イタリアンポップスの名曲『ABBRACCIAME』を比較・分析する

2022年2月18日の未明から私は急々と、Spotifyの新譜チェックを開始した。すると上から3曲目に現れたのがこの作品『ABBRACCIAME』だった。
アーティスト表記は『MONICA SARNELLI feat. MAURO SPENILLO』となっている。
 

 
この作品は初演歌手が [Andrea Sannino] で登録されているが、作曲者が判然としない状態で色々なサブスクリプション内には [Andrea Sannino] が作曲者として記録されているものを私は多数見ており、この機会にあらためて調べてみたところ、上の動画ABBRACCIAME – MONICA SARNELLI feat. MAURO SPENILLOでキーボードを演奏している男性 Mauro Spenillo がどうやら正式な作曲者であることが判明した。
 

上記動画は再演(cover)にあたるが、私は原曲として公開されている [Andrea Sannino] の初演バージョンよりも此方の方が、作曲者の意図が強く表れているような気がしてとても好きである。
 

 

[Andrea Sannino] についてもあらためて調べてみると、「イタリアの歌手、カンターテナー」と表記されているページも遭遇した。だが Andrea Sannino は妻も子供も居ると言うことが分かっており、単純に彼がユニセクシャルな声質を持つ歌手だからと言う理由で「カンターテナー」と表記されているページの記事には若干違和感を感じずにはいられないが‥。


この作品『Abbracciame』は名曲がゆえに、世界の多くの歌手たちの心を虜にしている。YouTubeにも多数のカバー動画が上がっているが、中でも最も腹が立ったのは日本のカンツォーネ歌手と肩書を公表している加藤ジュンコ(旧 加藤順子 こと かとりーな)の此方の動画だ。⇩
 

 

そもそもこの作品『Abbracciame』の歌詞を手掛けたのは初演歌手でもある(& 夢想家を公言している) Andrea Sannino でもあり、彼はこの作品をディズニー映画からインスピレーションを得て執筆したと多くのメディアで語っていることは有名な話しである。

以下は Andrea のインスタグラムに掲載されていた言葉。⇩
 

Chi crede nei sogni è solo a metà del percorso;
Who believes in dreams is only halfway through the journey;
夢を信じる人は旅の半ば

all’altra metà ci arriva chi crede nell’impossibile.
the other half arrives to those who believe in the impossible.
残りの半分は不可能を信じる人に訪れる

Viva i Sogni!
Long Live Dreams!
夢よ、万歳!

 

何と哲学的な言葉だろう‥ とただただ感嘆するばかりであるが、この美しく哲学的な歌詞を日本のカンツォーネ歌手である加藤ジュンコは以下のように翻訳して歌っている。⇩
 

『Abbracciame』(加藤ジュンコ: 訳詞)

理想のタイプ語っていた あの日の私は
まだ 本当の恋のときめき 知らずにいた
今二人きり 誰もほかにいないこの部屋で
この気持ちを 勇気出して打ち明けたい

あなたが好き
好きで 本気で好き
恥じらい 照れてうつむく私に
キスしてくれた

☆ [サビ]
お願い 強く抱きしめて
すべてを忘れ
過ぎ去った過去も未来も
ひとつに重なる瞬間

強く抱きしめて
目覚めた時 あなた
離れてしまわぬように
強く抱きしめていて

加藤ジュンコのカバー動画より抜粋。
 

 
流石にお粗末で話しにならないので、和製カンツォーネ歌手の話しはこの辺りで止めておくが、イタリア人の語る「愛」をここまで安っぽく貶められると流石に腹を立てずにはいられないのが真のイタリアンポップスファンであり、その一人として一先ず酷評の筆を添えておきたいと思った(笑)。

 
この作品の原題である『Abbracciame』の音をよくよくしみじみと聴いて行くと、そこには一つの普遍性をともなう祈りとかなしみが浮き上がって来るのが分かるだろう。
一部のイタリアンポップス好きの日本人女性が勘違いに陥るスキンシップ執着型の恋愛模様ではなく、イタリア人はそこにひとすじのかなしみを描いている点は見逃せない。
 

その愛が成就しようがしまいが、一人の人間を愛すると言うこと、それを告白したところで成就する可能性等稀薄ではあるものの、「ただ思う」「ただ、愛する」と言う大きな期待と失望とを全身で背負いながら、自身の思いを「祈りの境地」へと高めて行くところにあるものが「真の愛」である。
この作品『Abbracciame』の中ではその片鱗が歌詞のみならず、音楽、メロディーの中でも存分に描かれている。
 

作曲者であるこの作品のもう一人の立役者である Mauro Spenillo が辿って来た人生の片鱗、音楽への深い愛がこの作品をさらに際立たせて行く。特にAndrea Sannino とMauro Spenillo の二人だけで即興録音された以下の動画が、兎に角素晴らしい。
 

 

「愛」とはただ甘美でせつないだけではなく、そのせつなさの伏線として多くの波瀾や不運をも背負い込んで行く覚悟や決意のようなものが、上の動画では強く引き出されているように感じてならない。
 

この動画の中で二人が表現しようとした「抱擁」‥ つまり日本語で言うところの「強く抱きしめて」の本当の意味が、一瞬先には壊れてしまう夢の中の抱擁のシーンのようで、それは加藤ジュンコが言うような、男と女の薄っぺらい肉体の接触とは全く意味が異なるのではないだろうか。

 
私がかつて従事していた和製シャンソン & カンツォーネ界の人で在り続けたら、この作品を是非インストゥルメンタルでカバーしたいところだが、もうそれは出来ない。
なので自宅で時々練習用に弾くに留めておこう。

 
さて、この記事の最後にこの作品のLive版の動画を掲載して、記事を終わりにしよう。
 

 
 

よ~く Andrea を見ていると、時々あの、リッキー・マーティンに見えて来る(笑)。
どこかしらにマイノリティーの香りを感じずにはいられないのだが、それが Andrea Sanninoカンターテナーとも言われる理由の一つだと言われたら、何となく頷ける。
 

 

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蜜のようなアンビエント – “hard Romantic”の世界

年代日付は不正確ながら、私の中に和製アンビエントの走りとなる音像が今もくっきりと蘇る。
記憶では1995年以降から2000年に差し掛かる頃にTVのCMの頂点に躍り出た和製アンビエントが、このグループ “hard Romantic”だった。当時知的系CMとして音楽業界で話題になったのが、ONWARDの「23区」のCM。そこでBGMとして流れていたのが “hard Romantic” Romanzaの優しいアンビエントだった。
 

 

正直今聴くと若干おもちゃのようなアンビエントに聴こえるが、当時は日本全国‥ アジアのCM業界を騒がせた一曲でもあり、これが現在の和製アンビエントの走りとなったことは否めない。

私が本家「アンビエント」と日本のアンビエントとを分けることには理由がある。いわゆる私が思う「和製アンビエント」の定義は、以下のようなものである。
 

①メロディーラインが良くも悪くも幼稚であり、童謡のテイストをふんだんに取り入れている。
②音像が本家本元とは異なり、どこかギクシャクしていてぎこちなく作り物の様相を呈している。
③コード展開が単調で、余り音楽の教育を受けていない人でも何となく分かった気になれる程度にシンプルな構成になっている。
④基本的には4/4拍子、或いは緩い速度の8ビートで出来ており、頭を横に揺らせば音楽に乗って拍子を取ることが出来る平易な音楽である。

