社会現象の観点から考察する藤井風 そしてNewJeans

2025年9月11日、午後1時からソウル中央地裁で開催された公聴会にて、NewJeans 対 ADOR専属契約を巡る訴訟はメンバー不在の中20分で終了し、双方合意に至らず決裂した。
(同日、ミン・ヒジン関連の別の口頭期日も開催されていた。)
 

 
 
彼女たちも万策尽きた状況だが、その後に判決が下ると言う実感が未だ湧いてはいないようだ。現状NewJeansの5人は、兎に角ゴネ得で外界から目を逸らせばそれでやり過ごせるとでも思い込んでいるようだが、法律はそこまでアマくない。
 

音楽も音楽業界も、共に荒れている。

 
特に私が2025年9月11日未明に更新した記事藤井風と多重人格の可能性についての記事訪問者数がとんでもないことになっている他、それまでアンチ藤井風側に一見立ち位置を取っていたように見えていた私に豪雨のような、言葉にならない不満を含めた現実的な『圧』が押し寄せた。
一度藤井風を『サイババ二世がサイババの教義をコピペした詞で音楽をリリースし、信者を増やしているのだから、どれだけ叩いてもいいではないか!』と声を荒げて叩き屋と化した藤井アンチたちにとっては、上記の記事はその後のバッシング活動をやり辛くする内容を存分に孕んでいたのだろう。
 
問題は藤井風自身の闇の深さ、その闇の周囲に立ちはだかる藤井風の父親 (つまり毒親であると推測される‥) の存在。
父親が喜ぶことをしなければ藤井風が家庭の中、世の中に居場所を失うかもしれない‥ と言う藤井風自身の危機感及び強迫観念。‥彼の強迫観念の行く先がつまりはサイババへの帰依であったことや、重度のPTSD発症とそれにともなう多重人格障害の可能性について。
藤井風は今、本当の意味での拠り所を失った状態だ。
 
ざっと目に見えている状況を列挙するだけで、これだけの (藤井風の) 闇が露出している。
 

 
昨日外出中にふと気になることがあり、外出先でスマホから音楽年表を検索してみた。

「藤井風の音楽が良い」と言うファンが、今年になって急増したように私には見える。
藤井風が『死ぬのがいいわ』を紅白で歌ったのが2022年の年末だったが丁度その年は、KPopのガールズグループ、NewJeansのデビューの年と重なっている。

NewJeansのデビュー曲『Attention』は2022年8月1日にリリースされ、瞬く間に旋風を巻き起こした。
 

 
剛腕プロデューサー/ミン・ヒジンのセンスは当初から高く評価されていた。
NewJeansはその後『Ditto』『omg』等、それまでのKpopにはないヒール色の薄い、爽やかでポップかつメロディアスな楽曲を立て続けにリリースして行った。
勿論タレント性は元々備わった彼女たちだが、それより何よりもNewJeansの楽曲は世界中のポップスの中でも際立って光っていた。
 
世界の音楽の空洞化をNewJeansの5人が見事に埋めていた期間、多くのポップス愛好者たちはNewJeansの音楽性とその音楽性を深くユニークに掘り下げて演出 (& プロデュース) に集中したミン・ヒジンの魅力に取り憑かれて行った。
その流れに乗るようにして、特に2022年~2024年の2年間は世界中がKPop一色に染まった時期だったように思う。
 

一方藤井風は2021年4月22日にきらりをリリースしており、某バイクメーカーのCMに起用されたことで一躍脚光を浴びる存在となった。
但し検索して行くとOfficial MVの公開は2022年と表記されており、正確には2021年と2022年のどちらかがやや曖昧になっている。
 
丁度その頃目に付いたのが、Vaundyの台頭と多数のアニソンが売り上げランキングの上位を占めている状況だ。
試しに2022年のヒットソングランキングを捲ってみたが、これと言って目立つ楽曲は見当たらない。翌年2023年にはYoasobiのアイドルが爆発的なヒットを遂げるが、此方はアニソン縛りと言うこともありコアな音楽ファン層の評価は低い。
 

