【”I Need U Back” [Official video] by 藤井風】を分析する (Analyzing “I Need U Back” [Official video] by Fujii Kaze)

2025年10月9日、夜、藤井風の『I Need U Back』の動画をYouTubeより公開した。
 

 
冒頭から藤井風が、マイケル・ジャクソンの『Thriller』級のメイクアップで映し出され、動画の最後まで藤井はメイクの仮面を一切剥ぎ取ることなく主役を演じ通して行く。
 

 
楽曲『I Need U Back』は曲調の観点では、80年代に流行ったロックに同時代のアメリカン・ポップスを足したような一曲で、特に目新しさは感じない。
おそらくこれは藤井風と言う一風宗教的なアーティストを欧米圏に無難に浸透させる為の、プロデューサーサイドの戦略とも言えそうだ。
 
ふと、この動画を視ながら私は、メキシコの祭り『死者の日(ディア・デ・ムエルトス)』を思い出した。実際に一度だけ私はこのお祭りに足を運んでおり、当時の空気感が藤井風の『I Need U Back』のオフィシャルビデオにかなり色濃く反映されているように感じた。
 

※メキシコには「死者の日(ディア・デ・ムエルトス)」という、故人を偲び、明るく楽しく祝うお祭りが毎年11月1日と2日に開催されます。お盆に似た行事で、マリーゴールドの花やロウソク、ガイコツの砂糖菓子、パンで祭壇や墓を飾り付け、家族の絆を祝います。街中ではパレードやガイコツメイクの人が溢れ、メキシコを代表する伝統的な文化の一つです。
(AI説明より)

 

 
勿論、藤井風の『I Need U Back』オフィシャル動画の中にはリオのカーニバルをも彷彿させる衣装を着た演者も居れば、ハードロックテイストの衣装を着た演者等も紛れているが、時期的な条件を考えるとやはりメキシコの『死者の日』を強く意識した作りになっているように思われる。 
 

 
これまでの藤井風のインド色を徹底的に封印し、動画にはロザリオ (十字架) をあえてシンボルとして印象付けるような演出も施され、最近SNS等で声高にささやかれている『藤井風 ⇨ サイババ二世 ⇨ ステルス布教』の風向きを頑なに否定するような向きも感じられる。
 
確かに曲調がアメリカンロックを強く意識しているのだから、この楽曲にインドカラーは不向きであろう。とは言え、のっけから藤井風がギャンギャンにメイクを施し、若かった頃のデヴィッド・ボウイみたいな顔で現れると流石に違和感が先に立つ。
 
 
デヴィッド・ボウイ

 
 
藤井風

 
さらにこれまでの藤井風の持ち曲と一線を画すものがあるとすれば、それは歌詞の内容だろう。『I Need U Back』では死の色よりも「生」とか「躍動」と言った、死生観で言うところの「生」の側が生々しく描かれている。
だが、やはり背景にはメキシコの『死者の日(ディア・デ・ムエルトス)』の影が立ち込めている辺りは、やはり藤井風の中にも捨て切れない宗教観のギリギリのラインだけは維持したいと言う、意地のようなものがあったと見るのが妥当かもしれない。
 

Spotifyで聴くとM-1: Casket Girl からM-2: I Need U Back が曲続きになっており、単体では聴かないでよ‥ と言う藤井風のアルバム試聴に対する裏の意図が見えるが、この演出が果たしてどのくらいリスナーに影響を与えているかについては判然としない。

さらにこれは偶然とも必然とも付かないタイミングだが、ふと‥ Michael Jackson のBlood On The Dance Floor X Dangerousの動画がこのタイミングでYouTubeのぶら下がりに浮かび上がって来たので視てみると、なになに‥
藤井風の『I Need U Back』の動画構成とかなりかぶっているではないか!!(笑)。
 

 
これこそ神にお導きとでも言うべきか否かは私には分からないが、藤井風が仰ぐ神とは一体何者なのか‥、各動画を視ながら私なりにさらに分析を進めて行きたいと言う好奇心に駆られたことは言うまでもない。
 
残念なことに、藤井風はダンスもヴォーカルもカリスマ性に及ぶ全てに於いて、マイケル・ジャクソンの足元にも及ばない。どんなに動画構成を真似たところで、両方を見比べたリスナーは結果的にご本尊を選び取るだろうし、マイケル・ジャクソンの神々しさを追い掛けることぐらいしか藤井風にはなすすべがないだろう。
 
最後に付け加えるとするならば私は、藤井風のファンでもアンチでもない、ただの芸術家であり音楽評論家である。なので音楽 (ないしは表現) と言う切り口で物事を分析し、粛々とそれらを評論しているに過ぎない。
その上で、藤井風の新しい動画『I Need U Back』の出来栄えを点数にするならば、百点満点の63点と言ったところだろうか‥。
この記事ではあえて藤井風 VS マイケル・ジャクソンと言う切り口で綴ってみたが、意外に分かりやすい表現分析ではなかったかと思っている💃
 
 

 
 

■ 追記 ■

SNS界隈でも噂になっていた番組、「完全版」藤井風 NHK MUSIC SPECIAL【藤井風 いま、世界へ】 Fujii Kaze 2025.10.9を、遅ればせながら (2025年10月10日の早朝に) YouTubeで試聴した。
 

 
この動画の中にも、やはり藤井風に潜む多くの人格がスポットに現れては消え、又現れては消える‥ を繰り返していたように見える。
 
一つ分かりやすい彼の動向の癖を挙げるとするならば、「実際には何も無いところに物があるように見せ掛ける小技 (こわざ) 」が非常に巧みであると言うことだろう。
そもそも彼には音楽の基礎教育すらないわけだし、英語がネイティブ言語と言うわけでもない。だが、そこに才能とスキルとアイディアが元々あったように、動画の中でも後付けの見せ掛けを企んだ箇所が随所に見受けられた。
 

 
特に250 (イオゴン) との作業風景にそれが特徴的に現れており、藤井の行動の大半が過去の情報やデータの再編集で成り立っている点が悪い意味で印象的だと感じた。
 
無いものをあるように見せ掛けて商品として完成させて行くプロセスは昭和の時代からそのまま引き継がれて来た商業音楽の定番スタイルであり、ディレクターの存在がほぼ皆無でも音楽制作が成立するようになった現在の音楽シーンではむしろ、致命的な欠落を見落としたまま商品を完成させてしまう悪状況を引き寄せる。
250 (イオゴン) との作業に於いてはそれが顕著に露呈しており、そのプロセスが藤井風の新譜『Prema』全域に及ぶ過去の『焼き直し感』に直結したように、私には視える。
当然のこと、NewJeansを担当した時の250 (イオゴン) の切れが冴え渡る筈もなくそれが、藤井風の『Prema』に於いてはアルバム全体のさびれた印象を増長させた。
 
