続編/ 歌えない校歌「KAMIYAMA」- アカデミックを考察する

昨日の明け方から少し風邪気味で、今日の夕方に開催される会食迄には治してしまいたいと思い、ずっと体を休めています。
 
布団の中で丸二日を過ごしているわけですがそんな中、先日更新したブログ記事『歌えない校歌「KAMIYAMA」』の閲覧者数が右肩上がりで伸び続け、大きな手応えを感じています。
 


『有名人の遺作として書かれた校歌だ』と言うだけで、多くのリスナーはその音楽の本質にたどり着く前に『名曲だ。』と言ってしまおうとするようです。
ジャッジメントよりも偽善の方が強くマインドを突き動かし、周囲の放つ有名税の波にあやかりたくなるのでしょう。
その一歩手前で私が先にアンチテーゼの声を上げた事は、今回の場合に於いては『吉』と出たように感じています。
 
中には反論や冷やかし或いは茶化しのコメントもFacebookの個人ページの記事へ複数寄せられていますが、それも『波』が立つから届く声。
反響の一つと捉え、私はただ冷静に次の波を起こすのみです。
 


音楽家が他の音楽家の作品をジャッジメントする事は、これまではタブーとされていました。その証拠に、自らが作品を生み出す音楽家(芸術家)たちは他者の作品に対し自身の作品でリベンジを図るのが、これまでのスタイルとされていました。
それでは何の改善も為されません。
音楽家同士の小競り合いからは、思考停止と退化しか生み出せないからです。
 
私が坂本龍一の作品にあえて斬り込む事には(多分これまでの業界の流れをご存知の方々もおられるとは思いますが)、他の人たちには考えも及ばない私なりの理由があります。
 
勿論守秘義務の範疇には触れず、いわゆる『音楽業界のディープステート』の闇を暴き出す必要性を私は今、このタイミングだからこそ痛感しています。
その意味に於いても、ブログ記事『歌えない校歌「KAMIYAMA」』の執筆は現在の音楽業界やそれを取り巻く人たちの中に、大きな一石を投じたように思います。

私自身が音楽を作り出す人間だからこそ、この記事の執筆に踏み切る事に意義があるのです。
音楽作品に対する「好き/ 嫌い」等と言う好みではなく音楽理論や世界中の全ての音楽を網羅している人間が書く文献だからこそ、大きな反響が寄せられるのです。
 
思うに「音楽を生み出す人々に聴衆はやたら品行方正な善人を求めたがり、それが音楽家の表現を妨害している」と、私は思います。
真実が闇の中に在るのだとしたら、音楽を生み出す音楽家たちの心の闇や「毒」にももっとスポットを当てて、それを理解するリスナー層を育成しなければなりません。
 


ですがそれとは逆に、例えば「校歌」の場合には、その作品には必然的に普遍性が必要になります。
 
「校歌」には、個性と言う名の汚れを纏わせてはいけないのです。
 
校歌『KAMIYAMA』に於いては、その肝心要の清潔感がゴッソリ抜け落ちてしまったようです。
それに対し、その汚れた作品性を「歌手や作詞家の個性だ云々‥ 」だと思い込ませようとするのは、ひとえにこの作品が商業作品を超えられないと言う最たる証拠を業界全体でメディアを介して露呈させている事と同じです。
 

本物の個性は、個性をさらに洗練させた普遍性に到達しなければなりません。
私が申し上げたいこととはつまりそういうことであり、古い体質の軍歌風の校歌を良しとする‥ と言う話ではありません。
 
くれぐれもそこを履き違えずに、ブログ記事『歌えない校歌「KAMIYAMA」』をあらためてお読み頂ければ幸いです。
 

 

※動画のコメント欄を見ていると、中には「歌わない校歌があっても良いではないか‥」等と言うつぶやきも幾つか見られますが、問題は坂本龍一と言うアカデミックを売りに転じた音楽家に於ける聴衆への洗脳が如何に危険であるかと言う点です。
少なくとも初演の歌手として、UAのようなタイプの歌手をセレクトしたところに大きな人選ミスが生じている点を、日本人として見過ごしてはいけないでしょう。
 
私ならば誰をセレクトしたでしょうか‥。
適任者がお一人おられますが、その方のお名前はここでは伏せます。
 
そして楽曲面で言えば、校歌がポップスであってはいけないのです。
古典音楽の楽典とコード進行をしっかり踏んだ古典的で、尚且つそれが時代を超えて行く美しさを持つものでなければなりません。
作曲者/ 坂本龍一自身、「教授」と自らを名乗らなければならなかった本当の理由を知っている筈です。彼こそ、音楽のアカデミズムを脱落し、敗北した人だからです。
 
ですが百歩譲って教授が校歌を作曲するのであれば、彼は最後の最後で彼自身のアカデミズムを呼び覚まし、全身全霊で校歌『KAMIYAMA』に刻印しなければなりませんでしたが、残念ながらそれは叶わなかったようです。

歌えない校歌「KAMIYAMA」

2023年8月10日、坂本龍一の遺作とも言うべき、おそらく坂本初の校歌「KAMIYAMA」のP/VがYouTubeから配信された。
作詞はUA、編曲は網守将平。

故人を悪く言う気はないが、故人の作品だから黒を白だと言う気もない。良いものは良いし、悪いものは悪い。その意味でこの作品「KAMIYAMA」は後者であると言うのが、私の音楽評論家としてのジャッジメントである。
 

「神山まるごと高等専門学校」は徳島県の位置するが、何故この学校が校歌を坂本龍一氏(作詞: UA)に依頼したのか‥。色々な意味で人選ミスではないかと思わざるを得ない、そんな作品だ。
 


少し脱線するが、知り合いに数名だが本田美奈子のファンが居る。彼等は揃って、本田美奈子の死後にファンになった人達だ。
若くして不遇な死を遂げた、ある意味「志し半ばして‥」寿命を終えた人。その「志し半ばで寿命を閉じた」から本田美奈子のファンになった‥ と言うのが、数名のファンの共通項だと言っても過言ではない。
 
