LE SSERAFIM “KAZUHA”の表現と美声

私、Didier Merahは3月12日から14日まで、思い出の地 箱根に小旅行に出掛けていた。SNS用のプロフィール写真を1枚でも撮影出来ればと思いきや、現地は物凄い花粉の渦‥。
度重なるくしゃみの影響で、遂に二泊目の夜にこともあろうにギックリ腰を発症し、今日に至る(笑)。
 
まぁ箱根の旅について書きたいことは一旦棚上げし、昨夜YouTubeで聴いたばかりのLE SSERAFIMのKAZUHAの上品な表現と歌声に、私は完全に痺れている。
ここ数年はNewJeansを色々な方法で応援していたが、一連の事件が日に日に表面化して来る毎に彼女たちの人間性にも活動形態にも強く失望し、付け加え私の予知ではKポップ産業全体が近い将来衰退するだろうと察知しており、そろそろKポの推し活も潮時だろうと思っている。
そんな私を、Kポ産業で活躍している日本人女性の歌声の火球が直撃した🌠
 

 
YouTubeでコンスタントに配信されている『リムジンサービス』は、キャスターのイ・ムジンが好きで時々視ているが、今回のKAZUHA特集には痺れた。
 

 
何より選曲が良い。
冒頭の『Impurities』をピアノ一本でキメて来る辺り、KAZUHAの音楽性と教養の高さをモロに見せ付けて来るではないか。楽曲の大半を裏声を使って表現して行く様は、歌曲アリアを歌う手法に寄せており、動画後半でイ・ムジンがその旨を突っ込んで解説している。
そもそもKAZUHAがバレリーナを志していた女性と言うこともあり、クラシック音楽に精通していたことは当初から感じて居たが、彼女の、特に「声」の表現が身体表現を楽に超えて来た辺りは同じ日本人として心から誇りに思う。
 
楽曲が進み、私を完全に痺れさせたのが『Angel』27:11~ だった。
これは韓国ドラマ『ボーイフレンド』の劇中歌として数年前に流行ったそうだが、丁度私は自身の音楽活動が過熱して来たタイミングと重なりこのドラマを未だ視ていないが、原曲も良曲だ。
 

 
勿論原曲『Angel』も最高だが、KAZUHAのカバーが原曲を超えて来たところが圧巻だ。
彼女がもしも日本からデビューしていたら、彼女本来の能力はここまで発揮 (評価) されなかっただろう。そう思うと、日本の音楽文化水準の低さに腹立たしさを感じずには居られないが、やはり神はKAZUHAを放ってはおかなかった。
 
ただ、残念なことに今回のLE SSERAFIMのカムバック曲Come Over他‥ が何ともチープで情けなくて、音声を切った状態で映像だけを観ているとどこかストリップ性の高い下品な内容に見えて来る。そこに今回の『リムジンサービス』が体当たりでバッティングして来たことで、聴衆がどちら側の現象を真実として吸収して行くか、或いはKAZUHAの真の才能はどちら側の側面に潜んでいるのか‥、その辺りの評価の分断に対しては幾ばくかの危機感も感じてはいるが‥。
 

音楽的なことを付け加えるならば、『Angel』はどこかEnnio Morricone (エンニオ・モリコーネ) の名曲『シネマ・パラダイス』にも通ずるテイストを持つ楽曲だ。
名曲へのリスペクトがさらなる名曲を生み出したと言っても、過言ではないだろう。
 

 
何れもクラシック音楽のエッセンスを存分に含んだ楽曲を、バレリーナを志していた女性 KAZUHAがヴォーカルでカバーして行く流れは、偶然を超えた必然だ。
複数の奇跡が同時進行で動いて行くこの瞬間瞬間の出来事を、多くの人たちがありふれた出来事として見過ごして行くのが、音楽家である私にはただただ悔やまれる‥。
 

この記事の最後に、LE SSERAFIMのレパートリーの中で最も私が好きな曲『Impurities』のMVを貼っておきたい。
動画は原曲のバージョンにアクティブな映像がくっついているが、むしろ本記事の冒頭に貼ったKAZUHAのセルフカバーの方が音楽的に優れている。
 

 

ここからはほんの余談である。
私の法律に携わる家系に生まれているが最近、YouTubeチャンネル進撃のコ弁を運営する、コ・サンロク弁護士の活動に強く触発されている。
両者は方向性も手法も勿論全く異なるが、意図するところがとても近い。そして何より法解釈の緻密さに於いては、右に出る者は居ないだろう。
 
私は法の専門家ではないので適切な表記からは外れるかもしれないが、コ・サンロク弁護士の法解釈は既存の解釈は判例を法の解釈によって覆して行く可能性を感じており、それが私の音楽活動に大きな (ポジティブな意味で) 打撃を与えてくれる。
辛うじて両者が同じ星に同時に存在している事も、ただの偶然とは思えない。

“真っ白” – 藤井 風

色んな噂で透明性を失いつつある藤井風が、タイトルだけは透明な『真っ白』をリリースした。
この曲はミネラルウォーター (実は普通の水) の、『い・ろ・は・す』のCMでも流れている。
 

 
私は先ず、歌詞を見る。この人の楽曲の歌詞には、とある新興宗教の教義からの抜粋がふんだんに引用されていると聞くので。
実際に歌詞を読む限りそれらしき箇所は見当たらないが、それよりも何とも言えない投げ遣り感の方が強く響く。売れている‥ と言う自負の割れ目から、いよいよこの人の本性が露わになったのか。
 
本作品では恋愛が盛り上がった頃合いを見計らってゲームオーバーを言い渡す女性像が描かれており、そう言えば昔そんなゲームの連鎖を単純に楽しんでいた多くの女子大生がいたっけか。
かれこれ昭和の話だが、それは今の若者にも引き継がれているのだろうか。‥だとしたら、何と言う命の無駄遣いをしているのだろう。
 

