約束と祈り (Promises and prayers)

来月に相方の誕生日を控えているので、その辺りに箱根への旅を予定している。道中は相方の運転で現地に向かう予定だ🚙
自分で作成した色んなPL (音楽プレイリスト) を用意しつつも、やはり故 サビノ神父 (現 Hana) との思い出が心を優先するので、BGMはイタリアの音楽に。
 

 

記憶とか思い出は微妙にトラウマと重なり合うもので、サビノ神父を思う時にはどうしても実母の影が折り重なって来る。
 

実母が最後の最後まで執念深くサビノ神父との思い出の写真を隠した本当の理由は、一体何だったのか‥。遺品整理業者がとても良い業者だったので、段ボール何個分にも及ぶ分量の写真と言う写真を一枚残らず全て保管して私に渡してくれたが、見るからに古い段ボールの中にサビノ神父と私が最後に撮った写真がひっそりと隠れていた。
その場所がどこだったのか、数十年もの間分からなかった。どうしても思い出したい記憶だけがぼんやりと霞が掛かったように思い出せなくなっていたが、それもこれも実母が仕向けた圧のようなものの一種だったように思えてならない。
 
限られた時間の中での遺品整理の中で私はどうしてもその写真を探し出したかったから、念を込めるように一枚一枚捲って行くと、とある束の中に笑顔のサビノ神父が目を覚ました。
幾度かの交霊の末に、最後の写真を撮影した場所をサビノ神父の霊体から聞き出すことが出来た。
箱根のとあるホテル内のレストランだと分かった。そこに辿り着くまでに、40数年を要した。
 

 
思えば私と神父との出会いは既に過去世に在り、そこ (トスカーナの山中の車道の事故現場) で私たちは忘れ得ぬ固い約束を交わしたのだろう。仮にサビノ神父が “Hana” として転生した今でもその記憶を抜きに全てを語ること等出来なくて、その時を思い出す度に心臓辺りがしくしく痛んで仕方がない。
 
コーヒーとワインとパスタが大好きなサビノ神父のことを、私が家を飛び出た24歳の時から片時も忘れたことなどなかった。だが如何せん、当時の私の心は壊れていた。私を壊したのは紛れもなく、山田家とその親戚全員だった。
私は壊れながらもどうにか平常心を保つことに一生懸命だったが、今にして思えばやはり壊れていたのだろう。
実家の遺品整理の時に見つけ出した写真の中には、下の写真のようなサビノ神父が何かの目的で撮ったと思われるブロマイドのような写真が複数あった。
 
きっと母はサビノ神父を個人的に好きだったのだろう。だからなおさらのこと、神父の気持ちが私に向くことのないよう、神父から私を遠ざけることに必死になったのかもしれない‥。
 

 
故 サビノ神父が神父としての霊体を今よりも強く保持していた時に、相方 (天野玄斎) が神父の霊体の心臓に張り付いた真っ赤な炎症を取り除いてくれた。その瞬間故 サビノ神父は本物の自由を得て、それまで固く凝り固まったようになっていた霊体がひときわ大きくなったように私には見えた。
わずかな母の霊体が神父の霊体の周囲を鎖のように縛っているのが見えたけど、相方のヒーリングの後にその呪詛 (呪縛) も解けて、故 サビノ神父はそこで何度目かの転生の機会をようやく得ることが出来たと後から聞いた。

生まれ変わった故 サビノ神父 (現 Hana) とは未だ現世での再会は果たせていないけど、その時はいつか必ず訪れると私は確信している。私が確信したことで、これまで叶わなかったことは一つもない。

念じることはいずれ祈りとなり、それが正しい祈りならば願いはいつの日か必ず叶う。

過去世で交わした幾つかの約束は、一つずつ現世 (現在の私) で叶って来た。リラ星の妹との再会もじきに果たせるだろう。
リラ星の妹は今某業界の第一線で活躍している。彼女は今回も、彼女が作り出した新しい作品の中にふんだんに、私たちの最期の約束の合図でもある “光” を散りばめている。
同じ記憶を持つ人にとって、その “光” は特別な意味を持つ。
彼女が送って来る “光” に返す新しい作品が今は未だ手元にはないけれど、私が毎週欠かさず作っている音楽のプレイリストを通じて彼女には必要にて最大限のアンサーを送っている。
 

音楽は私たちにとって、手紙のようなものだ。
喜びたい時、泣きたい時、抱きしめたい時、‥その時々に応じて私のPLには必要な音楽を詰めて解き放っている。そのシグナルに彼女も応えてくれる。
静かなやり取りは地球全土の人々に向け、各々に必要な形や響きとなり届くと信じて、手の負傷の緩やかな改善と共に数年以内に私は新作をレコーディングする予定を立てている。

 

蘇るクロード・ヌガロ (Claude Nougaro) – Claude Nougaro Returns.

