覚醒の兆候

ここ一ヵ月近く、色々なことがあった。
「色々なこと」をくまなく調べて行く過程で、精霊や神々から彼らに視えている世界を伝え聞くことも多々あった。怖いことに、現実で起きている事 (視えている範囲で) と神々や精霊が見た世界の情報とを突き合わせると、そこには微妙に矛盾が生じていたりする。
 
幼い頃から私は、両方の世界を行き来していた。現実の世界と、現実を視ている神々や精霊から伝え聞く現実は、必ずしも一致していなかった。
両方の世界は常に共存している。だが片方は肉眼と現実の世界、もう片方は人の内面や精神の中、そこで思う世界だ。
 
現実は、そこに現象が起きなければそれを現実と言うことは出来ない。だが私は未然の現実をいち早く察知し、人生の多くをそれ (察知したこと) に基づいて計画し、行動して来た。
言ってみれば、二度目の結婚もそれにともなう行動計画もそれに基づいて予定を立てた。
‥そして今がある。
 

 
正確な日付は定かではない (‥こんな時、小保方晴子さんの時間記憶の才能が羨ましくなる‥) が、多分2008年の2月13日だ (アレっ、覚えているじゃないの!!!)。
現在の夫と初めてデートをする前日の午後、必死でデート場所となるカフェを探し歩いた。普段さほど運動なんてしない私だったがその頃とても親しくしていた或る神が私に、「これは人生の一大事に繋がる密会になる。だからコーヒーの旨い場所を探せ。」と指令して来た。
 
何故「人生の一大事」と「コーヒーの旨い場所」が直結するのかは、その時の私には正直よく分からなかった。と言うより私は、コーヒーなんて好きでも何でもなかった。だって私は大の紅茶党だったから。
 
京王井の頭線の渋谷駅で下車し、先ずは文化村に足を運んだ。そこに行けば何かしら、コジャレたカフェぐらいあるだろう‥ と、今にして思えばかなり高を括っていた。だが、歩けど歩けど感覚にフィットするカフェは見つからなかった。それどころか、各カフェの入り口に立ち込めるコーヒーの焦げた臭いが、私にはとても辛かった。
 
そう、この「にがくて辛かった各カフェの入り口のコーヒーの臭い」と言う感覚が、実はあながち間違ってはいなかったことを後になって知ることになるとは‥。
 

夫は毎日、美味しいコーヒーを淹れてくれる。夫の感性でブレンドを考案し、勿論コーヒー豆は浅煎りが条件なので必然的に彼が淹れるコーヒーは美味しく完成するわけだ。
そう、2008年の2月13日の午後にデート場所のカフェを探す際に感じた「各カフェの入り口のコーヒーの焦げた臭い」を、浅煎り派の夫が好むわけがなかったのだ。
 

2008年の2月14日、私たちは初対面を果たし、今日に至る。交際期間ほぼゼロだったのは、神/タケちゃんのお陰としか言いようがない。
 

話がとてつもなく脱線したので元に戻るが、最近身の回りに起きていることについて実際に関係者に聞くことと神々から伝え聞くことに齟齬 (そご) が生じている。
昔っからずっとそうだったが夫に話す時に現実とシュールの双方の情報が嚙み合わないので、大丈夫かと時々困惑する。
 

 
此方も日付は定かではないが、年で言うと恐らく2007年か2006年の春先頃だったと思う。一度だけ叔母の昭子 (仮名) さんと電話で、母について話をしたことがあった。
私が最も闇を生きていた時期と重なった。住居を借りるのに苦戦したのは、不動産管理会社のルールに沿った緊急連絡先のサインの欄が埋まらなかったからだった。
 
後になって母の遺書には、私を絶対に実家に近付けない旨の意図を含めた直筆のメモが見つかったが、当時の私は色々な現象をほぼ直感で感じ取り、突き止め、それを言葉にして人に話していた。
私の家庭外排除は現実として粛々と、親族全員はおろかその関係者まで巻き込んだ形で現実となっていたが、それを言葉にして私に伝えて来た人は確かに誰も居なかった。
当時昭子 (仮名) さんとの電話の中で私は叔母に何度も、これまで私が母にされて来た幾多の暴力や虐待、そして両親や弟が私を酷く恨んでいること等を切々と訴えた。だが昭子さん (叔母) はそれを一切合切撥ねつけて、私の訴えや心情があたかも私の思い過ごしであるかのように私を宥め抜いた。
 

⇧ これは亡くなった弟の嫁の「りえさん」が山田家の遺産を取得したい旨を弁護士に相談した時の書類だが、それによれば叔母の昭子さんは私が叔母と電話をした翌年に亡くなっている。
最後まで昭子さんは母/雅枝を庇い、私の家庭外及び親族外排除に加担したことになると見て間違いないだろう。
 
そういうことが親族内で実際に起きていることを、私は既に知っていた。だがそれらは言葉にして伝えられたことではなかった為、親族等全員が私の気の迷いだとか錯覚、気がふれたせいだ‥ と言うことにし、誰一人心を改める者は現れなかった (それは現在も継続している)。
 

勿論全ての現象を精霊や神々から伝え聞くわけではないが、ここ最近そういう現象が以前よりも増えている。その度に私は、「現実ではどうなのだろうか?」と言う突き合わせを必ず行い、逐一日記に記録している。
比率としては現実に起こる前に私が未来をシュールな存在から伝え聞くことの正確さが増しており、的中率85パーセントまで確率が上がっている。
Kポの件も、それに当てはまる。なので私はあえてこのブログに、NJの件を赤裸々に書き残している。後から私のカンや預言がどうだったのか‥ と言うことを知りたい人たちの為にも、それは書いておく必要性を感じるから。
 
 

今世でイタリアにこそ行くことは出来なかったし、預言通り私は飛行機での移動は今後一生しないつもりで居るし、車の運転免許も諦めた。
若かった私に母が振るった暴力の後遺症が、最近になって出始めたからだ。先端恐怖症は車道を俯瞰する時にも表れ、車道で前方を見る時に頻繁に身がすくむ。その状態では絶対に後方の車との衝突事故の危険が避けられないので、タケちゃん (神) から「免許を諦めるように」と言われそれに従うことに決めた。
 
