蘇るクロード・ヌガロ (Claude Nougaro) – Claude Nougaro Returns.

毎週末の “世界の新譜” チェックは相変わらず続いており、この半年間で私が各プレイリストにラインナップする楽曲の質が大きく変化していることに、Didier PL Fanの方々はきっとお気づきだろう。
以前のPL (プレイリストの略称) に多かったチルアウトやDeep House系の音楽がグっと減り、いわゆる純粋にワールド・ミュージックと言える楽曲が増えていることに。
 
コロナ禍以降世界は暗闇に包まれている。政治の腐敗はもとより環境汚染による気候変動や天変地異が多発しており、創作活動がままならなくなったアーティストの話も多数聴こえて来る。
勿論此方の世界からあちらの世界への移動を余儀なくされたアーティストも多く、ただただ寂しい限りだ。
 

 


今日この記事でご紹介するのは “Une voix, six cordes – De Claude à Nougaro” と言うアルバムだ。
表現者としてYvan Cujious、そしてLouis Winsbergと言う二人のフランスのミュージシャンが表記されており、オールドスタイルのジャズ・フランセとも言うべきフレンチスタイルのジャズソングが収録されている。
全曲がClaude Nougaroの作品でまとめられている。
 

 

クロード・ヌガロと言えば、とても苦い思い出が一つだけある。
未だ私が前職で和製シャンソンの世界に深く関わっていた頃、お世話になっていたシャンソニエ “BOUM” のオーナーのご厚意でクロード・ヌガロのコンサートの (記憶では2002年だったか) チケットを手配して頂き、楽しみに会場に向かったのだが‥。
 
ほぼ真っ暗な照明の中にピアノ一台をバックに、クロード・ヌガロがオリジナルを歌い始めたのだがどうにも私の感性に彼の表現がフィットせず、冒頭の4曲だけを聴いて会場を飛び出した。
Pf.のモーリス・ヴァンデールのバッキングのテイストも何となくしみったれており、ほぼ暗転状態の照明の陰鬱さも手伝って私の精神の方が参ってしまいそうだったのだ。これ以上会場に居るには周囲に知り合いがあまりにも多すぎて、”拍手はしない” と言う意思表示すら難しいと思った。
 
後日談を聴くと皆一様に「素晴らしかった‥」としか言わない。たった一人を除いては。その “たった一人” の名前はここではあえて伏せておくが。
 

アルバム “Une voix, six cordes – De Claude à Nougaro” の中の一曲が丁度先週末の新譜の渦の中に登場し、先入観なく聴いていた私の心臓を一撃した。
垢抜けたヴォーカルに深い音色のギター、それらがあの、忌まわしい記憶の中のクロード・ヌガロの楽曲だと分かったが、表現や解釈によってはここまでカラっと爽やかで切れ味鋭い音楽に豹変するのかと、ある意味感動しながら今も未だアルバムを聴いている。
 


M-7: “Rimes” はイントロがどこかStingの “Fragile” を彷彿とさせる作りになっており、それが血の半分がアジア人の私にとっては何ともたまらない気持ちになる。
私の残りの血の何分の1がスコットランドで、残りはきっととても複雑な血が入り混じっているのだから、一体私自身のルーツの根源はどこなのかとも思うが人間なんてそんなもの。
どこかのどこかでアダムとイヴのどちらかに到達する。その先はプレアデス星人、そしてリラ星人へと辿り着くわけだから、もう誰がどこの血筋だ国籍だと訝しがること自体馬鹿げた話だ(笑)。
 

それにしても “Rimes” 、良い曲だ。
 

Rimes (歌詞)
J’aime la vie quand elle rime à quelque chose
J’aime les épines quand elles riment avec la rose
J’aimerais même la mort si j’en sais la cause

Rimes ou prose

J’aime ma chanson quand elle rime avec ta bouche
Comme les ponts de Paris avec bateau-mouche
Et la perle des pleurs avec l’œil des biches

Rimes tristes

J’aime les manèges quand ils riment avec la neige
J’aime les nains qui riment avec Blanche-Neige
Rimons rimons tous les deux
Rimons rimons si tu veux
Même si c’est pas des rimes riches
Arrimons-nous on s’en fiche

J’aime les manèges quand ils riment avec la neige
J’aime les nains qui riment avec Blanche-Neige
Rimons rimons tous les deux
Rimons rimons si tu veux
Même si c’est pas des rimes riches
Arrimons-nous on s’en fiche
 
J’aime la vie quand elle rime à quelque chose
J’aime les épines quand elles riment avec la rose
J’aimerais même la mort si j’en sais la cause

Rimes ou prose

J’aime ma chanson quand elle rime avec ta bouche
Comme les ponts de Paris avec bateau-mouche
Et la perle des pleurs avec l’œil des biches

Rimes tristes

J’aime les manèges quand ils riment avec la neige
J’aime les nains qui riment avec Blanche-Neige
Rimons rimons tous les deux
Rimons rimons si tu veux
Même si c’est pas des rimes riches
Arrimons-nous on s’en fiche

J’aime la vie quand elle rime à quelque chose
J’aime les épines quand elles riment avec la rose
Rimons rimons belle dame
Rimons rimons jusqu’à l’âme
Et que ma poésie
Rime à ta peau aussi…

https://genius.com/Claude-nougaro-rimes-lyrics

 
歌詞をめくってみると、タイトルが邦題だと『韻を踏む』と言う意味を持つ言葉だと分かる。クロード・ヌガロが元々詩人 (作詞家) として始まったことが、この歌詞からも感じ取れる。
 
アルバム “Une voix, six cordes – De Claude à Nougaro” のM-2: “Cécile ma fille” も、なかなかに痺れる曲だ。この曲のクロード本人の動画をあらためて視聴してみたが、どうもモーリス・ヴァンデール (Pf.) と言う人は聴衆やその時々の事情によって奏法を完全に使い分けているのではないかと、私は疑ってしまう。
勿論そういう噂を実際に聞いたこともあったが、動画を見る限り日本はPARCO劇場のあの時の演奏とは打って変わって冴えているから悔しい限りだ。
 


