プラスティック・ラブ (竹内まりや) & カバー比較 – Plastic Love (by Mariya Takeuchi) cover song’s comparison

ここ数年で、竹内まりやの旧作『プラスティック・ラブ』のカバーがかなりの数増えている。
中には良作も駄作も混然一体と入り混じるがここでは、わたくし 遠矢美樹の「推し」のカバーを上位6つご紹介したい。
 
本当はTop 5. でのご紹介が収まりが良かったがやはりなかなか甲乙付け難いものがあり、一個はみ出しでTop 6.での掲載と相成った。
 

最上位はダントツで、AGA (香港) のカバーを選ばせて頂いた。とにかく解釈がシンプルでお洒落で、センスが良い。ヴォーカルもオラオラな出しゃばり感が無く、その点ではご本家 竹内まりやよりも断然良い仕上がりだと思う。
 
竹内のヴォーカルは何やら出しゃばり感満載で、その出しゃばり感にさらに追い打ちをかけて攻め立てる山下達郎のコーラスが滑稽にさえ見えて来る。
この夫婦の関係性をステージ上で表しているようで、以下に竹内まりやのステージ・パフォーマンスが冴えもキレも無いのかと言う証明動画みたいで辛くなる。
 

何はともあれ以下の動画をご覧下さい。
 

PLASTIC LOVE” My Top 6. & ご本家


[ご本家]
竹内まりや「プラスティック・ラブ」ライブ バージョン @ 日本武道館 2000年 (feat. 山下達郎)
 


以下に個人的な推しのTop.6を、下順位から順番に掲載します。
 

【第6位】
竹内まりや(Mariya Takeuchi) – プラスティック・ラブ(Plastic Love) Cover by T.Y.Kim 🇰🇷

 

【第5位】
【竹内まりや】Plastic Love(1984) – AunJi 【真夜中のドア~stay with me~ mix】by UTATAKA – 唄鷹 – 🇯🇵

 

【第4位】
Plastic Love Mariya Takeuchi Cover by Takao Tajima 🇯🇵

 

🏆【第3位】
Friday Night Plans – “Plastic Love” (Live at Studio Tanta) 🇯🇵

 

🏆【第2位】
Plastic Love – Mariya Takeuchi (Cover) – Millie Snow 🇹🇭

 

🏆【第1位】
《Plastic Love》- Cover by AGA 🇭🇰

揺らぎ世代と “揺らぐ表現” との関連性 – arabesque Choche

男女ユニットのChouchouから作曲家(男性の方)、arabesque Chocheのニューアルバム “eclogue” がリリースされたと言うので聴いてみた。

最近流行りのアップライトの蓋を全開にして、ハンマーのカタカタ音を入れた音質で全編レコーディングされている。
最新の「世界の音楽」のピアノ部門にも最近見られる、要は流行に乗った形の安易な構成だ。
これは言わばこの音質にさえセットしておけばリスナーを、往々にして「思い出」の世界観の中に誘導出来るので、余り作曲ないしは演奏が得意ではないピアニストが最近こぞって乱用している。
印象としては「過去は素晴らしかったが、今の世界は余りに絶望的だ。」と言う、陰鬱な後味が残る感じで私は好きではないし、この「思い出カタカタピアノ」が冒頭に現れた瞬間曲を変えたくなる(笑)。
 
簡単に言うところの「ピアノのLo-Fi化」であり、要はフォーマルな演奏技術を持たない演奏家の最後の砦とでも言った方が適切だろう。
その中でも例えば Stephan Moccio の新作 “The Sound of Snow” のように、楽曲スタイル自体がLo-Fi化していないしっかりした楽曲もあるが、ならば何故Stephanはこの作品を「思い出カタカタピアノ」の音質で表現しなければ居られなかったのか、わたし的には謎である‥。
 


さてarabesque氏のニューアルバムに話を戻す。
 
楽曲的には目新しいところはなく、全体的に夢の中にぼんやり佇んで居るような印象。
それにしても何故このアーティストは毎度毎度手法を変えるのだろうかと言う疑問と同時に、やはり決定的な欠点は作曲者(演奏者)自身の華の無さだろう。
やはりarabesqueが最も光って見えるのは、相方であるjuliet Heberleがヴォーカルとして参加した時の方だと言える。
     
そもそもゆとり世代の側に近いアーティストだと言うことも、arabesqueの表現や手法の揺らぎの大きな要因かもしれない。要は作風が安定せず、それが作風の一貫性の欠落に直結していると言うことに尽きる。
前作は “no go” のラインでアルバム “Dialogue / Daydreaming” をJulietのヴォーカル入りでリリースしているが、このアルバムの企画は完全に “Lo-Fi” 一択だった。
 


気になったのはJuliet Heberleの声の劣化だ。自身の音域にはない高音を無理矢理絞り出そうとするが余り(恐らくこれはarabesqueの希望によるものだろう‥)に、声が持つ本来の色艶がかなしいまでに損なわれた結果なのだろう。
作曲家とヴォーカリストが夫婦であるばかりに起こる「あるある」な現象の一つとも言えるが、それも企画者或いは作曲者がその観点をしっかり踏んでいれば未然に防げる事故とも言えるだろう。
 
彼等のリスナーを見ていると自分のコメント等を取り上げて欲しい‥ 的な欲求の強い人が多く、Chouchouの二人がウケるようなコメントが多い。ある時は詩的なコメント(レビュー)をわざと投稿したり、又ある時は若干スパイシーでarabesqueやjulietの二人が涙しそうな言葉を選んでSNSにポスティングして行く‥ と言うような。
なのでChouchouの両者は半ば反射的にそんな言葉のマジックに引っ掛かり、それらをさらにリポストして行く間に「ミイラ取りがミイラになる」と言う状況に陥っているようにも見える。