毎週末の “世界の新譜” チェックは相変わらず続いており、この半年間で私が各プレイリストにラインナップする楽曲の質が大きく変化していることに、Didier PL Fanの方々はきっとお気づきだろう。
以前のPL (プレイリストの略称) に多かったチルアウトやDeep House系の音楽がグっと減り、いわゆる純粋にワールド・ミュージックと言える楽曲が増えていることに。
 
コロナ禍以降世界は暗闇に包まれている。政治の腐敗はもとより環境汚染による気候変動や天変地異が多発しており、創作活動がままならなくなったアーティストの話も多数聴こえて来る。
勿論此方の世界からあちらの世界への移動を余儀なくされたアーティストも多く、ただただ寂しい限りだ。
 

 


今日この記事でご紹介するのは “Une voix, six cordes – De Claude à Nougaro” と言うアルバムだ。
表現者としてYvan Cujious、そしてLouis Winsbergと言う二人のフランスのミュージシャンが表記されており、オールドスタイルのジャズ・フランセとも言うべきフレンチスタイルのジャズソングが収録されている。
全曲がClaude Nougaroの作品でまとめられている。
 

 

クロード・ヌガロと言えば、とても苦い思い出が一つだけある。
未だ私が前職で和製シャンソンの世界に深く関わっていた頃、お世話になっていたシャンソニエ “BOUM” のオーナーのご厚意でクロード・ヌガロのコンサートの (記憶では2002年だったか) チケットを手配して頂き、楽しみに会場に向かったのだが‥。
 
ほぼ真っ暗な照明の中にピアノ一台をバックに、クロード・ヌガロがオリジナルを歌い始めたのだがどうにも私の感性に彼の表現がフィットせず、冒頭の4曲だけを聴いて会場を飛び出した。
Pf.のモーリス・ヴァンデールのバッキングのテイストも何となくしみったれており、ほぼ暗転状態の照明の陰鬱さも手伝って私の精神の方が参ってしまいそうだったのだ。これ以上会場に居るには周囲に知り合いがあまりにも多すぎて、”拍手はしない” と言う意思表示すら難しいと思った。
 
後日談を聴くと皆一様に「素晴らしかった‥」としか言わない。たった一人を除いては。その “たった一人” の名前はここではあえて伏せておくが。
 

アルバム “Une voix, six cordes – De Claude à Nougaro” の中の一曲が丁度先週末の新譜の渦の中に登場し、先入観なく聴いていた私の心臓を一撃した。
垢抜けたヴォーカルに深い音色のギター、それらがあの、忌まわしい記憶の中のクロード・ヌガロの楽曲だと分かったが、表現や解釈によってはここまでカラっと爽やかで切れ味鋭い音楽に豹変するのかと、ある意味感動しながら今も未だアルバムを聴いている。
 


M-7: “Rimes” はイントロがどこかStingの “Fragile” を彷彿とさせる作りになっており、それが血の半分がアジア人の私にとっては何ともたまらない気持ちになる。
私の残りの血の何分の1がスコットランドで、残りはきっととても複雑な血が入り混じっているのだから、一体私自身のルーツの根源はどこなのかとも思うが人間なんてそんなもの。
どこかのどこかでアダムとイヴのどちらかに到達する。その先はプレアデス星人、そしてリラ星人へと辿り着くわけだから、もう誰がどこの血筋だ国籍だと訝しがること自体馬鹿げた話だ(笑)。
 

それにしても “Rimes” 、良い曲だ。
 

Rimes (歌詞)
J’aime la vie quand elle rime à quelque chose
J’aime les épines quand elles riment avec la rose
J’aimerais même la mort si j’en sais la cause

Rimes ou prose

J’aime ma chanson quand elle rime avec ta bouche
Comme les ponts de Paris avec bateau-mouche
Et la perle des pleurs avec l’œil des biches

Rimes tristes

J’aime les manèges quand ils riment avec la neige
J’aime les nains qui riment avec Blanche-Neige
Rimons rimons tous les deux
Rimons rimons si tu veux
Même si c’est pas des rimes riches
Arrimons-nous on s’en fiche

J’aime les manèges quand ils riment avec la neige
J’aime les nains qui riment avec Blanche-Neige
Rimons rimons tous les deux
Rimons rimons si tu veux
Même si c’est pas des rimes riches
Arrimons-nous on s’en fiche
 
J’aime la vie quand elle rime à quelque chose
J’aime les épines quand elles riment avec la rose
J’aimerais même la mort si j’en sais la cause

Rimes ou prose

J’aime ma chanson quand elle rime avec ta bouche
Comme les ponts de Paris avec bateau-mouche
Et la perle des pleurs avec l’œil des biches

Rimes tristes

J’aime les manèges quand ils riment avec la neige
J’aime les nains qui riment avec Blanche-Neige
Rimons rimons tous les deux
Rimons rimons si tu veux
Même si c’est pas des rimes riches
Arrimons-nous on s’en fiche

J’aime la vie quand elle rime à quelque chose
J’aime les épines quand elles riment avec la rose
Rimons rimons belle dame
Rimons rimons jusqu’à l’âme
Et que ma poésie
Rime à ta peau aussi…

https://genius.com/Claude-nougaro-rimes-lyrics

 
歌詞をめくってみると、タイトルが邦題だと『韻を踏む』と言う意味を持つ言葉だと分かる。クロード・ヌガロが元々詩人 (作詞家) として始まったことが、この歌詞からも感じ取れる。
 
アルバム “Une voix, six cordes – De Claude à Nougaro” のM-2: “Cécile ma fille” も、なかなかに痺れる曲だ。この曲のクロード本人の動画をあらためて視聴してみたが、どうもモーリス・ヴァンデール (Pf.) と言う人は聴衆やその時々の事情によって奏法を完全に使い分けているのではないかと、私は疑ってしまう。
勿論そういう噂を実際に聞いたこともあったが、動画を見る限り日本はPARCO劇場のあの時の演奏とは打って変わって冴えているから悔しい限りだ。
 


日本はPARCO劇場でのクロード・ヌガロの動画を探してみたが、見つけることが出来なかった。実際に両方のモーリス・ヴァンデール (Pf.) の演奏を聴き比べてみれば私の記憶が正しいか否か、はっきりするのだが、それは出来なかった‥。
 