特に日本人は「滅び」に弱い。その人が元気な時は下げて下げて下げまくるヘイトを日夜連発しているのに、状況が一変した途端に態度を変える人達はそう珍しくはない。
 
坂本龍一が今日もしも存命であれば、校歌「KAMIYAMA」は間違いなく酷評されるだろう。酷評されなければならないと、私は思っている。
 

音楽は、音楽教育を受けていない人たちがシェア出来るギフトでなければいけない。

これは私の音楽哲学のような心得の一つであり、その意味でも平易で美しい楽曲がもっともっと世界中から生まれ出て来なければならない筈。だが現実はそれとは全く異なる。
「平易な曲」と言うと唐突に幼稚園児が口ずさむ童謡もどきの楽曲を、多くのメロディーメイカーが想像し、想定する。失声後の「つんく」の楽曲が激変した時には私もびっくりしたが、「平易」を取り違えているメロディーメイカーは数多く存在する。
  


校歌「KAMIYAMA」の歌詞をUAが手掛けているが、後半が英語で書かれているのは何故だろうか?
日本の学校で歌われる校歌が英語である必要性を、私は全く感じない。作詞者及び作曲者双方共に優等生感情丸出しで、「校歌」と言う観点を完全に放棄し完成した作品と言わざるを得ない。
 
メロディーも分かりにくく、「KAMIYAMA]を歌えるのは恐らくこの世でUA一人だ。そのUAも声質が激変し、P/Vの生演奏を見る限り高音の発声に大きな障害が出ている。にも関わらず何故その音域で歌わなければいけないのか、そこに音域の必要性を全く感じない。
 


言い方は良くないが、薬物中毒者が歌っている様な表情や動作も、校歌を歌う人として適切ではない。
メイキングの動画を視る限り、学生とUAとのセッションでは学生の大半が後半のメロディーも歌詞も追い切れていない。

要はこれはUAの新譜であり商品ではあるが、校歌でも作品でもないと言うことに尽きる。
 


例えば「校歌」のような作品を生み出すと言う観点で一つ忘れてはいけないことは、その楽曲のメロディーがインストゥルメンタルで海の向こう側から流れて来てもそれが分かりやすく美しい音楽であることが条件だ。
美しく平易であるが、けしてそれが幼児性に侵された音楽ではいけない。それが普遍性であり、上記の条件を満たした楽曲は必ず後世にメロディーが残って行く。
 
例えば名曲「遠き山に日は落ちて(家路)」がそうであるように、この作品はとても平易で美しいメロディーとシンプルなコードで出来ているにも関わらず、作品にはドボルザークの個性も影を失うことなく刻印されている。
 


仮に「校歌」と言う命題を与えられ曲を生み出すならば、そのようにならなければいけないと私は思う。
 
それがそうならない要因の一つとして、日本のみならず世界中の人々が「歌もの中毒」に似た症状に侵されていることが挙げられる。
校歌「KAMIYAMA」を別の歌手に仮に歌わせることになった場合、おそらくそもそものメロディーにUAの歌い癖が乗り移ってしまっており、いち楽曲のメロディーとして別の歌手が歌唱しようものなら原曲とは似ても似付かぬ楽曲になる危険性を秘めている。
つまりUA以外、誰にもこの旋律は歌えないと言うことになる。

個性の暴走の果ての個性の墜落が、校歌「KAMIYAMA」に見て取れる。
 
実際に歌えないメロディーを「校歌」として書き下ろした坂本龍一の真意の程は分からないが、同時にこの楽曲の存在理由も意義もないと言えるだろう。
昼食の時間帯に校内放送で校歌をBGMとして流す、そのくらいしかこの音楽の使い道が何れ無くなるだろう。
 


滅びの美に弱い日本人のことだから、校歌「KAMIYAMA」について誰かが「名曲だ。」と言えば多くの日本人たちはその声に便乗し、この曲は名曲だ‥ と言う後出しじゃんけんの波に乗っかる以外の音楽の聴き方をしなくなるに違いない。
なのでそうなる前に私は「正しい音楽の聴き方」の一環として、俯瞰した見解をここに綴る必要性を強く感じ、この記事の執筆に至った。
 

偽善を捨てよ。
物事に対し色眼鏡をかけて向き合うべきではない。

商品と作品を見間違えてはいけない。

 
その為には、その商品や作品の「いいね」票や知名度に振り回されることなく、己の心の声、感性に従順でなければならない。

是非この観点を持つ人たちが今後少しでも増えてくれることを願いながら、この記事の執筆を終わりにしたい。
 

K-Popとイタリアンポップスの関連性について

この週末の金曜日から少し遅れて昨日の夜、2023年8月4日分の世界の新譜をチェックしながら、私は幾つかのプレイリストの試聴を渡り歩いていた。
最近のもっぱらの推しがNewJeansであることには変わりないが、そんな中偶然イタリアンポップスの女王 Giorgiaの新作 “Senza confine” で暫し作業の手を止めた。
 
少し遅れて2023年8月4日分の世界の新譜をチェックしながら、私は幾つかのプレイリストの試聴を渡り歩いていた。
最近のもっぱらの推しはやはりNewJeansであることには変わりないが、そんな中偶然イタリアンポップスの女王 Giorgiaの新作 “Senza confine” で暫し作業の手を止めた。
 


イタリアンポップス(或いはカンツォーネ)と言うと直ぐに演歌臭い「男と女の恋物語」を脳内想起するカンツォーネフリークが多いのだが、そういう生き物が私は大っ嫌いである(笑)。
 