2022年にデビューしたKPop/ガールズグループと言えばもう一組、LE SSERAFIMが記憶に新しい。(その頃から世界がKPopで溢れかえるような現象が加速して行くが) 既に韓国はHYBEでは『ミン・ヒジン率いるNewJeans 対 パン・シヒョク率いるLE SSERAFIM』の、後に言う「ヒジンの乱」の火ぶたが切られ、それが記事冒頭のニュースへと繋がっている。
丁度2022年~2025年の期間、藤井風はそれなりに音楽活動を続けて来てはいたが、2025年9月の騒動のような熱量は見られなかった。だがその間にも藤井風のPTSDと思われる症状は進行しており、それが先に私が記事に書いたような深刻な多重人格障害を発症させ、そちらも急激に病状が悪化したように見受けられる。
 
藤井風の背後には名前の上では「厳しい教育」を藤井に施す父親の強大な存在があり、いわゆる洗脳教育と藤井風のメンタル面に侵食して行ったであろう暴力のような行為が行われていた可能性を否定出来ない。
 

 
この間私はと言えば世界中の音楽を聴き漁り、それをSpotifyのプレイリストに粛々とスクラップし、それをSNS等に告知しながら音楽リスナーの底上げを試みていたが、色々な事情で露出をセーヴしている私の知名度の低さが災いし、私の活動が一部のファンに訴求した以外には大きな旋風を巻き起こすには至らなかった。
 
仕込みは万全だったが結果にコミット出来なかったこの期間、特に2024年明けの1月にはミン・ヒジン対 HYBEのトラブルが表面化し、同年11月末日のNewJeansの契約解除記者会見へと此方も又自体を一気に悪化させて行った。
 

 
一方現在の音楽シーンで目立つには、1980年代~1990年代に日本で爆発的にヒットした『シティ・ポップ』のカバーソングの台頭で、これは2025年現在も記録を更新している状況だ。
NewJeansのヘリンも2024年の6月26日/27日に東京ドームで開催された「NewJeans Fan Meeting \’Bunnies Camp 2024 Tokyo Dome\’」で、竹内まりやの『Plastic Love』を熱唱している。
 

 
近年良質な楽曲が激減している様子は私も、毎週末の「世界の音楽」の新譜をくまなくチェックしているので痛感している。
 
藤井風ファンが言う「藤井風の音楽が良い」と言う発言は方々に散見されるが、これはおそらく他に競争相手が居ない、現状は藤井ひとり圧勝の状況が招いた結果かもしれない。
確かに一見藤井風のメロディーは爽やかかつ独特のクセがあり、それがリスナーの中毒症状を引き起こす引き金にもなっている。だが多くの音楽リスナーは雑誌やメディアで持て囃されたミュージシャンの音楽しか聴いていないし、世界の音楽を探索して聴き倒すには彼らは余りにも仕事や社会に忙殺されているので、音楽を探す時間を確保出来ない状況にあるようだ。
 
世界の良質な音楽を常に耳にしていれば、藤井風如きのジャンキーな音楽を好きになる筈がないと私ならば思うのだが、手っ取り早く美味しい音楽が聴きたい層の音楽リスナーたちは「とりあえず」の感覚でメディアが紹介するところの、藤井風や椎名林檎や宇多田ヒカル辺りを聴いて周辺のリスナーとの同調を図ろうとする。
一人だけ無名のアーティストなんか応援していたらそれこそSNSや職場等で恥をかきかねないし、「とりあえず」誰もが知っているであろうアーティストの数名の新譜をごそごそと漁っているうちに、調味料で言うところの味の素をガンガン使って出来上がったカップラーメンのような藤井風のメロディーにハマり込んで行ったと見るのが妥当だ。
 

日本の教育状況や社会状況にも、大きな問題が山積している。
受験に必要な科目以外は授業内容が軽視されており、特に美術や音楽の授業は「どうでも良い科目」だと認識させるような風潮がある。
一部の合唱好きが毎週末集まるような部活がある以外、義務教育機関の中で本格的に音楽に接する機会はほぼ皆無だ。
 
