河口湖の旅

2025年12月11日から13日までの二泊三日を利用して、私たち夫婦は念願の河口湖旅行を楽しんで来た。
今回の旅行は四か月前から予約して予定しておいたにも関わらず、何と言うことか前々日の夕方から、それまで快方に向かっていた左足親指の巻き爪の患部からいきなり出血があり、化膿も見られ、旅行の前日にかかりつけの皮膚科に駆け込んだ。
 
幹部が重症ではなかったものの、今回の旅の目的の一つである温泉へは (感染症の懸念がある為) 浸かってはいけないとの医師の診断があり、右半身のみ温泉に30秒浸かるだけとなった。
確か前回河口湖を訪れた時も同じような状態だったので、これはもうどう見ても「圧」だろうと思わずには居られなかった。
 

 
‥そんな私を気遣ってくれたのかと思いたくなる程、富士山は圧巻の傘雲を見せてくれた。
スマホしか撮影機材を持ち合わせていなかったことが悔やまれたが、何より心に刻むことの方が写真を撮影することよりも重要だ。
甘んじてスマホで撮影した写真が、上の写真。それでも良い風景を残すことが出来たと思う。
 
夜間の二回の神人共食に関することは、ここにはおいそれと書けない。それ程ハードで、そしてとても重要な宴となった‥ と言うことだけここに記録しておきたい。
 

 
何冊か読みたい本があったので持参して行ったが、一頁たりとも捲ることが出来なかった。
私たち夫婦には有り余るほどの会話があり、そして神人共食を終えた初日の晩から疲労は既にピークを越えていた。
私の爪の炎症の悪化に加え、夫も最近体調が安定しないので、室内から河口湖を眺めたり休んだりコーヒーを飲んだりしながら日中は兎に角体力気力を使わないよう心掛けて過ごした。
 
最近のクマ問題が常に脳裏を過っていたので、夕食の時にお料理を担当してくれた料理長に質問してみたところ、河口湖周辺にもクマは居るとは聞くが人里に (クマが) 降りて来る必要がない程自然には事欠かないし、夜間の外出さえ気を付ければ然程危険ではない‥ との話だった。
一時は (クマ問題の懸念を感じたので) 二拠点生活は諦めた方が良いのではないかと思っていたが、やはり圧巻の富士山を目の当たりにし、夢に向かってさらに前進して行こうと決めた。
 

 
上の写真は、帰りの車窓から見た富士山。間近に見る富士山の大きさに感動し、ひたすらスマホのシャッターを切りまくった中のこれは一枚。
前方の車の屋根と比較すると、富士山の豪快さが伝わりやすいのではないだろうか‥。
 
既に私は日常の生活サイクルに戻っては居るものの、先週末の「世界の音楽」の新譜チェックは若干ライトに、ブログ『ディディエ・メラの音楽倉庫』の更新は控え目にSpotifyのプレイリストだけを更新している。
そちらもよろしければ是非、お気に入り登録の上ご試聴頂ければありがたい。
 

 

発電するような熱量で‥

毎年10月から年末にかけては、どう足掻いても足掻ききれないような時間が続く。
特に実母の死後にその状況が悪化し、そのシーズン中に私の誕生日がうっかり挟まっているので最近、毎年誕生月付近に体調を壊す。
そこに来て今年はKポの騒動がさらにサンドイッチで挟まり、想定外の状況に見舞われている。
だがそんな中にも安らぎがあり、これでも今までの人生の中で今が一番幸せだと言い切る自信だけは失っていない。
 
スピリチュアルやら心霊やら、そんなことがどうでも良くなる程膨大な音楽の作業に追われている。
勿論随所随所の神人共食は欠かせないが、先日はちょっとしたアクシデントに見舞われた。その内容についてはここでは明かせないが、幾ばくかの油断と隙が私の中にあったのだと思う。
やはり驕りは危険だ。(猛省中。)
 

 
3I/ATLASの接近と共に、若干めまいと空気圧のような感覚が負荷のように体にのしかかっているのを感じている。
どこぞの誰かが言うような‥ 3I/ATLASの生命体説に関しては私は一切肯定していないが、鉱物の特性である「情報の搭載」の性質については概ね肯定している。
鉱物にも性格や性質があり、3I/ATLASが好奇心旺盛な性質を持つ彗星の一つであることは、私の感覚がそれを裏付けていると言っても良いだろう。その辺りの線引きはとても難しく、尚且つ未だ分からないことが沢山あるので結論は保留と言うことにしておきたい。
 
 
話は変わって‥ 特にこの一年間、私はどれだけの音楽に触れただろう。まさしく世界中の音楽に当たり前のように触れており、それもこれも私が死後に一旦神界に立ち寄ってそれらの情報を神界に渡すミッションを持っているからこそ、音楽の作業は一瞬たりとも止めることが出来ない。
 
