“Bubble Gum” – NewJeans (思い出作りの始まり)

2024年5月に正式にリリースされたNewJeansの “Bubble Gum” は、日本では同年3月に某シャンプーのCM曲として世界で最初にお披露目された。
私の記憶が正しければ、日本で最初にこの楽曲が紹介された時の歌詞は大半が日本語で構成されていた。だがその後 (ヘインの怪我により) 4人でパフォーマンスされた時には、その部分がごっそり英語と韓国語に変わっていた。
 

 
この曲も冒頭はハニ (Hanni) のヴォーカルでスタートするので、楽曲が華やかに聴こえる。
そもそもこの曲に関してはさほど派手な曲ではなく、NewJeansの持ち曲としては地味な部類かもしれない。ミディアムテンポでメロディー構成は緩め。

とは言えPVのインプレッションは強く、きらきらと光る波に相反してNewJeansのメンバーが古びたフィルムに映り込んだ思い出のシーンのように表現されているので、むしろもの悲しさを感じてたまらない気持ちになる。
この独特なもの悲しさを見事に映し取ったミン・ヒジンの才能を、あらためてまざまざと感じた作品だった。
 

既にこの頃からADOR 対 ミン・ヒジン、ADOR (HYBE) 対 NewJeansの戦いは始まっていたが、むしろ私が気になったことと言えば、丁度この頃からミン・ヒジンもNewJeansの5人も大きなステージを意識した活動に固執し始めたことの方だった。
大舞台でスポットライトを浴びて、そこに大勢のファン (バニーズ) 等の声援が飛ぶ独特な環境は、その後の彼女たちの精神を急速に蝕んで行ったように思う。
 

 
ミン・ヒジンの海を切り取った映像は、抜群に美しい。

彼女は時を超えてここに来た存在だ。それは彼女自身すら気付いていない真実かもしれない。
だが別の映像を見た時に、私は彼女の転生に気が付いた。その事を勿論本人は知る由もないが、今のミン・ヒジンを見ているとかえって自身の魂のルーツを知らないでいる方が良さそうな気もする。
 

傲慢な言動、闇に堕ちたと言っても過言ではないミン・ヒジンの最近の言動は、歪んだ自信に基づくものかもしれない。その過信を脱ぎ捨ててしまえばそこに才能の輪郭だけが浮き彫りになる筈だが、もう時すでに遅し‥。
思い出ノートは全て書き終えた。
丁度この作品 “Bubble Gum” がリリースされた頃からNewJeanz (ミン・ヒジン含む) の思い出作りが加速し、東京ドームのコンサートで彼女たちはその頂点を迎えたようだ。
 

日本の5人と韓国の5人、‥それぞれの形で彼ら自身も終焉を間近に控え、各々の音楽業界やメディア等全てを巻き込みながら、世界が急激に変わろうとしている。
この曲の “Bubble” ~風船のように、それは高く高く上がって行くがいつかどこかで割れて壊れてしまう。その残骸はあとかたもなく波間のやわかな泡となり、押し流されて、いつかひっそりと海の底で眠りにつくのだろう。
 

“Ditto” – NewJeans 🇰🇷 (PVに隠された暗示)


2022年12月19日にYG PLUSを通じてADORから配信された、NewJeansの大ヒット曲。
最初ヘインのスキャットを経て、Aメロの冒頭をハニ (Hanni) が担当する辺りはどこか、今の世情とは異なり明るく希望に満ちていて健康的だ。

それまでのKPopのガールズ・グループの陰鬱かつヒール (悪役) のイメージを、この一曲が完璧なまでに塗り替えた。
この曲の出現でKPop界隈は、二度と『NewJeans以前』には戻れなくなったと言っても過言ではない。

一方このPVの演出はどこか不穏が隠れており、特に ‘Ditto’ Official MV (side B) には死の影を思わせる演出が随所に施されている。
(※監督: シン・ウソク)
 
NewJeansの各楽曲のサウンドメイクの特徴は、重たいドラムを使わない点だ。
一説には当時のNewJeansの楽曲選びの際、ミン・ヒジン氏からは様々なリファレンスの楽曲が提示され、その大半が日本のシティーポップだったと言うから、NewJeans以降の新しいKPopの原点はJPopだと言っても過言ではないだろう。
 

ダイエットをしない。
緩いダンスで誰にでも踊れそうな振付が付いている。
高音を地声で張り上げない、声帯に負担のない発声でメンバーが交互に歌って行く。
楽曲とは一見無関係な可愛い衣装が多いが、何を着てもNewJeansカラーに仕上げて行く。

何よりコロナ禍の最中に一曲につきかなり多くのPVがリリースされ、引き籠り族を存分に楽しませる企画が活きていた。

 

