弟への愛も、同じように偽善的な愛に他ならないと私は感じています。あくまで主体は自分自身、その自分を着飾る為の全ては道具に過ぎず、それは弟も、家族と言う箱も彼女にとっては同じ「道具」だったのでしょう。
 
ですが家族は目の前の家族を「良い」ように見ようとしたがるものですから、どうしてもその人の本質が仮に悪であったとしてもそこから目を逸らし、別の何かでその人の本質をねじ曲げて認識してしまうことが多いのかもしれません。
 

小学生の時、母に連れられて初めて「銀巴里」と言うシャンソニエに足を踏み入れた時、そこで小海智子さんが三つ編みを結ってシャンソンを歌っていたのを今も覚えています。
「あら、可愛いお嬢ちゃんね。」と言って彼女は、私にアイスクリームをご馳走して下さいました。その小海智子さんと私が10数年の時を経て吉祥寺某所に実際にあったシャンソニエで共演するとは、母も思ってもみなかったでしょう。
 
シャンソン誌「る・たん」にはある時期から、いきなり私の名前が乱射する鉄砲玉のように掲載され始めました。そこに「歌手: 小海智子 / ピアノ: 山田美樹」と言う一行を見た時の、あの苦々しい表情をした母の顔を私は見逃しませんでした。
 
それはある時実家に帰った時にふとシャンソンの話題になった時、私が持ち歩いていた冊子「る・たん」を何気なく母が見た時のことでした。口では「あら、いいわね貴女。」と言いながら、眉間に深く寄った深い皺としかめっ面になった一瞬を私はしっかりと見ていました。
 
母は特に最期までの数年間、多数のシャンソンを訳詞していたみたいでした。そのメモや印刷されたものがリビングのガラスのテーブルの書類の下からわんさか見つかり、私はそれらを母の遺品の形見として持ち帰って中身を読んでいますが、彼女の写真も訳詞もセンスが良いものとは言えません。
要は彼女にはアーティストの才能が元々ないのに、顔に傷のある娘の私になんか負けてられない‥ とでも思ったのかもしれません。
余り上手く行っていない訳詞をとにもかくにも「仕上がった!」と言う事にして人前で歌っていたであろう彼女の胸中を察すると、どことなく憐れです。
 
結果的には私の真似事に失敗していた彼女とは最後の最後まで会わなくて本当に良かったと、今だから胸を撫で下ろしています。
 

 
to be continued…

私の半生と苦痛 – ②母の霊感と虐待

母は強い霊感を持つ人でした。
そして彼女はクリスチャンを公言していましたが、家の中では年柄年中私に暴力を振るっていました。そうすることで父(故)のご機嫌を取っていたのかもしれませんが、何故そうすることでしか父のご機嫌が取れなかったのかについては未だに不明です。
 
ただ一つ最近になって分かったことは、母が父とは再婚だったと言う事実です。これは私を除く家族全員が死んだから判明したことで、恐らく弟も(或いは父も)知らなかったと思います。
唯一その事を知っているとしたら、私の訴えを一切聞き入れようとはしなかった伯母(母の姉)一人だったかもしれません。
母はその事実を隠す為、私を悪者に仕立て上げ家族のマイナスの注目を私に集め、私への攻撃的欲求を煽っていたように思えてなりません。時代柄、バツイチの女性は何かとデメリットも大きかったのでしょう。なので母は自身のバツイチの事実を父には言わず、お見合いに臨み、再婚まで漕ぎ付けたのかもしれません。
 
2000年の秋頃に私は一度、住む家を追われたことがありました。
当時冗談抜きで露頭に迷いそうになった時に一度だけ伯母に連絡したことがあり、あの時私は伯母に初めて母の長年の虐待について電話で切々と訴えたのですが、それを跳ね除けるように私の言葉に伯母は、一切耳を貸しませんでした。
母の暴力を「愛の鞭」だと言って頑なに母の行いを褒め称え、私の言う事を否定し続けた伯母の電話越しの声を私はけっして忘れません。
 
