祈りと音楽と (Aram Gharabekianを想う)

数年振りにアルメニアの音楽に触れた。
とある音楽ライターがそのジャズ・ピアニストを紹介しており、「アルメニア」と言う文字が瞬時的に私を過去に引っ張り込んだのか、暫し私は時間を移動した。
 
3I/アトラスの接近と、間もなく訪れる母 (故) の誕生日間近の彼女の念の高まりとが相まって、このところすこぶる体調が良くない。
もっとブログその他色々書きたいことがあるのだが、体も心も気力も上手く作動しない。
だが、そんな私を突き動かした「アルメニア」の五文字。それ自体、その音楽自体は余りにつまらなく欲望の塊のように私を突き飛ばそうとしたが、その隙間からアルメニアの指揮者/ Aram Gharabekianが奏でるアストル・ピアソラの『天使のミロンガ』 (Milonga del Angel) の音色が弾け飛んだ。
 
Aram Gharabekian (アラム・ガラベキアン) は2014年、58年の短い生涯を閉じた。
彼の棒こそが私をアルメニアの音楽に開眼させ、私は数年間Facebookにアルメニアの音楽家を応援する為のページを設け、それを運営していた。
当時ページには3,000人近くのファンが付いたが、そもそも私はアルメニアを通じて自分の音楽を普及させたいと言う希望と欲があり、結果的にページの運営は余り上手く行かなかったが、とても幸せなひと時を送ったことも又事実だった。
 
そんなことを思い出させてくれたことはある意味とても良かったのかもしれないが、同時に私が2011年の冬まで25年間近く続けて立ち去った和シャンソンの世界の稚拙さへの腹立たしさを再燃させた。
 

 
音楽と祈りが分離したのは、いつの頃からだろう‥。
今や音楽は商売と密接に繋がりを持ち、商業活動をしない音楽家は最早音楽家とは呼ばれないかのような時代である。
だが、第19回ショパン国際ピアノコンクールで審査員を務めたクシシュトフ・ヤブウォンスキ氏の問題発言にもあった通り、「芸術は再生回数では測れない。」との一言はクラシック音楽のこれまでの生温さ、軽率さに重い一石を投じることになるだろう。
私はそう信じたい。
 

時代が変わったのではなく、ある意味では音楽の側が変われないのだ。
良い音楽を生み出す作曲家がクラシック音楽界に育たなかったこと、後輩を育てて来なかった権威者の責任は大きい。
それぞれは別のジャンルの出来事に一見見えるかもしれないが、実はクラシック音楽も日本のシャンソン業界も同じような状況にあり、基礎教育以前に祈りを持たない者たちが安易に音楽世界に侵入し過ぎた。
 
音楽は色々な道具に利用されている。
それは日本のポップスで言うところの藤井風にも通ずる問題であり、彼の場合はサイババ教義の布教に音楽を利用し、それで荒稼ぎをしているのだから手が付けられない。その悪しき言動にまんまと騙されたまま乗っかって、見聞きしたことをなかったことにして藤井の応援を頑固に止めようとしないファンも、藤井風と同罪だろう。
 
だがその一方で、本物の祈りを生涯捨てずに短い生涯を閉じたAram Gharabekian (アラム・ガラベキアン) のような音楽家が実在したことを、絶対に忘れてはならない。
それは特定の神に対する祈りを越えて、音楽や演奏、しいては指揮棒一つで人々を祈りの中心に引き寄せ、集めて行く力を持っていた。
 
最近は殆ど使用していない (広告が多過ぎて使用出来なくなってしまった‥) Facebookで繋がっているMario Stefano Pietrodarchi氏とアラム・ガラベキアンの共演動画を再試聴し、まさに今心が震えて止まらない。
 

 
世界中にアストル・ピアソラの音楽を収録した動画は山のようにあるのに、私が聴きたいと思うのはこの動画だけだと言っても過言ではない。

Mario Stefano Pietrodarchi氏はどちらかと言うと情念タイプのやんちゃなバンドネオン奏者だと思うが、そんな彼の情念過多にも陥りそうな演奏をアラム・ガラベキアンがしっかりと、強引なまでに上から理性で抑え込んで行く様は圧巻だ。
ピアソラとはこんな音楽性だったかと耳を疑う程の、あまりにも完成された様式美がただただシンプルに胸を打つ。
 