その後、NewJeansはこれまでには類を見ない攻め方をして来た新世代のガールズグループとして一世を風靡する直前で、残念ながら既存の「ファンの目線とステージライトを浴びてパフォーマンスを行う」だけの、至って平凡なKPopガールズグループに転落して行った。
 

現在のNewJeansは「ADORと契約解除をした」と言い張り、独自の活動を行うニュータイプのアーティストの体 (てい) を取ろうと必死になっているが、最近では (ADORの旧CEO) ミン・ヒジンのタンパリング疑惑が表沙汰になり、闇深いミン・ヒジンの洗脳でがっつりマインドを拘束された彼女たちはもはや自力で暴走を止められなくなった。

曲が作れるわけでもなく、振付を生み出せるわけでもなければ各々がタレント活動以外の音楽の基礎を持たないのであれば、彼女たちはそう遠くない日に大衆から忘れ去られて行くだろう。

私は元バニーズだったが、今は違う。社会のルールを守らずに身勝手な状況解釈によって暴走し続けるうさぎは、いつか必ず高い崖の上に追い詰められて行くことになる。

まるで ‘Ditto’ Official MV (side B) に描かれている「学校の屋上から落ちてこっぱみじんになったビデオカメラ」がそれを暗示するようで、仮に彼女たちがいずれ莫大な損害金を背負うことになったとしても、シン・ウソクが描いたこの曲のPVが現実にならないようにと祈るばかりだ。

 

 

 

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[音楽評論] “Ravel: The Complete Solo Piano Works” by Seong-Jin Cho (チョ・ソンジン)

久しぶりに目が覚めるようなクラシック音楽を聴いた。

本記事で紹介するのは、韓国から世界に放たれた近代音楽、モーリス・ラヴェルのピアノ曲集。
基本的にクラシック音楽のガチャガチャした感じが個人的に好きではないので、冒頭2曲で止めようと思った。だがM-3: “亡き王女のためのパヴァーヌ” で演奏者 チョ・ソンジンが覚醒する。

日本の近代音楽ピアニストの権威、安川加壽子(やすかわ かずこ) の影響が強く染み付いた私にとって、近代音楽は「感情を一切込めない冷酷な音楽」と言う強いトラウマを植え付けらえる切っ掛けだった。
彼女の公開レッスンに実際に演奏者として参加した私は、そこで一気にドビュッシーもモーリス・ラヴェルも嫌いになった。

彼女の言う「感情を一切込めない音楽」とは半ば、エモーションを完全に手放したロボット的解釈のそれだった。だが肝心のラヴェルの音楽には緩急があり、程好い加減を心得た最低限のエモーションは必須だと言うことは、わずか小学校2年生の私でさえ理解に至った。
 

チョ・ソンジンの新譜 “Ravel: The Complete Solo Piano Works” を聴く限り、彼は安川加壽子の言う近代音楽の解釈は取り入れておらず、むしろ彼の解釈は感情過多に陥ることなく、その先のエモーションに到達しているように思える。

M-4: Jeux d’eau (邦題『水の戯れ』の解釈は、個人的にツボだ。
 

 
何を隠そう学生時代の私はこの曲を得意曲としており、数十種の解釈で日々演奏し分けていた。と言うのも複数人のピアノ教師に師事していた為、否応なく一曲を各々の教師の好みに弾き分けることを余儀なくされたからだった(笑)。
桐朋大学の権威者の元にレッスンに行く時は、いかにも権威主義的でいかつい近代音楽を大げさな身振り手振りで演奏しなければならなかったし、かと思えば藤井一興氏の自宅レッスンに行けばまるで私が元からフランス人に生まれた人みたく、流しそうめんをつるつる飲み込むようなラヴェルやオリビエ・メシアンを演奏しなくてはいけなかった‥。
 

兎に角私は何が忙しいかと言えばこの「弾き分け」で、母 (毒親) はそんなこととはつゆ知らず毎日私の練習中ミスタッチを見つけ出してはヒステリックに私の腕に爪を立て、皮膚を抉り、握りこぶしの関節が当たるように右目の眼球を殴り続け、そんな中で私がクラシック音楽など好きになれる筈もなかったわけだ‥。
 

 

ここで一つだけ余談を。
私が学生時代の頃は主のピアノメーカーはと言えば、YAMAHAかスタインウェイ (Steinway & Sons) だった。YAMAHAは高音域の音質が金属丸出しで上品さを欠いており、一方当時のスタインウェイの鍵盤は象牙が使用されているものが多かった。これが鬼門だった。
上記に触れたモーリス・ラヴェルの「水の戯れ」の中盤の盛り上がりで一カ所だけ、グリッサンドが書かれた箇所がある。グリッサンドとは、鍵盤を滑りながら打鍵する奏法で、これを象牙が完全に妨害するのだ。
 
