夏の思い出 (“Old Folks” – Chris Botti を聴きながら)

私は自身が作曲をし、それをピアノを通じて表現する人。なので再現音楽の類いを好まない。
時々あっいいな‥ と思う人、例えばダイアナ・クラールとかキース・ジャレットとかそういう人の演奏や表現には徹底的に心を持って行かれるが、それ以外の再現音楽奏者には殆ど興味が無いのだ。
 

久々にChris Botti (クリス・ボッティ) のジャズを聴いた。と言うより、クリス・ボッティが遂にジャズを演り始めてしまったか‥ と言う失望の方が感動よりも完全に上回っている。

かつてはポップスやフュージョン等をグイグイ演奏していた音楽家が年を重ねて、気力体力が追い付かなくなって来ると決まってジャズメンに転向するのは何故だろう。
オリジナル曲を持っているのにその再演を回避して、多くのミュージシャンたちがジャズを歌い奏で始める度に私は、一人の音楽家(作曲家)として落胆する。
 

最近はそれまで大好きだったヴァイオリニストのLucia Micarelli (ルシア・ミカレリ) がヴァイオリンを脇に置いてジャズを歌い始める始末だ。それがけっして上手ではないし良い声質と言うわけでもないのにドヤ顔で歌い切る姿はどう見ても、器楽奏者と言う脇役の負のループからの脱却を狙っているように見えて辛くなる。
 
 

 

そんな中、まさかのクリス・ボッティのジャズらしいジャズがリリースされたので、もしかするとクリスも今後ジャズ・トランペッターに段階的にシフトして行くのではないかと正直不安になった。
 
私が大好きだったのは、あのStingとのコラボの “La Belle Dame Sans Regrets” を悲しげに吹いていた頃のクリス・ボッティだった。
リリース時期を調べてみたら、2004年だ。つまり今日から遡ること19年前のクリスが、私の中では最高の音色を出しているように思う。ざっと計算するとクリス・ボッティが41歳の時の音が、程好く尖がっていて程好く花びらが散り始めたような、そんな印象が強い。
 
 

 
先日久々に「売り物」の音楽やそれを制作している素晴らしいプロデューサーに接して、色々なアイディアを出させて頂くと言う貴重な体験をしたばかりだ。
勿論私が売り物に関わる時には、私自身の音楽は一切出さない。自分のことは自分が一番よく分かっているし、私は自身の作品に於ける他者の「ダメ出し」を絶対に許さない。
 
神さまからのギフトにケチをつける人は居ない。それと同じ話。
私の音楽は一人の人間が作ったものではなく、おそらく神々の思いやアイディアが私の中に降りて来てそれを再現していると認識しており、作曲者は私であって私ではないと思っているから。
 
昨年秋の終わり頃から或る記事を機に先方のマネージャーや通訳の人と繋がり、それが段々と発展して世界的なミラクルへと繋がって行った。
 

私自身の音楽性もデビューの2009年からかなり変容(変化)した。
私の中の本物を見つけるのに、少なくとも4年から5年は経過しただろうか‥。自分の中に自分を見つけた後はさらに無駄を削ぎ落して削ぎ落として‥ の繰り返しだった。
勿論私自身も少しばかり年を重ね、もともと運動神経が良くない私が今さらショパンのスケルツォやリストの「ラ・カンパネラ」など弾けるわけでもないし、その必要すら全くなかった。
 
運動神経で奏でる音楽ではなく私は、美しい残響に残響を重ね合わせるような、そんな音楽を目指している。
既に9歳の時に過去世の音色を思い出して、気付いて、その音楽に向かい始めていた。当時ピアノの教授らには「ペダルが汚い」とか「もっと細かくペダルを踏み替えなさい」等と何度も注意された。だがそれでは大聖堂で響いて来るような荘厳なピアノの音色など再現出来る筈もなく、私は他の同年代の学生たちに次第に置いてきぼりを喰らいながら、私の記憶の中に在る音楽をずっと一人で探し続けていた。
 

年老いたからと言っていきなり既存のクラシック音楽を弾くなどもっての外で、気付けば私は最初っから、百年後の自分に捧げる音楽を作っていた。
 
未来はその時間、その時点に到着しなければ分からないことが沢山あるかもしれない。だが私は9歳の夏に、今の自分をおそらく知っていたように思う。
私を常に奮い立たせてくれるものがあるとすれば、それは「自分と世界の音楽家とを比較する貪欲な精神」だった。それが小さな町の酒場での演奏の瞬間であっても私は、その瞬間を録音しては心に鞭を振るい、「もっと世界の真ん中へ行け!」と自分を叱咤し続けた。
 
 
ものの真ん中を見た人ならば分かると思うが、真ん中は常に空洞で人っこ一人居ないのだ。比較する相手も居ないし、私が今心に思い描いている音楽と同じ素材を作る人も存在しない。
真ん中とはそういう場所だ。

 
 

 
リスナーとしての私の中の「真ん中」に居た筈のクリス・ボッティが、気付けば脇道を歩み始めている。彼が彼自身の音色を放棄してジャズと言うカテゴリーの中に収まることに、クリスは何を見い出しているのだろうか。
 
勿論未だにクリス・ボッティの音色は美しく清らかであることに変わりはないが、音楽や表現手法を老いさせる世の音楽家の一人になり下がって欲しくないと言う私の願いは、もしかすると叶わないかもしれない。
 

 

 
そんなクリス・ボッティとヴァイオリニストルシア・ミカレリが共演した「Emmanuel」の中では、二人それぞれの頂点の音が記録されている。2009年、クリス・ボッティが47歳の時の音楽は既に5年前の華やかさや煌びやかさを失い始めているものの、今のクリス・ボッティよりも音色が澄んでいて憂いがあったように感じてならない。
 

人は誰しも老いて変わって行き、いつかは土に還って行く運命に於いては万人が平等だ。
私にもいつかその時は訪れるが、出来ることならば私が残響の音楽に気付いてそれを思い出した9歳の夏の自分を失わずに居たい。
 

この記事の最後にクリス・ボッティが2023年8月にリリースしたシングル『My Funny Valentine』の2曲目にトラックされている、此方も有名なジャズのスタンダード・ナンバーの『Old Folks』のYouTubeを貼っておく。
 
 

 
 

人間嫌い (2023/09/03)

人とのコミュニケーションを一切信用していない私の気持ちなど、多くの人々には伝わらないだろうなぁ‥。

ご縁とか付き合いとか、そういう物が持つ「並列」感覚はすべて私の敵です。
(過去世 ジャンヌダルクの本心。)
 