 
先日YouTubeでarabesque氏は新作『eclogue』に因んだLIVE配信を終えたようだが、ざっと見たところ楽曲の説明が大半でさらにはarabesqueはアルコールを飲みながら収録に臨んでいる。
ガチの表現者であればこういう場面で飲酒は避ける。つまり「ほろ酔い」なarabesqueのぐだぐだトークが好きなリスナーしか周りに居ないとも言える、見ていてとても怖くなるような、もしくはとてもつまらないLIVE配信だった。
 


私が最初に彼等 Chouchouを知ったのは、another dawnだった。
原曲バージョンは別にあるがそのバージョンよりも、此方のピアノ一本(ピアノの多重録音かもしれない)とjulietのヴォーカルが織りなす世界はこの世のものとも言えない程の美しさで、尚且つ哀愁漂う歌詞はまるで3.11大地震そのままの描写とも思える箇所が随所に散りばめられ、彼等がこの先大きく日本を代表するユニットになってくれたら良い‥ と心から祈ったものだった。
 


だが彼等にも段々と欲が出て来たことその他彼等の始まりとも言えるセカンドライフの色を払拭したいと言う願いが強くなり、少しずつ彼等本来の軌道をそれて行った感は拭えない。
その後リリースされたChouchouとしてのアルバム『最果のダリア』はarabesqueのメロディーセンスを上手くjulietが際立たせる好い形が反映され、透明感溢れる美しいアルバムだった。
 


だがその後の作品はarabesqueが迷走するような状況が続き、子育て期間中のjulietの露出も少なくなった。
 
arabesque Chocheも自身をクラシックピアノの演奏家に仕立て上げてみたかと思えば、突然EDMのようなダンサブルな作品を放ってみる‥ 等のどっちつかずな状況が続いており、最近は実験音楽がそのまま新作としてリリースされるような状況が続いている。
 
如何なるスタイルであっても作風が壊れない、これが名作曲家には絶対必須だ。
その意味ではarabesqueは色々な条件を変え過ぎており、その変化に作曲者 (arabesque) 自身が追い付いていない感が拭えない。
さらには「ここぞ」と言う時に必ず何かしらアルコールを比較的大量に体内に取り込む悪い癖は、もう断ち切るに断ち切れないところまで来てしまったようだ。酔っ払いのグダ巻きほど、聞くに堪えないものはない(笑)。
それはトークに於いても楽曲に於いても同様だ。真夜中に書いた手紙を翌朝読まされる読者の気持ちに立てば分かると思うが、そのような思いを絶対にリスナーにさせてはいけない。
 

新作 “eclogue” はさながら、arabesque Chocheが綴った真夜中の手紙を翌朝素面(しらふ)の受信者が読むような感じで、一度は目を通しても二度までは読みたくない‥ と言っても良い出来栄えだ。
それでもiTunesの部門チャートでは瞬時的に首位になるわけだから、彼等には相当我慢強いファンが付いているのだろう。勿論それはarabesque Chocheと言う男性ピアノ・アイドルに対するファンであり、楽曲や表現手法等を余り理解していない、かつ比較的身近に遭遇する確率の高さを逆手に利用する類いの、質の良くない方のファン層に取り囲まれているようにも見えて来る。
 
ある意味羨ましく、尚且つとても危うい現象だ。
 

藤井 風 – 花 (Official Video) – 藤井風の死生観

最近多々問題の動画を配信し続けている藤井 風が、新曲花 (Official Video) 』をリリースした。
そもそもサイババの信者ではないかと噂されている藤井 風が放つ新作動画だが、個人的にこの世界観は嫌いではない。

勿論動画全体にお線香とか「黄泉の国」の匂いが充満しているが、見方を変えると今っぽいとも言える。
よくよく考えてみれば現在の世界情勢はどうだろうか?
世界中のメディアやエンタメ業界が「俺たちゃ健在だぜ」と言う主張を色濃くしているのが現状だが、どう見てもそれが嘘臭いことは誰が見ても明白だ。
ディズニー映画等も大赤字を叩き出し続けているし、アメリカの長期ストライキで俳優たちも最近仕事を再開したかどうか‥ と言うタイミングだ。

世界は確実に破滅に向かって進んでいる。それはもう疑いようのない事実だ。
その「事実感」を堂々と臆することなく、しかもライトタッチで表現した一つの例がこのMVではないだろうか。
 


このPVを見ていたらふと、藤原 新也が1983年にリリースした写真エッセイ集『メメント・モリ』を思い出した。
 

 
書籍中身にはそれと思われるショッキングな写真も多いのであえて此方には掲載を控えさせて戴くが、今このご時世、生と死は当たり前に隣り合わせていると多くの人々がそれを感じているに違いない。
 


そう言えば遡ること2011年3月11日、忘れることの出来ない東北地方太平洋沖地震の直後に私もシュールな感性が全開になり、長い期間これに似た光景を夢にも現実にも見せ付けられ続けた。
別名で綴っていた当時のブログにもいわゆる「亡骸」を思われる写真等を掲載したこともあり、その時は多くの見知らぬ人たちに叩かれたものだったが、私の中では全てが現実であり目を伏せては通り抜けることの許されない出来事だと言う認識が強かった。
 

藤井 風の「花(Official Video)」の中でも、ある種それに似た描写がふんだんに為されているのに彼は叩かれない。
知名度と認知度の差とは言え、そういうことがあって良いと言う気にはなれない。‥と言うより、「生と死」も表現の一つと捉えるべきで、視聴者の機嫌によって表現手法を変えるような姑息な表現者の方がむしろ偽善的だと私は思っている。
 


動画中盤では棺桶に入った亡骸風の藤井 風が目を閉じたまま蘇り、花の紋様を纏った衣服で軽やかに自由に踊り始める。
時間が移動し夜間の設定に移り、遺影をバックに焚火を焚いてダンサー4人を従えて藤井が舞う。
まるで、生きている時よりも肉体を脱ぎ捨てた今の方が何もかもが自由だと言わんばかりに、観ている側にもそれが伝わって来る。
 
