Jardin d’hiver (こもれびの庭に)/ Patrick Nugier (パトリック・ヌジェ)

Patrick Nugier  パトリック・ヌジェ

アンリ・サルヴァドール (Henri Salvador) の持ち曲の中では、最も世界的に飛んだ作品の一つ、“Jardin d’hiver” のカバー。
 
パトリック・ヌジェ (Patrick Nugier) と言えば、本国フランスでの活動を手放して長きに渡り日本で活動しているアコーディオニスト 兼 シャンソン歌手で名高い。
私も若かりし頃は数回この方と遭遇している (詳細にはここでは触れないが) が、正直余り良い印象はなかった。日本で活動しているフランス人だから「それっぽく見える」だけで、特にこれと言って取り柄のない歌手だ。
突出してアコーディオンが素晴らしいとも言えないし、本業の音楽よりも奥方の手厚いサポートでここまで生き残って来たと言っても過言ではないだろう。
 

久々に聴いたパトリック・ヌジェの “Jardin d’hiver” はどこかもの悲しく、そして彼の声も枯れ始めていた。これまでの人生は何だったのか、それを一つ一つ振り返るような彼の表現はむしろ、若くして来日し、そのまま日本に住み着いた外国人の油臭さと勢いが薄れ、むしろ説得力を増したようにも聴こえて来る。
 

 
この記事を書く上でかなり綿密な取材を重ねたが、先ずパトリック自身のレコーディング音源が少ないことに加え、彼の活動の母体がシャンソニエと言う夜店での生演奏である彼自身の音楽活動の条件等も重なり、勿体ないくらいに良質な音源が残っていない。
物理CDを漁れば幾つか作品も発掘出来るかもしれないが、現在公式サイトもCloseされており入手経路が絶たれた状態だ。
 

ようやく見つけたのが以下のLive音源だった。
 

 
皮肉な表現はなるが、こういった夜店の質の悪い音響の中で演奏する方が、なぜかパトリックの存在が生きて来るから心苦しい。
フランス人なのだからフランス語の曲が際立つのは当然のことだが、音楽の輪郭がスッキリとして聴きやすい。ヴォーカルの無駄なアドリブもなく、いたって普通に、本当に普通にオーソドックスに歌っている点に好感が持てる。
 

 
上の動画は恐らく「パリ祭」の映像だと思うが、大舞台に立つと地味になるのが何故なのか‥。ヴォーカリストでもなければアコーディオニストでもない、微妙な中途半端さが仇になる。
演目の「Vie violence」(ヴィーヴィオロンス) はクロード・ヌガロのレパートリーの名曲の一つだが、アクの強いクロード・ヌガロの個性が楽曲全体を支配している影響なのか、同じ曲をパトリック・ヌジェが再演すると線の弱さが余計に引き立って、曲が地味に聴こえて来る。
 
要はパトリック・ヌジェ自体が線の細い表現者だと言うことになるのだろう。完全に選曲ミスだと言わざるを得ないが、そもそも「パリ祭」は故 石井好子が各歌手に「あれを歌え、これを歌え」と上から目線で指令を出すシャンソン・パーティーの変形なので、言われた通りに下僕の歌手はそれに従わざるを得ない。
こうして映像に記録されればそれがその表現者の作品として永く残ってしまうのだから、立つ瀬がない。
 

話を“Jardin d’hiver” に戻すと、私がこれまで数々聴いて来たパトリック・ヌジェのレコーディング音源の中では際立って印象が良い。きっと原曲との相性が良かったのだろう。
近年の彼は主に教材を作成しているようだが、欲が抜け落ちてそれも良い感じに記録されている。それが彼の、身の丈に合った仕事なのかもしれない。
 

 
此方は歌手、岩崎良美との記録。岩崎良美の声のアタックが本当に綺麗で、そのヴォーカル力に完全にパトリックが引っ張り回されている(笑)。
だが如何せん、編曲が余りにチープだ。
 

肝心な “Jardin d’hiver” の編曲も、お世辞にも良いとは言えない出来栄えだ。業界内の演奏者事情を私は知っているので、きっとこれはあの奏者、あれは〇〇さんが担当した音源だろう‥ 等を読めてしまうのが辛いところだ。
とは言え、往年の和製シャンソン歌手が次々とこの世を去って行った今、パトリック・ヌジェは和製シャンソン界の最後の砦の一人だろう。
ならば最後まで美しく在って欲しいと、願わざるを得ない。
 

 

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尖がって生きる (例えばDJ. Hiroko Yamamuraのように)