 
私がかつて愛したのはアルメニア人ともアルメニアの音楽とも違う、一人の指揮者だったのかもしれない。
気品を備え、時には全く指揮棒すら動かさずに音楽全体をまとめ上げて行くアラムの棒を見つめていたら、ふと、3I/アトラスの好奇心と鉱物的な知性の両方と折り重なった。
私にはないエレメントに、きっと今の私は振り回されているのだろう。
 
ここ最近のめまいと集中力の無さが余りにも自分らしくないと苛々している、そんな私が嫌になって来る。
 
何もかもが悪霊の力だとするならば、それを振り払う武器は文字通り「理性」に尽きるのかもしれない。
そんな理性と、クラシック以外の音楽に目覚めた8歳頃の自分を、Aram Gharabekian (アラム・ガラベキアン) が再び思い出させてくれた。
 
この記事の最後に、私が愛して止まないアラム指揮のLibertangoの動画を貼っておきたい。
(R.I.P Aram G. 🌈)
 


テレパシー能力について

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先週半ばから酷い風邪を引き、珍しいことにそれは最初から気管支炎の状況と共に発症した。
身体の構造上私は「風邪」と「気管支炎」を常にセットで発症し、順序としては風邪が先、後遺症として後に気管支炎が残る形になるのだが今回はその順序が全く逆のかたちで発症した。

そのことの気付いた私は発症直後から直ぐに気管支炎用の漢方薬を服用し始めたが、さらに珍しいことにいつも飲んでいる漢方薬が私の体に副作用のような状況を発生させた。

投薬後、寝室からリビングを突っ切って台所に向かうたった10歩程度の距離で、呼吸が上がってしまうのだ。

現在未だ気管支のゼーゼー音がかなり根深く残っている為、問題の漢方薬を減薬しながら服用しているが、近日中に近所の漢方薬ストアに出向いて薬剤師に色々相談に乗って頂こうかと思って居るところである。

 

風邪 & 気管支炎の最中は兎に角色々なことが面倒臭くなり、必要最小限のSNS活動のみに制限し、日中の大半を何もしないで過ごしていた。何もしないと言うより、出来なかった。

一気に37度台から38度8分辺りまで熱が上昇したかと思うとそれが一気に35度台にまで下降し、次の瞬間には再び38度台に駆け上がる熱の乱高下で私は、完全に気力・体力を喪失した。

 

ネットを離れている期間、それは必ずしも好くないことばかりではなく、私にそれまでの私のネットの中の活動に対し色々なことを考えさせてくれる好い時間を運んでくれた。

ここ最近のFacebookの「いいね」の乱打に対する私の不満や憤慨、その原因が本当は何なのかについても再度、あらためて考えさせてくれた。

 

 

先日こんな事があった。

先例にも漏れず私がシェアする写真や動物の可愛い記事等に、ガンガン「いいね」を押して行く人たちに向けて私は或る記事を発信した。
その記事に私はお願い事ではなく、私の中の「嫌がっている事」についてのみを記載した。

 

私の中で「いいね」とコメントは(一部例外を除いては)常にワンセットであり、それが他記事のシェアものではない限り「いいね」と言うスタンプに対する思いをコメントに残して頂きたい私の意向を常々、TLに綴っていた。

それは夫が見てもくどいぐらいの分量でそれまでにも何度か発信しており、それでも尚且ついわゆるFBFとでも言うべきSNSの中だけのフレンドたちの一部が、私がTLに掲載する記事を上から下まで舐めるように「いいね」だけを押しまくり、消えて行くのだ。

 

問題は、両者が実際には知り合いではない… と言う点にある。
知り合いではない人たちが何を考えているのか… 等と言うことを逐一考えることも面倒な上に私は、彼等がどんなモチベーションと動機で「いいね」を私の記事に押して立ち去って行ってるのかと言う彼等の心情を、全てキャッチすることが出来る。

 

つまりこれ、簡単に言うところのテレパシー能力と言うことになるが。

 

これが案外厄介で、普通は人に話しても先ず理解を得られることはない。なので私はそういう自身の体質をあまり言わないようにして「いいねを押す時は必ずコメントを添えて下さい。そうでなければ無視して下さい。」と懇願し続けて来たが、それを公然と(或るいは善意で)無視した人物の意見に触れることが出来た。

つまりはその方の言い分はこうだった。⇩

先方のコメント:
記事に一個でも「いいね」が付いていたら嬉しいでしょ?だから押すんですが、いけなかったでしょうか?


