[音楽評論] Sergio Cammariere – “Una Sola giornata”

既に他界した日本のカンツォーネ歌手 後藤啓子さんよりご紹介頂いた、イタリアのシンガーソングライターのセルジォ・カンマリエーレの新譜がお目見えした。
暫く息を潜めていたのでどうしたのかと心配していたが、意外に元気そうで安心した。

良くも悪くも「変化しない」歌手(兼 作曲家, ジャズピアニスト)の新譜は、「安定」の一文字で評価出来るだろう。
この「変化しない」ことが意外に難しい。多くのシンガーソングライターや歌手が過剰なまでの変化を模索したがるが、リスナーはそれを案外望んでいないものなのだ。

その辺りを(多分彼自身は計算などしていないだろう‥)見事に突いて来る辺りに、むしろ本物を感じる。
 


王道循環コードで全編塗り潰してはいるものの、セルジォ独特の風通しの良さはむしろ彼のヴォーカル力の無さが為せる技。

下手で素人臭いからこそ醸し出せるこの、風通しの良さを今後も徹底して貫き通して欲しいものだ。
 

 

オススメはM-6: “se tu non mi amerai” ~以降の流れ。

[解説] “Whiteout” – Didier Merah

丁度先ほどTwitter越しにどういう風の吹き回しか、ジャズピアニストの上原ひろみ「Whiteout」と言う曲を「世界にはこんなに素晴らしい曲が沢山ありますよ。」等と言って唐突にポスティングして来た人が居た(笑)。

折角ご紹介頂いたので、一巡して聴いてみたが‥。
 

 
先方は私に対して何かの当てつけでこの曲のリンクを送って来た‥ それ以外の動機は考えられないが、作曲者同士を比較して何が楽しいのか。と言うよりDM送信者は盛んに私の「知名度」と「企業努力のなさ」等を訴えて来る。

同じDM送信者(らしき人物)はアカウントを乗り換えながら、さも多くのリスナーが私に対し上記に述べたような同様の印象を持っている‥ かのように書いておられるが、正直なところ私は、今現在の音楽シーンを下支えしている、ある種リスナーとして面を露出している人々には一切用がない(笑)。
そういうリスナーの大半がライブやコンサートの為ならば平然と飛行機にも乗り、爆音型高速鉄道にも乗車して移動を辞さないような人たちなのだから、きっとあの危険なワクチン等も接種している種族だと思われる。

何れその種の人々は、段階を追って地球からは姿を消すことになるだろう。
私はむしろその後に、それまでそっと息を潜めて生き延びて来た「静かな人々」に接近し、地球及び地球外に持ち出せる静かな音楽でそれまでの地球の音楽史を塗り替えて行きたい。
私はその為に、この困難な時代の中で一時的に活動を止めて今日に至る。
 

問題のアカウントとはその後も少しだけメールのやり取りがあり、段々と先方の嫌味が増して来たのでそこでメールを止めた。私が平伏し、客商売に徹する他のミュージシャンのように振る舞わないから、きっと不満が堰を切ったのだろう。

その後その流れでツイートした長文を、この記事にも転載しておきたい。
(以下Twitter本文より)
 

 
この作品は2021年にリリースしたアルバムHeavenに収録されている。
 
実はこの曲のタイトルがバグの影響だったのか、末字の「t」が抜け落ちたまま全てのサブスクに配信されている。
夫が最終チェックをした時は確かに「t」は抜け落ちてはいなかった。私も目視しているので、これは明らかにバグだが、それも含めてこの作品の「Whiteout」の絶妙に暗示めいたものを感じてならない。
 

ここで描いた「Whiteout」は、人類のホワイトアウトを表現したものだ。つまり「今」現在の状況を予言した作品と言える。

希望と絶望、前の見えない未来‥、まさしくホワイトアウトがこの作品で脈々と描かれている。

 
音楽的には音色の繊細さと、あるべき音やハーモニーを限界ぎりぎりまで温存させる為の長いペダリングに注目頂きたい。

楽器のアタック音のうるさい動作を一切用いずに、聴く人の心拍数を穏やかに下げて行く速度感は、この時代の音楽に相応しいだけではなく未来のクラシック音楽として長期間残り続け、そしていつか宇宙からの来訪者に向けた音のギフトとしても最適だろう。

何もかもが消え行く吹雪の風景になぞらえた、実は「消え行く人類」についての預言(予言)をそっと綴じ込んだこの一曲は、音の未来予知と言っても過言ではない。
 
本文はここまで。
最後に私 Didier Merahの「Whiteout(サブスクでは全て表記の “t” が抜けている)」を掲載しておく。
 

 

Silvia Pérez Cruz – Nombrar es imposible (Mov.5: Renacimiento)

シルビア・ペレス・クルスは、現代カタルーニャ音楽を代表する歌姫だ。職歴欄には「40才の歌手・女優」と書かれてある。

どういうわけか私は歌手が歌う歌よりも、女優が描く音楽の世界が昔から好きだった。

女優と言う生き物はどのような世界に居る場合に於いても、どこか一歩引いた俯瞰目線を持っているように思う。その「一歩引いた感覚」が歌手にありがちな強引でエゴイスティックな表現からうんと遠ざかり、「いつでもこの世界から私は逃げ出せるのよ‥」とでも言うような、ポジティブな意味合いでの「引き」の表現がきっと私にとっては心地好いのだろう。

そんな彼女 Silvia Pérez Cruz(シルビア・ペレス・クルス)が2023年3月3日に配信した動画 『Nombrar es imposible』 がとても美しい。
  

 
『Nombrar es imposible』 のMVは、ハバナ(キューバの首都)を舞台に繰り広げられる。
忙(せわ)しさとは一線を画したこの動画の中の時の流れが、兎に角心地好い。少しノスタルジックにカラグレされた動画の彼方には今ではない、どこか過去の思い出の中にしか存在しないような海や街の風景が広がって行く。