真っ白な心に惹かれ
真実をさまよえば
真っ黒なところはぶち抜かれ
真新しい風にまた抱かれた
 
好きだよ 好きだけど
離れなくちゃ 置いてかなきゃ
 
好きだよ 知らんけど
私たちもう そんな頃よ
 
先にさよならするわ
悪いのはそうよいつも私でいいの
先に進まなければゴールできぬゲームなのよ 

 
作品のアートワークはモノクロームだが、純真とか純粋だとか‥ 若い世代とか音楽家が持つある種のがむしゃらさは失われ、タイトルの『真っ白』とは真逆の汚しが骨の髄まで染み込んだように、私には見えて仕方がない。
 
ところで皆さんは『い・ろ・は・す』を飲まれたことはあるだろうか?
私は過去職の関係でスタッフがよくこの水を買って来るので、嫌々飲まされたものだった。あれをスタッフは「ミネラルウォーターだ」と言って私に手渡したものだったが、どう味覚を研ぎ澄ませたところで苦みのある水道水の味しかしない。
 
水の味が分からなくなったら人間、おしまいだ。
いかなる飲み物も料理も、基本は水。その微細な味を感じ取れなくなったら、それはご自身の健康状態に不具合が発生した証拠だと思った方が良いだろう。
その意味では藤井風の『真っ白』が全く美味しくも何ともない『い・ろ・は・す』に起用されたことは、あながち間違いではないだろう(笑)。
 
皆さんも是非、味覚と霊体、感覚を研ぎ澄ませて良い水 (ミネラルウォーター) を飲まれることをお薦めしたい。
 
一度汚しが入ったものは二度と元には戻らない。
それは水も、人間も、食も音楽も文化も、全てに共通する。
 

 

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“Anni Luce” – Joe Barbieri (孤独と光)

私が何故‥ こんなにもイタリアの音楽に惹かれるのか、この作品を聴けば多分多くの人たちにその意図が通じるかもしれない。
イタリアのシンガーソングライター、Joe Barbieri (ジョー・バルビエリ) が放つ新譜はまるで、この世界にたった一人だけ取り残された最後の人類の叫びのように聴こえてならない。
 

その私の想像をあっさりと肯定してくれるように、歌詞を和訳してみたところやはり‥ と言うような内容だ。
 

[意訳を含めた和訳]
私の居場所はあなたのそばにあるから
でも私はあなたのそばにいない、
 
絶望すべきだと言った
あなたに別れを告げるとき
彼がどうやってそれをするのかさえ知らない
半分の騒音
私たちが何だったのか
 
私たちは最後の住人だった
私たち二人のために作られた惑星
そして今、遠く離れた二つの衛星
自分自身に赦しを与える方法を知らないが、
外は暗い宇宙で
永遠から何光年も離れた
私たちが一緒にいたこと
 
確かめたい また
その痛みを
呼吸を消滅させる
しかし、それが生きている実感を与えてくれる
 
何も聞いてないよ
とても重要な
ただあなたの一部になるために
 
しかし、実際のところ、最後の言葉は
それはあなたのものではないが、私のものでもない。
私たちは密かに叫び続けるだろう
嘘の中にある真実
それがどうなのか聞くためだけに
半分ではないという罰
一つのことだけ
 
もう一度試させてください
あの味をもう一度
境界線を示す
地獄と崇高の間
 
何も聞いてないよ
とても重要な
ただ留まるため



何も聞いてないよ
とても重要な
ただあなたの一部になるために
 
私の居場所はあなたのそばにあるから
でも私はあなたのそばにいない

 
丁度昨夜私は夫と二人、イタリア料理で神人共食の儀を開催していたところだった。
本当に信じられないくらいの体調不良に夫婦共に見舞われる中、それでも中止等考えられない儀だったので二人とも頑張った。
一夜明けて、どういうわけか私の胃袋が復活した。いつもそうだ。約束のある前日辺りから不調に見舞われる。
きっと圧なのだろう。
 
神人共食の最中、愛するサビノ神父 (故) の話題に自然と触れて行く。
過去世の私は、当時のサビノ神父が乗車したトラックで (運転していたのは別の人物だった) 轢かれて命を落としている。そのことが大きな心の傷となり、サビノ神父は霊体の心臓部分に大きな傷を負ったまま、最後は信者さんに会いに行く途中の飛行機の中で心臓発作で亡くなった。
 
だがそれよりもサビノ神父はそもそもナポリ出身の生粋のイタリア人なのに、今世の私に会う為としか言いようのない理由で来日し、日本で聖職者となり、あらゆる手を尽くして私を探し出した。でもその時のサビノ神父はきっとそんなことは何も考えず、ただ夢中で私を探したに違いない。
色々な変遷を経て神父はようやく私の母を探し出したが、皮肉なことに母が一方的に神父に熱を上げたのだろう。
 

母の死後、遺品整理中に数十枚と言うサビノ神父の写真を発掘した。
人生で一度でも恋愛経験のある女性ならば、集められた写真を見ればその人の心情を理解することが出来ると思うが、母は間違いなくサビノ神父を異性として好きだったに違いない。
だが残念ながらサビノ神父は、母と繋がりたいわけではなかった‥。
 
そして母は私を身籠り、私が生まれた。
神父は毎年、私の誕生日になると家を訪れた。必ず何かしらの手土産を持参して実家を訪れたが、贈り物の大半は母の手中に吸い込まれるように私の前から消えて行った。
でも私たち (私とサビノ神父) にとって大切なことは、物ではない、もっと別の何か‥。そのことに真っ先に気付いた母が、私が5年生になった頃からサビノ神父を私から遠ざけるようになった。
 


