悪意の記録 1.

 

 

 

 
今日は疲労困憊なので追って後日、今日の遺品整理中に見つけた、家族が長年私を「仮想敵」にし続け私を徹底的に排除し続けて来たことに於ける、書面の証拠をこのブログに掲載しようと思う。
 

どんな言い逃れも出来ない、それは確たる証拠と言えるだろう。
勿論「家族」の中に、弟(故)の嫁: 「山田りえ(仮名)」も加わっていたと思われる。
 

遺品は全てを物語る、その人その人々の心情と人生の集大成だ。
特に私はその物に触れただけで、物に触れた「念」をつぶさに感じ取ることが出来る体質を備え持っている。私を仮想敵にし続けて来た家族・親族等は私の、その体質に最も怯えたのかもしれない。
 
言葉にしてはいないこと、絶対に知られたくないこと、人々が心に隠し持つ思いや記憶が私にはまるでネガのようにくっきりと浮き上がって見える。
 
父の手書きの遺言書も見つかった。その紙っぺらからは、私に対する並々ならぬ悪意が立ち上って来る。

美樹は傷ものだ。顔に傷のある者は人間に値しない。

私は失敗作として家庭内で廃棄寸前の扱いを受け、近い親戚や親族等がそれに賛同し、談合していたのだろう。
証拠の写真はこれでもかと言う程沢山出て来たが、私はその中から私への強い敵意を感じ取れるものだけを手元に置き、母や弟のアルバムその他の全ての「美しい記録」を全て廃棄するつもりだ。

最初からこの世に存在しなかったように私が彼等を整理し、せめて私は彼等の悪意とこれまでの悪の連鎖を全て断ち切る為の儀式を務め上げたいと願っている。

 

この写真は私が小学校3年生頃の写真。私の目が死んでいる。この頃私は母に右目を連日激しく殴打され、そのことで心身に大きなダメージを負っていた。空が黄色く見え、現実からの逃げ場所を必死に探して生きていた。

 
遺品整理中、弟(故)の嫁: 山田りえ(仮名)の父親が弟に宛てた手紙も見つかっている。

山田りえ(仮名)の父親も、私を排除した人々の中に括られる。
双方家族の身上書の交換により私と言う存在を知りながら、今日に至るまで何の言及もせず私を最初から存在しない人間のように扱い続け、しかも私が送付した手紙も無視し、現在も堂々とクリニック(内科)を経営している。

私から見れば山田りえ(仮名)の家族等も全員「敵」に等しい。
 

続く‥。

紅葉と母の秘密

朝、少しゆっくり起床して、未だ新しい新車で(夫の運転で)実家へ行く。
先日既に貴重品や通帳、アルバム以外の全ての荷物を遺品回収業者に運び出して貰った後の実家で遺品の整理を開始。
 
祖父からのお小遣いや現金書留の空袋が複数、それに桐朋音楽教室の同僚(沼尻竜典君 他)からのお手紙が私の手に渡らないまま、数十年もの時を経てようやく私に発掘される‥ 等、これでもかと言う程の母の隠し物が遺品として見つかる。
 
‥本当に酷い話。
私がかつて共演していたシャンソン歌手との個人的な手紙等も大量に見つかり、学生時代からそうやって私の人間関係に(私には絶対に分からないように)介入していた母の秘密が、彼女の死後にようやく暴かれる形に。。
 
何より私が家を出た後に、わざわざ私の名義で作っていた信託銀行の口座が虚しく本来の持ち主を待っていた。
恐らく中身は空っぽだとは思うが、一応明日銀行に確認の連絡を入れる予定。
 

 
その他にも故 父・母・弟・そして弟(故)の嫁の「山田りえ(仮名)」さんが4人で、楽しく収まった写真等も複数見つかった。
そこには私だけが知らされない時間が流れており、それを誰もが訂正に入ることなく楽しくやっていた様子を見ると、ただただ腹立たしさ以外の何も感じない。
 