Giorgiaの新作 “Senza confine” の歌詞をページ翻訳で一旦英語に翻訳し、それをさらに和訳しながら読んでみると、如何にも音楽の歌詞らしく明確な理由付けなど不毛と思える程の抽象的な名刺が並んでいる。
だがこの動画を視ている限りGiorgiaが暗に今の地球や地球環境或いは人類の意識の低下に対する危機感を意図してこの歌詞を書いたのではないかと、うっすらとこの作品の全体像の一端が垣間見えて来る。
 
J-Pop以外のポップスの作品に最近この兆候が強く見え隠れする、そのことに対して多くの人類が鈍感になっていやしないかと私は別の危機感に時折心が震えて仕方がない。
 
サンバやショーロ、その他タンゴからスペインのポップス等の歌詞を紐解いて行くと、激しく燃えるようなビートの彼方に実は悪しき政治体制への批判や人類の朦朧とした意識に対する危機感、さらには人類の滅亡に対する危機感(絶望感)等を意外に素直に表現している楽曲を数多く見掛ける。
例えばコロンビアのアーティスト Monsieur Periné も新曲 “Prométeme” のP/Vを通じて、人類滅亡に対する危機意識や現政治体制へのアンチテーゼを明るいメロディーに乗せて高らかに歌い上げている好い例かもしれない。
 


少し視点をずらして、あのK-Popのグループ “NewJeans” の新作 “ETA” の中身を見てみると、やはり男女関係を通じて少々怖い内容のメッセージが込められていることが分かる。

動画の中の主役は欧米人と思える女性で、彼女の恋人の浮気現場をNewJeans扮する親友5人が彼女たちのライブの最中に目撃すると言う内容になっている。主役の女性は既に恋人を殺害しており、男性の遺体を車で移動する最中の妄想を含めた脳内ストーリーとして動画が進行して行く。
映像や表現形態は異なるが、何れも人の「命」の行方について描かれており、見ていて背筋が寒くなる。
 
実は動画の映像描写だけでなく、イタリアンポップスとK-Popにはコード展開やメロディーメイクにも多数の共通点が見られる。
両者はある種 “トニック” と呼ばれるメインのコード(Ⅰ度)に解決せず、サブコードをうろうろするコードの連携で楽曲が進んで行く特徴が見られる。
Ⅱ度 ⇨ Ⅲ度セブンス ⇨ Ⅲ度マイナー ⇨ Ⅵ度(マイナー)、分かりやすく砕くと、Dm ⇨ E7 ⇨ Emin. ⇨ A7sus4 (A7)‥ と言う感じだろう。
これは今世界中のK-Popフリークをこれでもかと泣かせまくっている新しい王道コードとも言える。それを私は「涙の王道コード」と命名して呼んでいる。
 
トニック(Ⅰ度)には絶対に解決しないコード展開は、どこか現在‥ 絶対に平和な解決に向かおうとしない人類の意識の酩酊状態に似ており、それはJ-Pop以外の多くの世界の音楽で共通項のようにコードプログレッションに用いられている。
 


もっともっと内容を膨らませて綴ることも出来るが、余り話を膨らませ過ぎると焦点が大きくブレてしまいかねないので、早速この記事の最後にNewJeansの新譜 “ETA” ともう一つ、私がずっと気になっているNewJeansのM/V “Ditto” (side B) を掲載しておきたい。
 
これは私の個人的な解釈に過ぎないが、どう逆立ちしてこの動画を視ても私にはこれが「死者の思い出」を描写した内容に思えて仕方がない。
だが多くの音楽ライターやYouTuberがこの “Ditto” (side B) の動画を「思春期の男女が恋愛を成就させる迄のプロセスだ」と話しているのを見ると、何とも心の古傷をかきむしられるようでたまらない気持ちになる。
 

 

戦う音楽/ フラメンコ (Flamenco) David Palomar – “Libertad”

昨日の私の週末恒例の「世界の音楽/ 新譜チェック」の中には数曲のRumba Flamencoの新譜が散見出来たが、やはりフラメンコと言ったら此方だろう。

丁度YouTubeのマイリストの中に、David Palomarの最新動画を見つけた。
 


そもそも私はLive音源には肯定的ではないが、この種のフラメンコならば例外だ。

彼等は空間や外壁、家屋の壁を震わせながら社会に戦いを挑むべくフラメンコを歌う。それは戦いであり反骨精神の顕れであり、そして彼等の人生そのものだ。

かつて私もワールド・ミュージックだけを取り上げながらそれらの音楽を和訳し、日本語の詞に書き換えてはそれを再現する為のバンドを組んで活動していた。
その中では常に女性のヴォーカルがトップを取っていたが、彼女は各々のジャンルのダンス・ミュージックを再演歌唱する際、一切のダンスを拒絶した。

おそらく「照れ」感のようなものが彼女の舞いを遮っていたのだろうけど、聴衆側からすれば彼女のそれは音楽や表現に対する拒絶の意思と捉えられても致し方なかったと思う。

このフラメンコの動画を観ていても分かるように、彼等は振り付けとしてダンスを舞っているのではなく、彼等自身の社会的立場への反発や理不尽さへの訴えかけとして自然と体がその意思表示をするところの「舞い」として、世界に向かって舞っているのである。
 

骨を鳴らす。

彼等は喉のみならず骨を使って、彼等自身の音楽を体現して行く。その為に骨を使って舞うのだ。

以下に歌詞の一部の和訳を掲載しておきたい。
 

一歩を踏み出す方法がわからず、鎖で縛られました
一歩踏み出す方法もわからず もう飛びたかった
しかし、厳しい現実に直面しました
彼らは私の両翼を切り落としました

歩き始める前に
神は天国に遣わす
空腹の中で私は命令する
そしてアートではLoLaのルールがある

そしてマノロ・カラコル
誰が結ぶのか、誰がスイッチを入れるのか、
お金を盗む人。

誰が結ぶのか、誰がスイッチを入れるのか、
お金を盗む人。

誰が結ぶのか、誰がスイッチを入れるのか、
お金を盗む人。

もし私がその歌を発明したとしたら
それがインスピレーションの源だった

新しい世代の
立ち上がって叫ぶ
彼に正体を現して
アンダルシア・リブレのために戦わせてください

私は自由を売りません
私は自由を売りません
私は手綱のない馬です
手綱も頭もなし

誰も私を飼いならさない
誰も私を黙らせることはできないということ

ノー、ノーとは言わないでください
あなたがそこに到達できることを

自分の魂に制限をかけないでください
夢、願望、愛したいという願望。‥‥


日本にも多くの表現者や音楽家、演奏家たちが暗躍するが、彼等は一体何に向かって生きており、何に向かって音楽で語り掛けているのだろうか‥。

勿論戦う音楽だけが全てではないが、Liveと言う表現形態を取る音楽家が自らを「音楽家」だと名乗るのならば、それが誰の為の祈りであり、誰の為の憩いであり、そして実質的にどこに向かってその烽火を上げて叫んでいるのか‥。