無人島で一匹の猫と暮らすように、その猫と私の間にだけは絶対的な信頼関係を築けているから互いに互いにを安心して必要とし合えるみたいな、とどのつまり人間関係はその領域に留めたい。
 

お互いの熱量を気にしながら先方は此方を信用してるのかなぁ‥ などと相手を疑ったりご機嫌を伺ったり、伺われたり、そういう疑心暗鬼がもたらすいざこざに振りまわされぬようにするには、極力「欲望」深い対象物を遠ざけることがベター。

今は柳のように、或いは秋の夕空のように気紛れで尚かつ誰かの心にだけその印象を留めるような、そんな瞬間に心が温まる。
 
 

※Facebook個人アカウント投稿記事と同期にて。
 

 

エッセイ “天空の壁” (普遍性の定義)

この一ヶ月間色々周辺が賑やかだったが、その賑やかさの中に一抹の虚しさを感じていたことは事実だった。
私には予知能力があるので、大概事前に未来が読める。だとしても他の人たちがそうではない以上、時に歩調を相手に合わせなければならないことが度々起きる。
 
私が歩幅を相手に合わせた時は、余り良い結果に結びつかない。今までもそうだったし、今回も同様の結果に終わった。
  
良い音楽は本物の音楽。私が思う「本物」とは、無から創作する人や作品を意味する。
一人のアーティスト、一個のグループの未来を託されることは重責が大きいので、極力私は「売り物は作っていません。」と言い続けている。
だがなまじ私が「売れている人」の背後に立っていることもある為に、相手の方がどうしても私を誤解するようだ。今回もそうだった。
 
私は自身の内面の引き出しを増やしたい為に、多くの民族音楽からアッパーテクノ(勿論クラシック音楽を始め)まで聴き倒しているだけで、私自身がDJみたいなことがしたいわけではない。だが、相手が誤解するしその勢いでマウントまで仕掛けて来るのだからたまったものじゃない(笑)。
 


昨日は久々に Tribute to Taeko Onuki (2枚組)” を聴いた。
  
なんと言っても冒頭の【『都会』- 岡村靖幸, 坂本龍一】の、ヴォーカルの弾け感が良い。
その勢いでザ~っと2枚目も飛ばし聴きしているが、特にDisk 2に良いヴォーカルが集まっている印象が強かった。
けっして好きな歌手ではないが、Disk 2 – M1 “突然の贈り物” を歌っている竹内まりやの表現が朴訥である意味投げ遣りで、私は好きだった。
 
同じDisk2 – M6 “夏に恋する女たち” を担当した中谷美紀の、ある種の棒読み歌唱も逆にインパクトがあったし、Disk1 – M10 “色彩都市” を何と “松任谷由実 with キャラメル・ママ” が担当しており、そのぶっきら棒な歌い方がかえって楽曲をシンプルに際立たせているように感じた。
 
このCDには他にも奥田民生や薬師丸ひろ子、EPOやKIRINJI、高橋幸宏等が大貫妙子の作品のカバーに取り組んでいるが、そのメンバーは所謂個性的な歌い方をする歌手陣で彼等の個性がノイズになって楽曲のメロディーラインの根幹をかき回してしまい、音楽でも日本語でもない別ものになってしまった感が拭えない。
私は個人的には好きではなかったが‥。
 


編曲で最も新しさを感じたのは、KIRINJIが担当した Disk 1 – M4 “黒のクレール” だった。
フランス音楽のテイストを持つ大貫妙子の原曲のテイストを、再解釈した新たなフランス音楽へと進化させたような印象が後を引く。ある意味シャンソン的で、その狭間にファドやフォルクローレ或いは讃美歌等の隠し味が冴え渡っていた。
田村玄一氏のスティール・パンが楽曲のもの悲しさを深め、そこはかとなくアンリ・サルヴァドールの香りが漂う不思議な仕上がりになっていた。
 

良い音楽、良い表現は常にシンプルで、個性の壁を突き抜けた先の「普遍性」に到達する。
個性の壁を突き抜けられない凡庸な個性は、時を越えることに必ず失敗する。勿論目先の目新しさだけを我が儘に追及しただけの作品も同様に、時代の壁の内側で悶絶しながらその一生を終えて行く。
 
私が芸術家 Didier Merah として追及しているものは、個性の先の普遍性である。逆に私が「売り物」に関与する時は、その一つ手前の個性の壁の上限を目指す。
 
先日の会合で私が出したNGの意味を、先方はどう捉えているか‥ なんてことはもうどうでも良い。
私は上の上の、その先の上を既に走っている。それはもしかすると、普通の人間の目には映らない「上」かもしれないが、私にはそれを操ることが出来ると確信している。
 
その確信を形にすることが、私の次のミッションかもしれない。
その手法が果たして音楽作品なのか、それともそれ以外の何かなのかは未だ分からないが、うっすらとその輪郭だけは天空の壁の向こう側に透けて見えている。
 

エレナ・ダナーンを突き動かしている高次悪 “ブラック・ガーネット” の正体 – The identity of the high-order evil “Black Garnet” that drives Elena Danaan

一昨日辺りから、グレイ星人(ライトグレイ種)のグレン氏の声が止まらない。
基本的に私は芸術家(音楽家)なので日中の大半を音楽に捧げて生きている筈が、このところの世界的な様々な騒動後の祈りの活動に追われている。
 
このブログの訪問者たちがいつ、どの記事を訪れているかについては常に監視の目を光らせているが、それと言うのもこのブログに集まる記事を見るだけで世のどこかで起きている動乱や混乱の様子が分かることが理由であり、正直人が来ても来なくても私の活動には大きな影響も支障もない‥ と言うのが正直なところである。
 
昨夜YouTubeチャンネル “Miyoko Angel 2” の新着動画には、さらにグレイ星人を仮想敵に仕立て上げる念入りな情報操作が為されており、その動画に現れた「ダニー・ヘンダーソン」の様子をライトグレイ種のグレン氏に私の拙いテレパシーで送信したところ、ダニ・ヘンダーソンや最近のエレナ・ダナーンを突き動かしている者の正体が判明した。
 
この記事からは新たなカテゴリーとしてVoice ofr Glen (Light Gray Alian)を設置し、グレン氏と私のコンタクト記録を極力短文で掲載し、記事を区切りながら綴って行くことにしたい。
 
 

 

ダニー・ヘンダーソン (Dani Henderson) について調べているが、私の目に入ったどのサイトや動画を捲ってみても彼女が「スピリチュアル・セラピストである」と言う事以外の詳細な情報には辿り着くことが出来なかった。
恐らく明確な現世的で言うところの職業スキルを持たない人である可能性は濃厚であり、同時に色々な動画から見えることはこの人物が嘘吐きである可能性が極めて濃厚だ。
 

I’ve been researching Dani Henderson, but no matter what sites or videos I’ve come across, I haven’t been able to find any detailed information other than that she’s a “spiritual therapist.”
There is a strong possibility, that she is a “person with no vocational skills” in this world, and at the same time, it is extremely likely that this person is a liar based on various videos.


