【前書き】
前記事【8. 表現とインテリジェンスについての考察 vol.2】では、「第18回ショパン国際ピアノコンクール」に参加した日本人審査員 海老彰子 氏の歪んだ個性推奨論にメスを入れ、評価を進めて行った。
まだまだ書き足りないことが山積しているが一連のショパンコンクールについて論じている間、他のジャンルの音楽紹介及び音楽評論を間に挟むことが出来ないブログの構成上、そろそろショパン論のまとめに入る必要が生じている。
だがもう少しだけ書きたいこともあるので、本記事では特に「第18回ショパン国際ピアノコンクール」を観戦しながら感じた「コンクール」の存在意義について、私の見解を述べて行く。
(以上 前書きにて。)

毎年色々なピアノコンクールが開催され、それぞれに難易度の高い課題曲が出されその楽曲をいかに効果的に演奏するかが競われ、最終選考から10人未満が選出されるのはどのコンクールに於いても似たか寄ったかである。
多くの国際コンクールには課題曲となる元の作曲家の名前が看板となり、ショパン国際ピアノコンクールでは全コンテスタントがショパンの楽曲だけで腕を競い合う。
だが私が疑問に感じるのは、誰一人としてショパンの御霊の声を全く聞いていないことや、コンテスタント全てが自己解釈による「オレオレ・ショパン」をいかに華やかに演奏するかと言うことだけに意識を集中させていること等だ。
確かに楽譜に全てが記載されてあるわけではない、と言うことは認めよう。だとしても、多くの演奏者たちの演奏は余りにショパン本人を無視し過ぎており、尚且つ作曲家が何故作曲に没頭し、或いは何故こんなにも命を削るようにして表現世界に没頭し尽くす必要性を感じていたのかについて、思考が全く巡っていない状況は余りに悲し過ぎる。
確かに私のように [チャネリング] の能力を持つ人ばかりではないにせよ、作曲者に対する最低限のリスペクトをもって各々の楽曲の意図にもっと素直に寄り添うべきではないだろうかと、私は「第18回ショパン国際ピアノコンクール」の光景を空の彼方から見つめているショパンの天の声を聴きながら、何度も何度も涙を拭った。
そもそも「コンクール」の目的が表現者を輩出したいのか、それともスポーツ選手のような演奏家を輩出したいのか‥、その目的が曖昧なのだ。
ショパンコンクールでは最終選考に向かえば向かう程当然のこと、演奏曲目が増えて行くのだからコンテスタントの誰もが「体力勝負だ」と口にしていたようだが、表現とは「体力」がベースだと言う考え方が私にはどうにも納得が行かない。
これを絵画に置き換えてみると、分かりやすいだろう。
長時間、大きなキャンバスに向かい続けられる体力を持つ人が特権的に画家になれるのだとしたら、「表現」と言う観点を余りにも疎かにし過ぎている。
戦闘意欲みなぎる戦略を練ることが得意なコンテスタントだけに有利に働くようなコンクールに、どれだけの存在意義があるのか私には今でも分からない。
よく似た現象に「オリンピック」が挙げられる。口先では「選手ファースト」の祭典とは言われていたが、よくよく見てみると「スポンサーファースト」の色合いがとても強く、特に2021年の東京五輪にはその悪しき側面が色濃く滲み出てしまったことは記憶に新しい。

そう言えば私が未だ小学生から中学生だった頃私も毎年学生コンクールにエントリーしていた(‥させられていた)が、毎回お馴染みとでも言うように一人の盲目の女性がエントリーしており、私は彼女の朴訥な表現が好きで自分の演奏が終わった後に彼女の出番がある時は、彼女のプログラムを必ず聴いてから会場を後にした。
視界ゼロの世界はおそらく想像することすら出来ない程、きっと過酷なものだっただろう。目を閉じたまま登山に臨むようなもので、彼女の演奏にはミスタッチが付いて回った。だが彼女のミスには理由があり、それを承知で彼女はツェルニーやショパンのエチュードに果敢に挑み続けた。
特にJ.S.Bachのパルティータの解釈が美しく、なぜ「ミスタッチ」や身体能力の優劣が原因で彼女のような豊かな表現手法を知っているコンテスタントを容赦なく二次予選で落選させてしまうのか、毎年毎年自分の落選よりも「彼女」の落選の方に私はとても落胆したものだった。
オリンピックと対に存在する「パラリンピック」のように、身体能力にハンデのある人だけが参加出来るピアノコンクールがいつか立ち上がらないものかと長い間待ち続けていたが、遂に今日までそれは未だ実現に至っていない。
これが適切な表現かどうかは分からないが、思うに「表現とは病弱な部分があった方が説得力がある」と私は最近感じている。
健康優良児が体力に任せて演奏するスポーティックな音楽よりも、人生のどこかしらに不具合が生じて生き辛そうに生きている人の表現には憂いがあり、かなしみがあり、それらが混沌と入り混じった程好い湿度感がリスナーの心の傷を優しく包み込んでくれるのではないか‥。
ショパン本人もそうであったように、彼は人生全般に於いて「ここぞ」と言う時に、彼の前途を塞ぐように歴史も転換し、その連続の中でショパンの人生は翻弄され続けた。
思い通りに行かないショパンは日夜夢の世界に逃避し、特に夜の、視界が闇に包まれる時間になるとそれまでの地上とは別の世界を窓の向こうに投影し、現実を忘れるようにして作曲を続けた‥。
多くのショパニストたちが「ショパンの過酷な人生や彼の生きた歴史を再現する」表現を、実はショパンが最も望んでいないのだ。
この世の全てを忘れる為の音楽や創作、それがロマン派の原点だと、ショパンは信じて疑わなかったからだ。
ショパンコンクールの審査員方もそれなりに博識で、キャリアを積まれた方々なのかもしれないが、少なくとも私が見渡す限り、本体ショパンの霊体と直接対話の出来る人は一人も含まれていないだろう。
その証拠に最終選考に残った面子は全員がとても唯物主義的な価値観と音色を持ち、ショパンよりも自分自身を愛する人たちばかりだった。そうなるとその空間が「ショパンコンクール」である必要性すら皆無であり、ピアノを用いるステージパフォーマーを単純にセレクトする為だけに、わざわざ霊界で静かに眠りに就こうとしているショパンの霊体を叩き起こさないで欲しかったと、それが私はとてもとても無念に思えて来る。

夢見る時間を愛し、孤独に怯え、畳み掛ける自分への不運を諦めるようにして受け容れるショパンの人生の中で、唯一ショパンがアナザー・ショパンを生きる時間、それが作曲だった。
ショパンコンクールと言う演奏競技イベントで、そんなショパンの小さな希望の芽を摘んで欲しくはない。
音楽はゆっくりと、出来る限りゆっくりと旋律とモードやハーモニーが長く空気中に滞在し、それが残響と混じり合いながら新たな音色を生み出して行き、木々や動物たち、或いは精霊たちがその音色や残響と呼応し合いながら遠くへ遠くへと木霊して行く‥。
コンクールと言う競技イベントが音楽の速度を不必要に速め、その速さに耐えられる体力や筋力を持つ人たちだけが演奏家としてまかり通る世界を生み出してしまったならば、それはいつか誰かが本来あるべき音楽を生み出す環境へと訂正しなければならない。
丁度地球の環境破壊が世界中の大気を汚したまま元に戻れなくなりそうな、音楽までもがそうなる前に是非、緩やかで穏やかで普遍性をともなう、とても落ち着いた音楽世界が復活する日を私は是非この目で見届けたい。