シャトーブリアン

堰を切ったようにこのところ、物事が上手く行き始めたような気がします。それもこれも、長年私を押し潰して来た「圧」の根源が一先ず、この世界から消えたことによる影響なのでしょう。
ずっと「圧」には悩まされ続けて来ました。今治療途中の「ばね指」も「圧」による弊害の一つですが、少しずつ、薄皮を剥ぐように治っています。
 

勿論亡くなった母だけではなく弟(故)の嫁も含め、私を良く思わない人達全てが居なくなった訳ではないのですが‥、例えば弟・大輔(故)の嫁・りえさん(仮名)が(管理費の高い)同じマンション別階からひっそりと消えて転居せざるを得なくなったように、これまで私の前途を平然と押し潰して来た人達にそのツケが全て跳ね返って行く事になると思います。

母が亡くなる約三ヶ月半前の夏のある日、大きな霊団の手筈により(母が)霊体を剥奪された瞬間の音を聴きました。あの、妙な鈍く重い音はこの先一生、記憶から消えることはないでしょう。
その三ヶ月半後に、母は永眠しました。
生命と霊体との繋がりを、あの時程身近に感じたことは今までなかったと思います。
 
全ては母自身のこれまでの言動が引き寄せたこと。同情の余地はありません。彼女が招いた最期だったと、私は思っています。
 

近い将来、私は母が逝った後に残された実家をリフォームし直して、そこから第三の人生をスタートする予定です。
因みに実家マンションの管理費は、およそ一軒で15,000円/月ぐらいになります。我が家(実家の両親)は二軒分を一軒として最初に購入している為、物件の維持費は倍になります。そこに毎月積み立て修繕費がさらに管理費と同等額乗って来ます。

つまり部屋の維持費だけでも毎月数万円には上るので、流石に中医学関連店舗のバイト代を主な収入源に生計を立てている弟(故)の嫁・りえさん(仮名)一人では、このマンションの家賃の支払いの継続は無理だったと思います。
 

 
まだまだ前途多難ではあるものの、第三の人生に向けた一つ一つが一気に進み始めています。それもこれも、法破りな方法ではなく一個ずつを誠実に、何より私が肝に銘じるように人と正直に向き合っているからこそもたらされる、「神様からのご褒美」ではないかと私は感じています。
 

そんな私と夫の現実的な一歩(いえ、二歩から三歩‥)を祝し、昨夜は美味しいシャトーブリアンをたっぷりと堪能して来ました。
若干疲れが出ていた私も珍しく赤ワインを頂き、ライスは省いてその代わりに野菜サラダを多めに摂取し、栄養価を考えつつも味覚を大いに揺さぶってくれる内容の良い食事を堪能しました。
 

 
美味しい料理は「何を食べたか」に加え、「誰と食べたか‥」がとても大切な記憶として積み重なって行きます。さしずめ今の私は、夫と食卓を囲む時間に幸せを感じています。
 

昨夜夫と二人で、シャトーブリアンを食べながら思いました。
もしも弟・大輔(故)の嫁・りえさん(仮名)が最初から私に誠意を尽くしこれまでの詳細を全て正直に話し、尚且つ私の目を見て心から私に詫びを入れていたなら、共にシャトーブリアンを食べる未来があったかもしれないと‥。
 
亡くなった母は頻繁にりえさん(仮名)を呼び出しては、近くのレストランや和食のお店等でリーズナブルな洋食やお蕎麦などを食べに出掛けていたようです。私なんかよりしっかりとお金を貯め込んでいた筈の母でも、流石に気兼ねなくシャトーブリアンを、りえさん(仮名)と共に食べるようなことは無かったようです。
なぜならば母は自分には高価なものを、他者にはそうでないものを恩着せながら差し向ける人でしたから。
 
母はあくまで亡くなった大輔の身代わりとしてのりえさん(仮名)と、接していたのではないでしょうか。一人の人間としてではなく、あくまで彼女・りえさん(仮名)は弟(故)・大輔の身代わりでしかなかったと思うと、それはそれで何ともやりきれない気持ちになります。
  

 
かつて若かりし頃に少しだけ料理人もどきを仕事にしたことがあり、私の味覚はかなり冴えています。細かい調味料を全部言い当てるには至りませんが、食すことで多くの料理の情報を舌の上で吟味分析することが出来ます。
 
食べることが大好きだった母(故)や弟・大輔(故)はそれぞれ食の好みは違いましたが、もしも私を味方にしていれば、もっと多くの楽しい食卓を共有出来たことでしょう。
同様に、大輔(故)の奥様のりえさん(仮名)も、接し方次第では私から多くのものを引き出せた筈です。私は根っこは、ケチでも意地悪でもないので。
本当に残念です‥ としか言いようがありません。全ては因果応報、自身が発したものや心掛けは全て未来の自分に返って行きますから。
 

さて、この記事に貼り切れない写真が数枚あるので、そちらはサクっとInstagramに掲載しておきます。
 
57年目の私の春は、なんと解放的なのでしょう。美しい桜の花々を何度も愛で、そして木々たちと静かに会話を楽しむことも出来ました。
 

 

でも私の本当の春は、これから訪れます。
 

MinakoとPonta、そして”Town” (2002)

今日は楽曲ではなく一個のLive映像にフォーカスして、記事を書き進めて行きたい。

昭和生まれの私の青春は、この人‥ 吉田美奈子と共にあったと言っても過言ではない。その吉田美奈子と同世代に大貫妙子やユーミン、坂本龍一等が居て、この年代はミュージシャンラッシュだと言っても良いだろう。

だが私はユーミンでも大貫妙子でも尾崎亜美でもなく、やはり吉田美奈子の声を力強さを常に追い求め続けたが、遂に今日まで彼女のLiveに行くことが出来なかった。
忙しかったとかお金がなかったとか、色んな言い訳を並べ立ててももう時は戻らず、あの黄金時代の吉田美奈子に会うことは叶わなくなってしまった。
 

 

名曲『Town』は1981年11月21日にリリースされた吉田美奈子のアルバム、『MONSTERS IN TOWN』のオープニングを飾ってお目見えした作品だ。その後「ここぞ!」と言う時に吉田美奈子は必ずこの曲をリストアップし、多くのライブハウスをブイブイ賑わせて来た。

問題の「名演奏」は、吉田美奈子のLive DVDにも収録されているが、今回はYouTubeに個人がアップした映像のリンクを貼っておきたい。
  

 
これは2002年12月25日、クリスマスに行われたLive映像だが、もう兎に角凄まじいとしか言いようがない。
丁度この頃の私は前職・シャンソンの伴奏とその合間にアイドルグループのマネージメントのアシスタントに追われている最中で、吉田美奈子のLiveのスケジュールを追い掛ける暇もエネルギーもない状態で忙殺されていた。
 

オープニングのファンキーなギターはまさしくギターの神・土方隆行のソロでスタートし、その後から村上 “ポンタ” 秀一がバスドラでギターをグイグイと追い詰めながら、長いイントロの途中辺りから吉田美奈子が歌舞伎ソウルのように長いカーリーヘアを振り乱し、彼女のトレードマークの肘鉄ダンスで客席とステージの両方を湧かせて行く。
 