メメント・モリの書籍の帯に書かれてあるこの言葉が、ふと脳裏に浮かんで来る。
 

本当の死が見えないと、本当の生も生きられない。

 
人が宗教を思う時、それは自身の中の何かしらの迷い、その迷いとの葛藤の逃げ場所としてそこへ向かって行くような気もするが、往々にして人間は宗教以外の目的地を生きる為の焦点に定めることを案外許されていないのかもしれない。
それが両親であったり友人であったり、何れにせよ逃げ場所が「人」である場合程かえって逃げ場所が絶たれて行くようにも思える。少なくとも私の場合はそうだった。
哲学を得よ‥ と言われても皆小難しいことばかりをのたまう書籍や人が多く、私もそこで外側に哲学の理想を求めることには挫折した。
 

たかがJ-Popのたかだか藤井 風。
最近は少々いやらしい表現が鼻に付いていたきらいもあったが、この動画『花 (Official Video)』には好感が持てる。
但し楽曲のクオリティーは?と問われたら、「可もなく不可もないフツーのポップスですね」と迷わず回答する出来栄えだ(笑)。
 
K-Pop界隈もここ数年間は出口を失い、右往左往しながら新作のリリース(カムバック?)の淵を彷徨っている状況で、あっと人の意識を変えて行くような新作を下手に待ち望んで期待し続けると逆にメンタルがヤラれかねない。
期待も希望もほどほどに、今はこのコロナ禍(新型コロナワクチン薬害)の荒波を如何に上手く渡り抜いて行くか‥と言うところに、全人類はフォーカスすることがベターだろう。
 

「最高の安らぎが死の向こう側にしか存在しない」と藤井 風は心のどこかで感じているのかもしれないが、それはあくまで表現の極論に過ぎないと言う観点は捨てるべきではない。
生きて高みに到達する方法を知っているのは人類のごく一握りかもしれないが、それは何かしらの情報を「知る」のではなく精霊が指し示す希望地図を感じ取れるか否かの問題。
 
私もそんな、精霊と近しい人類の一人であるように‥👼
 

変わり果てた歌 [MIRACLE SHIP (LIVE 2023) – 吉田美奈子/ 井上鑑

恒例の「世界の新譜」チェックを粛々と進めているが、今週はやたらEPサイズの新譜が多いなぁ‥ 等と思いながらもうそろそろ休もうかと思っていたところにこれが飛び出して来た。
私は如何なる作品であっても差別感情や偏見を持たぬことに決めており、勿論先入観も全てかなぐり捨てて新譜に向き合うと決めている。だからこそ時に、衝撃を受けるような作品に遭遇することも多々起こり得る。

まさに今がその瞬間だったと言っても過言ではないだろう。
 

この人、吉田美奈子さん。
既に私が17歳の頃からの密かなファンだった。
勿論私にも活動の過渡期や転換期等も多々訪れ、美奈子さんがavexに所属していた頃の作品にはリアルタイムで触れることが出来なかった。

そして私がアーティストとしての別名を引っ提げて活動を始めた2008年頃からは歌の音楽から少し遠ざかり、器楽作品の方を主に聴くようになって行く。
吉田美奈子さんがジャズ歌手に転身したことをある日風の便りに聞いた時は、正直かなりショックだった‥。
 
話を戻してこの作品『MIRACLE SHIP (LIVE 2023)』の評論へ。
 


そもそも『MIRACLE SHIP』は美奈子さんが1996年にリリースしたアルバムKeyに収録された作品であり、私も大好きな曲だ。
それが2023年にどのような状況に進化したのかと半ばワクワクしながらSpotifyのボタンを押したが、そこに現れたのは最早老婆の声質に変わり果てた歌声のその曲だった。
 
彼女の持つうねり声は「唸り声」へと変わり、どこか能の発声にも通ずる迫力が足されているが、それは私が愛した吉田美奈子の声とは最早別物だ。
ある種の振り切れっぷりが王者の貫禄をも醸し出しているようにも聴こえなくもないが、これこそが「ジャパニーズ・ソウル」の末路だとしたらそれはそれで圧巻で、尚且つ悲しい。
 

このところ日本発信のアニメやコミックやそのテーマ曲等が世界の音楽シーンを大きくリードしており、吉田美奈子さんもその波に乗った‥ と言う考え方にシフトすることも不可能ではないが、やはり原曲をかなりの回数聴いた後に今回の『MIRACLE SHIP (LIVE 2023)』に触れると衝撃が大きすぎる。
 


丁度二ヶ月前頃に聴いた『細野晴臣ストレンジ・ソング・ブック Tribute to Haruomi Hosono 2(2CD+DVD) [CD]』に収録されている、「ガラスの林檎」の吉田美奈子さんの圧巻の仕上がりには感動もしたが、やはりその頃から彼女の質の劣化には薄々気が付いていた。
勿論美奈子さんのバックを完璧以上のクオリティーで支えているオルガン奏者 河合代介氏のPlayの迫力も、彼女の表現にこれでもかと言う程の華を添えていることは分かり切っているが、何より松田聖子の世界観を完全にぶち壊してしまった吉田美奈子さんの感性にはある種リスナーの私の方が完敗だった。
 
その感動の記憶が脳内に今も渦巻いている最中での、今回の『MIRACLE SHIP (LIVE 2023)』はネガティブな意味で私の美奈子氏への落胆の方を更新した形となってしまったようだ。
 

吉田美奈子さんの作品の多くは物理CD販売がメインで、YouTube等から個人が配信した音源等の大半が削除されている状況だ。
あえて若い頃の音源をwebから削除することで彼女は「現在の自身」へのフォーカスを促しているとも解釈出来るが、結果的に不特定多数の目に触れる場所から活動の痕跡を消してしまえば、そのアーティストがこの世界から別の世界へ旅立ってしまった後に残るものは何も無くなってしまうだろう。
 