一度そのようなことについて、各々考察してみるのも良いではないか。
 

[音楽評論] “ジュエリー (Prod. imase)” – LE SSERAFIM

K-Popの頂点近くを疾走するガールズグループ『LE SSERAFIM』が2023年7月25日に、新曲『ジュエリー (Prod. imase)』の配信を開始した。

これまでの彼女たちは「戦い」「プロセス」「傷跡」「凶暴性の片鱗」を掲げながら、半ば傷だらけの半身を生々しく露出するようなスタイルで新曲をリリースし続けて来た。
だが新曲『ジュエリー (Prod. imase)』で、そのスタイルを完全に翻して来た。それがある意味唐突で不自然に感じるのは、私だけではないだろう。
 

夏の神曲と言えば、私の中ではNMIXXのRoller Coaster、そしてNewJeansのETAだ。
 

 


双方共に「爽やかさ」と少女性を全面に出した、弾け感満載のサマーソングと言っても良い出来栄えに仕上がっている。

そこに割って入ろうとするように7月25日、LE SSERAFIMが『Jewelry (Prod. imase)』を突っ込んで来た形になる。
 
そもそもLE SSERAFIMは「底から這い上がって戦い抜いて勝利と権利を勝ち取る」と言う様なストーリー性を売りに、今日までファンをその気にさせて来た存在。それがここに来ていきなり「爽やか疾走系ソング」に舵を切り替えて来た本当の理由は、恐らくNewJeansの新たな「体に負荷を掛けない歌唱表現」とNewJeansの持つ天性の少女性や天使性に対し、現在のLE SSERAFIMの企画では追いつくことが難しいと踏んだからではないだろうかと私は推測している。
 
新曲『ジュエリー (Prod. imase)』には、ライバルのガールズユニット『IVE』が度々用いているRAPも挿入されており、言ってみれば「売れてるK-Popの幕の内弁当」の様相を呈している。
これでうさぎの長い耳の付いたかぶりものとモフモフのリュックでも背負ってステージに出て来ちゃった日には、もう誰もがNewJeansのもろパクリと思うに違いない。
 

 


LE SSERAFIMの新曲『ジュエリー (Prod. imase)』の作曲を手掛けたアーティスト imase にスポットを当ててみると‥。

「TikTokから飛び出した現在21歳のミュージシャン」と言うこと以外に、未だ活動経歴が浅いのか余り多くの情報がヒットしない。
肝心な彼の楽曲を捲ってみると、たまたま『Nagisa(MV)』がヒットしたので聴いてみる。

よくあるシティーポップに米津玄師と藤井風を20グラムずつ足して混ぜこぜにして、5で割ったような作風を得意とするようだが、表現力は今一つ。声質に特に目立った特徴も見当たらない。
恐らく彼に関わっているエンジニアの力量が際立っており、それなりの商品として辛うじて仕上げて来たと言う印象しか感じない。
かと言って藤井風ほどの毒性や脂っこさも無いので、中途半端に脂ぎった家系ラーメンを最後の最後で完食出来なかったランチタイムのような、苛立ちだけが後を引く。
 


正直LE SSERAFIMが何故この時期に、imaseのような弱々しく個性に乏しいミュージシャンに楽曲提供を依頼したのか‥。
実は表層の「快挙」の看板の裏に悲痛な商業合戦の深い爪痕が尾を引いているのではないかと、憶測せざるを得ない。
 
確かにLE SSERAFIMの前作『Eve, Psyche & the Bluebeard’s wife』では難易度の高い振り付けと新しい歌唱法で、多くの観衆を惹き付けた彼女たち。
それまでの「戦って勝ち取る権利」を得た感が拭えなかったが、足ることを知らない彼女たちはさらに多くのものを欲しがっているのか‥。
 


人間、欲しがり過ぎると必ずいつかどこかで、その代償を背負わざるを得なくなる。その意味では今のLE SSERAFIMは、例えるならば「K-Popバブルにハマった裸の女王」とも言えそうに思えて来る。

そんな裸の女王ぎりぎりのラインに立っている致命的とも言えるLE SSERAFIMの新曲『ジュエリー (Prod. imase)』の楽曲動画(ほぼ静止画)を、この記事の最後に貼っておく。

思うにこれは事故かトラブルかの何れかが起きたのではないかと、私は見ている。どんなにあがいても、可憐で清純で、どんなに汚しを加えてもものともしないNewJeansの5人の清潔感には勝てる気がしない。
なのにLE SSERAFIMの関係スタッフの中でだけ、得体の知れない勝算を感じているように見えるから。
 

 

歌詞は ⇨ ココ ⇦ からご覧下さい。

[音楽評論] Mario Biondi – “Brasil” (album)

良い音楽は良いなりに、そうではない音楽は理論武装をしつつそれなりに紹介出来れば良い。そう思ってこのブログをSNS “note” のアカウントと共に立ち上げたが、そもそも私は「自身が売れる」為と言う目的を一切持たない。
 
