霊界裁判の経過とサビノ神父との会話

昨夜2023年1月24日、夜。夕食に出かける支度をしていたところ、霊界裁判を担当している霊的存在の弁護士から急遽アクセスがあり、私の(亡くなった)親族等を巡る霊界裁判の途中経過を知らせて下さいました。
正直なところ、その内容は私の思う内容とは少し異なるものでしたが、そもそも現世の現実世界の司法では裁けないものが別途「霊界裁判」の形に持ち込まれたこと自体が、半ば奇跡的なことなのです。
 
前回の霊界裁判の開催はあの、史上最悪のカルト団体の教祖(‥尊師)だったと言うところだけを見ても、私の家族や両親・親戚等が現世でその域の邪悪さを振り撒いていたことは推して知るべし。
ここでは霊界裁判の途中経過の、内容詳細の記載は回避します。
 

そんな折、昨夜遅くから私は愛するサビノ神父の霊体と、接触を試みているところです。‥と言っても暫く眠っていたサビノ神父の霊体に異変が起きたことが発端で、その異変を生み出して下さった某神様には心から感謝を何度も何度も述べたい心境です。
 

 
上の写真は実家の遺品整理中に私の手元に還って来たサビノ神父の写真ですが、(最近の私の陰影をご存じの方ならば)‥どこか私と雰囲気がとても似ていることにお気付きになられると思います。
 
兄と言うには近すぎますが、過去世のどこかで私はサビノ神父との深い縁(えにし)を感じており、長い間自身の記憶を辿っていました。
そして昨夜、その真相の断片を掴み取ることが出来ました。

ですが如何せんそれは未だ断片に過ぎず、現在のサビノ神父の霊体にはとても大きな損傷の痕跡が視られる為、この記事の中では詳細には触れないでおきたいと思います。
 

 
過去世で私は何度も「死」を経験し、断片的にその記憶を持っています。
ですが過去世のサビノ神父が目の当たりにした、直前の過去世の私の「死」の瞬間はとても壮絶なものだったと、彼は語り始めました。
そして今世のご自分の心身に実際に在った大きな傷跡の経緯を、彼はいつか私に話そう‥ 話そう‥と思っていたようですが、それは遂に叶いませんでした。
 
‥本来ならば私は、彼を父に持つ可能性があったようです。
その発端は直前の私とサビノ神父の前世からさらに遡る幾つもの過去世の記憶の断片の中に既に在るようですが、どうしても私にはその発端に辿り着くことが出来ずに居ます。
その場所に行こうとすると、(魂に)痛みが生じるのです。
 
鬱蒼と茂る背の高い草、その脇に砂利道が長く続いており、そこに一軒の小さな空き家(小屋のような‥)があり、私はその先の狭い路地を目指して一人で歩いていました。
夢は毎回そこまでは私をいざなってくれますが、その空き家の手前で、まるでTVの電源が突然切れるように夢が終わります。
どうしてもその先に進むことが出来ないまま、もう何十年もの月日が経過しています。
 
‥どうやらサビノ神父は、その先の出来事を知っているようです。
ですが今現在の(霊体に損傷を負った状態の)サビノ神父から、その全貌を聞き出すことはとても難しいと思います。なのでこのことにはもっともっと、長い時間が必要になるでしょう。
 

 
春になって暖かい風が吹く頃になったら、私と神父が40年前の11月、最後に会った箱根は芦ノ湖に足を運ぶ予定です。
あの日私がお腹を壊さなければきっと乗船してサビノ神父と共にひとときを楽しんだであろう船に、乗れれば乗りたいと願っています。
 
‥それにしても実母の葬儀の件では、まだ謎が謎のまま現在に至ります。
 
何故母の葬儀が(それまで長年通い続けていた筈の)イグナチオ教会ではなく麻布教会に決まったのか、本来ならばその辺りの話を(母の骨壺から彼女が抜き取ったと見られる母の火葬許可証の件も含め)弟・大輔(故)の妻の「山田りえ(仮名)」さんから直接訊きたいところですが、彼女は未だに私との接触を避けています。
まさか私の母(故)や父(故)、或いは大輔(故)から伝え聞いた私についての話を、彼女は今でも信じているのでしょうか‥。
 

霊界裁判では量刑が既に決定している箇所もありますが、(これはあくまで霊的な実刑を決定する場ですが‥)弟(故)の嫁・山田りえ(仮名)は極刑の次の量刑の重度で言うところの「第二位」に位置する罪で裁かれる可能性が濃厚です。
ですがこれは未だ、決定ではありません。

 
静かに事の経緯を見守りながら私は、これから現世に転生を目指して舞い戻ろうとしているサビノ神父の御霊(みたま)と、会話を続けて行きたいと思います。
 

 