既にマイケル・ジャクソンやプリンスでさえ影が薄くなり始めていることを考えると、今活動している多くの日本の歌手やミュージシャンの足跡が消えてしまうのはきっとあっと言う間のことだろう。
全ては泡沫(うたかた)‥。
 
吉田美奈子さんの全盛期の歌声や作品は、出来れば長くこの世に残って欲しいと私は願ってやまないのだが、当の本人がそれを望んでいないのだから私がどれだけその旨を望んでも仕方がない。
 

この記事の最後に吉田美奈子 & 井上鑑のコラボ作品、『MIRACLE SHIP (LIVE 2023)』のYouTubeリンクを貼っておく。
井上鑑さんもかなり枯れて来たように見えるが、編曲も音もまだまだ衰えではなさそうだ。この作品の解釈は、私個人的にはツボだった。
 

[音楽評論] “一夜のペーソス” – Lamp

何やらLampと言う日本のグループが、アルバム「一夜のペーソス」を世界に放ったのだとか。
知人界隈でもSNS上でもかなり噂に上っていたので聴いてみたのだけど、本音を言うと‥ 何が良いのか分からない。
各曲毎にふわふわと夕方の都心を彷徨い歩く遊び人の如く登場する女性ヴォーカルの、「平たい顔族」的な平面的な発声も表現もBadだし、何より音楽が上っ面でしょ。

彼等が売れてるとか人気があるとか、そういう「空気」に騙される人たちがこういう音楽を持て囃す以外は、真の音楽を知る人ならばこの種の安直系ポップスは要らないと思う(断言する!)。
正直なところ、暇人が聴く音楽。それ以外の形容詞すら見つからないようなアルバムだ。楽曲も構成も編曲も全てがガッチャガチャで、メロディーとしての形態そのものを保持出来ていない。

世の中にはもっと切羽詰まった事情で音楽を世に放つ人たちが他に居る筈で、私は音楽評論家としてそういう「切羽詰まった」事情を胸に抱え込んで生きている音楽家たちに、確実にスポットを当てて行きたいと思う。
勿論社会派ソングや宗教めいた音楽自体を私は好きではないが、もっと深刻な事情があるとすれば美しく甘美なメロディーに作家自身の壮絶な人生や、或いは超能力を使える人だけが知る大切な情報を神話のようにそこに埋めて発信せざるを得ない、そんな人たちの音楽は崇高であり貴重な音源だ。

 

 
価値のあるものと無いもの、それは専門家として明記して行く必要を痛感している今日この頃。

勿論私は売れる音楽とそうでもない音楽との「商業ベース」としての見分けも付けられるが、そんなことは音楽評論の最低ライン。音楽史と言う観点と「商業音楽」の視点とは全く別物であり、その境界線を混ぜこぜにした上に著者自身の好みだけで文字を叩き出す、最近の「音楽ライター」と言う存在は音楽シーンの害虫的存在でしかない。
現在の音楽シーンの底辺に暗躍し、カネにものを言わせて音楽の聴き方を混乱させている彼等のような存在そのものも、私はジャッジメントしなければならないと思っている。
 

色々な意味を含め、このアルバム「一夜のペーソス」のどこにペーソスが表現されているのかと言う疑問すら掻き消えてしまう程、このアルバムはかなりお粗末だと言っても過言ではない。全てが余りに安っぽい。

表現したいものを持たない人たち、又は音楽のアカデミックな基礎教育を受けたことのないような人たちは元来、音楽家だとかミュージシャンを名乗るべきではない。
司法試験を通過出来なかった人がその職には就けないのと同様に、音楽家も同じ様に扱われるべきではなかろうか。
茨の道を短絡的に、かつふわふわと病的にステップしているようなミュージシャンを見ると、ただただ虫唾が走る。

 

まぁこのブログのオーナー自身が音楽のエリート教育をきっちり受けた作曲家(兼 表現者)でもあるわけだから、このブログに書かれる記事の大半がその視点で描かれることは最早必然。
ものの善悪。誰かがそれを公言しなければ、ただただコマーシャリズムの為すがまま。言ったもん勝ち。
そんなことではいけないんです、音楽も音楽シーンも。

 

[音楽評論エッセイ] Night Tempoを分析する – K-Pop plus New渋谷系

最近CDショップが軒並み閉店続きで、先日新しくデジタル楽器を購入しようと都内某所の山野楽器の閉店時間を調べようとしたら、該当のショップが既に閉店していることを知って唖然とした。
記憶が合っていれば既に10年程前から、都内のCDショップの多くが縮小を繰り返しており、銀座の山野楽器本店もほぼ楽器売り場しか残っていない状況だ。
 
AKB48が握手券込みで複数パターンのCDを乱売し始めた頃から、日本の音楽シーンは目に見えて混乱期に突入し始めた。丁度その頃海外発祥の音楽サブスクリプション “Spotify” が海外ではじわじわと着火し始め、日本は一歩二歩出遅れてSpotifyが解禁となった。
 
Spotify初期に日本国内でSpotifyに堂々音楽配信を開始したのが、坂本龍一(故)と今メキメキと新しい音楽シーンを開拓中のDidier Merahの二人だけだった。
他の多くの邦人ミュージシャン等は「権利」と「利益」を重要視し、その結果さめざめと物理CD販売に執着し続けた。だがその一方で市場は粛々と縮小傾向を加速させ、今では実店舗自体右肩上がりの閉鎖閉店の嵐だ。
 

 
最近「アナログ盤」‥ つまり昭和で言うところの「レコード」盤の旧作再販が復活の兆しを見せていると言う話を方々から伝え聞くが、おそらくそれはCDショップの実店舗の閉鎖閉店の嵐の副反応のような現象だと私は感じている。
 