「多くの人々に認知されなければプロとは言えない‥」
私に対しそのような言葉を放つ人々もけっして少なくないが、私はそうは思わない。
 
正しい評価を下すこと。
音楽評論家はそう在るべきだ。その為には他者からカネを取らないで各々の音楽作品や表現等に対しジャッジメントを下す方が、より精度の高い評論に到達出来ると確信している。
 
カネを取るからプロ‥ ではない。
料理にも「時価」と言う価格設定の方式があるように、私は「タダより怖いものはない」と言う価格を自らに設定している。
誰に対する忖度を一切しないところに、本物の価値観が出現する。私はその英断を振るう、世界でただ一人の音楽評論家で在りたいと思う。
 


久々にMario Biondiのアルバム『Brasil』を聴いている。
たまたま私の好きなシャンソン『Jardin D’Hiver』が収録されており、『Jardin D’Hiver』を検索していたらMarioのアルバム『Brasil』が逆ヒットしたからだ。
 

最初この人の声を聴いた時は背骨が折れそうな程痺れたものだったが、段々と飽きて来た(笑)。
表現が一色だからかもしれない。

喉の奥を絞って発音をくぐもらせたようなある種のクセは、段々と日を追う毎に食傷気味になって行く。クセとはそういうものかもしれない。
それはどこか豚骨ラーメンをある日いきなり好きになり、ある日いきなり胸やけを起こす程嫌いになる様子にも似ているかもしれない。
 

アルバム『Brasil』と言うタイトルから想像するのは、どの曲のどの箇所を切り取ってもブラジルであることだったが、このアルバムはその期待をあっさりくったり裏切ってくれた。
良くも悪くもチルアウト的であり、UKやイタリア、或いはオランダ辺りの緩いチルアウトミュージックを率先してコレクションして繋ぎ合わせてチャンネルを作っている、DJ界隈に好まれそうな音楽が数珠繋ぎに集まっているアルバムだ。
 

それもその筈。Mario Biondiは最初欧米のチルアウトミュージック系のDJ辺りから火が着いた人で、私が最初に聴いた彼の作品はこの曲だった。
 


非常に口当たりの良いワイン(ロゼ)と言う感じの曲だが、未だある種の彼の発音の癖がこの頃は然程気にならなかった。
良質な楽曲にも恵まれていたからかもしれないが、Mario歴を重ねて行くうちに段々と彼の声質が鼻について来て最近は滅多なことでもない限りはMarioの作品には触れなくなった。
 
最近の作品と上のYouTubeのWhat Have You Done to Meを聴き比べてみると、若干最近のMarioの声質の劣化(現在Marioは52歳)が見られ、それが理由で彼の発音のくぐもりが悪い意味で際立って来たのかもしれないと気付いた。
 


アルバム『Brasil』には英語の楽曲も多数収録されているが、そもそも母国語の表現力すらも一本調子のMarioに英語を巧みに表現出来る筈もなく、何とも空振り感がハンパない。

英語曲と言えば私がパっと思い付く推し歌手にStingが居る。Stingも楽曲にはかなりムラがあり、良い曲とそうではない曲のインプレッションの差が激しい。
だがStingは時折フランス語等の楽曲のリリースもあり、そんな時のStingの表現は本当に冴え渡っている。
 


『L’amour c’est comme un jour』、これはシャルル・アズナヴールとStingがデュオを取る形で楽曲のパートを交互に歌って収録されている。
Stingのフランス語が聴ける貴重な音源だが、勿論ネイティブではないStingの表現がアズナヴールとは異なるある種の高みに到達しているように聴こえてならない。
本当に素晴らしい。
 
Mario Biondiの『Brasil』に対しても同様に期待をしたことがいけなかったのか、音楽に対する消化不全のMarioの表現がいけないのかはもう問いようもないが、やはりヴォーカルものはフロントの歌手が音楽全体を牽引して行く使命があると言う点では、かなしい結果であることは否めない。
 
唯一M-8 “Deixa eu dizer” がブラジル中のブラジルと言っても良い出来栄えだったがそれもその筈、歌手に Ivan LinsClàudya と言うブラジルを代表する強豪が歌手として参加しているわけだから、その意味では出来栄えが良くなければ嘘になる(笑)。
 
 
上記の点を踏まえながら、極力冷静に平常心でMario BiondiのBrasilをご堪能あれ。
 

 

アルバム “ENIGMATIC SOCIETY” を聴きながら

不意にアルバムENIGMATIC SOCIETYを聴いている。丁度Robert Glasperのニューアルバムを探している最中に、このアルバムの沼にハマったような形に‥。

そう言えば昔吉祥寺に足げく通ったタイ料理店で、いつ行ってもエキセントリックな音楽が掛かっていたことを思い出した。
どこかアバンギャルドR & Bとでも言うような店長独自の選曲で、カセットに収められたプテイリストのようなセレクトが好きだった。

このアルバム『ENIGMATIC SOCIETY』が丁度それに似ていて、眩くアジアンテイストな記憶が蘇る。

 
元々ブラックコンテンポラリーは言語上の理由で(私が大の英語嫌いだったこと)敬遠していたが、1997年に野暮用でL.A.に遠征に行った時から急激に好きになった。
 
当時下宿先でお世話になった同居人が大のブラックコンテンポラリー好きのイギリス人で、彼の車にガチャガチャと積んであるカセットテープの大半がいわゆるブラコンだったのだ。
そのラインナップに触れている内に気付くと私は、ブラックコンテンポラリーの洗礼を受けてしまっていた‥。
 


少し話が脱線するが、昭和の後期辺りから『ジャングルビート』と言う、密林系のリズム体が大流行した。日本国内でもダンスルーム等に行けばレゲェとセットで、このジャングルビート・テクノがよく掛かっていた。
 
国内で流行ったジャングルビート系の一つに、小室哲哉とダウンタウンの浜田雅功が組んで1995年頃にリリースした『WOW WAR TONIGHT~時には起こせよムーヴメント~』が大ヒット & ロングヒットを飛ばしていた。
 