但し、ゴシャゴシャになった段ボールから複数の、私が写っている写真も見つかった。
それは私が一度も見たことのない私の記録。何の為に今日までそれらの記録を母が私に隠し通していたのか、その理由は不明。
 

  
思うに人の不幸の上に成り立つ幸せなど、この世には絶対にあってはならない。
 
家族3人の生前、彼等が私に対して行って来た家庭内差別や家庭内暴力(虐待)その他諸々に対し、私は一切の反骨行動は起こさなかった。

特に2021年の夏、某王室の霊団が母の体から彼女の霊体だけを抜き取った後、私はじっとその日を待った。
「けっして手を出してはならない」との天照大神の助言もあり、そう遠くない将来「その時」が来ると言う予感を胸に思いながらの数か月間は、どこか重苦しい時間が流れて行った。
 
 
私は「暴きの星」を持って生まれて来た。その星をいつ、どの時点から私が持っていたのかは判然とはしないが、幼少期の私の七五三の写真を見るに、3歳にしてこの目ヂカラはなかなかのものだと自分でも思う。
 
今日、最高の収穫だった。
 

私の半生と苦痛 – ③荒れた室内と母の晩年の訳詞

 
弟も、そして母も、本質の部分では似ていたのかもしれません。
誰かが作り出した軋轢、それが段々と角質のように厚い層を作り、頭のてっぺんからつま先まで一つの家庭を数十年掛かりで覆い尽くして行きました。
 
母が10年近くをかけて作り出して行った我が家の廃墟のような室内を今、私と夫の二人でコツコツと整理している最中です。その最中にも人の本性や本音は見え隠れし、言い方は良くないかもしれないのですが母も弟も、音楽と言うジャンルで私を超えよう‥ 超えよう としていたように見えてなりません。
 
その証拠に最期にきっと母が座っていたであろう茶色のソファーの、その脇にあるガラスのテーブルに何故か一枚だけ、私が音楽監修を務めた時のCDをコピーしたMDがひっそりと置かれていました。
それはMDを渡した私にしか知り得ない母からのサインのようで、少しだけ胸が締めつけられます。
 

 
生きていればどこかに、「超えてはいけない壁」が存在します。私にとって恩師 三善晃氏自身がそうであったように、仮にその壁が自分の目の高さよりも低く下がって来た場合であっても、絶対にそれは超えてはならないのです。
母や弟にとって私がそうであったと、遂に彼らは自身の命が果てるまで気付かなかったか或いは認めたくなかったのか‥、どちらにせよ私に強烈な敵対心とライバル心を燃やし、私と言う壁を軽々と超えられるだろうとタカを括ったのでしょうか。

 
私にとって、これからが三度目の人生の始まりとなるでしょう。
これまでに粛々と培われて来た「実家からの排除」と言うぶ厚い障害壁は、今の私であればそれ程苦労はせずに取り除けるかもしれません。ですがそれはあくまで物理的なこと。
実際に四人居た家族の三人がこの世を旅立った、その現象を一人受け容れた心の空洞はそうそう簡単には埋まりません。たとえそれが宿敵、もしくはダークサイドの差し金となり果てた彼らであったとしても、私と逝ってしまった三人の家族とが出会う前にはもう戻れないのです。
 

母はそれまでは家族の誰かが使っていた部屋の大半を自分の部屋にして、父と弟が旅立ったその時から6年の時を使い、コツコツと我が家をゴミ屋敷に変えて行きました。
勿論私はその間一度も実家を訪ねることはありませんでしたがそれは母が、私が実家に帰ることを強く拒絶したからでした。それもその筈、あの状況を流石に私には見せられなかったことでしょう。
そして何より「私・美樹」と言う娘がここで顔を出されては、その時まで頑なに「最初から存在しない娘」と言う、彼女が必死で作りあげた台本が崩壊しかねない‥。そんな不安が過ったから、私からの「家に行っても良い?」と言う何度かの提案を蹴り続けたのだと思います。
 