このところこのブログの訪問者も落ち着きを見せているが、逆に音楽評論ブログディディエ・メラの音楽倉庫の方に読者が若干移動しているようだ。
これはとても喜ばしいことでもあり、両輪を上手く動かしながら私らしい音楽 (スピリチュアル含む) 活動が今後も継続し、さらに活発化して行くことをただただ祈るのみだ。
 
もう一つ、今年は私の音楽作品が現実世界で響き渡ると言う現象があり、それがのろしとなってその後私の身に色々良いことが起きている。感覚的にも、現実的な意味合いに於いても、これまでのような亡霊にとことん活動を妨害され続けるような現象もこの辺りで止まってくれると信じている。
 
一方SNSライフに付いて補足すると、現在稼働しているXのサブアカウントへの投稿を少しずつ Bluesky‘ 🦋 に移動したいと思っている。
理由はXのアルゴリズムがとても不安定かつ不鮮明であり、私の思うようなポストのスタイルがアカウントを危険に晒す行為に直結する可能性を危惧しているからである。
現在noteや ‘Threads‘ 等にもXの焼き回しのようなものを書いて更新しているが、そもそも私は交流下手なので余り多くのSNSに手を広げ過ぎない方が良いように思っている。
‘note’ はあくまでメインのブログ2誌の更新通知を兼ねたメモとして運用し、チャットはLINEのみとし、SNS上では雑談を控えようと考えている。
 

昨日~今日とでドッサリ新曲を足したPLはコチラ🎧
 

 

 
最近XのDM経由で仕事の打診のメール等を頂くが、事のついでみたいなオーダーには対応出来ないので、私へのお仕事の依頼は是非、以下のメールアドレスを通して頂きたい。

📧info@didier-merah.jp

音楽の洪水

体調は今一つスッキリしないが、そんなことも言っていられない。
時代は刻一刻と移り変わり、3I/ATLASもグイグイ地球に迫り来る。嫌な噂も深々と大気中を蠢くし、それにともない私の周辺も何かと騒がしい。

こんな時ウィスキーの一杯でも引っ掛けて仕事したいところだが、もう昔のようには呑めなくなった。
私は祈りに集中し、それを音楽や音楽評論、時には詞等に託して世に放たなければならない。

 
ところで、「明け方の夢は正夢になる」と言う言い伝えがある。
今朝、数年前に私たちの転居と入れ替わるようにこの世を去った愛兎/マイケルが、夢に現れた。どうやらマイケルは神獣になったようだ。ずっと私たち夫婦を、天から見ていると言う。
何となくそんな気はしていた‥。

夢に現れたマイケルは、人の言葉を話し始めている。何を話したのかについては、あえてここには書かずに居たい。長い時間をかけて、とても大切な話をしたから。
 

 
今朝早くから開始した毎週末の『世界の音楽』の新譜チェック中に、ふと‥ 見つけた友成空のフルアルバム『文明開化 (East West)』を珍しく二週した。
中でも『ベッドルーム』『ベルガモット』、そして『メトロ・ブルー』がツボだった。和もののアルバムを何週も聴くことは珍しいので、別ブログディディエ・メラの音楽倉庫に別途記事を書いた。

藤井風のファンをやめられなくてさ迷っているJPopリスナーの皆様へ、刺さる記事ではないだろうか✨
 


『メトロ・ブルー』 by 友成空 🎤

 
このブログにはテレパシーだとかスピリチュアルだとか、世に言われる「怪しげ」なネタを取り上げた記事も多数あるが、私にとっては至って普通のことだし誰にも迷惑は掛けていない。
誰かを犠牲にしたり金銭を頂いたりもしていないので、とやかく言われる覚えもない(笑)。

ショパンを聴いたかと思えばスクリャービンオリヴィエ・メシアンを聴いたり、かと思えばYMOも聴くしイタリアの古いカンツォーネやナポリ民謡からトルコの音楽やHip Hopやダブステップ等も聴く。
 

 
ふと‥ 私のもう一人の恩師/藤井一興氏は最近どうされているのか‥ と調べてみるまで、私は知らなかった。藤井一興氏まであの世へ旅立ってしまったことを‥。
藤井氏と言えばオリヴィエ・メシアンを美しく演奏する人だと私は思っていたのだが、サブスクにもYouTubeにも藤井氏のメシアンはなかった。と言うより彼自身の作曲による作品を、殆どレコーディングで遺していなかったのがただただ残念でたまらない。
 
色々ショックなことが最近続いているが、今日は12時間以上音楽の洪水にほぼ溺れていた私はもう限界。
この記事の〆に、最初想定していた曲とは全く異なるが、藤井一興氏の『水の戯れ』(Maurice Ravel) のYouTubeのリンクを貼っておく。
 
この曲は私が、藤井師に最後のレッスンで見て頂いた曲だった。中学二年生だったと記憶しているが、当時の私の十八番だった。そして藤井師に大きな花丸を頂いた一曲でもあった。
その後間もなく私は、桐朋大学音楽大学の当時の学長/三善晃氏と出会うことになり、それ以外の何もかもが全く目に入らなくなった‥。
 