リズム的にはこの曲『WOW WAR TONIGHT~時には起こせよムーヴメント~』はハイブリッドになっており、レゲェ+ジャングルビートの複合体でリズム体が完成していると言った方が良いだろう。
 
『WOW WAR TONIGHT~時には起こせよムーヴメント~』がロングヒットを飛ばしていた1990年中期から後期頃の頃の私は、ジャングルビートよりもサルサやメレンゲ、タンゴなんかにどハマりしており、今何が流行っているのか‥なんてことは余り考えずに、渋谷はHMV辺りにほぼ丸一日しけ込んで端から端までそのシーズンの新譜を聴き漁っていた。

余りアーティストの個人名等に囚われることなく兎に角色んな世界の音楽を片っ端から聴いていた頃なので、いつ、誰が何をリリースしたか‥ と言われると即答出来ないが。
 
最近になってRobert Glasperの音楽に再会したのはYouTubeの悪戯のお陰とも言えるが、その中でもこの曲Let It Ride (Lyric Video) ft. Norah Jonesには珍しく惚れ込んで何度も何度も聴いている。
 


YouTubeでRobert Glasperを聴いていると、何故か決まってE Preciso Perdoar』 – Ryuichi Sakamoto / Cesária Évora / Caetano Veloso がサイドバーに出現する。
恐らく上に触れたRobert Glasperの作品とリリース時期がかなり近いので、アルゴリズムが反応するのかもしれない。
 
両方の楽曲を聴き比べると確かに何かしら、時代の匂いを強く感じてならない。
時代が持つ香りとでも言うのか、無駄にカラフルなネオンサインが両楽曲の背後から立ち上って来るから不思議だ。
 


1990年代中期から後期は確かに、私の前職も盛り上がっていた頃だ。昼夜を問わずに仕事に追われ、断っても断っても後から後から仕事が湧いて出て来るような、良くも悪くもそんな時代だった。
ミュージシャンが猫も杓子も横柄な態度で居ても仕事を失うこともなく、多くの演奏家や編曲家たちが懐を潤わせた好景気の最後の一瞬だったようにも思う。
 
 
あの頃通い潰したあのタイ料理店は今も経営スタイルを変えて吉祥寺のほぼ同じ場所に存在するようだが、かれこれ2005年頃を最後に足を運んで居ない。
当時は働いても働いても貧乏だった私も時を経て経済状況が一変し、それにともない体力的かつ健康状態も激変した。以前よりも食が細くなった分、良質で内容の良い食事を少量摂る食生活にシフトした。
 
変わらないのは音楽の聴き方、音楽への貪欲さだけかもしれない。それだけはきっと終生変わることが無いだろう。とは言えかつて音楽を大音量で長時間聴き過ぎたことが原因で二度難聴を発症していることもあり、最近は2時間以上音楽を聴く時は間に休憩を挟んだり、ヘッドホンの音量をうんと控え目にして聴く等、自身のケアを何より優先している。
 
2023年の夏至を過ぎ、今日から再び昼夜のバランスが変わって行く。
過ぎ行く時を惜しむのは老化のせいではない。このご時世、色々な理由で多くの知人が体調不良を訴えており、いつ何が起きるか分からなくなって来た。
今日会える人には今日会っておかないと、次いつか必ず会えるとは限らない。
 
この数年活動を全く止めてしまったミュージシャンも複数居るが、彼等が今どうしているのかについても殆ど分からないことが増えて来た。
それまで更新頻度が多かったFacebookやTwitter等の発信が、2020年の秋を最後に止まったまま‥ と言う音楽家も多数居る。
懐かしさとかなしみと後悔、その隙間をぬうように音楽を聴くことが増えた。
 
今日は少し悲しく、ロンリーな気分だ。
誰かを失った訳ではない、‥今のところは。そんな感じの、良くない胸騒ぎが続いている。
そんな今の気分に相応しいアルバムを、今夜はしんしんと聴いている。
 

謎の日本人DJ, Hiroko Yamamura

昨日は馴染みのホテルで、とても厳かな和食懐石(タラの芽コース)を静かに堪能して来た。未だ体調が万全ではないので帰宅したらいつもより少し早めに就寝の予定が、完全に狂った。

YouTubeあるあるで本当によくある話だが、今回は謎の日本人女性DJ Hiroko Yamamura の圧倒的な卓ワークに完全にロックオン。

中肉中背よりも少しふくよかさを感じる、中年よりは少し年代が進んだ女性と言う印象のこの人の圧倒的なパワーとセンスの良さに、会場の海外の客も完全に飲み込まれてしまったようだ。
 


先ず選曲のセンスが良いのと、各曲とリズムの繋ぎが豪快で大胆でよどみがない。ドラムだけ、上物だけで楽曲を見事に引き延ばしながら重いベースでグイグイと尾骶骨にパンチを喰らわして来る。
これが動画ではなく音声のみで聴いたとしたら、恐らく多くのリスナーが、このDJを女性だとは思わないだろう。

圧倒的な破壊力と選曲とブリッジで攻めて来るが、本人は至ってクールで汗臭さもないのだからかなりの体力 & 気力の持ち主だ。
 

私は丁度今から15年近く前に、ドイツやイタリア辺りでブイブイ言わせて活動している複数のDJと関係性を深めたことがある。
当時はテクノとかアッパーテクノよりも、チルアウトミュージック或いはDeep TechnoやDeep House辺りが流行していたこともあり、意外に肉食系よりも草食系DJの方が私の周りには多かったように記憶している。

一方この人 Hiroko Yamamura は普段一体どんなものを食べたらこんなにアグレッシブになれるのか、是非一度ご本人にお伺いしてみたい程兎に角凄い。
 


Room序盤からかなりブッ飛ばしては来るが、一曲一曲のTimeを超ロングで引き延ばして来るのは彼女の特徴かもしれない。
私がこれまで出会って来た他の海外のDeep HouseやTechno系のDJは、一曲のTimeがここまで長くはなかったように思う。

