2022年12月12日 21時、YouTubeチャンネル「commmons」より、シリーズ「Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022」第一弾として『Merry Christmas Mr. Lawrence』が配信された。
丁度その時刻に私は別ジャンルのブログを仕込んでおり、リアルタイムでの視聴は出来なかったが、数時間遅れでその音色に追い付いた。
坂本龍一氏は現在ステージ4の癌を患っており、闘病中の身だ。画像にはその状況が色濃く映し出され、筋肉を失った坂本氏の陰影や演奏中の指先の様子までが克明に記録されていた。
昭和世代の音楽家等にとって彼は、人生になくてはならない存在だ。まして私とはほぼ一回り違いの彼は、まだまだ老いるには早すぎる年齢だった筈‥。
丁度5日前の同じチャンネルに上がって来たメッセージ動画「Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022 – message」の中で坂本は、お得意のにやけ顔を全て封印し、真顔で自身の病状や体力に関する現状を説明しているが、坂本がかなり深刻な状況に置かれていることは誰の目にも明らかだ。
少しだけ話題が脱線するが、フランソワーズ・アルディーの有名なシャンソンに「青春は逝く(もう森へなんか行かない)」と言う名曲がある。
マイナー(moll)の悲しげなコード展開の中に、意外にこざっぱりとしたメロディーが淡々と歌われて行く。
美しい春の梢に包まれている時の人は、その尊さに最も疎くなる。
今日も、明日も、同じ場所に今と変わらぬそよ風が吹き抜けて行くと信じている。その錯覚が「今」「現在」に対して、人を緩慢にさせてしまうのかもしれない。
失ってみてから「あの時」を振り返る方が、「今」それを思うよりもきらきらと眩しく輝いているのだとしたら、時の流れは余りにも残酷過ぎる。

筋肉の落ちた美しい手が映し出すのは、未だ枯れることを必死で拒んでいる坂本の心の奥底だ。
「戦場のメリークリスマス」は巨匠の速度で、しめやかに進み始める。
「まだ行かないで」と声を涸らして叫ぶ少年のようで、足取りは重くうつろで、少年はきっとそこからやがて一歩も動けなくなるだろう。
これは私の憶測だが、恐らく演奏収録時の坂本はピアノの打鍵の重さをかなり軽めに変更したのではないかと、動画の随所から感じ取れる。
殆ど筋肉を使わず、骨と手の重さだけで鍵盤を押しているように見えるからだ。
坂本がもしも闘病中でなければ私は、この演奏をもっと酷評したかもしれない。だが私も同じ音楽家として、現在の彼の体力と気力でこの演奏を成し遂げることがどれだけ大変なことか、それが痛いほどよく分かる。
所々音が計画外に途切れ、打鍵が外れて音の尾が抜けて行く。それがまるで習字の「はね」みたいで、余計に物悲しさを誘うのだ。
生演奏は、修正の効かない芸術だ。
元来ライブや「生演奏」を悉く嫌う私がこの動画をあえて評論の題材として取り上げたことには、言葉では言い尽くせない様々な理由があり、その理由の彼方には坂本龍一と同じ時代、同じ時間を駆け抜けて来た者にしか分からないノスタルジーが息づいている。
けっして綺麗な音でもなければ旋律のまろやかさも消えて、音楽自体はむしろ刺々しい。
匂い立つような色気のあるコードプログレッションではなくなったこの「戦場のメリークリスマス」は、さながら2022年の今を言い表しているようだ。
多くの人々が、逃げ場のない「今」を背負って生きている。視えない何かに背中を圧されて、想定外の迷路へと誘導されて行く。
残された体力と気力で、ようやく数時間後のことを考えるのが限界だ。

テクノに始まりシンセサイザーを自由自在に操り倒した坂本龍一が、2022年の自己発信に選んだ楽器はピアノだった。だが彼はけっしてピアノが上手だとは言い難く、それよりも坂本がアルヴァ・ノトとのコラボで2018年にリリースした「Glass」の方が、余程美しい。
シンセサイザーを扱う坂本龍一には「華」があり、逆にピアノと言う88鍵のオーケストラに向かう彼は楽器を操り切れていないように見える。
それでも坂本龍一が今、ピアノを選んで自己発信を重ねる理由は一体何なのか‥。
クラシック音楽の様式美に満足出来ず他のジャンルに転向したものの、やはり何かを置き忘れたかのようにかつての古巣に戻りたがる音楽家たちが後を絶たない。
坂本龍一も、その一人かもしれない。
だが彼は行き先を遂に見つけ切れず、映画音楽にその拠り所を求めるしかなかった。
だが、映画音楽の世界はクラシック音楽界以上に残酷だ。映像が無ければ音楽が、音楽として成り立たないのだ。
音楽が独立出来ずに窒息して行く。

よく言う映画の「サウンドトラック盤」を私も又、何十枚何百枚と買った。だが殆どが開封しただけの状態で、中には一度もターンテーブルに乗せなかった盤もある。
映像の中で心惹かれた音楽を後から音楽単体で聴いた時の失望感は、一度経験すればもう沢山だ。
それより何より昭和後期、一度「現代音楽」の黒い水を啜った作曲家たちが作品の中で、その「水」を頻繁に逆流させる。
例えばこの記事の最後に貼り付ける音楽も、そんな「破壊の水」を永遠に纏ったまま脱げなくなってしまった一例だろうか。

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