わざわざ元の音源に汚しを加えた音楽を、さらに「アナログプレイヤー」と言うしち面倒臭い機材で針を落とすと言う手間暇をかけて、今の若けぇもんの誰が聴きたがるだろうか。
殆どのリスナーが、良い音質で音楽を聴きたいに決まってる。なのでアナログ盤の旧作再販の小さな嵐は言ってみれば、ちょっとした小さなつむじ風程度のブームで終わるだろう。
 

そんな折り、やはりお隣韓国のNight Tempoがアルバム『Neo Standard』を引っ提げ、CD、アナログ盤、勿論サブスクリプションからの配信を含む色々な媒体から配信を開始したようだ。
  

 
嗚呼‥ この人又韓国ネタで攻めて来たかと溜め息をついているそこのアナタ!
それ程隣国は強敵なんだと認識して頂きたい。
日本の音楽も音楽シーンも、間もなく沈没します。私は日本人の血を引きつつ同時に外国の血も入り混じる「過去世 巫女」であり予言者なので、殆どの出来事は私の思うように流れて行くのです。
 

Night Tempoの新譜『Neo Standard』で特徴的なことがあるとすれば、以下の二点。
 

・ヴォーカルに日本の歌謡曲世代の中年以降の歌手をセレクトしていること。
・殆どの楽曲がNight Tempoのオリジナルであり、尚且つその曲調(曲風)が日本は昭和のシティー・ポップの流れを踏んだ二次創作であること。

 
これをやられたら多分、多くのその当時の音楽を愛して来たリスナー層は涙腺を徹底的に攻撃されるだけで、為すすべもないだろう。
勿論私も、このアルバム全編を通じて大好きだ(笑)。
一つビックリしたのは数ある昭和の歌謡曲の女性歌手陣の中に「鈴木杏樹」が混じっていたことだろう。本当にこの人、Night Tempoと言う男は色々よく調査していると感心する。
 
日本人は殆ど知らないと思うが、鈴木杏樹は「Kakko」と言う名前で全米をブイブイ言わせていた時期があった。
知らなかったでしょ。今の彼女のイメージとは違って、バリバリの英語の歌を何曲かリリースしていたので、私も1996~2000年頃に渡米していた時には何度もカーラジオで聴いたものだった。
 
その辺りを今さら引っ張り出して来るNight Tempoと言う黒船が、地味に地味に日本の臍を攻めて来る。アルバムに参加した殆どの女性が彼、Night Tempoに賛辞を送り、最早日本国内の作曲家陣は放置プレイと相成っているようだ。
 
同アルバムにはこのブログでも先日触れた中山美穂の『Ninna Nanna』も収録されている。私の推しはやはりミポリンだが、渡辺満里奈や渋谷系の元祖、野宮真貴も捨てがたい。
 

 

 
丁度さっきまで週末恒例の「世界の新譜チェック」をひっそり開催していたが、このところヨーロッパ勢が影を潜めている。おそらく例の注射の影響と、異常気象や天変地異の影響がそこに折り重なっているのだろう。
 
私は外出の際にはマスク派だが、なるべくマスクを着用しないで済むようなロケーションを選んで生活をエンジョイしている。
外出をして「マスクなんてしないぞ!」と叫んでいる人たちを見ているとただただ滑稽で、何を無駄なマッチポンプをやっているのかと侘しくなって来る。
人に文句を言っているそこのあなたも、文句を言っている相手と同じ穴の貉だと気付きなさい!と言いたくなる。
 
音楽は室内で楽しむ娯楽にシフトしつつある。室内で楽しむ音楽とは何か‥。その心地いいツボを、Night Tempoは熟知している。
だが、ここで負けてはいられない。
 
 
サブスク先人の日本人アーティストの坂本龍一(故)やDidier Merahの功績がこれ以上無駄にならぬよう、日本人アーティスト達にはもっと頑張って戦って欲しいと思うが、今のところは上に書いた二人のうち残る生存者が国内の音楽シーンを牽引して行くに違いない。
 
良い戦いを展開するには先ず、敵をよく知ることだ。これは全ての戦に通ずる。そして何より人智を超えた力を発揮する為の土壌を、自ら耕して構築することだ。
私がこのブログ上に多くの隣国を含む海外アーティストの秀作を臆することなく紹介している理由は、日本の今の腐敗した音楽シーンの水底の泥を一掃し、新しい知識と新しい戦術をもって国内の若いアーティスト達の小さな芽を守ること、それに尽きる。
 

私は世界中、古今東西の全ジャンルの音楽を熟知し、さらにそれらを年じゅう分析し続け、そして新譜情報や音楽理論のアップデートを毎日繰り返している。
おそらく無敵だ。
デビューや音楽の方向性に行き詰った若い音楽家たちの、良い道しるべを指し示せる世界唯一の音楽評論家であると言っても良いだろう。
 

先ずは上記に触れた意味合いも込めて、皆でNight Tempoの新作を徹底的に分析しようではないか。
 

[ライブ評論] V ‘Love Me Again’ Band Session

BTSはテテこと “V” の “Love Me Again” のセッション動画が配信された。Twitterには既に簡易版音楽評論をポストしたが、何と私がパソコンの作業を開始する5分前に公開された動画だ。
とても期待しながら動画に耳を澄ましていたが正直な感想を言わせて貰うと、完全に期待を裏切られた。

原曲の繊細さが全く削れ、いわゆるニューヨークの街角のジャズを匂わせる演出が余り上手く行っていない。勿論バックバンドのクオリティーにもかなり問題はありそうだが、要はフロントに立っている “V” がこのセッションに対して消極的とも言えるマインドが表現の壁になってしまった感が否めない。
 