それでも生きるバイタリティーは年々増しており、今後の私はこれまでの不可能の常識を必ず打ち破ることになるだろう。
その夢と目的だけはぶれずに、今も私の背骨をしっかりと支えている。
 
 

⇧ 此方は最新のプレイリスト。
毎週末の度に世界の新譜から選りすぐりの楽曲を集め、我が子のように育てている音楽データ。
 
最近はメインブログよりもサブブログディディエ・メラの音楽倉庫の更新の方に力を入れているが、それもこれも未来の音楽史を修正すると言う目的の為の一環だ。
是非「リラ星最後の巫女」として、音楽家及び音楽評論家、表現解説者としてのディディエ・メラ (Didier Merah) も応援頂けるとありがたい。

Yellow Sky – トラウマが癒える日

ある時期まで、空が黄色く視えていた。生まれた時からそうだったかどうかは定かではないが、気付いた時には私の目はオールドレンズのように、色褪せた世界を写し出していた。

マンションの8階の北側の部屋はオアシスでもあり、牢獄でもあった。その部屋の窓から見える空は夏でも冬でも黄色く煙り、少しだけ埃っぽい臭いが混じっていた。
 

私はずっと青空を知らなかった。小学校で空の絵を描いた時も、私の画用紙には他のクラスメイトが描くような澄んだ青空ではなく、砂で汚れたような少し黄色い空が描かれていた。
それが私のリアルであり、私はずっと青空の本当の色を知らなかった。
 

私にとって、夏休みは拷問のシーズンだった。朝から母の怒りをもろに受けて、監視されるようにして日々の練習と虐待に耐えた。その様子を弟は遠巻きに見てはいたけど、知らん顔で無視し続けた。
 
正午を過ぎた頃、決まって光化学スモッグ警報音が町じゅうに鳴り響き、学校のプールも2時間ぐらいは閉鎖された。
澱んだ空気の中でも兎に角家から飛び出したいと私は、どれだけ願っただろう。鉄の蠅叩きみたいな母の手が私の目を殴打し始める前に、水着とタオルとゴーグルを詰め込んだビニールバッグを持っていそいそと家を飛び出すことに成功した日は、いつもよりも長い距離を泳げる気がしてわくわくした。
 
だが現実はそう簡単には行かなかった。
母が目を離した隙に家を出ようと玄関に出ると、靴が定位置から消えている。あの手この手で行く手を塞ぐ母の顔が狂気に満ちて、私は毎日酷く委縮した。
そんな私の目に映り込む空は、古い写真の中の空のように黄色かった。
 


トラウマが癒えるには、多くの時間を要するだろう。
実家の家族の、私以外の全員があの世に逝った今も頻繁に、私はあの頃の夢を見る。

空が黄色かった頃の日々のことを、今も忘れることはない。
昨夜の夢の中では得体の知れない誰かの手が私の首に巻き付いて、じっとりと濡れた感触が首を絞めて来た。実際には喘息気味で咳込んだだけだったが、夢の中では別のストーリーが進んで行って、途中で何とか夢から飛び出した。
 

目が覚めるとそこは、いつも通りの日常。夫が傍で眠っていて、その寝息を数分間聞きながら私はようやく我に返った。
現実はとても穏やかで、カーテンを開けるとセピア色でも黄色でもない、真っ青な空が広がっていた。
 
忌まわしい何かを振り払うように、昨日は少し荒々しさを込めて鍵盤を叩いた。そんな自分が時折嫌いになり、その度にこんなのは本当の私じゃないと自分をちょっとだけ責める‥。
 

今も時々、黄色い空が蓋をするみたいに迫って来る瞬間がある。

 
トラウマが完全に癒えるには、さらに多くの時間を要するだろう。
 

母の才女物語

昨日 2025.05.11は母の日だった。私には該当する人物が居ないので、何もせず家で静かに休んでいた。

遠くに居る息子から短いメールが一通届いていたが、彼が「母の日」を意識して私へのメールをしたためたのかどうかすら分からない程、実に淡白で素っ気ない内容だった。

 

私の母は事あるごとに、「ママは才女だったのよ。」と口癖のように語ったものだった。

1. 某女子大の児童心理学科卒業で、皇室の某女性とはご学友で英語クラブの後輩だった。(嘘)

2. 音大に受験出来る程のピアノの実力はあったが、時代の事情で音大受験を諦めざるを得なかった。(これも嘘)

3. 異性には事欠かないし不自由を感じたこともなくて、当時のフジテレビの専務とは同級生で (彼は奥様よりも) 母を好きだった‥ と言う武勇伝をよく話していた。(実は母は再婚しており、私は母の二度目の結婚で生まれた長女だった)

 

‥ 母の死後、彼女の学歴も何もかも全て嘘だったことが発覚し、むしろ愕然としたのは私の方だった。彼女は自身の才女っぷりを盾にして日夜私を殴ったり刺したりつねったりし続けた。激昂すると母は水風呂の中に、私の顔を沈めたりもした。

まさか弟が先にあの世に旅立つとは母は思ってもみなかっただろうし、彼女が隠していたこと全てが私に明るみにバレて、今頃霊界で歯ぎしりしていることだろう。 

 

母がある時いきなり「ジャズピアノを習いたい」と言って、当時ジャズキーボーディストとして名高いN氏に師事したが、半年も持たなかった。

次に師事したのが某有名ビッグバンドのリーダーの奥様だったが、その頃からジャズの譜面を私に書かせるようになった。勿論譜面に書いたものをジャズとは言わないし、そもそもジャズとは音楽を弄ばなければ成り立たない。

それを私が楽譜に起こし、母はそれを暗譜してクラシックを演奏するみたいな解釈をして毎週のレッスンに通っていたが、肝心の音楽やジャズはそっちのけでクラスの勢力争いに夢中だった。

カルチャースクールと言うのは「素人が専門家に教えを乞う」空間だと思うが、母は教師に「何も言わせない」「ぐうの音も出させない」ことに執着していた。当然誰か他の人が書いた楽譜を暗譜して母が演奏していること等、教師はまるっとお見通しだったことだろう。