私と三善晃氏の話は、私と師にとっては至って普通のことなのに人はそうは受け取らないようだ。私が普通に話すことが、聞く人によっては誇張だとか嘘めいた話に聴こえるらしい。
 
実は私のピアノの師は、もう一人居る。それは遠藤郁子さんだ。
 


遠藤先生に師事したのは、かれこれ私が小学2年~3年生辺りだった。本当に短い期間だったが急に親の教育方針が変わり、小学3年生の夏に桐朋学園音楽大学附属『子供のための音楽教室』に受験することになり、受験のプロフェッショナルの元に移動せざるを得なくなったことその他色々な要因が重なり、気付いたら遠藤郁子先生のレッスンをやめさせられていた。
 
まぁこの辺りの話はもう過去のことなのでもう何も言わずに、この辺りで記事を〆ようと思う。
 

 

アレクサンドル・スクリャービンに関する考察

そもそもの発端はSNSのXでの雑談であったが、折角の機会なのでスクリャービン (Alexandre Scriàbine) について色々深堀りしている。
書籍でも企画等でもそうであるが、一人よりは二人、二人よりは複数での研究の方が勢いづくことが多いと思うが、時に二人が一人になってしまう事故が起きる。今朝の一件がまさしく、それであった。
 
話をスクリャービンに戻して、先ほどから色々な演奏者のスクリャービンを聴いている。
思い起こせば私は中学生からスクリャービンを弾き始め、大学生になった頃にはクラシック界が現代音楽一色に染まりかけていた。猫も杓子も現代音楽 (特に作曲科界隈で‥) に傾倒し、調性音楽等書いている学生はどこか馬鹿にされるような空気があった。
私は破壊芸術側の現代音楽よりも、実は調性音楽側のロマン派辺りの作曲家を好んだが、周囲にそれを話したことは一度もなかった。そもそも人目に付かぬように日本のポップス界のど真ん中に陣を敷いたわけだが、それすらかなり特殊な方法で私はレコード会社各社を跨いで駆けずり回ったものだった。
 
話をスクリャービンに戻そう‥。
新旧色々なスクリャービンを聴いているが、どれもしっくり来ない。多くのピアニストがピアノと言う楽器の根本を、分かっていない。ピアノの打鍵の瞬間の繰り返しを音楽だと思っており、音を出さない空間を音楽として捉えていないからだろう。
だが、ピアノと言う楽器はペダリングこそがピアノらしさであり、ペダリングを制覇しなければピアノを制覇したことにはならないと、私は思っている。
 

 
特にスクリャービンの音楽はロマン派から近代音楽に跨っている為、奥底に神秘の宝がふんだんに眠っている。それはモーリス・ラヴェルクロード・ドビュッシー、或いはセルゲイ・ラフマニノフとも異なる、もっと曖昧な雲やガスのような色合いに近い不透明性とも折り重なる感性だ。
その不透明性を表現せずして、スクリャービンを演奏することは出来ないだろう。
 
だが多くのピアニストに見られるのは、胸をピーーンと張って「我こそが世界最高のピアニストなり!」と聴衆を威嚇しまくるような解釈だ。
ハキハキと打鍵し、スクリャービンの持つガス感や霞のような神秘性とは真逆の表現をして、寝た子を起こすような華やかな演奏をしているように思える。リストやブラームス、ベートーヴェンじゃあるまいし、寝た子はそのまま寝かせておけば良いものを、それらの暖かなヴェールを剥がしてしまったらそれは最早スクリャービンでも何でもない別の音楽だ。
 

 
誰彼の演奏が良い/良くない‥ と言う話のテーブルのベーシックすら完成していない状態で、音楽のネタを私に振って来ること自体どうかしている(笑)。
 
最近のクラシック音楽界は二極化しており、かたや古典やロマン派のオーソドックスな音楽を好むリスナーと、もう片方では破壊芸術やノイズ音楽にほど近い現代音楽の側を推すリスナーとに完全に二分している。
私はそのどちらでもないからこそ、自身の音楽を生み出しているわけだが、この「どちらでもないスタンス」の方が本来の音楽の進化の方向性だった点については多くの音楽家や音楽評論家が認識していないのが現状だ。
 
クラシック音楽に蔓延している「聴き比べ」の文化とでも言うべきか、そこを離脱しない限り、クラシック音楽界の成長や進化は望めないだろう。
 

 
数十年も前の音源を取り沙汰してああだこうだと言ったところで、録音技術も未熟だし、何よりクラシック音楽家の権威主義が厚く業界に根を張っているような世界で、新しい価値観が芽を出す隙など無くても当然だ。
 
