[表現評論] “Aqua” (坂本龍一) by Cateen かてぃん

絶対にやると思って見てました、この人 角野隼斗‥(笑)。

誰もが知っている(多分‥)楽曲を、調律とフェルトの仕様を若干カスタムした、今流行りの「壊れたピアノ」テイストでキメて来たつもりでしょうけど、先ずはかてぃんの精神性のタガが外れているように見えて仕方がない。

そもそも原曲が然程名曲でもないので、どんなに深遠な表情だけを取り繕っても指先から放たれる音が全く呼応していない。

それにしても彼のこの出方とタイミング‥、「俺様が教授の後釜だぞ」と自ら名乗り出る辺りが何とも安っぽいではないですか(笑)。
その安っぽさだけが「ポスト教授」と言う以前にこの人には、根底となるアカデミックなエレメントがごっそり抜け落ちていると言わざるを得ない。
 


Twitterでここから上の部分だけをツイートしたところ、角野隼斗のファンからのアンチコメントがリプライで投稿された。
彼等の心情としては、「そんな評論書く必要ないと思います!」とのことだそうだが、私は角野隼斗のファンでも何でもないので淡々と表現解説をしたに過ぎない。
 
私にとっては「誰が好き」だとか「嫌い」だとか、そんなことは最早関係がない。
あるべきものとして正当か否かを評論するのが、私の音楽評論スタイルなので悪しからず。
 

さて、話を戻そう。
動画冒頭で紹介した楽曲 “Aqua” の元曲の作曲者本人のライブ動画があったので、貼ってみよう。
 


注意深く耳を澄ませば、両者の音像の取り方の相違が分かるだろう。

細かく指摘するとしたら、かてぃんこと角野隼斗との演奏解釈の違いは左手の小指の落とし方。

坂本龍一の演奏の特徴の一つとも言えるルートの音量が、メロディーを遥かに上回っている点は恐らく、サカモト氏の持病の一つである難聴と深い関係性があったと私は見ている。

付け加えるならば、サカモトの耳が他の表現者よりも高音を強くキャッチする性質を持っている可能性も大。 クラシック音楽を演奏する際には右手のメロディーが眠ってしまう点に於いては、それが「仇」となり得るところを、サカモトは自身のブランドイメージでそのリスクを回避したとも言える。
 
平たく言えば、どんなにつまらない音楽であっても「ブランディング」によってそれが高尚な音楽だとリスナーに思わせることが出来ると言う意味だ。
良くも悪くもそれは表現のマジック、或いはトリックと言っても良いだろう。それらのトリックを自身の演奏に用いることに於いては私は一切否定はしない。少なくとも母体となる原曲が「とてもつまらない作品だ」と言うことを重々認識した上で、上手にトリックを使う手法も時には必要になるからだ。

 
だとしても角野隼斗の眼鏡が似合っていない。
知的な人物像を意識してのことだとは思うが、そもそも日頃「チャラ弾き」或いはチャラい表現手法で音楽タレントに邁進しているならば、こういう時だけ出て来ずにチャラいミュージシャンとしての方向性に徹すれば良いだけのこと。
 
人の訃報を褌に相撲を取るような人間に、ろくな音楽家は居ないとあえて断言しておく。

余談だが、この調律不安定なピアノをあえて使用した音源がこのところ急増しているが、「これは調律が狂っているわけではないですよ」と助言して来る人も後を絶たない。
少なくとも私の耳にはこのピアノが「正しい音源」「正しい調律」に聴こえない。特にフェルトに細工を施しているのか打鍵の着地点が酷く鈍って聴こえる為、残響が濁って聴こえるが、多くのリスナーたちがそのことに全く気が付かない理由が知りたい。