DJ. Hiroko Yamamura

2025年1月18日 早朝。私のメインのXのアカウントがいきなり制御不能になりました。アカウント復活を祈る思いで何度か異議申し立てをしていますが、おそらく今後の復活は厳しいかもしれません。
アカウント凍結の当初の理由は『偽装行為によりAIが自動的にアカウントを凍結した』と言うものでしたが、全く身に覚えがありません。その後Topページの表示が変わり、『厳正な審査の結果‥ 云々』と言うメッセージに変化。

正直少し凹んだことは事実でしたが、その後私が『隣国の或る団体』の標的にされていた (私のアカウントを通報するよう呼び掛けていた) 事等を知り、私のような尖がった人間はSNSの枠を必然的にはみ出してしまうのだと気付かされました。
 

普段はとても穏やかな音楽を生み出している私 Didier Merah (ディディエ・メラ) ですが、外装と内面はかなり異なります。
それもそのはず、そもそもがリラ星最後の巫女 (シャーマンとも言う) だったわけですから、普通である筈がありません。その記憶と複数の転生の経験の蓄積を現世に持ち越していれば、一般的な『普通の人』のそれと私の『普通』の概念に差があっても致し方ないでしょう。
 

実はひっそりと、世界の音楽のデータベースのようなブログを立ち上げました。
題してディディエ・メラの音楽倉庫
 

 
世界中の音楽をここ一カ所に集めて行く為の、いわば音楽のAmazonのようなルームです。
Xのアカウント凍結が切っ掛けでそれまでXで行っていた『世界の音楽』の新譜紹介が出来なくなったので、‥だったら人と関わらなくても済む自由空間をweb上に立ち上げようと思い立ち、現在音楽を粛々と集めている最中です。
 

 
さて話をDJ. Hiroko Yamamura に戻して。
現在以下のトラックをリスニング中🎧
 


上の動画はDJ会場の記録とは違うみたいですが、選曲を聴くとDJ名がなくてもHiroko Yamamuraのセレクトだと分かります。
いわゆるテクノ、或いはアッパーテクノと呼ばれる楽曲が静かにグラデーションしながら繋がって行く構成ですが、これが意外に私の癒しになっています。
 
私自身が生み出す音楽とはまさに180度違う経路のジャンルですが、それが良い。展開が読めないところがツボで、Hiroko Yamamuraの脳内を旅しているような一種のトランス感覚が心地好いのですよ。

Hiroko氏の選曲は一見ガツガツに攻めているように見えますが、実は手堅さも感じ取れます。楽曲のつなぎ目にクセがあり、一旦低音を抜きながら次の曲へ、次の曲へと楽曲が移って行くあたり、めちゃめちゃ好きです。
でも全体を繋ぐと「かなり攻めた作り」になっていて、それが一定時間のリスニングを超えたところでほぼ音楽から環境自体に定着して行く辺りは、まさにHirokoマジックと言っても過言ではないです。
 

真に尖がって生きている人って、実は手堅く足元を固めているものです。だからちょっとやそっとじゃ崩れ落ちない。
確かにメンタルの落ち込みが激しい日もありますが、それは単純に「にわか雨」みたいなものだと分かっているから、兎に角やり過ごす方法を心得ている。
私もそういう生き方を突き進んで行きたいと、最近思っています。
 

いい人、優しい人はこの際返上します。


あなた方の前に居る私は、もはや昔とは別人だと思って下さい。黒は黒、白には引っくり返さない。黒は黒と言い、闇を暴いて生きて行く所存です。
但しモラルや法の観点も捨てません。その上で、言葉や思考の刃物の先端をさらに磨き込んで行きたいと思います⚔️
 

 

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“Bubble Gum” – NewJeans (思い出作りの始まり)

2024年5月に正式にリリースされたNewJeansの “Bubble Gum” は、日本では同年3月に某シャンプーのCM曲として世界で最初にお披露目された。
私の記憶が正しければ、日本で最初にこの楽曲が紹介された時の歌詞は大半が日本語で構成されていた。だがその後 (ヘインの怪我により) 4人でパフォーマンスされた時には、その部分がごっそり英語と韓国語に変わっていた。
 

 
この曲も冒頭はハニ (Hanni) のヴォーカルでスタートするので、楽曲が華やかに聴こえる。
そもそもこの曲に関してはさほど派手な曲ではなく、NewJeansの持ち曲としては地味な部類かもしれない。ミディアムテンポでメロディー構成は緩め。