今自分は何をしに、何の為にこの音楽、この状況に遭遇しているのかと言う表現者としての軸を、この動画からは殆ど感じられない。
同時にサポートを務めるミュージシャン等もマネーで雇われた感がハンパなくて、アドリブにせよコードプログレッションにせよ彼等から愛情の微塵も感じ取れない。
 
兎に角目まぐるしく場所と環境を変えてリスナーの目新しさをそそってはみるが、Vの、この一種の無感情な表現がライブやセッションには全く不向きである点に果たして彼のプロデューサーは気付いているのか、否か‥。
 

“V” の別の曲 “Slow Dancing” を何と、NewJeansHYEIN(ヘイン)がカバーしているが、むしろそちらの方が原曲とは異なる別の世界観を創造しているように私は感じた。
移調したKeyが原曲の “E♭” に対して “G♭” に移行したことが吉と出たのか、若干15歳のヘインのカバーの方が原曲のもの悲しさを上手く表現しているような気がする。
 


二人に共通している欠点が一つある。それは楽曲後半の時間の使い方だ。
双方共に楽曲後半の楽器アドリブが入った途端に無言になり、楽曲終盤までインストの終わりをただじっと待っている‥ と言う動作に入って行くが、本当はそこが歌手の見せ所。
 
カバーならば尚更後半に、原曲には無いスキャットなどを入れることを再演する際に考えた方が、リスナーをもっと楽しませられると私ならば考える。
無駄なことをしないのも一つの策ではあるが、それならば原曲(レコーディングされた記録)を超えることは不可能だ。だったら再演自体、一切やらない方が良いだろう。
 

但し一個の楽曲を様々な切り口で魅せると言う意味では、一つの実験音楽/ 実験演出と言っても良さそうな企画かもしれない。 (如何せん個人的には、この解釈はあんまりだなーと思う。 )

 
テテはいつも通りに作業をし、周囲はテテのヴォーカルが抜けた隙間で悪戯を仕掛ける感じ。 作業とアドリブのバッドなせめぎ合いがリスナーの心を、むしろ締め付けて来る。
歌手本人がクールにキメている分、音楽的には虚しさが後を引く。
 
ズッコケ覚悟で「生きた人間」として再演に臨まないのであれば、この曲は再演すればする程鮮度を失って行く。
音楽が演りたいのか、それとも音楽を道具として扱う歌手のヴィジュアルを見せたいだけなのか、その辺りについて総括プロデューサーはもう少し真剣に考えた方が良いのではないか。
 
まだまだ問題山積の状態だ‥。
ヴィジュアルで音楽は成立しないと言う、この動画は非常に分かりやすい例だ。
 

[音楽評論] “Ninna Nanna” – Night Tempo & 中山美穂

2024年12月6日、中山美穂さんが亡くなられました。
あらためて、中山美穂さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 
2023年9月9日、少し遅ればせながらの今週末の新譜チェックを開始。
秀作が少ない中昨夜はクリス・ボッティのジャズの負のトラップにハマり、今日は中山美穂とNight Tempoのコラボ新作 “Ninna Nanna” にまたまた足を取られる格好に。
 
あっちこっちとぶつかりながら、世界の新譜チェックは粛々と進んで行く。障害が多い程燃えるのが私。ただでは起きない。
 

 

楽曲 “Ninna Nanna” 、イタリア語で「子守歌」の意味の言葉だが、彼女が歌う “Ninna Nanna” は何とEDMのTopにヴォーカルをくっつけたようなリズム・ミュージックだ。

作曲は又してもお隣韓国の Night Tempo の手によるもの。歌詞は中山美穂。
よく聴くとヴォーカルはオババ声で、途中何か所も声を震わす低音の「オババヴォイス」が炸裂する。
冒頭の「マンマ」はヴォーカルをわざと震え声に加工したようにも聴こえるが、その辺りも魅力的な「オババヴォイス」にリスナーを心地好く騙すテクニックとしてあえて捉えよう。
 

歌詞が又良い。
 

遠い遠い国のあるところに
Ninna Nannaを歌う 蝶々がいました

 
悲しみの先で 待ってくれる
パパパピヨン
揺れるマグノリア
 
マンマの夜空に走る列車
Uh 夢の彼方 胸の奥


“Ninna Nanna” 歌詞 より

 

流石小説家の元/ 妻だけあって、中山美穂の詞のセンスは今も冴えている。

こうやって仮に昔のアイドル歌手であったとしても、自分の言葉で表現することは貴重な体験だ。リスナーにとっても、表現者自身にとっても。
 
一方作曲者 “Night Tempo” は兎に角多才で憎ったらしいお隣韓国のDJ & プロデューサーで、勿論作曲もお手の物だ。
今世界をブイブイ言わせているK-Pop流王道コードで、クール女子の涙腺を甘々に徹底的に攻めて来る。この奇襲に遭ったらおそらく誰も逃げられない。
 
最近のオススメの一曲が此方、“Silhouette” (feat. 土岐麻子) だ。
 

 

勿論その他にもかなりアップテンポの “New Romantic (feat. Maki Nomiya)” みたいな作品も手掛けており、渋谷系に精通している音楽リスナーにとってはたまらない人選だ。
だが私の好みでは、こういうアップテンポの曲よりも若干速度を落としたDown Tempoな楽曲の方が、Night Tempoらしさがキラリと光るような気がする。
 
とは言ってみたものの、よくよく聴いてみると “New Romantic (feat. Maki Nomiya)” と中山美穂が歌う “Ninna Nanna” はほぼ同じ速度だった。
中山美穂の歌い方のせいなのか、若干楽曲がまったりと聴こえる辺りも美穂マジックなのだろう。
美穂の歌い方の特徴として、母音がよく響くので Maki Nomiya (野宮真貴) の子音だけをアタックで響かせて切って行く歌唱法と比較すると、中山美穂のレガート歌唱スタイルの方が韻が長く鼓膜に余韻として留まってくれるのではないか。
 