そもそも250 (イオゴン) の特性として、新しいものを懐かしく魅せて行く演出や編曲、ミックス等を得意とする人ではないかと思うが、元々古くて懐かしいサウンドをノスタルジックに焼き直す作業を250 (イオゴン) はむしろイオゴン自身、苦手とするスキルではないだろうか。
その苦手な方のデメリットが藤井風のニューアルバム『Prema』に露呈した結果、音楽単体では日持ちのしない作風に繋がったように思えてならない‥。
 

【■ 追記 ■】から後は、一度完成させたブログ記事とは別に付け足した箇所である。
記事を割っても良かったが、私のブログが藤井風ネタばかりになる状況にはしたくなかったので、繋げて加筆しました。

 
 

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“Nino” (EP) – by Chouchou

 
数日前からいきなりのタイミングでX上で告知を開始した日本のポスト・エレクトリック・ユニットのChouchouが、2曲 (voc.入り) + 2曲 (Inst. ) の計4曲のEP『Nino』の配信を開始した。

最近のChouchouの音楽性 (商品性) に不安定感が否めず、紹介や評論の対象から彼らを外していたが、今回の新譜はなかなか良い出来栄えになっている。
かなりKPopの流れを意識している辺り (特に韓国の電子系プロデューサー/250 イオゴン) が目立ってはいるが、さしずめ日本発信のアナザー/KPopとでも言うべきか、それはそれで作品としてはかなり洗練されて来たような気がする。
 
やはり juliet Heberle の蜉蝣系ヴォーカルと詞の世界観が、arabesque Choche のメロディーメイクを一層際立たせているように感じる。julietも本作品では低音域に徹しており、それが人の話し声の声域をはみ出さない分安心して聴いていられる。
本作品では arabesque Choche もコーラスで参加しているが、彼の声質はどこか楠瀬誠志郎を想起させる。彼はコーラス向きの声質だと思う。
 
彼らの一時のポスト・エレクトリックのゴリ押し感が軽減されたことに加え、今回はMVにリアルの人物や風景が一切登場しない、とてもメルヘンな絵図に仕上げていることで、かえって音楽やjulietの声に集中出来るのが良い。
 
EP2曲目『Jelly Jelly』は彼らの旧作最果のダリアのM-3: “Lovers & Cigarettes” の上位互換と言える良作で、全体的にまとまり感が高まったように感じる。
 

 

 
Chouchouの新譜『Nino』はこれまでの彼らの作品と比較すると、ユニットとしての統一感が出て来たところが大きな変化だろう。
julietの声とarabesqueのメロディーとの分離感がそれによってかなり軽減されたのは、大きな前進だ。『Jelly Jelly』ではよく聴くと所々にarabesqueの声がエフェクトの中からかぶって来る辺りに、隠し味的な工夫が見られる。
こういう小ワザは、ほんのり見えるぐらいが丁度いい。ハイスペックなヘッドホンで聴いた人だけが気付く‥ 程度の演出の方が、楽曲が長持ちするから。
 
何ったってChouchouの新譜が、人物や風景と言う生々しい映像を一切使って来なかったところを、音楽の専門家として、あらためて称えたい。
 

 
※是非、日本語バージョンも追加でリリースして欲しい🎧

藤井風 – ニューアルバム『Prema』 表現解説

 
光を操るリラ星最後の巫女の私が、あえてこの人物に逆光をあてることには大きな意味がある。

2025年9月5日、藤井風のニューアルバム『Prema』がリリースされた。
私はこの作品をSpotifyで試聴する前々から、編曲 & サウンドメイクに深く関わったとされる韓国の電子系ミュージシャン250 (イオゴン)に着目していた。イオゴンが日本の問題児/藤井風の音楽をどのように料理するのか、その結果を先ず見てみたいと思っていた。
 
勿論問題児/藤井風の問題とは彼の宗教観をここでは意味し、藤井はサイババ二世として有名であるばかりでなく、藤井風の綴る歌詞の中にサイババ教義をふんだんに引用し、それを藤井風のオリジナルであるように偽装して何も知らない若年層に訴求している点を、藤井自身も最近ではさほど隠していないようにも見える。
それはけっして看過出来ない行為であることについては何ら変わりないし、長年音楽に携わり分析/解析を続けて来た私からすればここで藤井風の音楽を仮に何十回聴いたとして、それで揺らぐほど私の音楽スキルは軟じゃない。
 

 
アルバム『Prema』をざっと全曲試聴した印象は、兎に角鈍いし弱いし響かない‥ と言う一言に尽きる。

楽曲全曲がアメリカ進出を念頭に作られていると見て間違いないだろう。
だが、楽曲全体が強いアタックを必要とする構成になっているにも関わらず、藤井風の声質が余りに弱くて鈍くて、日本人向けの英語の教科書みたいになってしまっている点は松田聖子の『SEIKO JAZZ2』の冴えない出来栄え同様か、それ以上に冴えない出来栄えだと言わざるを得ない。
 

 
日本人の英語コンプレックスは藤井風には余り当てはまらないだろうと思っていたが、とんでもない話だったようだ。
兎に角声のアタリも鈍く聴こえるし、英語もだらしない。
使い古しのランニングシャツ同様に、藤井風自身も「ハーレムに舞い降りた聖者」を意識しているだろうから、成功しなかった側のBohoファッションとでも言うような倦怠感が彼の英語にも強く滲み出ており、音楽全体を一層疲労させ、貧困に見せて行く。
 

 
このアルバムの売り曲はどれだろうか?
『250 (イオゴン)』のサウンドメイクを聴く限り (私の推測が合っていれば) 、やはり『M-3: Hachikō』以外にイオゴンの熱量を殆ど感じ取ることが出来なかった。

藤井風のアルバム『Prema』のラスト曲、 『M-9: Forever Youngを聴いた時はふと、1994年にリリースされた八神純子のアルバム『Communication』の冒頭曲、Imaginationが脳裏を横切ったので比べて聴いてみたら、やはり私の脳内マッチングは正確だった。
 

 
『250 (イオゴン)』と言えばどうしてもNewJeansのヒット曲のサウンドメイクが思い出され、私の中のマイ・ベスト・250は『Ditto』を抜いて『Supernatural』が首位に立つ。
 

 

 
上記2つのサウンドメイク (楽曲) を藤井風のアルバム『Prema』と比較するのが怖い程、全く別人がサウンドトラックを担当したのではないかと言う程イオゴンの出来栄えが良くない。
手を抜いたのかそれともそもそもの楽曲の身の丈に合わせた結果、藤井風のサウンドメイクが出来栄えの劣化を免れられなくなったのか、その辺りはあくまで想像の域を出ないが、兎に角藤井風のアルバム『Prema』が昭和のアルバムではないかと耳を疑う程の古い作りに聴こえて来る。
もしもそれが意図的な企画だとしたら、わざわざ藤井風のアルバム『Prema』のサウンドメイクを『250 (イオゴン)』に依頼する必要が何故生じたのか、その辺りは当事者ではないのでよく分からないが‥。
 