とは言えPVのインプレッションは強く、きらきらと光る波に相反してNewJeansのメンバーが古びたフィルムに映り込んだ思い出のシーンのように表現されているので、むしろもの悲しさを感じてたまらない気持ちになる。
この独特なもの悲しさを見事に映し取ったミン・ヒジンの才能を、あらためてまざまざと感じた作品だった。
 

既にこの頃からADOR 対 ミン・ヒジン、ADOR (HYBE) 対 NewJeansの戦いは始まっていたが、むしろ私が気になったことと言えば、丁度この頃からミン・ヒジンもNewJeansの5人も大きなステージを意識した活動に固執し始めたことの方だった。
大舞台でスポットライトを浴びて、そこに大勢のファン (バニーズ) 等の声援が飛ぶ独特な環境は、その後の彼女たちの精神を急速に蝕んで行ったように思う。
 

 
ミン・ヒジンの海を切り取った映像は、抜群に美しい。

彼女は時を超えてここに来た存在だ。それは彼女自身すら気付いていない真実かもしれない。
だが別の映像を見た時に、私は彼女の転生に気が付いた。その事を勿論本人は知る由もないが、今のミン・ヒジンを見ているとかえって自身の魂のルーツを知らないでいる方が良さそうな気もする。
 

傲慢な言動、闇に堕ちたと言っても過言ではないミン・ヒジンの最近の言動は、歪んだ自信に基づくものかもしれない。その過信を脱ぎ捨ててしまえばそこに才能の輪郭だけが浮き彫りになる筈だが、もう時すでに遅し‥。
思い出ノートは全て書き終えた。
丁度この作品 “Bubble Gum” がリリースされた頃からNewJeanz (ミン・ヒジン含む) の思い出作りが加速し、東京ドームのコンサートで彼女たちはその頂点を迎えたようだ。
 

日本の5人と韓国の5人、‥それぞれの形で彼ら自身も終焉を間近に控え、各々の音楽業界やメディア等全てを巻き込みながら、世界が急激に変わろうとしている。
この曲の “Bubble” ~風船のように、それは高く高く上がって行くがいつかどこかで割れて壊れてしまう。その残骸はあとかたもなく波間のやわかな泡となり、押し流されて、いつかひっそりと海の底で眠りにつくのだろう。
 

“Ditto” – NewJeans 🇰🇷 (PVに隠された暗示)


2022年12月19日にYG PLUSを通じてADORから配信された、NewJeansの大ヒット曲。
最初ヘインのスキャットを経て、Aメロの冒頭をハニ (Hanni) が担当する辺りはどこか、今の世情とは異なり明るく希望に満ちていて健康的だ。

それまでのKPopのガールズ・グループの陰鬱かつヒール (悪役) のイメージを、この一曲が完璧なまでに塗り替えた。
この曲の出現でKPop界隈は、二度と『NewJeans以前』には戻れなくなったと言っても過言ではない。

一方このPVの演出はどこか不穏が隠れており、特に ‘Ditto’ Official MV (side B) には死の影を思わせる演出が随所に施されている。
(※監督: シン・ウソク)
 
NewJeansの各楽曲のサウンドメイクの特徴は、重たいドラムを使わない点だ。
一説には当時のNewJeansの楽曲選びの際、ミン・ヒジン氏からは様々なリファレンスの楽曲が提示され、その大半が日本のシティーポップだったと言うから、NewJeans以降の新しいKPopの原点はJPopだと言っても過言ではないだろう。
 

ダイエットをしない。
緩いダンスで誰にでも踊れそうな振付が付いている。
高音を地声で張り上げない、声帯に負担のない発声でメンバーが交互に歌って行く。
楽曲とは一見無関係な可愛い衣装が多いが、何を着てもNewJeansカラーに仕上げて行く。

何よりコロナ禍の最中に一曲につきかなり多くのPVがリリースされ、引き籠り族を存分に楽しませる企画が活きていた。

 

その後、NewJeansはこれまでには類を見ない攻め方をして来た新世代のガールズグループとして一世を風靡する直前で、残念ながら既存の「ファンの目線とステージライトを浴びてパフォーマンスを行う」だけの、至って平凡なKPopガールズグループに転落して行った。
 

現在のNewJeansは「ADORと契約解除をした」と言い張り、独自の活動を行うニュータイプのアーティストの体 (てい) を取ろうと必死になっているが、最近では (ADORの旧CEO) ミン・ヒジンのタンパリング疑惑が表沙汰になり、闇深いミン・ヒジンの洗脳でがっつりマインドを拘束された彼女たちはもはや自力で暴走を止められなくなった。

曲が作れるわけでもなく、振付を生み出せるわけでもなければ各々がタレント活動以外の音楽の基礎を持たないのであれば、彼女たちはそう遠くない日に大衆から忘れ去られて行くだろう。