サビノ神父はどこか、私にとって「知り合いのおじさん」、或いはとても親しかった思い出の中の年上の男性のようだった。

この写真を見れば確かに私と神父の雰囲気が似ていると、写真を見た人誰もが口を揃えて言う。私たちはもしかすると、カメラの方角のその彼方の過去のトスカーナを見つめていたのかもしれない。
(私はようやく20代を迎え人生はこれから‥ と言う時の、私がトスカーナで大きなトラックに轢かれたのはそんな、或る春の日の出来事だった‥。)
 


Joe Barbieriの新譜 “Anni Luce” は、「光年」と言う意味。丁度昨夜、私たち夫婦が訪問したイタリア料理店にも “Luce” と言う名前が付いており、色んなことが頭の中で複雑に絡まり合いながら今、この曲を何度も聴いている。
 
勿論私は回顧主義者でも何でもないし、今この瞬間が人生で最も光輝いていると思って生きているが、サビノ神父との間に起きた色んな出来事は時にそれをあっさり超えて行く。
何よりあんなに時間もチャンスもあったのに、やりたかったことの殆どが未達成のまま神父がこの世を去ってしまったことがとても悔やまれる。だが今は女児としてこの世に新たな生を授かったサビノ神父。彼 (彼女) と次会えるのは、いつになるだろう。
それまで私は絶対に生きてなければならないから、昨日のような胃の硬直感に見舞われるととても怖くなる‥。
 

昨夜の神人共食には、サビノ神父も列席された。そういう時に限って、そういう大切な瞬間だかこそ誰かが妨害を企てようとする。‥
 
“Anni Luce” を聴いていると、リラ星が燃え尽きた後にぽつんと私が宇宙の闇に放り出された時を思い出す。
苦悩も苦痛も何もなく、かすかなノイズが流れる暗闇に私は一人で存在していた。肉体がないから動くことも出来ないし、地面も何もない空間の中を私の意識だけが彷徨い続けていた。
 

Googleで和訳した歌詞を読んでいたら、思わず涙が溢れ出した。私は滅多なことでは泣いたりしないのに、無意識層の私が叫びを上げる。
孤独と光。それは私にとって、苦しみと懐かしさの両方の意味を持つ。どちらも崇高なのに、手にすることをとても躊躇するものだ。
“Anni Luce” は私の、二つの悲しい思い出に光をあてて行く。そして私はその光の彼方にあるものを凝視しながら、同時に目をそらす。両方の感情と感覚が私を包み込むと、そこに混乱と目まいが発生するが、その両方共にとても愛おしい。
 

 
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正義と法 – NewJeansの件に対する所見メモ

私は今日、泥の様に眠っていた。‥と言うのも私が当てた光があちらこちらで化学反応を起こし始めたので、それが私の霊体に疲労としてフィードバックを開始したからである。

先ず韓国の音楽団体が共同で声明を出す会見があったこと。
次にNJZ (旧 NewJeans) が『公式アカウント』を名乗り各SNSに独自チャンネルを開設したこと、その他色々。

 
世論や法律を悪用したり抜け穴を利用して脱法的な行動を起こす、その様な人々を私は個人的に容認出来ない。 特にNewJeansに関しては本人たちやご両親等が『奴隷契約』を叫んでいる様だが、あなたたち一体幾ら貰ったんだよ!と言いたい。
 
仮に (NewJeans側) 奴隷契約に関して正当な理由で世に訴えたいならば、自身の活動でこれまで得た収入を全額返金してから物申すべきだ。
 

奴隷とは自身の労働や仕事に対価を得られない身分を指す言葉であり、かれこれNewJeansの場合は契約金だけでも5億円を下らないとも言われている韓流アイドルグループであり、おそらくきっちり給料も得ている筈。


本当の自由とは、意外に不自由である。だがその不自由さの中でも知名度や信頼度を得て、成功を収めた音楽家やタレントは実在する。
NewJeansがそうした自由度の高い活動を切望するのであれば先ず、必要最低限誰の資本にも頼らず自身の収入の中で活動費用を捻出し、その能力を世に問うべきだ。
 
勿論スタッフや作曲・作詞等・サウンドメーカー~振付師等を雇うことその他、全てに於いて自力で得た収入の中で行うことが原則である。
自由とはつまり、そういうことを指す。


タンパリングに関しては、私にとっては未知の領域なので法的な解釈は出来ない状況である。
だが通常の状態であれば、自身の存在を拡大拡張してくれた事務所や企業に対するリスペクトの精神は絶対必須であり、不満ならば正当な手順を踏んで契約解除ないしは独立すれば良いだけの話だ。
今回、NewJeans本人たちは「正当な手順を踏んでADORとの契約解除に至った」とは言うものの、聞くところによればADORとの一切の話し合いをNewJeansが拒んだとの声も伝わって来ており、その状況で一方的な会見を開催する形での契約解除は、誰が見ても「不当」と言わざるを得ない。
 
ADORとNewJeans間で話し合いのテーブルが設けられなかった理由の一つとして、ミン・ヒジン元ADOR代表の強い洗脳或いはNewJeansの5人のミン・ヒジン信仰のような状況も挙げられるかもしれない。
だが、何れにせよADORが公式のSNSを通じてNewJeansの5人へ何度も対話を持ち掛けていた状況がある限り、その要求を無視した状態に於いて発動された「是正要求」が果たして法的かつ論理的に通用するかどうかは、甚だ疑わしい。
 
私が個人的に最も許せないと思うことは、Team Bunniesやらtokkisを名乗るファンダムが彼らの気に入らない個人や企業の悪評を流布し、法の悪用をもってSNS等で通報誘導 (教唆) 等を行う悪質なマインドだ。
 