それらはもうどんなに頑張ってもあがいても手に入れることの叶わない、遠い時代の夢を見ているように美しく居心地が好いのだ。

シルビアはスペイン出身の歌手だが、よく聴いているとどこかフォルクローレとかアルゼンチン・タンゴ等のエッセンスを感じてならない。
この曲では分からないが彼女の過去作品を捲ってみると、特にフォルクローレ色の強さを感じる幾つかの作品に出会うことが出来る。
 

 
音楽は、極力先入観を捨てて聴くことが望ましい。

例えばこの歌手 シルビア・ペレス・クルス の生い立ち等を含む人物情報を先に頭に叩き込んでから彼女の作品に接すれば、どうしても先に文字で読んだことが脳裏をもたげるから彼女の作品はリスナーの中で頑固に「スペイン音楽」と言うフィルターの執念に、結局のところ振り回され続けるに違いない。

私は彼女の生い立ちについての情報を、この記事を書き始めるまでは一切読まずにいた。勿論シルビアの音楽に触れるのは今日が初めてだったので、それが出来たのかもしれない。

だとしてもどこどこの国の何と言うジャンルを演る人‥ 等と言う先入観が時として、音楽を正確に把握する上では仇となることが多いわけで、私は音楽評論家として知識よりも感覚を重視しながら評論する数少ない音楽評論家の一人で在りたいので、したり顔で知識人ぶらないことに決めた上で、今日に至る。
 

 
今私は上に掲載した彼女の過去アルバム『Farsa』を聴きながらこの記事を執筆しているが、M-12intemparieはどこか美しい表現に凄まじさが加わって激しい。
バックは何と、フレームドラムだけ。そこに彼女のヴォーカルが淡々と乗って行く。

不意に、メソポタミア文明時代の神殿が目の前に広がって来て、時間の感覚が喪失して行く‥。

歌詞に興味のある人の為に、Linkを貼っておくので、是非和訳にトライしてみては如何だろうか‥。
神話のような内容の歌詞が私に、メソポタミア文明時代の過去世の記憶をインプレッションした可能性を捨て切れない。

https://genius.com/Silvia-perez-cruz-intemperie-lyrics

 
この一人の音楽家を語るには、まだまだ時間が足りない。だが私はこの後にもう一つ用事を抱えているので、そろそろ執筆をお開きにしたい。

この記事の最後に記事タイトルの曲Nombrar es imposibleのMVを掲載しておく。
タイトルを英訳すると「naming is impossible」と翻訳される。「名前を付けるなんて無理」と和訳すれば良いだろうか‥。
 

発想の転換 [NewJeans(뉴진스) – Ditto / Plastic Love (Citypop ver.)]

これは恐らく二次創作にカテゴライズされる代物かもしれない‥ としても、その中でも面白いことを考える人が居るものだ。

バッキング(伴奏)は竹内まりやの「Plastic Love」のKeyチェンジされたオケ、ヴォーカルのラインがNewJeansの「Ditto」
何とも荒業なのに、これが妙にマッチするのはひとえに「Ditto」のメロディーが頑丈に出来ているからだろう。
 
「Ditto」と言えばさっき、偶然ではあるがBoysチームのダンスカバーの動画を見つけた。
動画配信者であるチームのTKBzを少し調べてみたが、詳しい情報を探し出せなかった。
 

 
男性が女性のモノマネをする時、往々にして女性的な仕草の部分だけを若干長めのTimeとオーバーアクションに転じることが多いが、彼等TKBzや最近私が推しているおじさんチームのODOOJIもそこをキュートな笑顔と手の「にゃん‥」ポーズ等で小気味好い表現に抑え込んでいる辺り、両者一歩も引けを取らないクオリティーだ。

言うなればこれは現代人の感性の兆候として、段々と感覚(感性)の男女差が縮まって来た現象の一つと言えるかもしれない。
 

 
このところ音楽紹介や音楽評論の発信が上手く出来ていないと感じているが、その要因の一つとして、特に2020年の秋以降世界の良質な新譜が激減していることが挙げられる。

それまでの過熱気味の配信が新型コロナウィルスに端を発するパンデミックや、各地で勃発したコロナ規制等の要因で、それまでコンスタントに活動していたアーティストやミュージシャン及びバンドやユニットの活動にも同時に制限が生じたからだろう。
世界各国で楽曲やダンスのカバー動画が増えた要因も、恐らくこの辺りにありそうだ。

自らものを考え生み出す思考サイクルが、私も含めこの数年間で圧倒的にかき乱された感が拭えない。
‥ならば手っ取り早く誰かが作った作品をカバーして、それをアーティスト等が生存証明代わりに代用したとしてもそれはそれで文句は言えない‥。

大のカンツォーネ好き、Dub好きの私が特に昨年初頭から良質な新曲に出会えなくなり、最近ではもっぱらNewJeans周辺の動向調査に集中している私‥。
先週も今週も、そもそも好きだったイタリア~スペイン周辺からの新譜は皆無だ。

その代りにアジア周辺が賑やかだ。
 

 
世界中が春を探し求めている、2023年。
だが、良かった頃の春はもう二度と訪れないだろう‥。

コロナが全てを変えたのではなく、そこに至るまでの人類総勢のアクティビティーに要因が潜んでいる。
私たち人類は、やりたいようにやり過ぎたのだ。だから大気が汚れ、多くの木々が伐採され、それにともない地球全体の環境のバランスが大きく乱れ、水温は上昇し四季のサイクルが壊れてしまった。