霊界裁判 – 刺客と家庭崩壊の転機

2022年12月29日、私にとっての「家仕舞い」が終了しました。
一年前の同じ日に足を踏み入れた時、同じ空間は酷いゴミ屋敷と化していました。丁度耐震工事真っ最中のその部屋は、室内だけが別の世界みたいに時間が止まっていました。
 

(母の)亡くなる数年前から恐らく彼女は目も耳も悪くなっていたのでしょうか‥、あちらこちらに似たような眼鏡が散乱していました。
台所にはこぼしたままの調味料の跡が点在していて、寝室は一体どこに寝れば良いのかと言う程洋服や身の回りの物々が書類に紛れたままになっていて、そこに何とか空間を維持するみたく布団が敷かれていました。
 
マンションの耐震工事中は室内から一切物を運び出せない状況が続いた為、実際の遺品の整理は昨年の11月から再開され、11月下旬に開始した遺品の運び出しには12月の初日まで、約10日間を要しました。
予め両親と弟に関わる個人宛の手紙や書類とアルバムや写真だけを残しておくよう業者に依頼したので、12月初旬からは主にアルバムの確認や整理が粛々と続き、去る2022年12月29日に家仕舞いの全工程を完了しました。
 

 
2022年12月29日のTwitterでツイートしたように、同日始まった霊界裁判は現在も続いています。
勿論これは霊界の司法を元に開催されている事なので内容が逐一私に開示されるわけではないのですが、必要な情報は該当裁判の担当裁判官(勿論霊的存在です)から時折知らされます。
 
未だ裁判過程に在るので内容の全公開は出来ませんが、私が視た山田家と霊界裁判が調査している山田家には若干温度差(内容差)があるようです。勿論私にとってはそのどちらであっても結果には大差がないのですが、量刑の観点からはやや私の意にはそぐわない判断も下されています。
 
気になっている点の一つを挙げると、弟・山田大輔(故)の妻・山田りえ(仮名)とその家族の量刑についてです。

霊界裁判の担当者の調査によれば、昨年私のInstagramのDM宛てにメッセージを送って来た人物は、山田りえ(仮名)の母親だそうです。山田りえ(仮名)本人ではありませんでした。
なのでその視点から見ればDMに書かれていた山田りえ(仮名)について「箱入り娘で育てられたような‥」の記述は、いかにも母親らしい書き方だと見ることが出来ます。

一見何気ない文章に見えますが、この「箱入り娘‥」の辺りの記述は実際にその状況を知らない人には書けないことだと思います。なので現実問題、山田りえ(仮名)をその母親は箱に仕舞うように大切に育てたからこそ、私にそれを訴えて来たと見なす方が自然です。

 

また、りえ(仮名表記)さんにおきましては、あくまでも私個人の見解ですが、箱入り娘で育てられたような様子があり、ある種の経験を大きく欠いているかと思います。それ故に、遠矢様からの立て続けの電話のコールに一人きりでいた彼女は相当に恐怖感を覚えたようです。
とはいえ、電話を折り返す必要があったと思いますし、弁護士を通してではなく、遠矢様と直接話し合う必要があったとも思います。
 
生前のお母様からの言伝や一言には書けないいくつかの事情が重なり、遠矢様に失礼になるようなりえさんの対応があったと思います。遠矢様に対して誠意を欠いていると言われるのはその通りかとも思います。
 

Instagramの「エル〇〇ト」が私に宛てたDMより

 
問題は山田りえ(仮名)が実際に私にしたことを、家族である母親らしき人物が庇う行為の方です。山田りえ(仮名)の母親のその言動が万一なかったとしたら、母親の量刑はかなり軽くなっただろう‥とのことです。
実際には犯人隠避にも近い行為に至った可能性のある言動と見られる為、山田りえ(仮名)の母親に於ける霊的な量刑は山田りえ(仮名)に対するそれに匹敵するとのこと。
重い罪が課せられるでしょう。
 

これはあくまで霊的裁判が判断する霊的量刑の話であると言うことを、繰り返し付け加えておきます。

 

 
霊界裁判によれば、弟が生まれる迄の4年弱の期間の山田家は、多少(私の顔の件で)問題がありつつも至って平和だったとのこと。
これらの情報は全て「魂の記録」を閲覧する権限を持つその職の霊的な存在が調査するので、記憶よりも確かで永遠にそれが消えることは無いそうです。
 
確かに私が顔から胸の上にかけて「裂傷」をともなって生まれて来たので、私の顔は鼻の下から真っ二つに割れていました。それを見た父の第一声が「なんだこれは!」だったと言う記録を書き換えることは出来ないまでも、父なりに私を何とか可愛がろうとした形跡は残っていたようです。
母についても同様で、私が4歳を迎えるまでは母なりに何とか私を可愛がり愛そうとした形跡が、母の魂に記録されているとのことでした。
 

それまで穏やかだった山田家の家族3人のその状況を一変させたのが、過去世は史上最強最悪の忍びとして一世を風靡した「摩利支天」の再来として転生した、弟・山田大輔(故)でした。
 