 
このLive映像の凄いところは吉田美奈子、そして各メンバーの競演は勿論のこと、全員が一体となって音楽を形成している点にある。
 
日本のPopsにこれが見られるのはきわめて稀なことであり、現在のJ-Popの多くがヴォーカリスト主導・その他のメンバーはエキストラの扱いを受けるのが主流であり、各パートが完全に孤立した状態で音楽として成り立っていないものが大半だ。

動画3:12辺りからいきなり始まるキーボーディスト・倉田信雄のロング・ソロは見事で、所々アドリブの粗さは見えるものの兎に角42kmマラソンを堂々完走して行くように楽曲の最後までアドリブの手を緩めない。そして休みなく、隙のないパッセージを繰り広げて行く。
その後から「オレの出番だぞ!」と言わんばかりに、土方隆行の長いギターソロが後を追う。

それは音のネヴァー・エンディング・ストーリーを生で視るような規模で、一糸乱れぬ正確かつクールで獰猛さをにじませたファンクギターで土方式 “Town” がステージを疾走して行く。

そして絡み付くような倉田信雄のアドリブと野太い村上 “ポンタ” 秀一のドラミングが、その野太さを控え目に控え目に抑えつつも楽曲の軸をしっかりと支えて行く。
 

 

残念ながら村上 “ポンタ” 秀一は、2021年3月9日に脳出血で逝去した。なのでもうこの偉大なメンバーで音の饗宴を聴くことは一生出来ない。

他のアーティストとの共演では特に感じることがなかったのだが、特に吉田美奈子と村上 “ポンタ” 秀一とのステージ上の掛け合いは見事である。
 
見た目のオーラのバランスは勿論、互いに見えない何かで深く繋がっているのを私はずっと感じていた。吉田美奈子にとって彼以外のドラマーは居ないだろう‥ と言う私の予感通り、最近の彼女はまるで生気が抜けたイワシのように声を振り絞って歌う姿が悲しげで、色々な意味でこのパワフルな音楽がこの先永遠に現れないことは残念としか言いようがない。
 

 

だが、全ての生は栄枯盛衰。どんなに華やいで見えても、いつかは乾いて枯れてこの世を去って行く。きっと私にもいつかその日は訪れる。
 
最近の吉田美奈子はジャズ系のピアノ・デュオとのコラボ・セッションをメインとし、日本の北から南を移動しながら細々と音楽活動を続けているようだ。勿論以前のようなパワフルな声は立ち消えてしまい、いわゆる老後の生涯教育のような歌を歌って生きているように見える。

動画Town (Live)が2002年の収録、と言うことは、吉田美奈子が49歳の時のライブ映像と言うことになる。女性特有の色々な物事が発生しつつも、桜で言うところの満開を過ぎて散り始めた頃に相当するだろう。

油が充満した後に揮発し始めた時のように、女性で言い替えると最もキツい香りを放ちまくる世代がこの、40代後半から50代後半と言える。私が今丁度その時期に差し掛かっているが、私の場合はどうなるのだろうか‥ と言う思いを抱きながらこの動画Town (Live)を、今日は何度も観て良い時間をじっくりと楽しんだ。
 

 

さて、この記事の最後に、多分上の動画と同じ頃に収録されたと思われる吉田美奈子の、この動画を貼ってお別れしよう。
この猛々しく、かつ神々しい吉田美奈子とその仲間たちの素晴らしいセッションを、とくとご覧あれ!
 

 

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音楽から読み解く世界情勢 [2022.04.04]

東京の桜は前半晴天に恵まれ、後半は雨に祟られながらも何とか小枝にしがみつくように花びらをまとわりつかせ、耐えているように見える。
一方世界は少しずつ混迷の雲行きを深め、それはここのところ配信される多くの音楽の傾向にも現れているように見える。

特に2022年3月25日から同年4月1日の両金曜日の、各サブスクリプションの新譜チェックは何とも陰鬱な気持ちで進んで行った。
特徴としては以下の状況が挙げられる。

ダブステップの楽曲、及びLo-Fi系の作品がとても多かった。
②単曲配信が予想以上に増えていた。(アルバムのような曲数の多い音楽の配信が少なかった。)
③一曲のタイムの短い作品が増えていた。

 

上に挙げた①のダブステップの楽曲が増える時は、世界が混迷の谷底に突き進んでいた前回のシリア内線の頃を思い出させる。無謀な理由で多くの人々が命を落とし、シリアが壊滅状態に追い込まれたのが前回の、ダブステップが世界的に流行した時期であり、現在もそれと似た状況がウクライナで見られるのは皮肉としか言いようがない。

人の気持ちがどこか、言いようのない臨戦態勢に陥っている証拠のようで、この状況をこんなに立て続けに見るとは想像していなかっただけに心が不安で大きく乱れて行く。
  

日本経済新聞より、現在のウクライナの光景の一部

 
穏やかで尚且つ心が晴れやかになるような音楽が聴きたいのに、特にこの二週間の中で更新された音楽の大半が重く、暗く、どんよりとした空気に満ちていた。
それでも何故かそのような重苦しい音楽が聴きたくなるのは、恐らく人間の本能のようなものが作用しているからに違いないとさえ思えて来る。

 

 
コロナ禍、ウィルス・パンデミックが塗り替えて行った世界をその上からさらに異常気象が襲い掛かり、そこに戦争が折り重なって行く、この時代に受け入れられる音楽を真剣に考えている人達はほんの一握りであり、多くの音楽家たちは「目先の金銭を得ながら生き延びる為の音楽」や「自己実現の為の音楽」を生み出すことで手一杯に見える。
 
それを作者自らの、或いは楽曲のPRを任された広告担当者等が美しい言葉で言い替えながら、各サブスクリプションから配信されるどこかうつろなメロディーは、瞬時的に世界の空を流れては行くが、殆どの音楽が人々の心に着地することなく上空でひと夏の花を咲かせ、枯れて行く運命にあるように、私には見えて仕方がない。
 

上に少しだけ触れた「ダブステップ(Dub Step)」の他にもう一つ、「ダブ(dub)」と言うジャンルがあり、此方は比較的コンスタントに様々なアーティスト(DJ系がメイン)が作品を配信しているようだ。

ダブ(dub)は、レゲエから派生した音楽制作手法、及び音楽ジャンルである。ダブワイズ(dubwise)とも呼ぶ。ダブ制作に携わる音楽エンジニアのことを特にダブ・エンジニアという。語源はダビング(dubbing)であるとされている。
Wikipediaより引用

 

だが最近流行っているダブ(Dub)は上記のダブとも異なっており、ワンパターンのリズム、ほぼワンコード & ワンベースの上に黒玉で言うところの「ドミソ」のような3音で形成されるブロックコードが団子状態で延々と継続しながら、レゲエでも何でもない単調かつエレクトロニックなリズム帯で構成された音楽の事である。
 

 
 

 
そんな薄暗い地上の真ん中に一組だけ、何とも言えず鮮やかな色彩を放つアルバムを見つけた。
La Isla Centenoと言う、多分コロンビアないしはメキシコ発祥のユニットがリリースしたアルバムCanciones Para El Volcánだ。
 
このご時世の悪い現象が幻覚なのではないかと思わされるような、この甘くて太陽の匂いのする音楽の花束をふと胸の中に抱きしめたらもう、現実には戻れなくなりそうで怖くなるほどの多幸感で満たされて行く。
 

 
 