古い演奏者の音源を論評するよりも、もっと空間音響の知識を身に着けたり、クラシック音楽の分析や解釈の底板を厚くすることに注力して欲しいと願わずには居られない。
 
色々なスクリャービンの音源を聴いて感じることは、スクリャービン自身が望む音楽や音楽性を再現している演奏家が殆ど見当たらないことだ。
楽譜を見れば一目瞭然、スクリャービンが何を思い、どの世界観を心に持ち、その高みをどのような心境で目指していたのか‥ 等、手に取るように分かる筈。だが、そこまでの推察を施している演奏者が現状殆ど見られないことが、ただただ残念で胸が痛く、そして切ないばかりだ。
 
現代のクラシック音楽界の「コンクール主義」や「タレント活動」体質、或いはクラシック音楽のアンバサダー主義が演奏者及び業界の見識を完全に歪めてしまっているのだろう。
そこに付け加え、クラシック音楽愛好家の「聴き比べ主義」が業界や文化そのものを衰退させていると、私は思っている。
 

もしも私に弟子と言う存在があったら、何を伝えられるだろうか‥。
勿論クラシック音楽界で生き残れる手段は伝授するだろうし、既存のコンテストにも出場させることがあるかもしれない。
だがピアニストとして長く生き残るには、それだけでは足りない。
先ずは作曲を教えなければならない。そして音楽の解釈、分析をきっちりと教え込んで、最終的にはオーケストラ全体をまとめる為の手法を伝授すると思う。
 
その上で、自分自身の世界を持つ方法を、きっと弟子には伝授することになるだろう。
 

 
肝心のスクリャービンであるが、私は上記のミハイル・プレトニョフの演奏解釈と、本記事の最後にリンクを貼るウラディーミル・アシュケナージの解釈が好みだった。
 

全く余談ではあるが、スクリャービン探索の最中に色々な音楽に遭遇した。
その中で、ピダルソ (𝗣𝗶𝗱𝗮𝗹𝘀𝗼) と言うピアニストが奏でる坂本龍一の作品『A Flower is not a Flower』に息を呑んだ。
坂本龍一氏の作品の中では最も美しい曲だと、個人的に好んで色々なバージョンを聴いてもいる。

ピダルソは多分韓国のピアニスト (兼 作曲家) と思われるが、情報詳細は未だ掴み切れていない。
その動画を補足として、このブログの最後の〆に貼っておきたい。
 

音楽は全て繋がっている。そして時間も時空も超えて行く、とても不可思議な生命体である。
 

 

関連記事:

 

最後にこの記事を書く切っ掛けを与えて下さった某人へ、感謝の意を表したい。
もう二度と関わることはないかもしれないが、このような良い機会を得られたことはとても貴重な宝だったと思う。

自然神が語る熊の異変 – The God of Nature tells us about the strange behavior of bears

体調不良が続いているさ中、ずっと気になっていた熊のことをさらに深く考察している。
勿論私は熊でも豹でもないし、ましてや麒麟でもない。だからこそ、このところ日本の各所に頻繁に現れる熊のことを知りたいと思った。
 
それよりこの熊騒動の件が、妙に心に引っ掛かっていた。一連の現象が人災であることの他に、背景に地球の自然神の息を感じてならなかった。

だからと言って私に出来ることなど限られているのだから、他の生き物の霊的な領域に首を突っ込むつもりはない‥ としても、兎に角気になったので、間にずっとお世話になっているカビの自然神を挟んだ形でセッティングをお願いした。
 

 
簡略化して書くと、どうやらこういうことらしい。

  1. 太陽光が変質し始めたことで、生態系にも異変が生じている。熊の場合に限定して言うと、熊の気質や本能等に異変が現れた可能性が高い。
    これまで餌とは認識し得なかった対象を、餌と認識してしまった可能性がある。
  2. 人間が地球上の環境破壊を止めないことに対し、一部の自然神の強い怒りを買ってしまった。
    自然神にも穏健派と過激派が実在し、互いにけん制し合っているようだ。‥全ての自然神がヒトの絶滅を望んでいるわけではない。
  3. [1. の理由により] 一部の生き物の性質に異変が生じ、今後熊以外にもヒトを敵或いは餌と認識し始める生き物が現れるだろう。(例えば鷹、鹿、イノシシや豚等。)
  4. 熊騒動の場合、人災が半分、残りの半分は地球の意識の異変や生理的な現象によるところが大きい。これは最早自然神の意思では変えようがない。


まとめるとこうなる。

付け加え、祈りについての自然神の考察を訊いてみた。
自然神曰く、祈りは数ではなく質である。実際自然神に祈りを届けられる人の数は少なく、祈りに対する自然神等のレスポンスを受け取る際にその人たちにも大きな負荷が掛かるとのこと。

自然神はさらにこう、付け加えた。

限られた祈り人に、多大な負荷を掛ける気は毛頭ない。但し、届いた祈りに対してのレスポンスは必ず返すことになっている。これは自然神界の法のようなものであり、その強弱や高低を不必要にコントロールすることは出来ない。
 

私に出来ることはただ一つ、祈ることだけである。失われた森林を何等かの方法で復活させ、乱開発された地球の土地の一部を森に返すこと。そうなるように、祈ることしか私には出来ない。
 
