2023年8月10日、坂本龍一の遺作とも言うべき、おそらく坂本初の校歌「KAMIYAMA」のP/VがYouTubeから配信された。
作詞はUA、編曲は網守将平。
故人を悪く言う気はないが、故人の作品だから黒を白だと言う気もない。良いものは良いし、悪いものは悪い。その意味でこの作品「KAMIYAMA」は後者であると言うのが、私の音楽評論家としてのジャッジメントである。
「神山まるごと高等専門学校」は徳島県の位置するが、何故この学校が校歌を坂本龍一氏(作詞: UA)に依頼したのか‥。色々な意味で人選ミスではないかと思わざるを得ない、そんな作品だ。

少し脱線するが、知り合いに数名だが本田美奈子のファンが居る。彼等は揃って、本田美奈子の死後にファンになった人達だ。
若くして不遇な死を遂げた、ある意味「志し半ばして‥」寿命を終えた人。その「志し半ばで寿命を閉じた」から本田美奈子のファンになった‥ と言うのが、数名のファンの共通項だと言っても過言ではない。
特に日本人は「滅び」に弱い。その人が元気な時は下げて下げて下げまくるヘイトを日夜連発しているのに、状況が一変した途端に態度を変える人達はそう珍しくはない。
坂本龍一が今日もしも存命であれば、校歌「KAMIYAMA」は間違いなく酷評されるだろう。酷評されなければならないと、私は思っている。
音楽は、音楽教育を受けていない人たちがシェア出来るギフトでなければいけない。
これは私の音楽哲学のような心得の一つであり、その意味でも平易で美しい楽曲がもっともっと世界中から生まれ出て来なければならない筈。だが現実はそれとは全く異なる。
「平易な曲」と言うと唐突に幼稚園児が口ずさむ童謡もどきの楽曲を、多くのメロディーメイカーが想像し、想定する。失声後の「つんく」の楽曲が激変した時には私もびっくりしたが、「平易」を取り違えているメロディーメイカーは数多く存在する。
校歌「KAMIYAMA」の歌詞をUAが手掛けているが、後半が英語で書かれているのは何故だろうか?
日本の学校で歌われる校歌が英語である必要性を、私は全く感じない。作詞者及び作曲者双方共に優等生感情丸出しで、「校歌」と言う観点を完全に放棄し完成した作品と言わざるを得ない。
メロディーも分かりにくく、「KAMIYAMA]を歌えるのは恐らくこの世でUA一人だ。そのUAも声質が激変し、P/Vの生演奏を見る限り高音の発声に大きな障害が出ている。にも関わらず何故その音域で歌わなければいけないのか、そこに音域の必要性を全く感じない。

言い方は良くないが、薬物中毒者が歌っている様な表情や動作も、校歌を歌う人として適切ではない。
メイキングの動画を視る限り、学生とUAとのセッションでは学生の大半が後半のメロディーも歌詞も追い切れていない。
要はこれはUAの新譜であり商品ではあるが、校歌でも作品でもないと言うことに尽きる。
例えば「校歌」のような作品を生み出すと言う観点で一つ忘れてはいけないことは、その楽曲のメロディーがインストゥルメンタルで海の向こう側から流れて来てもそれが分かりやすく美しい音楽であることが条件だ。
美しく平易であるが、けしてそれが幼児性に侵された音楽ではいけない。それが普遍性であり、上記の条件を満たした楽曲は必ず後世にメロディーが残って行く。
例えば名曲「遠き山に日は落ちて(家路)」がそうであるように、この作品はとても平易で美しいメロディーとシンプルなコードで出来ているにも関わらず、作品にはドボルザークの個性も影を失うことなく刻印されている。
仮に「校歌」と言う命題を与えられ曲を生み出すならば、そのようにならなければいけないと私は思う。
それがそうならない要因の一つとして、日本のみならず世界中の人々が「歌もの中毒」に似た症状に侵されていることが挙げられる。
校歌「KAMIYAMA」を別の歌手に仮に歌わせることになった場合、おそらくそもそものメロディーにUAの歌い癖が乗り移ってしまっており、いち楽曲のメロディーとして別の歌手が歌唱しようものなら原曲とは似ても似付かぬ楽曲になる危険性を秘めている。
つまりUA以外、誰にもこの旋律は歌えないと言うことになる。
個性の暴走の果ての個性の墜落が、校歌「KAMIYAMA」に見て取れる。
実際に歌えないメロディーを「校歌」として書き下ろした坂本龍一の真意の程は分からないが、同時にこの楽曲の存在理由も意義もないと言えるだろう。
昼食の時間帯に校内放送で校歌をBGMとして流す、そのくらいしかこの音楽の使い道が何れ無くなるだろう。

滅びの美に弱い日本人のことだから、校歌「KAMIYAMA」について誰かが「名曲だ。」と言えば多くの日本人たちはその声に便乗し、この曲は名曲だ‥ と言う後出しじゃんけんの波に乗っかる以外の音楽の聴き方をしなくなるに違いない。
なのでそうなる前に私は「正しい音楽の聴き方」の一環として、俯瞰した見解をここに綴る必要性を強く感じ、この記事の執筆に至った。
偽善を捨てよ。
物事に対し色眼鏡をかけて向き合うべきではない。
商品と作品を見間違えてはいけない。
その為には、その商品や作品の「いいね」票や知名度に振り回されることなく、己の心の声、感性に従順でなければならない。
是非この観点を持つ人たちが今後少しでも増えてくれることを願いながら、この記事の執筆を終わりにしたい。

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