根が南国の血を引いているせいなのか、こういう南の島に咲く花のような音楽を聴くと、どうしても血が騒ぐ。もう黙っていられないのだ。
同系統のユニットでもう一組、私が大好きなユニット「Monsieur Periné」からも丁度3週間前に、『Nada』がリリースされている。

 

 

このPVの内容がとても怪しげで美しいので、楽曲最優先の私がどうしても画像に目を惹かれながらこのPVを何度も何度も凝視し続けている。

この地域に見られる独特の宗教観と性認識の在り方が私は好きで、この種のPVを見つけるととことん堪能し尽くすまで貪ってしまうのはやはり、芸術家の性(さが)なのかもしれないが。
 

 
世界はこれからどこに向かって突き進んで行くのだろうか‥。
ここでタイミング良く「ウクライナのポップス」をご紹介出来れば良かったのだが、色々聴いてみたものの私があえて紹介する程の作品が一曲も見当たらなかったのはきわめて残念だ。
勿論音楽は好みに左右されるところが大きいとは言え、「これぞ!」と言う作品が結局一曲も無かった。

と言うわけで、この記事の最後は若干変わり種ではあるが、アラビックモード満載なこの一曲の動画を貼って記事を〆たい。
Jovanotti と Enzo Avitabile、両者共にイタリア人なのに醸し出て来る音楽はアラビックモード満載‥ と言う不思議な作品『Corpo a corpo』を、最後にお一つどうぞ。
 
※先週更新したばかりのDidier Merah監修のプレイリストMiracle of Spring 2022. ③の103曲目にも収録しています。
  


※歌詞は コチラ から読むことが出来ます。

 

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私と桜と神様と

久々にスピリチュアル系の記事を書いています。‥と言うのも、ここ数日間の桜の花々が余りにも美しく、ずっと見上げているとこれまでの全ての苦悩や悲しみが一斉に洗い流されて行くような感覚になったからです。
 

40代前半、現在の夫と結婚するまでの私は、とある理由により、大の「桜嫌い」でした。
かれこれ20代前半に私は実家を出ていますが、それまでは毎年春になると家族で「お花見」と言う名の過酷な修行が控えていました。
私にとって、家族の行事は常に虐待と隣り合わせでした。
 

ここ最近のブログ記事にも綴っているように、私は生まれ付き顔に刻まれた大きな傷跡(呼吸器障害と連結していますが‥)が理由で、両親に「みっともない女児」として扱われ、家族や親族の行事からは常に排除され続けて来ました。
冠婚葬祭は愚か、夏の旅行や春のお花見その他の全ての行事の直前になると、私は決まって母の謂れのない暴力を受けていました。理由は何でも良かったのです、母にとっては。
私が良からぬ行動を起こし、「こんな状態では旅行になど行けないわね。」と言う理由を母は毎年無理矢理作り出し、人前に出られない程の青い痣が顔じゅうに広がるまで彼女は私を殴り続けました。
 

当然そんな状況ではお花見どころではなくなり、家族がお花見に行っている間私は否応なく自宅で留守番をせざるを得ない状況になり、毎年春のこの時期になると、(24歳で実家を出た後でも)私はそのトラウマと格闘しなければなりませんでした。
その影響で、春の鬱は私が現在の夫と結婚するまで付き纏いました。

 

 
ですがそれは、ある事を機に改善されて行きます。

記憶にある限りで書くと、2010年3月にKono Hana Sakuyaを録音した時が最初でした。

 


そして二度目が、2018年にリリースしたアルバムWa Jazzの中で、天照大神(あまてらすおおみかみ)を描いた時でした。
 

 

これはこのブログのこの記事で初めて書くことですが、アルバムWa Jazzのアートワークの「和」を久々の書道で描いた直後に私は、天照大神と或る約束を交わしました。
それは、「より強く天照大神と私とのパイプを深める意味も含め、毎年神様の頬を撫でるような優しい思いを心に、桜の花々を愛でること」です。
 
この約束はどこか私自身のマインドのブロックを開放させてくれるような意味合いを持っており、それから私は毎年、何れかのSNSやInstagram、時にはFacebookの個人アカウント(現在は執筆停止しています)等に、その年の桜を沢山撮影し、収めて来ました。
勿論デジカメを未だ持っていないので、これまで掲載して来た桜の写真は全てスマートフォンで撮影したものになります。
 

 
これはこの記事に書こうかどうか迷ったのですが、お姫様(天照大神を私は普段、こう呼んでいます)に「書きなさい」と言われたので、そのままここに書きますが‥。
 

最近よく言われる「低級霊」と言う言葉について。
この言葉に表されている「低級霊」は現実的には、存在しないとのことです。お姫様(天照大神)の直々の言葉なので、これは間違いないでしょう。
 
※よく「低級霊」を動物霊のようなものとくっつけて考えているヒーラー未満の人達の話しを聞きますが、土台動物や人間以外の生き物の言葉や思い等を理解出来ない人間に、動物霊を語る資格はありません。なので、以後動物霊や低級霊等を引き合いに特定の個人の霊格を貶めるような文言を見掛けたら、それは全て、その言葉を発した人から特定の人物への個人攻撃或いは嫉妬心の代弁だと思った方がベターです。※
 
理屈は至ってシンプルです。
ものの「霊」とは、生前の所業によって決定されます。つまりその生命が生き物として生きていた時分にどのような功績を残したのか‥ が、死後の霊格の基盤になると言うのが一つの仮説。
もう一つの仮説は、その「生」がそれまで歩んで来た命と振舞いの変遷(例えば陰徳をどれだけ積んでいるか‥等)が、死後の霊格の基盤になると言うものです。
 

私の場合はリラ星に巫女として生きた時代からの長い月日とその間の陰徳を霊体が積んでいる為、上記の両方を跨いでいると言うのが神々の共通認識としてあるようです。
 
但し私の霊体の基盤が人間離れしている為、私がその現世現世各々でどれだけ普通に振る舞っても、そこには既に「高い霊格」が付いて回ります。
つまり私が人間としてだけではなく、仮にその他の生き物に生まれ付いたとしても、降臨した段階で既に高い霊格を持っている為、なかなか普通の世界に馴染みにくいと言うデメリットを併せ持っているとも言えるかもしれません。
逆にそのデメリットの裏返しとして、私がどんなジャンルで何を行ったとしても「普通」の枠をあっさり超えてしまう為、余り庶民的な人との関わりを持たない方が物事が上手く行くと言う、何とも言えない特徴もあるようです。
 

人と馴染めないことには色々な理由がありますが、「私の場合はそもそも庶民的な現世世界が私の馴染むべき世界ではない為、無理に馴染む必要がない」と言うのが、これまで密かに関わって来た神々の共通の回答として弾き出されています。
 
この「馴染めない」を強引に「価値のないもの」とか「低級霊に取り憑かれている」‥等と言う現象と結び付けようとする人が一部居るようですが、そもそも「低級霊」と言う実在しないものを引き合いに持って来る段階で、ナンセンスとしか言いようがありません(笑)。
 

 
私は常に孤独であり、孤高です。
過去と現在と未来を同時に見据え、その世界に何をもたらせば最も良い世の中になるのか‥ と言う事を常に考えて生きています。
それは個人的に関わっている誰かに特別なクーポンをもたらすようなものとは全く異なる為、至って表面的には地味に見えます。現世的には「何もしていない人」のように見られることも多々あるようですが、私は別に構いません。
 