一つだけそれ以外の方法があるとすれば、数名の自然神等を通して直接熊の神獣に語り掛ける方法が挙げられるが、それはしないでおくつもりだ。
熊の気質を考えるとその方法はとてつもなく危険であり、むしろ熊全体の闘争本能に火をつけてしまいかねないので。

 
思えば私はこんな曲を、既に配信している。

 
環境破壊への警告と、既に始まってしまったであろう自然神等の人類への警告と復讐のマインドを私は早々に感じ取っており、2020年にリリースしたアルバムWorld of Natureにそれを記録している。
録音日時は、2019年12月1日。
 
まさに地球は、「イマココ」だ。
 

Can’t say, Can’t write‥

足の爪が巻いて巻いて、どうにもならなくなったので巻き爪外来に向かったら、思いっきり液体窒素で皮膚を焼き取られて泣いている。
爪が皮膚に食い込む痛みに比べればそれよりは痛みはかなり軽いのに、いざ処置が終わって数時間もしないうちに違う痛みが押し寄せた。まるで奇襲のレベル。

抗生剤と鎮痛剤を服用しながら、数日間が経過した。
それと同時並行で、隣国の騒動が一転した。
それについてはこの記事では一先ず省略、今は余り色々なことを考えたくない心境なので。
 

毎週末のサウンドチェックは今週末も進んでいるが、良い音楽は日に日に減って行く。
兎に角良い音楽を食べたい私にとって、これはとても辛い。きっと日本各地に出没しているクマたちも、似たような心境だろう。
音楽の激減も、そしてクマにとっての住処と食糧の激減も、どちらも人災に他ならない。
剥ぎ取られて行く自然環境と並行して、音楽も人も退化して行く。私はそれが、とても辛い。
 

 
抗生剤の疲労と眠気が交互に押し寄せる中、最近数名の詩人や音楽家たちとチャットを楽しんでいる。‥と言うより、先方にしてみれば私の厄介な会話の襲撃に付き合わされているのだろう。
だがそのお陰で、色々な詩集を購入したり自らも散文詩のようなものを書いたり‥ と、少し楽しい時間を過ごすことが出来ている。
 
今日はフラメンコの神/ ビセンテ・アミーゴのギターにも久しぶりに触れることが出来たし、若い中国のアーティスト/ DEN (邓杰) のアルバムを聴くことも出来た。
体調不良は良くないが、必ずしも悪いことばかりでもないようだ。
 

 
それよりもNewJeansはHaerin (ヘリン)Hyein (ヘイン) のADOR復帰にともなう障害壁の方が、とても気掛かりである。
HYBEが彼女たちを脅して復帰させただ何だ‥ と言う嫌な噂を流す人たちも複数居るようだが、それは無いだろうと私は見ている。むしろ上記二人以外の残りのメンバーの執着の方が、余程危険かもしれない。
 
悪い情報を見てばかり居ると心が荒むばかりなので、音楽で邪念を払拭したいものだと思う。
 

 

 
今週末からPL (プレイリスト) も刷新したので、是非🎧
 

3I/ATLASと体調の異変、そして祈り

特に今年の9月辺りから、色々な宇宙情報を収集しています。
日常生活の端々に突如現れる異変と最近の体調の異変とがあながち無関係とは思えず、‥だから、直ぐに病院に行くと言う段取りとは異なるもっと別のプロセスの過程に (私たち夫婦は現在) 在ります。
 

私の体調の異変に関しては、やはりめまいとそれに同期するように現れる頭痛。
おかしなことに頭痛とめまいはそれぞれ異なる周期を持っていて、めまいと頭痛は入れ替わるように体調に現れます。
頭痛にも段階があり、どうやら私自身が何かしらの信号を感知している可能性も否定出来ません。
症状の詳細については、ここでは伏せておきます。
 
以下に、とても気になる動画を見付けたので、そのリンクと動画途中の音声の切り抜きだけを貼って、今日のところは一旦そこでブログを閉じます。
 

 

以下、部分的な文字起こしにて ⇩
 

── 35:41 ⇨ 36:58 付近 ─── ⇩
 
人類は観測されている
そして、試されている
次の段階に進む準備が出来ているかどうかを。

次の段階とは何か。
それは宇宙文明の一員として認められること。
地球と言う小さな惑星の中だけで生きる存在から、
銀河規模で活動する存在へ、
その転換点が、今、訪れているのかもしれません。
 
でも、そこには条件があります。

人類が、争いを超えられるかどうか
資源を奪い合うのではなく、共有できるかどうか
自分たちの利益だけを追求するのではなく、全体の調和を考えられるかどうか。
もし、これらの条件をクリアできなければ、接触は許されない。
もし、クリアできたなら、新しい時代が始まる。
 
(中略)
 