作曲者本人よりも表現に特化して活動している面子の再演の方が原作者のそれを勝ってしまうと言う話は、よくあることだ。だがここまで歴然と表現の差を見せつけらるとは、流石のクロード・ヌガロ本人がそれを予想しただろうか‥(笑)。
ともあれ以下にアルバム “Une voix, six cordes – De Claude à Nougaro” のリンクを貼っておくので、(シャンソン嫌いの私が言うのもなんだが) 是非とも蘇ったクロード・ヌガロの世界をご堪能頂きたい。
 
くれぐれもこのアルバムを聴いた後に、ニッポン人のシャンソンだけは絶対に聴かない方が良いだろう。
ニッポン人のシャンソン歌手等の殆どが原作者に無断で歌詞を訳詞して、原作者に無断で楽曲を失敬して盗んで使用してカネ (ギャラ) を得ている面々だ。彼らは表現者でも歌手でもなくただの盗っ人だと私は認識しているし、このブログの読者層にもその旨肝に銘じて頂ければ幸いである ^ ^ゝ
 

 

To mark the 20th anniversary of Claude Nougaro’s death, Yvan Cujious and Louis Winsberg have decided to pay tribute to him with an album entitled “Une voix, six cordes – de Claude à Nougaro”, which revisits Claude’s incredible repertoire on guitar and vocals, a repertoire we’re more used to hearing on piano.
For this project, Yvan Cujious and Louis Winsberg surround themselves with prestigious guest friends: Francis Cabrel, Thomas Dutronc, Anne Sila, the Toulousans Bigflo and Oli, as well as great musicians like Rocky Gresset and Jean-Marie Ecay, all united by a shared love of Claude Nougaro.

This album, this wonderful adventure, is ultimately nothing more than a story of friendship, almost a family affair…

Thank you, Claude!
https://www.wowhd.co.uk/yvan-cujious-1-voix-6-cordes-hommage-a-claude-nougaro/3700398731100

エッジボイスを手放したNewJeans – 新曲 “How Sweet”

2024年5月24日、NewJeansの新譜 “How Sweet” が無事お披露目と相成った。
既にカムバック曲として先行公開されていた Bubble Gum とセットで、グッズ込みのCDもリリースされた。私は此方も予約購入しており、週末の外出日を避けた来週の月曜日に我が家に到着するようセットしてある。
 

新曲 “How Sweet” のMVにはADOR代表のミン・ヒジンの目映い仕掛けが随所に見られることは勿論だが、それ以上に目を見張るものがあるとすれば、本作でNewJeansの5人がK-Popの最大の武器とも言えるエッジボイスを殆ど使っていないことだろう。
声、歌に精通している人ならば直ぐに気が付くが、そうではない一般のリスナーはそれにすら気付かないかもしれない。
それぐらい全てがあまりにも自然でさり気なくて、まるで食前に提供されるミネラルウォーターを無意識に飲んだ時の清涼感だけが音楽を包み込んでおり、それがたまらない。
 


以前ミン・ヒジンのインタビューで、「人生を楽しむことが大切よ。」‥ と彼女が常に5人の少女たちに話しているとあったが、このPVではそれが見事に開花している。
しかも大自然の中で、照明等のセットや小細工等が為されてすらいない空間であっても、NewJeansのやわらかな素顔と個性はワンセットで健在だ。
 
楽曲的には (一部SNS等でこれをヒップホップだと言うコメント等も散見されたが) 王道のポップスだと私は認識しており、仮にこの音楽からビートを抜き取ったとしてもメロディーの芯はしっかり残る構造になっており、聴いていて不安定要素が極めて少ない。
コードプログレッションはいわゆる王道コードとは異なり、[E♭m ⇨ D♭M7 ⇨ D♭m7 ⇨ C♭M7] と言うサビのコードの移り変わりは近年のK-Popの楽曲には珍しい。
 


大自然ほど不確定要素が多いものはなく、その辺りが映像の背景と5人の少女性で見事に表現されており、聴いた後に果汁の入った微炭酸のような爽やかさだけがじんわりと喉元に留まり続けて、とにかく気持ち良い。
何よりエッジボイスを殆ど使わずにこのタイプの楽曲を歌われたら、これまでエッジボイスを必死に習得して来た他の歌手やガールズグループ等にもはや勝ち目はない。
 
最近色々トラブルに巻き込まれて来たニュジ & ADORやその代表のことがずっと気掛かりだったが、何事もなかったみたいに弾け飛んで行くニュジ (NewJeans) の圧勝だ。
 
何はともあれカムバック、おめでとう❣️
 

 

『How Sweet』by NewJeans
作詞: Gigi, Sarah Aarons, Elvira Anderfjard, Oscar Scheller, Stella Bennett, Tove Burman, DANIELLE
作曲: 250, Sarah Aarons, Elvira Anderfjard, Oscar Scheller, Stella Bennett, Tove Burman

 

NewJeans ‘How Sweet’ Standard ver. (6 SET)(韓国盤)
 

ブラジルから風が吹く – “Boca Cheia De Frutas” by João Bosco

ブラジルから御年77歳の新譜が届く。João Boscoのニューアルバム “Boca Cheia De Frutas” を、私にしては珍しく全編聴いている。
 
楽曲も編曲も申し分ないが、気になるのはヴォーカルのリミックス。バックの楽器の音質 (加工処理やエフェクト等) が良いだけに、声のホワイトノイズとモノラル感が酷く気になって所々音楽に集中出来なくなるが、これは仕様なのだろうか‥。

特にM-4: “E Aí?” 辺りのヴォーカルが、異様にモノラルに聴こえて仕方がないのだが。

一方でM-8: “Sobretom” にはヴォーカルが無い分音質がまとまっているので、音楽に没入出来る。

M-10: “O Cio Da Terra” の前半の声の低音部分は、ちょっと面白い。だがやはり年齢の事情なのか、声質がしゃがれたカラスみたいなので鼓膜にシャリシャリ刺さって来て途中音量を下げないと (私の超聴力だと) 聴けないのが難点だ。

(※若干音程が悪く聴こえるが、これも仕様だろうか?)
 