今日、実は生まれて初めてモンブランの高額な万年筆を購入し、今その感触を堪能したところです。
本物に触れると、それまで触れて来た本物未満との大きな差に気が付きます。勿論本物未満にはそれはそれの良さがありますが、本物に触れた後にはもう、それ以前には戻れなくなります。
本物以外を必要としなくなるのです。

 
スピリチュアルもそれと同じです。
他者の、私に対する評価も同様です。実際に私と深く関わった人の中に、私を悪く言う人は居ません。(勿論、マウント目当てで最初っから私に対し、いつかマウントを取ってやろう‥ と目論んで近づいて来た人については、これには当てはまりません。)
 
確かに私はとても難解な人間であることは重々承知ですが、芸術家なのだから当然の事です。むしろ、いっつもペコペコ人に頭を下げて身の丈よりも小さくまとまっている方が、余程不自然です。
 

 
この記事の最後に、2018年にリリースしたアルバム『Wa Jazz』から、天照大神(あまてらすおおみかみ)の威厳と慈愛を余すところなく表現した『Miyabi』(YouTubeのDidier Merahのトピックからの引用)を掲載します。


【予告】
近日中に、亡くなった私の弟・大輔との思い出話と近況を綴ります。

 

私の半生と苦痛 – ⑥遺産横取り計画の全貌

 

弟(故)・山田大輔の妻「りえさん(仮名)」について、少し触れてみます。
これは実家の遺品整理中に発掘した「身上書」からの引用です。
 

弟(故)・山田大輔の妻「りえさん(仮名)」 経歴

千葉県某所出身。開業医の長女として生まれる。
慶應義塾大学 薬剤部卒業。
職業は薬剤師。
「大学病院では主に抗がん剤治療に携わっていた」と、勤務先のウェブサイトに記載されています。
 
家族関係は両親と妹が一人。多数の親族に恵まれている様子。
ある時期を機に西洋医学から中医学に魅了され、漢方の世界に入り、現在に至る。
 

弟に結婚を勧めたのは、姉の私でした

弟(故)「山田大輔(本名)」とのなれそめを私は知らないのですが、2012年に私が父の遺産整理の過程で実家に帰った時に、大輔本人から聞いた話しによればその時点で「りえさん(仮名)」とは既に10年強の交際期間があったとのこと。
その会話の中で大輔に結婚を勧めたのは、姉である私でした。

「そんなに良い人が居るんだったら、モタモタしてないで早く結婚してもいいのでは?」と言った会話を、今も忘れません。
その会話から数時間後に大輔の携帯電話に「りえさん(仮名)」から連絡があり、その電話で大輔が「今、姉が帰って来てるから詳しいことは後で‥」と言ってリビングを出て内緒話しをしていたので、「りえさん(仮名)」が私に2021年12月26日の電話で私について「全く存じ上げませんでした。」と言った言葉は明らかに嘘です。
 
弟(故)・大輔と私が実際に目を見て話しをしたのは結局、2012年の晩秋が最後になりました。その後大輔とは何通かのメールの末にふとしたことが原因で文字の口論になり、それが切っ掛けで疎遠になりました。
そのまま大輔は私に対して憤慨感情を継続させ、姉の私を招待しない方向で一世一代の晴れ舞台である結婚式へと突入して行きますが、死後の大輔本人から聞いた話しには伏線がありました。
 
結婚式直前で、「やはりこのままでは良くないのではないか‥」と母や「りえさん(仮名)」、数人の親戚或いは友人に相談をしたようですが、そこで「精神薄弱児をそのようなおめでたい席に招くのは如何なものか‥」と釘を刺されたとのこと。
そのまま押し切られるように、姉である私に秘密のまま2014年秋に大輔と「りえさん(仮名)」の結婚式は開催され、その一年後に大輔は持病の悪化と急変により、亡くなりました。
  

弟・大輔逝去後の「りえさん(仮名)」の変遷

大輔が亡くなった後、「りえさん(仮名)」と母・山田雅枝との関係性は大輔の生前にも増して深くなり、双方共に色々と心に思惑を抱いた状態で交流が続いて行きます。
※これは母の遺品から見つかった複数のメモの他、(生前に)母が誤って一斉送信したメールの原文等からその様子を推しはかることが出来ました。
 
母の毎年の手帳メモには、毎年年末に訪れる「りえさん(仮名)」の誕生日プレゼントのメモ書きが詳細に記録されており、未遂に終わった2021年・年末の「りえさん(仮名)」へのプレゼント予定は、どうやら「ローストビーフ」だったと言うことも分かっています。

 
又、両親の親戚関係のイベントの中にも母は悉く「りえさん(仮名)」を連れ回していた形跡があり、その中の一つが以下のように写真に残されていました。
 


左から「りえさん(仮名)」母・山田雅枝、従妹(A家)の「なみさん(仮名)」、一番右が同じく従妹の「えみさん(仮名)」です。

 

この記事のタイトルになっている「遺産横取り計画の全貌」の主役として、従妹(A家)のえみさん(仮名)」「りえさん(仮名)」と連盟でS弁護士に「山田雅枝様相続の件」で相談依頼を持ち掛けていますが、二人共に山田雅枝の遺産を相続する権利はありません。
あくまで私に内密に、私を阻害しさえすれば山田家の遺産を相続出来るかもしれない‥ と言う安直な欲深さが、彼女等を急き立てた結果の暴挙と言えるでしょう。
 

「遺産横取り計画書」と思われるメモの中に、母が度々「自宅をりえさん(仮名)とえみさん(仮名)に譲りたいと思っている。」‥ と言っていたとかいなかったとか、そのような記載がされていましたが、自分の過去の経歴(母自身の離婚歴その他)を隠し通す為に娘を長年虐待し続け弟にさえその事実を隠して来た人。

そして母自身がかなり大きな財産を隠し持っており、兎にも角にも「大輔、大輔のため」と言う理由で私の人権を奪い続けて来た人が、いざ、大輔が心臓に爆弾を抱え大きな手術をした時に大輔の入院費や治療費を一銭も出さなかった人です。
そのような人が自分以外の他人に本気で財産を譲ること等、絶対にあり得ません。
 
※結果的に大輔は母の虚言を最後まで信じ通し、母にはお金がなくてとても辛い思いをしている‥ と思い続け、それが実は全くの嘘だったことを死後に知ることとなった大輔の心情を思うと、流石に姉として私の方が辛くなりました。
母、山田家の全てが嘘の上に建てられた虚像の城だったわけですから。
 
又そのような戯言を真に受け、欲の皮を突っ張らせた上、依存するような「りえさん(仮名)」や従妹の「えみさん(仮名)」にも、問題大ありです。
 
母はどうやら「りえさん(仮名)」に母名義の携帯電話を渡し、その電話料金を母名義のクレジットカードで支払っていた形跡が見られ、さらには毎月「りえさん(仮名)」にお小遣いまで渡していた‥ とのメモ書きも、母の遺品から見つかっています。
ですがそれは自宅を譲りたい云々とは関係のない言動であり、「本物の娘=精神薄弱児」と言う偽造の設定が生み出したもの。
母は人生の復讐を遂げるかのように偽物の娘に依存し続けながら、自身が孤独に陥ることのないよう身を守っていただけのことだと私は見ています。
 