 
藤井風自身からもそれまでの仕事から「‥どこか燃え尽きたような感覚」を訴えるコメントが出ていたようだが、ニューアルバムのだらしのないランニングシャツのジャケ写を始めとするアルバム全域に沁み出たドロップアウトな色彩や怠惰な印象、ダボダボの下着をさらに緩々に引き伸ばして着古したような表現はもしかすると、そちらの方が今の藤井風にしっくりハマっているのかもしれない。
 
特にインドを強く意識した象との共演等の、いかにも単純な仕掛けを一体誰が思い付いて映像化に踏み切ったのか‥、考えれば考える程よく分からない。
 

 
楽曲『Prema』の歌詞の中で、藤井は段々と豹変し、本性を現して行く。
『私は愛そのものだ』と口にした直後に、『私は神そのものだ』と言う彼の本音が遂に歌詞に託される。
 

 
楽曲Premaの中で彼が伝えたかったことは、恐らくこの一文だったのだろう。
だが残念ながら、藤井風は神ではない。もしもそう思い込まされているリスナーが一人でも居たらそれが全くの間違いであると、是非とも認識を改めるべきだ。
 

人は強烈なメッセージに惹かれ、そのメッセージ主に帰依したくなる瞬間がある。だがその帰依の先に一体何があるのか、無いのか‥、或いは何かがあるかのように騙されてはいまいかと、藤井風のような人物に遭遇した時は先ず一歩二歩離れて彼の言動を俯瞰する感性を持つべきだ。
けっして自分自身を捨てて、彼に身を捧げるようなことがあってはならない。
 

 
少なくとも音楽家として、藤井風はそのステータスを得られていないことは間違いない。だからこそ「サイババ」をここまで深く信仰し続けており、即ち藤井風の信仰心は、自身の才能不足の空洞を埋めるのにはうってつけの素材 (凶器) だったのかもしれない。
 
勿論音楽的にも稚拙であり、藤井風が宗教を隠し持って仮に藤井が全米進出を狙ったとしても、その夢を果たすことは出来ないだろう。
全てに於いて、(アルバム『Prema』も藤井風の声も) 響かない。
地球の裏側には届かない。
 

 

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美しき共演 – 大貫妙子 with 坂本龍一

今年の3月から長引いていた風邪と同時に免疫力が落ちたのか、今日の今日まで左足の親指の爪付近の化膿と炎症、痛みに悩まされて来た。ずっと整形外科に通院していたが、それも今日で一段落。
未だ完治していない状況ながら状態が視えて来たので、一旦経過観察に切り替えることになった。急ぎの手術も出来ないわけではないが、取り急ぎその必要はなさそうだと言う医師の見立てもあり、病院や手術嫌いな私は一も二もなく経過観察を決めた。
 

心にもゆとりが出来たのか、大好きな大貫妙子さんのLiveを片っ端から捲って視聴している。
ずっと気になっていた『UTAU』シリーズの一曲、『大貫妙子&坂本龍一 / a life』がYouTubeのツリーに上がって来たので、じっと耳を澄まして聴いている。
今はもうこの世には居ない坂本龍一がバックを務めるこのシリーズだが、やはり大貫妙子さんとの相性はベストだと思う。
 

 
以前何かのインタビューで大貫さんが、教授のピアノについて面白いコメントを出していた。
教授は段々とテンポダウンして行くタイプらしい。それが教授らしさであり、妙子さんはそんな教授のピアノにむしろ声と鼓動を合わせながら歌って行くらしいと言う彼女のコメントの中に私は、大貫妙子さんの坂本龍一氏に対する深い深い愛を感じずには居られなかった。
 

実は二人の共演アルバム『UTAU』を私は、全編聴いていない。何となく、未だ聴けない心境なのだ。だがあらためて『a life』だけを取り出して、Live動画と比較するように聴いている。
レコーディング作品の方がヴォーカルのミックスが乾いているので、妙に湿り気のあるピアノの音色の方が飛び込んで来るのが不思議だ。死者の力なのか、それとも単純にミックスの違和感がそうさせるのかは定かではないが、あの世とこの世を繋ぐような音楽に聴こえて来てとても切ない。
 

 
丁度Spotifyを開いていたので、アルバム『UTAU』から『Flower』を捲ってみると、余りに美しい歌詞が私の胸を激しく叩いた。
 

夜露に濡れ その葉をたたむ
幼い頃の 姿で眠る
 
花は目覚め 月を仰ぐ
名はネムノキ 夏の夜の
 
満ちては欠けてゆく
星霜の果て 
なくしたのだろうか
ソロモンの指輪を
 
光と闇がつくるモザイク
 
忘れられた 部屋の片隅
太陽さえも とどかぬまま
 
私は光に からだを向ける
つつまれながら 渇いてゆく
 
あなたのその窓で
かぐわしく香る
優しいその指が
触れてくれる日を待ち
 
恋しいエデンを夢みながら

https://www.uta-net.com/song/200350/

 
ゆっくりと落ち着いた速度で進んで行く音楽が、無限の時を刻む。この一曲が永遠に続いて行くような、気の遠さすら感じながら。‥
たった5分10秒に刻まれた二人の音楽に、私はいつしか飲み込まれていた。
  

 
同曲のLiveバージョンを遂に見つけることが出来ず、残念無念ではあるが、すべては泡沫。翌朝の露の中に消えて行く運命なのかもしれない‥。
因みに『大貫妙子&坂本龍一 / a life』が収録されているDVD『UTAU』は2011年11月9日にリリースされているので、未だ坂本龍一が闘病に入る前の収録だと思われる。それを思うと、何とも苦しい‥。
 

引き続き『大貫妙子 – 都会 @ EPOCHS 2023』を視聴して、このまま余韻に浸りたい心境である。
 

 
本記事の最後に、今日私の胸を激しく震わせた坂本龍一 & 大貫妙子の共演動画『a life』を貼っておきたい。(お二人に心からのリスペクトを込めて‥。)
 

 

 

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“Hachikō” by 藤井 風 (魂の汚染)

この人物を取り上げることを極力回避しているその理由は、ズバリ彼の内なる宗教及び宗教観だ。だが話のネタとして綴るには面白い素材であり、だからと言って私が藤井風の活動全般を肯定している訳ではないと言う点について、先にお断りを入れておく。


SNSでかなり噂に上っていた藤井風のHachikōのオフィシャルビデオをようやく視聴したが、やはりこの男の表現が日に日に薄汚れていることは否めない。
楽曲は比較的爽快感のある、どこかデビュー当初の「きらり」にも通じるメロディーラインが顔を覗かせる。
爽やかなものをここまで汚せるのも藤井の為せる技とも言えるが、藤井の内面に在るサイババ信仰或いはサイババ教への深い傾倒や、ある種のドロップアウト感が楽曲の印象を汚染させている点にはおそらく、本人は気付いていないだろう。
 