誰かご存じの方がいらしたら、DMを求ム。
その際は私へのアンチ感情や敵意からのメールではなく、理知的な説明でお願いしたい。
 


さらに余談を付け加えるとするならば、角野隼斗も坂本龍一も両者共に「体を縦横に揺らしてリズムを刻むディスコ・ミュージシャン」である方が似合っている。
特に坂本龍一に於いては絶対的にピアノが下手なので、どれだけ神妙な表情で生ピアノを弾いたとて既にその音楽にもサカモト自身にも「汚れ」が施されてしまった、同一人物の劣化版なのだから。
 
リズム・ミュージックに一度逃避した音楽家は、音楽家自身のベースに強いアカデミックのエレメントが染み付いていない限り二度とアカデミックな領域には戻れない。
それは霊質や霊体(過去世の蓄積)とも深い関係性がありそうだが、その辺りの解説はここではあえて割愛する。

参考までに、以下の動画を掲載しておく。
しかめっ面で “aqua” を演奏しているサカモトよりも、余程音楽が弾けていてキラキラしている。つまり此方の方が本来の坂本龍一だと言う、これが分かりやすい証拠の品である。
 


⇩が⇧の動画の原曲(作曲者: Tei Towa)。
 

 

そしてこの記事の最後に、坂本龍一が最高のファッションでコケた “Geisha Girls” の動画も掲載しておく。
 

 

該当YouTubeは外部サイトの埋め込みを拒否しているようなので、YouTube上で閲覧して下さい。

 

揺らぎ世代と “揺らぐ表現” との関連性 – arabesque Choche

男女ユニットのChouchouから作曲家(男性の方)、arabesque Chocheのニューアルバム “eclogue” がリリースされたと言うので聴いてみた。

最近流行りのアップライトの蓋を全開にして、ハンマーのカタカタ音を入れた音質で全編レコーディングされている。
最新の「世界の音楽」のピアノ部門にも最近見られる、要は流行に乗った形の安易な構成だ。
これは言わばこの音質にさえセットしておけばリスナーを、往々にして「思い出」の世界観の中に誘導出来るので、余り作曲ないしは演奏が得意ではないピアニストが最近こぞって乱用している。
印象としては「過去は素晴らしかったが、今の世界は余りに絶望的だ。」と言う、陰鬱な後味が残る感じで私は好きではないし、この「思い出カタカタピアノ」が冒頭に現れた瞬間曲を変えたくなる(笑)。
 
簡単に言うところの「ピアノのLo-Fi化」であり、要はフォーマルな演奏技術を持たない演奏家の最後の砦とでも言った方が適切だろう。
その中でも例えば Stephan Moccio の新作 “The Sound of Snow” のように、楽曲スタイル自体がLo-Fi化していないしっかりした楽曲もあるが、ならば何故Stephanはこの作品を「思い出カタカタピアノ」の音質で表現しなければ居られなかったのか、わたし的には謎である‥。
 


さてarabesque氏のニューアルバムに話を戻す。
 
楽曲的には目新しいところはなく、全体的に夢の中にぼんやり佇んで居るような印象。
それにしても何故このアーティストは毎度毎度手法を変えるのだろうかと言う疑問と同時に、やはり決定的な欠点は作曲者(演奏者)自身の華の無さだろう。
やはりarabesqueが最も光って見えるのは、相方であるjuliet Heberleがヴォーカルとして参加した時の方だと言える。
     
そもそもゆとり世代の側に近いアーティストだと言うことも、arabesqueの表現や手法の揺らぎの大きな要因かもしれない。要は作風が安定せず、それが作風の一貫性の欠落に直結していると言うことに尽きる。
前作は “no go” のラインでアルバム “Dialogue / Daydreaming” をJulietのヴォーカル入りでリリースしているが、このアルバムの企画は完全に “Lo-Fi” 一択だった。
 


気になったのはJuliet Heberleの声の劣化だ。自身の音域にはない高音を無理矢理絞り出そうとするが余り(恐らくこれはarabesqueの希望によるものだろう‥)に、声が持つ本来の色艶がかなしいまでに損なわれた結果なのだろう。
作曲家とヴォーカリストが夫婦であるばかりに起こる「あるある」な現象の一つとも言えるが、それも企画者或いは作曲者がその観点をしっかり踏んでいれば未然に防げる事故とも言えるだろう。
 
