朝、一日の始まりに各SNSを見て回るのが日課みたくなっていますが、ここ数年、以前にも増して「出会い」とか「ご縁」「絆」と言ったワードに遭遇する確率が上がったような印象を受けます。
確かに多くの人たちは人間関係が一生を左右するようか環境に生きているでしょうから気持ちも分かりますが、余りにも人間関係に皆さん依存し過ぎてはいないかと、個人的には思います。
そもそも一個の出会いだとか絆にそこまで執着していては、次に巡って来るであろう本物の切っ掛けを見失います。人は各々成長して行きますし、成長した自分自身は昨日までの自分とは明らかに異なるでしょう。だとすれば、それまでの人間関係を明日の朝にはバッサリとリセットすることも、十分にあり得るわけです。
成長を遂げた後の新しい自分には必ず、その自分に見合う新しい人間関係が必要になります。なので例えば小学校時代の友人とか大学時代の友人たちと数十年を経て親睦を深め続けている人たちって、全く成長していないのだろうなぁと私なら考えます。
あり得ないですから、私なら。
私はその都度都度、それまでの自分自身もそれまでの人間関係も捨てながら今日に至ります。ただ一人、リラ星の最期の火の海を共に見届けたであろう夫を除いては。
あれだけの衝撃的な経験はそうそう忘れる筈もなく、あの瞬間最後までリラ星に残ったあと二人の魂との出会いを果たせば、私の出会いへの熱望はほぼ達成します。それ以外の出会いがあるとすれば、その時々のテーマや課題に必要な人間関係でしょう。
今ならば富士山付近への移住の為の情報収集だとか、住んでいる地元の美味しい飲食店を探す為の人の輪作りとか、あくまで便宜上の人間関係に限定されるので、そこから一生に渡って続くような相手を見つけ出す必要性など全く感じていません。
往々にして人と言うのは相手を自分の土俵に引き入れ、レベルを落としたがるものです。そして「同格の人種」だと思いたがるので、私はその類いの相手のペースには一切乗りません。
昔々私の人間関係を揶揄した人が居て、彼女だったか彼だったかその人は私を『お友だちは信者だけ‥』等と表現したことがあり、当時のSNSでもこのネタがかなり広く拡散されましたけど、多分あれは真実かもしれないと今なら余裕で笑い飛ばせます(笑)。
そのくらい、リラ星最後の巫女とそれ以外の人々の霊質・霊体の格差は想像以上に大きいので。
‥だとしても皆、余りに出会い依存に陥り過ぎていませんか?
所詮家族以外の人たちには相手の人生の責任すら負えないわけですから、仮に私に親友みたいな存在が現れたとしても至って冷静冷淡な感情以外湧いて来ません。
私が変わっているのでしょうか‥。
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