私は元バニーズだったが、今は違う。社会のルールを守らずに身勝手な状況解釈によって暴走し続けるうさぎは、いつか必ず高い崖の上に追い詰められて行くことになる。

まるで ‘Ditto’ Official MV (side B) に描かれている「学校の屋上から落ちてこっぱみじんになったビデオカメラ」がそれを暗示するようで、仮に彼女たちがいずれ莫大な損害金を背負うことになったとしても、シン・ウソクが描いたこの曲のPVが現実にならないようにと祈るばかりだ。

 

 

 

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[音楽評論] “Ravel: The Complete Solo Piano Works” by Seong-Jin Cho (チョ・ソンジン)

久しぶりに目が覚めるようなクラシック音楽を聴いた。

本記事で紹介するのは、韓国から世界に放たれた近代音楽、モーリス・ラヴェルのピアノ曲集。
基本的にクラシック音楽のガチャガチャした感じが個人的に好きではないので、冒頭2曲で止めようと思った。だがM-3: “亡き王女のためのパヴァーヌ” で演奏者 チョ・ソンジンが覚醒する。

日本の近代音楽ピアニストの権威、安川加壽子(やすかわ かずこ) の影響が強く染み付いた私にとって、近代音楽は「感情を一切込めない冷酷な音楽」と言う強いトラウマを植え付けらえる切っ掛けだった。
彼女の公開レッスンに実際に演奏者として参加した私は、そこで一気にドビュッシーもモーリス・ラヴェルも嫌いになった。

彼女の言う「感情を一切込めない音楽」とは半ば、エモーションを完全に手放したロボット的解釈のそれだった。だが肝心のラヴェルの音楽には緩急があり、程好い加減を心得た最低限のエモーションは必須だと言うことは、わずか小学校2年生の私でさえ理解に至った。
 

チョ・ソンジンの新譜 “Ravel: The Complete Solo Piano Works” を聴く限り、彼は安川加壽子の言う近代音楽の解釈は取り入れておらず、むしろ彼の解釈は感情過多に陥ることなく、その先のエモーションに到達しているように思える。

M-4: Jeux d’eau (邦題『水の戯れ』の解釈は、個人的にツボだ。
 

 
何を隠そう学生時代の私はこの曲を得意曲としており、数十種の解釈で日々演奏し分けていた。と言うのも複数人のピアノ教師に師事していた為、否応なく一曲を各々の教師の好みに弾き分けることを余儀なくされたからだった(笑)。
桐朋大学の権威者の元にレッスンに行く時は、いかにも権威主義的でいかつい近代音楽を大げさな身振り手振りで演奏しなければならなかったし、かと思えば藤井一興氏の自宅レッスンに行けばまるで私が元からフランス人に生まれた人みたく、流しそうめんをつるつる飲み込むようなラヴェルやオリビエ・メシアンを演奏しなくてはいけなかった‥。
 

兎に角私は何が忙しいかと言えばこの「弾き分け」で、母 (毒親) はそんなこととはつゆ知らず毎日私の練習中ミスタッチを見つけ出してはヒステリックに私の腕に爪を立て、皮膚を抉り、握りこぶしの関節が当たるように右目の眼球を殴り続け、そんな中で私がクラシック音楽など好きになれる筈もなかったわけだ‥。
 

 

ここで一つだけ余談を。
私が学生時代の頃は主のピアノメーカーはと言えば、YAMAHAかスタインウェイ (Steinway & Sons) だった。YAMAHAは高音域の音質が金属丸出しで上品さを欠いており、一方当時のスタインウェイの鍵盤は象牙が使用されているものが多かった。これが鬼門だった。
上記に触れたモーリス・ラヴェルの「水の戯れ」の中盤の盛り上がりで一カ所だけ、グリッサンドが書かれた箇所がある。グリッサンドとは、鍵盤を滑りながら打鍵する奏法で、これを象牙が完全に妨害するのだ。
 
そもそも象牙と言う材質は滑りにくい素材で、その上をあえて “f” (フォルテ) で滑り落ちるように手を移動させなければならなかったから、スタインウェイでこの曲を演奏した後には必ず右手人差し指の側面が真っ赤に皮が剥けて、包帯が欠かせなかった。
特にこの曲の場合は黒鍵を指のはらで滑らせて、高音から低音まで下降しなければならず、本番一回の演奏だけで人差し指の側面の皮膚が赤くただれてボロボロになる。