遺産横取り計画の全貌

さて、前置きはこのくらいにして、領収書と一緒に見つかった「遺産横取り計画書」とでも言うべきもののコピーを、この記事の最後に公開します。
 
母の亡くなった家に入り、母のバッグや持ち物、通帳等を丹念に家探しした上、親族でもないあかの他人が法定相続人を出し抜いて弟が懇意にしていたS弁護士と共にこのメモを作成し、それに対して「実費預り金: 50,000円」を受け取った上で弁護士も相談依頼を受けていました。
この写真を見て、誰の言うことが真実なのかどうか、是非ともご自身の目でご確認下さい。
 

私の半生と苦痛 – ⑤遺産横取り計画

「静かに弔いたいので‥」 

2021年12月26日夜、亡くなった母の携帯電話から弟(故)の嫁 りえさん(仮名)が放った、この印象的な言葉が今でも耳に焼き付いて離れません。
そして彼女のこの言葉の裏にある不穏な残響をあの時私は確かに聴き取り、その電話の後、心を落ち着けながら何度か亡くなった母の携帯電話に連絡を入れますが、ただ一度の彼女からの折り返し電話の後、とうとう彼女は私からのその後の電話を取りませんでした。
 
私が母の携帯に連絡を入れたのは2021年1月6日以来、約一年振りのことでした。
母は一応クリスチャン‥ と言うことで我が家では通っていた為、毎年クリスマスシーズンは何かと行事に追われていると言う体(てい)で外出が増えていました。
 
晩年の母がクリスマスをどのように過ごしていたのかについては、考えるまでもありませんでした(あくまで結果論ですが‥)。
でも、いつも通りであれば昨年2021年もきっと忙しくしているかもしれないと思い、私はクリスマス明けに一度電話をしてみようと思い、母の携帯に連絡したのが2021年12月26日でした。
 
2021年12月26日、昼間に数回連絡を入れたのですが繋がらず、夜遅くになって母の携帯電話に再度連絡を入れるとその電話に、「もしもし!山田雅枝の携帯です!」と、まるで飲食店に足を踏み入れた常連客を迎える店員のような元気な声で弟(故)の嫁 りえさん(仮名)が電話口に現れました。
 
簡単な挨拶を言った後に私が「ところで何でこんなことになっているのですか?」と質問すると、りえさん(仮名)はさっきの元気な接客口調で「頂いた電話でこんな話しもなんですが、実は12月1日にお母様がお亡くなりになられました!」と、まるで俳優にグラミー賞の受賞の連絡でも入れるような元気な口調でたたみかけて来ました。
 
続けて彼女は、「義母の逝去の件やその後の一連の詳細その他については一旦自身が決めた弁護士に相談をした後に、弁護士経由であらためて年明けに私に連絡をしようと思う。」と伝えて来ました。
ですが既にその時点で直接りえさん(仮名)と私とが連絡が取れているのだから、以後の連絡事項については直接やり取りがしたいと思いその旨をりえさん(仮名)に話すと、「こういうことは弁護士を間に挟んだ方がいいので‥。」と、彼女はあからさまに口ごもりました。
 
間髪入れずに母の死因について私が質問をするとりえさん(仮名)は、「はぁ‥、多分‥ 老衰だと、思う‥ のですが‥。」と釈然としない口調でそう言うとその後に、こう付け加えたのです。

「年末は静かに弔いたいので、年が明けてから弁護士経由であらためてご連絡します。」と。
その言葉に私は、「貴女は興奮すると、ところ構わず大声でわめき散らして事を荒立てる頭のおかしな人なんでしょう?だから兎に角しばらくの間、静かにしていて下さいね!」と、暗黙に私を気のふれたおかしな人だと念を押すような心情が強く込められているのを感じました。
 
以後の連絡手段についてもう一度質問を投げかけると、りえさん(仮名)は「山田家関連はこの電話に集約したいので。」と言い、自分の連絡先に関する情報を私には一切伏せた上で、亡くなった母の携帯電話のみを連絡先に指定し、用事がある時はショートメールを使うようにと私に指示しました。
 
余りの彼女の物言いに私は一瞬圧倒されましたが、それよりも2021年12月1日の「母の永眠の件」を25日間も私に黙っていた、彼女の言動と動機の方に私は不穏と疑いの感覚を持ちました。
そして12月1日から25日間の謎の空白に、強い疑念を感じました。
 

時系列 箇条書き

2021年12月1日 母(山田雅枝)逝去。
 
2021年12月5日 
弟(故)の嫁 りえさん(仮名)は遠方から伯母の娘の二人の従妹姉妹の なみさん(仮名)えみさん(仮名)を呼び出し、りえさん(仮名)が所持していた合鍵を使い、3人で実家に突撃。実家玄関で倒れて亡くなっている母を発見(第一発見者はこの3人)。
  
2021年12月9日
母の死亡届がりえさん(仮名)によって、役所に提出される。
 
2021年12月10日 
麻布教会にて、りえさん(仮名)が喪主となり麻布教会で葬儀が執り行われる。その後喪主 りえさん(仮名)が母を火葬する。
※この間の全てのプロセスは私に無断・内密に執り行われました。
 
2021年12月20日
りえさん(仮名)と従妹の妹の方のえみさん(仮名)が二人連名で、弟が懇意にしていた弁護士を訪ねる。
案件は「山田雅枝様相続の件」
 
2021年12月26日
クリスマス明けに私が約一年ぶりに母の携帯電話に連絡を入れる。その時りえさん(仮名)に初めて、母が2021年12月1日に逝去していた件を告げられる。
 
2021年12月27日
早朝、りえさん(仮名)が所有している母の携帯電話にショートメールで、「至急実家の鍵と母の携帯電話を返却して欲しい」旨、伝える。
 


 
2021年12月29日
正午近くにりえさん(仮名)が発送したレターパックを受け取る(差出人の住所は実家)。
中に電源を入れっぱなしの母の携帯電話と、実家の合鍵と思われる鍵が梱包されていた。
手紙は無し。
同日午後、急遽夫と実家へ行く。りえさん(仮名)から昼に送られて来た鍵が、実家の合鍵であることが判明。

廃墟同然に変貌した室内に茫然とするも、気になる箇所をチェック。母宛ての未開封の書類や手紙の一部を開封し、一旦帰宅。
 
2021年12月31日
リビングの死角となっている段ボールの中から、「山田雅枝様相続の件」と書かれた領収書ともう「遺産横取り計画書」とでも言うべき書類が見つかる。
 
 


to be continued…

私の半生と苦痛 – ④Yellow Sky – 黄色い空

直前の過去世のイタリア、トスカーナの空はいつもどこか緑がかっていたような記憶があります。でもそれは美しい自然の色、地球の色彩の一部だったと思います。

幼少期、多分5歳から6歳、地元の教会幼稚園に少しだけ通って卒園する前に(ある理由により)やめることになった後の私は、両親からの心身への尽きない暴力(虐待)によって少しずつ身も心も叩き壊されて行く過程にありました。
子供にとって、親は絶対的な存在です。なので当時の私は自身の過酷なまでの両親からの暴力は、誰もが経験する普通のことだと思っていました。
 
ピアノの練習と共に始まる母親の暴力を母自身は英才教育だと言い、それは毎日止むことなく公然と行われていました。彼女は何故か私の目(眼球)を狙うようにして、自分の手の関節で私の目を何度も何度も殴りかかって来ました。
特に理由があったかどうかと訊かれたら、私にもそれはもう分かりません。ですが私ののんびりとした動作や、子供離れした私の一言一句が彼女のカンに障ったのでしょう。
兎に角何かと口実を付けてはマンションの一室にある北の練習部屋のドアを乱暴に開けて、私の目を狙っては何度も何度も幼い私を殴り続けました。
 