 
こうやって書いてしまうと明らかにKamalQuiet Earth や坂本龍一 & アルヴァ・ノトの二人が奏でるGlass等の楽曲とは比較すら出来ない程のレベルの差を感じることも又事実ではあるが、和製アンビエントの中では “hard Romantic” は良質な作品を量産しているアーティストだと言えるだろう。
 

 

“hard Romantic” の特徴を存分に醸し出している少年ヴォーカリスト “Liam O’Kane” リーアム・オケーン を発掘しこのユニットの企画の中枢を担うのが、大橋宏司と言うユニークなヒーリングの使い手だ。
『和製アンビエント』イコール「大橋宏司」と言っても過言ではないくらい、彼の和製アンビエント界への貢献は大きい。

“hard Romantic” の出現の直ぐ後に “Libera” と言う少年合唱団が『Libera』と言う楽曲で大ヒットを飛ばし、その後にわかに合唱団アンビエント・ブームが到来する切っ掛けとなった。
 

 

さて話しを “hard Romantic” に戻すと、このユニットの中枢をしっかりと牛耳っている大橋宏司氏は、独特の音楽観・アンビエント観を持ったプロデューサーであり、どの作品を聴いても直ぐに「彼」だと分かる明確な表現手法を維持している。
 

“hard Romantic” のアルバムに関して言えば私はやはり、このアルバムSplendore・・・天使の歌声』がピカイチだ。
このアルバムでも少年ヴォーカリスト “Liam O’Kane” リーアム・オケーン の歌声は随所に現れ、深い森で戯れる妖精のようにアルバムの要所要所に魔法をかけては消えて行く。
 

 
特にオススメは M-2 “Piercing The Cloude {Splendid Version] だ。
 

2022年2月13日 日曜日の昼間にほんの少しだけTwitterのTLにもツイートしたが、今回 “hard Romantic” を深堀りするにあたり、iTunes Storeから数枚のアルバムを購入した。その中に “hard Romantic” も参加しているコンピレーション・アルバム『Beautiful Gift』も含まれる。

https://music.apple.com/jp/album/beautiful-gift/220384209

 

この中の M-6 “After The Storm” はクレジットこそ英文字で「Hiroshi Ohhashi」と書かれてあるものの、サウンドはまさに “hard Romantic” そのもので、“Liam O’Kane” の美しいヴォーカルが炸裂する。

‥ところで1990年代は少年ヴォーカリストだった “Liam O’Kane” リーアム・オケーン も今は立派な大人になっているだろうと思いSpotifyを検索してみたところ、現在は何ともありきたりなフォークロックを歌うつまらない歌手に成長していたことを知り、愕然とした私だったが‥(笑)。

 

 
“hard Romantic” の活動は2003年7月23日にリリースされたオリジナル・フルアルバムNew Life以降は、目立ったものが見られない。又サブスクリプションに登録されているフルアルバムの数も未だ少なく、Spotifyには2022年2月13日現在、3枚のアルバムのみが配信されるに留まっている。
 

“hard Romantic” こと大橋宏司氏のコード・プログレッションには大きな特徴がある。それはサブコードの使い方だ。
特に「sus4」の当て方が個性的であり、本来ドミナントを当てるところをあえてワンクッション置いて「sus4」でじりじりとコード感を抑え込み、あえてドミナントに移行せずトニックにもつれ込む、この手法がしつこくて粘着質で私は大好きである。
 

https://music.apple.com/jp/album/new-life/1452791070
 

 

さて “hard Romantic” +ONWARD と言えば、私の記憶が合っていればこの作品もそうではなかったか。
この作品には、少年ヴォーカリストの “Liam O’Kane” の歌声は収録されていない代わりに、サンプリングと思えるフランス語の人間のささやき声が収録されて、とてもお洒落な仕上がりになっている。
 

 

この記事の最後に、上記の楽曲が収録されているコンピレーション・フル・アルバムMeditation & Sleeping Deeplyのリンクを貼っておきたい。
 
アルバムを聴く上で注意したいことが一つある。
それは「音楽作品」に意固地なまでに「癒し」「メディテーション」や「スピリチュアル」‥等をくっつけ過ぎるとどうしても、作品としてのクオリティーが怪しくなる点だ。
音楽が偽善的になり、誰からも愛されようとする作者のエゴが全面に出過ぎて、作品が下品になって行く点はどうにも避けられないのが難点だ。

それも踏まえ、以下のアルバムが良くも悪くも各々のサンプルとなることを祈りながら、この記事を終わりにしたい。
 

 

მუსიკა იმედია (Music is Hopeful) – დუეტი ჯორჯია (Duet Georgia)

昨年末からの個人的な諸々で暫く遠ざかっていたジョージアのポップスチャンネルを、久々にスイッチしてみたら、めちゃめちゃご機嫌なポップスがLiveで更新されていた。

ジョージア語が読めないのがこういう時悔しくなりますが、それでも何とか翻訳ソフトに頭を下げながら色々調べて行くと、辛うじてこの作品 მუსიკა იმედია (Music is Hopeful)のメイン & サポートメンバーの概要が分かって来た。

 

მუსიკა იმედია (Music is Hopeful)
Composer: Rati Durglishvili
Lyricist: Salome Chitadze

 

意外にも作詞家の欄に、上記Live動画のコーラスメンバーの名前がクレジットされているので、ついつい彼女の活動履歴も追ってみる。(その話しは記事の後半で)。
 

この作品მუსიკა იმედია (Music is Hopeful)の作曲者は動画の右側でイケメンぶりを堂々と発揮しているこの人、Rati Durglishvili であり、本当に良い作品だ。
 

 

Rati Durglishvili は歌手・ソングライターと掲載されているが、私の推測ではこの動画に関してもプロデュース等を兼任したのではないかと思われる。

イケメンの外装とは裏腹に、表現自体はどこか控え目な印象を受ける。と言うのも真横に座って歌っている Basia 似の Maka Zambakhidze の眼圧がそもそも強烈だから、ついつい比較しながら動画を眺めてしまうのは私の悪い癖。
治さなきゃ(笑)。
 

歌手としてクレジットされている Maka Zambakhidze に関してはプロフィール等の資料が殆ど見けられていないが、相方の Rati Durglishvili が39歳前後と考えると多く見積もっても40代(アラフォー世代)ではないだろうか。
若過ぎず老い過ぎず、程好く脂っぽくてくどくてそのくせ爽やかな良い声を持っている。
 

Spotifyに彼女の音源を探してみたところ、最初英語表記ではヒットしなかったが名前のジョージア語表記(მაკა ზამბახიძე)で検索したら見事にヒットした。これはファンとしてはめちゃめちゃ嬉しい。
 

 
似たところでは Swing Out Sister 或いはイタリアの Dirotta su Cuba、ポーランド出身の歌手 Basia 辺りを参考にして頂けると、音楽的な共通項が多々見つかるかもしれない。
 

 

 

さて、この記事のメインの作品მუსიკა იმედია (Music is Hopeful)で作詞を担当しているのが、動画内ではコーラスを担当している女性 Salome Chitadze だ。
 