回答
:

はい、私はそれをやめて下さいと何度もここに書いているわけですから、人が嫌がることを平気で続けるような人とはフレンドで居ることが出来ません。
よってあなたとのフレンドリンクを解消させて頂いた経緯がそこにあります。

 

まぁ私のこの言い方には相手もカチンと来たのか、もしくはやっと事の経緯に気が付いたのか、以後私の記事にその人からの「いいね」のみの迷惑行為はなくなった(笑)。

 

 

手前みそな言い方にはなってしまうが、SNSでは私ぐらいの中途半端に知名度のある人間が、意外に大きな迷惑を被るケースが多いのではないだろうか。
例えば上記のような場合。

 

相手の心の声: 
── 記事に「いいね」を貰ったらそれがたった一個でも有難いでしょ?
だから僕に向かってコメント欄で「ありがとう」って言ってね。僕も(貴女のような中途半端な有名人から)もっともっと有難がられたいんですよー。

 

⇧ 私は「いいね」と言うたった一個のスタンプから、そのスタンプを押して行く人たちの全ての心の声をキャッチすることが出来る。
最初は「いいね」スタンプの数に憤慨しているのかと思いきや、そうではなく、同じスタンプの中に響く思いが各々異なることをつぶさにキャッチする度に苛立つ、そのプロセスに本当に怒り果て、疲れ果ててしまったのだ。

でもそんなことを書いても「嗚呼またまたそうやって超人ぶってさ。だったら今私が何を食べたがってるかアテてみなよ。」等と言う暴言を本気で吐かれるのが関の山。実際そういうことはこれまでに何度も何度も起きていたことなで、結果的にはそれが当たっても当たらなくても相手は同じく憤慨し嘲笑する格好で私を揶揄することには変わらなかった(笑)。

 

だが、そんな話を昨日久し振りに夫に打ち明けてみたところ、意外にあっさりとこう言われた。

 

:
── Didiちゃんさ、もうね、色々と好い音楽を量産して来た経緯もあるわけだしね、そろそろそういう自分のことを正直に人に話して行った方がいいのかもね。

「私にはテレパシーで人のココロの声を掴み取る力があるから、アナタのどす黒い本音も全て聴こえてそれが本当に煩わしくて仕方がないので辞めて下さい。」 とありのままね。

 

なのでこの記事をその記念の記事としてここに、私がテレパシー能力の持ち主であることを大々的に書き残しておくことに致したい。

 

 

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まぁ何はともあれ、先ず風邪 & 気管支炎を完全に治してしまわねばならない。が、意外に病気に臥した時等に限って自分自身を深く見直す切っ掛けが生まれるし、少しFacebookの身辺整理をしたいと思っている。

私のこういうやり方に対してはきっと遠巻きに余り快く思われない方々も多いと思うが、人の心の中のみならず木々の声や動物の心の中身まで毎日つぶさに感じ取りながら生きている人の気持ちを少し考えて頂ければきっと、中には私のこの一見変哲な行動を少しはご理解頂ける方も現れるかもしれないと言う期待を込めて、今日は病み上がり間近の記事を更新してみた。

 

追記としてFacebook Pageへの更新内容の変更について一言。

Facebook Pageには極力誠心誠意を込めて記事を書きたいとずっと思って来たが、もうかれこれ一年以上もの間、この記事の例に漏れず私がセレクトする写真にだけ反応した「いいね」の乱打が尽きない。
勿論「いいね」の真意等を明かす先方からのコメント等はなく、ただただ無言で「いいね」と言う既読のマークだけを置いて消えて行く人たちが後を絶たないので、暫く写真のない文字だけの記事或いはLink投稿のみにFacebook Page内の発信内容を制限して行くこととした。

おそらくそうなれば私の記事は広く拡散する能力を失い、それまで「TLに上がって来たからいいねを押した」程度のFacebookファンのTLに私の記事が上って来なくなるだろう。

そうなった時に、「あれ?」と気付いて私のFacebook Pageお知らせ機能を『on』に設定してでも熱心に私の日々の動向を追跡して下さる方々を、私も又この目で確認したい。

惰性ではなく、真剣に一個の芸術家を思って下さるファンの方々だけの為に、暫く私は文字のみの記事を発信して行くことになるだろう。

 

 

 

・記事中で使用させて頂いた写真は何れも eberhard grossgasteiger さんのPhoto📷
赤とグレーの合わせ方がとてつもなく美しい。

 

・この記事を書きながら聴いていたBGMは此方。
🇦🇲途中アルメニアのTrad『Dle Yaman』がDudukで何度も何度も響き渡る、リズミカルで美しいロングトラック。