そのジャズピアノ教室は最長で2年ほど続いたようだが、弟の東大受験を言い訳に利用し、怒り狂ったようにしてある日突然辞めた。

最後にたどり着いた母の趣味が、写真だった。遺品整理で実家に入った時、母が撮影したと思われる多数の写真を目にしたが、どれも焦点の定まらないぼんやりとフォーカスがかかった写真ばかりで、嗚呼これも下手の横好きで終わったのだなぁ‥ と思った。

 

実際に創作家になったのは私だったが、もともとシャンソン好きな母は、私が訳詞コンサートを開催した直後から「訳詞」にも着手していたようだ。遺品整理の際におびただしい数の彼女の手書きの訳詞のメモを発掘したが、どれも詞として成り立ってはいなかった。

フランス語も挫折したらしい。晩年間近の母がどこかでシャンソンを歌っていたと思われる写真も見つかったが、きっとそれも挫折したのだろう。訳詞と歌手はおそらく、私が自身の訳詞コンサートでその両方を実現したことへの嫉妬、腹いせに始めたことだろう。

母には歌心がないし、きちんとした発声の基礎もなかったと思うし。

 

才女だ才女だと豪語していた母の才女っぷりが一体何を指していたのか遂に分からぬまま、私も24才で家を出た。そこから32年後の冬に、まさか母の才女伝説が全て嘘だったことが私にバレるとは、彼女も想像したくはなかっただろうに‥。

 

母の日にはカーネーションを贈るのが当たり前みたくなっているが、母にとってカーネーションは何の価値もない花だったようだ。

一度だけ私が母に、なけなしのお小遣いで買った真っ赤なカーネーションを贈った時、母は一瞬だけそれを眺めたものの気が付くと茎を真っ二つに折ってゴミ箱に捨てていた。

あれ以来、私の中でカーネーションは「嫌いな花」の一つに加わった。

勿論母も母の日も今も大っ嫌いだから、昨日は死んだように時が過ぎるのを待つしかやりようがなかった。

何度か、母の嘘まみれの才女伝説が脳内を駆け巡ったが、それはただの嵐。じっと過ぎ去るのを待つ年に一度の悪夢に、今年も無事耐え抜いた。

 

(スマホから投稿 📱)

“Anni Luce” – Joe Barbieri (孤独と光)

私が何故‥ こんなにもイタリアの音楽に惹かれるのか、この作品を聴けば多分多くの人たちにその意図が通じるかもしれない。
イタリアのシンガーソングライター、Joe Barbieri (ジョー・バルビエリ) が放つ新譜はまるで、この世界にたった一人だけ取り残された最後の人類の叫びのように聴こえてならない。
 

その私の想像をあっさりと肯定してくれるように、歌詞を和訳してみたところやはり‥ と言うような内容だ。
 

[意訳を含めた和訳]
私の居場所はあなたのそばにあるから
でも私はあなたのそばにいない、
 
絶望すべきだと言った
あなたに別れを告げるとき
彼がどうやってそれをするのかさえ知らない
半分の騒音
私たちが何だったのか
 
私たちは最後の住人だった
私たち二人のために作られた惑星
そして今、遠く離れた二つの衛星
自分自身に赦しを与える方法を知らないが、
外は暗い宇宙で
永遠から何光年も離れた
私たちが一緒にいたこと
 
確かめたい また
その痛みを
呼吸を消滅させる
しかし、それが生きている実感を与えてくれる
 
何も聞いてないよ
とても重要な
ただあなたの一部になるために
 
しかし、実際のところ、最後の言葉は
それはあなたのものではないが、私のものでもない。
私たちは密かに叫び続けるだろう
嘘の中にある真実
それがどうなのか聞くためだけに
半分ではないという罰
一つのことだけ
 
もう一度試させてください
あの味をもう一度
境界線を示す
地獄と崇高の間
 
何も聞いてないよ
とても重要な
ただ留まるため



何も聞いてないよ
とても重要な
ただあなたの一部になるために
 
私の居場所はあなたのそばにあるから
でも私はあなたのそばにいない

 
丁度昨夜私は夫と二人、イタリア料理で神人共食の儀を開催していたところだった。
本当に信じられないくらいの体調不良に夫婦共に見舞われる中、それでも中止等考えられない儀だったので二人とも頑張った。
一夜明けて、どういうわけか私の胃袋が復活した。いつもそうだ。約束のある前日辺りから不調に見舞われる。
きっと圧なのだろう。
 
神人共食の最中、愛するサビノ神父 (故) の話題に自然と触れて行く。
過去世の私は、当時のサビノ神父が乗車したトラックで (運転していたのは別の人物だった) 轢かれて命を落としている。そのことが大きな心の傷となり、サビノ神父は霊体の心臓部分に大きな傷を負ったまま、最後は信者さんに会いに行く途中の飛行機の中で心臓発作で亡くなった。
 
だがそれよりもサビノ神父はそもそもナポリ出身の生粋のイタリア人なのに、今世の私に会う為としか言いようのない理由で来日し、日本で聖職者となり、あらゆる手を尽くして私を探し出した。でもその時のサビノ神父はきっとそんなことは何も考えず、ただ夢中で私を探したに違いない。
色々な変遷を経て神父はようやく私の母を探し出したが、皮肉なことに母が一方的に神父に熱を上げたのだろう。
 

母の死後、遺品整理中に数十枚と言うサビノ神父の写真を発掘した。
人生で一度でも恋愛経験のある女性ならば、集められた写真を見ればその人の心情を理解することが出来ると思うが、母は間違いなくサビノ神父を異性として好きだったに違いない。
だが残念ながらサビノ神父は、母と繋がりたいわけではなかった‥。
 
そして母は私を身籠り、私が生まれた。
神父は毎年、私の誕生日になると家を訪れた。必ず何かしらの手土産を持参して実家を訪れたが、贈り物の大半は母の手中に吸い込まれるように私の前から消えて行った。
でも私たち (私とサビノ神父) にとって大切なことは、物ではない、もっと別の何か‥。そのことに真っ先に気付いた母が、私が5年生になった頃からサビノ神父を私から遠ざけるようになった。
 