そもそも象牙と言う材質は滑りにくい素材で、その上をあえて “f” (フォルテ) で滑り落ちるように手を移動させなければならなかったから、スタインウェイでこの曲を演奏した後には必ず右手人差し指の側面が真っ赤に皮が剥けて、包帯が欠かせなかった。
特にこの曲の場合は黒鍵を指のはらで滑らせて、高音から低音まで下降しなければならず、本番一回の演奏だけで人差し指の側面の皮膚が赤くただれてボロボロになる。

 
話をチョ・ソンジンのモーリス・ラヴェルに戻そう。
普段私は他の人のクラシック演奏をあえて聴かないようにしているが、それもこれもクラシック音楽の未進化具合に苛々して精神衛生上良くないからであり、クラシック音楽が良い意味でもっと進化すれば本当はもっと色々な音楽を聴きたくなる筈で‥。
 
チョ・ソンジンのこのアルバム “Ravel: The Complete Solo Piano Works” を今もヘッドホンで聴き進めているが、全体的にヒステリックさはなく、クラシック音楽奏者が持つエゴイスティックな嫌味を感じない。

世の中も音楽も同様に、実のところ「何も起きない」ことがベターなのだ。
だが多くのクラシック音楽の楽曲も解釈もドッタンバッタンと大げさなドラマを作り出し、これみよがしに権威主義を見せ付ける。それが「クラシック音楽の醍醐味」だと思い込んでいる現役の音楽家も、そしてクラシック音楽愛好家も共に多く、「何もない音楽」「何のドラマも起きない音楽」‥ つまり事件性の薄い音楽には価値を見出さない人たちが多数存在する。
だがそのような音楽を地球の外に持ち出すことは不可能だと言う現実の壁を、殆どの人々が知らずにいるようだ。
 
なぜならば、私が知る多くの地球外生命体たちは地球人よりも聴力と鼓膜が弱く、大きな音量には耐えられない。勿論そんな地球外生命体の面々に現在の地球上の音楽を聴かせようものなら、おそらく彼らは耳を強く抑えて、大きな声で「やめてくれ!」と叫ばずにはいられなくなるだろう。
 

ある意味私にとっても外敵さながらの現在の地球上のクラシック音楽集の中でも、幸いチョ・ソンジンのこのアルバムはギリギリ、地球外に持ち出せるクラシック音楽の一つとして地球外生命体の音楽愛好家等にも推奨出来そうだ。
但し音量はぐっと抑えめにして、彼らに聴かせなくてはいけないだろう🛸
 

[インフォメーション 2. ] 2Blog 統合 – 一部修正


上記のブログにてX凍結後のメインSNSについて書きましたが、一部修正があります。
 

今後の主なSNSの拠点を ①Bluesky ②Threads ③Facebook (個人アカウント) と表記していましたが、よくよく考えてみたところ特に ③Facebook はあくまで個人的な連絡用に使っており、氏名表記が実名になっている為、メインのSNSとしては使用しないよう事務所より通達がありました。
 
①Bluesky に於きましてはサイトが現在かなり不安定で、スマホ/ PC共にタイムラインが読み込めない時間が断続的に起こり、流石にアカウントの設置をお薦めすることが出来かねる状況です。
②Threads に関しては主に写真や映像、或いは店舗営業関係者が使いやすい仕様となっている為、此方も積極的な利用は推奨しかねる状態です(笑)。

どのSNSに於いても「帯に短し襷に長し」の状況で、私自身もかなり困惑しています。
 

今後Xのメインアカウントが凍結を解除されたとしても、人間嫌いの私にとっては余り居心地の良さと将来性を感じなくなっているのが心情で、現在はXのサブアカウントをあくまで「つぶやき」として運行しています。
此方は先に凍結されたメインアカウントと同様の使い方は出来ない為、以前のようなシュールなつぶやきは今後永久的に出来ないことになる見通しです。
 

現在一つアイディアがあるとすれば、音楽評論雑記の部分を現ディディエ・メラの音楽評論(ブログタイトルを後日変更の予定) の中で継続することでしょうか‥。
日常的なつぶやきはサブアカウント内で時たま‥ と言うスタンスに移行する予定です。
 

ディディエ・メラの音楽評論のドメインの変更が未だ完了していないのですが、此方も少々お時間を頂戴出来れば幸いです。
なるべく近い将来、ドメインを変更する予定で現在準備を進めております。
 

又カテゴリー03. 音楽評論 / 音楽紹介にもかなり記事が集まって来ました。
ディディエ・メラの音楽評論からPVの多かった記事を抜粋して、当ブログに移動しています。上記ブログに雑記帳の体 (てい) で綴った記事は、もしかするとそのまま移動しない状態で此方には移動せず、ディディエ・メラの音楽評論上に残しておくかもしれません。
 