彼女の経歴を追って行くと、この動画からはおよそ想像が付かないパワフルなヴォーカルで観客を魅了しているコンテスト動画が、幾つかヒットするが、正直私は Salome Chitadze のパワフルなヴォーカルには余り好感を持てなかった。
 

 

意外に大声を出すことの方がソフトリーな表現よりも簡単で月並みで、声量さえ鍛えれば誰が歌っても同じ音楽になってしまう辺りが何とも没個性的であり、表現手法としても上品とは言えないし洗練されているわけでもない。
つまり中途半端に上手いヴォーカルなんてこの世にごまんとあるから、2曲も聴けばうんざりして来る(笑)。

その意味で、Live動画მუსიკა იმედია (Music is Hopeful)の中の彼女の表現は洗練されており、控え目ながらも必ずリスナーの鼓膜に届くシルキーヴォイスはむしろ個性を帯びて感じ取れる。

コーラスのタイミングも程好い。断続的に忍び寄る彼女の声には時折深いエフェクトが掛けられており、このLive動画の音源監修をした人の洗練された力量には私でさえも完敗だ。
こういう控え目ながら洗練された歌唱表現がもっともっと、世の中に高く評価されるべきではないかと私は強く願わざるを得ない。
 

 

さて、この作品მუსიკა იმედია (Music is Hopeful)の主役である Rati Durglishvili は自身のYouTubeチャンネルを持っている。
何曲か英語で歌われている作品もあるが、此方も上のSalome Chitadze 同様に可もなく不可もなく‥ の楽曲を安全圏から歌っているので、聴いていて全くそそられない(笑)。
ノーアメリカナイズ!
もっとアメリカンポップスを意識しない、ジョージアらしさを大切にして欲しい。

やはり音楽も表現も、冒険をしなければ人の心を打てないのかもしれない。その意味では不完全で未完成な良作にもっともっと取り組むべき‥ と言う課題がこの人にも山積しているように見えるが。
 

 

さて。この記事の最後に、今回だけはLive音源とレコーディング音源の悪い意味での比較検証の素材として、音源(Spotify版)を貼っておきたい。

されこれを聴いて、レコーディングとは何か、Liveとは何か‥ と言う永遠の課題の一部を皆様も是非考えてみる切っ掛けとなれば、筆者としては幸いである。
  

 

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“Mare Nostrum III, JazzBaltica 2019 Official Live”から読み解くアカデミック・ジャズの在り方

その昔私は “和製 シャンソン & カンツォーネ” なる業界に平然と君臨し、分不相応とも知らずにかなりの鼻息で威張り散らしながら生きていた。
たかだか伴奏者の端くれだと言うにも関わらず、当時はその業界では全ての老舗に出番を確保した‥ と言うだけで、天下を取ったみたいな勘違い甚だしく、今となってはとても恥ずかしい限りである(笑)。

だがその時代は私にとって闇と空白の時代でもあり、仕事中の休憩時間になると寸暇を惜しんで近くのCDストアーを駆け回り、その日その週その月にリリースされた多くの海外の音楽の見本盤を聴き漁り、気に行ったCDは必ず購入して行った。
 

Verginメガ・ストアーズ 新宿店、渋谷は世界の民族音楽を扱っていた “エルスール・レコード“、HMV渋谷店TOWER RECORDS 渋谷店新星堂 吉祥寺店、新星堂 新宿店‥、この他にもまだまだ沢山のCDストアーを駆け回り、伴奏が本業だったのかそれともCD探しが本業だったのかすら分からなくなる程音楽と言う音楽にのめり込んでは片っ端から聴き倒して行ったものだった。
 

 

和製ジャズ業界が当時から余りに体たらくだったことが原因なのか、私は兎に角ジャズが大っ嫌いだった(笑)。
何でもかんでもテキトーにスイングさせればそれで良し‥ みたいな馴れ合い感覚にどうしてもついて行けず、少しずつジャズとは距離を置くようになった。
シャンソニエでジャズ歌手と出番がアタってしまう時程憂鬱なものはなく、兎に角一曲が最短のタイムで終了すれば良いとさえ思っており、アドリブパートも極力短く最低限の長さで終えられるよう歌手に「私、アドリブが出来ないので‥」と嘘を言いソロパートを回避出来る限り回避したものだった。
 

業界の中に居るとどうしてもその世界の欠点だけが目立って視えるようになってしまうもので、当時の私もそうやって多くの音楽を拒絶しながら生き長らえて来たのだろう。

その業界を離れてしまえばなんってことのない些細な粗がどうしても許せなくなり、結局キューバン・サルサもタンゴもボサノヴァもジャズもシャンソンも、何一つ愛せないサポート・ピアニストに進化したまま2011年の冬の或る日、同業のカンツォーネ歌手にこの世界に入って最大の嫌がらせを受けたことが原因で業界を完全撤退した。
  

 
折角シャンソンと言う世界に深く入り浸っていたのに、その業界でかなり身近に居たボタン・アコーデオン奏者の 桑山哲也 氏とも余り上手く交流が出来ないまま今日に至るが、その理由がこの記事のテーマとなるYouTube Mare Nostrum III (Paolo Fresu, Richard Galliano, Jan Lundgren) – JazzBaltica 2019 Official Liveを聴いた時にようやく理解出来た。
 

 

彼等3人の紡ぎ出す芳醇で上品な音色を前に、日本の全てのアコーデオン奏者の存在は簡単に吹き飛んでしまうだろう。
あれだけ嫌いだったアコルデオンの音色がこんなに美しく心に響く日が来ようとは、想像すらしなかった。

Richard Galliano(リシャール・ガリアーノ)のシンプルかつ上品なコニャックのようなアコルデオンの音色は、私の古傷を少しだけかすりながらその傷跡の上に「希望」と「癒し」のテーピングを施して行く。
 

 

Mare Nostrum III (Paolo Fresu, Richard Galliano, Jan Lundgren) – JazzBaltica 2019 Official LivePaolo Fresu, Richard Galliano, Jan Lundgren の3人で奏でられるシンプルなジャズ・コンサートを収録した動画だが、私は彼等の音色をあえて『アカデミック・ジャズ』と命名したい。
 

楽曲の全体をヨーロピアン・ジャズの空気が覆っているが、それは最早ジャズと言う喧噪の生み出す産物を超えて、超絶なアカデミズムに裏打ちされた品行方正なクラシカル・ジャズと言っても過言ではないだろう。

そういう正統派のジャズが日本には殆ど見られなかったことで、恐らく私のようなジャズ嫌いが多く現れたのではなかろうかとさえ思われる。
『ジャズ=煙草と夜と喧噪と迷いと葛藤が生み出すアンダーグラウンドな音楽』‥ 等とは思いたくないのだが、どうしてもそのようなイメージが付き纏わずにはいられない大衆音楽のいちジャンルと言う歪んだ価値観は、彼等 Paolo Fresu, Richard Galliano, Jan Lundgren の音楽の前ではかなぐり捨てなければならない。
 

 

そもそも「スウィング」と言う、ジャズ独特の演奏形態の定義がとても曖昧であり、日本人ジャズ奏者の多くが「ダウンビート」の亡霊に日夜悩まされ続け、結局ダウンビートがネイティブに感じられないコンプレックスとの戦いに明け暮れる羽目に陥っているようにも見て取れる。
だが、この考えこそが現在の和製ジャズ業界含む世界のジャズ観を歪めている大きな要因であり、表ビートのスウィングであってもそれは紛れもないスウィングだと言って、ジャズの神様の誰かがその概念を是非赦すべきだと私は思っている。
 