この曲は、ロサンゼルスのプロデューサー『Sir Nolan (サー・ノーラン)』と、NewJeansDitto」「ETA」「Attention等を担当した韓国の『250 (イオゴン)』がプロデュースを務めている。
 


いいところを掠っているこの作品『Hachikō』だが、歌詞は実にくだらない(笑)。
以下に機械翻訳のスクショを出しておく🤖
 


J-PopやK-Pop付近しか聴いていないリスナーの感性にはこの程度の軽さ、チャラい内容の歌詞がきっと響くのであろうが、海外には命がけで音楽を生んで世に放っている強豪が当たり前のように存在するから、『Hachikō』の歌詞がいかに薄っぺらいことしか言ってないのかと言う辺りは歴然だ。
 
そして藤井独特の「神様」語りを絶対に外さない辺りに、彼独自の信仰心が露骨に表れている。と言うより、藤井は既にサイババ教義の布教要員であり、布教活動に絡めて音楽を利用している辺りを私は見逃さない。
最近青少年層にも藤井フリークの風が及んでいるようだが、出来れば彼の音楽とは距離を置くことをオススメしたい。音楽を通じてサイババの教義に、心身を汚染される危険性を存分に孕んでいるからだ。
 

思うに信仰が人々を分断するし、信仰は信仰によって潰される。

そんな人たちを私は沢山見て、触れて来たし、私自身はどちらかと言うとアニミズムに近い思想を持っているので、一神教に対してはどの宗教に対しても否定的だ。
音楽を志す人たちの中に宗教を持つ人が多い要因の一つとして、商業的要因が挙げられる。同じ宗教観を持つ者同士の癒着で商品を拡散し、売り上げて行くことのメリットを悪用している音楽家は多く存在する。
スティービー・ワンダー氷川きよし等もその例に当てはまる。うっかり音楽が良かったりすると、それを武器に活動するような悪しき実例も多数見られる。
 


あえて先に藤井の新譜『Hachikō』の内容の薄っぺらさについて触れておいたが、実際の歌詞の大半は英語で書かれているので、特に日本人のリスナーには意味を知る前に韻で楽曲がインプレッションするだろう。
その辺りは藤井サイドのあざとい計算が用意周到に為されているが、「どこに行こう ハチ公」‥がうるさいぐらいにラップ形式で散りばめられているのでご自身であらためて、歌詞の意味等を確認してみると良さそうだ。
 
英語による誤魔化しを巧みに利用した歌詞とはまさにこのことで、英語に苦手意識を強く持つ日本人にはこれがカッコよく聴こえてしまうから厄介だ(笑)。
 
私はこのブログとは別に、ディディエメラの音楽倉庫と言う世界の音楽データの基盤となるブログを持っている。そこには世界中の音楽を紹介し、同時に私が監修しているSpotifyのプレイリストの情報も出している。
藤井風の楽曲は世界の音楽をコレクションしているプレイリストには、到底挟むことは出来ない。どんなに藤井が英語で世界進出を狙ったとしても、彼の宗教以前に楽曲のチープさが彼の目標を大きく妨害するだろう。
とても皮肉なことだが、藤井風の目前に高く高く立ちはだかる壁を超えることは、彼には不可能だ。仮にサイババ二世としてサイババ教の教えをどれだけ歌詞に引用したとしても、むしろその行為とマインドが藤井風を小さな集団の箱の中に完全に閉じ込めて行くに違いない。
 

霊的な解釈を加えるとしたら、藤井風の見掛けは勿論、魂の汚染の激しさは音楽を通じて感じ取れる。そこそこ売り物の生産と拡散は最低限果たせるかもしれないが、それ以上に飛ぶことを創造神「クリエイション」が許さないだろう。
 

新譜『Hachikō』だが、私個人的には聴けるのは2回までだ。3回目以降になるとK-Popの立役者である『250 (イオゴン)』の、一見斬新に見えて実は使い回しの手業が視えて飽きてしまう。

250 (イオゴン)』マジックの賞味期限も、そろそろ切れて来た頃だろうか。色々な意味で使い果たしてしまった感も拭えない。つまり商業音楽の限界の壁に、既に遮られた結果だろう。
藤井風と『250 (イオゴン)』、『サー・ノーラン』の三者全員を揃えたとしても、それは魂の汚れに汚れを加えただけの結果に終わり、創造神『クリエイション』が果たして彼らに新たな境地への地図を手渡すとは到底思えない。
 

 

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“真っ白” – 藤井 風

色んな噂で透明性を失いつつある藤井風が、タイトルだけは透明な『真っ白』をリリースした。
この曲はミネラルウォーター (実は普通の水) の、『い・ろ・は・す』のCMでも流れている。
 

 
私は先ず、歌詞を見る。この人の楽曲の歌詞には、とある新興宗教の教義からの抜粋がふんだんに引用されていると聞くので。
実際に歌詞を読む限りそれらしき箇所は見当たらないが、それよりも何とも言えない投げ遣り感の方が強く響く。売れている‥ と言う自負の割れ目から、いよいよこの人の本性が露わになったのか。
 
本作品では恋愛が盛り上がった頃合いを見計らってゲームオーバーを言い渡す女性像が描かれており、そう言えば昔そんなゲームの連鎖を単純に楽しんでいた多くの女子大生がいたっけか。
かれこれ昭和の話だが、それは今の若者にも引き継がれているのだろうか。‥だとしたら、何と言う命の無駄遣いをしているのだろう。
 

真っ白な心に惹かれ
真実をさまよえば
真っ黒なところはぶち抜かれ
真新しい風にまた抱かれた
 
好きだよ 好きだけど
離れなくちゃ 置いてかなきゃ
 
好きだよ 知らんけど
私たちもう そんな頃よ
 
先にさよならするわ
悪いのはそうよいつも私でいいの
先に進まなければゴールできぬゲームなのよ 

 
作品のアートワークはモノクロームだが、純真とか純粋だとか‥ 若い世代とか音楽家が持つある種のがむしゃらさは失われ、タイトルの『真っ白』とは真逆の汚しが骨の髄まで染み込んだように、私には見えて仕方がない。
 
ところで皆さんは『い・ろ・は・す』を飲まれたことはあるだろうか?
私は過去職の関係でスタッフがよくこの水を買って来るので、嫌々飲まされたものだった。あれをスタッフは「ミネラルウォーターだ」と言って私に手渡したものだったが、どう味覚を研ぎ澄ませたところで苦みのある水道水の味しかしない。
 
水の味が分からなくなったら人間、おしまいだ。
いかなる飲み物も料理も、基本は水。その微細な味を感じ取れなくなったら、それはご自身の健康状態に不具合が発生した証拠だと思った方が良いだろう。
その意味では藤井風の『真っ白』が全く美味しくも何ともない『い・ろ・は・す』に起用されたことは、あながち間違いではないだろう(笑)。
 