 
話をチョ・ソンジンのモーリス・ラヴェルに戻そう。
普段私は他の人のクラシック演奏をあえて聴かないようにしているが、それもこれもクラシック音楽の未進化具合に苛々して精神衛生上良くないからであり、クラシック音楽が良い意味でもっと進化すれば本当はもっと色々な音楽を聴きたくなる筈で‥。
 
チョ・ソンジンのこのアルバム “Ravel: The Complete Solo Piano Works” を今もヘッドホンで聴き進めているが、全体的にヒステリックさはなく、クラシック音楽奏者が持つエゴイスティックな嫌味を感じない。

世の中も音楽も同様に、実のところ「何も起きない」ことがベターなのだ。
だが多くのクラシック音楽の楽曲も解釈もドッタンバッタンと大げさなドラマを作り出し、これみよがしに権威主義を見せ付ける。それが「クラシック音楽の醍醐味」だと思い込んでいる現役の音楽家も、そしてクラシック音楽愛好家も共に多く、「何もない音楽」「何のドラマも起きない音楽」‥ つまり事件性の薄い音楽には価値を見出さない人たちが多数存在する。
だがそのような音楽を地球の外に持ち出すことは不可能だと言う現実の壁を、殆どの人々が知らずにいるようだ。
 
なぜならば、私が知る多くの地球外生命体たちは地球人よりも聴力と鼓膜が弱く、大きな音量には耐えられない。勿論そんな地球外生命体の面々に現在の地球上の音楽を聴かせようものなら、おそらく彼らは耳を強く抑えて、大きな声で「やめてくれ!」と叫ばずにはいられなくなるだろう。
 

ある意味私にとっても外敵さながらの現在の地球上のクラシック音楽集の中でも、幸いチョ・ソンジンのこのアルバムはギリギリ、地球外に持ち出せるクラシック音楽の一つとして地球外生命体の音楽愛好家等にも推奨出来そうだ。
但し音量はぐっと抑えめにして、彼らに聴かせなくてはいけないだろう🛸
 

[インフォメーション 2. ] 2Blog 統合 – 一部修正


上記のブログにてX凍結後のメインSNSについて書きましたが、一部修正があります。
 

今後の主なSNSの拠点を ①Bluesky ②Threads ③Facebook (個人アカウント) と表記していましたが、よくよく考えてみたところ特に ③Facebook はあくまで個人的な連絡用に使っており、氏名表記が実名になっている為、メインのSNSとしては使用しないよう事務所より通達がありました。
 
①Bluesky に於きましてはサイトが現在かなり不安定で、スマホ/ PC共にタイムラインが読み込めない時間が断続的に起こり、流石にアカウントの設置をお薦めすることが出来かねる状況です。
②Threads に関しては主に写真や映像、或いは店舗営業関係者が使いやすい仕様となっている為、此方も積極的な利用は推奨しかねる状態です(笑)。

どのSNSに於いても「帯に短し襷に長し」の状況で、私自身もかなり困惑しています。
 

今後Xのメインアカウントが凍結を解除されたとしても、人間嫌いの私にとっては余り居心地の良さと将来性を感じなくなっているのが心情で、現在はXのサブアカウントをあくまで「つぶやき」として運行しています。
此方は先に凍結されたメインアカウントと同様の使い方は出来ない為、以前のようなシュールなつぶやきは今後永久的に出来ないことになる見通しです。
 

現在一つアイディアがあるとすれば、音楽評論雑記の部分を現ディディエ・メラの音楽評論(ブログタイトルを後日変更の予定) の中で継続することでしょうか‥。
日常的なつぶやきはサブアカウント内で時たま‥ と言うスタンスに移行する予定です。
 

ディディエ・メラの音楽評論のドメインの変更が未だ完了していないのですが、此方も少々お時間を頂戴出来れば幸いです。
なるべく近い将来、ドメインを変更する予定で現在準備を進めております。
 

又カテゴリー03. 音楽評論 / 音楽紹介にもかなり記事が集まって来ました。
ディディエ・メラの音楽評論からPVの多かった記事を抜粋して、当ブログに移動しています。上記ブログに雑記帳の体 (てい) で綴った記事は、もしかするとそのまま移動しない状態で此方には移動せず、ディディエ・メラの音楽評論上に残しておくかもしれません。
 

両ブログが今後、Didier Merahのメインスタジアムになる予定ですので、これまでのSNSでちまちまつぶやくことはかなり少なくなるでしょう。
その上で、もう少しだけ各SNS (Facebookを除く) の状況を鑑みつつアカウントを温存し、たまに生存確認がてらつぶやきを投げ込むかもしれません。
 