そして今、人類は選択を迫られている。
恐怖に戻るのか
それとも、祈りを選ぶのか
見えないものを否定するのか
それとも、見えないものに心を開くのか

その選択が、人類の未来を決める‥

これは、仮説です。

 

【追記】
『祈り』は、法則性、規則性、情念力学、このどれにも当てはまりません。ただ、そこに『祈り』と言う動機と動作があるのみです。
 
光と闇、そのどちらにも従属しない『祈り』はこれまでは、光側からも闇側からも標的にされて来ました。
時間を掛けて作用する薬草の効能は『効能』としての定義を確立していません。ですが、時間の制約を外せば必ずと言ってよい確率で、心身に作用して来ました。
 
祈りは全ての定義を超えます。
ご利益やリターンを一切求めない祈りが今、宇宙に暗躍する何かしらのエネルギー体の標的になっていると言う仮説を立てた場合、私 (夫も含む) たちの体調の異変にも納得が行きます。

ディディエ・メラの生誕祭と神人共食 at 2025.11.03

2025年11月3日、無事に61歳を迎えることが出来た。
とは言え今年は春先から病気やケガが続き、現在もめまいと足の爪の膿み (巻き爪) に悩まされているが、それ以外は比較的元気に過ごしている。
 
11月3日、夜、大好きなイタリア料理で夫と神々と共に、生誕祭をこじんまりと開催した。
神々氏名の列挙はここでは回避するが、錚々たる面々からの祝福が寄せられ、宴は翌々日の昼まで続いた。
大好きなイタリア料理店ではBGMにアンドレア・ボチェリエロス・ラマゾッティ等を中心とした音楽がランダムに流れ、束の間ではあったが過去世に生きたトスカーナの原風景を思い出しながら舌鼓を打った。
 

 
⇧ 上の画像は「鹿肉のソテー」
鹿肉の下に敷かれたイタリアのキノコが又、良い仕事をしてくれる。
 

私たち夫婦は、神人共食中はアルコールを一切口にしないので、当日の飲み物はペリエonlyで。これが味覚をさらに鋭敏にしてくれるので、料理の味を際立たせてくれる。
この日はシェフに献立をお任せしたイタリアン・フルコース。次から次へと、シェフの気迫溢れる料理が運ばれて来る他、上空に出揃った神々の取り計らいでお人払いと相成ったのか客は私たち夫婦を含め3組だけだったので、シェフの私たちの料理への集中力も過熱したように感じた。
 

 
⇧ 上記は、唐辛子を練り込んだ手作りパスタ。イタリアントマトとしらすが良い仕事をしている🌶️
 
一皿一皿の紹介があるので、今にして思えばそちらの方を録音しておけばよかったと後悔‥。
各料理の名前を、店舗を出た瞬間に忘れてしまうと言う失態。でも脳と霊体に味を刻み込んでおいたので、後から味を霊体に復活させることは可能だ。

丁度このパスタがテーブルに届いたタイミングで、以下の曲がかかっていた。にわかに曲名を思い出せなかったが、エロス・ラマゾッティの声だと言うことは直ぐに分かった。
 

 
コースの中盤に入っても、前半に届いた「モンサンミッシェル産のムール貝の白ワイン蒸し (正式な名前を訊き忘れた‥) の味が抜けて行かないのは、上空で神々がかなり長い時間をかけて料理を蒸し返しながら堪能していたからだと思われた。
 

 
神人共食の主催者は概ね天照大神と決まっており、当日は富士山の自然神もお出ましになった。私たち夫婦を富士山の麓に移住しないか‥ と誘致してくれている、頼もしい神である。
 
BGMはアンドレア・ボチェリの『Anema E Core』へ。

 
居ても立っても居られず、サビノ神父がナプキンで目頭を拭う姿が届く。
この曲は古いカンツォーネ。今でも多くの新旧カンツォーネ歌手が、こぞってカバーする名曲中の名曲だ。

アンドレア・ボチェリの声も表現も正統派なので、思わず私も少しだけ涙ぐみながら料理を口に運んで行く。
 
思い返す過去世の色々‥。
サビノ神父はイタリアから佐賀、そして東京へと移り住み、途中母 (故) の母校である聖心女子大学の専属の神父に就任し、その後は横浜は秦野にある教会の専任の神父に就任するが、1983年に信者宅へ向かう飛行機の中で逝去。
持病だった心臓病が悪化し、機上で発作が起きたことによる死亡とのことだった。
 
上空の神々は珍しく静まり返っており、無言で私たちの味覚を借りて料理を堪能しているご様子。
メインの「鹿肉のソテー」までを一気にお召し上がり頂いた。
 

 
61歳にもなって余り仰々しいパーティーもどきにはしたくなかったので、店舗には私たちが着席してからコソっと‥ その日が私の誕生日である旨を伝えたつもりが、届いたデザートがこんな感じに仕上がっていた。
デコレーションに少し時間を要したみたいで、かえって申し訳なかった。
 