昔のような四季を再び取り戻すには、行動と祈りの両方の側面から調整を進めて行かなければならないだろう。
この両輪が揃わなければ恐らく、地球は自らの意思で破滅の未来へと進んで行く。誰かが何とかしてくれる‥のではなく、各々が自分の意思で地球の意識と向き合って対話をしながら、地球のモチベーションを再度向上させる為の手助けをする必要がある。

その為には静かな音楽、静かな時間、澄んだ空気を地球上のテクノロジーの力を借りながら創造~リサイクルし、昔の人類が地球の環境に深く励まされ癒されたように、次は人類がその逆の作用を地球の意識に向けて発信しなければならない。

さて、この記事の最後に、タイトルチューンのNewJeans(뉴진스) – Ditto x Plastic Love (Citypop ver.)の動画を貼っておく。
これはあくまで「発想の転換」とでも言うべき、人や意識の繋がりを疑似的に言い表すように、2つの楽曲を組み合わせて音源をリサイクルしている一つの例と言えるだろう。

視方を変えると非常に暗示めいた‥ とでも言うべき内容で、同じ借り物同じ二次創作でも、こういうやり方があるのだなぁと勉強させられる。

80年代の日本のシティポップと現代の若きK-POPのニューフィエイスとの、香しい遭遇とでも言うべきハイブリッド・ミュージックである。
 

 
追記:
上記の動画NewJeans(뉴진스) – Ditto x Plastic Love (Citypop ver.)を配信しているYeguguが、何と同曲を自身でカバーしている動画が配信されていた。
その空気感がとても軽やかで、何より音楽を心から楽しんでいる表情と飾り気のない歌声に好感度Max。

そちらもここに貼っておくので、是非お楽しみ頂きたい。
 

バラを探せ – Cherche la rose (Henri Salvador)

ある古い知人から「日本にも素晴らしいライブがあるんですよ。」‥といきなりメールを頂いたので、そのリンクをクリックして該当メニューを応援購読。
以前深く関わりのあった女性歌手 S子さんがゲスト出演していたライブだが、正直全く期待をせずに試聴ボタンをクリック。

ピアノとフルート、男性二人のDuo演奏で開幕するが正直演奏も固くぎこちなく、何より音楽として全く美しくない。
この二人のバックに仮にどんなに世界有数のオペラ歌手が乗ったとしても、正直ろくな音楽にはならないだろう‥と言う予感が数分後、見事に的中した。

かつてマリーンがメジャー歌手からライブ歌手、つまりは夜店を毎日転々として歌い続ける歌手に転職した時のショックと言ったら、それは言葉に出来ない程だった。
名前は出せないが私の知人でかつての共演者でもある「歌手 S子」はそのクオリティーにも満たないレベルで、何より10年前よりも声の劣化が著しいことに驚いた。

勿論「歌手 S子」の表現力は夜店の客の間では高く評価はされているものの、(私の感覚で聴くに)彼女の表現は正直音楽として成立していないので、この記事ではその歌手関連の出演動画のリンクの掲載は差し控えたいと思う。

その「歌手 S子」が自信たっぷりに歌う彼女のレパートリーの一曲に「バラを探せ – Cherche La Rose」と言う名曲があるが、かれこれ15年近く前にこの作品を夜店で聴いた時には何が何やらさっぱり理解出来なかった。

以来私はこの作品の原曲にずっと触れて来なかったので夜店歌手等が一体何を歌っているのか‥、皆目見当が付かなかった。
だがやはり原曲のチカラは凄まじい。昨夜、ようやくこの作品の大まかな意味を把握するに至った。
 


アンリ・サルヴァドール。名前こそフランス人のそれだが、彼をフランス人のシャンソン歌手だなんて思ってはいけない。
この人の音楽の中には常に、地中海の海と潮風の香りが漂い、それはシャンソンでもフランスでもない、かと言って南米のそれとも違う無国籍かつ多国籍なニュアンスを血の中に存分に煮えたぎらせる人と認識した方が良い。

それは彼がどこにも受け入れられずに得た、ストレスに端を発するものとも言えるだろう。
この記事を書いている私がそうであるように、この独特の無国籍感(多国籍風情)のエレメントは、似た境遇とか近しい血の匂いを持つ者でなければ到底理解には至れない。

歌詞は極めて抽象的に描かれているが、要約すれば「どのような辛い境遇・逆境の中に在っても、そこに一輪のバラのような光を探し当てた者が光の扉の鍵を得られるに違いない‥」と言うような意味になるだろう。
とても哲学的な内容が描かれており、それは表層の文字を各自が母国語に翻訳しただけでは再演もコピーも出来ないほどの深い描写に到達している。

本記事冒頭でも述べたように昨夜「歌手 S子」の同曲を聴いた時、十数年前に聴いた時以上のショックを受け酷く胸糞が悪くなったので先ほど、原曲を探して記憶と情報を上書きしたが‥(笑)。

とても興味深かったのは、下に掲載するスペインの歌手・俳優・作曲家の Alfonso de Vilallonga( アルフォンソ・ヴィラジョンガ)がカバーした同曲。
特に私はこの人の表現以上に、ピアノのコード・プログレッションに夢中になった。

「歌手 S子」のライブ動画の中でも男性ピアニストが同じ曲を伴奏しているが、それはあくまで楽譜通りにコードをぎこちなく追っただけの音声に過ぎない、とても稚拙なもので表現にも作品にも至らない代物だったが、アルフォンソ・ヴィラジョンガのカバーの背後で演奏されているピアノのグラデーション・コードチェンジは圧巻だ。

フランス音楽とジャズのハイブリッドと言っても、過言ではない。勿論ヴォーカルの表現も素晴らしい。
 


そこはかとなくラヴェル辺りの近代音楽の香りを纏わせながら、銅線を這うようなアルフォンソの細く老いた声質の「バラを探せ」が彷徨うように心の奥の秘境を這う。

日本人歌手がどんなにベテランだ古株だなんだかんだと言ったところで、肝心要の「己はただのコピー機に過ぎない」と言うある種の謙虚さを歌手自身が持てない以上、ただの騒音に過ぎないので掃いて捨てる他の方法は無いだろう。