 
言い方は悪いかもしれないが、ありきたりなブラジル音楽はあまり好きではない。このアルバムもうっかりすると “ありきたりなブラジル音楽” に聴こえるが、随所に散りばめられた甘口ショーロがぎりぎりのところで “ありきたり” を回避してくれる。
やはり作り手自らが表現するブラジル音楽の威力はハンパない。
 
日本に居るとどうしても借り物のブラジル音楽に接する事の方が多いので、段々とブラジル音楽を嫌いになって行く。だが、偽物や借り物を聴いて音楽の本質を見失っている場合ではない。そんなのは私らしくもないしね。
 

冒頭の “Dandara” はどこか、Dori Caymmi のヴォーカリーズや彼が生み出すメロディーラインにも通ずる底の見えない悲しみを彷彿とさせるし、さらにグっと来たのがM-7: “Buraco” の、優しく甘いメロディー & コードだ。
ご本人の音程の悪さは一旦棚上げした上で、心を無にしてアルバム全編をもう一度聴き直してみようと思う。
 

[表現評論] Nada Personal (Sesión en Vivo) by Juan Pablo Vega & Catalina García

コロンビアの音楽シーン最強の二人がタッグを組んだ新譜 “Nada Personal (Sesion en Vivo)” が、世界に放たれた。
アーティスト表記の Catalina Garcíaとは、あの Monsieur Perine のヴォーカリストのこと。次いでこの作品で華麗かつ上品な演奏を繰り広げているピアニストの詳細を知りたくて調べてはみるものの、これも私の語学力のボキャブラリーの無さが原因で現在のところ情報を掴み切れていない。
誰か分かる方がいらしたら是非、この記事のコメント欄だけは解放しておくので情報を頂けるとありがたい。
 
日本国内産の “ヴォーカル & ピアノ” のセッションにはかなりうんざりしつつも、こうして本物を聴くとまだまだこの組み合わせも捨てたものじゃないな‥ とホッとする。
Liveとかセッションとはどこかその場の空気感や作業の流れやノリがかなり演奏に影響を及ぼすが、最初から “Live” ではなくレコーディングだと軸を決めて表現に及ぶと、この作品の様にハイクオリティーな音源を記録することが出来ることが分かる。

かなしいかな、一度伴奏者として歌手やバンドのサポートに回ったミュージシャンはその後メインの座に舞い戻ることが難しくなるが、個々が表現の主軸を失わなければこうして “セッション” として成り立つと言う良い見本をここに見ることが出来る。
 


“Monsieur Perine” と言えば最近の作品の中で強く印象に残っているのは、Prométeme と言う作品だ。
この作品の中では環境汚染に対する警鐘を強く訴えかけているが、今まさに人類がこの危機に直面していることを音楽と映像でしんしんと表現している。しいては最近の作為的な人口削減ワクチンによる人口激減に於ける予言まで、この一曲でまとめて彼らは記録している。
 
勿論大幅人口削減に関する予言は日本のアーティスト Didier Merah もかなり前から放っているが、それもこれもこの世界からにぎやかしの音楽やイベント、ライブやコンサートや舞台演劇等がごっそり消滅しない限り、いつかは必ず悲劇的な状況に着地することが目に見えていたからだ。
多くの表現者や聴衆等がその現実から目を背け、快楽的かつ刹那的な生き方を止めようとしない以上、いつかは自然神等の粛清を免れられない事態に陥るだろう。
 
そんな未来の状況を彼ら “Monsieur Perine” が音楽及びMVとして世に放ってくれたことは、音楽評論家のみならず音楽を愛し音楽史の軌道修正を試みる一人として、とても頼もしいと思う。
それに加えJuan Pablo Vegaとのコラボセッションで音楽の最小単位のセッションを記録してくれたことにも、敬意を表したい。
 


音楽とは本来こういうことを指し、カネの為の豪華なセットも必要ない筈。
世界最小オーケストラとも言われるピアノ一本と “声” だけでV (ビデオ) で全ての音楽が配信されるならば、もう誰も飛行機に乗る必要もないし高速爆音を発する陸の乗り物を利用する必要もなくなる。
 
全ての音楽が室内でひっそりと、出来れば空間に音の一つも発することなく各々の世界に閉じ込めながら堪能することが理想的で、望ましい。むしろそのやり方の方が未来的だし、環境破壊を起こさずに済むことに、さらに多くの人たちに気づいて欲しいと願わずにはいられない。
そうなれば今巷にあふれ返る借り物、偽物、しいては原作者の許可なしに勝手な翻訳詞や作詞などを着せられた泥棒さながらの再演に遭遇することもなくなり、いいことずくめに違いない。
きっと全てが上手く行くだろう‥。
 

“Juan Pablo Vega” (songwriting by Juan Pablo Vega)

自然神の粛清の動き

これは先日自然神から直接伝え聞いた話です。

現在地球はデトックスのタイミングに差し掛かっており、これまで人々が地球に与えた数々のダメージを修復し始めました。その為地球各所で地震、噴火、洪水~気象の異変など、多くの変化に見舞われますが、これは好転反応の一種と認識せよとのこと。