両ブログが今後、Didier Merahのメインスタジアムになる予定ですので、これまでのSNSでちまちまつぶやくことはかなり少なくなるでしょう。
その上で、もう少しだけ各SNS (Facebookを除く) の状況を鑑みつつアカウントを温存し、たまに生存確認がてらつぶやきを投げ込むかもしれません。
 

[インフォメーション] 2Blog 統合 – Spiritual to 音楽評論

これまでスピリチュアルと音楽評論とをブログを分けて書いて来ましたが、色々思うところがあり、この度全ての活動を当ブログに統合する運びとなりました。
 
昨年まで別ブログ『ディディエ・メラの音楽評論』で綴って来た主な記事を抜粋し、現在順次当ブログに移動している最中です。
各記事は当ブログ『Didier Merah Blog』上より、カテゴリー『03. 音楽評論 / 音楽紹介から読むことが出来ます。
又、探している音楽記事等があれば、ブログ最上部、右先端の虫メガネマーク 🔎 ⇦ にワードを書き込むことで、該当記事を探すことも可能です。

リラ星最後の巫女が予言として発信する音楽評論と言う視点も、さらに新しい評論の試みだと思います。この機会に是非、購読して頂ければ幸いです。

以下に主な記事、人気のある記事のリンクを貼っておきます。
 

 

 

 

 

 

 

 

追記:
2025年1月17日、早朝より “X” のメインアカウントがいきなり凍結された為、現在SNSの発信拠点を一時的に移動しています。事態が好転する迄の期間メインのSNSを変更し、臨時でSNSを増設しています。
Facebook上からの発信も一時的に再開していますので、以下にそちらのリンクも貼っておきます。

文字をタップすると、各SNSのDidier Merahのページに移動出来ます。

 

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毎週末にSpotifyより発信している『世界の音楽』の新譜 プレイリストも合わせて、お気に入りにご登録頂けたら幸いです。
今後ともディディエ・メラをよろしくお願いいたします。
 

蘇る日々 (“Mosaico” – Andrea Sannino)

イタリア発祥のものは先ず口に、脳に、入れてみる。過去世の記憶が蘇り、いつしか私はトスカーナの並木道に佇んでいる。
甘い木の実と春間近の草の匂いを風が遠くに運び出す朝。直前の過去世に、私はそこで息絶えた‥。

アンドレア・サニーニョ (Andrea Sannino) が新譜をリリースした。彼の声はほんの少しだけ枯れ始め、それは夏の終わりの太陽の香りを脳裏にもたらす。
甘い夢と痛みが交差する私の中に、復活する私自身。

懐かしい顔ぶれが黄泉の国から戻ると、煙った記憶はたちまち輪郭を強め、これは夢ではないよ‥と言って私を強く抱きしめる。
愛した人はもうこの世界には居ない筈なのに失った筈の感覚はとても現実的で、悲しみよりもよろこびを幾つも幾つも連れて来る。
 


思い出が全てを美化し、風化させるとは限らない。それでも蘇るのは美しい記憶の中に響く音楽や会話ばかりなのは、逝った人の心の痛みを和らげようとする神々の甘い計らいかもしれない。

アンドレア・サニーニョも39歳になり、油が乗ったと言うよりは少し秋風を感じる年齢に差し掛かって来た。だがイタリア男はここからが見せ場と言うように、彼は時に泣き、咽びながら声をしぼり上げる。
私も心の声で後を追う。そう‥ あの日一羽のアヒルを追いかけた農道で一台のトラックが私の上を通過する直前まで、人生は輝きに満ちていた。そして最後に見上げた遠い空と雲が私の息を塞ぐまで、夏の終わりの甘い風が私を、痛みから遠ざけるように吹いていた。

アルバム “Mosaico” は冒頭はどこかリッキー・マーティンのスパニッシュな音色を思わせる作品で始まり、途中、ただの甘口なメロディーに留まらずイタリアン・フォークとでも言うべき作品等が挟まる。
M-7: Duje core はとてもオーソドックスなイタリアのメロディーで、おそらくこのアルバムの盛り上がり部分にあたる曲。共演歌手を務めるMr. Hydeの低音が背骨に響く。

M-11: “Vommero che curaggio” でアンドレアは少しだけリスナーを落ち着かせて行こうとするが、どうにも私はここで涙があふれて止まらなくなる。
 


来世で生まれる場所を、私は既に決めて今を生きている。生と死は日に日に距離を縮めて、その度に私は「もう少しだけ、あと数十年は生きていたい」と神々に願い、祈る。
愛したイタリアの神父の御霊を思う気持ちと、生まれ変わった神父の将来への祈りが複雑な形を成して交差する胸の中。
 