まるでRoomで座禅でも組んで瞑想しているような楽曲のTimeの取り方は、彼女の持つスタミナとも関係性があるだろう。兎に角繋いで繋いで伸ばして行く様は、さながらパスタの生地を圧倒的な薄さにまで引き延ばして行くパスタ職人のそれをも彷彿とさせる。

それともトルコアイスの、あの長~いクリームの根っこから先端までの曲芸的かつ芸術的な長さにも精通するだろうか‥。
 


途中何度かドラムとベースを抜いて、観客たちはそこで若干の息抜きをしているように見える。ずっとベース & ドラムが鳴っていると確かに鼓膜が疲労し呼吸も荒れて来るので、その辺りはこのジャンルの音楽をRoomで鳴らしながらも観衆に極力呼吸量を上げさせないよう、彼女は周到に計算して曲を繋いで行ったのだろう。
 
中盤くらいからいきなり人が増えて、あちらこちらから歓声が上がり始める。そのタイミングを見計らいキャッチーな効果音で会場を丸め込んだ途端に、一気にドラム & ベースで空気を押し込んで行く様は圧巻だ。
 


上の写真は動画 25min. を過ぎた辺りだ。観客の大半がもう、すっかり出来上がっている(笑)。何も考えられなくなる代わりに、ただひたすらテクノの海に笑顔で飛び込んでは溺れて行くだけだ。

だが Hiroko は「まだまだだよ」と言わんばかりに、カモ~ンカモ~ンと手招きをして聴衆を挑発し続ける。
 
動画は1時間以上にも及ぶ。
この続きは是非、YouTubeでご覧あれ。大音量のスピーカーか、或いはハイスペックのヘッドホンで鼓膜が破れない程度の大音量で聴くことをオススメする。
 

 

以下、関連記事も是非 🎛️

 

[音楽評論] “E penso a te” – Lica Cecato et Carlo Morena

毎週金曜日に世界の新譜が発信されるSpotify。私は酷く体調を壊し、数日間ずれ込んでおずおずと新譜を端から捲って行く。
 
今週は競合が音楽の軒を連ねているが、その大半が余り日本では知られていないアーティスト勢の新譜だ。
思えば9歳になるかならないか‥ と言う頃に既に私は世界の音楽に目覚め、AMラジオでその動向を追い始めてから一体今年で何十年が経過しただろう。
 
まさか50歳を過ぎてから音楽評論を始めるなどとは夢にも思わなかったがそれもこれも、きっと恩師: 三善晃氏の導きではないかと思っている。

タイトルの「E penso a te」はイタリアは Lucio Battisti が1972年に生み出した有名なカンツォーネで、カンツォーネを愛する多くの歌手たちにカバーされている。
今回はイタリア人ではなく、ブラジル人歌手: Lica Cecato のヴォーカルを背後からイタリア人ピアニスト: Carlo Morena がしっかりと支えて音楽を編み込んで行く。

歌詞は原語のイタリア語ではなく、恐らくポルトガル語辺りで訳されたものだと思われるが、小気味よく悲しげな言葉の響きが郷愁を誘う。

本国イタリアでは後に Fiorella Mannoia やカンツォーネの王者 MINA がカバーしている。
 

 

 
イタリア語から歌詞を簡単に和訳してみたので、ここに貼っておこう。
 

“A penso a te” (邦題: [ そして君を想う ]

仕事をしながら 君を想う
家に帰って 君を想う
彼女に電話していても 君を想う

どうしている? 君を想う
どこに行くの? 君を想う
視線をはずして彼女に微笑みながら 
君を想う

君が今誰といるのか知らない
君が何をしているのか知らない
でも確かに君の想いが伝わって来る

この街は大きすぎる
ぼくらのような二人には
望みはないけれど互いを探している 
探している

ごめん もう遅いね でも君を想う
君の影を追いかけながら 君を想う
ぼくは今の暮らしを 少しも楽しんでいない 
だから君を想う

闇の中で 君を想う
目を閉じて 君を想う
遂に一睡も出来ずに 君を想い続ける

 
これはあくまで私の解釈に過ぎないが、これは不倫や浮気などではなく(一見そう読み取れる箇所もあるが)‥、ひょっとすると同性愛者の苦悩を表現した作品ではないかと感じてならない。
 
本命のパートナーが居る身で「彼女」と「君」と言う別々の存在を同時に思うとすれば、それは二人の異性に対する同時恋愛ではなく、男が一人の女性と同時にもう一人の同性を愛する心情を描いた作品ではないか‥。

そう解釈しながら聴くと、この作品のこれまでとは違った側面が見えて来る。
日本人のカンツォーネ歌手の中にもこの曲をカバーして歌っている歌手をこれまでにも大勢サポート(伴奏)して来たが、上に触れたような解釈に触れながら歌唱している歌手には遂に一人も出くわさなかった。
 
音楽や歌詞は多方向からそれを見比べることで、これまでにはない新たな発見をすることがある。
だがこの作品「E penso a te」を不倫の歌詞から同性愛者の心情を切々と歌った歌詞として再解釈しながら聴き返すと、この作品の根底を脈々と流れて行く深く険しくいたたまれない表現の根源に触れることが出来るだろう。

それは言い知れない、そして目的の無いゴールに向かって走り続けている形のない魂に不意に触れてしまった後の後悔のように、リスナーの心情をも呆気なく変えてしまうかもしれない。

 
最後の「La La La La ‥」と果てしなく続いて行く言葉にならない言葉が数秒後には力尽きて行く様を私も受け止め切れずに何度も何度もこの曲を伴奏しながら、「どこで終着点を決めるべきか」について悩まされたか知れない。