そんな学生時代の日々の蓄積を経た若年層にとって、藤井風のメロディーは過剰なまでに甘美で心地好いだろう。
 

 
記事『藤井風と多重人格の可能性についてでも綴ったように、藤井風の言動や表情は誰が見ても変だ。
勿論彼がサイババ二世として活動を更新して行くことには賛同出来ないが、だからと言って心を病んでいる可能性が濃厚な藤井風を闇雲にバッシングし続けて良い理由にはならない。
むしろ今の彼を、これ以上追い詰めてはいけない。
 
問題を解決したいのか、それともアンチ活動を介して活動家たちが大勢の匿名集団を先導することで承認欲求を満たしたいのか‥。その境界線を各自が厳しく見極め、そういった一連の藤井風バッシングの波に便乗しない方が、社会的な意味での二次災害を防ぐ近道だと私は思っている。
 
寄ってたかって特定の人物を叩きのめしている輩の大半は、匿名で活動している。自分には火の粉が及ばないよう、完全防備の状態でSNSに網を張っている。
だがそこまで藤井風バッシング活動を継続したいのであれば、バッシングする側にも覚悟と責任を負う必要があるのではないか‥。
 
味の素を常習的に使用している料理人に味の素を否定するような言葉を吐いたら、当然のことその料理人は怒りキレて反撃に出るだけだ。‥ならばそこまで信仰が進んだ人々に関しては、「一人一人摘まみ上げて真実を伝える」と言うような偽善的にも見える言動は無駄に思える。
 
 
サイババ二世の藤井風が危険人物だと感じるならば、大勢で徒党を組んだりせずに各々の言葉で客観的にその旨を発信すれば良いと思う。
心ある人はその言葉に反応を示すだろうし、そうではない人たちは唾を吐くか離れるかの何れかの反応を示すだろう。それ以上を求めるべきではない。
藤井風を応援する側も応援しない人々も、反発したい人たちも、「足ることを知る」精神を胸に留め置く必要性を感じてならない。
 

 
思うに一連のトラブルは、良質な音楽家と音楽を輩出することで解決可能だ。
是非各々の意思で、良い音楽を探して吸収して欲しい。
 
世界はあなた方が思っているよりは広い。そこには未だ出会ったことのない良い音楽が静かな寝息を立てて、リスナーを待っている。
 

 

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藤井風 – ニューアルバム『Prema』 表現解説

 
光を操るリラ星最後の巫女の私が、あえてこの人物に逆光をあてることには大きな意味がある。

2025年9月5日、藤井風のニューアルバム『Prema』がリリースされた。
私はこの作品をSpotifyで試聴する前々から、編曲 & サウンドメイクに深く関わったとされる韓国の電子系ミュージシャン250 (イオゴン)に着目していた。イオゴンが日本の問題児/藤井風の音楽をどのように料理するのか、その結果を先ず見てみたいと思っていた。
 
勿論問題児/藤井風の問題とは彼の宗教観をここでは意味し、藤井はサイババ二世として有名であるばかりでなく、藤井風の綴る歌詞の中にサイババ教義をふんだんに引用し、それを藤井風のオリジナルであるように偽装して何も知らない若年層に訴求している点を、藤井自身も最近ではさほど隠していないようにも見える。
それはけっして看過出来ない行為であることについては何ら変わりないし、長年音楽に携わり分析/解析を続けて来た私からすればここで藤井風の音楽を仮に何十回聴いたとして、それで揺らぐほど私の音楽スキルは軟じゃない。
 

 
アルバム『Prema』をざっと全曲試聴した印象は、兎に角鈍いし弱いし響かない‥ と言う一言に尽きる。

楽曲全曲がアメリカ進出を念頭に作られていると見て間違いないだろう。
だが、楽曲全体が強いアタックを必要とする構成になっているにも関わらず、藤井風の声質が余りに弱くて鈍くて、日本人向けの英語の教科書みたいになってしまっている点は松田聖子の『SEIKO JAZZ2』の冴えない出来栄え同様か、それ以上に冴えない出来栄えだと言わざるを得ない。
 