どっちみちシャンソンやカンツォーネに於ける日本人のコピー音源(再現)は、もはや不要だ。
本物や原曲の記録が音のサブスクリプションで堂々聴ける時代になったのだ。ならば原曲の記録だけがあればじゅうぶんだ。

万が一コピーやカバーを超えようなどと言う気概のある人が居るならば是非、わたくし 花島ダリアの辛口きわまりない音楽評論の洗礼を受けてから、先へ進むが良い。
 

‥と言うことで、この記事の〆には原作者 アンリ・サルヴァドールの原曲を新たに再編曲 & リマスタリングされたと思われる『Cherche la rose (Remasterisé en 2021)』をシェアしたい。
ここは好みが分かれるところだが、どこかしこにここ数年世界的に大爆発傾向にあるシティポップのエッセンスを足したような、ライトなニュアンスが私は好きだった。

ベースラインが若干重た目で、低音が骨盤を刺して来る感じの刺激がたまらない。是非本物をご堪能あれ。
 

蘇る岡田有希子 – Yukiko Okada – Summer Beach (Night Tempo Showa Groove Mix)

「岡田有希子」を検索すると、以下のようにWikipediaに書かれてある。

岡田 有希子(おかだ ゆきこ、1967年〈昭和42年〉8月22日 – 1986年〈昭和61年〉4月8日)は、日本のアイドル歌手である。本名は佐藤 佳代(さとう かよ)。
Wikipedia より


岡田有希子はたった19年の命を、駆け抜けるように生きてこの世を去った。

あの日のことを私は、今でも忘れることが出来ない。
丁度レコード会社へのデモテープの持ち込みを済ませて急いで母校の学生ホールに戻った、その直後に学生ホール中に彼女の訃報が駆け巡った。
さっきまでとても近くを歩いて、2~3社のレコード会社のディレクターたちと歓談し、大学の午後の授業に間に合うように京王線の急行と普通電車を乗り継いで階段を駆け上がって来たところだった。

記憶では前々日辺りに、彼女のニューシングル曲を某TV局の歌番組で視ていた時、妙な胸騒ぎがしたことを覚えている。
当時未だ私の弟も生きており(享年47才で逝去)、TVを視ていた彼が放った異様な一言を私は今でも忘れない。

確かに重いステップ、かなしげに目を伏せる表情は、それまでに彼女が一度も見せたことのないものだったから‥。
 


丁度この作品(くちびるNetwork)の作詞を担当した松田聖子は、数年前に愛娘を失ったばかり。
あの華やかさとは裏腹に、松田聖子の周辺には当時から陰鬱な空気や想像し得ない出来事や噂が、狂った花びらが宙を舞うように飛び交っていた。

美しい人の死は、概ね真実を遠ざける。
生前の彼女たちの華やかさだけが歴史に留まり続け、真相はいつも藪の中に置き去りにされたまま。それらはひっそりと、芸能界の片隅に積もって行く。

岡田有希子と言えばルックルや歌よりも、彼女の描く絵画の世界がさらに彼女を眩しく引き立てたものだった。
多才な彼女がこの世を去るにはきっと、それなりの理由と動機があったに違いない。その多くを知る人と言われる峰岸 徹(俳優)も、2008年にこの世を去った。

そんな中、韓国のDJ Night Tempo が岡田有希子の『Summer Beach』のリミックス版をリリースした。

日本人とはやや、生死観の異なるお隣の国のサウンドメーカーだから、これは出来ることなのだろう。何事もなかったように、普通の、ありふれたシティーポップの中の一曲を軽やかに拾い上げるようにして、少しビートの重いミックスが施されたSummer Beach (Night Tempo Showa Groove Mix)が再び、岡田有希子の精霊と共にこの地球の大地を踏んだ。
 

Summer Beach(原曲)
作詞・作曲:尾崎亜美 編曲:松任谷正隆


こうしてリミックス版が蘇ると、逆に岡田有希子のヴォーカルの上手さがよく分かる。
子音が強すぎないのに正確なリズムアタック、発音が美しく正確な日本語の発声の中から、彼女の持つ古風な性格がじんわりと滲み出て来る。
抑揚を最小限に抑え込んだ、かと言ってけっして不愛想ではなく地味で可憐なボーカルは完璧なまでに個性を脱ぎ捨てており、10代にして既に普遍的な歌手の域へと到達している。

さらに、如何にも「昭和のアイドル」を地で走り込んでいる最中の岡田有希子を、尾崎亜美のつかみどころのないメロディーと歌詞がオフホワイトのレースのように包み込んで行く。

丁度時同じくして、当時のサン・ミュージックの社長 相澤 正久 氏とは幸運にも私は二度お目通りが叶ったが、松田聖子の独立問題がそろそろ業界で噂になり始めた頃だっただけに、相澤氏の岡田有希子に対する熱の高まりを部外者の私でさえもつぶさに感じたものだった。
 

 
最近でこそアイドルの恋愛に対する注目度は、やや生温かいものに変化しているものの、未だ「アイドルの恋愛禁止条例」はそれが当たり前のこととして、多くのアイドルフリークの中では棘のように尖がったまま健在だ。
昭和のアイドルならばそれはなおさらのこと、「アイドルの恋愛禁止条例」は当時の若い表現者たちの人生のみならずメンタルまでもがんじがらめに縛り上げて行ったに違いない。

岡田有希子さんの死因の裏には、色々な噂や出来事が暗躍しているが、それはもはや時効を迎えたも同然だ。
今も未だ生き残っている関係者やその周辺の人たちでさえ真相を口ごもっているには、歴とした理由がある。‥これ以上はもう何も申し上げられない。
 