[インフォメーション] 2Blog 統合 – Spiritual to 音楽評論

これまでスピリチュアルと音楽評論とをブログを分けて書いて来ましたが、色々思うところがあり、この度全ての活動を当ブログに統合する運びとなりました。
 
昨年まで別ブログ『ディディエ・メラの音楽評論』で綴って来た主な記事を抜粋し、現在順次当ブログに移動している最中です。
各記事は当ブログ『Didier Merah Blog』上より、カテゴリー『03. 音楽評論 / 音楽紹介から読むことが出来ます。
又、探している音楽記事等があれば、ブログ最上部、右先端の虫メガネマーク 🔎 ⇦ にワードを書き込むことで、該当記事を探すことも可能です。

リラ星最後の巫女が予言として発信する音楽評論と言う視点も、さらに新しい評論の試みだと思います。この機会に是非、購読して頂ければ幸いです。

以下に主な記事、人気のある記事のリンクを貼っておきます。
 

 

 

 

 

 

 

 

追記:
2025年1月17日、早朝より “X” のメインアカウントがいきなり凍結された為、現在SNSの発信拠点を一時的に移動しています。事態が好転する迄の期間メインのSNSを変更し、臨時でSNSを増設しています。
Facebook上からの発信も一時的に再開していますので、以下にそちらのリンクも貼っておきます。

文字をタップすると、各SNSのDidier Merahのページに移動出来ます。

 

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毎週末にSpotifyより発信している『世界の音楽』の新譜 プレイリストも合わせて、お気に入りにご登録頂けたら幸いです。
今後ともディディエ・メラをよろしくお願いいたします。
 

蘇る日々 (“Mosaico” – Andrea Sannino)

イタリア発祥のものは先ず口に、脳に、入れてみる。過去世の記憶が蘇り、いつしか私はトスカーナの並木道に佇んでいる。
甘い木の実と春間近の草の匂いを風が遠くに運び出す朝。直前の過去世に、私はそこで息絶えた‥。

アンドレア・サニーニョ (Andrea Sannino) が新譜をリリースした。彼の声はほんの少しだけ枯れ始め、それは夏の終わりの太陽の香りを脳裏にもたらす。
甘い夢と痛みが交差する私の中に、復活する私自身。

懐かしい顔ぶれが黄泉の国から戻ると、煙った記憶はたちまち輪郭を強め、これは夢ではないよ‥と言って私を強く抱きしめる。
愛した人はもうこの世界には居ない筈なのに失った筈の感覚はとても現実的で、悲しみよりもよろこびを幾つも幾つも連れて来る。
 


思い出が全てを美化し、風化させるとは限らない。それでも蘇るのは美しい記憶の中に響く音楽や会話ばかりなのは、逝った人の心の痛みを和らげようとする神々の甘い計らいかもしれない。

アンドレア・サニーニョも39歳になり、油が乗ったと言うよりは少し秋風を感じる年齢に差し掛かって来た。だがイタリア男はここからが見せ場と言うように、彼は時に泣き、咽びながら声をしぼり上げる。
私も心の声で後を追う。そう‥ あの日一羽のアヒルを追いかけた農道で一台のトラックが私の上を通過する直前まで、人生は輝きに満ちていた。そして最後に見上げた遠い空と雲が私の息を塞ぐまで、夏の終わりの甘い風が私を、痛みから遠ざけるように吹いていた。

アルバム “Mosaico” は冒頭はどこかリッキー・マーティンのスパニッシュな音色を思わせる作品で始まり、途中、ただの甘口なメロディーに留まらずイタリアン・フォークとでも言うべき作品等が挟まる。
M-7: Duje core はとてもオーソドックスなイタリアのメロディーで、おそらくこのアルバムの盛り上がり部分にあたる曲。共演歌手を務めるMr. Hydeの低音が背骨に響く。

M-11: “Vommero che curaggio” でアンドレアは少しだけリスナーを落ち着かせて行こうとするが、どうにも私はここで涙があふれて止まらなくなる。
 


来世で生まれる場所を、私は既に決めて今を生きている。生と死は日に日に距離を縮めて、その度に私は「もう少しだけ、あと数十年は生きていたい」と神々に願い、祈る。
愛したイタリアの神父の御霊を思う気持ちと、生まれ変わった神父の将来への祈りが複雑な形を成して交差する胸の中。
 