その合間に母は何事もなかったように夕食の支度をし、煮ものが一個仕上がると私の部屋に来ては又私の目や頬を殴打し、一通り殴り終えると又夕食の支度に取り掛かり、次は家族4人分のカキフライに衣をまぶし終えると又私の練習部屋に来ては、先程の続きのように私の目を何度も何度も殴りかかりました。
 
当然私に抵抗すること等許される筈もなく、私の右目は真っ赤と真っ青の中間のようなおかしな色になって腫れ上がり、冷水で顔を洗う時にまでその箇所がズキズキと痛むような、子供が普通ならば経験し得ないような痛みを常に引きずっていました。
 

 
頭上に広がる空がずっと黄色かったことも、当時の私にとっては普通のことでした。クラスの友人が時折つぶやく「空が青くて綺麗‥。」と言う言葉の意味がよく分からず私に視えている空はずっと、緑がかった黄色のままでした。
 
私が小学校の低学年の頃、夏になると殆ど毎日のように光化学スモッグ警報が発令されました。その空を見ていたクラスメイトたちは口々に、「今日は空がいつもより黄色いね。」と言うのですが、私にはいつもとさして変わらない普通に黄色い空に見えていたので、いつからいつまでが光化学スモッグ中で、いつからいつまでがそうではない空なのか‥、全く見分けが付かなかったのです。
それよりも時折、視界の真ん中に誰かがカッターで勢いよく紙を切るような線が走ることがあり、それが私の目の異常から来るものだとは知らずに「こんなものなのかな。」と思いながら過ごしていました。
※後に私が33歳の時に出会ったアメリカ在住(アメリカ系ギリシャ人)の精神科医によってそれが、母親からの虐待によって発症したPTSDの現象の一つだと判明します。
 

小学校低学年の頃から私は自分では気づかない何かしらの色々な能力を学校の教師に買われ、英語の朗読の会に急遽出場が決まったり、お習字の都展にエントリーが決まったり‥ と、両親の想定外のイベントに引っ張りだこになって行きました。
当然それらは課外授業の一環として部活のように「午後練」の時間が設けられ、私は親に内緒で午後練にひっそりと参加していました。
私にとってはそれがとても楽しい時間であり、安らぎのひと時だったのです。
 
お習字の都展にエントリーする際には半紙に二文字を書く、シンプルな稽古を何時間も続けることになり、放課後の校舎に残っては夜遅くまで何度も何度も「希望」と言う字を書き続けました。
母が一切介在出来ないこの時間は私にとってはとても神聖な静寂の時間でもあり、私は心ゆくまで「希望」の二文字を書き続けました。でも日も暮れて夜6時にもなると、母親が黙ってはいないのです。
静かに文字を書いている校舎の2階の教室に怒鳴り込んで来て、「一体いつまで続くんですか?もう外は真っ暗なのに!」と言い、監督の教師に怒鳴りかかった声を今でも私は忘れることが出来ません。
 

 

母の異様な形相を見た担当教師は慌てふためきながら、「もうあと一枚で仕上がるところなんですよ。もう少しだけお待ち下さい。」と言い、母親を別の教室に誘導すると私に目配せをして、「ゆっくり書いていいからね、落ち着いて。」と言って15分近く母の話し相手になってくれました。

その間に私は、5枚分の「希望」をしっかりと書き留めました。
そして各半紙の左隅に自分の名前を小筆で書いてそれを黒板近くの大きな箱に一枚一枚置いて、別室で大声で喚き立てている母の元に向かいました。
すると母は教師には見えないように私の手の甲をこれでもかと言わんばかりに思いっきりつねって、顔ではにっこりと微笑みながら「さあ、早く帰ってピアノのお稽古をしなきゃ!」と言って、私を教室から引きずり出しました。
 
家に帰ると室内が黄色く染まっていました。当時の私の目には、白熱灯の光も黄色く視えていたようです。しかも明るさが他の人が見ているそれよりも若干暗く写り込んでいた事を、33歳の私の心の病を診断したアメリカ人の精神科医によって後から知りました。
 
私のPTSDは小学校低学年にして既に発病していたのでしょう。
青空を知らぬまま私は高校生になり、それが改善されないまま大学に進学すると、私の視界に映り込む横断歩道の白線までも黄色く染まり、当時の私が五線紙の白い紙の色さえも認識出来ていなかったことを後から知りました。


牛乳やお豆腐、ヨーグルトや体操着の「白」が私にはずっと黄色に視えていたのですが、それを不自然とは思わないまま大人になった頃には、私の心は常に恐怖心との戦いに怯え、その合間に時折この世のものとは思えない何かの影に付き纏われるようになり、今思えば私は崩壊寸前まで壊れていたように思います。
 
ですがそのような最中でも私は、社会性だけは放棄しませんでした。
なので母や生前の弟がもしも私のことを「ピアノだけは弾けるかもしれないけど、突然奇声を上げて所かまわず大騒ぎをする気のふれた人だ。」‥ 等と言っていたとしたら、それは全くの嘘偽りです。

もしも私をそういう人だと誤解している人がいらしたら是非、私に対する認識を改めて頂きたいです。
 

to be continued…

混乱の時代と音楽家たち

毎週金曜日は各音楽系サブスクリプション上での「新譜チェックの日」と決まっていますが、特にこの2週間の世界各国の新譜には翳りが見えるように思えて仕方がありません。

全体的に見てフルアルバム形式の配信が少なくなっており、EPないしはシングル曲で配信の頻度を上げている音楽家が目立っています。
長期的な制作時間を要するアルバムで配信の頻度を下げるよりも、毎月1曲ないしは2曲、人によっては毎週1曲ずつ楽曲を更新しているケースも頻繁に見られ、それだけ多くのミュージシャンや表現者たちが将来的な不安を感じているのではないかと言う、これはひとえに表現者等のメンタル面の不穏が強く露呈した形とも言えるかもしれません。

確かに私自身、手の負傷の長期化も原因しているとは言え、コロナ禍から戦争、異常気象等のニュースと常に接しているがゆえに、流石に長期的なスパンで音楽を創る環境にはないと言うことを痛感しています。
かと言って日和見的に単曲を更新して行こう等とは思っていないとしても、そう言う活動形態に陥ってしまう表現者等の心情は重々理解することが出来ます。
 

ここで重要なことは、各表現者が何を生み出そうとしているのか、という点だと言えるでしょう。
作品を生み出そうとしているのか、それとも商品を量産してお金に替えることを重視しているのか‥等。

これはあくまで主観ですが、特にヨーロッパを中心とする一部の音楽家の中に「ロング・Covid」の傾向を感じます。常に倦怠感に見舞われ、踏ん張りが効かなくなっているような、そんな印象を楽曲の中からも強く感じています。
 

特に新型コロナワクチンの接種に於いて、私は「反対」あるいは否定的な意見を持っています。
そもそも現在は未だ治験中のワクチンを無責任に接種させる世の抑圧の傾向に問題がありますが、その流れに逆らうことの出来ない社会的弱者が音楽家や芸能関係者等に多いことも又要因の一つなのでしょう。