お風呂場の脇にある母専用の部屋は膝まで沈む程のゴミの山と化していましたが、その大半が衣服でした。
しかも買ったまま一度も着ていない衣服も多く、しかもそれはどこかパーティーや歌の勉強会やコンサート等に出演する時に着るような、派手な服がとても多いのには驚きました。

 

 
その山積した派手な衣服の原因は、母が遺した幾つものシャンソンの「訳詞」が物語っているように思えました。
作曲、演奏、編曲のみならず一時は訳詞家、歌手としてステージに立った私を、母もどこかで見聞きして知っていたのでしょう。母が真剣に訳していたのはフランスのシャンソン歌手(兼 作曲・作詞家)Henri Salvador の名曲でもあるJardin d’Hiverでした。
 
これは私がもしも三回目の訳詞コンサートを開催していたら、お披露目する予定で2000年の秋に訳した作品でしたが、二回目の訳詞コンサート「時を超えて Vol.2」が散々な状態になり、その翌年の春に私は訳詞も歌手も全てから手を引いたと言う経緯がありました。
同時に三回目の訳詞コンサートの開催は夢と消え、途中まで書いていた「Jardin d’Hiver」の私の訳詞と比べても、母の訳詞は音符に文字を必死で当てはめただけのお粗末なものでした。

 

 
本物の愛とそうではない偽善的な愛とは、見る人が見れば必ず見分けがつきます。
母の音楽への愛も、そして弟への愛も、同じように偽善的な愛に他ならないと私は感じています。あくまで主体は自分自身、その自分を着飾る為の全ては道具に過ぎず、それは弟も、家族と言う箱も彼女にとっては同じ「道具」だったのでしょう。
 
ですが家族は目の前の家族を「良い」ように見ようとしたがるものですから、どうしてもその人の本質が仮に悪であったとしてもそこから目を逸らし、別の何かでその人の本質をねじ曲げて認識してしまうことが多いのかもしれません。
 

小学生の時、母に連れられて初めて「銀巴里」と言うシャンソニエに足を踏み入れた時、そこで小海智子さんが三つ編みを結ってシャンソンを歌っていたのを今も覚えています。
「あら、可愛いお嬢ちゃんね。」と言って彼女は、私にアイスクリームをご馳走して下さいました。その小海智子さんと私が10数年の時を経て吉祥寺某所に実際にあったシャンソニエで共演するとは、母も思ってもみなかったでしょう。
 
シャンソン誌「る・たん」にはある時期から、いきなり私の名前が乱射する鉄砲玉のように掲載され始めました。そこに「歌手: 小海智子 / ピアノ: 山田美樹」と言う一行を見た時の、あの苦々しい表情をした母の顔を私は見逃しませんでした。
 
それはある時実家に帰った時にふとシャンソンの話題になった時、私が持ち歩いていた冊子「る・たん」を何気なく母が見た時のことでした。口では「あら、いいわね貴女。」と言いながら、眉間に深く寄った深い皺としかめっ面になった一瞬を私はしっかりと見ていました。
 
母は特に最期までの数年間、多数のシャンソンを訳詞していたみたいでした。そのメモや印刷されたものがリビングのガラスのテーブルの書類の下からわんさか見つかり、私はそれらを母の遺品の形見として持ち帰って中身を読んでいますが、彼女の写真も訳詞もセンスが良いものとは言えません。
要は彼女にはアーティストの才能が元々ないのに、顔に傷のある娘の私になんか負けてられない‥ とでも思ったのかもしれません。
余り上手く行っていない訳詞をとにもかくにも「仕上がった!」と言う事にして人前で歌っていたであろう彼女の胸中を察すると、どことなく憐れです。
 
結果的には私の真似事に失敗していた彼女とは最後の最後まで会わなくて本当に良かったと、今だから胸を撫で下ろしています。
 

 
to be continued…