破壊芸術としての現代音楽への考察

日々、なるべく美しい音楽だけを吸収するよう努めているので、今回久々に破壊芸術とも言うべき汚染された音楽を耳にし、胃の痛む数時間を過ごしている次第である。

現代音楽 ‥

何と汚い音楽だろうか。

事の発端はと言えば、第72回「尾高賞」に作曲家の権代敦彦の作品が選ばれたと言うニュースを小耳に挟んだことが切っ掛けだった。
権代氏は私の一つ下の学年であり、彼の音楽も人柄も実は知り尽くしている。人間的にはとても温厚で上品であるが、その時代から権代氏の音楽は無秩序で破壊的であり、数十年を経てもそれは変わることなく健在だと言う点が個人的にはとても残念だ。
 

 
そもそも現代音楽とは何か‥。
思うにこれは様式美を離脱した無秩序かつ破壊的な楽曲スタイルを総称する名詞であり、とてもじゃないが食事中は勿論接待の席にもおいそれと聴くことなど出来ない。

実際に私も何十~百曲近くはこの現代音楽と言う手法の音楽を書いており、その数曲は実際に初演もされている。
学生時代にはピアノ科に籍を置きながら私は、実際には毎日音楽コンクールの「作曲部門」に何度もエントリーしたものだった。恩師は三善晃氏だったので必然的に調性音楽の作曲は敬遠され、仕方なく現代音楽の手法でかなりの数の作曲に携わったが、大学卒業後に私は自身が書いた全ての現代音楽手法の楽曲を廃棄処分した。
 

当時の話を始めたら終わりが見えなくなる程ネタは尽きないが、今になってざっくり振り返ってみても現代音楽界隈からは一つも名曲が生まれていないことには、何の疑問も感じない。
あえて名曲を挙げるとするならば、ジョン・ケージが作曲した「4’33”」ぐらいだろうか‥。
 

 
確かにこれは名曲だ。なぜならば4分33秒間無音だからである(笑)。
 

話を権代敦彦氏に戻すが、折角なので権代氏の作品を幾つか聴いてみた。‥だが、偶然私が耳にした全ての楽曲が悲観的で暴力的で尚且つ様式美不在の破壊性以外の何も感じない。
そもそも様式美を完全に蔑視する現在の現代音楽と言う防空壕はむしろ、多くの作曲家の不勉強と才能の無さを余りに擁護し過ぎたのではないだろうか。

調性音楽が書けない人に、その先の音楽が書ける筈がない。私が桐朋音楽大学に在籍していた時代から脈々と続く調性音楽蔑視の念はもはや、呪いと化しているように見える。
書けないことへのコンプレックスを大いに抱え込んだ作曲家もどきが卵一つ生み出せない現実から、命からがら逃げ込む為の現代音楽業界と言う防空壕そのものが防空壕として機能していないのだから、そこから生まれ出て来る人材に作曲スキルの機能不全が起きても不思議はあるまい。
 

 
リラ星最後の巫女の視点で申し上げるならば、早ければ百年後には現代音楽は消えてなくなっているだろう。
まして地球外生命体がその頃地球に入植して来た場合には、ビートルズでもマドンナでもマイケル・ジャクソンでもない、かと言って癒し系と言う偽善音楽とも異なる、美しい空気のように穏やかで鼓膜を叩き割ることのない、静寂と音楽の中間の調和の取れた美しい調性音楽を愛するだろう。
 

 
調性音楽は出尽くした‥
等と言う作曲家の卵たちは既に1980年代には大勢私の周囲を取り囲んでいた。その要因として挙げられるものがあるとすれば、JOC ことヤマハ・ジュニアオリジナル・コンサートの台頭だったと思われる。
JOCには私も参加し、当時順位の付け替え騒動でかなり騒ぎになったことについては、同じ回のJOCにエントリーした参加者であれば誰もが知るところだ。
 
確かにあのイベントは後の偽善的とも思える癒し系ミュージックの悪しき土台となったと私も思うが、JOCが世に台東し一世を風靡したことで「調性音楽が出尽くした」とは私は思わない。
それは何年、何十年~と富士山を見ていても富士山見物が終わらないことと同様で、自然はその星が滅びない限り永遠に終わらない。
調性音楽をあえて言うならば、「終わらない音楽」だと私は思っている。
 

だが現代音楽は破壊音を用いなければ開始することも不可能であり、そんなものを地球外生命体が愛好するわけがない。権威至上主義の音楽業界は、早く消えてなくなるべきだ。
 

大気が薄く、視界も曖昧な星に静かに鳴り響く音楽の存在を既に、私は知っている。地球上が一刻も早く静寂の音色に深く包まれることを、切に祈り続けたい。