スウィングとはそもそも「揺れる」と言う語源を持つ言葉であり、その揺れ方を一個の表現スタイルに限定した価値観が蔓延している方こそ変なのだ。
縦に揺れようが横に揺れようが、斜めに揺れようが‥ その人の感ずるままに揺れれば良いだけの話しだ。
だが、これが「ジャズ」と表現形態が限定された途端に2拍目と4拍目にアクセントを持たせなければならないと言う制約が生じる為、ネイティブの英語圏以外のジャズ奏者たちがダウンビートの、まるで舟が沈みそうな揺れ感覚に共感出来ずにどんなに苦しんだことか‥(笑)⛵
 

 

それにしても Paolo Fresu の何とも上品な音色と相反する、どこかチーターを思わせる野性味にはタジタジするばかりである。
まさに「役者が揃う」とはこのことで、他の、何となく舞台に演奏者が揃って「カッコよくジャズってやろう」等と言う無駄な野心が全く見られない。
まるで大学で講義でも始める前の独特の静寂が彼等と会場を包み込み、授業の代わりのように「正しい音楽」「正しいジャズ」が厳かに始まる光景は見ていてただただ神がかっている‥ としか言いようがない。

薬品も音楽も「正しく取り扱う」に限る。

 
ところで彼等が放つ “Mare Nostrum” はシリーズで音源化されており、全部で3枚のアルバムがリリースされている。
折角なのでここにその3枚を一気に貼り付けておきたい。

 

 

 

 

この際「どれが一番良いですか?」等と言う野暮な質問はなしにして(笑)、時間の許す限り全部のアルバムを是非聴いて頂ければと思う。
 
兎に角どれも良いが、最もシャンソンを感じるのは Mare Nostrum III ではないだろうか。
ま、私がフランス音楽が大好きなので、Mare Nostrum IIIを聴いているとどこか古巣に帰って来たような、 懐かしさを感じてならないのかもしれないが。
 

 

最後に。

音楽も薬も、定められたとおりの用法・用量を守りましょう。

と言うことで、宝塚の劇歌にもあるように私も「清く正しく美しく」をモットーに、これからの創作活動及び音楽評論活動を継続して行きたいものである。

 

  

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音楽とスピリチュアル

ここのところの急激な寒さで体調が若干優れず、今日(2022年1月24日)月曜日は朝からほんの少しだけ部屋の掃除を済ませた後はこのSNS 【note】を巡っていた。
音楽評論、そして音のライターとして今後の自分のスタンスをもう少し明確にしたい‥ 等と考えながら、次のアルバム制作のことやその原案、そして音楽評論家及び比較音楽学者としての執筆のスタンス等についても思いを巡らせ、そうこうしている間にあっと言う間に朝は過ぎて行った。

考え事をしたい時に限って、人からのお誘いが絶えない(笑)。だが今日会える人とは今日会っておきたいと最近は考えるようになり、極力お誘いにはお断りは入れないようこれでも努めている。
 

そんな折、待ち合わせ場所に先に到着した私はやはりスマホをポチポチと触りながら、ふと‥ 気になっていたワード「スピリチュアルジャズ」について調べてみると、どことなくそれらしい文献を書いている人の記事に遭遇したが、どうにも記事の内容には納得が行かなかった。

https://note.com/elis_ragina/n/n17f9a89aeae0

 

それもその筈で、私は芸術家とスピリチュアリストを兼ねて仕事をしている、恐らく日本ではただ一人の人材ではないかと思う程スピリチュアルには深く精通しているのだから、上記の記事に異論を感じても致し方ないのだ。

 
そもそも【スピリチュアル】と音楽とを掛け合わせるには両方のスキルを習得している必要が生じるが、未だ私はそのような人を見たことが無い。
なんちゃってスピリチュアルの域に在る人ならば数名見聞きしたことはあるが、それもあくまで「なんちゃって」のレベルを出ない(有名人含む)人達なので、ここでの名前の列挙は控えておきたい。
良からぬ霊的な呪詛を仕掛けられても割に合わないので‥(笑)。
 

音楽は音楽、スピリチュアルはスピリチュアル。仮にその両方を掛け合わせて行くのであれば、私はその人達に両方のスキルをそれぞれ確認したい‥ と思う。
ムードやイメージ、印象操作のレベルのスピリチュアルで音の聴き手を威嚇するような音楽家に限って、ろくなものではない‥ と私は思っている。
 

あ。。あの黄色い髪をした人や、大食い系霊能者のことではないですよ(笑)

 

記事スピリチュアルジャズって何? – カマシ・ワシントン以降、多用されるキーワード”Spiritual Jazz”のこと に書かれていた「スピリチュアルジャズ」の定義はあくまで音楽そのものの話しではなく、その名称を立ち上げた人達の言葉が綴られているに過ぎない。
既存の文献の文字を追ってそれを二次創作し、それらしく綴った記事なので、読んでいてピンと来なかった。

少なくとも「スピリチュアルジャズ」と言うのであれば、そこに何かしらのシャーマンにも通ずる要素があれば良いのだが、該当記事に掲載されているYouTube等を端から捲って行っても全てが「ただのジャズ」にしか聴こえないし、ジャズと言うだけあって都会的なノイズの洪水と行き当たりばったりなアドリブだけが展開される、音楽としては未熟としか言いようのない音源ばかりが掲載されている。
 

🐬
 

ところでKamalと言う、(多分ドイツ出身だと記憶しているが)スピリチュアル系のアンビエント・ミュージックを多く手掛けるアーティストをご存じだろうか?
1990年の後半から日本でも「精神世界」や「スピリチュアル」熱が過熱し、日本中の至るところで「すぴこん」(現在は「スピマ」に改名)が開催され賑わいを見せていた頃、私もそんな奇妙な世界の一員として音楽家とは別の名前でその界隈をブイブイ言わせて活動した時期があった(笑)。

当時は度々表参道や渋谷辺りの天然石店やアロマオイルの店舗や、或いはオーラソーマショップ等に足を運んだものだった。
そんな折、オーラソーマのワークショップ中に出会ったのがKamalQuiet EarthReiki Whale Song等で、その頃流行っていたビート系の音楽とは一線を画していたので直ぐにのめり込んだ。
 

LAと東京を諸事情で度々往復していた時期とも重なり、私自身がPTSDを患っており心を深く病んでいた。
視えない世界に未だ経験が余り無かった私が唯一音のスピリチュアルに傾倒し、中でもこの人Kamalの生み出す癒しの音色がとても好きで、CDでさえ傷だらけになる程何十回も何百回も聴き込んだものだった。
 

 

基本的に「音楽」に「スピリチュアル」をくっつけて活動する人に対しては私は懐疑的であり否定的だが、Kamalに関しては彼の持つ潜在的なスピリチュアルの力を信じるに至った。
彼の音楽がそれを物語っており、あえてここでは分かりやすく「スピリチュアルな人」を Kamal と言うアーティストをリンクさせて記載してみたが、彼の作品に「スピリチュアル」の文字が仮に無かったとしても十分に、彼の音楽からは尽きることのないスピリチュアルを感じ取ることが出来る。