明日のことは分からない。だから今を精一杯生きることしか出来ない。

美しく、痛みをともなう思い出を昨日の出来事のように復活させて行くこのアルバムが、少しだけ憎くて、そして愛おしい。
 

注目曲 “Countach” by 轟はじめ

K-Popの終焉を目前に、2025年1月12日 午前零時に不思議な楽曲がアップロードされた模様だ。
 

『Countach』 by 轟はじめ
Vocal & Choreography (振付): 轟はじめ
Lyrics: 浦島健太
Composed & Arranged: 山元祐介
Mixing Engineer: 片山博文


K-Popのヒール (悪役的な‥の意味) なメロディーメイクに、アラビックなサウンドトラックが折り重なる本作品。
ここで既存のK-Popであればエッジヴォイスを合わせて、より強烈なヒール性を演出するところだが、轟はじめはなんとほぼ99%エッジヴォイスを使わずに歌い切っている。むしろエッジヴォイスを使わない歌い方が、聴き手に新しい時代を感じさせる。

歌唱表現のみならず、作詞/作曲/サウンドトラックも秀逸だ。
作詞を担当している浦島健太氏の名前には見覚えがあり調べてみたところ、なんとあの欅坂46の 『アンビバレント』を作曲している。楽曲そのもののテイストは『アンビバレント』と『Countach』共に同質とみることも出来るが、歌唱表現の点で轟はじめが首一つ二つ勝っていることで、 両方を比較すると『Countach』の方が作曲技術の進化をより色濃く感じ取れる出来栄えだ。
 


サウンドトラック面 (編曲) も良い出来栄えで、通常このテイストのサウンドトラックにはダブステップが必要以上に乱用されることが多いが、『Countach』ではダブステップのエレメントをかなり制御した使い方をしているのが特徴的だ。ダブの持つ独特の汚しや不潔感を軽快に回避した音作りに徹しており、他のダブステップに比べてマインドが汚染された感じがしない。
コード進行もほぼワンコードで構成されており、あっちこっちに意識が引っ張り回されない分、聴いていて疲れない。


一方メロディーメイクの点に於いては同じようなフレーズをリフレインさせながら、各コーラスの最後で一気に一オクターブ音域を上昇させて行く箇所が魅力的だ。
轟はじめも無理なく、最高音の『F』まで余裕で声を上昇させる。地声を張り上げるでもなく、かと言って裏声に完全に声質を変えることもなくその中間の声質で逃げ切るでもなく、普通に音域を締めくくって行く辺りはなかなかのテクニックだ。

私はダンサーではないのでダンス評論はここでは行わないが、最近のK-Popのキレッキレのダンスに辟易しているところにこのサウンドの上に比較的緩~いダンスを無理なく乗せて行く轟はじめの振付センスは流石としか言い様がない。
見ている此方も息切れすることなく、尚且つ歌いながら踊るに無理のない振付けで意外にハイスピード感を出して行く轟の振付センスに、キラリと光るものを感じる。

まさにK-Popの夕暮れと同時に東の空に煌々と輝く夜の朝日を見ているような、不思議な現象はまさに神がかりとしか言い様がない。
 

これまで私はこの種の二次元VTuberと言う領域を回避していたが、この楽曲の出現は希望と次の音楽シーンへの可能性を強く感じさせてくれた。
VTuberで二次元と言う点が今後どう作用して行くかは私には読めないが、この楽曲に於いては間違いなく売れると見ている。

K-Popの侵食で疲れ切った多くの音楽愛好家たちに、新たな開眼の切っ掛けを与えてくれるに違いない。
 


サウンドトラックonlyのバージョンも貼っておきます。
 


関連記事:

物事の虚と実 – 老化するElena Danaan –

当ブログの中でも比較的PVが多い記事は、『エレナ・ダナーンを突き動かしている高次悪 “ブラック・ガーネット” の正体』 ⇦ 此方ではないだろうか。


なるべくネガティブな対象に光をあてないようにすべく、ここ数か月間エレナ・ダナーンの動画及びSNSの発信等には触れないようにしていたが、何となく私に彼女の活動について、或いは彼女のコミュニティーやファンダム?の様子については耳に入って来る。

久しぶりに動画を観てみたら、エレナ・ダナーンが急激に老化していることに気が付いた。
思い返せば一年と少し前に私と夫の二人で、エレナの背後から彼女を操っていた高次悪 ブラック・ガーネットを粉砕したが、エレナの老化が始まったとしたらその直後ではないだろうかと推測出来る。
それまで自身を操作していた強大かつ凶悪なエネルギーが消滅したのだから、そこからは自分自身の持つ卑弱なエネルギーでそれまでと同等な状態を維持しなければならず、言ってみれば骨身を削りながらエネルギーや霊体のやり繰りをしていることになる。

当然の如く、現在のエレナ・ダナーンのような状態になるのは必然のこと。このまま彼女が以前と同じようにエネルギーを使い続ければ、何れ全てがそう遠くない未来に枯渇するだろう。
 