 

 
だがグレン氏曰く、ただの嘘吐きと高次悪に裏打ちされた妄想性の嘘吐きとは、嘘の内容や質、そのディテールに大きな相違が見えるそうだ。
グレン氏の見解は、ダニー・ヘンダーソン及びエレナ・ダナーンの両者とも、上記で言うところの後者「高次悪に裏打ちされた妄想性の嘘吐き」に分類されるとのことだ。
 

However, according to Mr. Glen, there is a big difference in the content, quality, and details of the lie between a mere liar and a delusional liar backed by high-order evil.
Mr. Glen’s view is that both Dani Henderson and Elena Danaan fall into the latter category of “paranoid liars backed by higher evils” as described above.

 

そこで私やグレン氏が最も気になっていた「彼女たちを突き動かしている高次悪の存在」を探ったところ、それを私の横で追っていた夫/ 天野玄斎が数体の宇宙鉱物らしき霊体を突き止めたので、先程それら数体の霊体の粉砕を神獣に依頼したところだった。
既に先程捕獲した宇宙鉱物らしき霊体複数の粉砕は終了したが、それらは幾つにも分裂しながら今現在もこの宇宙空間を漂流しているとの話だ。
 
それらの宇宙鉱物は赤黒い光を放って見えたので、グレン氏が「ブラック・ガーネット」と名付け、以後はそのコードネームで呼ぶことにしようと思う。
 

So when I and Mr. Glnn searched for the “existence of a high-order evil that drives them”, which was the most interesting thing, my husband, Mr. Gensai Amano, who was chasing it beside me, found multiple spirits. At the same time, he came to recognize that they were spiritual bodies of the space mineral system.
Therefore, we had just asked the Divine Beast to crush those spirit bodies earlier.

The pulverization of the multiple space mineral-like spirit bodies captured earlier has already been completed, but they are said to be drifting in this space even now, splitting into many pieces.

Since these cosmic minerals appeared to emit reddish-black light, Mr. Glen named them “Black Garnets”, and from now on I will call them by that codename.

 
 

  
エレナ・ダナーンが多重人格障害を患っている可能性については、私の別の記事エレナ・ダナーンと複数人格の可能性について (About Elena Danaan and the Possibility of Multiple Personalities)の中でも既に述べた通りである。
 
I already mentioned the possibility that Elena Danaan has multiple personality disorder in my other article About Elena Danaan and the Possibility of Multiple Personalities.
 
 

 
だが、人類にとっての最大の敵はエレナ・ダナーンやDani Hendersonと言う単体の人間よりも、彼女たちを善良な人だと人類に誤認させようとするダークサイドの側だと私もグレン氏も認識している。
 
先日起きたマウイ島の大きな山火事に関しても、動画エレナ・ダナーンさん「ザ・シーダーズ」佐野美代子訳 解説1 マウイ火災の中ではそれらがあたかも宇宙人(グレイ星人たち)の仕業であるかのように語られているが、それは真実とは大きく異なる。
勿論グレイ星人たちには何の関係もない出来事なので、グレン氏を含むライトグレイ種の人々も火事の詳細については分からないと話している。
 
諸々の出来事は物質的な要因が原因であるとは限らないので、同時に「マウイ島の大参事がグレイ星人たちの仕業である」と言う断定には至らないと言うことになる。
よって何ら根拠を示さずに特定の存在を主犯に決めつけることも、同時に不可能と言うことになるだろう。
 

However, the greatest enemy of mankind is the dark side, who tries to make mankind misunderstand that they are good people, rather than single people such as Elena Danaan and Dani Henderson.
On that point, Mr. Glen and I have reached the same point of view.
 
Regarding the large wildfires that occurred on Maui the other day, in the video “Elena Danann’s ‘The Cedars’ translated by Miyoko Sano Commentary 1 Maui Fires“, it seems as if they were the work of aliens (Gray aliens).
But that is far from the truth.
Of course, the Gray aliens have nothing to do with the incident, so even the Light Gray’s people, including Mr. Glen, say they don’t know the details of the fire.
 
Various events are not necessarily caused by material factors, so at the same time, it is not possible to conclude that “The great calamity on Maui was the work of the Gray aliens.”
Therefore, it would also be impossible to pinpoint a specific being as the main culprit without showing any evidence.

 
 

 
高次悪『ブラック・ガーネット』はどうやら、リラ星自爆の際にも大きく民衆の思考を攪乱させる目的で関与していたようだ。
この辺りはプレアデス星次期代表株である「セムヤーゼ」女史が詳しいが、どうやら古代プレアデスの代表「プレア」の死後の長年の動乱期にも「ブラック・ガーネット」が深く関与したのではないかと、セムヤーゼは語っている。
 
YouTubeチャンネル “Miyoko Angel 2” の中で再三語られている「メドベッド」についての詳細も先程少しずつ判明しているが、余りに膨大な文章量になりそうなので次回の記事に繋げたい。
 
最後に。
エレナ・ダナーンが日夜触れているらしき「銀河間連合」も高次悪「ブラック・ガーネット」がエレナに見せている幻影である。そしてエレナ・ダナーンが視ているらしきソーハン・エレディオンも幻覚であり、同時にエレナ・ダナーンが銀河間連合の特使であると言う話も芋づる式の幻想(妄想)と言って間違いなさそうだ。
 
くれぐれも私の記事を読んでいる読者層に「ブラック・ガーネット」の圧による二次的被害者が出ないよう、心から祈るばかりである。
 

続く‥‥

It seems that the high-order evil “Black Garnet” was involved in the Lira star suicide bombing with the aim of greatly disturbing the people’s thinking.
Ms. Semjase, the representative of the next generation of the Pleiades stars, has detailed information about this area, but it seems that “Black Garnet” was deeply involved in the long period of turmoil after the death of “Pleia”, the representative of the ancient Pleiades. says.
 