注意すべき点は摩利支天はそもそも仏教で言う守護神であること。
ですが過去世で私を何度も手に掛けた「摩利支天」はそれとは全く別の存在であり、本来の仏教の守護神とは別人です。
‥彼は自身がその再来であると過去世で吹聴し、神の名前を自分に当てはめ自身の名に置き換え、自分自身を神格化した偽物「摩利支天」の凶悪ぶりは後世にも言い伝えられ、「摩利支天」からさらに遡ること山田大輔(故)と私の因縁は遠く「リラ星の自爆」にまで時を戻して行きます。
 
忍びの時代の摩利支天の得意技は、人々のマインドを攪乱(混乱)させ妖術で変質させ、長期的な催眠状態に陥れ前後不覚の状態に誘導すること。最終的には民衆の感情を自由自在にコントロールして行ったと言われています。
そんな「摩利支天」に私を含む複数の忍びは果敢に彼に挑んだものの、何度も敗北したまま今日に至ります。

─ 中略 ─

 

 
遺品回収業者が撤収した後の実家の室内には段ボール7~8個程度の荷物が残されており、その中に収納された書類や手紙、古い写真等を私はくまなく確認し、印象深い写真(特に弟の結婚式等)だけを手元に残し、他の大半の写真は処分しました。
 
父(故)の葬儀の参列者名簿、そして弟(故)の結婚式の写真等は出席者の確認がてら現在も保存しています。
私の知らない家族の行事がどのようなものであったのかについては、霊界裁判の公判にもおそらく必要になると思い、各々の写真に写り込んでいる人物の陰影をくまなく記憶し、私の霊体自体も霊界裁判に差し出すつもりで現在日々を送っています。
 
上(下)の写真は弟・大輔(故)が生まれる一年近く前のワンショットだと思いますが、この頃の我が家は暴力も虐待もない、至って平和な様子が記録されています。
 

 
⇧ この写真に写る父と私にも不穏の影はなく、どこの家庭でもよくあるありふれた親子関係が素のまま写り込んでいるように見えます。
又、私の思春期に度々家庭内で持ち出されていた私の「顔の傷」もさほど酷いものには見えず、どう逆立ちして見てもこの頃の私の「顔」が後の両親の私への虐待の原因だったとは思えません。
 
ですが私が4歳の夏に弟が生まれて以降、それを合図に私の写真が激減しています。
実家に残されたアルバムの大半が弟の陰影だけだったことを見ても、弟が生まれたことが山田家の異変の大きな切っ掛けであったことはもはや、火を見るよりも明らかです。
 
それもその筈、弟・大輔(故)は生まれて来る前から私の霊体をターゲットし、既に生まれる前から私を霊的に監視し、私の息の根を止める為に山田家に生まれて来たわけですから。
 

 
霊界裁判の担当者曰く、大輔(故)を高く評価しようとする人だけが大輔或いは摩利支天の妖術に入り込まれ、無意識に妖術の洗脳にハマって行ったそうです。
それは言葉や理屈を超えている為、仮に私が直接彼等に会ってその旨を指摘したとしても、彼等はむしろ私の言動や考え方の方を否定(非難)することにしかならないだろう‥と。だからこそ今回の史上稀に見る霊界裁判はとても重要な軌跡であり、父・寛(故)、母・雅枝(故)及び弟・大輔(故)に関わった全ての人々の魂や霊体を介して事実確認をする必要を、霊界の司法も考えたのでしょう。
 
霊界裁判の開催自体がとても稀なことであり、直近ではあの極悪非道な宗教団体の教祖(尊師)が現在も、長きに渡る公判中に在るとの話でした。

2022年10月7日 ツイートのまとめ

久々に恩師・三善晃氏にまつわるツイートや、私の過去世の断片を綴ったツイートが連発しました。
記録がてら、この記事に一旦まとめておきます。
 

 

 

 

 

 

 

暑気払い

昨日は暑気払いをかねて、久々に焼き肉を堪能して来ました。
数年前に比べると食欲が若干低下したのか、予定していた皿数を消化出来なかったのはショックでした。
 

色々なことを考える今日この頃。
つい半年前くらいまでは兎に角同業者や芸術方面の人達と繋がりを持つことを考えて来たのですが、音楽家の多くが自己愛が激しく、殆どの音楽家たちが他の人の音楽を正確に聴くことが出来ないと言う壁に何度もぶち当たりました。
なのでこれからは異業種の人達との繋がりに、着目して行きたいと感じています。その方が、良い人間関係を築けるので。
 
又、別の意味でも私の音楽を異次元級の音楽として、又私を音楽家・芸術家として向き合ってくれると思いました。
 

 
本来、音楽家が他の音楽家の作品を正確に評価出来ないことは、きわめて致命的です。
仲間同士を褒めちぎり合うのではなく、双方の人間的価値を正確に見極めると言う意味で、同業者にそれが出来ない人達がこれ程までに多いから、今の堕落した音楽業界に至ったとも言えるでしょう。
 