サビノ神父はどこか、私にとって「知り合いのおじさん」、或いはとても親しかった思い出の中の年上の男性のようだった。

この写真を見れば確かに私と神父の雰囲気が似ていると、写真を見た人誰もが口を揃えて言う。私たちはもしかすると、カメラの方角のその彼方の過去のトスカーナを見つめていたのかもしれない。
(私はようやく20代を迎え人生はこれから‥ と言う時の、私がトスカーナで大きなトラックに轢かれたのはそんな、或る春の日の出来事だった‥。)
 


Joe Barbieriの新譜 “Anni Luce” は、「光年」と言う意味。丁度昨夜、私たち夫婦が訪問したイタリア料理店にも “Luce” と言う名前が付いており、色んなことが頭の中で複雑に絡まり合いながら今、この曲を何度も聴いている。
 
勿論私は回顧主義者でも何でもないし、今この瞬間が人生で最も光輝いていると思って生きているが、サビノ神父との間に起きた色んな出来事は時にそれをあっさり超えて行く。
何よりあんなに時間もチャンスもあったのに、やりたかったことの殆どが未達成のまま神父がこの世を去ってしまったことがとても悔やまれる。だが今は女児としてこの世に新たな生を授かったサビノ神父。彼 (彼女) と次会えるのは、いつになるだろう。
それまで私は絶対に生きてなければならないから、昨日のような胃の硬直感に見舞われるととても怖くなる‥。
 

昨夜の神人共食には、サビノ神父も列席された。そういう時に限って、そういう大切な瞬間だかこそ誰かが妨害を企てようとする。‥
 
“Anni Luce” を聴いていると、リラ星が燃え尽きた後にぽつんと私が宇宙の闇に放り出された時を思い出す。
苦悩も苦痛も何もなく、かすかなノイズが流れる暗闇に私は一人で存在していた。肉体がないから動くことも出来ないし、地面も何もない空間の中を私の意識だけが彷徨い続けていた。
 

Googleで和訳した歌詞を読んでいたら、思わず涙が溢れ出した。私は滅多なことでは泣いたりしないのに、無意識層の私が叫びを上げる。
孤独と光。それは私にとって、苦しみと懐かしさの両方の意味を持つ。どちらも崇高なのに、手にすることをとても躊躇するものだ。
“Anni Luce” は私の、二つの悲しい思い出に光をあてて行く。そして私はその光の彼方にあるものを凝視しながら、同時に目をそらす。両方の感情と感覚が私を包み込むと、そこに混乱と目まいが発生するが、その両方共にとても愛おしい。
 

 
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約束と祈り (Promises and prayers)

来月に相方の誕生日を控えているので、その辺りに箱根への旅を予定している。道中は相方の運転で現地に向かう予定だ🚙
自分で作成した色んなPL (音楽プレイリスト) を用意しつつも、やはり故 サビノ神父 (現 Hana) との思い出が心を優先するので、BGMはイタリアの音楽に。
 

 

記憶とか思い出は微妙にトラウマと重なり合うもので、サビノ神父を思う時にはどうしても実母の影が折り重なって来る。
 

実母が最後の最後まで執念深くサビノ神父との思い出の写真を隠した本当の理由は、一体何だったのか‥。遺品整理業者がとても良い業者だったので、段ボール何個分にも及ぶ分量の写真と言う写真を一枚残らず全て保管して私に渡してくれたが、見るからに古い段ボールの中にサビノ神父と私が最後に撮った写真がひっそりと隠れていた。
その場所がどこだったのか、数十年もの間分からなかった。どうしても思い出したい記憶だけがぼんやりと霞が掛かったように思い出せなくなっていたが、それもこれも実母が仕向けた圧のようなものの一種だったように思えてならない。
 
限られた時間の中での遺品整理の中で私はどうしてもその写真を探し出したかったから、念を込めるように一枚一枚捲って行くと、とある束の中に笑顔のサビノ神父が目を覚ました。
幾度かの交霊の末に、最後の写真を撮影した場所をサビノ神父の霊体から聞き出すことが出来た。
箱根のとあるホテル内のレストランだと分かった。そこに辿り着くまでに、40数年を要した。
 

 
思えば私と神父との出会いは既に過去世に在り、そこ (トスカーナの山中の車道の事故現場) で私たちは忘れ得ぬ固い約束を交わしたのだろう。仮にサビノ神父が “Hana” として転生した今でもその記憶を抜きに全てを語ること等出来なくて、その時を思い出す度に心臓辺りがしくしく痛んで仕方がない。
 
コーヒーとワインとパスタが大好きなサビノ神父のことを、私が家を飛び出た24歳の時から片時も忘れたことなどなかった。だが如何せん、当時の私の心は壊れていた。私を壊したのは紛れもなく、山田家とその親戚全員だった。
私は壊れながらもどうにか平常心を保つことに一生懸命だったが、今にして思えばやはり壊れていたのだろう。
実家の遺品整理の時に見つけ出した写真の中には、下の写真のようなサビノ神父が何かの目的で撮ったと思われるブロマイドのような写真が複数あった。
 
きっと母はサビノ神父を個人的に好きだったのだろう。だからなおさらのこと、神父の気持ちが私に向くことのないよう、神父から私を遠ざけることに必死になったのかもしれない‥。
 

 
故 サビノ神父が神父としての霊体を今よりも強く保持していた時に、相方 (天野玄斎) が神父の霊体の心臓に張り付いた真っ赤な炎症を取り除いてくれた。その瞬間故 サビノ神父は本物の自由を得て、それまで固く凝り固まったようになっていた霊体がひときわ大きくなったように私には見えた。
わずかな母の霊体が神父の霊体の周囲を鎖のように縛っているのが見えたけど、相方のヒーリングの後にその呪詛 (呪縛) も解けて、故 サビノ神父はそこで何度目かの転生の機会をようやく得ることが出来たと後から聞いた。

生まれ変わった故 サビノ神父 (現 Hana) とは未だ現世での再会は果たせていないけど、その時はいつか必ず訪れると私は確信している。私が確信したことで、これまで叶わなかったことは一つもない。