明日のことは分からない。だから今を精一杯生きることしか出来ない。

美しく、痛みをともなう思い出を昨日の出来事のように復活させて行くこのアルバムが、少しだけ憎くて、そして愛おしい。
 

注目曲 “Countach” by 轟はじめ

K-Popの終焉を目前に、2025年1月12日 午前零時に不思議な楽曲がアップロードされた模様だ。
 

『Countach』 by 轟はじめ
Vocal & Choreography (振付): 轟はじめ
Lyrics: 浦島健太
Composed & Arranged: 山元祐介
Mixing Engineer: 片山博文


K-Popのヒール (悪役的な‥の意味) なメロディーメイクに、アラビックなサウンドトラックが折り重なる本作品。
ここで既存のK-Popであればエッジヴォイスを合わせて、より強烈なヒール性を演出するところだが、轟はじめはなんとほぼ99%エッジヴォイスを使わずに歌い切っている。むしろエッジヴォイスを使わない歌い方が、聴き手に新しい時代を感じさせる。

歌唱表現のみならず、作詞/作曲/サウンドトラックも秀逸だ。
作詞を担当している浦島健太氏の名前には見覚えがあり調べてみたところ、なんとあの欅坂46の 『アンビバレント』を作曲している。楽曲そのもののテイストは『アンビバレント』と『Countach』共に同質とみることも出来るが、歌唱表現の点で轟はじめが首一つ二つ勝っていることで、 両方を比較すると『Countach』の方が作曲技術の進化をより色濃く感じ取れる出来栄えだ。
 


サウンドトラック面 (編曲) も良い出来栄えで、通常このテイストのサウンドトラックにはダブステップが必要以上に乱用されることが多いが、『Countach』ではダブステップのエレメントをかなり制御した使い方をしているのが特徴的だ。ダブの持つ独特の汚しや不潔感を軽快に回避した音作りに徹しており、他のダブステップに比べてマインドが汚染された感じがしない。
コード進行もほぼワンコードで構成されており、あっちこっちに意識が引っ張り回されない分、聴いていて疲れない。


一方メロディーメイクの点に於いては同じようなフレーズをリフレインさせながら、各コーラスの最後で一気に一オクターブ音域を上昇させて行く箇所が魅力的だ。
轟はじめも無理なく、最高音の『F』まで余裕で声を上昇させる。地声を張り上げるでもなく、かと言って裏声に完全に声質を変えることもなくその中間の声質で逃げ切るでもなく、普通に音域を締めくくって行く辺りはなかなかのテクニックだ。

私はダンサーではないのでダンス評論はここでは行わないが、最近のK-Popのキレッキレのダンスに辟易しているところにこのサウンドの上に比較的緩~いダンスを無理なく乗せて行く轟はじめの振付センスは流石としか言い様がない。
見ている此方も息切れすることなく、尚且つ歌いながら踊るに無理のない振付けで意外にハイスピード感を出して行く轟の振付センスに、キラリと光るものを感じる。

まさにK-Popの夕暮れと同時に東の空に煌々と輝く夜の朝日を見ているような、不思議な現象はまさに神がかりとしか言い様がない。
 

これまで私はこの種の二次元VTuberと言う領域を回避していたが、この楽曲の出現は希望と次の音楽シーンへの可能性を強く感じさせてくれた。
VTuberで二次元と言う点が今後どう作用して行くかは私には読めないが、この楽曲に於いては間違いなく売れると見ている。

K-Popの侵食で疲れ切った多くの音楽愛好家たちに、新たな開眼の切っ掛けを与えてくれるに違いない。
 


サウンドトラックonlyのバージョンも貼っておきます。
 


関連記事:

物事の虚と実 – 老化するElena Danaan –

当ブログの中でも比較的PVが多い記事は、『エレナ・ダナーンを突き動かしている高次悪 “ブラック・ガーネット” の正体』 ⇦ 此方ではないだろうか。


なるべくネガティブな対象に光をあてないようにすべく、ここ数か月間エレナ・ダナーンの動画及びSNSの発信等には触れないようにしていたが、何となく私に彼女の活動について、或いは彼女のコミュニティーやファンダム?の様子については耳に入って来る。

久しぶりに動画を観てみたら、エレナ・ダナーンが急激に老化していることに気が付いた。
思い返せば一年と少し前に私と夫の二人で、エレナの背後から彼女を操っていた高次悪 ブラック・ガーネットを粉砕したが、エレナの老化が始まったとしたらその直後ではないだろうかと推測出来る。
それまで自身を操作していた強大かつ凶悪なエネルギーが消滅したのだから、そこからは自分自身の持つ卑弱なエネルギーでそれまでと同等な状態を維持しなければならず、言ってみれば骨身を削りながらエネルギーや霊体のやり繰りをしていることになる。