 
日本人の英語コンプレックスは藤井風には余り当てはまらないだろうと思っていたが、とんでもない話だったようだ。
兎に角声のアタリも鈍く聴こえるし、英語もだらしない。
使い古しのランニングシャツ同様に、藤井風自身も「ハーレムに舞い降りた聖者」を意識しているだろうから、成功しなかった側のBohoファッションとでも言うような倦怠感が彼の英語にも強く滲み出ており、音楽全体を一層疲労させ、貧困に見せて行く。
 

 
このアルバムの売り曲はどれだろうか?
『250 (イオゴン)』のサウンドメイクを聴く限り (私の推測が合っていれば) 、やはり『M-3: Hachikō』以外にイオゴンの熱量を殆ど感じ取ることが出来なかった。

藤井風のアルバム『Prema』のラスト曲、 『M-9: Forever Youngを聴いた時はふと、1994年にリリースされた八神純子のアルバム『Communication』の冒頭曲、Imaginationが脳裏を横切ったので比べて聴いてみたら、やはり私の脳内マッチングは正確だった。
 

 
『250 (イオゴン)』と言えばどうしてもNewJeansのヒット曲のサウンドメイクが思い出され、私の中のマイ・ベスト・250は『Ditto』を抜いて『Supernatural』が首位に立つ。
 

 

 
上記2つのサウンドメイク (楽曲) を藤井風のアルバム『Prema』と比較するのが怖い程、全く別人がサウンドトラックを担当したのではないかと言う程イオゴンの出来栄えが良くない。
手を抜いたのかそれともそもそもの楽曲の身の丈に合わせた結果、藤井風のサウンドメイクが出来栄えの劣化を免れられなくなったのか、その辺りはあくまで想像の域を出ないが、兎に角藤井風のアルバム『Prema』が昭和のアルバムではないかと耳を疑う程の古い作りに聴こえて来る。
もしもそれが意図的な企画だとしたら、わざわざ藤井風のアルバム『Prema』のサウンドメイクを『250 (イオゴン)』に依頼する必要が何故生じたのか、その辺りは当事者ではないのでよく分からないが‥。
 

 
藤井風自身からもそれまでの仕事から「‥どこか燃え尽きたような感覚」を訴えるコメントが出ていたようだが、ニューアルバムのだらしのないランニングシャツのジャケ写を始めとするアルバム全域に沁み出たドロップアウトな色彩や怠惰な印象、ダボダボの下着をさらに緩々に引き伸ばして着古したような表現はもしかすると、そちらの方が今の藤井風にしっくりハマっているのかもしれない。
 
特にインドを強く意識した象との共演等の、いかにも単純な仕掛けを一体誰が思い付いて映像化に踏み切ったのか‥、考えれば考える程よく分からない。
 

 
楽曲『Prema』の歌詞の中で、藤井は段々と豹変し、本性を現して行く。
『私は愛そのものだ』と口にした直後に、『私は神そのものだ』と言う彼の本音が遂に歌詞に託される。
 

 
楽曲Premaの中で彼が伝えたかったことは、恐らくこの一文だったのだろう。
だが残念ながら、藤井風は神ではない。もしもそう思い込まされているリスナーが一人でも居たらそれが全くの間違いであると、是非とも認識を改めるべきだ。
 

人は強烈なメッセージに惹かれ、そのメッセージ主に帰依したくなる瞬間がある。だがその帰依の先に一体何があるのか、無いのか‥、或いは何かがあるかのように騙されてはいまいかと、藤井風のような人物に遭遇した時は先ず一歩二歩離れて彼の言動を俯瞰する感性を持つべきだ。
けっして自分自身を捨てて、彼に身を捧げるようなことがあってはならない。
 

 
少なくとも音楽家として、藤井風はそのステータスを得られていないことは間違いない。だからこそ「サイババ」をここまで深く信仰し続けており、即ち藤井風の信仰心は、自身の才能不足の空洞を埋めるのにはうってつけの素材 (凶器) だったのかもしれない。
 
勿論音楽的にも稚拙であり、藤井風が宗教を隠し持って仮に藤井が全米進出を狙ったとしても、その夢を果たすことは出来ないだろう。
全てに於いて、(アルバム『Prema』も藤井風の声も) 響かない。
地球の裏側には届かない。
 