 
BGMはこの曲 ⇧ になっていて、これが又いい感じで場を盛り上げてくれた。
 
良い料理も良い音楽も、時間を越えて行く力を持つ。そして長く記憶に留まり続ける。
そして多くの神々や自然神の面々に見守られながら、生誕祭は無事終焉。‥だが、そこからが長かった。
料理の余韻覚めやらぬ神々はなかなかお帰りにならずに上空に残られ、二日後の夕刻を合図に解散されたご様子だった。
 

今年は色々な病気や怪我に見舞われたが、夫や周囲のサポートを受けながら何とか乗り切って来られた。女性特有の色々な症状も体に現れては消える今日この頃ではあるが、ここからはひたすらスローライフを心掛けながらのんびりと生きて行きたい。
そして数年以内に新しいアルバムの構想にも着手し、70歳をメドに各アルバム楽曲の楽譜化も予定している。
 

当ブログを読んで下さる皆様と共に良い一年を歩んで行けたらと、願ってやまない。
Spero di trascorrere un anno fantastico insieme a tutti voi che leggete il mio blog.
 

祈りと音楽と (Aram Gharabekianを想う)

数年振りにアルメニアの音楽に触れた。
とある音楽ライターがそのジャズ・ピアニストを紹介しており、「アルメニア」と言う文字が瞬時的に私を過去に引っ張り込んだのか、暫し私は時間を移動した。
 
3I/アトラスの接近と、間もなく訪れる母 (故) の誕生日間近の彼女の念の高まりとが相まって、このところすこぶる体調が良くない。
もっとブログその他色々書きたいことがあるのだが、体も心も気力も上手く作動しない。
だが、そんな私を突き動かした「アルメニア」の五文字。それ自体、その音楽自体は余りにつまらなく欲望の塊のように私を突き飛ばそうとしたが、その隙間からアルメニアの指揮者/ Aram Gharabekianが奏でるアストル・ピアソラの『天使のミロンガ』 (Milonga del Angel) の音色が弾け飛んだ。
 
Aram Gharabekian (アラム・ガラベキアン) は2014年、58年の短い生涯を閉じた。
彼の棒こそが私をアルメニアの音楽に開眼させ、私は数年間Facebookにアルメニアの音楽家を応援する為のページを設け、それを運営していた。
当時ページには3,000人近くのファンが付いたが、そもそも私はアルメニアを通じて自分の音楽を普及させたいと言う希望と欲があり、結果的にページの運営は余り上手く行かなかったが、とても幸せなひと時を送ったことも又事実だった。
 
そんなことを思い出させてくれたことはある意味とても良かったのかもしれないが、同時に私が2011年の冬まで25年間近く続けて立ち去った和シャンソンの世界の稚拙さへの腹立たしさを再燃させた。
 

 
音楽と祈りが分離したのは、いつの頃からだろう‥。
今や音楽は商売と密接に繋がりを持ち、商業活動をしない音楽家は最早音楽家とは呼ばれないかのような時代である。
だが、第19回ショパン国際ピアノコンクールで審査員を務めたクシシュトフ・ヤブウォンスキ氏の問題発言にもあった通り、「芸術は再生回数では測れない。」との一言はクラシック音楽のこれまでの生温さ、軽率さに重い一石を投じることになるだろう。
私はそう信じたい。
 

時代が変わったのではなく、ある意味では音楽の側が変われないのだ。
良い音楽を生み出す作曲家がクラシック音楽界に育たなかったこと、後輩を育てて来なかった権威者の責任は大きい。
それぞれは別のジャンルの出来事に一見見えるかもしれないが、実はクラシック音楽も日本のシャンソン業界も同じような状況にあり、基礎教育以前に祈りを持たない者たちが安易に音楽世界に侵入し過ぎた。
 
音楽は色々な道具に利用されている。
それは日本のポップスで言うところの藤井風にも通ずる問題であり、彼の場合はサイババ教義の布教に音楽を利用し、それで荒稼ぎをしているのだから手が付けられない。その悪しき言動にまんまと騙されたまま乗っかって、見聞きしたことをなかったことにして藤井の応援を頑固に止めようとしないファンも、藤井風と同罪だろう。
 
だがその一方で、本物の祈りを生涯捨てずに短い生涯を閉じたAram Gharabekian (アラム・ガラベキアン) のような音楽家が実在したことを、絶対に忘れてはならない。
それは特定の神に対する祈りを越えて、音楽や演奏、しいては指揮棒一つで人々を祈りの中心に引き寄せ、集めて行く力を持っていた。
 
最近は殆ど使用していない (広告が多過ぎて使用出来なくなってしまった‥) Facebookで繋がっているMario Stefano Pietrodarchi氏とアラム・ガラベキアンの共演動画を再試聴し、まさに今心が震えて止まらない。
 