皆さんも是非、味覚と霊体、感覚を研ぎ澄ませて良い水 (ミネラルウォーター) を飲まれることをお薦めしたい。
 
一度汚しが入ったものは二度と元には戻らない。
それは水も、人間も、食も音楽も文化も、全てに共通する。
 

 

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蘇る岡田有希子 – Yukiko Okada – Summer Beach (Night Tempo Showa Groove Mix)

「岡田有希子」を検索すると、以下のようにWikipediaに書かれてある。

岡田 有希子(おかだ ゆきこ、1967年〈昭和42年〉8月22日 – 1986年〈昭和61年〉4月8日)は、日本のアイドル歌手である。本名は佐藤 佳代(さとう かよ)。
Wikipedia より


岡田有希子はたった19年の命を、駆け抜けるように生きてこの世を去った。

あの日のことを私は、今でも忘れることが出来ない。
丁度レコード会社へのデモテープの持ち込みを済ませて急いで母校の学生ホールに戻った、その直後に学生ホール中に彼女の訃報が駆け巡った。
さっきまでとても近くを歩いて、2~3社のレコード会社のディレクターたちと歓談し、大学の午後の授業に間に合うように京王線の急行と普通電車を乗り継いで階段を駆け上がって来たところだった。

記憶では前々日辺りに、彼女のニューシングル曲を某TV局の歌番組で視ていた時、妙な胸騒ぎがしたことを覚えている。
当時未だ私の弟も生きており(享年47才で逝去)、TVを視ていた彼が放った異様な一言を私は今でも忘れない。

確かに重いステップ、かなしげに目を伏せる表情は、それまでに彼女が一度も見せたことのないものだったから‥。
 


丁度この作品(くちびるNetwork)の作詞を担当した松田聖子は、数年前に愛娘を失ったばかり。
あの華やかさとは裏腹に、松田聖子の周辺には当時から陰鬱な空気や想像し得ない出来事や噂が、狂った花びらが宙を舞うように飛び交っていた。

美しい人の死は、概ね真実を遠ざける。
生前の彼女たちの華やかさだけが歴史に留まり続け、真相はいつも藪の中に置き去りにされたまま。それらはひっそりと、芸能界の片隅に積もって行く。

岡田有希子と言えばルックルや歌よりも、彼女の描く絵画の世界がさらに彼女を眩しく引き立てたものだった。
多才な彼女がこの世を去るにはきっと、それなりの理由と動機があったに違いない。その多くを知る人と言われる峰岸 徹(俳優)も、2008年にこの世を去った。

そんな中、韓国のDJ Night Tempo が岡田有希子の『Summer Beach』のリミックス版をリリースした。

日本人とはやや、生死観の異なるお隣の国のサウンドメーカーだから、これは出来ることなのだろう。何事もなかったように、普通の、ありふれたシティーポップの中の一曲を軽やかに拾い上げるようにして、少しビートの重いミックスが施されたSummer Beach (Night Tempo Showa Groove Mix)が再び、岡田有希子の精霊と共にこの地球の大地を踏んだ。
 

Summer Beach(原曲)
作詞・作曲:尾崎亜美 編曲:松任谷正隆


こうしてリミックス版が蘇ると、逆に岡田有希子のヴォーカルの上手さがよく分かる。
子音が強すぎないのに正確なリズムアタック、発音が美しく正確な日本語の発声の中から、彼女の持つ古風な性格がじんわりと滲み出て来る。
抑揚を最小限に抑え込んだ、かと言ってけっして不愛想ではなく地味で可憐なボーカルは完璧なまでに個性を脱ぎ捨てており、10代にして既に普遍的な歌手の域へと到達している。

さらに、如何にも「昭和のアイドル」を地で走り込んでいる最中の岡田有希子を、尾崎亜美のつかみどころのないメロディーと歌詞がオフホワイトのレースのように包み込んで行く。

丁度時同じくして、当時のサン・ミュージックの社長 相澤 正久 氏とは幸運にも私は二度お目通りが叶ったが、松田聖子の独立問題がそろそろ業界で噂になり始めた頃だっただけに、相澤氏の岡田有希子に対する熱の高まりを部外者の私でさえもつぶさに感じたものだった。
 

 
最近でこそアイドルの恋愛に対する注目度は、やや生温かいものに変化しているものの、未だ「アイドルの恋愛禁止条例」はそれが当たり前のこととして、多くのアイドルフリークの中では棘のように尖がったまま健在だ。
昭和のアイドルならばそれはなおさらのこと、「アイドルの恋愛禁止条例」は当時の若い表現者たちの人生のみならずメンタルまでもがんじがらめに縛り上げて行ったに違いない。

岡田有希子さんの死因の裏には、色々な噂や出来事が暗躍しているが、それはもはや時効を迎えたも同然だ。
今も未だ生き残っている関係者やその周辺の人たちでさえ真相を口ごもっているには、歴とした理由がある。‥これ以上はもう何も申し上げられない。
 

 
この記事の最後に「くちびるNetwork」のYouTube版を貼ろうかどうしようか迷ったのだが、如何せん楽曲が余り好くない。
なので岡田有希子 with Night Tempo のもう一曲のリミックス、ファースト・デイト (Night Tempo Showa Groove Mix)を貼っておきたい。

もう直ぐ彼女の命日がやって来る。
春風のその彼方から、彼女がもう一度生まれ変わって来る日を待ちながらこれから何度桜の花が咲き乱れ、散って行くのだろうか。

『ファースト・デイト』 作詞/ 作曲: 竹内まりや

 

時を超える音楽 – 吉田美奈子編

過去に別名で何度か吉田美奈子を取り上げ音楽評論記事を書いたことがあった。勿論美奈子氏のご機嫌を思いっきり損ねる内容の評論記事だった為、その後間も無く私のメインのTwitterのアカウントが彼女のオフィシャルアカウントにブロックされた‥ と言う逸話は、今でもどこかで日々囁かれているようだ(笑)。

先日美奈子氏と親しいと言う人物から、某SNSのメッセージスペースにDMが舞い込んだ。

「何故あなたは、あの素晴らしい美奈子氏を認めないのか?」と言う、或る意味素朴な質問だったが、逆に何故現在の彼女をどのようにしたら音楽家として、表現者として認識出来るのかについて私はその人物に問い返したい衝動に駆られた。
だが実際問題そのような質問は愚行として日陰のスペースで語り継がれる素材を与えかねないと判断し、質問返しはしないでおいた。
 

人には色々な老い方があるだろう。それは私自身も現在その途を辿っている最中なので、身に沁みて理解出来る。
特に50代以降の「老い」「スキルの劣化」の原因として挙げられるのが、「介護問題」ではないだろうか‥。私のよく知るシャンソン歌手の中にも、それは多数見られる。
 