あの時私は確信しました。伯母も敵であると。
 
家族・親族全員が私を精神薄弱児(知恵遅れ)扱いをし、親族にとっての外敵のように私を扱うことで団結していたと私は思っています。
その証拠に昨年母が他界した時、弟(故)の嫁と上に書いた伯母の娘(つまり私の従妹)二人がまるでその時を知っていたかのように実家に突撃し、三人が同時に第一発見者となり、その挙げ句従妹の一人である えみさん(仮名)と弟(故)の嫁 りえさん(仮名)が連盟で弁護士に、法定相続人の私に内緒でこっそり実家を相続出来ないか‥ と言う相談をしていたのですから。
 

 
母はことある毎に自らの持つ霊感を悪用し、時には実際に物を移動させて彼女を怒らせた相手に「物」を使って遠隔で攻撃を加え、怪我をさせたこともありました。
「ママを怒らせたらどうなるか、見てなさい!」が母の口癖でしたが、その言葉通りに彼女は私の知人の何人かを霊的な方法で手に掛け、実際にそれが原因で亡くなった人も現れました。ですが霊的な現象は法で縛ることも証明することも出来ないので、母は霊感を使ってやりたい放題のことをやっていたと思います。
 
母は殆ど毎日、実際にはどうでもいいようなことを口実にし、あたかも私が毎日悪い事をしでかして家の中を引っ掻き回しているかのように父に告げ口をし、父のご機嫌を取っていました。
父は父で私の顔の裂傷(通称: 三つ口)が不快で不快でたまらなかったので、何かと私を虐めいたぶる口実を探して私に暴力を振るう理由を見つけ、私に手を上げたり深夜に数時間もの間お説教をして「偉い人」になったような気分を味わうことで、日々のストレスを発散していました。
 
今にして思えば母は、自身の再婚がバレるのを恐れていたり、或いは彼女の金遣いの荒さを誤魔化す為に私を家族内の「敵」として周囲にも認識させ、私の悪い話しを話題にすることで自分を守っていたように思います。
勿論共犯者である伯母 昭子さん(仮名)も母の計画に協力し、家族団らんの食卓に私が不在であることに対しても一切言及しませんでした。
 
 

 
記事私の半生と苦痛 – 序文でも少し触れたように、どういうわけか私は一週間に一度しかお風呂を使わせて貰えませんでした。それは小学校の2~3年生になる頃に始まり、それが当然のこと‥ とでも言うように私が清潔にしたりお洒落をしたりすることに対し「罰」を与えるようになりました。
 

 
お風呂に入れない私は当然のように不潔になり、そんな状態ではクラスメイトからも「臭い」と言って嫌われ、虐めにも遭いました。
 
週に一度しか髪を洗う事を許されない為、一週間分の汚れを落とす為に私は痒い頭皮をゴシゴシ擦って、ありったけのシャンプーを使って頭を洗いました。当然頭皮が真っ赤にかぶれるので肩の辺りにはいつも白く細かいものがこぼれ落ち、体はお風呂に無事に入れた翌日以外は常に異臭を放ち、そんな私を心配した小学校時代のクラスメイト数人が母に抗議をしてくれたこともあったのですが、そういう日の夜はこれでもかと言う程私は母に(母の手の関節で)目を何度も何度も強く殴打され、翌日は顔が真っ青に腫れ上がった状態で学校に行かなければなりませんでした。
 
家族の誰も私への母の暴力を止めることはなく、そんな私を見ていた弟(故)はやがて自分が私と同じ目に遭わないように、ただ毎日を無事に生き延びる為の方法を考えるようになって行ったと思います。
弟の嘘吐きはそんな日々の中で培われ、段々と彼は本当のことを話さなくなって行きました。奥歯にものが挟まったような物言いが徐々に板について行き、思春期になると弟はそれを「達観の域に達した」‥ 等と勘違いし、時折「飄々と在りたい」‥ 等と口にするようになりましたが、彼の言う「飄々‥」は現実を誤魔化して煙に巻く以外の何物でもありませんでした。
 