 
この記事の最後に「くちびるNetwork」のYouTube版を貼ろうかどうしようか迷ったのだが、如何せん楽曲が余り好くない。
なので岡田有希子 with Night Tempo のもう一曲のリミックス、ファースト・デイト (Night Tempo Showa Groove Mix)を貼っておきたい。

もう直ぐ彼女の命日がやって来る。
春風のその彼方から、彼女がもう一度生まれ変わって来る日を待ちながらこれから何度桜の花が咲き乱れ、散って行くのだろうか。

『ファースト・デイト』 作詞/ 作曲: 竹内まりや

 

坂本龍一「12」- けっして心地好いとは言えない音楽

少しだけ応援しているユニットの作曲担当の男性が坂本龍一のニューアルバム「12」を聴いている‥とツイートしていたので、私は別の意味を込めて同アルバムを視聴している。
とりとめのない各音楽の上に、坂本が思う「特別な日付け」がタイトルに乗っている。

音楽にはそれぞれ(きっと)誕生秘話があると思うが、さしずめこのアルバム全体を見回すとそれが彼自身の未来を指し示すようなダークな楽曲が並んでいるので、きっとそういう意味の音楽を集めたのだろう‥。
正直私はこの世界観には参加したくないと感じる。
 


表現とは、素直に越したことはない。
技を見せつけんとして本当ならばすんなりサブドミナントからドミナントに移行すれば好いところを、あえてそうはせずに不協和音なんかを入れてコード進行やメロディーをこねくり回してみたりする‥。
そんな作曲法が「知的な作曲技法だ」等と持て囃されたのも、かれこれ3~40年も前の話。そうやって練り出された音楽の大半が土に還り、現在に至る。

思うに坂本龍一は上に書いた時代を疾走した一人であり、当の彼自身が「素直ではない音楽の世界」に背を向けて時代を逆光していた。
 
だがそんな坂本龍一が自ら、かつては背を向けた筈の時代の溝に立ち返って来たのは何故だろうか‥。

ニューアルバム「12」のM-8 “20220302 – sarabande” からは、淡々とピアノ曲が並ぶ。どこかハンガリーの作曲家 バルトークのようでもあり、その音色が段々とM-10 “20220307” に向かって壊れて行く。
 


音楽を娯楽として認識する人もあれば、「叫び」或いは「世への訴えかけ」として扱う人も居る。中には「祈り」を音楽に乗せて飛ばす芸術家も存在する。
勿論どれもありだが、少なくとも大自然の中でその音を鳴らした時に心地の好くない音楽を、自然も宇宙も受け入れることはないだろう。
その意味に於いては、坂本龍一のニューアルバム「12」は、大自然も宇宙も毛嫌いするアルバムと言っても過言ではないだろう。

あくまで彼「坂本龍一」にカリスマ性を感じて止まない人たちの為だけのグッズであり、これを音楽と呼ぶことは少なくとも私には出来ない。
その意味ではこのアルバム「12」を(極端に表現すれば)「宗教グッズ」とでも言った方が、より正確かもしれない。

特定のシチュエーションにしか通用しない「音の羅列」を、私は「音楽」とは呼ばないことに決めている。音楽とはもっと普遍性を帯びるべきであり、いかなるシチュエーションに於いても受け入れられるよう在るのが理想的だ。
 


YMO解散後、坂本龍一は映画音楽の作曲に長い時間を費やして来た。映画音楽は映像や俳優、映画のストーリーに主役が渡る為、どうしても音楽はそれらの背景以上の効力を発揮出来なくなる。
脇役として主を引き立てる為に多くのジングルも作成しなければならず、その蓄積が余り好くない形でこのアルバムに反映された感は否めない。
 
野菜の浅漬けが単体では食べられず、どうあがいても白米がそこに無ければ浅漬けも引き立たない、それに似ている。
このアルバムにはどうしたって「映像」が欲しくなる。映像が無ければ如何せん喉が渇いて渇いて仕方がない、そんなアルバムだ。
 
最高の音楽とは「Simple is Best.」を極めたものだと、私は思っている。
シンプルなものは絵画でも料理でも彫刻でも舞踏でも、勿論音楽に於いても、そこからあえて「個性」の部分だけを綺麗に拭き取った痕跡が視て取れる。

坂本龍一のアルバム「12」が上の条件を満たしているかどうかについては、この評論の読了後に各々の素直な感覚で是非とも確認して頂ければ幸いだ。
 

坂本龍一 “12” (Spotify)

時を超える音楽 – 吉田美奈子編

過去に別名で何度か吉田美奈子を取り上げ音楽評論記事を書いたことがあった。勿論美奈子氏のご機嫌を思いっきり損ねる内容の評論記事だった為、その後間も無く私のメインのTwitterのアカウントが彼女のオフィシャルアカウントにブロックされた‥ と言う逸話は、今でもどこかで日々囁かれているようだ(笑)。

先日美奈子氏と親しいと言う人物から、某SNSのメッセージスペースにDMが舞い込んだ。

「何故あなたは、あの素晴らしい美奈子氏を認めないのか?」と言う、或る意味素朴な質問だったが、逆に何故現在の彼女をどのようにしたら音楽家として、表現者として認識出来るのかについて私はその人物に問い返したい衝動に駆られた。
だが実際問題そのような質問は愚行として日陰のスペースで語り継がれる素材を与えかねないと判断し、質問返しはしないでおいた。
 

人には色々な老い方があるだろう。それは私自身も現在その途を辿っている最中なので、身に沁みて理解出来る。
特に50代以降の「老い」「スキルの劣化」の原因として挙げられるのが、「介護問題」ではないだろうか‥。私のよく知るシャンソン歌手の中にも、それは多数見られる。
 