度重なる戦争でこれまでの日常の営みを人類が自ら破壊し、地上の数カ所が瓦礫化する一方で、これまで長きに渡り砂漠化していた場所に雨を降らせ川を生み、そこを緑地化して新たな生命発祥の地を生み出す為、地球も又地球の精霊や自然神たちが大々的な治癒活動を開始しました。

 
人類が環境破壊を自発的に止めることが出来ないならば、そこに神々や精霊、自然神等が積極的に働きかける以外の方法はありません。現在その働きかけが開始した段階。
干上がったアマゾン川の代わりを担う新たな河川も必要ですし、観光産業でこれでもかと言う程荒らされたヴェニスは一度海に沈めなければならないと、自然神等は今それを真剣に行動に移し始めています。
 

人類も神々も国籍その他の分断を止められない理由の一つは、自然神自体が分断していることがその大きな要因であることに、ふと自然神等自体が気付いたようです。
自然神等が先ず一つになり、壁を取り払って行く。それが着々と進むと同時に、地球自体が一つにまとまって行きます。ですが一方でその副作用として起きている現象が、現在の天変地異や異常気象等だと思われます。
 
 

 
人類に出来ることはただ一つ。これらの現象を前向きに受け止め受け容れ、都度都度の状況に添った行動を取ることのみです。残念ながらその中には、大幅な人口削減長期間の自粛生活等も含まれます。

何れも現状起きていることの大半は人災と言えるので、人類は自然神からの粛清を受け容れることしか出来ません。何故ならば人類が自発的に長期自粛生活を営み継続することが出来なかったからです。
 

文字通り地球は現在人類の流刑地となりつつありますが、それは地球外生命体からのそれではなく、自然環境や自然神、自然にまつわる精霊や神々からの罰を受け容れる為の地と認識しなければなりません。
 
 

 
色々な文化が恐らく一時的に衰退し、一部の国家は国家としての体 (てい) を為せなくなるかもしれません。食文化にも大きな異変があり、その兆しは既に私たちの食卓を彩る食材の中にも顕れていますが、多くの人たちは心のどこかで「これは一時的な現象であり又全てが元通りになる筈」だと思い込んでいます。
これは所謂思考停止と現実逃避の一種です。そして人類はこの思考停止を自らの意思でやめることが出来ず、それまで続いて来た「過剰に豊かな生活」を復活させることに躍起になっているように見えます。
その悪しき連鎖を、自然神等が黙って見ている筈がありません。
 
かなしいかな一度壊れた物事は、こぼれ落ちた砂。二度と元には戻せません。全ての砂を拾い集めることも出来ません。
 

23万年前だったか‥、私はリラ星の自爆を星と共に経験しました。リラ星は自らの意思で自爆を決意しました。
それは全てが悪に向かい完全に消滅する前に、正気を保ち続けた魂 (霊体) を物理的な肉体から一時的に逃し魂の良い状態をせめて温存させ、次の時代に転生させる為の決断だったと私は認識しています。
過去世のみならず現世で私は二度も、世界の崩壊の兆しに立ち会うとは思ってもみなかったことですが、現在その少し手前まで接近していると言う緊迫感が日夜私を苛み続けます。
 

ですが幸いなことに地球は、未だ自滅を決めてはいません。一縷の望みを託し、自分自身の治癒力を信じてその活動を開始したところだと言えます。
 

この記事を綴ることにはとても勇気が要りましたが、書かない理由もありませんでした。
誰も知らないことを書くにはそれなりの経験値が必要ですが、皮肉なことに私はそれに似た経験を一度は通過しています。
なので現状の地球のSOSを含め、人々に少しでも戒めの念を持って欲しいと願ってやみません。
 
 

[表現評論] “Aqua” (坂本龍一) by Cateen かてぃん

絶対にやると思って見てました、この人 角野隼斗‥(笑)。

誰もが知っている(多分‥)楽曲を、調律とフェルトの仕様を若干カスタムした、今流行りの「壊れたピアノ」テイストでキメて来たつもりでしょうけど、先ずはかてぃんの精神性のタガが外れているように見えて仕方がない。

そもそも原曲が然程名曲でもないので、どんなに深遠な表情だけを取り繕っても指先から放たれる音が全く呼応していない。

それにしても彼のこの出方とタイミング‥、「俺様が教授の後釜だぞ」と自ら名乗り出る辺りが何とも安っぽいではないですか(笑)。
その安っぽさだけが「ポスト教授」と言う以前にこの人には、根底となるアカデミックなエレメントがごっそり抜け落ちていると言わざるを得ない。
 


Twitterでここから上の部分だけをツイートしたところ、角野隼斗のファンからのアンチコメントがリプライで投稿された。
彼等の心情としては、「そんな評論書く必要ないと思います!」とのことだそうだが、私は角野隼斗のファンでも何でもないので淡々と表現解説をしたに過ぎない。
 
私にとっては「誰が好き」だとか「嫌い」だとか、そんなことは最早関係がない。
あるべきものとして正当か否かを評論するのが、私の音楽評論スタイルなので悪しからず。
 

さて、話を戻そう。
動画冒頭で紹介した楽曲 “Aqua” の元曲の作曲者本人のライブ動画があったので、貼ってみよう。
 


注意深く耳を澄ませば、両者の音像の取り方の相違が分かるだろう。

細かく指摘するとしたら、かてぃんこと角野隼斗との演奏解釈の違いは左手の小指の落とし方。

坂本龍一の演奏の特徴の一つとも言えるルートの音量が、メロディーを遥かに上回っている点は恐らく、サカモト氏の持病の一つである難聴と深い関係性があったと私は見ている。