結局世の流れの負を請け負うのは、きまってこういう社会的弱者たちなのです。
 

 
主にSpotifyを利用しながら毎週末、私はメインのプレイリスト+αの複数のプレイリストを更新しています。
メインのプレイリストではジャンル不問で多くのその季節の新譜を中心に、ざっくりとジャンル紹介も兼ねてスクラップしています。その他はジャンル別に、そのプレイリストのテーマに応じてさらに細かくスクラップしています。
 

今週は各新譜の単曲が全部で170曲余あり、その中でアルバム配信されているものを全てチェックして行くので、合計2,000曲近くを一日の半分を使って聴き込んで行ったことになります。
特に現在は、Spotifyを初めApple MusicとAmazon Musicの3つのサブスクリプションを同時並行的に動かしている為、今日は7時間近くの時間を費やして新譜のチェックをしたことになります。
 

 

今週の更新は、[M-94 “Nada” – Monsieur Periné] からになります。
普段は比較的陽気な楽曲を配信している Monsieur Periné が、今回は喪失感を強く表現したネガティブな新曲を出していますが、これが彼らにとっては珍しく大曲となっている辺りに時代の陰を感じずにはいられません。
必聴です。
 

 

※余談ですが、ここのところnoteから配信している音楽評論記事が立て続けに、note公式のマガジンにスクラップされています。

https://note.com/note_entertain/m/m483015f01945

 
これまでは比較的レアな楽曲を紹介する為に綴って来た音楽評論ですが、やはり私も人間ですし食べて行かなければなりません。その為には多くの読者やファンを、私の記事に集めて行く必要も感じています。
 
コンテンツの質の向上も目指しており、ここからは題材素材を吟味しながら多くの読者にヒットし得る執筆についても考えながら、各記事を更新して行きたいと思っております。
その為、記事と記事の配信の間が若干空くことにもなりますが、その分内容をギュっと凝縮しながら執筆して行きたいと心しているところです。
 
何卒記事をご拝読の折には是非、note記事からサポート等(投げ銭)で応援頂ければありがたいです。
よろしくお願い致します。

https://note.com/didiermerah
 

 

内容を限定し、お仕事の依頼を受け付けております。
音楽配信を目的とした楽曲作成のオーダーの他、音楽評論、レビュー or ライナーノート執筆、ラジオ番組用のBGM選曲、雑誌連載執筆及びYouTube出演や対談等、諸々用件・案件は、Twitter のDMないしは 📨[info@didier-merah.jp] ⇦ までお寄せ下さい。

音楽評論に関しては、世界中(演歌とヘヴィメタル以外)の音楽を分析・検証し、語り尽くします。
オーダーを遥かに上回るクールで奇想天外な記事を、筆者の豊富な脳内データから導き出して綴ります!

私の半生と苦痛 – ③荒れた室内と母の晩年の訳詞

 
弟も、そして母も、本質の部分では似ていたのかもしれません。
誰かが作り出した軋轢、それが段々と角質のように厚い層を作り、頭のてっぺんからつま先まで一つの家庭を数十年掛かりで覆い尽くして行きました。
 
母が10年近くをかけて作り出して行った我が家の廃墟のような室内を今、私と夫の二人でコツコツと整理している最中です。その最中にも人の本性や本音は見え隠れし、言い方は良くないかもしれないのですが母も弟も、音楽と言うジャンルで私を超えよう‥ 超えよう としていたように見えてなりません。
 
その証拠に最期にきっと母が座っていたであろう茶色のソファーの、その脇にあるガラスのテーブルに何故か一枚だけ、私が音楽監修を務めた時のCDをコピーしたMDがひっそりと置かれていました。
それはMDを渡した私にしか知り得ない母からのサインのようで、少しだけ胸が締めつけられます。
 

 
生きていればどこかに、「超えてはいけない壁」が存在します。私にとって恩師 三善晃氏自身がそうであったように、仮にその壁が自分の目の高さよりも低く下がって来た場合であっても、絶対にそれは超えてはならないのです。
母や弟にとって私がそうであったと、遂に彼らは自身の命が果てるまで気付かなかったか或いは認めたくなかったのか‥、どちらにせよ私に強烈な敵対心とライバル心を燃やし、私と言う壁を軽々と超えられるだろうとタカを括ったのでしょうか。

 
私にとって、これからが三度目の人生の始まりとなるでしょう。
これまでに粛々と培われて来た「実家からの排除」と言うぶ厚い障害壁は、今の私であればそれ程苦労はせずに取り除けるかもしれません。ですがそれはあくまで物理的なこと。
実際に四人居た家族の三人がこの世を旅立った、その現象を一人受け容れた心の空洞はそうそう簡単には埋まりません。たとえそれが宿敵、もしくはダークサイドの差し金となり果てた彼らであったとしても、私と逝ってしまった三人の家族とが出会う前にはもう戻れないのです。
 

母はそれまでは家族の誰かが使っていた部屋の大半を自分の部屋にして、父と弟が旅立ったその時から6年の時を使い、コツコツと我が家をゴミ屋敷に変えて行きました。
勿論私はその間一度も実家を訪ねることはありませんでしたがそれは母が、私が実家に帰ることを強く拒絶したからでした。それもその筈、あの状況を流石に私には見せられなかったことでしょう。
そして何より「私・美樹」と言う娘がここで顔を出されては、その時まで頑なに「最初から存在しない娘」と言う、彼女が必死で作りあげた台本が崩壊しかねない‥。そんな不安が過ったから、私からの「家に行っても良い?」と言う何度かの提案を蹴り続けたのだと思います。
 

お風呂場の脇にある母専用の部屋は膝まで沈む程のゴミの山と化していましたが、その大半が衣服でした。
しかも買ったまま一度も着ていない衣服も多く、しかもそれはどこかパーティーや歌の勉強会やコンサート等に出演する時に着るような、派手な服がとても多いのには驚きました。

 

 
その山積した派手な衣服の原因は、母が遺した幾つものシャンソンの「訳詞」が物語っているように思えました。
作曲、演奏、編曲のみならず一時は訳詞家、歌手としてステージに立った私を、母もどこかで見聞きして知っていたのでしょう。母が真剣に訳していたのはフランスのシャンソン歌手(兼 作曲・作詞家)Henri Salvador の名曲でもあるJardin d’Hiverでした。
 
これは私がもしも三回目の訳詞コンサートを開催していたら、お披露目する予定で2000年の秋に訳した作品でしたが、二回目の訳詞コンサート「時を超えて Vol.2」が散々な状態になり、その翌年の春に私は訳詞も歌手も全てから手を引いたと言う経緯がありました。
同時に三回目の訳詞コンサートの開催は夢と消え、途中まで書いていた「Jardin d’Hiver」の私の訳詞と比べても、母の訳詞は音符に文字を必死で当てはめただけのお粗末なものでした。

 

 
本物の愛とそうではない偽善的な愛とは、見る人が見れば必ず見分けがつきます。
母の音楽への愛も、そして弟への愛も、同じように偽善的な愛に他ならないと私は感じています。あくまで主体は自分自身、その自分を着飾る為の全ては道具に過ぎず、それは弟も、家族と言う箱も彼女にとっては同じ「道具」だったのでしょう。
 
ですが家族は目の前の家族を「良い」ように見ようとしたがるものですから、どうしてもその人の本質が仮に悪であったとしてもそこから目を逸らし、別の何かでその人の本質をねじ曲げて認識してしまうことが多いのかもしれません。
 