 
何度も言いますが、私はバッハ(J.S.Bach)でした。
過去世バッハの私にはバッハとしての人生の蓄積とその記憶があり、音楽の父・バッハが考える次世代の音楽のいろはが私の中には既に詰まっています。
 
「格の違い」を双方認識し合いながら、適切な人間関係を持ちたいと願うばかりです。
  
 

弟・山田大輔の虚像と実像 – 後編 –

弟・山田大輔の虚像と実像 – 前編 –」の続きを綴ります。

 
私の初婚は当時の恩師を激怒させる内容でしたが、相手のあることなのでその詳細についてはここには綴らないでおきます。
紆余曲折、母のマッチポンプの末に得た解放区と新婚生活は、蓋を開けてみれば想像すらしなかった苦労の連続でした。とは言えそれが私の選んだ道だったので、不平不満は言えませんでした。

波瀾の結婚生活を開始してからも私は、時々実家を訪問していました。そうすることが親孝行だと言う強迫観念が、私をそうさせていたのだと思います。
 
元々私は実家からは排除された存在なので、当然のように実家の合鍵は持っていませんでした。
もっぱら実家へ行く時には母に、当然のように手土産を求められました。金銭的にも全く余裕など無い私に、よくもそんなことが言えたものだと今なら腹も立ちますが、当時の私はまるで精神を病んだ何かしらの生き物の抜け殻のようで、毒親に歯向かう気力など全く持ち合わせていなかったのです。

時折「訪問する」(帰るのではなく、訪問する)実家では、私の行くタイミングに合わせて弟も在宅するのがルールみたいになっていました。当時は(結局亡くなる間際まで)弟・大輔のメインの仕事は他にあって、その合間にサブの仕事として「家庭教師」をやっていたと聞いており、私が実家に帰る時は授業の時間を調整して自宅に居てくれたみたいでした。
私は実家に行く度に西荻のこけし屋のケーキを必ず8個買って、重い足取りでマンションに向かったものでした。
 

弟・大輔は元々皮膚が弱い子でしたが、何年か毎に私が実家に行く度に皮膚(特に頭皮)を真っ赤に爛れさせ、見ている私の方が燃え上がりそうな痛みを感じました。
大輔はマクドナルドのハンバーガーが大好きで、私が実家を訪問した時にも「僕の昼ご飯」と称してよくマックから紙袋を抱えて買って来て、美味しそうに食べていたのを思い出します。
 

 
2012年秋、(父の遺産整理の時の家族会議を除き)私が最後に実家に帰ったのは多分、前に飼っていたうさぎ「桃樹」が3歳の頃だったと思います。2004年かその翌年の初夏が、元気な大輔とじっくり話した最後だったかもしれませんが、その時既に弟の虚言は高みに達する目前でした。
 

弟・大輔は自身を「政界の裏側を暗躍し、目が飛び出るようなビッグネームの人々と連日会食し、官邸にも自由に出入りする立場だ」と話していましたが、その目はどことなしに虚無で理由の分からない虚脱感が全身を覆っているように見えました。
大輔に彼の生活や職業についての詳細を尋ねようと何度か試みたこともありましたが、私がそうしなかった理由はただ一つ。テレパシーを使って彼の内面を覗き込んだ時に、そこが真っ白いベールで覆われたまま何も視えなかったからでした。

今にして思えばその頃には大輔自身が吐ける嘘も上限に達しており、完璧なまでの虚像を作り上げる以外に話せることが彼には何も無かったのかもしれません。なので2004年頃に見た弟・大輔の印象は「虚無」そのもので、彼の体からは異様なまでの油っこい臭いが立ち込めて長く一緒に居られなかったのを憶えています。
 

私には、人の心拍数を聴き取る聴力が備わっています。
2004年頃の大輔からは物凄く速い速度の心拍数が常に聴こえていて、むしろ母の高血圧よりも私はそちらの方が気になりました。ですが毎日一緒に彼と暮らしているわけでもないので、大輔の速過ぎる心拍数について話すことは遂に出来ませんでした。
 

 
桐朋小学校時代、あれだけ陸上部で鍛えていた彼の身に一体何が起きていたのか、今の私ならばもっと正確に捉えることが出来たかもしれません。でも当時の私には無理でした。

後に、父の遺産整理の際の家族会議の時に初めて聞いたのですが、桐朋小学校時代の大輔はどこかクラスではみ出してしまっていたらしく、クラスメイトとは距離があったとのこと。
「登校しても何もすることがないんだよ。だから走るしかなくてね‥。」
父の位牌のあるリビングで、そう話していた大輔の声が今も悲しげに蘇ります。
 