多くの表現者たちがぶち当たるこの、介護問題を機とした実質的な休業問題は、各々表現者たちのその後の人生を大きく左右する。
吉田美奈子氏の場合がどうだったかについては分からないが、最近の美奈子氏のTwitterに彼女の母の逝去についてのツイートが多く見られたことからも、恐らく‥ と言う大方の察しはつく。
 
そんな吉田美奈子がジャズに飽き足らず、次はシャンソンに手を伸ばすようだ。勿論上のTwitterで告知されているイベントは未だ開催されていないので、そのLiveに必ずしもシャンソンの楽曲が登場するか否かは今は未だ決定事項ではない、としても‥。
 
Japanese R & Bの創造神と言っても過言ではなかった吉田美奈子氏が、最近は別の人が書き残した楽曲のなぞり返しを繰り返している。
多くの美奈子フリークの中には恐らく、若かりし頃の饒舌な彼女の音楽がしっかりと根付いている筈だ。それを老いた吉田美奈子がジャズやシャンソンで上書きしようともがいているようだが、所詮他人の作品を再演している以上原曲や原曲者を超えることは不可能だ。

スタンダード・ミュージックには解釈の相違だとか、そのような楽しみ方があるのは百も承知だが、美奈子氏の名曲とも言われる「Lovin’ You」「TOWN」「Rainy Day」を超える名作が今後彼女から紡ぎ出されることは無いのかもしれない。
 


私は実質上彼女のSNSのアカウントのみならず吉田美奈子自身からアク禁されているようだが、それでも私は絶頂期の彼女の音楽性や人としての彼女を今も愛している。
気分がどうの、機嫌がどうの、その時何があったからどうの‥とか、そういうものを余裕で超えさせてしまう力がもしも彼女の音楽に在るのだとしたら、その部分に於いては素直に私は受け入れるし、認めて行きたい。
 
だが皮肉にも彼女・吉田美奈子は私が愛した頃の彼女自身を、もう二度と取り戻すことは出来ないだろう。
その点を私が音楽評論でブッた斬ったことには、実は大きな理由が潜んでいる。

現在の彼女が過去の彼女を超える方法を、彼女が知らない(或いは気付いていない)ことが厄介なのだ。私は彼女が過去の彼女を超えて行く方法を、実は知っている。
Japanese R & Bの創造神だった彼女がもしもその方法に気付いていないとしたら、むしろ現在の彼女の劣化した表現力よりもそちらの方が闇が深い。

過去の彼女を現在の彼女が超えて行く方法については、あえてここでは明かさない。
吉田美奈子氏が真剣にそのことに悩み、気持ちを新たに私の前に首を垂れて来るような事態が実際に起きた時に、その時の彼女の様子を目で確認し、彼女の心の内側を私が実際に読み出した(いわゆるリーディング、もしくはチャネリング等)時に、その後の行動について考えるのがベターだろう。
 


現在の吉田美奈子氏にベタで付き添っているミュージシャンの一人がこの人、石井彰氏だ。美奈子氏はこのピアニストが好きなのか、伴奏形態が現在の彼女にとって居心地が好いのかの何れかの理由で彼をサポーターとして採用しているのだろう。

私も美奈子氏のマインドには興味も関心もあるので、石井彰氏について以前から若干リサーチしていた。‥なぜリサーチが「若干」のまま更新されないのかと言う理由については推して知るべしで、この演奏者の表現やジャンルそのものに全く魅力を感じない為、数分の動画を見終えることが出来ないからだ。

二番煎じの音楽、これはジャズもシャンソンもカントリーやその他の「スタンダード」と呼ばれる全ての音楽のジャンルが持つ負の特性だ。
なにせ私も20年近くこの「二番煎じの音楽」にどっぷり身を浸していたわけだから、酸いも甘いも知り尽くしていると言っても過言ではない(笑)。

上記のようなジャンルに一度潜り込んでしまうと、新しい光の中に飛び込むことを体も脳も拒むようになって行く。
「誰か」が作った、既にブランディングが完了している楽曲のパワーに依存するところに再演の意義を感じるようになり、新しく生まれて来る作品や作者のスタンスを「軽んじる」感覚がいつしか身に付いて行く。
 


話が脱線し過ぎるといけないので吉田美奈子周辺の話題に戻るが、少なくとも現在の彼女がこのグッチャグチャな「ジャズ」とか「シャンソン」等のジャンル、或いは石井彰氏を本気で高く評価しているとは、何故か私に思えない。
どう見ても演奏者として価値が高いのは、過去の彼女と深く関わり尽くしていた倉田信雄の方だ。
 


そして上の動画『TOWN』の立役者として、ギターの土方隆行、ドラムの村上 “ポンタ” 秀一は生涯外せないだろう。
そのことに吉田美奈子氏が気付いていない筈は無いだろうから、その上で現行の二人の夜店系のジャズ・ミュージシャンをあえて彼女が自身のLIVEに起用しているのだとしたら、その段階で彼女は自身の劣化と向き合わなくてはならない。
 


時を超える音楽の定義について私は10代の頃からずっと考え続け、その理論や手法を練り上げて今日に至る。それは私のメインの活動の中に多数記録してあるので、是非そちらを見て頂ければ幸いだ。
呼吸法、心拍数、脈拍の捉え方、打鍵の速度(ピアノの場合)~音と音との間隔の取り方や紡ぎ方から残響の尾っぽまでのタイム‥等、これは挙げればキリがない。
 
この手法を現在用いて音楽活動を行っているのは私がメインで配信している音楽だけで、仲間を探してはいるものの活動15年目にして未だナカマが見つかっていないのが現状だ。

だが私が行っている技術や手法や音楽理論等をもしも吉田美奈子氏が自身の音楽に投入すれば、現在の「どうでもいい音楽」を演り続けている彼女を彼女自身の力量で卒業することも夢ではないだろう。

ものの「ジャンル」は自身で作り出すことがベターであり、ベストなのだ。その為には数年間活動の遠回りをすることも辞さないが、その分の将来的なリターンは大きなものになるに違いない。
むしろ私が望んでいるのは、大きなリターンを手中に収めた時の吉田美奈子氏自身であるが、彼女が余計なプライドを振りかざして最大の助言者(預言者)を永遠に敵に回し続けるようであれば、先に彼女の寿命の方が彼女をリセットして行くことになるだろう。

それが目に見えているから私は何とか吉田美奈子氏本人に果敢にアクセスして行った時期もあったが、それが夢に終わろうが終わるまいが彼女自身の音楽人生は美奈子氏自身が決めることだから、私はこうして遠くから嫌われ者として吉田美奈子氏を静かに鼓舞し、応援し続けることしか今は方法が無さそうだ。
 

この記事の最後に私の中の吉田美奈子の「神Live」の動画から、「LOVING YOU」を掲載しておきたい。
この神々しい彼女の声とマインド、ミュージシャンの手堅い音と空間のサポートの数珠繋ぎの光景こそ、Liveに留めておくべきではない。
 