このところSNS上ではやたら精神を病んだ人たちの投稿が散見される。彼らの共通点はと言えば、過剰な承認欲求に魅入られていることだろう。
とりたてて重いミッションを背負っているようには見えないがゆえに彼らの発言は滑稽であり、尚且つ真剣にミッションを果たそうとしている数少ない優秀な人材の足手まといとなっている点に私は、とても腹を立てている。
間接的にその件について時々つぶやくと、なぜかそれまで私の投稿など気にも留めていなかったであろう彼らの発言が微妙に揺れて来る。

私の投稿には絶対に手を触れぬような状況で、彼らが私を見ていることが分かる。

スピ系に傾倒している人たちの中にも精神的に病んだ人があふれている。それだけならば別に何の問題もないが、特定の「病んだ人」がうっかりSNSでバズることで利他的な精神をもって活動している誠実な人材の活動を妨害する、その状況が私には誠に腹立たしく思えてならない。

エレナ・ダナーンの場合はどうだろう‥。
おそらく彼女の場合は「なりきり」のカテゴリーに分類されるだろう。もう少し突っ込んで言えば、例えば演技性人格障害のようなことになるだろうか。
 

嘘も三回吐けばその人の中で、真実にすり替わる。

虚実の境目が曖昧になり、いつしか理想の自分を手に入れたような妄想が独り歩きを始める。実体が理想とはかけ離れているにも関わらず、例えばエレナ・ダナーンの場合を例に取れば、実際には時間移動 (或いは恒星間航行) 等出来ないにも関わらずそれが達成された‥ 等と脳内でストーリーをでっち上げ、妄想がいつの間にかあくまで自分の中でだけ真実性を帯びた (ように見えた) 段階でその旨外部に発信して行く。
物理的には目に見えない内容だけに、聞き手はそこに驚愕と「目に見えないことを信じない」ことへの罪悪感を植え付け洗脳されるので、始末に負えない。

だが、エレナ・ダナーンの話について言えば、物理的には意外に容易にその虚偽を暴くことが出来ると私は見ている。

何より彼女の語る様々な「見えない事柄」は現実的ではないし、実際に実現していない出来事だ。物理的に見えないのではなく、実際問題何も起きていないのだ。
例えば問題の動画の中で語られている写真を科学捜査の領域に持ち込んで解析を試みれば、画像が捏造であることはいとも簡単に証明されることになるだろう。がしかし、一連の出来事が事件性を帯びていない以上、それらを捜査検証する機関もないと言う現実の壁が立ちはだかる点が厄介極まりない。
 


怖いことに、虚偽はそれを述べる側の人だけでなく、受信者もろとも洗脳に陥れることが可能だ。なぜならば上でも述べたように、「見えない出来事」を信じようとしない心情がまるで悪であるような罪悪感を継続的に植え付けられて行くことで、虚の発信者と受信者間で共依存関係が出来上がってしまうからだ。

嘘も三回吐けば真実にすり替わり、特定の人物が三回吐いた嘘を鵜呑みにすれば受信者の中でもそれがあたかも真実であると、自分を納得させる回路が出来てしまう。
エレナ・ダナーンを取り囲んでいる聴衆の半分以上は、そうやって洗脳と罪悪感の間を振り子のように漂いながら徐々にエレナ信者として改造されて行った人たちだ。勿論、翻訳者 佐野美代子はその代表格の人物と言えるだろう。

双方は承認欲求と言う地下水脈で繋がっており、もしもこれらの洗脳から離脱する方法があるとしたら、その一つとして「承認欲求からの離脱」を試みることを私は提案する。

エレナ・ダナーンの言う「秘密宇宙プログラム」なるものは実在しない。まして「地上アライアンス」等と言う団体が存在するとしたら、ライトグレイ星人『グレーン』がそれを黙って見過ごさないだろう。
だがエレナ周辺の願望は現実とは全くかけ離れており、彼女の言う理想の世界は今後訪れることはなさそうだ。これは地球人にとってはあまり喜ばしい予言とは言えないものの、ここから歴史は段階的な手順を踏んで一旦リセットへと向かって行く。

一つには、神の目が開いたからだ。

むしろ神の目が開いた事実を今日 2025年1月11日 午前3:00am (日本時間) の段階までエレナ・ダナーンの口から発信されていないことが、エレナの「虚」を最も象徴していると私は見ている。
 

Last Run – 才能と崩壊 (旧NewJeans)

ひとつの時代が終わろうとしている。
未だ終わりと決まった訳ではないが或る活動が否応なくラストランへと移行し、それはもう中盤を迎えている。

予感と予言は時に、同一線上に位置する。どれがどちらかと言う客観的な推察を飛び越えて的にはいきなり光が当たり、急速に光を放ち始める。
この現象は輝きの歴史に常について回り、風潮のシフトを先導して行くから不思議だ。