日本はPARCO劇場でのクロード・ヌガロの動画を探してみたが、見つけることが出来なかった。実際に両方のモーリス・ヴァンデール (Pf.) の演奏を聴き比べてみれば私の記憶が正しいか否か、はっきりするのだが、それは出来なかった‥。
 

作曲者本人よりも表現に特化して活動している面子の再演の方が原作者のそれを勝ってしまうと言う話は、よくあることだ。だがここまで歴然と表現の差を見せつけらるとは、流石のクロード・ヌガロ本人がそれを予想しただろうか‥(笑)。
ともあれ以下にアルバム “Une voix, six cordes – De Claude à Nougaro” のリンクを貼っておくので、(シャンソン嫌いの私が言うのもなんだが) 是非とも蘇ったクロード・ヌガロの世界をご堪能頂きたい。
 
くれぐれもこのアルバムを聴いた後に、ニッポン人のシャンソンだけは絶対に聴かない方が良いだろう。
ニッポン人のシャンソン歌手等の殆どが原作者に無断で歌詞を訳詞して、原作者に無断で楽曲を失敬して盗んで使用してカネ (ギャラ) を得ている面々だ。彼らは表現者でも歌手でもなくただの盗っ人だと私は認識しているし、このブログの読者層にもその旨肝に銘じて頂ければ幸いである ^ ^ゝ
 

 

To mark the 20th anniversary of Claude Nougaro’s death, Yvan Cujious and Louis Winsberg have decided to pay tribute to him with an album entitled “Une voix, six cordes – de Claude à Nougaro”, which revisits Claude’s incredible repertoire on guitar and vocals, a repertoire we’re more used to hearing on piano.
For this project, Yvan Cujious and Louis Winsberg surround themselves with prestigious guest friends: Francis Cabrel, Thomas Dutronc, Anne Sila, the Toulousans Bigflo and Oli, as well as great musicians like Rocky Gresset and Jean-Marie Ecay, all united by a shared love of Claude Nougaro.

This album, this wonderful adventure, is ultimately nothing more than a story of friendship, almost a family affair…

Thank you, Claude!
https://www.wowhd.co.uk/yvan-cujious-1-voix-6-cordes-hommage-a-claude-nougaro/3700398731100

エッジボイスを手放したNewJeans – 新曲 “How Sweet”

2024年5月24日、NewJeansの新譜 “How Sweet” が無事お披露目と相成った。
既にカムバック曲として先行公開されていた Bubble Gum とセットで、グッズ込みのCDもリリースされた。私は此方も予約購入しており、週末の外出日を避けた来週の月曜日に我が家に到着するようセットしてある。
 

新曲 “How Sweet” のMVにはADOR代表のミン・ヒジンの目映い仕掛けが随所に見られることは勿論だが、それ以上に目を見張るものがあるとすれば、本作でNewJeansの5人がK-Popの最大の武器とも言えるエッジボイスを殆ど使っていないことだろう。
声、歌に精通している人ならば直ぐに気が付くが、そうではない一般のリスナーはそれにすら気付かないかもしれない。
それぐらい全てがあまりにも自然でさり気なくて、まるで食前に提供されるミネラルウォーターを無意識に飲んだ時の清涼感だけが音楽を包み込んでおり、それがたまらない。
 


以前ミン・ヒジンのインタビューで、「人生を楽しむことが大切よ。」‥ と彼女が常に5人の少女たちに話しているとあったが、このPVではそれが見事に開花している。
しかも大自然の中で、照明等のセットや小細工等が為されてすらいない空間であっても、NewJeansのやわらかな素顔と個性はワンセットで健在だ。
 
楽曲的には (一部SNS等でこれをヒップホップだと言うコメント等も散見されたが) 王道のポップスだと私は認識しており、仮にこの音楽からビートを抜き取ったとしてもメロディーの芯はしっかり残る構造になっており、聴いていて不安定要素が極めて少ない。
コードプログレッションはいわゆる王道コードとは異なり、[E♭m ⇨ D♭M7 ⇨ D♭m7 ⇨ C♭M7] と言うサビのコードの移り変わりは近年のK-Popの楽曲には珍しい。
 


大自然ほど不確定要素が多いものはなく、その辺りが映像の背景と5人の少女性で見事に表現されており、聴いた後に果汁の入った微炭酸のような爽やかさだけがじんわりと喉元に留まり続けて、とにかく気持ち良い。
何よりエッジボイスを殆ど使わずにこのタイプの楽曲を歌われたら、これまでエッジボイスを必死に習得して来た他の歌手やガールズグループ等にもはや勝ち目はない。
 
最近色々トラブルに巻き込まれて来たニュジ & ADORやその代表のことがずっと気掛かりだったが、何事もなかったみたいに弾け飛んで行くニュジ (NewJeans) の圧勝だ。
 
何はともあれカムバック、おめでとう❣️
 

 

『How Sweet』by NewJeans
作詞: Gigi, Sarah Aarons, Elvira Anderfjard, Oscar Scheller, Stella Bennett, Tove Burman, DANIELLE
作曲: 250, Sarah Aarons, Elvira Anderfjard, Oscar Scheller, Stella Bennett, Tove Burman

 

NewJeans ‘How Sweet’ Standard ver. (6 SET)(韓国盤)
 

ブラジルから風が吹く – “Boca Cheia De Frutas” by João Bosco

ブラジルから御年77歳の新譜が届く。João Boscoのニューアルバム “Boca Cheia De Frutas” を、私にしては珍しく全編聴いている。
 
楽曲も編曲も申し分ないが、気になるのはヴォーカルのリミックス。バックの楽器の音質 (加工処理やエフェクト等) が良いだけに、声のホワイトノイズとモノラル感が酷く気になって所々音楽に集中出来なくなるが、これは仕様なのだろうか‥。

特にM-4: “E Aí?” 辺りのヴォーカルが、異様にモノラルに聴こえて仕方がないのだが。

一方でM-8: “Sobretom” にはヴォーカルが無い分音質がまとまっているので、音楽に没入出来る。

M-10: “O Cio Da Terra” の前半の声の低音部分は、ちょっと面白い。だがやはり年齢の事情なのか、声質がしゃがれたカラスみたいなので鼓膜にシャリシャリ刺さって来て途中音量を下げないと (私の超聴力だと) 聴けないのが難点だ。

(※若干音程が悪く聴こえるが、これも仕様だろうか?)
 