 
ところで私の思うスピリチュアルジャズについて一つだけ補足するが、そもそも「ジャズ」とは、迷いと葛藤と反骨精神が生み出す音楽(ジャンル)であり、とても現世的な音楽だと私は認識している。
酒、タバコ、夜の店‥ 等を連想しやすく、スピリチュアルが提唱するところの不確定要素の共通項を探すとしたら、それは際限のない「アドリブ」に集約されるだろう。

だがそのアドリブもヒトの脳内の迷いが音楽に転じた信号に過ぎず、えっとえっと‥ え~~っと‥ と言う結論に到達出来ない音符のループ以上でも以下でもない。
出来ることならジャズからアドリブが無くなったらどんなにすっきりするだろうかと、私はいっつもジャズを聴く度に苛々したものだった。

料理に例えると分かりやすいが、料理とは予め完成形があるところからスタートするから、その料理が完成する。
調理を開始してから暫くして炒めて、煮て‥ と言う過程でもしも完成形に変更が生じてそれでも優れた料理に辿り着くとしたら、それはかなりの料理の達人の域に在る人に限定されるだろう。
音楽も同じである。
 

ジャズとは現場の再現性に多くを託される音楽ジャンルであり、上記で少しだけ触れたシャーマンと「ジャズと言う現実」とが合わさることは通常殆ど無いと言っても良いだろう。

仮にアンビエント・ジャズ‥ と言う定義をここに持ち出せばその可能性はゼロではないが、記事スピリチュアルジャズって何? – カマシ・ワシントン以降、多用されるキーワード”Spiritual Jazz”のこと で書かれている「スピリチュアルジャズ」の音楽(説明含む)自体は普通のジャズ以上ではないので、これ以上の解説は割愛する。
 

 

さて、この記事の最後に Kamal の作品の中でもう一つ、私が好きな作品を貼ってこの記事を終わりにしよう。
アルバムShamanic Healingは1999年にリリースされており、私は最初このアルバムを恐らく当時頻繁に往復していたL.A.の、メキシコ人が経営するタロットカードやワンド、天然石等を販売しているショップの中で聴いたと記憶している。

不可思議なお香の匂いと煙が立ち込める店内と言う、現実離れしたシチュエーションが功を奏したのかそれとも否か‥、兎に角このアルバムの醸し出すシャーマニックな音色が当時の私の心の病(闇)に深く刺さった。
今でもあの瞬間の衝撃を、私は忘れることが出来ない。
とても良い思い出として、今は当時の自分を穏やかに語れるようになり、同時にこのアルバムを当時とは又違った視点で聴くことも出来るようになった。
 

本当に素晴らしいアルバムなので、是非リラックスして聴いて頂ければ幸いである。
 

 

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音楽文化 [Balkan Brass] の今を読み解く

ずっとリリースを待ちかねていたルーマニアのジプシー・ブラス・ユニット Fanfare Ciocarlia(ファンファーレ・チョカルリア)が2021年9月に、あの  グローヴァー・ワシントン・ジュニア が1980年に生み出し大ヒットした名曲Just The Two Of Usを、見事なBalkan Brassスタイルにカバー & アレンジし、新譜をリリースした。
 

 

2016年にリリースされたアルバム20以降殆ど活動が見られなかったFanfare Ciocarliaだが、コロナ禍のど真ん中で彼等のバイタリティーをアピールするように、元気な姿を見せてくれた。

私が最初に彼等 Fanfare Ciocarlia(ファンファーレ・チョカルリア) を聴いたのは確か、2001年にリリースされたこの作品Iag Bariだったと記憶している。
未だSpotifyもYouTube Musicも無い時代に辛うじてYouTubeの中にそのムーヴィーを見つけたが、その映像が余りにもシュールだったのでかえってこの作品Iag Bariが私の中に深く焼き付いて離れなかった。
 

(※後にこのムーヴィーは何度か配信⇔削除を繰り返し、現在残っているのが以下のYouTubeになる。)⇩
 

 

私には昔々ロマとして何度かトランシルヴァニアに生まれ落ち、主に踊り子として各々短い生を終えた記憶があるが、そもそもロマには戸籍のようなものが存在せず、人権も無い。その為私には決まった名前が無く、あだ名でルーマニア語で『O altă fiică』(よその娘)を意味する、通称『タフィカ』のような名前で呼ばれていたことだけを記憶している。

とても寒い地域なので人々は体を温める為に楽器を演奏し、踊り、アルコールを嗜んで夜を凌いだ。
気質としては男性は責任感は強いが移り気な一面を持ち、短時間の労働をこなす以外は殆どの時間を飲酒とパーティーで紛らわせて過ごしていた。一方女性は別の家族の女性達と手を取り合いながら年中家事や料理に追われ、それ以外は主に刺繍や編み物等で家計を助けて生きていた。

 
そもそも [Balkan Brass] とはセルビアの軍事音楽とフォークミュージックの融合としてバルカン地域で生まれた独特の音楽スタイルだが、最近では北マケドニア、ブルガリア、モルドバ、ルーマニア‥等の国々で飛躍的な進化を遂げている。
 

その [Balkan Brass]の発展と普及に一役買ったのが彼等「ロマ」、いわゆるジプシーの存在だった。

※ジプシーはグループを率いながら寄り添って移動生活をし、すれ違う別のグループとの交流手段として音楽や舞踏等を駆使しながら、互いに意思の疎通を図った。言語の異なる集団が多い為、彼等は会話よりも音楽や舞踏等で親睦を深めて行ったと思われる。
やがてそれらの蓄積が、一つの文化を形成して行った‥ と言う経緯があるようだ。

 

Fanfare Ciocarlia(ファンファーレ・チョカルリア) よりも若干古い世代としては Fanfara Transilvania と言うユニットが実在するが、3~4年前から活動が更新されなくなった。
勿論古いユニットなのでサブスクリプション等への登録は未だ為されておらず、私は彼等のサブスク登場を心待ちにしている。

代表曲はこの作品ではないだろうか‥🌹
 

 

上記の作品が収録されたCDを探してみたが、やはり見つからない‥(笑)。恐らく日本国内では見つけられない‥ と言うことなのだろう。
懲りずに探してみようと思っている。

 
さて、話題を Fanfare Ciocarlia(ファンファーレ・チョカルリア)  に戻すと、2005年にこの作品007 James Bond Theme』をリリースした時に世界が彼等をあらためて注目している。

 

 

どこかコミカルにも聴こえるが、これも歴としたバルカンブラスである。

なにせそもそもが大所帯のブラスバンドなので、それをここまで一曲にまとめ上げる辺りに並々ならぬ意気込みを感じずには居られない。
 

🎺 🎺 🎺


バルカンブラスの他のユニットに少し視点を動かしてみると、色々と面白いブラス・ユニットに出会うことが出来る。
例えばこのグループ『Boban Markovic Budapest』(ハンガリーはブダペストのバルカン・ブラス・ユニット)も数年前までは活発に活動していたが、Liveが多い割には楽曲の配信は少ない。

 

 

アルバムが最後にリリースされたのは、2012年のČovek I Trubaまで遡る。
 

 