少し話は脱線するが私の家系が法律関係だと言うことに加え、過去世リラ星最後の巫女として生きた時代から私は少なからず「法律」に関わり、その観点からの未来の洞察を欠かしたことがなかった。
今回旧 NewJeans (現 jeanzforfree) は輝きと変化と崩壊の全てのラインをくっきりと描きながら、ラストランを急激に加速させている。あれだけ輝き、五人全員が各々の才能を持ち、各々が独自の光を放っていたにも関わらず彼女たちは正々堂々と法を犯し、それを顧みる精神を手放してしまったようだ。

勿論何もかもを法律に当てはめること等出来ないことは重々承知の上で、それでも五人が一線を踏み越えてしまった事は事実だ。
 


大きな仕事には大きな代償も付きまとうし、それを背負わなければ大役の側が巡って来ないことも又、皮肉だが真実だ。
彼女たちのラストランを象徴するような動画 “NewJeans (뉴진스) – ‘Intro + Supernatural (Attention Mix) + How Sweet’ ♪ | JTBC 250106 방송” を私は、何度も悲痛な心境で見つめている。
 
※上記の画像は現在、日本国内からの閲覧が出来なくなっています。
 

お世辞抜きに五人のパフォーマンスは素晴らしいし、個人的な推しの一人であるハニ (Hanni) の作り笑顔が消えたガチな表情も美しい。
ハイスピードで進んで行くダンスソロから全員が出揃って激しいダンス・パフォーマンスを繰り広げて行く辺りは圧巻で、彼女たちの現在のネガティブな状況さえなければ手放しで褒め称えたい、圧巻のパフォーマンスだ。

だがこの圧巻な光景の背景には事務所 ADOR の協力が潜んでおり、ADORの後押しなしには実現し得ないことも又事実である。が、彼女たちがそのことを心の中では実際にどう思っているのかについては、今のところ判然としない。

私も過去には別の五人組の活動に関わっていたし、良くも悪くも「事務所」やイベント会社がどのような仕事を担っているかについても熟知している。その観点を表現者サイドは絶対に持つべきだと感じるし、内情はどうあれ大掛かりな仕事とは表現者サイと事務所サイドとのタッグなしには成立し得ないのだ。
 


何より旧 NewJeans がここまで成功を収めた本物の立役者は、作曲・作詞・編曲を担当した多くの音楽家たちである。音楽あっての旧NewJeansは東京ドームの公演を睨み始めた辺りから、本物の立役者の存在をすっかり忘れてしまったことは誠に残念である。

旧NewJeans までの既存のK-Popを完全に塗り替えたもう一人の立役者として、旧プロデューサーであったミン・ヒジン氏の存在は大きかっただろう。だがヒジンもどこかの時点から音楽よりもビッグビジネスに目的がすり替わり、最終的には自身の利益が最優先 (場合によっては旧 NewJeans を犠牲にする) の人へと変貌を遂げたように見える。

ミン・ヒジン、旧NewJeans、そしてADORの全輪が同期しなければ絶対に動かせない車 旧NewJeans はその全輪を失い、ましてやグループで唯一外国国籍を持つハニ (Hanni) のビザ問題がそこに覆いかぶさっている今、今後の活動に於ける希望の光は全く見えなくなった。
 


奇跡的な輝きは、言うなれば宇宙規模のプログラムが奇跡的な同期を遂げた時に初めて放たれる。それは歴史のほんの一瞬の出来事に過ぎず、輝きを浴びた人たちはその輝きをどのようにして延命させて行くかに於いて深い熟慮が求められる。
だが多くの人たちはそれらの輝きが自身の才能によって放たれたのだと勘違いし、傲慢なマインドに陥ってしまう。
 

旧NewJeans の背後にもしも一瞬でも輝きの女神がほほ笑んでいたとしたら、今女神はどのような心境で五人 (ミン・ヒジンを含めると六人) を見つめているだろう‥。
私にはとても悲しげで絶望的な心境に在る女神の後ろ姿が時折透けて見え、胸が張り裂けそうだ。
 



そして以下は、NewJeansの未発表曲Demo音源になります。
 

 

 

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燃える火、消えゆく灯、そして祈り

あけましておめでとうございます🎍

今年もよろしくお願い致します。

 
我が家はいたって普通通りの年末年始を迎え、明けて1月3日に今年最初の神人共食の儀を執り行いました。
神界の神々の多くは古い時代に人として生きており、その当時の食生活は今と比べてとても質素で、少ない食材の中で工夫を凝らしていたようです。なので私たちが日常的に食しているお料理の大半が神々にとってはとても珍しく、そして貴重だと話しています。