 
言い方は悪いかもしれないが、ありきたりなブラジル音楽はあまり好きではない。このアルバムもうっかりすると “ありきたりなブラジル音楽” に聴こえるが、随所に散りばめられた甘口ショーロがぎりぎりのところで “ありきたり” を回避してくれる。
やはり作り手自らが表現するブラジル音楽の威力はハンパない。
 
日本に居るとどうしても借り物のブラジル音楽に接する事の方が多いので、段々とブラジル音楽を嫌いになって行く。だが、偽物や借り物を聴いて音楽の本質を見失っている場合ではない。そんなのは私らしくもないしね。
 

冒頭の “Dandara” はどこか、Dori Caymmi のヴォーカリーズや彼が生み出すメロディーラインにも通ずる底の見えない悲しみを彷彿とさせるし、さらにグっと来たのがM-7: “Buraco” の、優しく甘いメロディー & コードだ。
ご本人の音程の悪さは一旦棚上げした上で、心を無にしてアルバム全編をもう一度聴き直してみようと思う。
 

[表現評論] Nada Personal (Sesión en Vivo) by Juan Pablo Vega & Catalina García

コロンビアの音楽シーン最強の二人がタッグを組んだ新譜 “Nada Personal (Sesion en Vivo)” が、世界に放たれた。
アーティスト表記の Catalina Garcíaとは、あの Monsieur Perine のヴォーカリストのこと。次いでこの作品で華麗かつ上品な演奏を繰り広げているピアニストの詳細を知りたくて調べてはみるものの、これも私の語学力のボキャブラリーの無さが原因で現在のところ情報を掴み切れていない。
誰か分かる方がいらしたら是非、この記事のコメント欄だけは解放しておくので情報を頂けるとありがたい。
 
日本国内産の “ヴォーカル & ピアノ” のセッションにはかなりうんざりしつつも、こうして本物を聴くとまだまだこの組み合わせも捨てたものじゃないな‥ とホッとする。
Liveとかセッションとはどこかその場の空気感や作業の流れやノリがかなり演奏に影響を及ぼすが、最初から “Live” ではなくレコーディングだと軸を決めて表現に及ぶと、この作品の様にハイクオリティーな音源を記録することが出来ることが分かる。

かなしいかな、一度伴奏者として歌手やバンドのサポートに回ったミュージシャンはその後メインの座に舞い戻ることが難しくなるが、個々が表現の主軸を失わなければこうして “セッション” として成り立つと言う良い見本をここに見ることが出来る。
 


“Monsieur Perine” と言えば最近の作品の中で強く印象に残っているのは、Prométeme と言う作品だ。
この作品の中では環境汚染に対する警鐘を強く訴えかけているが、今まさに人類がこの危機に直面していることを音楽と映像でしんしんと表現している。しいては最近の作為的な人口削減ワクチンによる人口激減に於ける予言まで、この一曲でまとめて彼らは記録している。
 
勿論大幅人口削減に関する予言は日本のアーティスト Didier Merah もかなり前から放っているが、それもこれもこの世界からにぎやかしの音楽やイベント、ライブやコンサートや舞台演劇等がごっそり消滅しない限り、いつかは必ず悲劇的な状況に着地することが目に見えていたからだ。
多くの表現者や聴衆等がその現実から目を背け、快楽的かつ刹那的な生き方を止めようとしない以上、いつかは自然神等の粛清を免れられない事態に陥るだろう。
 
そんな未来の状況を彼ら “Monsieur Perine” が音楽及びMVとして世に放ってくれたことは、音楽評論家のみならず音楽を愛し音楽史の軌道修正を試みる一人として、とても頼もしいと思う。
それに加えJuan Pablo Vegaとのコラボセッションで音楽の最小単位のセッションを記録してくれたことにも、敬意を表したい。
 


音楽とは本来こういうことを指し、カネの為の豪華なセットも必要ない筈。
世界最小オーケストラとも言われるピアノ一本と “声” だけでV (ビデオ) で全ての音楽が配信されるならば、もう誰も飛行機に乗る必要もないし高速爆音を発する陸の乗り物を利用する必要もなくなる。
 
全ての音楽が室内でひっそりと、出来れば空間に音の一つも発することなく各々の世界に閉じ込めながら堪能することが理想的で、望ましい。むしろそのやり方の方が未来的だし、環境破壊を起こさずに済むことに、さらに多くの人たちに気づいて欲しいと願わずにはいられない。
そうなれば今巷にあふれ返る借り物、偽物、しいては原作者の許可なしに勝手な翻訳詞や作詞などを着せられた泥棒さながらの再演に遭遇することもなくなり、いいことずくめに違いない。
きっと全てが上手く行くだろう‥。
 

“Juan Pablo Vega” (songwriting by Juan Pablo Vega)

[表現評論] “Aqua” (坂本龍一) by Cateen かてぃん

絶対にやると思って見てました、この人 角野隼斗‥(笑)。

誰もが知っている(多分‥)楽曲を、調律とフェルトの仕様を若干カスタムした、今流行りの「壊れたピアノ」テイストでキメて来たつもりでしょうけど、先ずはかてぃんの精神性のタガが外れているように見えて仕方がない。

そもそも原曲が然程名曲でもないので、どんなに深遠な表情だけを取り繕っても指先から放たれる音が全く呼応していない。

それにしても彼のこの出方とタイミング‥、「俺様が教授の後釜だぞ」と自ら名乗り出る辺りが何とも安っぽいではないですか(笑)。
その安っぽさだけが「ポスト教授」と言う以前にこの人には、根底となるアカデミックなエレメントがごっそり抜け落ちていると言わざるを得ない。
 


Twitterでここから上の部分だけをツイートしたところ、角野隼斗のファンからのアンチコメントがリプライで投稿された。
彼等の心情としては、「そんな評論書く必要ないと思います!」とのことだそうだが、私は角野隼斗のファンでも何でもないので淡々と表現解説をしたに過ぎない。
 