 
世界中にアストル・ピアソラの音楽を収録した動画は山のようにあるのに、私が聴きたいと思うのはこの動画だけだと言っても過言ではない。

Mario Stefano Pietrodarchi氏はどちらかと言うと情念タイプのやんちゃなバンドネオン奏者だと思うが、そんな彼の情念過多にも陥りそうな演奏をアラム・ガラベキアンがしっかりと、強引なまでに上から理性で抑え込んで行く様は圧巻だ。
ピアソラとはこんな音楽性だったかと耳を疑う程の、あまりにも完成された様式美がただただシンプルに胸を打つ。
 

 
私がかつて愛したのはアルメニア人ともアルメニアの音楽とも違う、一人の指揮者だったのかもしれない。
気品を備え、時には全く指揮棒すら動かさずに音楽全体をまとめ上げて行くアラムの棒を見つめていたら、ふと、3I/アトラスの好奇心と鉱物的な知性の両方と折り重なった。
私にはないエレメントに、きっと今の私は振り回されているのだろう。
 
ここ最近のめまいと集中力の無さが余りにも自分らしくないと苛々している、そんな私が嫌になって来る。
 
何もかもが悪霊の力だとするならば、それを振り払う武器は文字通り「理性」に尽きるのかもしれない。
そんな理性と、クラシック以外の音楽に目覚めた8歳頃の自分を、Aram Gharabekian (アラム・ガラベキアン) が再び思い出させてくれた。
 
この記事の最後に、私が愛して止まないアラム指揮のLibertangoの動画を貼っておきたい。
(R.I.P Aram G. 🌈)
 


アフタヌーンティー (in TABLE 9 TOKYO)

このところ音楽で多忙を極めていた私たち (with 夫) ですが、先日品川のTABLE 9 TOKYOへアフタヌーンティーに出掛けて来ました。
勿論私たちの外食と言えば、神人共食はつきものです。
当日は主に女性の神々を中心に、日本神界の外側からも女神が参加されました。
 

 
あいにく私も夫も体調が万全とは行かず、前日から内臓の疲れや腰痛等を各々が発症した上、寝不足気味の状態とも重なり、写真撮影に全く気が回らずにただの記録写真となってしまったことを先にお詫び申し上げます。
 
とは言え、神々にはとても喜んで頂くことが出来たので、良しとします。
 


毎度のことながら「圧」との闘いだったと、当日を振り返るとそれがよく分かります。
とは言え「圧」にばかり気を取られていては本末転倒なので、その瞬間瞬間は余りネガティブな思考に囚われないよう、夫婦共々前向きに神人共食にいそしみました。
特に夫の体調不良が翌日にはすっきり解消されていた状況は不思議でした。
 
私はこのところめまいが頻発しているので、行動 (特に歩行) は慎重です。
若干糖分摂取の制限も設けている為、アフタヌーンティー当日は飲み物には一切糖分を加えることなく、ほぼノンシュガーで通しました (私は甘党なので、飲み物に糖分を足さないことは珍しいです)。
 

 
ご参加下さった神様方のお名前は伏せますが、意外な国から女性の神様が参加され、そして余り生前馴染みのないスイーツをとても喜んで頂けたことが私たちも嬉しかったです。
 

今年は先に足を運んだ旅先の老舗のホテルのレストランで、私のCDPasswordを店内BGMにして頂くことも出来て、とても感慨深い年になったように思います。
還暦の年に、思い出深いホテルで私の作品が物理的な音声として響いた瞬間、そのホテルで最後 (神父の晩年) に会うこととなったサビノ神父の目に光るものがふと、視えたような気がしました。
 
勿論サビノ神父は既に旅立たれていますが、霊体としての彼とは頻繁に対話が出来ているので、その様子は目で見るよりも鮮明に私の脳裏に焼き付いて離れません。
 

 
話をアフタヌーンティーに戻して、最近健康面の事情で甘いものを控えている私にとって、とても味わい深いひと時を過ごすことが出来たのも、ひとえに夫の多大な応援のお陰だと思っています。
彼あっての、今の私です。

日々、圧の原因となる悪しき霊体 (或いは呪詛) の解除で、彼も疲れ果てています。なので私に出来ることはとても少ないながら、なるべく夫の心身が休まるようなひと時の為に私ももっと頑張らなければいけないと思っています。
なかなか体力的にも上手く行かないことが多いですが、出来る限りこれからも夫婦共々長くこの世界に居られるよう、頑張って行きたいと思います。
 

最近本当に音楽のことで忙しくなっており、此方のブログの更新が若干滞っていますが、SNSのサブアカウントと別ブログディディエ・メラの音楽倉庫の執筆は継続していますので、是非そちらの購読もよろしくお願い致します。
 

https://didiermerahbox.wordpress.com/
 
 
⇩の写真はTABLE 9 TOKYO のアフタヌーンティーのオプション、『実り』の記録。
絶品でした🌰

 

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新たな購入がないと、私たちから新しい入庫が出来ない状況なので (多分Amazonが在庫を抱えないような仕様になっていると思われます‥)、是非欠品状態だからと言って商品の補充を待たないでご購入頂ければありがたいです。
 
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