まさにこれぞ、「神」である。
 

山下達郎とシティー・ポップ [前編]

2022年6月22日、かねてから大々的に告知されていた山下達郎のニューアルバムSOFTLYがリリースされた。
通常版は特典なしで3,300円から、特典付きになるとさらに価格が跳ね上がる。
 

 
勿論この人は昭和スタイルの販売ルートのみのアーティストなので、サブスクでのリリースは当然なし。なので当初私はこのアルバムを購入する予定だったが、紆余曲折を経て購入を取り止めた。
正直物理CDが手元にあっても邪魔になるだけで、当然のこと音楽として聴けるクオリティーではなかったので、このような結果に相成ったわけだ。

某動画配信チャンネルから(ほぼ)フルアルバムと言えるよう編集されたものが出ていたので、そちらを先ず聴いてみた。
恐らくラジオ等でオンエアされたものからのピックアップも含まれるであろう構成になっており、曲によってはMC(トーク)が楽曲のイントロに被ったままの状態にはなっていたが、中身が分かれば良いのでそのまま流して聴いて行く‥。

山下達郎と言えば真っ先に思い浮かぶのが「シティー・ポップ」と言う言葉だろう。勿論彼が老いた今もリスナーは、必ずそのエッセンスを期待する。私もそうだった。
だが実際に上の(ほぼ)フルアルバムが収録された動画を捲ってみると、正直内容は散々なものだった。
 

最近若手の韓国のYouTuberの中にも山下達郎そっくりで尚且つシティー・ポップのテイストを正確に、忠実に‥ と言うより原作以上のクオリティーでコピー(カバー)するアーティストも出現している。
 

 
このYouTuber、Tae Yoon Kimさんの山下達郎のカバー動画の注目すべき点は、ヴォーカルではなくバックバンドの再演のクオリティーだ。ほぼ全てのパートがTaeさんの手動で録音されているが、それが原作のクオリティーを軽々と超えている点は見逃せない。
 

ここで少しだけ話題を脱線。
「シティー・ポップ」の定義について、私はこう考える。
 

1. 日本の高度成長期の大都会(特に夜景)を彷彿とさせるサウンド感覚を持つ音楽。
2.
オープンカーやスポーツカーを運転する男性ドライバーが目に浮かび、助手席にはハイヒールを履いた女性を同乗させている‥ と言う光景を想起させる音楽。
3.
程好くハードではないドラミングやリズム体、主にStepするような緩いスウィング感のあるリズム体が体を揺さぶる音楽。
4.
ギターカッティング、或いは生ピアノよりもキーボードで「ピアノ」の音質を再現しそびれた感のある、どこか間違いがあるにも関わらずそれらしく聴こえて来る音楽。
5.
ギリギリまで声を張り上げてはいるもののけっして高音域ではなく、中低音のマイルドさを誇張したヴォーカルが特徴的な音楽。
6.
何より「風」を感じる音楽であること。

 
私が思う「シティー・ポップ」とは概ねこんな感じであるが、この解釈については別の様々な解釈があっても良いと思っている。
そして若かりし頃の山下達郎のサウンド感が、上の全ての条件にマッチしていた。

さて話を山下達郎の新譜「Softly」に戻してみると、先に書いた全ての条件を見事に逸した、何ともドン臭いアルバム(表現含む)で本当にガッカリした。
 

 
私の音程の受信感度が狂っていなければ先ず、彼の音程が酷く劣化したと言うのが強い印象だ。そもそも曲の作りが機械的なので非人間的と言うか、絶妙に正確な音程を保持していないと歌えない楽曲が大半だが、その音程がこれ又絶妙にズレている。
さらにリズムが不正確で本来のアタック箇所にヴォーカルがアタっていない為に、後ノリでヴォーカルが若干遅れて聴こえて来る。そのせいで、どうしても演歌のコブシを効かせて歌っているようにしか聴こえない。

ノリノリだった「あの頃」の山下達郎の代表曲『Ride On Time』に見られるような、キラキラしたシティー・ポップの‥ これさえあれば何が来ても怖くないと思わせるような輝きも希望も一切見られない彼の新譜『Softly』の、楽曲の全てのメロディーメイクはただただ悲惨としか言いようがなく、長い時間聴いてはいられない。
まるで回顧主義の老人の独り言みたいで、先に「シティー・ポップ」を求めてこの人の曲を聴こうとしていただけに失望感がハンパない。
 
かなしいかな、人は誰しも年を取って行く。老いは多少なりとも表現の劣化へと直結するのだが、それをカバーする方法として人生の経験値や人間性、そしてインテリジェンスの成熟等が挙げられる。
そのどれ一つとして達郎の場合は機能しておらず、何かと「恋愛」とか恋愛の思い出を振り絞るようにして歌詞にしているから、聴いていて無理な重圧がどうしても後頭部を直撃して来る。

それを本人もおそらく気付いているのか、喉に異常なまでの力(力こぶし)が入っている。その影響で全ての発音の一瞬前に「‥ンガガガ‥」みたいな助走が掛かってしまい、音程もテンポもリズムも全てがタイミングと正確性を逸している。

勿論楽曲的にも「シティー・ポップ」感は殆ど失われおり、色褪せたセピアカラーの1980年代のフィルム写真を見ているような喪失感に苛まれる。
シティーもポップも失われ、さらには発声の全てに力コブシが練り込まれたこれらの音楽は、最早聴くに値しない。なので私はこのアルバムの一曲すら、フルサイズで聴くことが出来なかった。
 

 
残念なことに今、世界的に日本の「シティー・ポップ」系のカバーが急増している(笑)。特に山下達郎の奥方の竹内まりやが1984年にリリースした『Plastic Love』が今、最注目されいるタイミング。
恐らく夫・達郎はその流れを踏んで今、ここだ!‥ やっと来たビッグウェイヴに自分も乗ろうと試みた筈だ。だが、それは失敗に終わったのではないだろうか。

山下達郎と竹内まりやの結婚は当時音楽業界を賑わせ、それを機に妻・竹内まりやは一線を退いた。あくまで夫をたてる為に表舞台から妻・まりやは姿を消し、アイドル歌手に楽曲を提供する文字通り「作曲家」に転じたわけだが、それがある種の威厳や風格を長年に渡って培わせて来たように私は感じている。
ここに来て山下達郎は、妻・竹内まりやに首‥ いや、体一個二個分先を越された形になったようだ。
 

 
山下達郎のニューアルバム『Softly』のラスト曲に収録されている『REBORN』は、映画『ナミヤ雑貨店の奇蹟』の挿入歌として既に女優の門脇麦が熱唱しているが、これが凄かった。
逆に原作者・山下達郎の原曲を聴いた時に、その余りの表現力の無さに愕然とした。むしろ門脇麦が歌唱した方の動画を視た時の感動が余りに大き過ぎたのか、何より「何も足さず何も引かず」の門脇麦の素直な表現が不幸にも、原曲(山下達郎)の不安定なメロディーラインに安定感を与えてしまった感は否めない。