私にとっては「誰が好き」だとか「嫌い」だとか、そんなことは最早関係がない。
あるべきものとして正当か否かを評論するのが、私の音楽評論スタイルなので悪しからず。
 

さて、話を戻そう。
動画冒頭で紹介した楽曲 “Aqua” の元曲の作曲者本人のライブ動画があったので、貼ってみよう。
 


注意深く耳を澄ませば、両者の音像の取り方の相違が分かるだろう。

細かく指摘するとしたら、かてぃんこと角野隼斗との演奏解釈の違いは左手の小指の落とし方。

坂本龍一の演奏の特徴の一つとも言えるルートの音量が、メロディーを遥かに上回っている点は恐らく、サカモト氏の持病の一つである難聴と深い関係性があったと私は見ている。

付け加えるならば、サカモトの耳が他の表現者よりも高音を強くキャッチする性質を持っている可能性も大。 クラシック音楽を演奏する際には右手のメロディーが眠ってしまう点に於いては、それが「仇」となり得るところを、サカモトは自身のブランドイメージでそのリスクを回避したとも言える。
 
平たく言えば、どんなにつまらない音楽であっても「ブランディング」によってそれが高尚な音楽だとリスナーに思わせることが出来ると言う意味だ。
良くも悪くもそれは表現のマジック、或いはトリックと言っても良いだろう。それらのトリックを自身の演奏に用いることに於いては私は一切否定はしない。少なくとも母体となる原曲が「とてもつまらない作品だ」と言うことを重々認識した上で、上手にトリックを使う手法も時には必要になるからだ。

 
だとしても角野隼斗の眼鏡が似合っていない。
知的な人物像を意識してのことだとは思うが、そもそも日頃「チャラ弾き」或いはチャラい表現手法で音楽タレントに邁進しているならば、こういう時だけ出て来ずにチャラいミュージシャンとしての方向性に徹すれば良いだけのこと。
 
人の訃報を褌に相撲を取るような人間に、ろくな音楽家は居ないとあえて断言しておく。

余談だが、この調律不安定なピアノをあえて使用した音源がこのところ急増しているが、「これは調律が狂っているわけではないですよ」と助言して来る人も後を絶たない。
少なくとも私の耳にはこのピアノが「正しい音源」「正しい調律」に聴こえない。特にフェルトに細工を施しているのか打鍵の着地点が酷く鈍って聴こえる為、残響が濁って聴こえるが、多くのリスナーたちがそのことに全く気が付かない理由が知りたい。

誰かご存じの方がいらしたら、DMを求ム。
その際は私へのアンチ感情や敵意からのメールではなく、理知的な説明でお願いしたい。
 


さらに余談を付け加えるとするならば、角野隼斗も坂本龍一も両者共に「体を縦横に揺らしてリズムを刻むディスコ・ミュージシャン」である方が似合っている。
特に坂本龍一に於いては絶対的にピアノが下手なので、どれだけ神妙な表情で生ピアノを弾いたとて既にその音楽にもサカモト自身にも「汚れ」が施されてしまった、同一人物の劣化版なのだから。
 
リズム・ミュージックに一度逃避した音楽家は、音楽家自身のベースに強いアカデミックのエレメントが染み付いていない限り二度とアカデミックな領域には戻れない。
それは霊質や霊体(過去世の蓄積)とも深い関係性がありそうだが、その辺りの解説はここではあえて割愛する。

参考までに、以下の動画を掲載しておく。
しかめっ面で “aqua” を演奏しているサカモトよりも、余程音楽が弾けていてキラキラしている。つまり此方の方が本来の坂本龍一だと言う、これが分かりやすい証拠の品である。
 


⇩が⇧の動画の原曲(作曲者: Tei Towa)。
 

 

そしてこの記事の最後に、坂本龍一が最高のファッションでコケた “Geisha Girls” の動画も掲載しておく。
 

 

該当YouTubeは外部サイトの埋め込みを拒否しているようなので、YouTube上で閲覧して下さい。

 

中森明菜 – 瀕死の黒鳥の歌声

数年前だったかファンサイトを立ち上げたままピクリとも新譜を出さずに居た中森明菜が、遂に活動を再開した。‥と思いきや、息も絶え絶えの瀕死の黒鳥の如く、全てが変わり果てていたので驚いた。
 
特に女性歌手の場合、女性特有の体調の変化で障害が発生しやすいことは百も承知だ。元々歌が上手な人であればある程、それは顕著に出やすいと言えるだろう。
松田聖子しかりNOKKOしかり飯島真理しかり、例外として八神純子のような圧倒的な声量を現在も保持しているケースも見られるが、往々にして女性は「ある時」を機に急激に声が衰えて行く。
 
中森明菜も例外ではなかった。
個人的に彼女の音楽性が余り好きではないので入念に明菜の音楽をウォッチはしていなかったが、2015年リリース作品の歌姫4 – My Eggs Benedictの頃には既に地声の音域の大半が裏声にひっくり返ってしまっていたので、この先の彼女の歌手人生もそう長くはないなぁと予想はしていたが‥。
  


それにしてもサポーターに一体誰が付いているのか、選曲だけは攻めて来る(笑)。
やめときゃいいのにサルサだロックだジャズだ、賑々しいバンドに弱弱しい明菜の声が乗るともうそれだけで、高温の天麩羅鍋の中に崩れ落ちたシュークリームのようで胸が苦しくなる。
 

2024年4月11日の、おそらく一日前に公式から放たれた「BLONDE-JAZZ-」の明菜の声は、例えて言うならば、息を吸いながら声を出しているような‥ マッチポンプ発声で聴いている此方が呼吸困難になりそうで苦しい。
 


誰かがおだてて彼女がそれに乗った。‥そんな光景が薄目を開けると見えて来るような動画だが、一体日々のトレーニングの状況はどうなっているのだろうか。
そんなことは一切お構いなしに、まさか好きなように怠けて生きて来たのではあるまいかと思わせる程、明菜の声の劣化は明らかだ。
 
所々エッジヴォイス風な何かで語尾を誤魔化そうとしているが、声帯が割れて乾いてしまっているのがむしろ、彼女がかなりマイクに接近してレコーディングしているからバレてしまう。
元々短気な性格なのだろうか‥、ワンセンテンスごとに違う音楽に聴こえる。全体としてのまとまりに欠けるし、各メロの連携が全く為されていないので、継ぎ接ぎだらけの乾いた生地のパッチワークさながらだ。
 