 

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“Hachikō” by 藤井 風 (魂の汚染)

この人物を取り上げることを極力回避しているその理由は、ズバリ彼の内なる宗教及び宗教観だ。だが話のネタとして綴るには面白い素材であり、だからと言って私が藤井風の活動全般を肯定している訳ではないと言う点について、先にお断りを入れておく。


SNSでかなり噂に上っていた藤井風のHachikōのオフィシャルビデオをようやく視聴したが、やはりこの男の表現が日に日に薄汚れていることは否めない。
楽曲は比較的爽快感のある、どこかデビュー当初の「きらり」にも通じるメロディーラインが顔を覗かせる。
爽やかなものをここまで汚せるのも藤井の為せる技とも言えるが、藤井の内面に在るサイババ信仰或いはサイババ教への深い傾倒や、ある種のドロップアウト感が楽曲の印象を汚染させている点にはおそらく、本人は気付いていないだろう。
 

この曲は、ロサンゼルスのプロデューサー『Sir Nolan (サー・ノーラン)』と、NewJeansDitto」「ETA」「Attention等を担当した韓国の『250 (イオゴン)』がプロデュースを務めている。
 


いいところを掠っているこの作品『Hachikō』だが、歌詞は実にくだらない(笑)。
以下に機械翻訳のスクショを出しておく🤖
 


J-PopやK-Pop付近しか聴いていないリスナーの感性にはこの程度の軽さ、チャラい内容の歌詞がきっと響くのであろうが、海外には命がけで音楽を生んで世に放っている強豪が当たり前のように存在するから、『Hachikō』の歌詞がいかに薄っぺらいことしか言ってないのかと言う辺りは歴然だ。
 
そして藤井独特の「神様」語りを絶対に外さない辺りに、彼独自の信仰心が露骨に表れている。と言うより、藤井は既にサイババ教義の布教要員であり、布教活動に絡めて音楽を利用している辺りを私は見逃さない。
最近青少年層にも藤井フリークの風が及んでいるようだが、出来れば彼の音楽とは距離を置くことをオススメしたい。音楽を通じてサイババの教義に、心身を汚染される危険性を存分に孕んでいるからだ。
 

思うに信仰が人々を分断するし、信仰は信仰によって潰される。

そんな人たちを私は沢山見て、触れて来たし、私自身はどちらかと言うとアニミズムに近い思想を持っているので、一神教に対してはどの宗教に対しても否定的だ。
音楽を志す人たちの中に宗教を持つ人が多い要因の一つとして、商業的要因が挙げられる。同じ宗教観を持つ者同士の癒着で商品を拡散し、売り上げて行くことのメリットを悪用している音楽家は多く存在する。
スティービー・ワンダー氷川きよし等もその例に当てはまる。うっかり音楽が良かったりすると、それを武器に活動するような悪しき実例も多数見られる。
 


あえて先に藤井の新譜『Hachikō』の内容の薄っぺらさについて触れておいたが、実際の歌詞の大半は英語で書かれているので、特に日本人のリスナーには意味を知る前に韻で楽曲がインプレッションするだろう。
その辺りは藤井サイドのあざとい計算が用意周到に為されているが、「どこに行こう ハチ公」‥がうるさいぐらいにラップ形式で散りばめられているのでご自身であらためて、歌詞の意味等を確認してみると良さそうだ。
 
英語による誤魔化しを巧みに利用した歌詞とはまさにこのことで、英語に苦手意識を強く持つ日本人にはこれがカッコよく聴こえてしまうから厄介だ(笑)。
 
私はこのブログとは別に、ディディエメラの音楽倉庫と言う世界の音楽データの基盤となるブログを持っている。そこには世界中の音楽を紹介し、同時に私が監修しているSpotifyのプレイリストの情報も出している。
藤井風の楽曲は世界の音楽をコレクションしているプレイリストには、到底挟むことは出来ない。どんなに藤井が英語で世界進出を狙ったとしても、彼の宗教以前に楽曲のチープさが彼の目標を大きく妨害するだろう。
とても皮肉なことだが、藤井風の目前に高く高く立ちはだかる壁を超えることは、彼には不可能だ。仮にサイババ二世としてサイババ教の教えをどれだけ歌詞に引用したとしても、むしろその行為とマインドが藤井風を小さな集団の箱の中に完全に閉じ込めて行くに違いない。
 