王道Balkan Brassからは少しだけ離れるが、個人的に私はユニットÄl Jawalaのハイブリッド・バルカン・サウンドも気に入っている。

Äl Jawalaはドイツ生まれのバルカン・ブラス・ユニットだが、彼等のHPにもあるようにユニット名の『Äl Jawala』はアラビア語で、英訳すると「The Wanderers」と言う意味になる。
 

 

王道のバルカンブラスから飛躍し、インドや中国、ヨルダン等への演奏旅行から得た各国々のモードをバルカンブラスに練り込んで合わせて生み出したハイブリッド・バルカンを独自のスタイルとして作品をリリースしている。

(※だが彼等も又、2018年にリリースしたアルバムLovers以降、活動が更新されていない。)
 

 

🎺 🎺 🎺
 

 

 

さらにエレクトリック寄りのバルカンブラスを探ってみると、私が大好きなユニットMahala Rai Banda(ルーマニア)も2009年にリリースされたアルバムGhetto Blasters』を最後に、此方もアクティビティーが更新されていない。

だがこのアルバムGhetto Blasters』はなかなか聴き応えのある一枚で、暫くはこのアルバムを聴きながら彼等の新作リリースを待ちたいところである。
 

 

と言うわけで、ここのところ各々活動の更新が見られない [Balkan Brass] 界隈だが、この記事の最後に私が今も時々聴きながら踊っている此方のコンピレーション・アルバムBalkanBeatsのリンクを貼って、記事を〆たいと思う。
 

正直なところ、この数年間の色々な世界情勢の中で、音楽家達はかなり翻弄されている。諸事情で活動がままならない状況に追い込まれたミュージシャンやユニットも多数存在し、多くの音楽家達が次の切っ掛けを息を潜めながら待っているに違いない。
何卒無事な彼等の再登場を、私もそっと物陰から見守っていたいと思う。
  

音楽から読み解く世界情勢 [2022.01.19]

かれこれ私は10代半ばから音楽の仕事に携わっているが、これ程までに音楽界全体が迷走している様を見たのは人生初かもしれない。
1991年に勃発した湾岸戦争や、2011年の春に始まったシリア内戦の時でさえ、ここまで音楽界全体が衰退しなかった。だが、今一連の世界的なコロナ・パンデミックがこの世の全ての流れをせき止め、人々の精神や文化の発展を大きく阻害している。
 

こんな時でさえ、あれほど「地球を救済しに行くぞ」と息巻いていたとされるプレアデス星人等の地球への救済は為されず、人類は最早自力でこの難局を乗り越えて行く他の全ての道を絶たれた状態に在る。

特に2021年から現在に至る音楽情勢は危機的であり、世界的に多くの音楽家達が活動の場を追われている。主に舞台表現を得意とするミュージシャン達の前途は暗い。
例えば韓流女性ユニットの IZ*ONE は2021年4月29日で約3年間の活動を終了し、同じ韓国では最強のユニット 東方神起 も2019年以降の目だった活動は無い。
 

 

イタリアはカンツォーネ歌手の Andrea Sanninoオルネラ・ヴァノーニ が比較的インターネット配信での活動に華が見られる他は、全体的に活動や配信に翳りが見られる。
 

フランスはシャンソン歌手の Patricia Kaas(パトリシア・カース) も最近のアクティビティーは無く、唯一 Danny Brillant が昨年 Charles Aznavour(シャルル・アズナブール) の楽曲ばかりをセレクトしたフルアルバムを一枚リリースしている‥ と言う具合に、全体的に見ると一部の、インターネット配信に強いアーティストだけが断続的に楽曲を配信している印象が強く、音楽界全体としてはエネルギーがかなり弱まっている感が否めない。
 

 

フランスで私が長年注目している女性歌手 Enzo Enzo(エンゾ・エンゾ)が2021年に、久々にアルバムEau calmeをリリースしている。アルバム全体がヴォーカル+ギターのみで構成されており、一見シンプル・シャンソンにも視えるが全体を通して聴くとかなり地味で楽曲も冴えない印象だけが後に残る。
 

 

南米でアクティブな活動が見られるのは、意外にもメレンゲ (Merengue) 業界界隈ではあるものの、ラテン全般で見ると以前程の華が見られない。

中でも Elvis Crespo(エルヴィス・クレスポ) 辺りがブイブイ言わせながらメレンゲ界隈の華やかさを高めているようにも見えるが、楽曲の配信数に見合わず作品の質が明らかに落ちている。
 

 

そして最も私が気掛かりだったのは、Sufi(スーフィー)界隈のアーティストの活動が殆ど見られなくなった点だ。

Omer Faruk Tekbilek(オマール・ファルク・ テクビレクMercan Dede(メルジャン・デデ)Burhan Ocal(ブルハン・オチャル)、‥等、Sufiを代表する多くのアーティスト等の活動が2019年以降止まっているように見える。
 

 (⇧の動画、舞台中央の白髪の男性がオマール・ファルク・テレビレク。)
 

カッワーリ界隈からの音も途切れており、Fareed Ayaz(ファリード・アヤズ)Sabri Brothers(サビール兄弟)Rahat Fateh Ali Khan が2021年にかなり音質の悪いアルバムが2枚リリースされる以外のアクティビティーが見られない‥ 等、全体的に活動が低迷している様は否定出来ない。
 

 

クラシック音楽に視点を動かすと、2021年はかのショパン国際ピアノコンクールが1年遅れで開催されたことで若干賑わいを取り戻したものの、入賞した演奏家等のアクティビティーも然程目立っているとは言えず、それもその筈で彼等はオリジナルの作品を生み出して演奏する音楽家ではないので、結局のところは「舞台表現型」の表現手法以外の活動手段を持たないのだからそれも致し方ないのだろう。

ショパン好きはショパンと言う作曲家の音楽を聴きたいのであり演奏家と言う肩書きのパフォーマーに寄り付きたいわけではないのだから、「コンクール」と言うお祭り事が終わった後にはそこに静寂しか残らないわけだ。
 

それ以外のクラシック音楽は、主流を未だに現代音楽から動かしていない。
この物騒な時代にガチョーン!ガビーン!‥ 等と言う破壊芸術的な意味合いを多く含む、激しく痛々しい無調の音楽はもはや無用の長物であるだけに、ほぼ「見向きもされなくなっている」と言っても過言ではない。
クラシック音楽の専門家である私自身がそもそも現代音楽が嫌いなので、一部の現代音楽関係者以外はほぼノータッチと思って間違いないだろう。
 

 

現代音楽からは少し外れるが、私はこの人 Samuel Barber(サミュエル・バーバー)“Adagio for Strings” が大好きで、ベネズエラの指揮者 Gustavo Dudamel(グスターボ・ドゥダメル)の指揮で演奏される以下のトラックを時々聴いている。
 

 

話題が多岐に渡り過ぎるとかえって混乱するので、これでもかなりセーヴしながら記事を書いているが、やはりここのところ活動が活発に見えるのは台湾のポップス関連と、一部の(ジャンルとしての)ブラジル音楽界隈かもしれない。

特に台湾ポップスは全体的に粒が揃っており、業界全体の質が底上げされている感じに視えて来る。
 

 

 