彼等のリスナーを見ていると自分のコメント等を取り上げて欲しい‥ 的な欲求の強い人が多く、Chouchouの二人がウケるようなコメントが多い。ある時は詩的なコメント(レビュー)をわざと投稿したり、又ある時は若干スパイシーでarabesqueやjulietの二人が涙しそうな言葉を選んでSNSにポスティングして行く‥ と言うような。
なのでChouchouの両者は半ば反射的にそんな言葉のマジックに引っ掛かり、それらをさらにリポストして行く間に「ミイラ取りがミイラになる」と言う状況に陥っているようにも見える。

 
先日YouTubeでarabesque氏は新作『eclogue』に因んだLIVE配信を終えたようだが、ざっと見たところ楽曲の説明が大半でさらにはarabesqueはアルコールを飲みながら収録に臨んでいる。
ガチの表現者であればこういう場面で飲酒は避ける。つまり「ほろ酔い」なarabesqueのぐだぐだトークが好きなリスナーしか周りに居ないとも言える、見ていてとても怖くなるような、もしくはとてもつまらないLIVE配信だった。
 


私が最初に彼等 Chouchouを知ったのは、another dawnだった。
原曲バージョンは別にあるがそのバージョンよりも、此方のピアノ一本(ピアノの多重録音かもしれない)とjulietのヴォーカルが織りなす世界はこの世のものとも言えない程の美しさで、尚且つ哀愁漂う歌詞はまるで3.11大地震そのままの描写とも思える箇所が随所に散りばめられ、彼等がこの先大きく日本を代表するユニットになってくれたら良い‥ と心から祈ったものだった。
 


だが彼等にも段々と欲が出て来たことその他彼等の始まりとも言えるセカンドライフの色を払拭したいと言う願いが強くなり、少しずつ彼等本来の軌道をそれて行った感は拭えない。
その後リリースされたChouchouとしてのアルバム『最果のダリア』はarabesqueのメロディーセンスを上手くjulietが際立たせる好い形が反映され、透明感溢れる美しいアルバムだった。
 


だがその後の作品はarabesqueが迷走するような状況が続き、子育て期間中のjulietの露出も少なくなった。
 
arabesque Chocheも自身をクラシックピアノの演奏家に仕立て上げてみたかと思えば、突然EDMのようなダンサブルな作品を放ってみる‥ 等のどっちつかずな状況が続いており、最近は実験音楽がそのまま新作としてリリースされるような状況が続いている。
 
如何なるスタイルであっても作風が壊れない、これが名作曲家には絶対必須だ。
その意味ではarabesqueは色々な条件を変え過ぎており、その変化に作曲者 (arabesque) 自身が追い付いていない感が拭えない。
さらには「ここぞ」と言う時に必ず何かしらアルコールを比較的大量に体内に取り込む悪い癖は、もう断ち切るに断ち切れないところまで来てしまったようだ。酔っ払いのグダ巻きほど、聞くに堪えないものはない(笑)。
それはトークに於いても楽曲に於いても同様だ。真夜中に書いた手紙を翌朝読まされる読者の気持ちに立てば分かると思うが、そのような思いを絶対にリスナーにさせてはいけない。
 

新作 “eclogue” はさながら、arabesque Chocheが綴った真夜中の手紙を翌朝素面(しらふ)の受信者が読むような感じで、一度は目を通しても二度までは読みたくない‥ と言っても良い出来栄えだ。
それでもiTunesの部門チャートでは瞬時的に首位になるわけだから、彼等には相当我慢強いファンが付いているのだろう。勿論それはarabesque Chocheと言う男性ピアノ・アイドルに対するファンであり、楽曲や表現手法等を余り理解していない、かつ比較的身近に遭遇する確率の高さを逆手に利用する類いの、質の良くない方のファン層に取り囲まれているようにも見えて来る。
 