霊的な解釈を加えるとしたら、藤井風の見掛けは勿論、魂の汚染の激しさは音楽を通じて感じ取れる。そこそこ売り物の生産と拡散は最低限果たせるかもしれないが、それ以上に飛ぶことを創造神「クリエイション」が許さないだろう。
 

新譜『Hachikō』だが、私個人的には聴けるのは2回までだ。3回目以降になるとK-Popの立役者である『250 (イオゴン)』の、一見斬新に見えて実は使い回しの手業が視えて飽きてしまう。

250 (イオゴン)』マジックの賞味期限も、そろそろ切れて来た頃だろうか。色々な意味で使い果たしてしまった感も拭えない。つまり商業音楽の限界の壁に、既に遮られた結果だろう。
藤井風と『250 (イオゴン)』、『サー・ノーラン』の三者全員を揃えたとしても、それは魂の汚れに汚れを加えただけの結果に終わり、創造神『クリエイション』が果たして彼らに新たな境地への地図を手渡すとは到底思えない。
 

 

ディディエ・メラへのお仕事依頼は、info@didier-merah.jp 迄お寄せ下さい。
仕事内容はラジオ番組等の「選曲」を始め、音楽評論、コラムやライナーノートの執筆等多岐に渡ります。
尚、飲食店舗用のプレイリストの作成にも応じます。作成価格に関しましては、メンテナンス等を含み月額制とさせて頂きます。
 
各ご相談は上記メールアドレス迄お寄せ下さい。
 
『X』のメインアカウントが凍結された為、現在稼働中のSNSは、以下になります 。
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壁の内側と外側

本来ならば何カ所か旅行をする筈だった今年、私達夫婦は春先から一気に体調を崩した。夫婦共々そう若い方ではないので遂に、今年は冒険はやめよう‥ と言う話になり、私は風邪の次に足の爪周りを酷く化膿し始めたので現在整形外科に通院中の身である。 

医師と弁護士は、どこか似ている。味方のようで居て、両者はけっして患者や被告の味方ではない。尋問する側 (医師、弁護士) とされる側 (患者、被告) にそもそも分かれているのだから、致し方ないと思う。

私は子供の頃から、両親家族の次に医者の目が嫌いだった。患者の患部を睨み付けるようなあの目つきと、尋問しながら此方の言葉の穴を探して突っつき回すような、あの物言いが。

今回の整形外科の医者はかなりクセがある。クセはあるものの熱心で良い医者だが、時折私の言葉にミサイルでも打ち込むような反撃が為され、少々辛い。

 

数日間一日置きに整形外科に通院したが、特に昨日は帰宅後ぐったりと倒れ込んだ。車を出してくれた夫まで、体調を壊してしまった。

クリニックのある場所との相性の問題もありそうだが、その話は夫にはしていない。わざわざ言わなくてもきっと、彼も同じことを考えているだろう。

 

 

今朝は雨。気持ちも鬱ぐし、頭痛もキツい。

毎朝多摩川の写真を掲載しているXのアカウントの今朝の多摩川を見ながら、自分は海よりもやっぱり川が好きだと実感している。

 

そう言えばここ数日間、私のブログの藤井風関連の記事に訪問者が集中しているが、何かあったのだろうか?