さらに付け加えるならば、「郷に入れば郷に従え」の精神は芸能活動に於いても適用されるものだと、個人的には考える。
K-Pop産業に身を置いたその瞬間からその人物 (歌手やクリエイター等の表現者全般を含む) たちは、良くも悪くもK-Popと言う「郷」に所属する身分である。その郷が仮に闇の要素をふんだんに孕んだ領域だとしても、アーティスト自身が契約書に署名した段階で既に「郷」の一員であることを忘れてはならない。
 

勿論法の闇、法の網等の盲点は日々更新され続けるべき問題であり、その点に於いては企画会社やHYBEやADOR等の大企業に於いても日々の企業のあり方を綿密に精査し、改善して行く努力を怠ってはいけないだろう。
‥だとしても、NewJeansの一連の事件は行き過ぎだ。
 
特にファンダム (或いはファンダムを名乗る火消し的な存在も含む) の質の低下、及び悪化は看過出来ない。
何よりファンダムと言う団体が特定のアーティストの応援・支援の枠を超えた (例えばそのアーティストに不利益になる他の個人や企業を名指しし、世論に悪評を働きかけたり、該当のユーザーが所有するSNSのアカウントに関する通報教唆を行う等) 悪質な活動に、手を染めてはならない。
 

私は今日、泥の様に眠っていた。‥と言うのも私が当てた光があちらこちらで化学反応を起こし始めたので、それが私の霊体に疲労としてフィードバックを開始したからである。先ず韓国の音楽団体が共同で声明を出す会見があったこと。次に #NJZ が『公式』を名乗り各SNSに独自チャンネルを開設したこと、その他色々。世論や法律を悪用したり抜け穴を利用して脱法的な行動を起こす、その様な人々を私は個人的に容認出来ない。特に #NewJeans に関しては本人たちやご両親等が『奴隷契約』を叫んでいる様だが、あなたたち一体幾ら貰ったんだよと言いたい。

Didier Merah (ディディエ・メラ) (@didiermerah.bsky.social) 2025-02-27T13:37:19.747Z


私のXのメインアカウントがある日突然機能不全 (つまり凍結) に陥った、ほぼ数日後に、それまで順調に運行していた [@AespannJeans] のアカウントが削除された。
NewJeans側の視点からの意見では、上記ユーザーはNewJeansの活動に不利益な情報を大量に発信していたと言う話だが、私が [@AespannJeans] のポストを読んでいる限りそのような状況ではなかった。
一連のポストは極めて法的・論理的な解釈に基づいてNewJeansの一連の事象に於ける見解を綴っており、明確でとても分かりやすい内容でまとめられていた。
 
だが後日、Team Bunniesの活動報告として、Xのアカウント [@AespannJeans] が削除 (凍結) された件に対して武勇伝のようにその現象を拡散していた点には、遺憾と違和感を感じずには居られなかった。
 

 
某YouTubeでも取り上げられていたが、NewJeansの楽曲をヒットチャートから除外する件の密談があったとかなかったとか‥。
 
これは私の個人的な主観だが、私の周辺のtokkisの複数から『Apple MusicやSpotify等を就寝中も稼働させ、NewJeansのアルバムを音量ゼロの状態で視聴の状態にして再生回数を稼いで応援している』と言う実話を、実際に聞いている。
私にもそうしろと言わんばかりにオススメされたが、そんな状況で維持されているヒットチャートのランクは消えてなくなるべきだと私も思う。
 
確かにADORやHYBEにも問題は山積みかもしれないが、少なくともHYBEの巨額な投資があってこそのNewJeansの成果である点は絶対に無視してはいけないだろう。
勿論ミン・ヒジンの才能も私は個人的に高く買ってはいるものの、人間性に問題があり過ぎる。K-Popに於ける全てのオーパーツを自分の手によるものだと言う豪語を止められないのはひとえに、彼女の病的な承認欲求が原因だ。
 
作品は発信者の手を離れた段階で、受信者の内面的な資産となるものだと私は常々感じている。
その観点をミン・ヒジンは完全に放棄しており、それがこの一連のNewJeansの乱‥ 『ニュジの乱』及び『ヒジンの乱』の発端だ。
 
元々K-Popが闇の産物、闇の産業である件は、今に始まった話ではないだろう。それをNewJeans 対 ADOR (HYBE) の件だけが特別ブラックな出来事のように取り沙汰すNewJeans及びその関係者の弁は、ただの詭弁に過ぎない。
 

良質な作品を初期のNewJeansやミン・ヒジンが輩出していただけに個人的にはとても残念な一件だが、「社会性やルール、モラルを無視しても有名人ならば許される」等と言う前例が生み出されてはならない。
 

※あくまでもこれは個人的な主観であり、一個の人間や企業の誹謗中傷や人格否定を一切含まない。

 

Hearts2Hearts ‘The Chase’ – 新たなる挑戦状

SMエンターテイメントから5年ぶりに輩出された韓国のガールズグループ “Hearts2Hearts” が、デビューEP “The Chase” をお披露目した。
ざっと楽曲を聴いたところこれまでのKPopにありがちな音でもなければ、NewJeansの劣化版と言う感じでもない、若干風通しの良いサウンドが展開された印象を持った。
 
それもその筈。作曲者欄には二人のイギリスのソングライター等の名前が表記されている。
 

Lauren Faith: 作曲/ 編曲/ プロデュース 🇬🇧
Hannah Yadi: 作曲 🇬🇧


EPには2曲が収録されており、先にタイトルチューンの “The Chase” がMVでYouTubeから配信されている。だが私はタイトル曲 “The Chase” よりももう一曲の “Butterflies” の方が個人的には好みだ。
 