多くの表現者たちがぶち当たるこの、介護問題を機とした実質的な休業問題は、各々表現者たちのその後の人生を大きく左右する。
吉田美奈子氏の場合がどうだったかについては分からないが、最近の美奈子氏のTwitterに彼女の母の逝去についてのツイートが多く見られたことからも、恐らく‥ と言う大方の察しはつく。
 
そんな吉田美奈子がジャズに飽き足らず、次はシャンソンに手を伸ばすようだ。勿論上のTwitterで告知されているイベントは未だ開催されていないので、そのLiveに必ずしもシャンソンの楽曲が登場するか否かは今は未だ決定事項ではない、としても‥。
 
Japanese R & Bの創造神と言っても過言ではなかった吉田美奈子氏が、最近は別の人が書き残した楽曲のなぞり返しを繰り返している。
多くの美奈子フリークの中には恐らく、若かりし頃の饒舌な彼女の音楽がしっかりと根付いている筈だ。それを老いた吉田美奈子がジャズやシャンソンで上書きしようともがいているようだが、所詮他人の作品を再演している以上原曲や原曲者を超えることは不可能だ。

スタンダード・ミュージックには解釈の相違だとか、そのような楽しみ方があるのは百も承知だが、美奈子氏の名曲とも言われる「Lovin’ You」「TOWN」「Rainy Day」を超える名作が今後彼女から紡ぎ出されることは無いのかもしれない。
 


私は実質上彼女のSNSのアカウントのみならず吉田美奈子自身からアク禁されているようだが、それでも私は絶頂期の彼女の音楽性や人としての彼女を今も愛している。
気分がどうの、機嫌がどうの、その時何があったからどうの‥とか、そういうものを余裕で超えさせてしまう力がもしも彼女の音楽に在るのだとしたら、その部分に於いては素直に私は受け入れるし、認めて行きたい。
 
だが皮肉にも彼女・吉田美奈子は私が愛した頃の彼女自身を、もう二度と取り戻すことは出来ないだろう。
その点を私が音楽評論でブッた斬ったことには、実は大きな理由が潜んでいる。

現在の彼女が過去の彼女を超える方法を、彼女が知らない(或いは気付いていない)ことが厄介なのだ。私は彼女が過去の彼女を超えて行く方法を、実は知っている。
Japanese R & Bの創造神だった彼女がもしもその方法に気付いていないとしたら、むしろ現在の彼女の劣化した表現力よりもそちらの方が闇が深い。

過去の彼女を現在の彼女が超えて行く方法については、あえてここでは明かさない。
吉田美奈子氏が真剣にそのことに悩み、気持ちを新たに私の前に首を垂れて来るような事態が実際に起きた時に、その時の彼女の様子を目で確認し、彼女の心の内側を私が実際に読み出した(いわゆるリーディング、もしくはチャネリング等)時に、その後の行動について考えるのがベターだろう。
 


現在の吉田美奈子氏にベタで付き添っているミュージシャンの一人がこの人、石井彰氏だ。美奈子氏はこのピアニストが好きなのか、伴奏形態が現在の彼女にとって居心地が好いのかの何れかの理由で彼をサポーターとして採用しているのだろう。

私も美奈子氏のマインドには興味も関心もあるので、石井彰氏について以前から若干リサーチしていた。‥なぜリサーチが「若干」のまま更新されないのかと言う理由については推して知るべしで、この演奏者の表現やジャンルそのものに全く魅力を感じない為、数分の動画を見終えることが出来ないからだ。

二番煎じの音楽、これはジャズもシャンソンもカントリーやその他の「スタンダード」と呼ばれる全ての音楽のジャンルが持つ負の特性だ。
なにせ私も20年近くこの「二番煎じの音楽」にどっぷり身を浸していたわけだから、酸いも甘いも知り尽くしていると言っても過言ではない(笑)。

上記のようなジャンルに一度潜り込んでしまうと、新しい光の中に飛び込むことを体も脳も拒むようになって行く。
「誰か」が作った、既にブランディングが完了している楽曲のパワーに依存するところに再演の意義を感じるようになり、新しく生まれて来る作品や作者のスタンスを「軽んじる」感覚がいつしか身に付いて行く。
 


話が脱線し過ぎるといけないので吉田美奈子周辺の話題に戻るが、少なくとも現在の彼女がこのグッチャグチャな「ジャズ」とか「シャンソン」等のジャンル、或いは石井彰氏を本気で高く評価しているとは、何故か私に思えない。
どう見ても演奏者として価値が高いのは、過去の彼女と深く関わり尽くしていた倉田信雄の方だ。
 


そして上の動画『TOWN』の立役者として、ギターの土方隆行、ドラムの村上 “ポンタ” 秀一は生涯外せないだろう。
そのことに吉田美奈子氏が気付いていない筈は無いだろうから、その上で現行の二人の夜店系のジャズ・ミュージシャンをあえて彼女が自身のLIVEに起用しているのだとしたら、その段階で彼女は自身の劣化と向き合わなくてはならない。
 


時を超える音楽の定義について私は10代の頃からずっと考え続け、その理論や手法を練り上げて今日に至る。それは私のメインの活動の中に多数記録してあるので、是非そちらを見て頂ければ幸いだ。
呼吸法、心拍数、脈拍の捉え方、打鍵の速度(ピアノの場合)~音と音との間隔の取り方や紡ぎ方から残響の尾っぽまでのタイム‥等、これは挙げればキリがない。
 
この手法を現在用いて音楽活動を行っているのは私がメインで配信している音楽だけで、仲間を探してはいるものの活動15年目にして未だナカマが見つかっていないのが現状だ。