The details of the “Medbed” that has been repeatedly talked about in the YouTube channel “Miyoko Angel 2” have been revealed little by little.
It seems that the amount of text will be too large, I would like to connect it to the next article.
 
Lastly.
The “Intergalactic Union” that Elena Danaan seems to be touching day and night is also an illusion that the high order evil “Black Garnet” is showing Elena.
And the Sohan Eredion that Elena Danaan seems to be seeing is also a hallucination, and at the same time, the story that Elena Danaan is a special envoy of the Intergalactic Confederation has to be a false illusion (delusion).

I sincerely hope that the readers reading my articles will not become secondary victims of the pressure of high order evil “Black Garnet”.

 

to be Continue‥‥
 
 


 
 

スターシードの真相と目覚めについて

往々にして世の真相は闇に隠されてしまうと言う説があり、隠された闇の真相を追求しようとする人々は後を絶たない。
「ミイラ取りがミイラになる」とは度々言われることだが、宇宙や宇宙情報或いは銀河の真相に辿り着こうと躍起になる内に、善良な人たちの中にも悪(闇)の意識に浸蝕されたり陰謀論者になり果ててしまう人たちも多く実在する。
 

最初は善良な動機で始まる真相探しの筈が、次第にそれとは真逆の思想に塗り固められて行くことはしばしば起こり得る。私とて他人事ではないので、日々自分自身の感覚や意識、思考やテレパシーの感度を磨き維持すべく様々なトレーニングを継続している。
 
  

 
このブログでネガティブな情報ばかりを取り扱うことには余り肯定的ではないが、だからと言って私が黙り込んでしまっては相手のいいようにマイナスの情報の音量が上がる危険性も感じられる。
 
特に私が日々親交を深めているライトグレイ星人についての間違った情報は、看過するわけには行かない。
翻訳家/ 佐野美代子のYouTubeチャンネル “Miyoko Angel 2” から発信される怪情報及び偽情報は私の仲間でもあるライトグレイ星人Topの “グレン氏” にも大きく関わる内容も含まれているので、たとえ翻訳家/ 佐野美代子にその気はなくても彼女が扱っている情報源そのものが間違っているのだとすれば、私は仲間の正義を歪めて伝える発信媒体に対しては断固その誤りを正す必要と責任の両方を感じている。
 

動画『佐野美代子訳「ザ・シーダーズ神々の帰還」(エレナ・ダナーン著 ヒカルランド)』の中ではさながら、ライトグレー(動画の中では「トールグレー」と呼ばれているようだ)を含む闇側の宇宙人種が地上アライアンスによって撃退された‥ 等と語られている。
だがそもそも地上アライアンスと言う団体がエレナ・ダナーン或いは空想上の人物であるソーハン・エレディオンの話す空想上の軍隊であり、これは実在しない。
 

In the video [“Miyoko Sano’s translation of The Cedars Gods Return” (written by Elena Danaan, Hikaruland)], the dark side including light gray (seems to be called “tall gray” in the video) It is said that the alien race was repelled by the ground alliance.
However, in the first place, the organization called the Ground Alliance is an imaginary army spoken of by Elena Danaan or the imaginary character Sohan Eredion, and this does not exist on this planet.

 
 

 

勿論私は軍関係者でもなければ米国に住んでいるわけではないが、その辺りの情報はライトグレイ星人の “グレン氏” やプレアデス星次期Topが叫ばれる “セムヤーゼ” 女史 (Semjase) から継続的にもたらされている。
彼等の居場所を告げることは出来ないが、彼等のテクノロジーを介せば銀河系で起きている多くの現象を見通すことなど朝飯前だ。
 
確かに地球上で今起きている不穏な出来事には多くの人々も、そして宇宙人達の一部も注視し続けていることは事実だ。だが、だからと言って “地上アライアンス” 等と言う団体が地球上の善と悪を見定めたり、或いは悪側だけを撃退している等と言う話は実に信憑性のない話である。
付け加えるならばそのような話を公共の媒体で発信したりその情報によって多数の人々の価値観を訂正する以上、彼等の発言には一定の責任が求められる。
ましてや地球上の軍関係者等が多数参加している “地上アライアンス” が現実の団体であるならば、その情報に対しイメージ映像等の表現に留めておくべきではないだろう。
 
佐野美代子しかりエレナ・ダナーンしかり、彼等のやっていることはディズニー映画と何ら変わらない。夢と希望を人々に与える、彼等の情報の全てがフィクションであれば罪は無いのかもしれないが、それが「真実である」と彼等が発信する以上、その情報が実在する団体名等を添えて明示されなければおかしな話である。
 
つまり彼等の言う “地上アライアンス”“エンキ” 或いはソーハン・エレディオン含む多くの登場人物らしき人々の大半が実体をともなわない以上、そうした情報を受け止める側の受信者たちが一連の情報をフィクションの一つとして認識することが望ましい。
 

It is true that many people and even some aliens continue to pay attention to the disturbing events that are taking place on Earth. However, even so, people say that an organization called “ground alliance” determines good and evil on earth, or that an organization called “ground alliance” repels only evil organizations should not be blindly believed. 
 
In addition, as long as such stories are transmitted through public media and the information is used to correct the values of many people, their remarks are required to have a certain degree of responsibility.
Furthermore, if the “Ground Alliance”, in which many military personnel on Earth participate, is a real organization, then the information should not be limited to representations such as imaginary video.
 
Whether it’s Miyoko Sano or Elena Danaann, what they’re doing is no different from a Disney movie. If all of their information, which gives people dreams and hopes, is fiction, there may be no sin, but as long as they transmit that it is “truth”, the name of the organization whose information actually exists etc. should be clearly indicated.
 
In other words, if most of the many seeming characters, including what they call “ground alliances,” “Enki,” or Sohan Eredion, are insubstantial,
it is desirable that the recipients of such information perceive the series of information as a piece of fiction.