それは私が演奏者から音楽評論家或いはリスナーに転じた現在も、変わらずに河のように心の奥深くにたゆたい続けている。
 

[音楽評論] “Prométeme” – Monsieur Periné

前作のYouTube動画El Caudalでは炎の中に包まれながら愛し合う男女を切々と描いていたが、この描写が何とも官能的なのにかなしさだけが後を引く‥ その感触に不安を感じてならなかった。
ただの官能描写を超えた、人間の生存本能に強くインプレッションして来る何かを感じたのはおそらく、私だけはなかっただろう。
 
そして日本時間の2023年4月28日に新たに公開されたMonsieur Perinéの新作動画Prométemeで、彼等は内なる叫びの全貌を露わにした。
これは今の全ての地球人に向けたメッセージであると同時に、環境破壊の極限がこの星に何をもたらすのかについて予言したものだとも言えるだろう。
 


動画は静かに、汚染された湖か川岸でMonsieur Perinéの二人が音楽を奏でる場面から始まる。そして場面が緩やかに移り変わり、山荘か山小屋のような場所で二人の男女が激しく愛し合う場面が脈々と長いカットで描かれて行くが、その激しさの根底は「人間の生存本能」を言い表したものだと言って良いだろう。
 
窓の外は汚染された空気と環境だけが在る世界で、それでもわずかに生き残った人々がその過酷な環境下で生き延びる為に愛し合う。
還る場所はもうどこにもない。

愛し合った後の男女の描き方が、何とも切ない。恐らく何かの使命を負った二人なのだろう、ボンベと酸素マスクを装着し愛の素を出て行く‥。
 


タイトル『Prométeme』は、和訳で『約束して』と言う意味を持つスペイン語だ。
歌詞を翻訳アプリを使い和訳した。
 

『Prométeme』(和訳)

約束して
世界が終わっても一緒にいることを
川の水が汚染された海に到達するとき
プラスチックで泳ぐ

しかし、あなたの側
約束して
君と僕が手を取り合って 政府を打ち倒すことを
そして、この地獄の中で愛を勝ち取る
翼を置く

角のあるところ
そして、私たちは夜眠ることはありません
この混沌をムダにしよう
私たちが残したキスで

燃えるジャングルで
約束よ 約束‥
約束して

あなたが決して離れないことを
約束よ 約束‥
約束して

もし人類が滅びたら、私たちは惑星を発明するだろう
気付かないうちに裸で歩き回る
ヒッピーのように
70年代の‥

そして、私たちは夜眠ることはありません
この混沌をムダにしよう
私たちが残したキスで
燃えるジャングルで

約束よ 約束
約束して‥
あなたが決して離れないことを

約束よ 約束
約束して‥
一緒に歌うこと

 
歌詞のある音楽は、歌詞のない音楽よりもリスナーに強いインプレッションを与えることが出来る。
だがその一方で楽器のみの音楽はこの点がリスキーで、注釈を付けない限りリスナーに作者の思いやメッセージが伝わりにくい側面を持つ。

Monsieur Perinéとは全くジャンルが異なるが、ピアノのみを用いて地球の未来を予言した音楽を多数作曲し、配信しているDidier Merahの場合は、人類絶滅後の地球の光景を複数のアルバムで描いている。

特に配信時のトラブルでタイトルの最後の一文字「t」がまさにホワイトアウトに至った『Whiteout』は、人類が激減の最中に在る現在の地球の光景を描いた作品だ。
 
この作品には歌詞も楽曲解説も未だ存在しない為、曲を聴いた多くのリスナーが「心地よく眠れる音楽」として楽曲の真意に到達出来ずに居る。
まさに文字通り、とても危険な意味で「眠れる」音楽なのかもしれないが、その眠りに落ちた人々が二度と眠りから覚めない状況に在ることを未だ誰も知らない。
 


人類は多くの大罪を犯して来た。
環境保全よりも娯楽施設を建設する為の土地開発や森林伐採を、何の悪びれもなくやり続けて来たし、何より静寂と静かな時間を持つべき今も尚イベントやら職業上の理由にかこつけて飛行機や高速爆音型の鉄道を止めようともしない。
その状況をを自然の神々や精霊たちは時間の許す限り黙認し、地球のテクノロジーの進化の時をずっと待ち続けて来たが、彼等・自然神たちは我慢の限界に達したようだ。

日本だけではなく世界のあちらこちらで、大地が唸りを上げている。そう遠くない未来に日本の中心の大地が割れ、この島国の臍から幾つかに島が分断するかもしれない。東京の一部が海に沈むだろう。
 
全く別件で先日外食した先の中華料理のコックが、伊勢海老や一部の魚介類などのこれまで普通に捕れていた食材が確保出来なくなった‥ と漏らしていた。その為料理のメニューを変更せざるを得ないのだと話していた。
 
じわじわと迫り来る食糧危機のみならず、例えば原発事故の影響などで汚染された水が日本を覆い尽くして行く頃。
そこにウィルス・パンデミックと殺戮兵器と化したワクチンの強制接種から発した多くの副反応による超過死亡者の急増など、これまで人間が犯して来た罪への最後の審判が下されるタイミングに差し掛かっている。
 
生き延びられる人々は、現人口のほんの一握りである。周囲の空気に振り回されない人たちだけが、パンデミック後の絶景を見ることになるだろう。
その絶景の向こう側を暗示した作品の一つとして、Didier Merahの『Whiteout』やMonsieur Perinéの新作『Prométeme』が10年後の地球上で、どのような状態で残り続けて行くのか否か、可能ならば私はそれをこの目で見届けたいと思う。
 

最後になったがMonsieur Perinéの新作『Prométeme』は、さながら古き良き地球を振り返るような曲調に仕上がっている。
ふと、あの名曲『Sabor A Mi』からインスパイアされたのではないか‥ とも思えるし、Monsieur Perinéが過去に同曲『Sabor A Mi』をカバーしている。
 


では、最後にこの記事のタイトル曲であるMonsieur Perinéの新作『Prométeme』のMVを貼ってお別れしたい。