動画でバックを務めているミュージシャンはall Japaneseのミュージシャンの面々だが、アレンジもスッカスカで原曲が華やかだけにかなり侘しい印象を聴き手に与える。
 
つい最近飯島真理の直近の撮影動画、『愛・おぼえていますか』で腰を抜かしたばかりだったが、女性歌手は何故その年齢、その時のコンディションに適したアレンジや音域、表現に向かって行かないのだろうかと疑問に思う。
 


若かりし頃の声質が脳内ポップアップで回ってはいるが、実際に聴かされているのはそれとは程遠い別ものである点を、誰か指摘してあげて欲しいと思う。
私がプロデューサーだったら上の動画等、絶対に表には出させない。NGだ(笑)。
 

そんなこんなで私が今日一番びっくりした中森明菜の『TATTOU-JAZZ-』を、この記事の最後にご紹介しておきたい。
中森明菜の声は勿論ガッサガサだし、この曲に関してはバックのジャズ・アレンジもスッカスカで音楽には聴こえないレベルだ。
[Arranged by Mamoru Ishida (Pf.), Keisuke Nakamura (Trp.)]
 


あと口直し用に原曲の『TATTOO』をどうぞ。

( 作詞: 森 由里子/ 作曲: 関根 安里/ 編曲: 是永 巧一 )

“Pavane pour une infante defunte, M. 19” – Lang Lang (album “Saint-Seans”より)

先週末の「世界の新譜チェック」は、未だ完了していない。
今週は丹念に一曲一曲を精査しながらの新譜チェックを継続しているが、そんな中私が余り好きではない中国のピアニスト Lang Lang (ラン・ラン) の新譜が飛び込んで来た。
 
元々大好きなモーリス・ラヴェルの名曲なので耳をダンボにして聴いているが、ラン・ランの表現の粗さがこの作品では特に目立ったように思う。

 
この人の持ち味はpppの音色にあるが、表情過多、感情過多な表現に陥ると手が付けられないほど気持ち悪い。
とりわけこの作品の解釈ではf (フォルテ) 部分が荒々しく演奏されており、表現としては未完成だ。 他の奏者との格差を図り過ぎたことによる表現の粗は、数年もすれば角が取れて丸くなると思われる。
 
だが如何せん、平たい顔族がそうではないかのような、あたかもお家芸でもないのにお家芸であるような過剰な演技をごっそり削ぎ落とすと言う大きな課題が、彼には残されているのではないか‥。
 


フランス音楽と言えば日本人で思い付くのが、安川 加壽子さんだ。私も何度かレッスンをして頂いたことがあったが、彼女とは感性や楽曲の解釈等の価値観も含めて合わなかった。
 
「フランス音楽は徹底的に感情解釈を除去することが基本です。」と言うのが安川氏の決まり文句だったが、それもやり過ぎると余りに無機質で音楽性を欠いた音楽になってしまうから困ったものだ。
かと言って感情解釈を過剰に音楽に持ち込むと作曲者の意図を踏み外した、全く別物に仕上がってしまうし、その匙加減が絶妙に難しい。
 


だとしてもだ。
ラン・ランの感情過多な楽曲解釈は私には到底受け容れ難い。
折角ピアニッシモの音色がとことん美しいとしてもその他の表現が余りに荒削りなので、表現バランスがガタピシになってしまって全体的なまとまりに欠ける。
感情やエモーショナルな表現をもっと洗練させて行けば、ラン・ランのフランス音楽に表現の新たな道が開けるのかもしれないが、それを聴き手として待てるのはしいて言えばラン・ランの「推し」だけだろう。
 
「推し」の為の音楽は、クラシック音楽シーンには最早不要だ。もっと客観的な表現解釈がクラシック音楽には求められる筈であり、多くのクラシック音楽奏者たちはそう言った「推し」たちの為の商業音楽手法から早々に抜け出さなくてはいけない。
そこにラン・ランも当然含まれる。
 
付け加えるならばこの曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」を再現する際のフォルテの音色には、細心の注意を払うべきだ。
実際にはフォルテの概念を新たに、ピアノのボディーをフル活用した『重厚感のあるp (ピアノ) ないしはpp (ピアニッシモ) 』と言う解釈に到達することが望ましい。
宇宙からゆっくりと地上に落ちて来る隕石を表現する時に、打鍵の速度を上げてフォルテで鍵盤を叩くことが相応しくないように、モーリス・ラヴェルがこの作品に求めるフォルテ (f) も同様に、重力を失った物体を動かす時のような打鍵の絶妙な速度感が求められるように、それがむしろ当然の解釈だと私には思えてならない。
 

[音楽評論] 藤井風 – 満ちてゆく (Michi Teyu Ku/Overflowing)

SNSその他YouTube等で「感動した」とか「泣いた」‥等のレビューが複数上がっているので、何度か藤井風の新作満ちてゆくの動画を視てみた。
 
私は藤井風の推しでもファンでもなく、自身が音楽や音楽表現の専門家であり尚且つ音楽評論家と言う立場で各自の作品を分析することが仕事ゆえ、ここでは客観的な視点で楽曲『満ちてゆく (by 藤井風) 』を分析して行く。
 


先ず一つ目の疑問はこのMVで、何故藤井風が老け役に扮したのかと言う点。
他の人のレビューは一切読んでいないのでその上で言えば、老け役 藤井風の大方の (私目線の) 想定はこうである。
 

彼は画家の父とそのモデルとなった女性の間に生まれたご子息であり、そこそこ裕福な生活をしていた。
だが運命の悪戯で両親が離婚し、母親の手一つで育てられた。だがその母親を水難事故で亡くし (あくまで私の憶測に過ぎないが) 、彼は孤独を強いられた。唯一母の墓を訪れることだけが彼の救いであり、そこへ行く時だけは人間も大人も忘れて自分に還ることが出来た。
 
誰かを愛することもなく、誰かに愛されることもなかった。なぜならば『母』と言う理想の女性以上のその人に巡り合えなかったからだろう。
老け役 藤井風の中で次第に母は理想を超えた理想の人となり、亡くなった筈の『母』が時折彼の目に映り込むが、それは実体のない亡霊としての『理想の人』だった。
 