一方ブラジル出身ではないがブラジル音楽にかなり近い表現スタイルをキープしているこの人 Didier Sustrac(ディディエ・シュストラック)[フランス人] も2021年9月に、愛娘をゲストに招いて新作PVを出しており、音楽のクオリティーも比較的高い状態で維持されている。
 

 

フランスから少し視点を動かして「スペイン」の音楽情勢を観てみるが、此方も余り目立った動きが見られない。

女性フラメンコ歌手 Argentina がキューバン・サルサとフラメンコを見事に融合させた新作IDILIOを2020年2月にリリースしている。この作品を中心としたアルバムが近くリリースされると言う噂があったので心待ちにしていたが、結局今日現在までアルバムはリリースされていない。
 

 

こうして全体を見渡してみると多くの「舞台表現型」のミュージシャン達が息を潜めており、諸々の事情で活動自体を停止しながら次の機会を狙っているようにも見えて来る。
 

そんな中、あえてヴィジュアルを出さずに音楽だけをサブスクリプション等から粛々と配信し、ある種の凄みを見せているジャンルの一つとしてLo-Fiミュージックが挙げられる。

 

「Lo-Fi」とは音像をあえてクリアにせず、若干の汚しを入れた音楽作品を指す。ジーンズで言うところの「ウォッシュド」の状態に近く、ある種のヴィンテージ感を出すことで楽曲に古めかしさ等を添え、アナログ感をもたせた作品が多い。

以下は私がSpotifyにスクラップした昨年版の「Lo-Fi」のプレイリストになる。
 

 

書こうと思えばまだまだ多くのジャンルに跨って行くことも可能だが恐らく私が地上ほぼ全体の音楽ジャンルを網羅しているだけに、読む方々の中に混乱が生じる懸念もあるので、本記事はこの辺りで一旦記事をお開きにしようと思う。

本記事の最後に、わたくし Didier Merah の作品を一つ添えておきます。
 

 

 

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台湾Popの新星 – 韋禮安 WeiBird

このところ、台湾のポップスがめちゃめちゃ熱い。兎に角出るもの出る曲の全てがハイクオリティーであり、何よりソングライターがぞろぞろひしめいている辺りは日本の同じ業界では既に追い付けないくらい、粒が揃っている。
 

中でも私のイチオシのシンガーソングライターがこの人、韋禮安(William Wei Li An)
1987年3月5日、台湾・台中生まれの彼の生み出す上品でソフトリーなメロディー、歌詞、そしてサウンドはさながら極上のラム酒でも飲む時のようにマイルドで優しい。
 

新作Don’t Show Itは全編英語で歌唱され、黙って聴いていたら中国系のシンガーとはおそらく誰も気づかないだろう。
(※古き良き、ブリティッシュ・ロックバンド プリファブ・スプラウトに通ずるそこはかとなくノスタルジックな曲調は、リスナーに時代錯誤を引き起こさせる。)
 

 

カメラの焦点が熱帯魚が泳ぐ水槽に当てられたまま、その向こう側に一人の女性があてどもなくやり過ごしている独特の映像は、ここ最近の韋禮安の配信する幾つかの動画に共通している、ある種の「人に対する美しい拒絶」を匂わせる。
 

ひょっとすると韋禮安と言う人は心のどこかに、永遠に消すことの出来ない痛みを隠し持っているのかもしれない。
この評論を書いている私自身がそうであるように、人は誰にも視えない場所にひっそりと傷を隠し持つ生き物だ。その人が笑顔であればある程その痛みは繊細で脆くて、絶対に誰の手も触れさせまいと必死でそれを隠そうとするものかもしれない。
 

 

韋禮安のニューアルバムI’M MORE SOBER WHEN I’M DRUNKには9曲の珠玉の作品が収録されているが、中でも私が好きなのはこの作品Leave This Bedだ。
 
この作品のPVに、人物は一人も現れない。焦点の合わない一台の車に少しずつカメラがズームしたり離れたりしながら、楽曲の要所要所に車だけがその輪郭を露わにして行く。
その車に接近しているのは人なのか、人の心なのか或いは魂か、それとも地縛霊のような何物なのか‥、PVの最後まで明かされない謎に悶々とさせられるからついに何度も視てしまう不思議なPVに、私は完全に心を鷲づかみにされたようだ。
 
ロックオン!
 

 

彼の「掴みどころのない世界観」に魅入られながら、過去アルバムSounds of My Lifeも聴いてみるが、此方も秀作である。
印象としてはどこか、遠い過去に捨てられたままの廃屋に迷い込んだままその中で一つの生を振り返るような、本当に不思議なサウンドが広がって行く。
 

中でもM-11這樣好嗎 How About This』が個人的にはドストライクで、何度も何度もこの作品を聴いている。
この作品にはPVも存在するが、私個人的には映像を通さずに音楽だけを聴いていたいと思った。あえて映像化しない方が、作品の持つ曖昧なところに想像力がかきたてられ、解釈にむしろ深みを与えてくれるような気がしたからだ。
 

 
 
どの作品にも通じているがこの人 韋禮安の歌い方がどこか、マイケル・ジャクソンを想起させる。
特にロングトーンの中盤から後半の縮れ感のある細かいビブラートがランダムなのに美しく、彼の心の彼方にそっと息を潜めている「傷跡」を包み込む水の紋様のようで、胸が張り裂けそうになる‥。
 

さてこの記事の最後に、韋禮安が2021年にリリースしたニューアルバムI’M MORE SOBER WHEN I’M DRUNKのアルバムリンクを貼っておきたい。
そこがイングランドなのかチャイナタウンなのか‥、或いはそれ以外なのかが分からない迷宮の世界がアルバム全体に広がって行く。

是非、音のマトリックスとしてご堪能頂きたい🎧

 

声のないシャンソン – “Que reste-t-il de nos amours” (残されし恋には)

悲しい時に聴くシャンソンは、人の声よりもインストゥルメンタルが良いかもしれない。
 
しんしんと風が凍り付く冷たい冬の夜、珍しく(ずっと大っ嫌いだった)シャンソン – “Que reste-t-il de nos amours” (邦題: 「残されし恋には」) を聴いている。
勿論下のLinkはヴォーカルのないバージョンで、ここのところ人の肉声を回避しながら音楽に接している私にはうってつけの内容だ。

 

 

この作品は シャルル・トレネ が生み出した名曲中の名曲であるが、私はこの作品が好きではなかった。

おそらくこの作品との出会いが良くなかったのだ‥。未だ私が和製シャンソン歌手の伴奏に従事していた頃に、訳詞家 古賀力氏がこの作品を「十八番」として毎日歌っていたが、それが余りに物真似臭くて段々と嫌気がさして来た。
 

 

物真似ソングの伴奏者には、否が応でも同様に「物真似」を要求されることになる。古賀力氏が歌う “Que reste-t-il de nos amours” に於いても同様で、最初は良い曲だ‥ と思いながらも次第に物真似臭さが鼻に付いて来て、最終的には大っ嫌いな一曲となって行った。
 

話しを「声のないシャンソン」に戻すと、最初のリンク “Que reste-t-il de nos amours” (Paolo Fresu | Richard Galliano | Jan Lundgren) 版は、Live録音とは言え「作品性」に特化した録音版であり、表現の全てが細やかでナイーヴで洗練されており、その上シャンソンにありがちな「崩れ」や「泥酔感」が一切見られない。
 