正確な日にちは遂に訊けなかったのですが、そんな大輔が父の闘病中に心臓の発作で倒れて入院生活を余儀なくされたのが、おそらく2010年か2011年頃のことではないかと(彼の話の端々から)察しています。
私がその話を聞いたのはやはり父の遺産整理に於ける家族会議の時でしたが、「次同じことが起きたらもう後がないんだ‥。」 と、大輔が噛みしめるように話していた時の渋い横顔が強く印象に残っています。

久し振りに聞いた大輔のか弱い、尚且つ辛い話は短時間で切り上げられました。母が何故か大輔を睨みつけており姉弟の会話の時間を追い剥ぎのように奪い取り、その直後からまるで息を吐くような、大輔独特の嘘談義が始まりました。
そこには弟・大輔が某有名私立大学の社会科学の分野で、教授として教鞭を執っていると言う内容も含まれていました。学問として社会科学を立ち上げた自分は張本人であり、自分は社会が今最も必要としている人物だ‥ と言う話もしていたのですが、その話はどこかうすら寒く聞こえて来ました。
 

ふと疑問を感じ、私が(大輔が教鞭を執っていると話す)大学名を尋ねると彼は即座におどけたような表情をして、「僕は芸名で教壇に立って学生を教えてるから、それは言えないよ。美樹ちゃんだって芸名で活動してるでしょ?それと同じだよ。」と言い、おもむろに全く違う話題に話を変えたので私もすかさず「そう言えばパパ、確か渋谷に物件を持ってたわよね?」と応戦。

すると大輔は想定外の私の質問に動揺したのか、その後の対応がみるみるうちにしどろもどろに変わって行ったのを私は見逃しませんでした。
 

 
大輔と最後に話をしたのが2012年の確か9月、その2年後に彼はりえさん(仮名)と結婚、それから一年後の2015年の11月17日に弟・山田大輔は他界しました。
 

大輔が私を結婚式に招待しなかった理由は、私に自分の実像を暴かれることを強く恐れたからでした。これは死後の大輔本人の魂からも直接聞いたので、間違いありません。
 
私は「暴きの星」を持っています。不穏、不審に感じたことは徹底的に追及し、日の光に晒す。それはいつからかの過去世から脈々と私の魂に沁み付いた習性であり、使命でもあります。
過去世の記憶では、私が不審を感じて暴いた「星(ホシ)」の大半が、世の中から忽然と消滅して行きました。
勿論のべつ幕なしにそれを目的としていたわけではありませんが、私のシュールな嗅覚の標的となった人たちの殆どが、日の当たる世界から忽然と消えて行ったのです。
あくまで私が経験した三回の「くのいち」時代の記憶ですが、私の魂がそれらの記憶を今も忘れずに居ます。
 

弟・山田大輔はそんな、私の習性を酷く恐れていました。彼も根っこが摩利支天ですから、当時は無意識だった私の稀有な習性にむしろ彼の方が先に気付いていたのかもしれません。
 
2012年秋から数か月が経過したある日、あることで私はメール上で大輔と激しい口論になりました。
私が二度ホームレスになったこと、その過程で一度命を落としかけたことその他、一定期間私がスピリチュアリストとして別名を掲げて活動していたこと、それらの全貌詳細などについて「僕は全部知っていたよ。」と言って得意満面に私を往(い)なそうとしたので、その振舞いに対し私は「‥つまり全てを知った上で私を見殺しにしたわけね。」と返信。
それが彼の逆鱗に触れ、それこそが大輔が私を自身の結婚式に招待しなかった理由であり、さらには父亡き後、表向きの家族のイベント全般からの私を徹底して排除し続けた(表向きの)理由でした。
 
私の知らないうちに大輔は姉を家族から完全に除外した形でりえさん(仮名)と結婚式を挙げ、大輔がお世話になっていた学習塾の創設者T.O氏を仲人に立てていました。(この辺りの下りについては、ここでの記載は省略します。)
 

 
弟・大輔は人生の多くを、虚偽で塗り固めていました。

政界の裏側を暗躍している、特別かつ偉大な存在であること。
世に「社会科学」を学問として立ち上げ、その部門の教授として芸名で某有名私立大学で教鞭を執っていたこと。
自身が強い霊感を持ち、死後の父と頻繁に対話を重ねながら山田家との関わりを深めて行き、権力者の虚像をかぶり続けていたこと。

弟・大輔の本職「家庭教師」が大輔の身上書の中では「講師」と記載されていましたが、思うに「社会科学」の創設者として某有名私立大学で教鞭を執っていた‥ と言う話も全て嘘です。

 

私は色んな手を尽くして大輔の足跡を調査したのですが、どうやって探してもそこに大輔の痕跡はありませんでした。
某有名私立大学の「社会科学」科に、教授として「在籍している」と言う仮説がそもそも間違っていたのです。仮説を「在籍していない」に設定すると、これまでの矛盾が全て埋まって行きます。