弟の口癖に「まぁまぁ‥」と言う言葉があるのですが、それは彼が現実から目を背け、本題から彼自身が逃げ出したいと思う時に使う常套句でした。
本気で生きようとすればあの家では酷い暴力が負の報酬として付いて回ると知った弟は、事実とは異なる事を言いながらとにもかくにも両親の気を引き、彼らのご機嫌を取り、その手段として両親が望むように私を精神薄弱児(知恵遅れ)として扱い続けることがベターだと判断したのでしょう。
 
ですが私は、弟(故)のそうではないもっと純粋・純真な一面を知っています。ほんの一瞬でしたが、それが弟(故)の本当の姿ではなかったかと私は今でも確信しています。
 

 
私が小学校の3年生ないしは4年生になった頃から、母は頻繁に家を空けるようになりました。一見何でもないことのように見えますが、私は母があの頃から異常に高額な洋服や靴、ブランドもののバッグを購入し始めたことを今でも忘れていません。
 
特に印象的だったのはシャネルのバッグとそれに合うヒール7センチくらいはある “Kanematsu” のハイヒール、そしてお金持ちの象徴と当時は言われた「黒いミンクのコート」をある日、いきなり着て帰って来た時の彼女の意気揚々とした笑顔でした。
どんなに金銭感覚には疎い子供の私でもあの格好はどこか変、と言うのも当時から母の口癖は「うちは貧乏でお金がないの。」‥ だったので、そんな実家のどこからあの「黒いミンクのコート」やシャネルのバッグを買うお金が出て来たのか、とても不思議でした。
 
しかも実家にお金が無いのがまるで私のせいであるみたいに、何かと良くないことは全て私が原因で、尚且つ私に尋常ではない程のお金が掛かる厄介者のように母に言われ続けたのですが、実際には私には、年に一着のジャンパーと一着のスカートと二着のトレーナーしか買い与えられてはいませんでした。
なのでどう見ても「うちは貧乏でお金がないの」‥ が母の虚言であることは明白でしたが、それを言及すれば又私は彼女の手の関節で目を殴られると分かっていたし、機嫌によっては水風呂に顔を突っ込まれることになるのが怖かったので、何も言えなかったのです。

 

to be continued…
  

私の半生と苦痛 – 序文

昨年2021年12月26日から今日までに起きたことを、今日は静かに振り返っていました。実家の遺品の整理をしながら、私を排除し続けた実家の家族や親戚、そして亡き弟の嫁についても出来る限りの手を尽くして調査をした結果、色々なことが分かって来ました。
 
特に未だ一度も会ったことのない弟(故)の嫁が私にした色々な仕打ちは到底許しがたいことであり、彼女の陰影(写真)を含め私はその全てをしっかりと心に焼き付けました。
 
とてつもない怒りが体じゅうから湧き上がり、そのことを複数の神々に相談したところ、「それ程までの貴女への仕打ちの側が悪。我慢の必要はない‥」 との見解を神々から得ることが出来ました。
なので私はこれを一つの区切りと切っ掛けとして認識し、今日まで私が親族や親戚、弟(故)の嫁を含む家族の関係者が私にして来た様々な仕打ちについて、このブログから発信して行くことに決めました。
 
私は顔の真ん中に傷「裂傷」を持って生まれました。世が世ならばそういう子供は抹消されたのでしょう。だからと言って、抹消せずとも苛め抜いて家族の輪から排除して良いと言う理由にはなりませんが、私の両親、生前の弟等は私をそういう風に扱い続けました。
そしてそれが現在は弟(故)の嫁と二人の私の従妹へと、脈々と受け継がれているのが現実です。
 
私は裂傷を持って生まれて来たものの、内面は過去世J.S.バッハ、そして妓生「ファン・ジニ」の気質を持っていますから、生き方やものの考え方は既に成熟しており、子供時代からどこか年老いたものの考え方をしていたことも又事実でした。
その為、父からは度々「可愛くない子だ」‥ 等と言われた事を、今も忘れることはありません。
 
但し現実はもっと複雑でした。
ただ、顔に裂傷を持って生まれて来ただけなのに、私が感情もあやふやで怒ることやものを考えることが出来ず、認識機能に障害を持つ人間だ‥ 等と言う尾鰭が付き、私は徹底的に家族や親戚たちから排除され、現在に至ります。
 