だが私が行っている技術や手法や音楽理論等をもしも吉田美奈子氏が自身の音楽に投入すれば、現在の「どうでもいい音楽」を演り続けている彼女を彼女自身の力量で卒業することも夢ではないだろう。

ものの「ジャンル」は自身で作り出すことがベターであり、ベストなのだ。その為には数年間活動の遠回りをすることも辞さないが、その分の将来的なリターンは大きなものになるに違いない。
むしろ私が望んでいるのは、大きなリターンを手中に収めた時の吉田美奈子氏自身であるが、彼女が余計なプライドを振りかざして最大の助言者(預言者)を永遠に敵に回し続けるようであれば、先に彼女の寿命の方が彼女をリセットして行くことになるだろう。

それが目に見えているから私は何とか吉田美奈子氏本人に果敢にアクセスして行った時期もあったが、それが夢に終わろうが終わるまいが彼女自身の音楽人生は美奈子氏自身が決めることだから、私はこうして遠くから嫌われ者として吉田美奈子氏を静かに鼓舞し、応援し続けることしか今は方法が無さそうだ。
 

この記事の最後に私の中の吉田美奈子の「神Live」の動画から、「LOVING YOU」を掲載しておきたい。
この神々しい彼女の声とマインド、ミュージシャンの手堅い音と空間のサポートの数珠繋ぎの光景こそ、Liveに留めておくべきではない。
 
まさにこれぞ、「神」である。
 

NewJeans (뉴진스) ‘Ditto’ [sideB] MV評論

韓流若手ガールズグループ NewJeans (뉴진스) が、YouTubeに新譜「Ditto」のMVを公開した。このMVは私が知る限り2種類存在するが、両方共にとてもダークで内容が重い。
勿論見方や各々の心情解釈にもよるが、どう見ても明るい表現がされたものとは言い難い。
映像全般がMVと言うより、むしろホラー映画を彷彿とさせる構成(或いは映像の質感)になっている。
 


左腕に太い包帯を巻いた少女がホームビデオを片手に、クラスメイトがダンスを楽しむ様子を撮影して行く。その合間合間に一人の男性がクローズアップされ、その男性も少女の存在を意識している。
 


軽快で無機質なパーカッションが楽曲全体を先導し、極めて明るいメロディーとコードプログレッションで楽曲が進行して行く。

MVはと言えばNewJeansの5人が高校生に扮し、制服姿で学生生活をエンジョイする姿が包帯少女のホームビデオに収められて行く進行になっているが、高校生に扮するNewJeansの5人は殆ど少女とは目が合わない。
 


場面場面が日常生活にはあり得ないようなアングルを絶妙に捉え、ともするとそれは生きることへの絶望をも意味しているのではないか‥ と言う明確な表現へと突き進んで行く。
 


楽曲はとても明るくリズミカルだが、映像の空気はどこかこの世のものではないような匂いが立ち込めている。
ヒントがあるとすれば、楽曲冒頭から断片的に表れる女性の裏声のハミングではないだろうか‥。黄泉の世界から届くシグナルのようにその声はとても濡れて切なく、木霊を放つ亡霊のようでもの悲しい。
 


生命のよろこびとは真逆の世界を、NewJeansと言うハイティーンの女の子たちが無頓着に歌う様は、どこかお気に入りのマニキュアを乾かしている時の危険な風の匂いに思えて、途中からめまいがして心が重くなる。
気を失いそうになりながら、何度も何度も画面に触れながら動画を見進めて行く‥。

むしろこれまでに感じたことのないシュールな感覚‥ 例えばいきなり霊感が開花するような恐怖を沸き立たせ、中盤以降のMVの意味が各々の中で全く別のものにすり替わって行くように思えてならない。
 


そしてこの、壊れたホームビデオ機器の映像は一体何を言い表しているのだろうか‥。絶対に声にしてはいけない何かが、この映像の最も強烈なインパクトとなって動画全体を埋め尽くして行く。
 
少女にとって将来を絶たれた瞬間か、失恋のショックを表す心情なのか、或いは絶望か、それとも包帯の少女がこの世には既に存在しないことを表すこれは、ひじょうにネガティブなメッセージのように思えて、それがやがて確信を帯びて心を押し潰そうとするのだ‥。
 

 
アングルは益々ダークな内容へと加速し、草の陰から5人の内緒話を見つめるようなこの瞬間にまで到達すれば、恐らく誰もが良からぬメッセージを心に受け取り息を呑むに違いない。
 


最後の最後に登場するこの鹿だけが、真っすぐに少女と目が合っている。
日本では鹿は「神の使い」として象徴されるが、恐らくその辺りをこのMVでも間接的に表現したかったのではないだろうか‥。

このご時世。物騒な記述にはなるが今、ここに来て多くの人々の心身に異変が起きている。明日が全く見えなくなって来た。
若い世代の人たちが未来の見えない世界を生き抜くことは、これ以上の苦痛がないほどのあまりに悲しいサバイバルだ。
 
もういいよ、一緒においで‥。そう言っているように一匹の鹿と一匹の猫が現れ、少女の心を少しだけ解きほぐすのだが‥。
 

 
動画3:12辺りから、楽曲のないシネマ仕立ての後編が始まる。
少女の左手には包帯はなく、誰もいない部屋で少女は一人思い出のビデオを見始める。
その時のこの目が何とも言えず、重苦しい時間を飲み込んでそのまま凍り付いたように動画を見ている。

4:03から後は、恐らく亡霊が思い出を見つめる設定で撮影されたのではないだろうか‥。
思い出はいつもキラキラと輝いて、この世界に希望を感じられない者の心を締め付け、さらに人を絶望へと追い詰めて行く。
 