付け加えるならば、サカモトの耳が他の表現者よりも高音を強くキャッチする性質を持っている可能性も大。 クラシック音楽を演奏する際には右手のメロディーが眠ってしまう点に於いては、それが「仇」となり得るところを、サカモトは自身のブランドイメージでそのリスクを回避したとも言える。
 
平たく言えば、どんなにつまらない音楽であっても「ブランディング」によってそれが高尚な音楽だとリスナーに思わせることが出来ると言う意味だ。
良くも悪くもそれは表現のマジック、或いはトリックと言っても良いだろう。それらのトリックを自身の演奏に用いることに於いては私は一切否定はしない。少なくとも母体となる原曲が「とてもつまらない作品だ」と言うことを重々認識した上で、上手にトリックを使う手法も時には必要になるからだ。

 
だとしても角野隼斗の眼鏡が似合っていない。
知的な人物像を意識してのことだとは思うが、そもそも日頃「チャラ弾き」或いはチャラい表現手法で音楽タレントに邁進しているならば、こういう時だけ出て来ずにチャラいミュージシャンとしての方向性に徹すれば良いだけのこと。
 
人の訃報を褌に相撲を取るような人間に、ろくな音楽家は居ないとあえて断言しておく。

余談だが、この調律不安定なピアノをあえて使用した音源がこのところ急増しているが、「これは調律が狂っているわけではないですよ」と助言して来る人も後を絶たない。
少なくとも私の耳にはこのピアノが「正しい音源」「正しい調律」に聴こえない。特にフェルトに細工を施しているのか打鍵の着地点が酷く鈍って聴こえる為、残響が濁って聴こえるが、多くのリスナーたちがそのことに全く気が付かない理由が知りたい。

誰かご存じの方がいらしたら、DMを求ム。
その際は私へのアンチ感情や敵意からのメールではなく、理知的な説明でお願いしたい。
 


さらに余談を付け加えるとするならば、角野隼斗も坂本龍一も両者共に「体を縦横に揺らしてリズムを刻むディスコ・ミュージシャン」である方が似合っている。
特に坂本龍一に於いては絶対的にピアノが下手なので、どれだけ神妙な表情で生ピアノを弾いたとて既にその音楽にもサカモト自身にも「汚れ」が施されてしまった、同一人物の劣化版なのだから。
 
リズム・ミュージックに一度逃避した音楽家は、音楽家自身のベースに強いアカデミックのエレメントが染み付いていない限り二度とアカデミックな領域には戻れない。
それは霊質や霊体(過去世の蓄積)とも深い関係性がありそうだが、その辺りの解説はここではあえて割愛する。

参考までに、以下の動画を掲載しておく。
しかめっ面で “aqua” を演奏しているサカモトよりも、余程音楽が弾けていてキラキラしている。つまり此方の方が本来の坂本龍一だと言う、これが分かりやすい証拠の品である。
 


⇩が⇧の動画の原曲(作曲者: Tei Towa)。
 

 

そしてこの記事の最後に、坂本龍一が最高のファッションでコケた “Geisha Girls” の動画も掲載しておく。
 

 

該当YouTubeは外部サイトの埋め込みを拒否しているようなので、YouTube上で閲覧して下さい。

 

神の目が開かぬように‥

‥リラ時代の記憶を辿る。
リラの混乱を最初に引き起こしたのは一部の政治家と科学者たちだった。彼等は最初に子供たちを利用し、世の真実の白と黒を逆転させることに成功した。
正当防衛を暴力だと表現し、最初に暴力を行使した人物の隠蔽に成功した。

物事が反転する瞬間を巫女の私は見逃さなかったが、それを証拠として当時の世に突き付けることには成功しなかった‥。
 

闇の科学者たちは『 (あえてここではそう呼ぶことにする)』 の勢力を反逆的な「反対勢力」だと位置づけ印象操作を施し、噂の拡散に多くの子供たちが駆り出された。
まるで現在のパレスチナ問題に似過ぎているように思えてならない。
 

宗教は人々を混乱させ、波乱を引き起こす。
パレスチナの子供たちもその犠牲者かもしれないが、多くの子供たちは「大人になったら一人でも多くのイスラエル人を殺すこと」を夢 (悲願) だと思うように、宗教洗脳が施されている。
遠くリラ時代に既に似たような状況があり、それが現在も脈々と引き継がれていることの伏線としてプレアデス星人の「ヤハウェ制度」が挙げられる。

※「ヤハウェ」を名乗るプレアデス星人は今も存続しており、折に触れ地球に深く干渉して来た歴史がある。彼等は地球を「流刑の地」と認識しており、地球或いは地球人等の進化をこれまでありとあらゆる手を使って妨害し続けて来た経緯がある。
複数の宗教の種を蒔き人類に戦争を持ち掛けて来たのも彼等であり、双方の教義では異教徒の殺戮こそが神への忠誠であると説いている。

 
プレアデス星団の「ヤハウェ」職に在る一部の選民思想を持つ星人等は洗脳と戦争のマッチポンプで地球人が互いに殺戮し合うよう、複数の相反する宗教思想の種を同じ人物が撒き散らしたと言えるだろう。
 

絶対にあってはならないことが双方で起きており、その状況を今でも遠い場所で監視しながら地球の破滅を心待ちにしている、それが現在のプレアデス星人の「ヤハウェ」職の人たちの実体だ。
 
 

  
或る妨害が原因で今日まで一時的に宇宙評議会 “Norg” を休眠させていたが、先程からざわざわと空間が騒がしくなった。
未だメンバーの一部の体調が不完全な状態ではあるが、遠隔からのテレパシーで評議会程度は開催出来ると踏んだ代表 “ザール氏” が立ち上がった。
 