それにしても声帯のしわがれ感を躊躇なくマイクに乗せて歌い切った “Ninna Nanna” が、中山美穂の若かりし頃の歌声よりも断然印象が強く鼓膜の奥底に残り続ける辺りは、ある種の高齢歌手のしぶとさよ、強みよ‥。
私もほぼ同世代として声高らかに勝利の雄叫びを上げたい気分だ。
 

 

そして日本の昭和のシティー・ポップを徹底的に研究しまくり、そこに二次創作的エッセンスを足して盛って新作のシティー・ポップさながら世に送り込んで来る “Night Tempo”様には、流石の私も抗えない(笑)
 
だが今に見ていなさい。
日本からも最強の音楽家が既に世界の中心に到達していることを、あなたも知る時が来るのです。
その時まではそっと世界の中心の静かな部屋の中から、あなた方の進化を応援し続けようと思う。
 

嗚呼それにしても中山美穂がささやく「パパパピヨン 眠るマグノリア」‥の最後の「ア」の先に「ン~」が余韻に残るから、「マグノリアン」‥と甘えられているみたいに聴こえて仕方がない。
このまま回るピンクのベッドにもつれ込んでも、今夜ならばきっと何の後悔もないだろう。
 

夏の思い出 (“Old Folks” – Chris Botti を聴きながら)

私は自身が作曲をし、それをピアノを通じて表現する人。なので再現音楽の類いを好まない。
時々あっいいな‥ と思う人、例えばダイアナ・クラールとかキース・ジャレットとかそういう人の演奏や表現には徹底的に心を持って行かれるが、それ以外の再現音楽奏者には殆ど興味が無いのだ。
 

久々にChris Botti (クリス・ボッティ) のジャズを聴いた。と言うより、クリス・ボッティが遂にジャズを演り始めてしまったか‥ と言う失望の方が感動よりも完全に上回っている。

かつてはポップスやフュージョン等をグイグイ演奏していた音楽家が年を重ねて、気力体力が追い付かなくなって来ると決まってジャズメンに転向するのは何故だろう。
オリジナル曲を持っているのにその再演を回避して、多くのミュージシャンたちがジャズを歌い奏で始める度に私は、一人の音楽家(作曲家)として落胆する。
 

最近はそれまで大好きだったヴァイオリニストのLucia Micarelli (ルシア・ミカレリ) がヴァイオリンを脇に置いてジャズを歌い始める始末だ。それがけっして上手ではないし良い声質と言うわけでもないのにドヤ顔で歌い切る姿はどう見ても、器楽奏者と言う脇役の負のループからの脱却を狙っているように見えて辛くなる。
 
 

 

そんな中、まさかのクリス・ボッティのジャズらしいジャズがリリースされたので、もしかするとクリスも今後ジャズ・トランペッターに段階的にシフトして行くのではないかと正直不安になった。
 
私が大好きだったのは、あのStingとのコラボの “La Belle Dame Sans Regrets” を悲しげに吹いていた頃のクリス・ボッティだった。
リリース時期を調べてみたら、2004年だ。つまり今日から遡ること19年前のクリスが、私の中では最高の音色を出しているように思う。ざっと計算するとクリス・ボッティが41歳の時の音が、程好く尖がっていて程好く花びらが散り始めたような、そんな印象が強い。
 
 

 
先日久々に「売り物」の音楽やそれを制作している素晴らしいプロデューサーに接して、色々なアイディアを出させて頂くと言う貴重な体験をしたばかりだ。
勿論私が売り物に関わる時には、私自身の音楽は一切出さない。自分のことは自分が一番よく分かっているし、私は自身の作品に於ける他者の「ダメ出し」を絶対に許さない。
 
神さまからのギフトにケチをつける人は居ない。それと同じ話。
私の音楽は一人の人間が作ったものではなく、おそらく神々の思いやアイディアが私の中に降りて来てそれを再現していると認識しており、作曲者は私であって私ではないと思っているから。
 
昨年秋の終わり頃から或る記事を機に先方のマネージャーや通訳の人と繋がり、それが段々と発展して世界的なミラクルへと繋がって行った。
 

私自身の音楽性もデビューの2009年からかなり変容(変化)した。
私の中の本物を見つけるのに、少なくとも4年から5年は経過しただろうか‥。自分の中に自分を見つけた後はさらに無駄を削ぎ落して削ぎ落として‥ の繰り返しだった。
勿論私自身も少しばかり年を重ね、もともと運動神経が良くない私が今さらショパンのスケルツォやリストの「ラ・カンパネラ」など弾けるわけでもないし、その必要すら全くなかった。
 
運動神経で奏でる音楽ではなく私は、美しい残響に残響を重ね合わせるような、そんな音楽を目指している。
既に9歳の時に過去世の音色を思い出して、気付いて、その音楽に向かい始めていた。当時ピアノの教授らには「ペダルが汚い」とか「もっと細かくペダルを踏み替えなさい」等と何度も注意された。だがそれでは大聖堂で響いて来るような荘厳なピアノの音色など再現出来る筈もなく、私は他の同年代の学生たちに次第に置いてきぼりを喰らいながら、私の記憶の中に在る音楽をずっと一人で探し続けていた。
 

年老いたからと言っていきなり既存のクラシック音楽を弾くなどもっての外で、気付けば私は最初っから、百年後の自分に捧げる音楽を作っていた。
 
未来はその時間、その時点に到着しなければ分からないことが沢山あるかもしれない。だが私は9歳の夏に、今の自分をおそらく知っていたように思う。
私を常に奮い立たせてくれるものがあるとすれば、それは「自分と世界の音楽家とを比較する貪欲な精神」だった。それが小さな町の酒場での演奏の瞬間であっても私は、その瞬間を録音しては心に鞭を振るい、「もっと世界の真ん中へ行け!」と自分を叱咤し続けた。
 