念じることはいずれ祈りとなり、それが正しい祈りならば願いはいつの日か必ず叶う。

過去世で交わした幾つかの約束は、一つずつ現世 (現在の私) で叶って来た。リラ星の妹との再会もじきに果たせるだろう。
リラ星の妹は今某業界の第一線で活躍している。彼女は今回も、彼女が作り出した新しい作品の中にふんだんに、私たちの最期の約束の合図でもある “光” を散りばめている。
同じ記憶を持つ人にとって、その “光” は特別な意味を持つ。
彼女が送って来る “光” に返す新しい作品が今は未だ手元にはないけれど、私が毎週欠かさず作っている音楽のプレイリストを通じて彼女には必要にて最大限のアンサーを送っている。
 

音楽は私たちにとって、手紙のようなものだ。
喜びたい時、泣きたい時、抱きしめたい時、‥その時々に応じて私のPLには必要な音楽を詰めて解き放っている。そのシグナルに彼女も応えてくれる。
静かなやり取りは地球全土の人々に向け、各々に必要な形や響きとなり届くと信じて、手の負傷の緩やかな改善と共に数年以内に私は新作をレコーディングする予定を立てている。

 

桜と私

暫く体調を壊して休養していました。
その間に世の中が粛々と変化して行く様を、寝室の中で感じながら悶々としていました。
通りをひっきりなしに疾走する救急車の数が日増しに増えるその度に、世界から一つまた一つと消えそうな命の叫びが聴こえるようで、胸が痛みます。
 

ずっと桜の季節が嫌いでした。それは毒親の影響が大きいのでしょう。
毎年お花見とは名ばかりのイベントが計画され、その時その前日になる度に私は母親の不当な暴力を受けました。
目や腕の皮膚を母親の握り拳が激しく殴打し続け、お花見当日の朝になる度に私は全身痣だらけになりました。当然そんな姿でお花見など行ける筈もなく、否応なく私は留守番をすることに‥。
それが私以外の三人の家族にとって、ベストな状態だったのです。
 
毎年そんな状況が続き、私は最初から家族の中に存在しなかったように私以外の家族三人が、何食わぬ顔でお花見を楽しんで帰って来ます。
千円程度のお金がテーブルの上に置かれ、それで何か食べてね‥ とにこやかな顔で母に言われ、マクドナルドでハンバーガーセットを買ったり松屋で牛めしを買って、家で一人で食べました。
 
私は家族の中で、最初から存在を許されない人でした。
 
 

 
そもそも大のカメラ好きだった父の趣味を奪うように、私が家を出る頃になると母は (本来ならばそんなお金など無い筈なのに) どこかからか資金を捻出して高額のカメラを買い始めたことを、今でも覚えています。
特に桜が好きと言うわけでもないのに、このシーズンになると母は井の頭公園に行っては桜を撮って楽しんでいました。そしてマウントするのです、私や父に対して。
母は人に「先生」とか「アーティスト」等と呼ばれたかったのではなかったかと、今になるとそう感じるのです。
 
私が大学を卒業し24歳で家を出る頃には、すっかり桜が嫌いになりました。桜と母の虐待が記憶の中でセットになり、私を苦しめるからでした。
そんな私が今では大の桜好きに変貌し、それもこれも最愛の夫のお陰だと感謝しています。
 

2022年に前の家から転居し、それまで一人で桜を撮っていた隠れスポットを離れてしまったので、去年は殆ど桜の写真を撮ることが出来ず今年。
掲載している写真の桜は各々とても細く花付きもそれほど豊かではないのですが、構図次第では大木の桜の樹のようにも見せることが出来るところがカメラの不思議なトリックです。
上達したのは私の腕ではなくて、スマートフォンのカメラの性能(笑)。文明の利器を利用しない手はありません。
 
 

 
昨年実家を売却する際に遺品の整理をし、その最中に母が撮った花の写真を大量に見つけましたが、どの写真も焦点のぼやけたものばかり。写真と呼ぶに相応しくないものでした。
結局全部処分しました。
忌わしい記憶や思い出と完全に決別しなければ一歩も前進出来ないと思い、母自身が写っている写真も殆ど処分しました。でも、だからと言って私の中に在る辛い記憶と決別出来るかと言われたらそうではなくて、私の中には未だ両親や弟からの虐待や嫌がらせの記憶が息づいているのが苦しいです。
 
四方八方が敵だらけだった私の半生。
夫に「私は間違っているのかな?」と訊ねてみたのですが、彼は頑として「一つも間違ってないよ。」と言います。それは恐らく彼の本心であり、真実だと私も確信しています。
 
私がこのブログで、亡くなった弟の奥方 (Eri Y.さん) を含め親族の過ちについて綴り始めると、すぐさま Eri Y.さんの知人を名乗る誰かしらからInstagramにメールが寄せられました。その人物は私に、自分は知っているけれど私が知らない多くのことがある‥ と告げて来ましたが、実家の真実の最も近くに居たのは私であると言う確信は物理的な証拠として手元に今も在ります。
家族も親族も、私に知られては困る何かを私に探られることを懸念したから、私を実家から早々に追い出し一歩たりとも実家に近づけさせぬようにして、徹底的に親族の輪から排除したのでしょう。
 
 

 
上記の書類も、その証拠の一つと言えます。
 
今このタイミングでこのメモを読むと、母の話していた「家にはお金がないのよ。」と言う口癖が全くの嘘であることは明白です。
ですが母はどういう訳か清貧思想を深く心に持っていて、音楽高校に進学した私が経済的には豊かではない人を友人に持つように仕向けられました。それが私はたまらなく嫌で仕方がなかったので、その頃から私は親に内緒の収入を得る為にレコード会社にデモテープを持ち込むようになりました。
その夢さえも折に触れ母は妨害し、当時爆発的に売れた「爆風スランプ」のディレクターに無理矢理私を会わせましたが、感性の合わない人とは上手くやって行ける筈がありません。
 
[ 中略 ]
 

私は「暴きの星」を持っています。多くの虚偽が私を捉え、虚偽の側からそれを私にを暴いて欲しいと嘆く時、私の「暴きの星」が疼きます。
遠い過去世で私はジャンヌ・ダルクとして生きました。最終的にジャンヌは異端審問にかけられ、火あぶりの刑に処せられて最期を迎えています。その時周囲はほぼ敵だらけだったと記憶しています。
でもそんな中にも時折影の助っ人が現れ、彼等は自身が私の助っ人だとはバレないように私を何度も助けてくれました。
 

