‘Dios Dirá, Dios Proveerá’ by CURRO (+エッセイ)

一昨日から山のように、音楽を聴いている。
2025年の始まりから私は音楽にとことん突き放されて来たが、今週末は何かが違った。世界中で言いようのないエネルギーが目覚め、覚醒しているのをひしひしと感じる。
そして私は多くの音楽と出会い、彼らを探求して行く過程で新しい自分と何度も出会う。それは現実を突き放したところで起きるミラクルでもあるし、生命としては意外に当たり前のことなのかもしれない。
 
そして私はスペインのミュージシャン/CURRO (キュロ) の音楽に出会い、心臓を半周捻ってからその3/4だけが元に戻らないような不思議な感覚に見舞われている。
 

 
CURROのインタビューを読みながら、とても深い場所に渦巻く闇と希望と、ぞして絶望と自分の力ではどうにもならない運命に抗う為の凄まじい覚悟のようなものを感じながら、私はいつになく頭を抱え込んで今書斎に居る。
 

 
今日出会った音楽の中で、最もエキセントリックで最も悩ましくて、そして最も心臓がさざめき立つ音楽だった。
プレイリストの中に混ぜることによって音楽が危険に晒されるような、この言いようのない緊張感は近年余り感じて来ない感覚だ。だが私はそれでも、世界中の音楽を地続きにして行く為に混ぜて行く。
 
フラメンコとは何であるか‥。
¿Qué es el flamenco?

 
CURROの音楽はまるで、フラメンコとは行き場のない感情を押し出す場所だ‥ とでも言っているようで、私もそのような場所に走って行きたいと思う。
(El flamenco puede ser un lugar para liberar emociones que no tienen dónde ir.)
 

 
若い頃から受験勉強に慣らされて来たが、流石に61歳にもなって一気に16時間もノンストップで音楽を聴くことになるとは思いもしなかった。
その合間に短歌を編んだり、サブブログディディエ・メラの音楽倉庫に良曲を収納し、評論し、取り留めのないようで居て濃縮した時間が過ぎて行く。
そして最後の最後でCURROが難問をぶつけて来た‥。
 
何と破天荒で、‥なのにどこかとてもメロウで繊細で細くて柔らかい針金のような感性が、風を突っ切ってぶつかって来る。
 
このうえなく美しい時間を、私は堪能している。
 

 

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情熱のソングライター “Alejandro Sanz”

日本ではおそらく余り馴染がないだろう。だが、私はアジアの片隅からずっと注目し続けているのがこの人、スペインのシンガー・ソングライターのAlejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)だ。

先ずスペインのポップスを語る時に必要になるのが、フラメンコと言うジャンルだ。
日本人にとってフラメンコと言うと「オレーイっ」等と掛け声を掛けながら歌ったり踊ったりする、むしろ商業フラメンコの方だ。だがフラメンコと言っても奥が深い。
近年では音楽のジャンルとしては珍しいケースで、2010年にはユネスコによってスペインの無形文化遺産に登録されている。

『フラメンコの歴史と発展にはヒターノ(スペインにおけるロマ、いわゆるジプシー)が重要な役割を果たしている。』とWikipediaにも記載されているように、主にこのジャンルはロマによって演奏されたり歌唱されることが多く、そのロードムーヴィーとして有名な作品をあえて挙げるとすれば、映画監督 トニー・ガトリフ が監督を務めたラッチョ・ドロームを私はここに挙げたい。
 


さて本当ならばここでフラメンコについての記述をもっと突き進めるよう、我が社「Didier Merah Japan」の社長から通達があったのだが、フラメンコのうんちくを書き始めるとフラメンコの紹介なのかそれともこの記事の主役である Alejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)の紹介なのかが本当に分からなくなるので、やはり悩んだ末ここは主役を Alejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)に譲り渡し、内容をシンプル化したいと思う。

一つだけ書き添えるとしたら、民族音楽的なフラメンコの源流は楽器「ギター」に始まる。大元はクラシックギターに民族的なモードが合わさったもの、それがいわゆる「フラメンコ」の原点であり、今多くの人たちがそのジャンルの名前を聴いて連想する「ダンス主体」「リズム主体」のフラメンコは観光産業を発展させる過程で商業的に発展を遂げた形の、一種の商業フラメンコであり、そもそものこのジャンルの源流に在ったテイストとは異なるジャンルと言っても良いだろう。

さらに元を辿れば、フラメンコの発祥は「アラブ地域」とする説がある。
『複数の移民同士が旅の途中で出会い触れ合い‥寝食を共にし、モード色の強いアラビック音楽とクラシックギターの奏でる和声(コード進行)が見事なまでに合体した音楽がフラメンコの発祥である‥』、とは誰も言っていない(笑)。
だがなぜか私はその源流発祥の光景をまるで昨日見て来たことのように知っている。