 

 

音楽的には良い素材を秘めている人なだけに、藤井の宗教観は正直残念だ。

Xでこれを発信したら色々騒がしくなるのでコソっとブログでつぶやくに留めるが、(音楽とか歌と言った) 聴き手の精神性に深く入り込む類の素材に宗教観を乱用するのは、法と同格のレベルでルール違反だ。

まして彼が崇高している対象が世界三大宗教でも何でもないペテン師さながらのサイババだから、「宗教の自由」と言う盾をもって放置して良いとは私も思わない。

 

 

(スマホから投稿 📱)

“真っ白” – 藤井 風

色んな噂で透明性を失いつつある藤井風が、タイトルだけは透明な『真っ白』をリリースした。
この曲はミネラルウォーター (実は普通の水) の、『い・ろ・は・す』のCMでも流れている。
 

 
私は先ず、歌詞を見る。この人の楽曲の歌詞には、とある新興宗教の教義からの抜粋がふんだんに引用されていると聞くので。
実際に歌詞を読む限りそれらしき箇所は見当たらないが、それよりも何とも言えない投げ遣り感の方が強く響く。売れている‥ と言う自負の割れ目から、いよいよこの人の本性が露わになったのか。
 
本作品では恋愛が盛り上がった頃合いを見計らってゲームオーバーを言い渡す女性像が描かれており、そう言えば昔そんなゲームの連鎖を単純に楽しんでいた多くの女子大生がいたっけか。
かれこれ昭和の話だが、それは今の若者にも引き継がれているのだろうか。‥だとしたら、何と言う命の無駄遣いをしているのだろう。
 

真っ白な心に惹かれ
真実をさまよえば
真っ黒なところはぶち抜かれ
真新しい風にまた抱かれた
 
好きだよ 好きだけど
離れなくちゃ 置いてかなきゃ
 
好きだよ 知らんけど
私たちもう そんな頃よ
 
先にさよならするわ
悪いのはそうよいつも私でいいの
先に進まなければゴールできぬゲームなのよ 

 
作品のアートワークはモノクロームだが、純真とか純粋だとか‥ 若い世代とか音楽家が持つある種のがむしゃらさは失われ、タイトルの『真っ白』とは真逆の汚しが骨の髄まで染み込んだように、私には見えて仕方がない。
 
ところで皆さんは『い・ろ・は・す』を飲まれたことはあるだろうか?
私は過去職の関係でスタッフがよくこの水を買って来るので、嫌々飲まされたものだった。あれをスタッフは「ミネラルウォーターだ」と言って私に手渡したものだったが、どう味覚を研ぎ澄ませたところで苦みのある水道水の味しかしない。
 
水の味が分からなくなったら人間、おしまいだ。
いかなる飲み物も料理も、基本は水。その微細な味を感じ取れなくなったら、それはご自身の健康状態に不具合が発生した証拠だと思った方が良いだろう。
その意味では藤井風の『真っ白』が全く美味しくも何ともない『い・ろ・は・す』に起用されたことは、あながち間違いではないだろう(笑)。
 
皆さんも是非、味覚と霊体、感覚を研ぎ澄ませて良い水 (ミネラルウォーター) を飲まれることをお薦めしたい。
 
一度汚しが入ったものは二度と元には戻らない。
それは水も、人間も、食も音楽も文化も、全てに共通する。
 

 

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[音楽評論] 藤井風 – 満ちてゆく (Michi Teyu Ku/Overflowing)

SNSその他YouTube等で「感動した」とか「泣いた」‥等のレビューが複数上がっているので、何度か藤井風の新作満ちてゆくの動画を視てみた。
 
私は藤井風の推しでもファンでもなく、自身が音楽や音楽表現の専門家であり尚且つ音楽評論家と言う立場で各自の作品を分析することが仕事ゆえ、ここでは客観的な視点で楽曲『満ちてゆく (by 藤井風) 』を分析して行く。
 


先ず一つ目の疑問はこのMVで、何故藤井風が老け役に扮したのかと言う点。
他の人のレビューは一切読んでいないのでその上で言えば、老け役 藤井風の大方の (私目線の) 想定はこうである。
 

彼は画家の父とそのモデルとなった女性の間に生まれたご子息であり、そこそこ裕福な生活をしていた。
だが運命の悪戯で両親が離婚し、母親の手一つで育てられた。だがその母親を水難事故で亡くし (あくまで私の憶測に過ぎないが) 、彼は孤独を強いられた。唯一母の墓を訪れることだけが彼の救いであり、そこへ行く時だけは人間も大人も忘れて自分に還ることが出来た。
 