色々な記憶が渦巻き、それが自分の過去世だと分かるまでには数十年の月日を要しました。そして私自身を知る旅は困難を極めましたが、現在の夫が私を私自身に引き合わせてくれたのだと思っています。
 
今年はそう遠くない場所の桜のスポットでお花見を二人で楽しんで来ましたけど、いつかもう少し田舎に出向いて桜のシーズンを満喫したいと思っています。
 
桜と言えば、私の中では「木花咲耶」を連想します。何故かは分からないのですが、今日のお花見の最中も天界からずっと私たち夫婦を見守っていて下さいました。そして天照大神も‥。
自然神と大の仲良しの私は、日々の折々で彼等にとても救われているように感じます。
 
穏やかな日々がこれからも続きますように。そう祈らずには居られません。
 
 

Christmas 2023′ (ジャンヌ・ダルクから今の私まで)

2021年12月26日を起点とすると、怒涛のような2年間が経過したように感じます。
私がかつてジャンヌ・ダルクとして生きた時、私の周囲の人々の大半が敵でした。火あぶりになる私を微笑みながら見つめていた人々の顔を私も又、見返していたように記憶しています。
その中の人々の多くが転生を繰り返し、私の実母も実父も弟も「敵」側の人たちの生まれ変わりだったと感じます。
 
世界の全てが敵ならば、どんなに心からの救いや平穏を求めても味方が現れなかった、この半生にも納得が行きます。
過去の記憶はそのまま魂に引き継がれますから、私が現世に於いても孤独である理由にも整合性が見て取れます。
 
 

 
2023年、クリスマス。
世界は光と闇に分断しているように見えますが、光のある所には同時に闇も存在します。「光だけ、闇だけのどちらか片方の世界だけが在ることの方が不可能である」‥ とは、宇宙のクリエイションからのメッセージ。
常に両者は共存する、それが宇宙の法則です。
 
争いを起こすのは常に闇の分子を多く持つエレメントだと言われますが、そうとも言えない場合もあるようです。
だから私は「闇側」「光側」と言う分類を好みません。
 
今日までに私を怪訝に感じた人たちに伝えることがあるとすれば、私が私に至るには様々な人生の変遷を経て来たと言うことです。

私が仮にジャンヌ・ダルクの生まれ変わりであると言う仮説を肯定すれば、私が朱に染まらない理由をきっとご理解頂けると思います。
黒を白と言い替えないのが私であり、悪を(その相手と親しいからと言う理由で)善に引っ繰り返さない。‥それがジャンヌ・ダルクの生き方でした。
 

‥ジャンヌ・ダルク時代の多くの魂たちがどっちみち私と関係性を当時とは全く変えたがらないのであれば、私は私の生き方を貫くのみです。
当時と異なることがあるとすれば、それは現・夫と出会ったことでしょう。
夫はそもそも人/ 属性の魂ではないので、むしろ私の人間性や霊性を客観的に理解してくれますし、私が何故こうなるのかと言う理由についても理詰めで熟知しているように感じます。
 
勿論人間と言う温かい皮膚を持つ友人が欲しくないと言うわけではないですが、それは私が妥協や癒着等と言うだらしのない価値観を許容したり、‥特に親しい人が悪人であっても「善人だ」と価値観を引っ繰り返さなければ永遠に難しいのかもしれません。
魂を悪魔に売り渡すことは、私はこの先永遠に無いでしょう。それはこの先、私のようなタイプの後輩が苦しまないように私がバイブルとなることで、少しでも歴史に貢献出来ればと言うささやかな祈りにも通じていますので。
 
何も悪いことをしていないのに「悪人だ」「嘘吐きだ」と言われた私の苦しみを私は、やり返すのではなくもっと別の方法で返して行くべきだと感じているので。
 
 

 
‥これでも私は社会性を手放してはいません。
むしろ中途半端に社会性を身につけてしまったことで、誤解が生じているのかもしれません。
なので最近はみだりに人と関わらないよう、人と親しくならないよう細心の注意を払いながら生きています。
 
2023年12月24日。
この記事を読まれている皆様にこの曲を贈ります🎄
 
 

 

音楽と毒と‥

Vaidoso No. 2” (composed by Radamés Gnattali)

 
この曲を習得したくてこの二ヶ月間楽譜を探し回ったのですが、どうやら出版されていないことが判明。
‥となれば書き取る以外に無さそう。
耳コピで書き取ります✒
 
今年旧宅の家仕舞いの際に使い込んだ文房具等も(カビ被害で)全て処分したので、又振り出しから文房具品の購入からリスタートです(笑)。
 

それにしても先日某ホテル内の中国料理店で提供されたカサゴが毒処理されてなかった可能性がかなり濃厚と分かり、毒が回りその後遺症から体調不良からなかなか回復せず(特に夫が酷かった‥)。
オマケにその件ホテルの支配人にクレームを出したら、「それはあなたがたの体調不良が原因でうちの店舗には何の問題もない。」とまで言われ、間接的に出禁になりました(笑)。
 
おかしな話です。
実際に現地で提供された料理を食べている最中に人が気を失って倒れたのに、その件に於ける可能性を全て否定し事の重大性を訴えた私たちの側が「モンスター・クレイマー」の扱いを受け、オマケに出禁になるなどもっての外です💢
 
保健所への報告も考えましたが時間も経過している為、それ以上にもっと効果的な方法で対応しようと思います。
親しい知人には勿論SNSやその他のメッセージアプリを通じて、該当のホテル及び店舗へ行くことはリスクが大きい旨、そして問題が起きても先方に一切の責任を負う意思も無いこと等を含め伝えるつもりです。
 
これは各自の「命を守る行動」に該当するので、関係者には文句は一切言わせませんよ。

母が多重人格だったと言う推理

このところの私は夫と共に、兎に角祈りに専念している。
世界はゆっくりと傾き始めていて、それはじわじわと日常生活の中に浸食して来るので多くの人々はその傾きには気付かない。
だが魂の平衡感覚は徐々に喪失し始めており、それを修正しようとする度に私は「圧」に見舞われる。
 