この記事の最後に、圧巻の門脇麦の『REBORN』を掲載し、この記事を〆たい。
※尚この記事にはまだ続きがあるので、次記事へと続く‥。
 

「ラヴ・スコール (峰不二子のテーマ)」 と作詞者・槙小奈帆

このところ、80~90年代のCity Popsのカバー曲のサブスク配信が盛んだ。つい先日も何とも懐かしい今井優子の『真夜中のドア』のカバーを聴きながら、一人昭和の街並みを妄想しながらその世界観に歓喜したばかりだった。
 


思えば昭和の後期に、軒を連ねるように名曲のリリースが相次いだ。この作品『真夜中のドア』もその一曲だ。

そもそもこの作品をインドネシアの歌手 Rainych が2020年にカバーしたことでアジアに真夜中熱が再燃し、焚き付けられたと言う話も伝わって来る。Rainychの声質はどことなく、日本で言うところの「初音ミク」のような感じの無機質なオモチャボイスで、正直私は余り好きではない。
だが、こういう声質が流行る理由は何となく理解は出来る。
 


その後日本ではTokimeki Recordsがゲストボーカルにひかりを招き、この作品をカバーしたが、これがなかなか夜の歌舞伎町のスナック色の強いさびれた感じがして良いのだ(笑)。
 

 
同じ曲を2019年に中森明菜もカバーしている。此方は完全にサルサのビートに編曲がしっかりと為されていて、私は好きだ。

こういう挑戦には賛否両論のレビューが付き纏うものだが、元曲通りが良いと言うのであれば原曲だけを聴けば良い。原曲にいかに寄り添いながらもどれだけ跳ね除けて再編して行くのか、それがカバー・ミュージックの妙味でもあるのだから、こういう機会を与えられた歌手や編曲家には思う存分遊んで欲しいところである。
 

 
さて、話を槙小奈帆 (まきさなほ) の「ラブ・スコール」に戻さなければならない。
 
「ラブ・スコール (峰不二子のテーマ)」、このタイトルを聞く度に私は作詞者である槙小奈帆の陰影を思い出す。かつて私がシャンソン界で伴奏者としてトップに君臨していた頃は、大っ嫌いな歌手のTop3.に名前を挙げても良い程の人物だった。
センス、性格、演歌さながらの歌唱法‥ どれを取っても良いところ等一つもない人だと言っても過言ではない。

知名度のない新人歌手やピアニスト等、槙小奈帆に運悪く共演の出番が当たってしまうと、兎に角とことん虐め尽くされて帰されたものだった。だが伴奏者とは因果な商売であり、一度歌手に気に入られようものならその後の共演の出番にお断りを入れること等、けっして許されない分際だった。
だが、私は最後までこの歌手との共演に断りを入れ続け、どこかでうっかり遭遇しても無視し続けた(笑)。

そんな私が日本のシャンソン界にうんざりして2011年に業界を撤退し、その後偶然Facebookで「槙小奈帆」の名前を見掛けた時には即座に彼女のアカウントをアクセスブロックにした。
色々と面倒臭い人なので、金輪際関わりを持ちたくなかったからだ。

だが、そんな折も折、最近になって「ラブ・スコール (峰不二子のテーマ)」を多くの歌手等がカバーしており、その度に作詞者欄に「Sanaho」とか「槙小奈帆」の名前を見掛けるようになり、私の音楽評論家魂がゾワゾワと疼いたのだ。
既に私は和製シャンソン界を撤退しており、今や槙小奈帆とは上下や同業者のしがらみも無い。ならば音楽評論家として大胆なジャッジメントを加えたところで、双方に何らリスクも無いだろうと判断し、つい最近になって槙小奈帆のCD「ネレイス」を中古で購入した。
 


作詞者自らが歌う「ラヴ・スコール (峰不二子のテーマ)」は恐らくこのアルバムの目玉と思いきや、どことなく捨て曲のような状態でアルバムの冒頭に収録されている。
彼女自身の日本語詞は封印され、全編フランス語で槙小奈帆は堂々と歌い切っている。バックを務めるピアニストはおそらく美野春樹氏だろう。どうりで饒舌を超えてお喋りで、うるさい。

しかも肝心の最後の最後のコードがミスタッチによるディスコードになっており、ベースの音がFから半音ズレて「E」を押している。これは明らかなミスタッチだと誰もが分かるのに訂正が為されなかったのは、多分‥ だが槙小奈帆に「この為」だけに二度歌わせ、録り直しをさせるわけには行かなかった業界特有の忖度だったのではないかと思う。

本来のコードとは全く異なるディスコードでラストに突っ込んだままの楽曲は、何とも後味が悪過ぎる。‥だがこういうところにも人柄や音楽のセンスが露骨に出てしまう辺り、本当に怖い。

同アルバムの2曲目以降はもう、聴くに値しないレベルだ。これが演歌のアルバムだと言うならば歌唱力が圧倒的に足りないし、これがシャンソンのアルバムだと言うなら喉にこぶしを込めたような歌唱法に大きな支障を感じざるを得ない。
正規のボイス・トレーニングもおそらく為されておらず、良く言えば「ハスキー」でかすれた本当に耳障りな発声が延々と続いて行くので途中でディスクを止めた。これ以上このアルバムを聴き続けることは、流石に無理だった。
 

 
良い表現とは「過剰な情念を挟まない、客観的かつクールな表現」を指す。その意味で、槙小奈帆の表現は聴き手の自由度を著しく阻害した、カッカとした熱さだけが粘着いた炎のように吹き出すだけで、ただただ風通しが悪いものだと私は感じてならない。
 
アルバム「ネレイス」の冒頭のフランス語の「ラヴ・スコール (峰不二子のテーマ)」の、どこか「他所様の言語を拝借させて頂きます」‥ 的な引きの表現の方に彼女がもっと磨きをかけることが出来たなら、きっともっと多くのリスナーに愛されたに違いない槙小奈帆の名作(作詞)、「ラブ・スコール (峰不二子のテーマ)」の別バージョンをこの記事の〆に貼っておくことにしよう。

同じ演歌でも、石川さゆりの演歌はどこか爽やかだ。槙小奈帆の重苦しいシャンソン・ド・演歌の声の怨霊を綺麗さっぱり忘れて、和装モンマルトルの世界に浸って頂ければ幸いである。
 


※バックのピアノがやたら煩い。本当に上手なピアニストは、歌手が歌っている後ろで「オレ、めっちゃ弾けるんだぞ」とは言わない。
さらに付け加えるならば、どことなく息を吸いながら鼻腔で発声しているようなこの歌い方は、リスナーをただただ不快な気分にさせる。勿論ご本人はそう思ってはいないようだが‥。
 

※本記事はnote記事から此方に移動しました。