たった一枚、美術館に飾られた『母』の写真は、画家だった父が遺した絵。
老け役 藤井風は遂に絵筆を取ることはないまま時が過ぎ、失った時間が彼を押し潰して行く。
彼 (老け役 藤井風) に残された時間はあと僅か。思い出も色褪せ始め、老け役 藤井風は時折現れる『母』の為にそれまでの人生のありったけを手帖に書き記す‥。
 


このMVには明かされた筋書きが既に存在しているような、そんな記述を走らせている人たちの文献も見かけたが、それは公式に開示されているものではないようだ。
なのでMVを視る人によって捉え方や解釈が違っても、それはそれで良いと私は思う。
 
それにしても『不在の愛』や藤井風の死生観をこれでもかとこの動画に詰め込み過ぎて、ややストーリーに無理のあるMVではないだろうか‥。
特に老け役 藤井風のそもそもの年齢が現在26歳だと考えると、彼の老け役がかなり薄っぺらく視えたとしても致し方ないようにも感じる‥。
 
藤井風が盛んにMVに持ち込む彼の死生観は、前作のMVの中にも随所に見られた。
 


全体的に共通しているのは、彼/ 藤井風がその時思ったことが彼自身の人生そのものであり、それが妙に血生臭さを帯びていることに藤井風自身が無頓着だと言うこと。
このご時世、特に2020年以降の私たちは生と死の境界線上に否応なく立たされている。そして身近に、多くの死者が実際に急増している、そんな状況に見舞われながらその現実をなるべく見ないようにして生きていると言っても過言ではない。
 
おそらく生身の藤井風は、どこか自身を宗教者、求道者に置き換えながら生きているように見えるが、それを音楽表現に挟み込んで行くには彼の霊体はまだまだ未熟だ。人生経験も浅い。
一説には彼がサイババの信者だと言う噂もあるが、描いているものを見る限りどこかあっちの宗教こっちの神様‥ と言う雑居概念が彼を取り巻いているように見えるが、実際はどうなのだろう。
 


これは余談だが、毎回藤井風の映像を観ていると、彼の視界がどこか四隅が歪んでいるか切れているか或いはぼやけて視えているのではないか‥ と私は思えてならない。
特にその印象が強かったのが、藤井風の旧作graceだった。
 


どこか視点が合わない印象が強く、段々とMVを視ている私の視界が狭くなって行く。それが何故かは未だに分からないが、藤井風の新作『満ちてゆく』の中で老人たちが集まって歓談するシーンを視た時も似た印象を持ち、正直心臓が縮み上がりそうになった。
これは私が持つ独特の映像記憶ともリンクしている何かの要因が悪さをしている可能性も大だが、何だか彼の映像を視る度に同じ感覚に落とし込まれるので最近藤井風の映像をなるべく私は視ないよう努めている‥。
 

話が大きく脱線したが、若干26歳にして世の求道者を切望しているようにしか見えない藤井風の『満ちてゆく』を聴いても視ても、涙ひとつ出て来ない私は人間としてどうかしているのだろうか‥?
それとも「涙した」‥ と言うメディアの印象操作が私には全く通用しないだけなのか。
 
何れにしても、藤井風のやったりげな小芝居が不自然にしか見えない『満ちてゆく』の唯一の取り得は、理想の女性『母』を演じたモデルの高橋マリ子さんが清楚で美しかったことだ。
 


メディアの印象操作は恐ろしいもので、結果的にこれだけ多くの人々に治験すら行われていない新型コロナワクチンを接種して行った。多くの薬害事例も出ており、ワクチン接種が原因と思われる死者も右肩上がりに増えている。
 
音楽や漫才等のTV番組も雑誌も政治も、その他多くのことがメディアの印象操作の末に暴走し、それらにともなう事件も後を絶たない。
何を信じて何を疑うべきか‥、そこに一個の正解がない以上全てを疑ってかかると同時に、自身の感性や直感、判断力を日々磨き込んで行くことで自分を危険から守ることが出来ると私は思っている。
 
有名だから、有名人が作り出したものだからその作品が素晴らしいとは限らない。ありとあらゆるものが印象操作の末にこの世に放たれているとしたら、その奥には必ず「大衆を洗脳している特定の人物」が存在する筈。
 
藤井風ブームもそんな「民衆を洗脳に落とし込む現象」の一つと、私はみている。
 

 

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音楽は何処から生まれるのか‥ (Where does music come from?)

普段は極力和製の音楽、特に黒玉のアタック音の衝撃だけで構成されたピアノ曲の試聴を避けているが、偶然先週末に原摩利彦の直近のアルバム『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 – オリジナルサウンドトラック』に触れ、まだまだ日本の音楽シーンも捨てたものじゃないと言う心境に至る。
 

先ず冒頭の作品を聴いて救われたことは、最近流行りのノスタルジー・ピアノの枯れた音色ではなかった点だ。
 
このところアップライトピアノの蓋を開け、あえてマイクをハンマーの近くまで寄せてカタカタと言うハンマーの動作を音源として捉えて録音する、実際には音楽には聴こえないものを音楽として配信しているピアニストが急増している。
この現象は現代人の未来への失望感を現しているように思い、楽曲開始から5~6秒で次の曲にスイッチを切り替えることが増えていた。
 


例えば上の楽曲もその一つ。
表現している人はこの音色に半ばのめり込んでいるようにも見えるが、聴く人を必ずしも幸福にする音色や音楽に聴こえないと言う観点が完全に抜け落ちているのではないか‥。
 
日本のみならず海外の “ピアニスト” と称する表現者の間でもこのノスタルジー・ピアノの音色で音楽を配信する人たちが後を絶たず、この現象は一種の音楽文化の衰退を暗示しているように、私には思えてならない。
 


そんな中、ようやく希望の光を見つけた。
勿論、原摩利彦の全ての作品が好いと言う訳ではないが、少なくともアルバム『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 – オリジナルサウンドトラック』はここ最近のピアノ系のサウンドトラックの中でも、群を抜いて秀作だ。
 