まぁ余りシュールなことを書き過ぎると古いタイプの音楽学者に呪われそうなので、この話しの文字起こしはここで一旦止めておく。
 


さて、肝心要のこの記事の主役 Alejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)が2021年冬に、アルバムSanzを世に放った。
彼の場合はもともとスペインの民族的なモードを起点としたメロディーメーカなので、正確には彼の音楽を王道「フラメンコ」と呼ぶことは出来ない。だがしいて言うならば「ネオ・フラメンコ」と言った方がそれに近いだろう。

1968年12月18日生まれの Alejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)は、今年で52歳になる。まさに油の乗り切った世代の、王道の音楽を生み出す音楽家である。
 


アルバムSanzでは「ネオ・フラメンコ」的なテイストを持つ作品の他に、やはりここは営業を兼ねた意味合いなのか、M-2 “Iba のようなアメリカンテイストを持つ楽曲等も登場する。
正直アメリカに迎合するタイプの音楽をこのようなアルバムの中に見る度に、私は少しだけモチベーションが落ちてしまうのだ(笑)。

そもそもその民族にしか持ち得ないものを何故手放してまで、アメリカ万歳型の「売れ線」を狙わなければならないのかと、情けなくなるからね‥。

だがその次 M-3 “Yo No Quiero Suerte で、まるでいきなり目が覚めたみたいに Alejandro が拳を振り上げて立ち上がる。
王道のフラメンコのテイストの楽曲と歌唱表現の奥に、これまた王道クラシックの失われた歴史の中の「ロマン派」のコード進行の断片が浮かび上がると、多くのリスナーの中にその当時の微かな記憶が呼び覚まされ、胸をかきむしられるようなノスタルジーに身も心も包囲されて、きっと誰もがそこから一歩も動けなくなるに違いない。

M-4 “Rosa ではアフリカ音楽にも通ずるリズムを刻んだ打楽器とコーラスに始まり、それはまるで人々が互いに行き交う旅の途中の光景のように次第にスペインのコードやモードと折り重なりながら、そこにしか生まれ得ない一個の音楽を形成し、成長して行く。
そして歌手 Alejandro はけっして、他の経験値の浅い歌手たちのようにヒステリックに絶叫するような愚かな歌唱表現には及ばず、朝起きてシャツを着てズボンのベルトをしめて歯を磨く為に洗面台に立つかのように、きわめて普通に生活するように楽曲を最後まで歌い切って行く。

そして M-6 でようやく、アルバムリードのMares De Miel がお目見えする。まるでアルバム全体が舞台を見ているような鮮やかな構成になっており、この曲がアルバムの中心をしっかりと支えているのがよく分かる。
 


上手く日本語翻訳に至ることは難しいが、歌詞も印象的だ。
 

人は何度も行き来し、生まれ変わり再びここに戻って来る。
私はあなたに戻り、あなたになった私は再び出会う。
それは輝きの瞬間。
僕は毎日美しい女性と出会い、その中に魂の友を見つけて歓喜するだろう。
あなたが私を導き、昨日までの私を変えて行くに違いない‥。

 
ま、ざっと言えばこんなことが綴られている。それが上のPVを見てもよく分かる。

このアルバムSanzの中で最もフラメンコらしい一曲は、おそらく M-10 に収録されいるGeometríaだろう。
勿論冒頭に書いたような「オレ~イっ」等と掛け声を掛けるようなリズム体ではなく、いわゆる「バラード・フラメンコ」と言ってもよい素晴らしい一曲だ。

そしてこのアルバムのオオトリは、フルオーケストラが楽曲全編を包み込んで抱きしめて行く『Y Ya Te Quería』。この曲で、アルバムSanzが静かに幕を下ろす。

M-10『Y Ya Te Quería』を翻訳にかけてみると、まるで神々の人類への愛を感じさせる内容であることに気付く。
タイトルは「そして、私はすでにあなたを愛していた」と言う意味。
「わたしたちの中に、既に神々は種として宿っている、私は既に愛されていたのだ‥」と言う意味のセンテンスがリフレインで繰り返され、これは人類への新たな目覚めを呼び掛ける内容のバラードの大作だと言わざるを得ない。
 


既に目覚めた人たち、既に覚醒を始めた人たちが音楽家の中にこうして存在することに、私は歓びの涙を流さずにはいられない。
日々の小さなことに腹を立てている暇はないのだ。地球を想い、自然神を想い、地球の外の生命体に思いを馳せ、彼等と心から繋がる為の方法を模索し、その傍らで私も私自身の音楽を完成させて行く為の旅を止めてはならないと、今あらためて神に誓いを立てた。

アルバムSanzを聴き終えた時、思わず感謝の念があふれ出る‥。それは深いため息とともに全身を下から上に駆け上がり、太陽を目指して放たれて行った。

私の心の深い場所と幾つもの惑星や、星々の自然神等との繋がりを得る度に、私は自身が音楽家であることを心から祝福する。そして小さな自分の存在の全てを、いつまでも愛し続けたいと願って止まない。
 

(この記事はnoteより本ブログに移動しました。)