印象としてはやはり華の薄い8人と言う感じだろうか。皆そこそこ美人で顔立ちは整っており、声質もヴィジュアライズも上手く整えて切り揃えられているが、兎に角誰一人突出したものを持ち合わせていないのがかなり大きなデメリットとも言える。

楽曲面で印象的に感じたことは、冒頭からずっと継続する同じベースライン (オルゲルプンクト) の上にグラデーションで移り変わるコードプログレッション‥。
さらに本曲ではコーラスパートがかなり細かく組み立てられており、どこかしこにマイケル・ジャクソンが多用したコーラスワークを感じ取ることが出来て、聴く人が聴けばそこに懐かしさを感じる作りになっている。
だが、それだけなのだ、良くも悪くも。
 


SMエンターテインメントが満を持して粛々と準備を整えて、NewJeansに逆風が吹き始めたタイミングで世に放った8人‥ と言う意気込みは感じられるものの、特に突出した「売り」や方向性が感じられないのはやはり、素材の華の無さゆえなのだろう。
 
先行シングル曲 “The Chase” の背後には先に書いたようにマイケル・ジャクソンの吐息の他に、ケイト・ブッシュや Robbie Nevil のエッジを想起させる音列が見え隠れする。恐らく “The Chase” を作曲した作曲家両者が強く影響を受けたのが、その時代のサウンドではないかと推測出来る。
 


特に “The Chase” のコーラス部分を聴いてふと思い立ったのが、マイケル・ジャクソンの “Blood on the Dance Floor” だったが、皆さんはどう思われただろうか?
 


むしろここまで想像や憶測を膨らませた後にあらためて “Hearts2Hearts” のデビュー曲 “The Chase” を聴くのは、かなり危険だ‥(笑)。
私は既に脳内でマッチングシステムが発動してしまったので、比較・検証の衝動を止められなくなっているが、そのマインドで“The Chase” を聴くとただただ緩くて緩慢で、食い足りなさ以外の何も感じることが出来ない状況だ。
 
まぁ”Hearts2Hearts”の方はマイケル・ジャクソンのダンサブルなテイストからごっそりエッジを抜き取った「お花畑ダンス・ミュージック」なわけだし、なにせKPopと言うジャンルの中に一先ず収まった状態で世に放たれたわけだから、ストイックに出来栄えを世界の最高峰に底上げすること自体無謀な話であるが‥。
 
“The Chase” を聴く限り、SMエンタ側は恐らく “Hearts2Hearts” をKPopの籠の外に羽ばたかせようとしているように、私には感じてならない。グローバルKPopとも言うべき企画なのか‥、もしもそうだとしたらそれは余り上手く行かないだろう。
とは言えSMエンタの技術をもってすれば、作りに作り込めばそれも可能ではないとは言えないが、かなり無謀な挑戦だ。
 

 
付け加えるならば、“The Chase” のMVの冒頭に突如映し出されたアルパカの画像、NewJeansのファンダム「Bunnies」に対する挑戦状のように見えて来る。
“Hearts2Hearts”のファンダムがまさか「Alpacas」‥ とか言うネーミングにならないとも限らず、可愛い動物たちがこうしてKPopのライバル争いに巻き込まれて行くことは本意ではないのだが、どうも私の予感はこれまでもかなり高確率で的中して来た経緯があるので、不安が尽きない。
 

本記事の最後に、“Hearts2Hearts”“The Chase” のパフォーマンス動画と、その下にSpotifyのEPのリンクを貼っておく。

(※この記事を綴っている最中にマイケル・ジャクソンのBlood on the Dance Floorをリピートで聴いてしまったことを今、痛く後悔している。)

 

 


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Jardin d’hiver (こもれびの庭に)/ Patrick Nugier (パトリック・ヌジェ)

Patrick Nugier  パトリック・ヌジェ

アンリ・サルヴァドール (Henri Salvador) の持ち曲の中では、最も世界的に飛んだ作品の一つ、“Jardin d’hiver” のカバー。
 
パトリック・ヌジェ (Patrick Nugier) と言えば、本国フランスでの活動を手放して長きに渡り日本で活動しているアコーディオニスト 兼 シャンソン歌手で名高い。
私も若かりし頃は数回この方と遭遇している (詳細にはここでは触れないが) が、正直余り良い印象はなかった。日本で活動しているフランス人だから「それっぽく見える」だけで、特にこれと言って取り柄のない歌手だ。
突出してアコーディオンが素晴らしいとも言えないし、本業の音楽よりも奥方の手厚いサポートでここまで生き残って来たと言っても過言ではないだろう。
 

久々に聴いたパトリック・ヌジェの “Jardin d’hiver” はどこかもの悲しく、そして彼の声も枯れ始めていた。これまでの人生は何だったのか、それを一つ一つ振り返るような彼の表現はむしろ、若くして来日し、そのまま日本に住み着いた外国人の油臭さと勢いが薄れ、むしろ説得力を増したようにも聴こえて来る。
 

 
この記事を書く上でかなり綿密な取材を重ねたが、先ずパトリック自身のレコーディング音源が少ないことに加え、彼の活動の母体がシャンソニエと言う夜店での生演奏である彼自身の音楽活動の条件等も重なり、勿体ないくらいに良質な音源が残っていない。
物理CDを漁れば幾つか作品も発掘出来るかもしれないが、現在公式サイトもCloseされており入手経路が絶たれた状態だ。
 

ようやく見つけたのが以下のLive音源だった。
 

 
皮肉な表現はなるが、こういった夜店の質の悪い音響の中で演奏する方が、なぜかパトリックの存在が生きて来るから心苦しい。
フランス人なのだからフランス語の曲が際立つのは当然のことだが、音楽の輪郭がスッキリとして聴きやすい。ヴォーカルの無駄なアドリブもなく、いたって普通に、本当に普通にオーソドックスに歌っている点に好感が持てる。
 