 
ものの真ん中を見た人ならば分かると思うが、真ん中は常に空洞で人っこ一人居ないのだ。比較する相手も居ないし、私が今心に思い描いている音楽と同じ素材を作る人も存在しない。
真ん中とはそういう場所だ。

 
 

 
リスナーとしての私の中の「真ん中」に居た筈のクリス・ボッティが、気付けば脇道を歩み始めている。彼が彼自身の音色を放棄してジャズと言うカテゴリーの中に収まることに、クリスは何を見い出しているのだろうか。
 
勿論未だにクリス・ボッティの音色は美しく清らかであることに変わりはないが、音楽や表現手法を老いさせる世の音楽家の一人になり下がって欲しくないと言う私の願いは、もしかすると叶わないかもしれない。
 

 

 
そんなクリス・ボッティとヴァイオリニストルシア・ミカレリが共演した「Emmanuel」の中では、二人それぞれの頂点の音が記録されている。2009年、クリス・ボッティが47歳の時の音楽は既に5年前の華やかさや煌びやかさを失い始めているものの、今のクリス・ボッティよりも音色が澄んでいて憂いがあったように感じてならない。
 

人は誰しも老いて変わって行き、いつかは土に還って行く運命に於いては万人が平等だ。
私にもいつかその時は訪れるが、出来ることならば私が残響の音楽に気付いてそれを思い出した9歳の夏の自分を失わずに居たい。
 

この記事の最後にクリス・ボッティが2023年8月にリリースしたシングル『My Funny Valentine』の2曲目にトラックされている、此方も有名なジャズのスタンダード・ナンバーの『Old Folks』のYouTubeを貼っておく。
 
 

 
 

エッセイ “天空の壁” (普遍性の定義)

この一ヶ月間色々周辺が賑やかだったが、その賑やかさの中に一抹の虚しさを感じていたことは事実だった。
私には予知能力があるので、大概事前に未来が読める。だとしても他の人たちがそうではない以上、時に歩調を相手に合わせなければならないことが度々起きる。
 
私が歩幅を相手に合わせた時は、余り良い結果に結びつかない。今までもそうだったし、今回も同様の結果に終わった。
  
良い音楽は本物の音楽。私が思う「本物」とは、無から創作する人や作品を意味する。
一人のアーティスト、一個のグループの未来を託されることは重責が大きいので、極力私は「売り物は作っていません。」と言い続けている。
だがなまじ私が「売れている人」の背後に立っていることもある為に、相手の方がどうしても私を誤解するようだ。今回もそうだった。
 
私は自身の内面の引き出しを増やしたい為に、多くの民族音楽からアッパーテクノ(勿論クラシック音楽を始め)まで聴き倒しているだけで、私自身がDJみたいなことがしたいわけではない。だが、相手が誤解するしその勢いでマウントまで仕掛けて来るのだからたまったものじゃない(笑)。
 


昨日は久々に Tribute to Taeko Onuki (2枚組)” を聴いた。
  
なんと言っても冒頭の【『都会』- 岡村靖幸, 坂本龍一】の、ヴォーカルの弾け感が良い。
その勢いでザ~っと2枚目も飛ばし聴きしているが、特にDisk 2に良いヴォーカルが集まっている印象が強かった。
けっして好きな歌手ではないが、Disk 2 – M1 “突然の贈り物” を歌っている竹内まりやの表現が朴訥である意味投げ遣りで、私は好きだった。
 
同じDisk2 – M6 “夏に恋する女たち” を担当した中谷美紀の、ある種の棒読み歌唱も逆にインパクトがあったし、Disk1 – M10 “色彩都市” を何と “松任谷由実 with キャラメル・ママ” が担当しており、そのぶっきら棒な歌い方がかえって楽曲をシンプルに際立たせているように感じた。
 
このCDには他にも奥田民生や薬師丸ひろ子、EPOやKIRINJI、高橋幸宏等が大貫妙子の作品のカバーに取り組んでいるが、そのメンバーは所謂個性的な歌い方をする歌手陣で彼等の個性がノイズになって楽曲のメロディーラインの根幹をかき回してしまい、音楽でも日本語でもない別ものになってしまった感が拭えない。
私は個人的には好きではなかったが‥。
 


編曲で最も新しさを感じたのは、KIRINJIが担当した Disk 1 – M4 “黒のクレール” だった。
フランス音楽のテイストを持つ大貫妙子の原曲のテイストを、再解釈した新たなフランス音楽へと進化させたような印象が後を引く。ある意味シャンソン的で、その狭間にファドやフォルクローレ或いは讃美歌等の隠し味が冴え渡っていた。
田村玄一氏のスティール・パンが楽曲のもの悲しさを深め、そこはかとなくアンリ・サルヴァドールの香りが漂う不思議な仕上がりになっていた。
 

良い音楽、良い表現は常にシンプルで、個性の壁を突き抜けた先の「普遍性」に到達する。
個性の壁を突き抜けられない凡庸な個性は、時を越えることに必ず失敗する。勿論目先の目新しさだけを我が儘に追及しただけの作品も同様に、時代の壁の内側で悶絶しながらその一生を終えて行く。
 
私が芸術家 Didier Merah として追及しているものは、個性の先の普遍性である。逆に私が「売り物」に関与する時は、その一つ手前の個性の壁の上限を目指す。
 
先日の会合で私が出したNGの意味を、先方はどう捉えているか‥ なんてことはもうどうでも良い。
私は上の上の、その先の上を既に走っている。それはもしかすると、普通の人間の目には映らない「上」かもしれないが、私にはそれを操ることが出来ると確信している。
 
その確信を形にすることが、私の次のミッションかもしれない。
その手法が果たして音楽作品なのか、それともそれ以外の何かなのかは未だ分からないが、うっすらとその輪郭だけは天空の壁の向こう側に透けて見えている。