サウンドトラックと言えばこれまでは坂本龍一がその世界の第一人者のように語られていたようだが、サカモトの音楽は音楽としての独立性を持たない。映像ありきで作成されており、その大半が1分とか2分、場合によっては数十秒と言う中途半端なジングルで埋められており、一つの音楽として聴ける楽曲はアルバムの中に一曲か二曲もあれば良い方だ。
 
ジングルの欠点は、映像や映画のそのシーンと記憶を連動させなければ聴けない点にある。
単体の音楽として認識するには楽曲として未熟で未完成であり、そういう楽曲がずらりと並んだ作品集を音楽のアルバムとして認識するにはかなり骨が折れる。
 
坂本龍一の場合は映画や自身の顔をアイコンとして音楽作品にくっつけて販売(配信)している為、多くの彼のファンは音楽を聴く前の段階で既に「素晴らしいもの」だと洗脳の蓋を開けたまま思考停止に陥り、その状態でサカモトの顔アイコンを見たり妄想しながら彼の音楽に触っているから、個々の音楽を単体で聴く状況には至っていないのが現状だ。
 


思えば1980年代には既にクラシック音楽の主流が現代音楽へと移行しており、調性音楽を馬鹿にしたり「時代遅れ」の産物と認識する音楽の専門家がクラシック音楽界の過半数を占めた。
さらには調性音楽に於ける「メロディー」はもう出尽くした‥ と言うことを当たり前に口にする専門家も大多数居て、実際私も業界に居場所を失った。
 
美しい旋律や調性音楽を起点とした楽曲の作成に関わりたければ、ニューエイジやジャズ、映画音楽やCM業界ないしは歌謡曲やそれを初めとする軽音楽の世界に身を寄せる以外に出口が見つからなかった。
 
結局多くの音楽家志望の若い作曲家たちが音楽に未来も救いも見い出せず、時間稼ぎにゴーストラーターに手を染めたりスタジオ・ミュージシャンになり外国語の教材用のBGMでアメリカナイズなAOR的な音楽を多数レコーディングして糧を得る人たちも大勢現れたが、殆どのミュージシャン等は夢が叶わず枯れ落ちて年を取って行った。
 

音楽は宇宙からもたらされると私は思う。
この大いなる宇宙の闇の中に、音楽のヒントは無数に散りばめられている。
 
だが最近の多くの作曲家たちは、AやBを聴きながらそれに身の丈を当てはめて刹那的な世界観に自分の感性を漬け込みながら、「AとBを足したもの」を作り出そうとする。いつか、誰もが耳にしたことのある音楽を作り出さないと、発注者サイドが納得しないからだ。
そうこうしているうちに段々と音楽のパズル化が進み、音楽理論もクラシック音楽の基礎知識も何も無い人たちがパズル形式でメロディーを作り、それをエッジのきいた歌手に歌わせれば売れる‥ と言う勘違いの方が一人歩きを始めた。
 
だが実際にはメロディーラインもコードプログレッションもグチャグチャで、理論も美しさも何もない音楽がメディアや素人音楽ライターの美辞麗句で誤って飛んでしまうと言った、半ば放送事故のような状態が当たり前のように起きているのが現状だ。
 
歌ものの中にも良いものもあり、藤井風や椎名林檎等は未だ良い方だ。両者共に音楽に対するこれでもかと言う程の固執が見られるし、おそらく両者共に音楽の基礎教育を受けているだろうと言うことが傍目にも分かる。
だが宇多田ヒカルに至っては、メロディーも表現解釈も断片的で刹那的であり、彼女がただの七光りで音楽シーンに引っ張り出されたことの副反応が今頃になって、彼女の無教養なメロディーメイクに強烈に反映されて来た。
 


原摩利彦に話を戻そう。
勿論アルバム『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 – オリジナルサウンドトラック』が最高峰の作品集だ‥ とまでは言わないが、彼が誠実な音楽家であることはしんしんと伝わって来る。
何よりピアノの音粒と残響の使い方に、未来の光を感じずには居られない。
 
残響と言えば最近 Didier Merah がその片鱗を漂わせているが、彼女の作品の特徴として「頑固なまでにスローテンポの曲調を変えない」と言う点が挙げられる。
Didier Merahが生み出す残響のマジックはこの、徹底的なスローテンポから生み出されて行く。そして何より言語。
Didier Merahがもしもフランス人やスペイン人だったら、この様なスローテンポで残響同士を重ね合わせて響きを繋げて行くような音楽は生まれなかっただろう。
 
その辺りは又追々、別の記事で模索探求して行きたい。
 

残念ながら私はドラマの方の『デフ・ヴォイス 法廷の通訳士』を観なかった。
そもそも普段殆どTVを観ない生活にシフトしており、それに付け加え人が作り出したドラマに全く興味が無いのだ(笑)。
 
なので、このアルバム『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 – オリジナルサウンドトラック』がサウンドトラックとして作成されたことが、とても驚きだった。
アルバムの中には一曲の捨て曲もジングルもなく、個々がそれぞれ一個の世界観を表現した音楽として完成され、尚且つとても洗練された出来栄えだと私は感じている。
 

 
冨田勲 が日本のシンセサイザー・ミュージック界を大きくリードした時代はとうの昔に終わり、次世代の坂本龍一もこの世を去った。
アンビエント・ミュージックも細分化し、最近ではドローン・ミュージック等とも呼ばれるようになり、私も個人的にドローン系の楽曲を複数集めてプレイリストを作り、アカウントの事情でDidier Merah名義でプレイリストを放っている。
 
原摩利彦の作品も数曲その中にスクラップされているので、興味のある方は是非、Didier MerahのSpotifyチャンネルをフォローして、お目当てのプレイリストを探してみては如何だろうか。
 
本記事の最後に原摩利彦の最新アルバム『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 – オリジナルサウンドトラック』より、ピアノの音色が美しい M-1: Coda、そしてM-12: Enigma Ⅱ の壮大なドローン・ミュージックの2曲をピックアップしておこう。
 

 

ディストピアへの警鐘 – ‘Love wins all’ (IU with Taehyung)

諸々の事情で音楽活動を緩めていた韓国のディーヴァ IUが帰って来た。
2024年1月24日、新曲 “Love wins all” のPVも世に放たれた。

最初に綴っておくが私はこの種のレビューや音楽評論を書く際に、巷の解説や音楽ライターや映像評論家等のレビューを事前に読まないことに決めている。その為他の人たちとは若干異なる内容を書くこともあるかもしれないが、そもそも表現に回答等存在しない筈だからそれで好し。
それが私の考えなので、先に述べておく。