「圧」の一部は恐らく都内某所にある合祀墓の、私以外の家族全員の遺骨だろう。彼等は私の「食」と「生存」の自由と権利を侵害しようと躍起になっていて、その都度私は体調を壊す。
昨夜は私と夫の両方が同時に体調に異変が生じ、それが食中毒でもなければ通常のプロセスの病状とは異なる、あくまで突発性に富んだ「圧」の妨害によるものであることは明白だった‥。
 

 
そんな折、夫が母の人格や性格について分析を連ねていた件で、とある結論に到達した。

それによれば母・山田雅枝(故)が多重人格者だったのではないか‥と言う話。これには多少困惑もあったが、彼女の行動をつぶさに振り返ると確かに符合する点が多々見つかった。
 

・自身は敬虔なクリスチャンであり、尚且つ私には頻繁に「自分は聖心女子大学の児童心理学出身者だ」と嘯いていたこと。
※実際には母は、聖心女子大学の文学部卒であり、敬虔なクリスチャンどころか娘の私に日々何かしら口実を偽造しては暴力を振るう人だった‥。

・私に毎日のように暴力を振るい続けていた過去を、一切合切忘れている瞬間が連続性を帯びて出現していたこと。
(私はそれをあくまで母の虚言だと思い込んでいたが、どうやらそうではなく彼女の中に、「娘に暴力を振るう第二の人格」が出たり消えたりしていたようだ。)

・2021年1月6日頃、私が最後に母と電話で話をしていた時、いきなり彼女は女学生時代の彼女に戻って行った。その当時の親友の話、そして母を父以上に親しく思っていたであろう「或る男性」の名前が急に飛び出し、その男性からある時急に連絡が取れなくなって今でも探し続けている旨を切々と語り尽くしたこと。

・そしてそれを機に、弟・大輔が生まれた頃の話に及び、各々の出来事をまるで昨日のことのように話していた状況に私は妙に違和感を覚えた‥。

 
上記の時間の母は(夫が言うには)本人格が現れた状態である‥とのこと。
その本人格が活動していた時期は恐らく弟・大輔が生まれた直後までであり、その後何かの切っ掛けでその人格が長い間彼女の中に引き籠ったまま時を経て、私が母と話しをした最後の日の2021年の1月6日に想定外の私からの電話で母の心の表層に姿を現した可能性がある‥(これは夫の推理)。
 
何れにせよどれだけ人格が分裂していたとしても発信源は同じ人間なのだから、母の私に対してこれまでして来たことの罪の重さが変わるわけではない。
だが彼女の言動には矛盾が多く、特に自身の虚言壁を是が非でも隠蔽する為に私を家族の「外敵」として周囲に認識させ、彼女が勧善懲悪な悪意のもとに家族に対して自身の資産を徹底的に隠し通したことは事実である。

又、山田家の亀裂や破滅(事実とは異なるが‥)の原因が娘の私にある‥ と弟の嫁・山田りえ(仮名)にまで信じ込ませた母・雅枝(故)の罪は、二度と免れることは出来ない。
 

 
そんな母の遺骨をトリガーにして私たち夫婦の周辺を暗躍する巨悪な穢れを、先日夫が捕獲した。
その穢れについてはここでは詳細を述べることが出来ないが、一つの歴史を崩壊させる程の威力を持つ存在だと思われる。
 
一体誰が何処で何故、私や夫をターゲットにすべく呪術をセットしたのかは未だ定かではないが、霊界司法と手を組んで私は私たちの来世の為にもその実態を出来得る限り掴んでおきたいと思っている。

 
恐らく私のブログを当時の山田大輔(故)や母・雅枝(故)、父・寛(故)の関係者や親族、山田大輔(故)の学生時代の友人や担任等も目を皿にして読んでいることだろう。
時折爆発的にPVが伸びている状況を私もリアルタイムで見ているので、母(故)や山田大輔(故)によって捻じ曲げられた私についての人間性や人格・性格等が本当は如何なものだったのかと、疑問に思われる方も少なくない筈だ。
 
山田家の長女・美樹(私)がどこかの精神病院に隔離されている‥ とか、気分を曲げると大声でわめき散らして手が付けられなくなる‥ 等の情報は全て私の生前の家族等の虚言であることは、一連の著述を読んで頂ければ理解に易いと思う。

だが殆どの人達はそれでも、思い出を塗り替えられることに怯えているようにも感じてならない。もしも彼等の記憶と記録と思い出が塗り替えられる事態に陥れば、山田家に関わった全ての親族や関係者が私への謝罪を避けては通れなくなるだろうし、それによる自責の念は永遠に継続されるべきである。
 
未だに私から逃げ回っている弟・山田大輔(故)の嫁・山田りえ(仮名)が実は山田家の遺産を虎視眈々と狙って、大輔(故)の死後も山田家の戸籍から抜けずに母に寄り添って看病をし続けていたこと、その他諸々全ては許されぬ罪として本来ならば人間社会の司法に於いて裁かれなければならない問題だ。
だが、現実はそう簡単ではないし、アマくないようだ。
 
正直者は何とか‥ と言うことわざがあるが、今の私がそうであるかどうかは私には分からない。
 

 

そうい言えば恩師・三善晃氏がある日私に、こんなことを言った。

天才を見抜くのは、同じ天才以外には存在し得ない。


恩師とは私の初婚(略奪婚)が原因でほぼ破門のような結果に至り、彼はそのまま以後の私に再会することなくあの世に旅立った。
だが今の山田家の現状をもしもあの世の師が見ているならば是非、彼の胸中を知りたい心境にも駆られる‥。
 
 

Collection “SABINO”

近況報告、そして霊界司法について

暫くブログの更新が途絶えていましたが、その間にも沢山の方々が色々な方法でこのブログに辿り着いて下さったことを知っています。
どのような心情で私のブログを読んで頂けているのか、少し不安もありますが私は常に等身大、ありのままを生きているので、誰に何をどう思われたとしても自分自身の生き方に私は自信と誇りを持っています。
 

数か月間、夫: 天野玄斎の活動のサポートの意味も込めて宇宙関連やスピリチュアル系、霊能者関連などの発信が増えていました。
ですが私の根っこは音楽家であり、現在は音楽評論家: 花島ダリアとしての仕事も抱えています。なので活動の軸足から極力脱線しないように努めるべく、ここからは自分自身に光を当てて行くことを今は第一に考えています。
 