小学生の時、母に連れられて初めて「銀巴里」と言うシャンソニエに足を踏み入れた時、そこで小海智子さんが三つ編みを結ってシャンソンを歌っていたのを今も覚えています。
「あら、可愛いお嬢ちゃんね。」と言って彼女は、私にアイスクリームをご馳走して下さいました。その小海智子さんと私が10数年の時を経て吉祥寺某所に実際にあったシャンソニエで共演するとは、母も思ってもみなかったでしょう。
 
シャンソン誌「る・たん」にはある時期から、いきなり私の名前が乱射する鉄砲玉のように掲載され始めました。そこに「歌手: 小海智子 / ピアノ: 山田美樹」と言う一行を見た時の、あの苦々しい表情をした母の顔を私は見逃しませんでした。
 
それはある時実家に帰った時にふとシャンソンの話題になった時、私が持ち歩いていた冊子「る・たん」を何気なく母が見た時のことでした。口では「あら、いいわね貴女。」と言いながら、眉間に深く寄った深い皺としかめっ面になった一瞬を私はしっかりと見ていました。
 
母は特に最期までの数年間、多数のシャンソンを訳詞していたみたいでした。そのメモや印刷されたものがリビングのガラスのテーブルの書類の下からわんさか見つかり、私はそれらを母の遺品の形見として持ち帰って中身を読んでいますが、彼女の写真も訳詞もセンスが良いものとは言えません。
要は彼女にはアーティストの才能が元々ないのに、顔に傷のある娘の私になんか負けてられない‥ とでも思ったのかもしれません。
余り上手く行っていない訳詞をとにもかくにも「仕上がった!」と言う事にして人前で歌っていたであろう彼女の胸中を察すると、どことなく憐れです。
 
結果的には私の真似事に失敗していた彼女とは最後の最後まで会わなくて本当に良かったと、今だから胸を撫で下ろしています。
 

 
to be continued…

毒と表現 – 槇原敬之 “Hungry Spider”

「毒にも薬にもならない」と言う言葉があるが、その逆に「毒が洗練されると薬になる」と説いたのは我が夫 天野玄斎氏である。

あることを機にこの数日間、マッキーこと槇原敬之のHungry Spiderを聴き込んでいる。何故こんなにもこの旧作に惹かれるのか‥等と言うことは棚に上げ、兎に角聴き込んで行くとあることに気付く。
 

 

この作品がリリースされたのは1999年、J-Pop界隈が少し右肩下がりに流れを変え始めた頃に遡る。当時私は東京とL.A.とを往復しながらメンタル(PTSD)の治療に集中していた頃で、私が当時先に「Hungry Spider」の英語バージョンを聴いたように記憶している。
 

 

2022年、春。世界人類が前代未聞の強毒ウィルスと戦い続けている今だから、尚更感じることも多々ある。
マッキーのこの作品からはきらきらと光り輝く希望ともう一つ、強烈なまでの毒性を感じてならない。この「毒」こそがマッキーの最大の武器・魅力であり、毒のない反省人種の槇原敬之には何の魅力も無いと言っても過言ではないだろう。

だが彼の容姿がマッキーが強く胸に秘めている毒性の障害壁となり、口から多くの毒液を吐く時に初めて放たれる玉虫色のオーラは年々軽減され、彼自身がまるで血液を体からごっそり抜かれたように時間をかけながら生気を失って行ったように見える。
 

多くの人々がマッキーに求めたものは一体何だったのだろうか?
恐らく芸歴が増えて行くと多くの表現者たちはそれにともなう「人柄」や「人格」を求められるようになり、本来不完全な美を武器にする表現者たちが周囲からの軋轢の中で窒息しながら、自らの武器を置いてしまう。

周囲はその「武器を置いた表現者」を完成品だと歪んだ認識をし、表現者たちは次第に「みんなの歌」のような何の変哲もない歌を無難に歌い(作り)始めるが、内面は悶々としている。それを周囲は知らないし、感じ取ろうとする人達も殆ど居なくなる。
 

「宣候」-アートワーク

 

そんな折、2021年10月25日、彼自身の物々しい空気が解かれる前にアルバム宣候がリリースされた。
未だ夜が明けない朝に空に飛び立って行った鳥の気配を纏いながらも、一見それまでとは何ら変わりないルーティーンのようにこのアルバムが世界にお目見えしたが、このアルバムでマッキーは先ずは謝罪のような音楽からスタートして行く。
 

 

世が彼に要求するように反省に反省を重ねながら、それでももうこれ以上は同じ場所に留まることが出来ない渇いた獣のようにマッキーは世界に新たな一歩を繰り出して行くが、その背中はどこか痛々しく悲しげだ。
 
このアルバムの中で個人的に特に気になった曲は、M-10「好きなものに変えるだけ、そしてM-11「HOMEの2曲だ。
特に「好きなものに変えるだけ」には1999年、「Hungry Spider」を自由自在に歌っていた頃のマッキー本来の毒性の欠片がほんの少しだけ見え隠れする。その「ほんの少しの毒性」がどこか痛々しく情けなくて、こうして人の表現世界は常識と言う凶器によって打ち砕かれて行くのだと言うサンプルをまざまざと見せつけられているようだ。
 
M-11「HOME」では、マッキーが元々持っていると思われる「虹色の旋律」が復活している。みずみずしくきらびやかでメロウなメロディーラインとコードプログレッションが見事に合体し、どこか初期の荒井由実に似た時代の煌めきが復活する。
 

「好きなものに変えるだけ」歌詞より抜粋

 

この歌詞を読んだ時、同じ時代を別の場所で生きていた私が知っている、キラっと光る毒性を前歯と瞳の奥に潜ませながらTVに毎日のように出演していた槇原敬之の片鱗が仄見えて、年甲斐もなくうるっと来てしまった。
 

そう言えばこの曲を調べている最中に、2017年12月13日に開催された「FNS歌謡祭」でマッキーがこの作品を、miwa・山本彩・鷲尾伶菜の3人と共演している動画を見つけることが出来た。
期待しながら動画の再生ボタンを押したが、「Hungry Spider」の持つ毒々しさは既に失われ、いいオジサン「槇原敬之」が自身の中に微かに蠢く毒性の欠片を振り絞らんと戦っているように見えて泣けて来る。
 

 

共演している3人の女性歌手の中で、マッキーと対等の毒性を持っているのは恐らく山本彩だけだ。だが山本彩には毒性こそマッキーと対等でも歌唱力・表現力が追い付かず、尚更いいオジサン未満のマッキーが舞台中央にポツンと孤立している感は拭えない。
 
槇原敬之が描こうとした「毒」を彼自身が存分に発揮する機会をとことん奪われた結果、彼は恐らくそれを別の形で発散する以外の道を絶たれたのかもしれない。
それに似た表現者を私は他にもごまんと見て来たが、ここまで露骨に毒性と言う武器を削がれた表現者としては、マッキーはかなりレアなケースかもしれない。
 

 

さて、この記事の最後に、多分生演奏のアレンジをミックスしたと思われる「Hungry Spider」のPVを見つけた(公式ではない)ので、それを最後に貼っておきたい。
 
毒蜘蛛マッキーと真人間風マッキーが交互に映し出されるが、結局のところどちらが彼自身なのか‥。各々様々思いを巡らせながら新たな発見に至れば幸いである。