 
 

 
私も「その一人」であるが、その人が「スターシード」を名乗るのであれば、視えない世界を言語で語り尽くすだけではいけない。
少なくとも(例えばスティーブ・ジョブズのように)、その人物が特定のジャンルのエキスパートであり、尚且つ地球上にオーパーツとも思わせるような異次元からのギフトを出現させる人でなければならない。
 
その意味で、エレナ・ダナーンが地球内に持ち込んで来る情報はただの文字情報以外の何ものでもないし、尚且つその情報源と言われるソーハン・エレディオンと言う人物が既に空想上の産物であるからして、彼等の話しは一から十まで全てがお伽噺の域を越えないものだと認識した方が良い。
下手に彼等の語るお伽噺を真実だなどと思い込んでしまった時には、その人自身の精神や思考回路に大きな障害が発生し、きわめて危険である。
 

I’m “one of them”, but if that person calls himself “Starseed”, it is not enough to just talk about the invisible world in language.
At least (like Steve Jobs for example), the person must be an expert in a particular genre, and must also be someone who brings to the Earth a gift from another dimension that resembles ooparts.

In that sense, the information that Elena Danaan brings into the Earth is nothing more than textual information, and the person named Sohan Eredion, who is said to be the source of that information, is already a fictional product. Therefore, it is better to recognize that all of their stories from 1 to 10 do not exceed the realm of fairy tales.

If you carelessly assume that the fairy tales they tell are the truth, it is extremely dangerous because it will cause a big disorder in your own mind and thought process.
 
 

シンプルにまとめれば、地上のありふれた日々の現象に対し人類はもっと深く注意を払うべきである。そこには精霊や自然神等が語る多くの情報が潜んでおり、人々の感性にそれはもっと具体的な働きかけをするからだ。
 
高次元だ異次元だ、銀河連合銀河間連合だ‥ 等と言う人類の手の届かない遠いテクノロジーよりももっと身近に、高次の思考は既に根付いている。
その身近で崇高なインプレッションを確実に感じ取ることの方が、居るか居ないか分からない地球外生命体の代弁者の言葉よりも余程物事の真相を正確にあなたがたに伝えてくれる筈だ。
 
本当の意味での「目覚め」とは、既に人々の中に在る直感力のスイッチを眠りから呼び覚ますことである。
間違えても実在不詳の地球外生命体のシグナルを聴き取る力を得る‥ 等と言う夢に耽るべきではない。
 

Simply saying, humanity should pay more attention to the mundane everyday phenomena on earth. This is because there is a lot of information that spirits and nature gods talk about, and it has a more concrete effect on people’s sensibilities.

Higher dimensions, different dimensions, space union, Intergalactic Confederation, etc., are closer to them than distant technologies beyond the reach of mankind, and higher-order thoughts are already rooted inside the earth.
If you can surely feel the familiar and sublime impression, you will be able to convey the truth of things to you more accurately than the words of the spokesperson for extraterrestrial life who may or may not exist.

“Awakening” in its truest sense is to awaken the intuitive switches already in people from sleep.
Even if you make a mistake, you should not indulge in the dream of gaining the power to listen to the signals of unknown extraterrestrial beings.

 
 

 
 

関連記事:
https://blog.didier-merah.jp/2022/12/13/gray-alien-truth-and-elena-danaan/
 

続編/ 歌えない校歌「KAMIYAMA」- アカデミックを考察する

昨日の明け方から少し風邪気味で、今日の夕方に開催される会食迄には治してしまいたいと思い、ずっと体を休めています。
 
布団の中で丸二日を過ごしているわけですがそんな中、先日更新したブログ記事『歌えない校歌「KAMIYAMA」』の閲覧者数が右肩上がりで伸び続け、大きな手応えを感じています。
 


『有名人の遺作として書かれた校歌だ』と言うだけで、多くのリスナーはその音楽の本質にたどり着く前に『名曲だ。』と言ってしまおうとするようです。
ジャッジメントよりも偽善の方が強くマインドを突き動かし、周囲の放つ有名税の波にあやかりたくなるのでしょう。
その一歩手前で私が先にアンチテーゼの声を上げた事は、今回の場合に於いては『吉』と出たように感じています。
 
中には反論や冷やかし或いは茶化しのコメントもFacebookの個人ページの記事へ複数寄せられていますが、それも『波』が立つから届く声。
反響の一つと捉え、私はただ冷静に次の波を起こすのみです。
 


音楽家が他の音楽家の作品をジャッジメントする事は、これまではタブーとされていました。その証拠に、自らが作品を生み出す音楽家(芸術家)たちは他者の作品に対し自身の作品でリベンジを図るのが、これまでのスタイルとされていました。
それでは何の改善も為されません。
音楽家同士の小競り合いからは、思考停止と退化しか生み出せないからです。
 
私が坂本龍一の作品にあえて斬り込む事には(多分これまでの業界の流れをご存知の方々もおられるとは思いますが)、他の人たちには考えも及ばない私なりの理由があります。
 
勿論守秘義務の範疇には触れず、いわゆる『音楽業界のディープステート』の闇を暴き出す必要性を私は今、このタイミングだからこそ痛感しています。
その意味に於いても、ブログ記事『歌えない校歌「KAMIYAMA」』の執筆は現在の音楽業界やそれを取り巻く人たちの中に、大きな一石を投じたように思います。

私自身が音楽を作り出す人間だからこそ、この記事の執筆に踏み切る事に意義があるのです。
音楽作品に対する「好き/ 嫌い」等と言う好みではなく音楽理論や世界中の全ての音楽を網羅している人間が書く文献だからこそ、大きな反響が寄せられるのです。
 
思うに「音楽を生み出す人々に聴衆はやたら品行方正な善人を求めたがり、それが音楽家の表現を妨害している」と、私は思います。
真実が闇の中に在るのだとしたら、音楽を生み出す音楽家たちの心の闇や「毒」にももっとスポットを当てて、それを理解するリスナー層を育成しなければなりません。
 


ですがそれとは逆に、例えば「校歌」の場合には、その作品には必然的に普遍性が必要になります。
 
「校歌」には、個性と言う名の汚れを纏わせてはいけないのです。
 
校歌『KAMIYAMA』に於いては、その肝心要の清潔感がゴッソリ抜け落ちてしまったようです。
それに対し、その汚れた作品性を「歌手や作詞家の個性だ云々‥ 」だと思い込ませようとするのは、ひとえにこの作品が商業作品を超えられないと言う最たる証拠を業界全体でメディアを介して露呈させている事と同じです。
 

本物の個性は、個性をさらに洗練させた普遍性に到達しなければなりません。
私が申し上げたいこととはつまりそういうことであり、古い体質の軍歌風の校歌を良しとする‥ と言う話ではありません。
 
くれぐれもそこを履き違えずに、ブログ記事『歌えない校歌「KAMIYAMA」』をあらためてお読み頂ければ幸いです。
 

 