 
もしかするとこのMVは近日中に、問題作として広くメディアに取り上げられることになるかもしれない。

‥必ずしも楽しくワクワクする表現だけが作品とは言えず、言葉を持たない者の心を代弁するような、まさにこの動画のような作品があってもいいと私は思うのだが‥。
 

この記事の最後には、NewJeansの新作 ‘Ditto’ のMV – sideBの方を貼っておきたい。
映像監修はシン・ウソク (Wooseok Shin) 氏。
 

Merry Christmas Mr. Lawrence/ Ryuichi Sakamoto

2022年12月12日 21時、YouTubeチャンネルcommmonsより、シリーズ「Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022」第一弾としてMerry Christmas Mr. Lawrenceが配信された。
丁度その時刻に私は別ジャンルのブログを仕込んでおり、リアルタイムでの視聴は出来なかったが、数時間遅れでその音色に追い付いた。

坂本龍一氏は現在ステージ4の癌を患っており、闘病中の身だ。画像にはその状況が色濃く映し出され、筋肉を失った坂本氏の陰影や演奏中の指先の様子までが克明に記録されていた。
 

 
昭和世代の音楽家等にとって彼は、人生になくてはならない存在だ。まして私とはほぼ一回り違いの彼は、まだまだ老いるには早すぎる年齢だった筈‥。

丁度5日前の同じチャンネルに上がって来たメッセージ動画Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022 – messageの中で坂本は、お得意のにやけ顔を全て封印し、真顔で自身の病状や体力に関する現状を説明しているが、坂本がかなり深刻な状況に置かれていることは誰の目にも明らかだ。
 


少しだけ話題が脱線するが、フランソワーズ・アルディーの有名なシャンソンに青春は逝く(もう森へなんか行かない)と言う名曲がある。
マイナー(moll)の悲しげなコード展開の中に、意外にこざっぱりとしたメロディーが淡々と歌われて行く。

美しい春の梢に包まれている時の人は、その尊さに最も疎くなる。
今日も、明日も、同じ場所に今と変わらぬそよ風が吹き抜けて行くと信じている。その錯覚が「今」「現在」に対して、人を緩慢にさせてしまうのかもしれない。

失ってみてから「あの時」を振り返る方が、「今」それを思うよりもきらきらと眩しく輝いているのだとしたら、時の流れは余りにも残酷過ぎる。
 

 
筋肉の落ちた美しい手が映し出すのは、未だ枯れることを必死で拒んでいる坂本の心の奥底だ。

「戦場のメリークリスマス」は巨匠の速度で、しめやかに進み始める。
「まだ行かないで」と声を涸らして叫ぶ少年のようで、足取りは重くうつろで、少年はきっとそこからやがて一歩も動けなくなるだろう。

これは私の憶測だが、恐らく演奏収録時の坂本はピアノの打鍵の重さをかなり軽めに変更したのではないかと、動画の随所から感じ取れる。
殆ど筋肉を使わず、骨と手の重さだけで鍵盤を押しているように見えるからだ。

坂本がもしも闘病中でなければ私は、この演奏をもっと酷評したかもしれない。だが私も同じ音楽家として、現在の彼の体力と気力でこの演奏を成し遂げることがどれだけ大変なことか、それが痛いほどよく分かる。
所々音が計画外に途切れ、打鍵が外れて音の尾が抜けて行く。それがまるで習字の「はね」みたいで、余計に物悲しさを誘うのだ。
 

生演奏は、修正の効かない芸術だ。
元来ライブや「生演奏」を悉く嫌う私がこの動画をあえて評論の題材として取り上げたことには、言葉では言い尽くせない様々な理由があり、その理由の彼方には坂本龍一と同じ時代、同じ時間を駆け抜けて来た者にしか分からないノスタルジーが息づいている。

けっして綺麗な音でもなければ旋律のまろやかさも消えて、音楽自体はむしろ刺々しい。
匂い立つような色気のあるコードプログレッションではなくなったこの「戦場のメリークリスマス」は、さながら2022年の今を言い表しているようだ。

多くの人々が、逃げ場のない「今」を背負って生きている。視えない何かに背中を圧されて、想定外の迷路へと誘導されて行く。
残された体力と気力で、ようやく数時間後のことを考えるのが限界だ。
 

 
テクノに始まりシンセサイザーを自由自在に操り倒した坂本龍一が、2022年の自己発信に選んだ楽器はピアノだった。だが彼はけっしてピアノが上手だとは言い難く、それよりも坂本がアルヴァ・ノトとのコラボで2018年にリリースしたGlassの方が、余程美しい。

シンセサイザーを扱う坂本龍一には「華」があり、逆にピアノと言う88鍵のオーケストラに向かう彼は楽器を操り切れていないように見える。
それでも坂本龍一が今、ピアノを選んで自己発信を重ねる理由は一体何なのか‥。
 

 
クラシック音楽の様式美に満足出来ず他のジャンルに転向したものの、やはり何かを置き忘れたかのようにかつての古巣に戻りたがる音楽家たちが後を絶たない。
坂本龍一も、その一人かもしれない。

だが彼は行き先を遂に見つけ切れず、映画音楽にその拠り所を求めるしかなかった。
だが、映画音楽の世界はクラシック音楽界以上に残酷だ。映像が無ければ音楽が、音楽として成り立たないのだ。
音楽が独立出来ずに窒息して行く。
 

 
よく言う映画の「サウンドトラック盤」を私も又、何十枚何百枚と買った。だが殆どが開封しただけの状態で、中には一度もターンテーブルに乗せなかった盤もある。
映像の中で心惹かれた音楽を後から音楽単体で聴いた時の失望感は、一度経験すればもう沢山だ。

それより何より昭和後期、一度「現代音楽」の黒い水を啜った作曲家たちが作品の中で、その「水」を頻繁に逆流させる。
例えばこの記事の最後に貼り付ける音楽も、そんな「破壊の水」を永遠に纏ったまま脱げなくなってしまった一例だろうか。