思えば大輔の妻・りえさん(仮名)に大輔が、どれほどの真実を語っていたのか否かと言う点を思うと、ある意味りえさん(仮名)も、弟・大輔の虚言が作り上げた虚像の被害者なのかもしれません。
ですが大輔の妻・りえさん(仮名)が母の死後に私に対してして来たことを見る限り、そこにはもはや同情の余地すらありません。
 

 

 
※父他界後に弟・大輔はあらためて、それまでの山田家の「姉排除」のしきたりを継承し、それがさらに現在では妻・りえさん(仮名)へと引き継がれ、今は大輔の妻・りえさん(仮名)が山田家になり代わって従妹たちと共に私を排除し続けています。

 
ですがもしかすると、正当な理由もないのに長年に渡り私を排除し続けた側が、最終的には排除されることになるかもしれません。
 

私の生存や連絡先を知っていたにも関わらずそれを「知らなかったこと」として、喪主を買って出て執り行った母の葬儀後、大輔の妻・りえさん(仮名)は結局法律上の理由で母の納骨が出来なかったようです。

母の遺骨は私の実家のリビングに、墓地の権利書を付けて放置された形になり、現在に至ります。
そして大輔の妻・りえさん(仮名)が私に無断で勝手に執り行った母の葬儀その他、りえさん(仮名)が中途半端なやり方で山田家の最期の人を火葬し、親族に関する名簿或いは葬儀の参列者の名簿等を持ち去ったまま私から今現在も尚逃げ続けている為、私は母に関わる親族その他母の知人や友人に対し、納骨の報告や訃報の通知さえ出来ないまま現在に至ります。
 
ですので上にも書いたように、私が山田家の墓に母を納骨しても、おそらく誰もそれを知ることなくひっそりと何年も誰一人墓参りにさえ来て貰えない状況に至るかもしれません。
勿論私がそれを望んでいるわけではないのですが、私以外の親族全員が私を排除し続けたことが結果、山田家の三人の死者をそういう状況に追い込んだとしても誰も、何も言えないでしょう。
 

私に行われた父の最初の差別や虐待、しいては弟・大輔が私に対し行った「見殺し」がある意味では、彼等にそのまま因果応報のように戻って行ったとも言えます。そう思うと、今日までの全ての出来事の不可解な空洞や矛盾が全て埋まって行きます。
因果応報とはまさに、このような状況を指す言葉だと私は思っています。
 

私は、虚像で人生を塗り固めた弟・山田大輔や母・山田雅枝とは違い、真実と本音だけで今後も生きて行くつもりです。
物事は「ルール通り」がベストであり、法の抜け穴ばかりを追い掛けて生きることに於いては、全く適切だとは思いません。弟・大輔はどこか「法の抜け穴ばかりを塞いで生きて行く」ことの方を、自身が学んだ法律の中で習得し過ぎたように見えます。

つまりそういう背徳の念を常に抱え込んだことが、最終的に大輔の心臓に大きな負担を掛けたのではないかと思うと、そこに弟・大輔のもう真の死因の種があったのではないか‥ と言うのが私の今の結論です。
 

バッハ (J.S.Bach) と言う過去生の自分

私が過去世 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ であることは、あくまで私の過去の魂の履歴に過ぎません。
何故自分がその人であることを確信するに至ったか‥ と言うご質問はこれまでにも何度か投げ掛けられていますが、それは簡単に言えば「あなたは何故自分が人間であると確信するに至ったのですか?」と言う質問と、内容はほぼ一緒です。
なので答えるまでもありません。
 

他人事としてバッハの偉大さを挙げるとすれば、例えば以下のようなことになるでしょうか。
 

  1. 教会音楽、或いはゴシック様式の礎を築いた最初の人であること。
  2. 対位法と言う前人未踏の音楽理論を確立した、最初で最後の人物であること。
  3. 即興演奏の名手であったこと。これが後のサロン音楽文化の基礎となった点は見逃せません。
  4. 空間音響学の基盤を構築した最初の人物であること。
  5. 何より音楽全般の父として、作品や生き様、音楽理論に於ける彼の多くの実績が後世に受け継がれていること。


挙げればきりがないのですが、現在私が次世代の音楽の基盤を新たに構築している点を理解出来る人であれば、私がその人 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ であったことに於いては矛盾を感じない筈です。
ですが全てはあくまで、私の過去世の魂の変遷でしかありません。私は私、Didier Merahでありそれ以上でも以下でもないと同時に、現在に至るまで私のような人物が二人と存在しないことも又事実です。
 

 
Didier Merahは現在、自身の半生のお片付けの真っ最中です。未だ手の負傷も完治していないながら、新作のメモだけは日々湧き出て困っています(笑)。
人生の大掃除中にて、暫くは音楽評論や音楽紹介、音楽鑑賞にエネルギーを注ぎながら次の自分に備えて準備中です。
 
作品のみならず生き様を含む全てを次世代のサンプルとして確立しようと試みている最中なので、これからの私の言動はきわめてシンプルできわめて歯切れの良いものに進化して行くことになるでしょう。
 