※動画のコメント欄を見ていると、中には「歌わない校歌があっても良いではないか‥」等と言うつぶやきも幾つか見られますが、問題は坂本龍一と言うアカデミックを売りに転じた音楽家に於ける聴衆への洗脳が如何に危険であるかと言う点です。
少なくとも初演の歌手として、UAのようなタイプの歌手をセレクトしたところに大きな人選ミスが生じている点を、日本人として見過ごしてはいけないでしょう。
 
私ならば誰をセレクトしたでしょうか‥。
適任者がお一人おられますが、その方のお名前はここでは伏せます。
 
そして楽曲面で言えば、校歌がポップスであってはいけないのです。
古典音楽の楽典とコード進行をしっかり踏んだ古典的で、尚且つそれが時代を超えて行く美しさを持つものでなければなりません。
作曲者/ 坂本龍一自身、「教授」と自らを名乗らなければならなかった本当の理由を知っている筈です。彼こそ、音楽のアカデミズムを脱落し、敗北した人だからです。
 
ですが百歩譲って教授が校歌を作曲するのであれば、彼は最後の最後で彼自身のアカデミズムを呼び覚まし、全身全霊で校歌『KAMIYAMA』に刻印しなければなりませんでしたが、残念ながらそれは叶わなかったようです。

歌えない校歌「KAMIYAMA」

2023年8月10日、坂本龍一の遺作とも言うべき、おそらく坂本初の校歌「KAMIYAMA」のP/VがYouTubeから配信された。
作詞はUA、編曲は網守将平。

故人を悪く言う気はないが、故人の作品だから黒を白だと言う気もない。良いものは良いし、悪いものは悪い。その意味でこの作品「KAMIYAMA」は後者であると言うのが、私の音楽評論家としてのジャッジメントである。
 

「神山まるごと高等専門学校」は徳島県の位置するが、何故この学校が校歌を坂本龍一氏(作詞: UA)に依頼したのか‥。色々な意味で人選ミスではないかと思わざるを得ない、そんな作品だ。
 


少し脱線するが、知り合いに数名だが本田美奈子のファンが居る。彼等は揃って、本田美奈子の死後にファンになった人達だ。
若くして不遇な死を遂げた、ある意味「志し半ばして‥」寿命を終えた人。その「志し半ばで寿命を閉じた」から本田美奈子のファンになった‥ と言うのが、数名のファンの共通項だと言っても過言ではない。
 
特に日本人は「滅び」に弱い。その人が元気な時は下げて下げて下げまくるヘイトを日夜連発しているのに、状況が一変した途端に態度を変える人達はそう珍しくはない。
 
坂本龍一が今日もしも存命であれば、校歌「KAMIYAMA」は間違いなく酷評されるだろう。酷評されなければならないと、私は思っている。
 

音楽は、音楽教育を受けていない人たちがシェア出来るギフトでなければいけない。

これは私の音楽哲学のような心得の一つであり、その意味でも平易で美しい楽曲がもっともっと世界中から生まれ出て来なければならない筈。だが現実はそれとは全く異なる。
「平易な曲」と言うと唐突に幼稚園児が口ずさむ童謡もどきの楽曲を、多くのメロディーメイカーが想像し、想定する。失声後の「つんく」の楽曲が激変した時には私もびっくりしたが、「平易」を取り違えているメロディーメイカーは数多く存在する。
  


校歌「KAMIYAMA」の歌詞をUAが手掛けているが、後半が英語で書かれているのは何故だろうか?
日本の学校で歌われる校歌が英語である必要性を、私は全く感じない。作詞者及び作曲者双方共に優等生感情丸出しで、「校歌」と言う観点を完全に放棄し完成した作品と言わざるを得ない。
 
メロディーも分かりにくく、「KAMIYAMA]を歌えるのは恐らくこの世でUA一人だ。そのUAも声質が激変し、P/Vの生演奏を見る限り高音の発声に大きな障害が出ている。にも関わらず何故その音域で歌わなければいけないのか、そこに音域の必要性を全く感じない。
 


言い方は良くないが、薬物中毒者が歌っている様な表情や動作も、校歌を歌う人として適切ではない。
メイキングの動画を視る限り、学生とUAとのセッションでは学生の大半が後半のメロディーも歌詞も追い切れていない。

要はこれはUAの新譜であり商品ではあるが、校歌でも作品でもないと言うことに尽きる。
 


例えば「校歌」のような作品を生み出すと言う観点で一つ忘れてはいけないことは、その楽曲のメロディーがインストゥルメンタルで海の向こう側から流れて来てもそれが分かりやすく美しい音楽であることが条件だ。
美しく平易であるが、けしてそれが幼児性に侵された音楽ではいけない。それが普遍性であり、上記の条件を満たした楽曲は必ず後世にメロディーが残って行く。
 
例えば名曲「遠き山に日は落ちて(家路)」がそうであるように、この作品はとても平易で美しいメロディーとシンプルなコードで出来ているにも関わらず、作品にはドボルザークの個性も影を失うことなく刻印されている。
 


仮に「校歌」と言う命題を与えられ曲を生み出すならば、そのようにならなければいけないと私は思う。
 
それがそうならない要因の一つとして、日本のみならず世界中の人々が「歌もの中毒」に似た症状に侵されていることが挙げられる。
校歌「KAMIYAMA」を別の歌手に仮に歌わせることになった場合、おそらくそもそものメロディーにUAの歌い癖が乗り移ってしまっており、いち楽曲のメロディーとして別の歌手が歌唱しようものなら原曲とは似ても似付かぬ楽曲になる危険性を秘めている。
つまりUA以外、誰にもこの旋律は歌えないと言うことになる。

個性の暴走の果ての個性の墜落が、校歌「KAMIYAMA」に見て取れる。
 
実際に歌えないメロディーを「校歌」として書き下ろした坂本龍一の真意の程は分からないが、同時にこの楽曲の存在理由も意義もないと言えるだろう。
昼食の時間帯に校内放送で校歌をBGMとして流す、そのくらいしかこの音楽の使い道が何れ無くなるだろう。
 


滅びの美に弱い日本人のことだから、校歌「KAMIYAMA」について誰かが「名曲だ。」と言えば多くの日本人たちはその声に便乗し、この曲は名曲だ‥ と言う後出しじゃんけんの波に乗っかる以外の音楽の聴き方をしなくなるに違いない。
なのでそうなる前に私は「正しい音楽の聴き方」の一環として、俯瞰した見解をここに綴る必要性を強く感じ、この記事の執筆に至った。
 