前述を踏まえた上で、ここからの私のレビュー(音楽評論及び表現評論)をお読み頂ければありがたい。
 


物語はディストピア世界に舞台を移し、そこで生き残った二人の男女にスポットを当てて進んで行く。
彼等の最期まで、そう長い時間は残されてはいないだろう。演じる女性はIU、男性はテヒョン(BTSの ‘V’)だ。女性は声を持たず、男は片眼が視えないと言う設定だ。その二人が廃墟と化した会場で空想上の人生最後の結婚式を挙げる。
 
黒いタイツに身を包んだ大勢の人々が途中登場し、結婚式上を盛り上げて行くが、韓国通のサイトではこれを「ネトウヨを表現したものだ」等と取り上げている。だが、私にはそういう風には視えない。
つい先日まで黒タイツの人々は生きていた、男女二人の友人や家族たちだったのだろう。
 
動画冒頭にも登場する四角い箱は、この世から自由とそれを謳歌しようとする生命と魂の全てを駆逐することをミッションとし、この世界の侵略を進めて行く存在。愛し合う男女二人も、死の箱の標的だ。
 
劇中のテヒョンの手に握られた小さなビデオデッキは、幸せしか写さない。ビデオデッキの中には色彩が生まれ、廃墟に色と光と愛し合う男女の笑顔と生気が灯る。
男女二人にとって、この世の最期を記録するやさしい相棒だ。
 


劇中テヒョン演じる男性は、視えている方の目でビデオを覗き込む。そこに彼女が写り込み、そこからPVは二人の人生最期の結婚式へと進んで行く。
 
こういう時の幸せの描写は一瞬だ。
四角い死の箱が間もなく標的の二人を捉え、箱のミッション通りに男女二人の生気を奪い取って行く。
そしてそれが二人の最期の証しのようにビデオには最期の瞬間までが写し撮られ、生気と肉体を消滅させられた後の二人の衣服だけが廃墟の衣服の残骸の山の中へと吸い込まれて物語は終わる。
 

 

“Love wins all”
singer: 아이유(IU) アイユー
作詞: 아이유(IU)
作曲 & 編曲: 서동환
映像監督: オム・テファ

 
映像及びストーリー性は一個の映画を観るような壮大さをここまで湛えているにも関わらず、一歩俯瞰して楽曲及び音楽作品単体に焦点を当てようとすると、どこか月並みで「可もなく不可もなく」しいてはわざわざIUに奏らせなくても良さそうなクオリティーであることに、誰もが気付くだろう。
 
勿論テヒョンに於いては声も出さずセリフもなく、ただ彼の表情だけが粛々と描写されるのみ。だがこの動画の中のテヒョンは繊細でか細くて情けなくて、兎に角最高だ。
勿論IUの歌唱力は申し分なく、高音の描写も際立って美しい。
にも関わらず、兎に角楽曲が良くない。それだけがただただ残念としか、もはや言いようがない‥。
 

今私はこの記事の背景にSpotifyで音を出して楽曲を何度もリプレイしているが、映像のインパクトが余りに凄いので楽曲がどうだ‥とか、もうそんなことはどうでも良くなっている。
つまりは楽曲が全く耳に入らないし、残らないのだ。
ある意味この作品はPVとしては大成功で、「その程度の楽曲」でも大きな成果を叩き出すことになるだろう。
 
でもこのブログの読者の方々ならば、そこで終わらないと私は信じたい。
このブログの読者ならばきっちりと、最後まで、一個の音楽に対する自身の熱量とジャッジメントを下し結論を出すところまで手を抜いて欲しくないと、私は願わずにはいられない。
 


さて。この動画を視た方々は恐らくお気付きだと思うが、これが単なる物語上の設定を超えて、現実世界で今現に起きていることを代弁した内容であることに震え上がったのではないだろうか。
 
勿論色々な考えがあるので私はあえて思想の統制を図る意図はないと前置きを述べた上でここに書かせて頂くと、これは現在の地球上に実際に起きている出来事ととても符合していると思っている。
 
某ワクチンの危険性を予め知らされることなく、一部の富裕層の中で方向付けられた「人類削減計画」が粛々と進められている。
地球人の大半はメディア洗脳が完成された状態なので、TVやCMで言われていることにまさか間違いなどないだろうと思い込んでおり、情報操作が個人の自由を奪い去った世界の中で出来得ることを先ず良心的に考えようとする。
その結果、これだけ多くの人々が、治験中の危険性きわまりないワクチンを「みんなで打てば怖くない」の精神で接種してしまった。
 
その結果、多くの犠牲者が出ており、2024年の現在の超過死亡数が大変なことになっている。
 

話を戻すとこの動画の最後に真っ赤に燃え上がるような「四角い死の箱」は、人類の「血」を意味する描写ではないかと私には思えてならない。
 


全てのヒントは、意外にも日常生活の近くにそっと置かれている。
エンターテイメントの中にもそれはあり、常々頭を捻りながら、日常の些細な現象に敏感かつ疑り深く生きることが身についていれば、小さな現象の変化或いは未来からのシグナルも、きっと見逃すことはないだろう。
 
勿論文学や映像、音楽の中にもシュールなヒントが沢山隠されている。

音楽家が仮に神秘主義者だったとして、それを露骨に世に放てばその表現者は世の反感を買うことにもなりかねない。場合によっては獄中に放り込まれる、そんなことにもなるだろう。いわゆる魔女狩りだ。
だから音楽家や映像作家、詩人や作詞家、画家等に及ぶ表現者やクリエイターたちは、こうした危機感をそっと作品の中へ偶然を装って投影し、その作品に触れる人たちの感性に揺さぶりを掛けて行こうと必死なのだ。
 
‘Love wins all’ も例外ではない。
なのでこの作品 ‘Love wins all‘ が楽曲として未完成だとしても、私はそれをただジャッジメントするだけに留めたくはないと思い、この記事を綴っている。
 
最後に動画本編を掲載したい。
各々の思いを心に留めながら、観て頂ければ幸いだ。