とは言え私たちが今出来ることは限られている。大々的な旗振りは出来ない状況だが、少なくとも祈ることは出来る。
 

祈りは一種の念であり、正しく使うことが出来れば大衆や世の流れを変える大きな力にもなり得る。
今その力を使わずして、いつ使うのか‥。
 

パレスチナにもイスラエルにも双方各々の宗教観があるが、両者とも間違いだらけだ。
民族や国家の対立を克服する為には先ず地球そのものを一つに束ねる必要が生じるが、現状では何れかを抹消しない限りそれは実現しない。でもそのやり方は間違っている。
 

互いの相違をシェアし、共存しながら地球を一個の倫理観で包括するには先ず、必要最低限「宗教の根絶」を実現する必要が生じる。それが先ず最優先課題だ。
その為には先ず、共通言語を統一する必要がある。細やかな表現に長けた言語があるとすれば、それは日本語だろう。緩い速度で子音と母音が絶妙なバランスで組み合わさっており、なにより発音や会話の速度がとても緩やかで聴き取りやすいと、Norgの代表『ザール氏』やもう一人の非正式メンバーもそれを感じ取っていると言う。
 

『神の目が開く時世界が滅びる』‥ と言う説があり、私の中のリラ星の記憶の一部が紐解かれたことがとても怖い。
 
 

中森明菜 – 瀕死の黒鳥の歌声

数年前だったかファンサイトを立ち上げたままピクリとも新譜を出さずに居た中森明菜が、遂に活動を再開した。‥と思いきや、息も絶え絶えの瀕死の黒鳥の如く、全てが変わり果てていたので驚いた。
 
特に女性歌手の場合、女性特有の体調の変化で障害が発生しやすいことは百も承知だ。元々歌が上手な人であればある程、それは顕著に出やすいと言えるだろう。
松田聖子しかりNOKKOしかり飯島真理しかり、例外として八神純子のような圧倒的な声量を現在も保持しているケースも見られるが、往々にして女性は「ある時」を機に急激に声が衰えて行く。
 
中森明菜も例外ではなかった。
個人的に彼女の音楽性が余り好きではないので入念に明菜の音楽をウォッチはしていなかったが、2015年リリース作品の歌姫4 – My Eggs Benedictの頃には既に地声の音域の大半が裏声にひっくり返ってしまっていたので、この先の彼女の歌手人生もそう長くはないなぁと予想はしていたが‥。
  


それにしてもサポーターに一体誰が付いているのか、選曲だけは攻めて来る(笑)。
やめときゃいいのにサルサだロックだジャズだ、賑々しいバンドに弱弱しい明菜の声が乗るともうそれだけで、高温の天麩羅鍋の中に崩れ落ちたシュークリームのようで胸が苦しくなる。
 

2024年4月11日の、おそらく一日前に公式から放たれた「BLONDE-JAZZ-」の明菜の声は、例えて言うならば、息を吸いながら声を出しているような‥ マッチポンプ発声で聴いている此方が呼吸困難になりそうで苦しい。
 


誰かがおだてて彼女がそれに乗った。‥そんな光景が薄目を開けると見えて来るような動画だが、一体日々のトレーニングの状況はどうなっているのだろうか。
そんなことは一切お構いなしに、まさか好きなように怠けて生きて来たのではあるまいかと思わせる程、明菜の声の劣化は明らかだ。
 
所々エッジヴォイス風な何かで語尾を誤魔化そうとしているが、声帯が割れて乾いてしまっているのがむしろ、彼女がかなりマイクに接近してレコーディングしているからバレてしまう。
元々短気な性格なのだろうか‥、ワンセンテンスごとに違う音楽に聴こえる。全体としてのまとまりに欠けるし、各メロの連携が全く為されていないので、継ぎ接ぎだらけの乾いた生地のパッチワークさながらだ。
 


動画でバックを務めているミュージシャンはall Japaneseのミュージシャンの面々だが、アレンジもスッカスカで原曲が華やかだけにかなり侘しい印象を聴き手に与える。
 
つい最近飯島真理の直近の撮影動画、『愛・おぼえていますか』で腰を抜かしたばかりだったが、女性歌手は何故その年齢、その時のコンディションに適したアレンジや音域、表現に向かって行かないのだろうかと疑問に思う。
 


若かりし頃の声質が脳内ポップアップで回ってはいるが、実際に聴かされているのはそれとは程遠い別ものである点を、誰か指摘してあげて欲しいと思う。
私がプロデューサーだったら上の動画等、絶対に表には出させない。NGだ(笑)。
 

そんなこんなで私が今日一番びっくりした中森明菜の『TATTOU-JAZZ-』を、この記事の最後にご紹介しておきたい。
中森明菜の声は勿論ガッサガサだし、この曲に関してはバックのジャズ・アレンジもスッカスカで音楽には聴こえないレベルだ。
[Arranged by Mamoru Ishida (Pf.), Keisuke Nakamura (Trp.)]
 