偽善を捨てよ。
物事に対し色眼鏡をかけて向き合うべきではない。

商品と作品を見間違えてはいけない。

 
その為には、その商品や作品の「いいね」票や知名度に振り回されることなく、己の心の声、感性に従順でなければならない。

是非この観点を持つ人たちが今後少しでも増えてくれることを願いながら、この記事の執筆を終わりにしたい。
 

音楽と現実とスピリチュアルと

シュールな感覚が日々覚醒して行く中で、やはり私は人間ですからもっともっと現実生活の精度と質の両方を高めて行くことを考えざるを得ません。
人間が人間に生まれる(或いは生まれ変わる)ことの本質は、神々には出来ない現実的なスキルで社会貢献することに在るのだと、私は確信しています。
 
現在のスピリチュアル界にたむろをしている人達には、その基本的な感覚が完全に抜け落ちているように見えて仕方がありません。
仮に神々や精霊、もしくはその他の高次の存在等からどんなに優れたインスピレーションを授かったとしても、受信者に彼等の意図する人生スキルがともなっていない場合には、その人には何一つ高次の存在からの貴重なメッセージを現実の物に置き換えることが出来ません。
 
神々や高次の存在は、人間に伝書鳩の役割など一切求めていません。
彼等の言葉らしき何かを何の人生(職業)スキルすら持たない人々の間でシェアしたところで、それは妄想日記を書いたり読んだりすることと何ら変わらないのです。
 
あなたが本当に神々や精霊或いは高次の存在等の思いと繋がり、それを形にしながら現実世界との接点を強く持ちたいのであれば、先ず何かしらの専門スキルを身に着けるべきです。
それに次いで必要なシュールなスキルがあるとすれば、それは生物や人間同士で言葉を介さず意思の疎通をする手段です。
さしずめ簡単に言い替えるならば、それは「テレパシー」と言うことになるでしょう。
 
神々だ精霊だ、或いは心霊の何がしかと繋がる以前に、目の前の人の心を見通す力を習得した方が近道です。
目の前の猫やカラスやハムスター、或いは象や馬等と会話が出来ない人に、神々や高次の存在と繋がることなど出来ません。
とてもシンプルなことです。先ず、そのシンプルな動作を完璧に自分のスキルとして高めずして、宇宙人とのコンタクトや霊や神々との会話など論外です。
 
 

 
さしずめ私は音楽を通じて、先ずこの世界に変革をもたらすべく地道な作業を着々とこなしています。
その一環として先日、AKGの最高品質のヘッドホンを購入しました。
正直世界が一変しました。
 
勿論昨日までの音楽環境も「それなり」に良質ではあったのですが、その思い込みがこのヘッドホンであっさりと覆されました。
鼓膜が10倍に膨れ上がったみたいに音の粒や残響が細かく折り重なり、まるでレコーディングスタジオで生の音源を聴いているような臨場感はたまりません✨
 
昨日まで主に自分が好きなジャンルの音楽に偏って音楽探索をしていましたが、先程から私は新らしい土地、新しいジャンルに新しい感覚で開拓を挑んでいます。
それは私が普段生み出している音楽のジャンルとは全く異なりますが、私は音楽評論家のみならず近い将来プロデューサーとして新たな一歩を歩み出す予定がそこはかとなく在り、その最初の一歩が私の将来に大きな影響を及ぼすことを直感しています。
 
霊的な意味でも、世の中的な意味合いも含み、特にこの春まで私を散々悩ませて来た「圧」の多くを夫が取り払ってくれたことで、私の頭上の大きな重石がほぼ全て取り除かれたことを感じています。
そして私はクラシック音楽をはじめとする(ほぼ)全てのジャンルに跨り世界中の音楽を知り尽くし、それらの点を線で繋ぐ構成分析のスキルを網羅しています。
いちジャンルのみを分析し語り尽くす人はこれまでも大勢居たと思いますが、私の場合は一人で全てのジャンルの音楽を語り尽くすことが出来ます。さらにはそれをコードネームと黒玉の音符で書き換えながら、異なるジャンルの音楽を楽譜化して繋ぐことも可能です。
 
分かりやすく言えば、「オールインワン」と言うことになるでしょう。
 

Spotify内に作成した世界の音楽のプレイリストが、何と158個になりました。
この記事の最後に、先程一気に数時間で下ごしらえを済ませた新しいプレイリストを貼っておきます。
私の脳内の音楽ジャンルと保管内容(保管数)が人間の通常のそれを完全に超えたことを、きっと感じて頂けると思います。
 

音楽家/ 芸術家のみならず、音楽評論家/ 選曲家/ ‥比較音楽学者として、ここからがようやく真剣勝負です。
これまで以上にガンガン疾走しますよ🏇
 
 

K-Popとイタリアンポップスの関連性について

この週末の金曜日から少し遅れて昨日の夜、2023年8月4日分の世界の新譜をチェックしながら、私は幾つかのプレイリストの試聴を渡り歩いていた。
最近のもっぱらの推しがNewJeansであることには変わりないが、そんな中偶然イタリアンポップスの女王 Giorgiaの新作 “Senza confine” で暫し作業の手を止めた。
 
少し遅れて2023年8月4日分の世界の新譜をチェックしながら、私は幾つかのプレイリストの試聴を渡り歩いていた。
最近のもっぱらの推しはやはりNewJeansであることには変わりないが、そんな中偶然イタリアンポップスの女王 Giorgiaの新作 “Senza confine” で暫し作業の手を止めた。
 


イタリアンポップス(或いはカンツォーネ)と言うと直ぐに演歌臭い「男と女の恋物語」を脳内想起するカンツォーネフリークが多いのだが、そういう生き物が私は大っ嫌いである(笑)。
 
Giorgiaの新作 “Senza confine” の歌詞をページ翻訳で一旦英語に翻訳し、それをさらに和訳しながら読んでみると、如何にも音楽の歌詞らしく明確な理由付けなど不毛と思える程の抽象的な名刺が並んでいる。
だがこの動画を視ている限りGiorgiaが暗に今の地球や地球環境或いは人類の意識の低下に対する危機感を意図してこの歌詞を書いたのではないかと、うっすらとこの作品の全体像の一端が垣間見えて来る。
 