 
上の動画は恐らく「パリ祭」の映像だと思うが、大舞台に立つと地味になるのが何故なのか‥。ヴォーカリストでもなければアコーディオニストでもない、微妙な中途半端さが仇になる。
演目の「Vie violence」(ヴィーヴィオロンス) はクロード・ヌガロのレパートリーの名曲の一つだが、アクの強いクロード・ヌガロの個性が楽曲全体を支配している影響なのか、同じ曲をパトリック・ヌジェが再演すると線の弱さが余計に引き立って、曲が地味に聴こえて来る。
 
要はパトリック・ヌジェ自体が線の細い表現者だと言うことになるのだろう。完全に選曲ミスだと言わざるを得ないが、そもそも「パリ祭」は故 石井好子が各歌手に「あれを歌え、これを歌え」と上から目線で指令を出すシャンソン・パーティーの変形なので、言われた通りに下僕の歌手はそれに従わざるを得ない。
こうして映像に記録されればそれがその表現者の作品として永く残ってしまうのだから、立つ瀬がない。
 

話を“Jardin d’hiver” に戻すと、私がこれまで数々聴いて来たパトリック・ヌジェのレコーディング音源の中では際立って印象が良い。きっと原曲との相性が良かったのだろう。
近年の彼は主に教材を作成しているようだが、欲が抜け落ちてそれも良い感じに記録されている。それが彼の、身の丈に合った仕事なのかもしれない。
 

 
此方は歌手、岩崎良美との記録。岩崎良美の声のアタックが本当に綺麗で、そのヴォーカル力に完全にパトリックが引っ張り回されている(笑)。
だが如何せん、編曲が余りにチープだ。
 

肝心な “Jardin d’hiver” の編曲も、お世辞にも良いとは言えない出来栄えだ。業界内の演奏者事情を私は知っているので、きっとこれはあの奏者、あれは〇〇さんが担当した音源だろう‥ 等を読めてしまうのが辛いところだ。
とは言え、往年の和製シャンソン歌手が次々とこの世を去って行った今、パトリック・ヌジェは和製シャンソン界の最後の砦の一人だろう。
ならば最後まで美しく在って欲しいと、願わざるを得ない。
 

 

関連記事:

“Bubble Gum” – NewJeans (思い出作りの始まり)

2024年5月に正式にリリースされたNewJeansの “Bubble Gum” は、日本では同年3月に某シャンプーのCM曲として世界で最初にお披露目された。
私の記憶が正しければ、日本で最初にこの楽曲が紹介された時の歌詞は大半が日本語で構成されていた。だがその後 (ヘインの怪我により) 4人でパフォーマンスされた時には、その部分がごっそり英語と韓国語に変わっていた。
 

 
この曲も冒頭はハニ (Hanni) のヴォーカルでスタートするので、楽曲が華やかに聴こえる。
そもそもこの曲に関してはさほど派手な曲ではなく、NewJeansの持ち曲としては地味な部類かもしれない。ミディアムテンポでメロディー構成は緩め。

とは言えPVのインプレッションは強く、きらきらと光る波に相反してNewJeansのメンバーが古びたフィルムに映り込んだ思い出のシーンのように表現されているので、むしろもの悲しさを感じてたまらない気持ちになる。
この独特なもの悲しさを見事に映し取ったミン・ヒジンの才能を、あらためてまざまざと感じた作品だった。
 

既にこの頃からADOR 対 ミン・ヒジン、ADOR (HYBE) 対 NewJeansの戦いは始まっていたが、むしろ私が気になったことと言えば、丁度この頃からミン・ヒジンもNewJeansの5人も大きなステージを意識した活動に固執し始めたことの方だった。
大舞台でスポットライトを浴びて、そこに大勢のファン (バニーズ) 等の声援が飛ぶ独特な環境は、その後の彼女たちの精神を急速に蝕んで行ったように思う。
 

 
ミン・ヒジンの海を切り取った映像は、抜群に美しい。

彼女は時を超えてここに来た存在だ。それは彼女自身すら気付いていない真実かもしれない。
だが別の映像を見た時に、私は彼女の転生に気が付いた。その事を勿論本人は知る由もないが、今のミン・ヒジンを見ているとかえって自身の魂のルーツを知らないでいる方が良さそうな気もする。
 

傲慢な言動、闇に堕ちたと言っても過言ではないミン・ヒジンの最近の言動は、歪んだ自信に基づくものかもしれない。その過信を脱ぎ捨ててしまえばそこに才能の輪郭だけが浮き彫りになる筈だが、もう時すでに遅し‥。
思い出ノートは全て書き終えた。
丁度この作品 “Bubble Gum” がリリースされた頃からNewJeanz (ミン・ヒジン含む) の思い出作りが加速し、東京ドームのコンサートで彼女たちはその頂点を迎えたようだ。
 

日本の5人と韓国の5人、‥それぞれの形で彼ら自身も終焉を間近に控え、各々の音楽業界やメディア等全てを巻き込みながら、世界が急激に変わろうとしている。
この曲の “Bubble” ~風船のように、それは高く高く上がって行くがいつかどこかで割れて壊れてしまう。その残骸はあとかたもなく波間のやわかな泡となり、押し流されて、いつかひっそりと海の底で眠りにつくのだろう。
 

“Ditto” – NewJeans 🇰🇷 (PVに隠された暗示)


2022年12月19日にYG PLUSを通じてADORから配信された、NewJeansの大ヒット曲。
最初ヘインのスキャットを経て、Aメロの冒頭をハニ (Hanni) が担当する辺りはどこか、今の世情とは異なり明るく希望に満ちていて健康的だ。