フランスはネイティブの Richard Galliano(リシャール・ガリアーノ)が参加しているにも関わらず、ネイティブのアコルディオン奏者を差し置いてイタリア人トランペッターの Paolo Fresu が楽曲のTopの座に君臨しているあたりが何とも皮肉めいていて、クールでカッコいい🎺


なにせ楽曲を底からしっかり支えているスウェーデンのピアニスト Jan Lundgren (ヤン・ラングレン)氏のハーモニー構成が何とも上品で美しく、ヤン氏のピアノに触れる度にいかに「音楽に関わる人に於けるアカデミックな教育の下地」が大切か‥ について、深く考えさせられる。
 

 

さてこの名曲 “Que reste-t-il de nos amours” (邦題: 「残されし恋には」) をざっくり検索していたところ、何と同曲を歌手の岩崎良美さんが歌っている動画を見つけた。

 

 

控え目なヴォーカルは相変わらず上品だ。
ギタリストが所々コード・プログレッションを間違えている為、後半岩崎良美が若干俯き加減にそのミステイクを上手く誤魔化しながら歌い切っている様子が(専門家の私から見れば)手に取るように分かるが、これも「生演奏好き」から言うところの「ライブの醍醐味」と言うことになるのだろう。
 
全編をフランス語でしっかりと歌い切っている辺りは高感度大であるが、やはり他国の表現者のライブと比較するとツメの甘さが拭い切れない。

 
音楽を演奏する上で重要なことは、「百年後に残せる音楽を奏でる精神」ではないだろうか。少なくとも私の場合、かつて和製シャンソン & カンツォーネ等の伴奏者に従事していた時には、上記の心得を一瞬たりとも忘れたことがなかった。
仮にその日その夜のヴォーカリストが何かの拍子に表現を投げ出してしまったとしても、私はそれを一切度外視しながらその日の仕事に集中したものだった。

だが今こうして振り返ると、当時の夜な夜なの演奏がいかに実力不足で内容が不十分だったのかと、多くの心残りが蘇る。
 

 

だが、世界には上の上、その又上が居るものだ。
Paolo Fresu | Richard Galliano | Jan Lundgren‥この三人が繰り広げて行くアルバム Mare Nostrum もそんな「上のその又上」の人々が奏でる至極の作品だ。
 

悲しい人もそうではない人たちも、今この瞬間共にこのアルバムで心を一つに出来れば‥ と願いながら、この記事の最後にアルバム Mare Nostrumを置いて記事を終わりにしたい。
 

「マツケンサンバⅡ」はサンバか否か‥

「マツケンサンバⅡ」が厳密には「サンバ」ではなくマンボかルンバ‥ と言う音楽評論を目にしました。

マツケンサンバⅡ、正確には「マツケンマンボ」か「マツケンルンバ」?音楽学者が解説

 
音楽には色々な解釈がありますが、上記の説に於いては半分が正解であり、半分は不正解と言えます。

サンバ論或いはサンバの解釈をする際に、度々持ち出されるのが「リオのカーニバル」です。リオのカーニバルが「サンバ論」のベースとなるサンバ解釈は方々で展開されていますが、「リオのカーニバルこそがサンバである」‥ と言う視点も、あくまで規模の問題です。
 

基本的にリオのカーニバルの音楽(主にリズム体)の特徴として、大所帯の打楽器「バトゥカーダ」が主として16ビートの3、7、11、そして15の箇所にアクセントを感じるリズム体をキープしながら演奏されるのが特徴です。
バトゥカーダ」は本来ヴォーカルのない音楽演奏形態を指し、主にスルド、アゴゴ、カウベル、カイシャ、アビート(ホイッスル)等と言った多くの楽器で編成が組まれ、リオのカーニバルではダンサーの後ろに大きな台車が組まれチームを鼓舞しながら会場を練り歩きます。

 

 
確かに「マツケンサンバⅡ」の原曲にはバトゥカーダ が入っていません。
 

 

元記事【マツケンサンバⅡ、正確には「マツケンマンボ」か「マツケンルンバ」?音楽学者が解説】⇦ では《マツケンサンバⅡはマンボかルンバ、ないしはキューバの音楽「モントゥーノ」かもしれない》‥ と書かれていますが、どれも正解ではありません。

ざっくりとこの音楽はシンプルに、「ラテン音楽」である‥ と言う認識の方が正しいと言えます。
 

少し視点を変えて、さらに説明を加えましょう。
「マツケンサンバⅡ」には複数のトラックが存在し、それぞれ個性的なアレンジが施されています。
その中で同曲が見事にサンバ・チルアウトに編曲されているのが、以下のトラックです。⇩

 

 
上記のトラックでは若干ですがリズムセクションが増幅されており、リオのカーニバルのバトゥカーダ 程ではないですが、ブラジルのサンバにかなり近づいている箇所が数カ所あります。
 
リズムの刻みが16ビートから、さらにかなり細かく刻む別の打楽器が背後にミックスされていて、若干付点がかった「Swing(オンダ)」を入れて打楽器がミックスされている為、リズムに空気感と躍動感が感じられます。

time 2:36 辺りから段々とSwing(オンダ)がきつくなっており、そこに「オーレ!」がリピートされている為、かなり強いサンバ感を感じることが出来ます。
よ~く聴くと、バスドラが増幅されてミックスされているので、低音部に重厚感も感じられますね。

これは「マツケンサンバⅡ」のシングルバージョンには無いアレンジになっているので、エレクトリック・サンバとして聴いたり踊ったりすることが可能です。
まぁどんなに背後に強力なリズムが来ても、上様にとっては最早どうでもいいことのようにも見えます。楽しけりゃーいいんですから、上様は!(笑)

  

 
 
音楽、特に『舞曲』やダンス・ミュージック、リズム・ミュージックを解釈する時に必要なことは、知識よりも感性です。
ドラムの何々が何ビートを刻んでいるから「これはサンバである」と言う数学のドリルの回答を導き出すような杓子定規な解釈は、私から見ればとても短絡的に見えます。

特に民族音楽はリズムだけではなく、そこに発祥地の「モード」や言語の特徴等が折り重なって一個の世界観を形成して行きます。なので、正しいか否か‥ を超えた音楽分析力が求められます。
 

元記事マツケンサンバⅡ、正確には「マツケンマンボ」か「マツケンルンバ」?音楽学者が解説⇦ ではどこか、マツケンブームに乗って何かしらアンチテーゼのような一家言を叩き出すことで筆者が音楽評論界に二次的な旋風を巻き起こそうとしているようにも見えます。
ですがどこか筆者の音楽解釈のツメの甘さが目立ち、多くの音楽を複合的に解釈しようとすることを拒絶しているような意図が見え隠れしている点に、個人的には問題を感じてなりません。

音楽解釈の自由性を許さない、或いは音楽を感じるマインドに余計なバイアスを掛けて行くような音楽評論は、リスナーの自由性を大きく阻害することになりますので、そのような文献にうっかり遭遇した時は出来れば余り真剣に読まずに通過することをオススメします(笑)。

 
さて、この記事で折角「バトゥカーダ」に触れたので、今私が個人的にイチオシのAAINJAAのバトゥカーダの動画を最後に置いて、記事を終わりにします。