J-Pop以外のポップスの作品に最近この兆候が強く見え隠れする、そのことに対して多くの人類が鈍感になっていやしないかと私は別の危機感に時折心が震えて仕方がない。
 
サンバやショーロ、その他タンゴからスペインのポップス等の歌詞を紐解いて行くと、激しく燃えるようなビートの彼方に実は悪しき政治体制への批判や人類の朦朧とした意識に対する危機感、さらには人類の滅亡に対する危機感(絶望感)等を意外に素直に表現している楽曲を数多く見掛ける。
例えばコロンビアのアーティスト Monsieur Periné も新曲 “Prométeme” のP/Vを通じて、人類滅亡に対する危機意識や現政治体制へのアンチテーゼを明るいメロディーに乗せて高らかに歌い上げている好い例かもしれない。
 


少し視点をずらして、あのK-Popのグループ “NewJeans” の新作 “ETA” の中身を見てみると、やはり男女関係を通じて少々怖い内容のメッセージが込められていることが分かる。

動画の中の主役は欧米人と思える女性で、彼女の恋人の浮気現場をNewJeans扮する親友5人が彼女たちのライブの最中に目撃すると言う内容になっている。主役の女性は既に恋人を殺害しており、男性の遺体を車で移動する最中の妄想を含めた脳内ストーリーとして動画が進行して行く。
映像や表現形態は異なるが、何れも人の「命」の行方について描かれており、見ていて背筋が寒くなる。
 
実は動画の映像描写だけでなく、イタリアンポップスとK-Popにはコード展開やメロディーメイクにも多数の共通点が見られる。
両者はある種 “トニック” と呼ばれるメインのコード(Ⅰ度)に解決せず、サブコードをうろうろするコードの連携で楽曲が進んで行く特徴が見られる。
Ⅱ度 ⇨ Ⅲ度セブンス ⇨ Ⅲ度マイナー ⇨ Ⅵ度(マイナー)、分かりやすく砕くと、Dm ⇨ E7 ⇨ Emin. ⇨ A7sus4 (A7)‥ と言う感じだろう。
これは今世界中のK-Popフリークをこれでもかと泣かせまくっている新しい王道コードとも言える。それを私は「涙の王道コード」と命名して呼んでいる。
 
トニック(Ⅰ度)には絶対に解決しないコード展開は、どこか現在‥ 絶対に平和な解決に向かおうとしない人類の意識の酩酊状態に似ており、それはJ-Pop以外の多くの世界の音楽で共通項のようにコードプログレッションに用いられている。
 


もっともっと内容を膨らませて綴ることも出来るが、余り話を膨らませ過ぎると焦点が大きくブレてしまいかねないので、早速この記事の最後にNewJeansの新譜 “ETA” ともう一つ、私がずっと気になっているNewJeansのM/V “Ditto” (side B) を掲載しておきたい。
 
これは私の個人的な解釈に過ぎないが、どう逆立ちしてこの動画を視ても私にはこれが「死者の思い出」を描写した内容に思えて仕方がない。
だが多くの音楽ライターやYouTuberがこの “Ditto” (side B) の動画を「思春期の男女が恋愛を成就させる迄のプロセスだ」と話しているのを見ると、何とも心の古傷をかきむしられるようでたまらない気持ちになる。
 

 

戦う音楽/ フラメンコ (Flamenco) David Palomar – “Libertad”

昨日の私の週末恒例の「世界の音楽/ 新譜チェック」の中には数曲のRumba Flamencoの新譜が散見出来たが、やはりフラメンコと言ったら此方だろう。

丁度YouTubeのマイリストの中に、David Palomarの最新動画を見つけた。
 


そもそも私はLive音源には肯定的ではないが、この種のフラメンコならば例外だ。

彼等は空間や外壁、家屋の壁を震わせながら社会に戦いを挑むべくフラメンコを歌う。それは戦いであり反骨精神の顕れであり、そして彼等の人生そのものだ。

かつて私もワールド・ミュージックだけを取り上げながらそれらの音楽を和訳し、日本語の詞に書き換えてはそれを再現する為のバンドを組んで活動していた。
その中では常に女性のヴォーカルがトップを取っていたが、彼女は各々のジャンルのダンス・ミュージックを再演歌唱する際、一切のダンスを拒絶した。

おそらく「照れ」感のようなものが彼女の舞いを遮っていたのだろうけど、聴衆側からすれば彼女のそれは音楽や表現に対する拒絶の意思と捉えられても致し方なかったと思う。

このフラメンコの動画を観ていても分かるように、彼等は振り付けとしてダンスを舞っているのではなく、彼等自身の社会的立場への反発や理不尽さへの訴えかけとして自然と体がその意思表示をするところの「舞い」として、世界に向かって舞っているのである。
 

骨を鳴らす。

彼等は喉のみならず骨を使って、彼等自身の音楽を体現して行く。その為に骨を使って舞うのだ。

以下に歌詞の一部の和訳を掲載しておきたい。
 

一歩を踏み出す方法がわからず、鎖で縛られました
一歩踏み出す方法もわからず もう飛びたかった
しかし、厳しい現実に直面しました
彼らは私の両翼を切り落としました

歩き始める前に
神は天国に遣わす
空腹の中で私は命令する
そしてアートではLoLaのルールがある

そしてマノロ・カラコル
誰が結ぶのか、誰がスイッチを入れるのか、
お金を盗む人。

誰が結ぶのか、誰がスイッチを入れるのか、
お金を盗む人。

誰が結ぶのか、誰がスイッチを入れるのか、
お金を盗む人。

もし私がその歌を発明したとしたら
それがインスピレーションの源だった

新しい世代の
立ち上がって叫ぶ
彼に正体を現して
アンダルシア・リブレのために戦わせてください

私は自由を売りません
私は自由を売りません
私は手綱のない馬です
手綱も頭もなし

誰も私を飼いならさない
誰も私を黙らせることはできないということ

ノー、ノーとは言わないでください
あなたがそこに到達できることを

自分の魂に制限をかけないでください
夢、願望、愛したいという願望。‥‥


日本にも多くの表現者や音楽家、演奏家たちが暗躍するが、彼等は一体何に向かって生きており、何に向かって音楽で語り掛けているのだろうか‥。

勿論戦う音楽だけが全てではないが、Liveと言う表現形態を取る音楽家が自らを「音楽家」だと名乗るのならば、それが誰の為の祈りであり、誰の為の憩いであり、そして実質的にどこに向かってその烽火を上げて叫んでいるのか‥。

一度そのようなことについて、各々考察してみるのも良いではないか。