それまでのKPopのガールズ・グループの陰鬱かつヒール (悪役) のイメージを、この一曲が完璧なまでに塗り替えた。
この曲の出現でKPop界隈は、二度と『NewJeans以前』には戻れなくなったと言っても過言ではない。

一方このPVの演出はどこか不穏が隠れており、特に ‘Ditto’ Official MV (side B) には死の影を思わせる演出が随所に施されている。
(※監督: シン・ウソク)
 
NewJeansの各楽曲のサウンドメイクの特徴は、重たいドラムを使わない点だ。
一説には当時のNewJeansの楽曲選びの際、ミン・ヒジン氏からは様々なリファレンスの楽曲が提示され、その大半が日本のシティーポップだったと言うから、NewJeans以降の新しいKPopの原点はJPopだと言っても過言ではないだろう。
 

ダイエットをしない。
緩いダンスで誰にでも踊れそうな振付が付いている。
高音を地声で張り上げない、声帯に負担のない発声でメンバーが交互に歌って行く。
楽曲とは一見無関係な可愛い衣装が多いが、何を着てもNewJeansカラーに仕上げて行く。

何よりコロナ禍の最中に一曲につきかなり多くのPVがリリースされ、引き籠り族を存分に楽しませる企画が活きていた。

 

その後、NewJeansはこれまでには類を見ない攻め方をして来た新世代のガールズグループとして一世を風靡する直前で、残念ながら既存の「ファンの目線とステージライトを浴びてパフォーマンスを行う」だけの、至って平凡なKPopガールズグループに転落して行った。
 

現在のNewJeansは「ADORと契約解除をした」と言い張り、独自の活動を行うニュータイプのアーティストの体 (てい) を取ろうと必死になっているが、最近では (ADORの旧CEO) ミン・ヒジンのタンパリング疑惑が表沙汰になり、闇深いミン・ヒジンの洗脳でがっつりマインドを拘束された彼女たちはもはや自力で暴走を止められなくなった。

曲が作れるわけでもなく、振付を生み出せるわけでもなければ各々がタレント活動以外の音楽の基礎を持たないのであれば、彼女たちはそう遠くない日に大衆から忘れ去られて行くだろう。

私は元バニーズだったが、今は違う。社会のルールを守らずに身勝手な状況解釈によって暴走し続けるうさぎは、いつか必ず高い崖の上に追い詰められて行くことになる。

まるで ‘Ditto’ Official MV (side B) に描かれている「学校の屋上から落ちてこっぱみじんになったビデオカメラ」がそれを暗示するようで、仮に彼女たちがいずれ莫大な損害金を背負うことになったとしても、シン・ウソクが描いたこの曲のPVが現実にならないようにと祈るばかりだ。

 

 

 

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[音楽評論] “Ravel: The Complete Solo Piano Works” by Seong-Jin Cho (チョ・ソンジン)

久しぶりに目が覚めるようなクラシック音楽を聴いた。

本記事で紹介するのは、韓国から世界に放たれた近代音楽、モーリス・ラヴェルのピアノ曲集。
基本的にクラシック音楽のガチャガチャした感じが個人的に好きではないので、冒頭2曲で止めようと思った。だがM-3: “亡き王女のためのパヴァーヌ” で演奏者 チョ・ソンジンが覚醒する。

日本の近代音楽ピアニストの権威、安川加壽子(やすかわ かずこ) の影響が強く染み付いた私にとって、近代音楽は「感情を一切込めない冷酷な音楽」と言う強いトラウマを植え付けらえる切っ掛けだった。
彼女の公開レッスンに実際に演奏者として参加した私は、そこで一気にドビュッシーもモーリス・ラヴェルも嫌いになった。

彼女の言う「感情を一切込めない音楽」とは半ば、エモーションを完全に手放したロボット的解釈のそれだった。だが肝心のラヴェルの音楽には緩急があり、程好い加減を心得た最低限のエモーションは必須だと言うことは、わずか小学校2年生の私でさえ理解に至った。
 

チョ・ソンジンの新譜 “Ravel: The Complete Solo Piano Works” を聴く限り、彼は安川加壽子の言う近代音楽の解釈は取り入れておらず、むしろ彼の解釈は感情過多に陥ることなく、その先のエモーションに到達しているように思える。

M-4: Jeux d’eau (邦題『水の戯れ』の解釈は、個人的にツボだ。
 

 
何を隠そう学生時代の私はこの曲を得意曲としており、数十種の解釈で日々演奏し分けていた。と言うのも複数人のピアノ教師に師事していた為、否応なく一曲を各々の教師の好みに弾き分けることを余儀なくされたからだった(笑)。
桐朋大学の権威者の元にレッスンに行く時は、いかにも権威主義的でいかつい近代音楽を大げさな身振り手振りで演奏しなければならなかったし、かと思えば藤井一興氏の自宅レッスンに行けばまるで私が元からフランス人に生まれた人みたく、流しそうめんをつるつる飲み込むようなラヴェルやオリビエ・メシアンを演奏しなくてはいけなかった‥。
 

兎に角私は何が忙しいかと言えばこの「弾き分け」で、母 (毒親) はそんなこととはつゆ知らず毎日私の練習中ミスタッチを見つけ出してはヒステリックに私の腕に爪を立て、皮膚を抉り、握りこぶしの関節が当たるように右目の眼球を殴り続け、そんな中で私がクラシック音楽など好きになれる筈もなかったわけだ‥。
 

 

ここで一つだけ余談を。
私が学生時代の頃は主のピアノメーカーはと言えば、YAMAHAかスタインウェイ (Steinway & Sons) だった。YAMAHAは高音域の音質が金属丸出しで上品さを欠いており、一方当時のスタインウェイの鍵盤は象牙が使用されているものが多かった。これが鬼門だった。
上記に触れたモーリス・ラヴェルの「水の戯れ」の中盤の盛り上がりで一カ所だけ、グリッサンドが書かれた箇所がある。グリッサンドとは、鍵盤を滑りながら打鍵する奏法で、これを象牙が完全に妨害するのだ。
 