あと口直し用に原曲の『TATTOO』をどうぞ。

( 作詞: 森 由里子/ 作曲: 関根 安里/ 編曲: 是永 巧一 )

桜と私

暫く体調を壊して休養していました。
その間に世の中が粛々と変化して行く様を、寝室の中で感じながら悶々としていました。
通りをひっきりなしに疾走する救急車の数が日増しに増えるその度に、世界から一つまた一つと消えそうな命の叫びが聴こえるようで、胸が痛みます。
 

ずっと桜の季節が嫌いでした。それは毒親の影響が大きいのでしょう。
毎年お花見とは名ばかりのイベントが計画され、その時その前日になる度に私は母親の不当な暴力を受けました。
目や腕の皮膚を母親の握り拳が激しく殴打し続け、お花見当日の朝になる度に私は全身痣だらけになりました。当然そんな姿でお花見など行ける筈もなく、否応なく私は留守番をすることに‥。
それが私以外の三人の家族にとって、ベストな状態だったのです。
 
毎年そんな状況が続き、私は最初から家族の中に存在しなかったように私以外の家族三人が、何食わぬ顔でお花見を楽しんで帰って来ます。
千円程度のお金がテーブルの上に置かれ、それで何か食べてね‥ とにこやかな顔で母に言われ、マクドナルドでハンバーガーセットを買ったり松屋で牛めしを買って、家で一人で食べました。
 
私は家族の中で、最初から存在を許されない人でした。
 
 

 
そもそも大のカメラ好きだった父の趣味を奪うように、私が家を出る頃になると母は (本来ならばそんなお金など無い筈なのに) どこかからか資金を捻出して高額のカメラを買い始めたことを、今でも覚えています。
特に桜が好きと言うわけでもないのに、このシーズンになると母は井の頭公園に行っては桜を撮って楽しんでいました。そしてマウントするのです、私や父に対して。
母は人に「先生」とか「アーティスト」等と呼ばれたかったのではなかったかと、今になるとそう感じるのです。
 
私が大学を卒業し24歳で家を出る頃には、すっかり桜が嫌いになりました。桜と母の虐待が記憶の中でセットになり、私を苦しめるからでした。
そんな私が今では大の桜好きに変貌し、それもこれも最愛の夫のお陰だと感謝しています。
 

2022年に前の家から転居し、それまで一人で桜を撮っていた隠れスポットを離れてしまったので、去年は殆ど桜の写真を撮ることが出来ず今年。
掲載している写真の桜は各々とても細く花付きもそれほど豊かではないのですが、構図次第では大木の桜の樹のようにも見せることが出来るところがカメラの不思議なトリックです。
上達したのは私の腕ではなくて、スマートフォンのカメラの性能(笑)。文明の利器を利用しない手はありません。
 
 

 
昨年実家を売却する際に遺品の整理をし、その最中に母が撮った花の写真を大量に見つけましたが、どの写真も焦点のぼやけたものばかり。写真と呼ぶに相応しくないものでした。
結局全部処分しました。
忌わしい記憶や思い出と完全に決別しなければ一歩も前進出来ないと思い、母自身が写っている写真も殆ど処分しました。でも、だからと言って私の中に在る辛い記憶と決別出来るかと言われたらそうではなくて、私の中には未だ両親や弟からの虐待や嫌がらせの記憶が息づいているのが苦しいです。
 
四方八方が敵だらけだった私の半生。
夫に「私は間違っているのかな?」と訊ねてみたのですが、彼は頑として「一つも間違ってないよ。」と言います。それは恐らく彼の本心であり、真実だと私も確信しています。
 
私がこのブログで、亡くなった弟の奥方 (Eri Y.さん) を含め親族の過ちについて綴り始めると、すぐさま Eri Y.さんの知人を名乗る誰かしらからInstagramにメールが寄せられました。その人物は私に、自分は知っているけれど私が知らない多くのことがある‥ と告げて来ましたが、実家の真実の最も近くに居たのは私であると言う確信は物理的な証拠として手元に今も在ります。
家族も親族も、私に知られては困る何かを私に探られることを懸念したから、私を実家から早々に追い出し一歩たりとも実家に近づけさせぬようにして、徹底的に親族の輪から排除したのでしょう。
 
 

 
上記の書類も、その証拠の一つと言えます。
 
今このタイミングでこのメモを読むと、母の話していた「家にはお金がないのよ。」と言う口癖が全くの嘘であることは明白です。
ですが母はどういう訳か清貧思想を深く心に持っていて、音楽高校に進学した私が経済的には豊かではない人を友人に持つように仕向けられました。それが私はたまらなく嫌で仕方がなかったので、その頃から私は親に内緒の収入を得る為にレコード会社にデモテープを持ち込むようになりました。
その夢さえも折に触れ母は妨害し、当時爆発的に売れた「爆風スランプ」のディレクターに無理矢理私を会わせましたが、感性の合わない人とは上手くやって行ける筈がありません。
 
[ 中略 ]
 

私は「暴きの星」を持っています。多くの虚偽が私を捉え、虚偽の側からそれを私にを暴いて欲しいと嘆く時、私の「暴きの星」が疼きます。
遠い過去世で私はジャンヌ・ダルクとして生きました。最終的にジャンヌは異端審問にかけられ、火あぶりの刑に処せられて最期を迎えています。その時周囲はほぼ敵だらけだったと記憶しています。
でもそんな中にも時折影の助っ人が現れ、彼等は自身が私の助っ人だとはバレないように私を何度も助けてくれました。
 

色々な記憶が渦巻き、それが自分の過去世だと分かるまでには数十年の月日を要しました。そして私自身を知る旅は困難を極めましたが、現在の夫が私を私自身に引き合わせてくれたのだと思っています。
 
今年はそう遠くない場所の桜のスポットでお花見を二人で楽しんで来ましたけど、いつかもう少し田舎に出向いて桜のシーズンを満喫したいと思っています。
 
桜と言えば、私の中では「木花咲耶」を連想します。何故かは分からないのですが、今日のお花見の最中も天界からずっと私たち夫婦を見守っていて下さいました。そして天照大神も‥。
自然神と大の仲良しの私は、日々の折々で彼等にとても救われているように感じます。
 
穏やかな日々がこれからも続きますように。そう祈らずには居られません。