2025年1月3日の神人共食の献立は、イタリア料理でした。
我が家では殆ど毎日神人共食を執り行っており、時にはジャンクフードもあり、時にはファミレスのステーキもあり‥ とバラエティーに富んでいます。古い神様方は最初こそ難色を示されたものの、最近は私たち夫婦が味わう多くの料理に興味を示されますし、少しずつ味覚のアップデートが進んでいる様子が伝わって来ます。

ですがそのような状況を快く思わない原理主義的な価値観を持つ神々や宇宙自然神等も存在するらしく、昨夜の神人共食時には私たち人間のみならず神々にも圧がかかり、特に食事中盤で夫が強い倦怠感を示す等、過酷な状況下で儀式は進んで行きました。
 

 
私がことさらイタリア料理に拘るには理由があります。
勿論既にご存じの方々もおられると思いますが、私の直前の過去世はイタリア人でした。その時の私は交通事故で命を落としています。その交通事故で私は大型トラックに轢かれて死んだわけですが、そのトラックの助手席に乗車していたのがサビノ神父でした。
サビノ神父はその件が切っ掛けで後に聖職者の道を選んだと、彼の御霊から最近その事実を聞きました。

私が日本人の血を引く両親から生まれた時、彼はそれが私とは知らずに言い様のない感覚の痺れを感じたそうです。なぜそのような感覚に襲われるのかについては、最近まで、‥夫がサビノ神父の霊体の患部を治療するまでは気付くことが出来なかったようです。

サビノ神父の霊体の患部を夫 天野玄斎 が治療して取り除いた時、彼の意識がようやく明確になり、それまで起きた色々な出来事を思い出して整理する状況に至ったそうです。
私に、私とサビノ神父が最後に会った場所を彼の霊体から直接聞くことが出来たのも、夫のヒーリングのお陰です。
 

 
話を戻して‥。

上の写真ですが、母が写り込んでいなければまるで、父と娘の写真のように私とサビノ神父の雰囲気がとても似ているように見えます。そして時々ご質問頂くのですが、後ろに写っている人形の中には、リラ星時代の私の (当時の第二巫女候補だった) 妹の魂が完全に入り込んでいます。

当時から私は両親に「顔の傷のせいで人前に出せない子」だと言われていたのですが、この写真を見る限りそのようには見えません。勿論若干の傷跡のようなものが顔にはあるのかもしれませんが、この写真の少女のどこが「人前に出せない子」なのでしょうか‥。
でもそんな両親の言葉を真に受けて私を遠ざけた人が他にも複数いたのは、完全に毒親であった父母の洗脳がネガティブな意味で周囲に行き届いたからと言わざるを得ません。

私がサビノ神父に最後に会ったのが、私が18歳の誕生日でした。なのでこの写真を母の遺品から発掘するまでには、42年もの月日が経過したことになります。

でも、祈りは必ず通じます。勿論サビノ神父はこの世を既に去ってしまいましたけど、彼の霊体は実在し、私たちは再会を果たすことが叶いました。そして2024年の2月末日に、サビノ神父は次の生を得てこの世に転生しています。
今度は私が、現世のサビノ神父との再会を待つ番だと思っています。

 
思えば色んな事が起きた2024年。深めたい親睦が上手く深まらず、黒を絶対に白にひっくり返さない私の性格が全てを叩き割ったような一年が経過しました。
せっかく今世で再会を目前に控えていたリラ星時代の妹を見つけたにも関わらず、彼女は心に大きな混乱を来たし、実際の再会は叶わず現在に至ります。

黒を白にひっくり返さない私の性格が災いしたのか、多くの人たちが私や夫の傍から離れて行きました。妥協と虚偽にまみれた人間関係を築くことは私の哲学に反するので、それも致し方ないのでしょう。
 

 
文字通り、私は音楽家・芸術家でありながらもやはり、巫女のような人生をこれからも歩んで行くことになるでしょう。それが人々から理解されない生き方・生きざまだとしても、それをする為に私はここに戻って来た自負があります。

今年は自身の新しいアルバムの企画に着手し、早ければ今年末~来年頃には制作に入るつもりで居ます。
並行して音楽評論と音楽研究にも集中し、特にイタリア音楽 (カンツォーネやイタリアンポップス) をさらに極めたいと思っています。私の魂には今でも強いイタリアが流れており、その強烈な引力に今は流されていたいと願ってやみません。

又音楽やクリエイトと言う観点で、企業戦略的なアドバイス業も担って行けたら‥ と、予定はびっしり詰まっています。法律や社会学、社会心理学等も勉強し、豊かな精神性を培って行かなければなりません。

この記事の最後に、未だ作りかけではありますが、『Collection “SABINO” Ⅴ (2025′)』と題したプレイリスト (on Spotify) のリンクを貼っておきます。
私の中に流れるイタリアを、共にシェア出来たら嬉しいです。