そもそも象牙と言う材質は滑りにくい素材で、その上をあえて “f” (フォルテ) で滑り落ちるように手を移動させなければならなかったから、スタインウェイでこの曲を演奏した後には必ず右手人差し指の側面が真っ赤に皮が剥けて、包帯が欠かせなかった。
特にこの曲の場合は黒鍵を指のはらで滑らせて、高音から低音まで下降しなければならず、本番一回の演奏だけで人差し指の側面の皮膚が赤くただれてボロボロになる。

 
話をチョ・ソンジンのモーリス・ラヴェルに戻そう。
普段私は他の人のクラシック演奏をあえて聴かないようにしているが、それもこれもクラシック音楽の未進化具合に苛々して精神衛生上良くないからであり、クラシック音楽が良い意味でもっと進化すれば本当はもっと色々な音楽を聴きたくなる筈で‥。
 
チョ・ソンジンのこのアルバム “Ravel: The Complete Solo Piano Works” を今もヘッドホンで聴き進めているが、全体的にヒステリックさはなく、クラシック音楽奏者が持つエゴイスティックな嫌味を感じない。

世の中も音楽も同様に、実のところ「何も起きない」ことがベターなのだ。
だが多くのクラシック音楽の楽曲も解釈もドッタンバッタンと大げさなドラマを作り出し、これみよがしに権威主義を見せ付ける。それが「クラシック音楽の醍醐味」だと思い込んでいる現役の音楽家も、そしてクラシック音楽愛好家も共に多く、「何もない音楽」「何のドラマも起きない音楽」‥ つまり事件性の薄い音楽には価値を見出さない人たちが多数存在する。
だがそのような音楽を地球の外に持ち出すことは不可能だと言う現実の壁を、殆どの人々が知らずにいるようだ。
 
なぜならば、私が知る多くの地球外生命体たちは地球人よりも聴力と鼓膜が弱く、大きな音量には耐えられない。勿論そんな地球外生命体の面々に現在の地球上の音楽を聴かせようものなら、おそらく彼らは耳を強く抑えて、大きな声で「やめてくれ!」と叫ばずにはいられなくなるだろう。
 

ある意味私にとっても外敵さながらの現在の地球上のクラシック音楽集の中でも、幸いチョ・ソンジンのこのアルバムはギリギリ、地球外に持ち出せるクラシック音楽の一つとして地球外生命体の音楽愛好家等にも推奨出来そうだ。
但し音量はぐっと抑えめにして、彼らに聴かせなくてはいけないだろう🛸
 

蘇る日々 (“Mosaico” – Andrea Sannino)

イタリア発祥のものは先ず口に、脳に、入れてみる。過去世の記憶が蘇り、いつしか私はトスカーナの並木道に佇んでいる。
甘い木の実と春間近の草の匂いを風が遠くに運び出す朝。直前の過去世に、私はそこで息絶えた‥。

アンドレア・サニーニョ (Andrea Sannino) が新譜をリリースした。彼の声はほんの少しだけ枯れ始め、それは夏の終わりの太陽の香りを脳裏にもたらす。
甘い夢と痛みが交差する私の中に、復活する私自身。

懐かしい顔ぶれが黄泉の国から戻ると、煙った記憶はたちまち輪郭を強め、これは夢ではないよ‥と言って私を強く抱きしめる。
愛した人はもうこの世界には居ない筈なのに失った筈の感覚はとても現実的で、悲しみよりもよろこびを幾つも幾つも連れて来る。
 


思い出が全てを美化し、風化させるとは限らない。それでも蘇るのは美しい記憶の中に響く音楽や会話ばかりなのは、逝った人の心の痛みを和らげようとする神々の甘い計らいかもしれない。

アンドレア・サニーニョも39歳になり、油が乗ったと言うよりは少し秋風を感じる年齢に差し掛かって来た。だがイタリア男はここからが見せ場と言うように、彼は時に泣き、咽びながら声をしぼり上げる。
私も心の声で後を追う。そう‥ あの日一羽のアヒルを追いかけた農道で一台のトラックが私の上を通過する直前まで、人生は輝きに満ちていた。そして最後に見上げた遠い空と雲が私の息を塞ぐまで、夏の終わりの甘い風が私を、痛みから遠ざけるように吹いていた。

アルバム “Mosaico” は冒頭はどこかリッキー・マーティンのスパニッシュな音色を思わせる作品で始まり、途中、ただの甘口なメロディーに留まらずイタリアン・フォークとでも言うべき作品等が挟まる。
M-7: Duje core はとてもオーソドックスなイタリアのメロディーで、おそらくこのアルバムの盛り上がり部分にあたる曲。共演歌手を務めるMr. Hydeの低音が背骨に響く。

M-11: “Vommero che curaggio” でアンドレアは少しだけリスナーを落ち着かせて行こうとするが、どうにも私はここで涙があふれて止まらなくなる。
 


来世で生まれる場所を、私は既に決めて今を生きている。生と死は日に日に距離を縮めて、その度に私は「もう少しだけ、あと数十年は生きていたい」と神々に願い、祈る。
愛したイタリアの神父の御霊を思う気持ちと、生まれ変わった神父の将来への祈りが複雑な形を成して交差する胸の中。
 

明日のことは分からない。だから今を精一杯生きることしか出来ない。

美しく、痛みをともなう思い出を昨日の出来事のように復活させて行くこのアルバムが、少しだけ憎くて、そして愛おしい。