当然の如く、現在のエレナ・ダナーンのような状態になるのは必然のこと。このまま彼女が以前と同じようにエネルギーを使い続ければ、何れ全てがそう遠くない未来に枯渇するだろう。
 


このところSNS上ではやたら精神を病んだ人たちの投稿が散見される。彼らの共通点はと言えば、過剰な承認欲求に魅入られていることだろう。
とりたてて重いミッションを背負っているようには見えないがゆえに彼らの発言は滑稽であり、尚且つ真剣にミッションを果たそうとしている数少ない優秀な人材の足手まといとなっている点に私は、とても腹を立てている。
間接的にその件について時々つぶやくと、なぜかそれまで私の投稿など気にも留めていなかったであろう彼らの発言が微妙に揺れて来る。

私の投稿には絶対に手を触れぬような状況で、彼らが私を見ていることが分かる。

スピ系に傾倒している人たちの中にも精神的に病んだ人があふれている。それだけならば別に何の問題もないが、特定の「病んだ人」がうっかりSNSでバズることで利他的な精神をもって活動している誠実な人材の活動を妨害する、その状況が私には誠に腹立たしく思えてならない。

エレナ・ダナーンの場合はどうだろう‥。
おそらく彼女の場合は「なりきり」のカテゴリーに分類されるだろう。もう少し突っ込んで言えば、例えば演技性人格障害のようなことになるだろうか。
 

嘘も三回吐けばその人の中で、真実にすり替わる。

虚実の境目が曖昧になり、いつしか理想の自分を手に入れたような妄想が独り歩きを始める。実体が理想とはかけ離れているにも関わらず、例えばエレナ・ダナーンの場合を例に取れば、実際には時間移動 (或いは恒星間航行) 等出来ないにも関わらずそれが達成された‥ 等と脳内でストーリーをでっち上げ、妄想がいつの間にかあくまで自分の中でだけ真実性を帯びた (ように見えた) 段階でその旨外部に発信して行く。
物理的には目に見えない内容だけに、聞き手はそこに驚愕と「目に見えないことを信じない」ことへの罪悪感を植え付け洗脳されるので、始末に負えない。

だが、エレナ・ダナーンの話について言えば、物理的には意外に容易にその虚偽を暴くことが出来ると私は見ている。

何より彼女の語る様々な「見えない事柄」は現実的ではないし、実際に実現していない出来事だ。物理的に見えないのではなく、実際問題何も起きていないのだ。
例えば問題の動画の中で語られている写真を科学捜査の領域に持ち込んで解析を試みれば、画像が捏造であることはいとも簡単に証明されることになるだろう。がしかし、一連の出来事が事件性を帯びていない以上、それらを捜査検証する機関もないと言う現実の壁が立ちはだかる点が厄介極まりない。
 


怖いことに、虚偽はそれを述べる側の人だけでなく、受信者もろとも洗脳に陥れることが可能だ。なぜならば上でも述べたように、「見えない出来事」を信じようとしない心情がまるで悪であるような罪悪感を継続的に植え付けられて行くことで、虚の発信者と受信者間で共依存関係が出来上がってしまうからだ。

嘘も三回吐けば真実にすり替わり、特定の人物が三回吐いた嘘を鵜呑みにすれば受信者の中でもそれがあたかも真実であると、自分を納得させる回路が出来てしまう。
エレナ・ダナーンを取り囲んでいる聴衆の半分以上は、そうやって洗脳と罪悪感の間を振り子のように漂いながら徐々にエレナ信者として改造されて行った人たちだ。勿論、翻訳者 佐野美代子はその代表格の人物と言えるだろう。

双方は承認欲求と言う地下水脈で繋がっており、もしもこれらの洗脳から離脱する方法があるとしたら、その一つとして「承認欲求からの離脱」を試みることを私は提案する。

エレナ・ダナーンの言う「秘密宇宙プログラム」なるものは実在しない。まして「地上アライアンス」等と言う団体が存在するとしたら、ライトグレイ星人『グレーン』がそれを黙って見過ごさないだろう。
だがエレナ周辺の願望は現実とは全くかけ離れており、彼女の言う理想の世界は今後訪れることはなさそうだ。これは地球人にとってはあまり喜ばしい予言とは言えないものの、ここから歴史は段階的な手順を踏んで一旦リセットへと向かって行く。

一つには、神の目が開いたからだ。

むしろ神の目が開いた事実を今日 2025年1月11日 午前3:00am (日本時間) の段階までエレナ・ダナーンの口から発信されていないことが、エレナの「虚」を最も象徴していると私は見ている。