 
ご周知の通り私は一昨年の実母の他界を機に、母が(実は家族誰にも内緒で)一人でひっそりと抱え込んでいた色々な資産を承継し、現在は夫共々「生活をする為の収入」を得る必要が全くなくなりました。
 
本来母は(彼女の談によれば)某王室の資産の一部を継承している筈なので、私も弟もここまでの金銭の苦労をしなくて済んだ筈でした。
ですが母は自分が所持していた資産の大半を、父を含む母以外の家族全員に一切伏せていました。
 
いつの頃からか、我が家は「清貧思想」に彩られて行きました。
そんなある日、桐朋学園音楽高校の私の学費が捻出出来ないと言う母の言葉を真に受け、実際に教務課に「奨学金」の申請用紙を取りに行ったことがありました。
ところがその用紙を持って家に帰るや否や、母に頬を何度も殴打され、「こんなものを貰いに行ったら恥ずかしいったらありゃしない!」と言われ、実際には当時の我が家の収入が奨学金を申請する条件には満たないことがうっすらと発覚しました。
 
紆余曲折があり、私は人生の折り返しを経た時にようやく自分自身の等身大の人生を得ることが出来ました。
それまでの幾つかの過去世で積んだ陰徳には全く気が付かず、現在の私には金銭的な資産以上の魂の巨額な陰徳が備わっているようです。
「少しは使ったら?」と度々夫には言われますが、それはいざと言う時の為に取っておきたいと思っています。
 

 
未だ多くを口外出来ない状況ですが、記事『Reset – 2023.02.24』でも少しだけ綴った「霊界司法」の担当者(人間ではありません)とは度々コンタクトしています。

と言うより、山田家全員及び弟: 山田大輔(故)関連の霊界裁判は現在も継続中で、それにともなう弟の奥様の件では未だ調査が続いています。
その調査に一つの区切りが付いたようです。
 

 
現世では弟の方が法律の道を目指しており、東大の法律科(文Ⅰ)を卒業しているのは私ではなく弟の方でした。
勿論私は六法全書を丸飲みする程の記憶力はありませんが、法の何たるかの基礎のようなものが霊体に備わっているようです。固有名詞の記憶の苦労さえなければそれなりにその道を進むことも、きっと出来たでしょう。
 
私には音楽のミッションがあるので当然の如く「法律」の道は選択しませんでしたが、一連の霊界裁判を通じ霊界司法の担当者から色々な話を聞く間に、少し血が騒ぐような感覚が度々発生します。
 
話を戻して。
弟: 山田大輔(故)の奥様の山田りえ(仮名)」は薬剤師(現在は中医学の薬剤師)の職に在る人物ですが、彼女が晩年の母に対し何をやったのか‥ と言う調書のようなものが作成されたとのこと。
勿論霊界裁判とは現実社会では裁けないことを、霊や魂の視点で裁いて行く手段なので、そこに進展が見られたからと言ってすぐさま現実生活に異変が起きるわけではありません。
 
ですが実際に母: 山田雅枝が2021年の8月のお盆期間中に某霊団によって霊体を抜き取られ、そこから約三か月後に亡くなっていると言う現実を私は目の当たりに見ています。
その状況にかなり近い審判が近日中に下され、晩年の弟: 山田大輔(故)及び母の最も近くに居た人にも晩年の母同様の処遇が下されるとの知らせがあったので、慎重にその経緯を今後見守ることになるかもしれません。
 
勿論決定日時などについては、直接私には告知されません。ですが雲を見ていれば、おのずとその兆候は私には分かります。
 
弟、そして母の死に関しては、私は私なりの「或る推理」に到達しています。その推理は現実世界で起きている案件に役立てることはとても難しく、尚且つ現実世界の司法を以て裁くことも困難でしょう。
でも霊界司法ならば、各々の魂や霊体の記憶を彼等には引き出すことが可能ですから、個別の情報を突き合わせて行けばおのずと真実に辿り着くことが出来るそうです。

私が抱いていた二人の家族の死の裏に在る「或る推理」が、あたらずと雖も遠からず‥ と言う連絡を昨日霊界司法の担当者から得ることが出来ました。
それによれば母も弟も、双方の死因はただの病死ではないようです。どうりで母の骨壺から「火葬許可証」もしくは「死亡診断書」が抜き取られていたわけです。そこに少なくとも、母の死因が明記されていた筈でしょうから。

 
ここ数日間、当ブログの山田家関連の記事に読者が多く来られているようです。
先方は先方の事情で、山田家関連の記事を読まなければならない必要に駆られているようです。
 
このブログには真実だけを綴っていますので、少なくとも私の家族二人(弟と母)に間接的にでも手をかけた人物については、各記事を追って頂ければとても詳細に綴っています。そして読まれた方々の思い込みや誤解も、私の綴ったものによって解けるのではないでしょうか。
 

彼女は善悪のどちら側にいたのでしょうか。

答えはとても近い将来、霊界の司法がきっと提示してくれる筈です。
「彼女」や生前の弟に関わった人たちの一部も「共犯者」として、おそらく霊界司法の手で裁かれることになるでしょう。

私はその成り行きを遠くから、じっと凝視しながら見守りたいと思います。

 
さて、暫くの期間私は「音楽評論家: 花島ダリア」としての活動の方に注力しようと思います。
それは数年後にリリースを予定している新しいアルバムの為の肉付けにもなるでしょうし、この数年で大幅人口削減が進んだ後の世の中に、私が今とは違うスタンスで存在する為の準備になると思っています。
 

音楽の何が正しくて何が間違っているのか。

先ずはそのベーシックを訂正しながら、未来の音楽の所在地を作って行かなければなりません。さしずめ鉄管工事とでも言うべき、それを黙々と「花島ダリア」として進めて行くつもりです。

ブログ『花島ダリアの音楽評論』: https://dahliahanashima.wordpress.com/


先ほど作ったSpotifyの新しいプレイリストには、世界の新譜を中心とした美しい音楽をスクラップしています。
与えられた才能は世の為、人の為にとことん使い込みたいと思います。

 

🌎New Chillout Times 2023′ vol.4