ある意味羨ましく、尚且つとても危うい現象だ。
 

謎の日本人DJ, Hiroko Yamamura

昨日は馴染みのホテルで、とても厳かな和食懐石(タラの芽コース)を静かに堪能して来た。未だ体調が万全ではないので帰宅したらいつもより少し早めに就寝の予定が、完全に狂った。

YouTubeあるあるで本当によくある話だが、今回は謎の日本人女性DJ Hiroko Yamamura の圧倒的な卓ワークに完全にロックオン。

中肉中背よりも少しふくよかさを感じる、中年よりは少し年代が進んだ女性と言う印象のこの人の圧倒的なパワーとセンスの良さに、会場の海外の客も完全に飲み込まれてしまったようだ。
 


先ず選曲のセンスが良いのと、各曲とリズムの繋ぎが豪快で大胆でよどみがない。ドラムだけ、上物だけで楽曲を見事に引き延ばしながら重いベースでグイグイと尾骶骨にパンチを喰らわして来る。
これが動画ではなく音声のみで聴いたとしたら、恐らく多くのリスナーが、このDJを女性だとは思わないだろう。

圧倒的な破壊力と選曲とブリッジで攻めて来るが、本人は至ってクールで汗臭さもないのだからかなりの体力 & 気力の持ち主だ。
 

私は丁度今から15年近く前に、ドイツやイタリア辺りでブイブイ言わせて活動している複数のDJと関係性を深めたことがある。
当時はテクノとかアッパーテクノよりも、チルアウトミュージック或いはDeep TechnoやDeep House辺りが流行していたこともあり、意外に肉食系よりも草食系DJの方が私の周りには多かったように記憶している。

一方この人 Hiroko Yamamura は普段一体どんなものを食べたらこんなにアグレッシブになれるのか、是非一度ご本人にお伺いしてみたい程兎に角凄い。
 


Room序盤からかなりブッ飛ばしては来るが、一曲一曲のTimeを超ロングで引き延ばして来るのは彼女の特徴かもしれない。
私がこれまで出会って来た他の海外のDeep HouseやTechno系のDJは、一曲のTimeがここまで長くはなかったように思う。

まるでRoomで座禅でも組んで瞑想しているような楽曲のTimeの取り方は、彼女の持つスタミナとも関係性があるだろう。兎に角繋いで繋いで伸ばして行く様は、さながらパスタの生地を圧倒的な薄さにまで引き延ばして行くパスタ職人のそれをも彷彿とさせる。

それともトルコアイスの、あの長~いクリームの根っこから先端までの曲芸的かつ芸術的な長さにも精通するだろうか‥。
 


途中何度かドラムとベースを抜いて、観客たちはそこで若干の息抜きをしているように見える。ずっとベース & ドラムが鳴っていると確かに鼓膜が疲労し呼吸も荒れて来るので、その辺りはこのジャンルの音楽をRoomで鳴らしながらも観衆に極力呼吸量を上げさせないよう、彼女は周到に計算して曲を繋いで行ったのだろう。
 
中盤くらいからいきなり人が増えて、あちらこちらから歓声が上がり始める。そのタイミングを見計らいキャッチーな効果音で会場を丸め込んだ途端に、一気にドラム & ベースで空気を押し込んで行く様は圧巻だ。
 


上の写真は動画 25min. を過ぎた辺りだ。観客の大半がもう、すっかり出来上がっている(笑)。何も考えられなくなる代わりに、ただひたすらテクノの海に笑顔で飛び込んでは溺れて行くだけだ。

だが Hiroko は「まだまだだよ」と言わんばかりに、カモ~ンカモ~ンと手招きをして聴衆を挑発し続ける。
 
動画は1時間以上にも及ぶ。
この続きは是非、YouTubeでご覧あれ。大音量のスピーカーか、或いはハイスペックのヘッドホンで鼓膜が破れない程度の大音量で聴くことをオススメする。
 