一見優しい音楽を生み出している私ですが、言葉はとても辛辣でストイックです。
付け焼刃な甘ったるい同情は、一切しないことをポリシーとして生きています。私に何かしら話し掛ける時は、「歴史上の音楽の父」として、そして「次世代の音楽の母」を目の前にしていると言う気概と覚悟をもって接して下さい。
以後、このルールに反する内容(言葉遣い含む)のDMやメールには、返信はしないつもりです。

礼節は尽くして下さい。お願い致します。
 

 

Dream of Falling

nasca-1089342_960_720

 

何度も何度も繰り返し見る悪夢。それは雲の隙間から遥か遠くの地上に向かって、急降下する夢。
しかも私は誰か、何者かの手の中を完全に転がされている。

体は完全に宙に浮いたまま、もう直ぐ落下して行く迄の数分間雲の上で停止する。いっそこのまま気を失ってしまいたいと願うも虚しく、私は覚醒したまま空中からどこにあるかも分からない陸地を見据えてる。

夫曰くそれが、転生直前に目的の母体を決める最終決断の瞬間ではないかと言う話。魂が空から一気に押し出され、誰かが決めた母なる肉体へと物凄い勢いで押し出されて行く瞬間の記憶…。

 

日常生活の中、ありふれた午後のテーブルを夫以外の誰かと挟んで向き合って、アイスコーヒーをストローですすりながらこんな話の出来る友人に、私は未だ巡り逢わない。至ってフツーの笑顔を浮かべ、ありきたりな話をずいずい進めて行く私は仮の姿、その瞬間だけ「普通の人」を演じているそれは偽りの顔でしかない。

何人かの友人や知人にティータイムのお誘いを頂くけれど、私はそれらの全てをお断りして居る。一言で言うと、どうしても今の私が抱えていること、アナザーワールドとこの世界を同時に生きて行く私を相手が心底理解してくれる気がしないから、誰かと会う度に「フツー」の仮面を逐一かぶり直すことに私は疲れ果ててしまった。

 

人と人は、一度出会った後はもうそれ以前に戻ることが出来ない。するとどんなことになって行くのだろう…。
最初は刺激が歓びを生み、虹色バラ色の浮遊感・多幸感に満たされる(相手が)が、次第に「慣れ」にそれは変わってしまう。やがて慣れは目の前の相手である私の粗探しへの欲求へと変化し、相手の悪いところを探してそれを矯正してあげよう…と言う偽善を生み出す。

 

あなただって同じ人間でしょう?

(その思いにはなぜか憎しみが籠もっている。私の才を相手は、自分の才と天秤に掛けて、ジャンルの異なる「優れた人」を豪語し始める。)

何度このセリフを言われただろう…。仮にそう相手が言わなくても心の中の声が私には全て聴こえて来る。
随分高飛車な人ね、たかだか音楽の才能だけが人よりちょっと進んでるだけでしょう?それが何だって言うの?みんな何かしらの才能を持って生まれているのだから、プラマイゼロでしょ(嘲笑)…。

 

この世界に使命を授かって何度も何度も生まれ直し、その使命を達成するまでしぶとく何百年・何千年も生き続け、古い記憶を全て保有している人はどのくらい居るのだろうか?
少なくとも私は未だそういう相手とは、夫以外誰とも会って居ない。

いつかそんな人が夫以外に、私の前に現れてくれるだろうか…。

 

先日、未だリアルでは全く逢ったことのない人と、私の音楽観について少しだけチャットで話をした。そう、ツムツム関連のグループチャットの中でのこと。

多くのミュージシャンは人気者になりたくて、音楽を始めたままやめられなくなる…。その結果音楽を仕事として成立させて行く過程で色々な境遇に振り回され、気付くと無謀な発注を黙々とこなすだけの専業作家になって居た…と言う話。

 

私は自己愛が殆どない。

━ 音楽活動や創作活動は、私にとって現世の修行みたいなもの。奉仕の精神で続けています。

そんな言葉がふと、気付いた時にはチャットのTLに乗っかって居た。意外にその相手はそんな私の、ともすると「コノヤロ!」と相手を奮い立たせそうな言葉をすんなりと受け入れてくれたのが、逆に私には意外だった。

 

私の直前の過去世はイタリア人だった。音楽家を目指す過程で料理に目覚め、気付くと料理人になる為の修行を積んで居た。
それは運命を司る「Brain」から見た場合には完全に「軌道を外れた状態」であり、ある日私はトスカーナの或る場所でトラックに撥ねられて命を落とす。

 

空を飛べない筈の私はその後、再び空の上に居た。それは丁度プールの飛び込み台の上に居るような状況に似て、真っ青な水面の在る場所には霞む陸地とそこで妊娠を控えた「母」の存在が在った。
私は「Brain」なる存在によってその母体に一気に押し込まれ、元々そこに居た未だ小さな弟を弾き飛ばした。