 
彼らが私を、精神障害を持つ人‥ 等と周辺に吹聴し続けて来た今日までのことや、弟(故)の嫁が私と言う存在を知っていたにも関わらず私を意図的に排除した状態で彼女が私に無断で母を火葬したこと、その火葬や葬儀に関わっていた二人の親戚のことも含め、可能な限り具体的な人物名を出してここに綴りたいと思います。
 

麻布教会

 


実母は年に一度だけ、クリスチャンに化ける人でした。

クリスマス・イヴから翌日のクリスマスの日以外は日常的に私に暴力をふるい、私を風呂にも入れず体じゅうが痣だらけになるまで爪でつねり、殴り、時には刃物で私の顔や体を切り付けたり、気分が激昂すると水風呂の中に私の顔を息が止まりそうになるまで突っ込んだまま溺れ(死に)させようとした‥等、それらの行為を『英才教育』と言う名の元に周囲の親戚や知人等を巻き込んで承知させ、虐待の手を一切緩めませんでした。
 

私の住んでいたマンションで、母は多重のキャラクターを使い分けながら人と接していた為、多くの人達は母がそのような凶暴な人格を持つ人だと言うことを知らなかったかもしれません。
なので私はある時期から母の虐待が始まった時にはそれだと周囲に分かるよう、意図的に大声で鳴き声を上げ助けを求めましたが、誰も私を助けてくれませんでした。
皆、我が家のことを知りつつ触れたくなかったのかもしれません。
 

昨年12月1日に母が永眠し、私はその事実を同じ年の12月26日まで知らずにいました。
その間に弟(故)の嫁が私の存在を全く知らなかった素振りを決め込んで、母を彼女の勝手な独断で火葬し、喪主を買って出て葬儀を済ませたことを昨年の12月26日に母の携帯に出て来た弟(故)の嫁から直接、まるでそのプロセスが当然の事のように聞かされ、驚きました。
 
さらにもっと驚いた事は、弟(故)の嫁と私の従妹にあたる女性一人 [えみさん(仮名)] が弟の知り合いの弁護士に、法定相続人である私には秘密裏に母の遺産を相続する件について相談していた事と、その経緯で私達夫婦の事も含め丹念に調査をしていた事でした。
彼女たちは法定相続人である私を「不在のもの」とした上で母の遺産を家探しの末調べ上げ、母の所持品や預金通帳等を漁って中身を見て金額を計算し、実家の墓じまいの件まで弁護士に相談していた旨の書類を目にし、そこから私の怒りはマグマのように吹き上げたまま現在に至ります。‥
 
 

糸島の海

 

弟(故)の嫁は自宅で倒れていた母の第一発見者となったようですが、そこに二人の従妹が同席していたと、彼女から私の実家の郵便受けに投函された差出人住所不記載の手紙には書かれていました。
考えてみれば妙な話しです。彼女の周りで、私の四人の家族の中の二人が亡くなったのですから。

問題は弟(故)の嫁が私に、頑ななまでにご自身の居場所や連絡先を伏せ続けている現実がある事。
私との実家の件(母の死亡の件も含む)の連絡手段として亡くなった母の携帯電話を私に指定し、2回の電話連絡の後私から彼女に連絡をしても一切電話に出なくなった理由には一体何があったのか、今でも不審を抱かずには居られません。
 
何より母を、私に無断で火葬し葬儀まで済ませ、周囲に私の不在を印象付けて行った真の理由も知りたいです。
もしかすると弟(故)の嫁は、私が認識能力のない精神の病んだ人だと勘違いしている(或いは周囲に意図的に勘違いを誘導している)可能性もあり、彼女を始め弟や母から私についてそのように吹き込まれたであろう多くの人達に、それが私の親族の吐いた虚偽である事を伝え、尚且つ事実修正する必要を強く感じています。
  

Olive


弟(故)の嫁の [りえさん(仮名)] は実家のかなり近くに住んでいるであろうにも関わらず、私達夫婦の挙動を息を潜めて監視しているような状況が続いていますが、私は弟(故)の嫁が今どういうマインドにあり、どういう状況に置かれているのか‥ について薄々知っています。
それは亡くなった弟本人が、彼に出来る方法を使って私に知らせてくれるからです。
 