 

以下、関連記事も是非 🎛️

 

坂本龍一「12」- けっして心地好いとは言えない音楽

少しだけ応援しているユニットの作曲担当の男性が坂本龍一のニューアルバム「12」を聴いている‥とツイートしていたので、私は別の意味を込めて同アルバムを視聴している。
とりとめのない各音楽の上に、坂本が思う「特別な日付け」がタイトルに乗っている。

音楽にはそれぞれ(きっと)誕生秘話があると思うが、さしずめこのアルバム全体を見回すとそれが彼自身の未来を指し示すようなダークな楽曲が並んでいるので、きっとそういう意味の音楽を集めたのだろう‥。
正直私はこの世界観には参加したくないと感じる。
 


表現とは、素直に越したことはない。
技を見せつけんとして本当ならばすんなりサブドミナントからドミナントに移行すれば好いところを、あえてそうはせずに不協和音なんかを入れてコード進行やメロディーをこねくり回してみたりする‥。
そんな作曲法が「知的な作曲技法だ」等と持て囃されたのも、かれこれ3~40年も前の話。そうやって練り出された音楽の大半が土に還り、現在に至る。

思うに坂本龍一は上に書いた時代を疾走した一人であり、当の彼自身が「素直ではない音楽の世界」に背を向けて時代を逆光していた。
 
だがそんな坂本龍一が自ら、かつては背を向けた筈の時代の溝に立ち返って来たのは何故だろうか‥。

ニューアルバム「12」のM-8 “20220302 – sarabande” からは、淡々とピアノ曲が並ぶ。どこかハンガリーの作曲家 バルトークのようでもあり、その音色が段々とM-10 “20220307” に向かって壊れて行く。
 


音楽を娯楽として認識する人もあれば、「叫び」或いは「世への訴えかけ」として扱う人も居る。中には「祈り」を音楽に乗せて飛ばす芸術家も存在する。
勿論どれもありだが、少なくとも大自然の中でその音を鳴らした時に心地の好くない音楽を、自然も宇宙も受け入れることはないだろう。
その意味に於いては、坂本龍一のニューアルバム「12」は、大自然も宇宙も毛嫌いするアルバムと言っても過言ではないだろう。

あくまで彼「坂本龍一」にカリスマ性を感じて止まない人たちの為だけのグッズであり、これを音楽と呼ぶことは少なくとも私には出来ない。
その意味ではこのアルバム「12」を(極端に表現すれば)「宗教グッズ」とでも言った方が、より正確かもしれない。

特定のシチュエーションにしか通用しない「音の羅列」を、私は「音楽」とは呼ばないことに決めている。音楽とはもっと普遍性を帯びるべきであり、いかなるシチュエーションに於いても受け入れられるよう在るのが理想的だ。
 


YMO解散後、坂本龍一は映画音楽の作曲に長い時間を費やして来た。映画音楽は映像や俳優、映画のストーリーに主役が渡る為、どうしても音楽はそれらの背景以上の効力を発揮出来なくなる。
脇役として主を引き立てる為に多くのジングルも作成しなければならず、その蓄積が余り好くない形でこのアルバムに反映された感は否めない。
 
野菜の浅漬けが単体では食べられず、どうあがいても白米がそこに無ければ浅漬けも引き立たない、それに似ている。
このアルバムにはどうしたって「映像」が欲しくなる。映像が無ければ如何せん喉が渇いて渇いて仕方がない、そんなアルバムだ。
 
最高の音楽とは「Simple is Best.」を極めたものだと、私は思っている。
シンプルなものは絵画でも料理でも彫刻でも舞踏でも、勿論音楽に於いても、そこからあえて「個性」の部分だけを綺麗に拭き取った痕跡が視て取れる。

坂本龍一のアルバム「12」が上の条件を満たしているかどうかについては、この評論の読了後に各々の素直な感覚で是非とも確認して頂ければ幸いだ。
 

坂本龍一 “12” (Spotify)