 

同じ悪夢を何度も何度も見る理由が分かった今でも、その悪夢に魘されて目が覚めた後の私の心臓はこれでもかと言う速さで波打っている。
ああ、又同じ夢を繰り返し彷徨ってしまったわ…。

 

今朝も私は、再び空の上に居た。

 

 

この記事を書きながら聴いていた今日のBGMは此方 ⇩

 

 

若干内容を更新しました。
是非是非フォローして下さいネ✨

 

遠くから来る音、気配

pexels-photo-326108

 

この一週間、いえ… もっと多くの時間の中で起きたことを書くには私の文章スキルが余りにも足りないし、何より現実離れし過ぎているかもしれない。一体私はこの世界とアナザーワールドの、どちらを主軸に生きているのかさえ分からなくなる程、この数週間の中で起きた諸々の出来事は飛び過ぎている。

気持ちが落ち着かず、常にざわめきに寄り付かれ、夜も余り眠れない日が続いている。そんな中私も夫も週末から風邪をこじらせ予定していた作業を全て延期した途端に、来る筈だった台風はどこか海の彼方に消えてしまったみたいに都内の雨が止んだ。

 

私たちの作業を快く思わない者はこの世でもあの世でもない、もっと別の世界に点在し、暗躍している。彼等は独特の想念やその力を兼ね備え、私たち夫婦に思いもよらない重圧を掛けて攻めて来る。

私たちはそんな重圧の隙間を縫うようにここのところの作業を進めて来たが、彼等の、まさかそれが二人の人間を攻撃するには余りある程の念の力に少しだけ負けて疲れ、風邪を引いたり頭痛をこじらせたりして体調を崩してしまった。

 

無理は惜しまないが、命を捨てる程私たちは愚かではないので、ここはゆるゆる進むところだね、そだね~と目と目を見つめ合いながら、やわらかな真綿の海を彷徨ってこの週末を渡って行く。

 

 

 

気持ちが落ち着かない時、私はなるべく遠い過去の記憶を持つ存在と触れ合うことに決めている。

例えば森、例えば木々、野に咲く花々、そして天然石。
岩や石に触れていると、遠い時代にきっと私が居たであろう赤い星の記憶が蘇る。思い出せそうで思い出せない、喉の奥で詰まってしまった音楽は古いさざ波の調べにも似ているが、そこに私の原点があることまでは何とか突き止めた。

でも、その先を思い出せない。

 

そんな時、透明な石に触れて回想の補足の力(りき)を得て、私の根元に辿り着こうともがいて何度も頭を振りながら天然石のブレスレットを編んで行く。

勿論、記憶は数万分の一程も復活しないけれど、どこか晴れやかな気持ちになるのは何故だろう…。

 

1997年、春。思い返せば私が本気でワールド・ミュージックと手を取り合った日のことを、とても懐かしく思い出している今日この頃。あんなに特訓して覚えた筈のインドネシア語をもう殆ど忘れてしまったけれど、今もその響きを追うだけで感極まって涙が溢れ出す。

何度か訪れた私の原点の一つが、この言葉の中にも埋もれている。ある日突然砂に埋まってそのまま月日が過ぎてしまった地底の遺跡のような、私の中のインドネシア語はそんな色彩を帯びて行く。

それは遂に届くことのなかった母性のようにも思えるし、或いはもっともっと古く懐かしく遠い記憶の断片のようにも感じられる不思議な響き。

 

私の中で、インドネシア語はさしずめコーヒーカラーにも似た褐色を彷彿とさせ、それを味覚でも強く確認したくなる時、マンデリンの香りを通して私は私を探し始める。

幾つもの魂を経て来ると、零れ落ちたまま二度と戻らぬ記憶の断片にうっかり触れてしまう瞬間がある。それは夢の中に時折現れ、私の背中を鋭く突き刺して来る。でもそれは痛みとは違う、温厚さを兼ね備えた鋭利な感触を私の中に発生させる。

 

夢の中の「その坂道」を私は何度下っては、この温かなナイフで背中を刺されただろう…。その瞬間私は崩れ落ちてその場で力尽き、魂だけが灰色の空を伝ってこちら側の世界に戻って来る。

私は酷く汗をかいており、冷たい水をとめどなく喉に流し込んで行く間に夢のことをすっかり忘れて、目の前の日常へと回帰する。目に涙を溜めたまま、その涙を理由を思うよりも日常の今を刻む時報に耳をすませ、その日の夕食の献立のことを考え始める。
その繰り返し。

 

そうね…、今日は未だ病み上がり未満の体なのだから、しばし思い出せないままのインドネシア語の響きや海の香りのする方へ心を走らせて、音の海に深く潜って行こうと思う。

よろしければ、一緒に泳ぎませんか?
太古の風が吹く海岸から沖へと、共に…🌴🐋