一つ付け加えるならば、2015年の11月に他界した弟の実名をネーミングした「大輔塾」と言うセミナーを、2019年頃には開始当時とは全く異なるお茶会スタイルで運営している旨、全く本意ではないと弟が私に伝えて来ました。
本当に弟を思う心があるならば、そのような緩いお茶会形式へ弟の名前を使って「大輔塾」に人を集客するような行為は、今直ぐやめて頂きたいです。


さらに弟の実名の「大輔塾」と言う名称で運営されているFacebookの非公開グループの継続や、その中ででわちゃわちゃ投稿したりコメント等をする行為も、弟・大輔は全く望んではいません!
 

 
私は数名の実弟の知人に、これまでの経緯や今起きていることの断片(私が家族や弟の嫁から排除され続けて来たこと、弟の嫁が私に無断で母を火葬した事、等)を母の永眠の件に添えて手紙やメールで伝えましたが、今のところ全員が無視しています。
本来無視すべき内容ではないのに無視し続けると言う事は、そこに私への悪意や敵意が在ると言う確たる証拠です。
 
この件を私は心の中に仕舞っておくつもりで今日まで黙っていたのですが、それをする必要が無くなりました。
それよりも私は表現者として、静寂の音色の底に何を本当は封印して来たのか‥ についても、これまで私の身に起きたことをありのまま、ファンと共有する必要に迫られています。
 
但し、痛みや苦痛ばかりの文章の羅列は、読む方々をさらに苦しめる事にもなるかもしれません。
なのでこの「序文」以降は私の半生と苦痛と言う新しいカテゴリーを作り、そこにシリーズ化してこれまでの私の身に起きたことをありのままエッセイタッチで綴って行こうと思います。
  


このブログは今日まで主に音楽評論をベースに執筆を続けて来た経緯がありますが、それを止めずに新たなカテゴリーに私の半生と苦痛を加え、私自身に長年降り掛かっていた虐待や両親の私に対する過激な虐め・家族排除を含め、私の職歴や半生をそこに織り交ぜながらフィクションのように、ある意味他人事のように少しだけ俯瞰した視点で実話を綴ろうと思います。
 

思えば遠い過去、リラ星の巫女だった頃から魂は少しも休むことなく何度も何度も転生し続け、気が付いたらこのような私になっていました。
途中J.S.バッハや妓生「ファン・ジニ」、そしてジプシーとしてトランシルバニアに生まれ落ちたり或いは茶人「千利休」につかえる「くのいち」としての人生を経験したり‥、一つの魂が今日に至るまでには多々の過酷な変遷を経て来ました。
 
先程夕食の時間に、夫がこんな名言を言いました。

━ 強く深い怒りは悲しみをともなう。それは必ず祈りに昇華する。 ━

私は表現者として、今、心にある怒りを美しい表現に昇華させることを考えています。それを多くの人達とシェアする為には先ず、私が今心の中に燃え上がる怒りを書き記さなければなりません。
 
綺麗ごとではない、もっと生々しい私をここに書き記して行くことに決めました。
恐らくこれを、私を長年平然と排除し続けて来た親戚(二人の従妹)たちも見ていることでしょう。是非、私がこれまで経験して来た血の滲むような痛みとかなしみをご覧下さい。
それらを読んで、それでも私を家族から排除し暴力をふるい続けて来た両親の振舞いを肯定したり、私に心身への暴力の手を一切緩めようとしない両親を陰で滾々と支え続けた叔母を称賛する気持ちが変わらないならば、あなたがたは間違いなく悪魔の化身です。

さらには真実に気付きながらもそこからあえて目を伏せて、生前の両親や弟の虚言を肯定し続けている、私の親族・親戚以外の方々に於いても同様、同罪とみなします。

 
序文なのに長くなりましたが、以後はもっとライトなタッチで赤裸々に現実を書いて行きます。
私の音楽を愛して下さる方には、出来れば末永くお付き合い頂ければ幸いです。