誰かを愛することもなく、誰かに愛されることもなかった。なぜならば『母』と言う理想の女性以上のその人に巡り合えなかったからだろう。
老け役 藤井風の中で次第に母は理想を超えた理想の人となり、亡くなった筈の『母』が時折彼の目に映り込むが、それは実体のない亡霊としての『理想の人』だった。
 

たった一枚、美術館に飾られた『母』の写真は、画家だった父が遺した絵。
老け役 藤井風は遂に絵筆を取ることはないまま時が過ぎ、失った時間が彼を押し潰して行く。
彼 (老け役 藤井風) に残された時間はあと僅か。思い出も色褪せ始め、老け役 藤井風は時折現れる『母』の為にそれまでの人生のありったけを手帖に書き記す‥。
 


このMVには明かされた筋書きが既に存在しているような、そんな記述を走らせている人たちの文献も見かけたが、それは公式に開示されているものではないようだ。
なのでMVを視る人によって捉え方や解釈が違っても、それはそれで良いと私は思う。
 
それにしても『不在の愛』や藤井風の死生観をこれでもかとこの動画に詰め込み過ぎて、ややストーリーに無理のあるMVではないだろうか‥。
特に老け役 藤井風のそもそもの年齢が現在26歳だと考えると、彼の老け役がかなり薄っぺらく視えたとしても致し方ないようにも感じる‥。
 
藤井風が盛んにMVに持ち込む彼の死生観は、前作のMVの中にも随所に見られた。
 


全体的に共通しているのは、彼/ 藤井風がその時思ったことが彼自身の人生そのものであり、それが妙に血生臭さを帯びていることに藤井風自身が無頓着だと言うこと。
このご時世、特に2020年以降の私たちは生と死の境界線上に否応なく立たされている。そして身近に、多くの死者が実際に急増している、そんな状況に見舞われながらその現実をなるべく見ないようにして生きていると言っても過言ではない。
 
おそらく生身の藤井風は、どこか自身を宗教者、求道者に置き換えながら生きているように見えるが、それを音楽表現に挟み込んで行くには彼の霊体はまだまだ未熟だ。人生経験も浅い。
一説には彼がサイババの信者だと言う噂もあるが、描いているものを見る限りどこかあっちの宗教こっちの神様‥ と言う雑居概念が彼を取り巻いているように見えるが、実際はどうなのだろう。
 


これは余談だが、毎回藤井風の映像を観ていると、彼の視界がどこか四隅が歪んでいるか切れているか或いはぼやけて視えているのではないか‥ と私は思えてならない。
特にその印象が強かったのが、藤井風の旧作graceだった。
 


どこか視点が合わない印象が強く、段々とMVを視ている私の視界が狭くなって行く。それが何故かは未だに分からないが、藤井風の新作『満ちてゆく』の中で老人たちが集まって歓談するシーンを視た時も似た印象を持ち、正直心臓が縮み上がりそうになった。
これは私が持つ独特の映像記憶ともリンクしている何かの要因が悪さをしている可能性も大だが、何だか彼の映像を視る度に同じ感覚に落とし込まれるので最近藤井風の映像をなるべく私は視ないよう努めている‥。
 

話が大きく脱線したが、若干26歳にして世の求道者を切望しているようにしか見えない藤井風の『満ちてゆく』を聴いても視ても、涙ひとつ出て来ない私は人間としてどうかしているのだろうか‥?
それとも「涙した」‥ と言うメディアの印象操作が私には全く通用しないだけなのか。
 
何れにしても、藤井風のやったりげな小芝居が不自然にしか見えない『満ちてゆく』の唯一の取り得は、理想の女性『母』を演じたモデルの高橋マリ子さんが清楚で美しかったことだ。
 


メディアの印象操作は恐ろしいもので、結果的にこれだけ多くの人々に治験すら行われていない新型コロナワクチンを接種して行った。多くの薬害事例も出ており、ワクチン接種が原因と思われる死者も右肩上がりに増えている。
 
音楽や漫才等のTV番組も雑誌も政治も、その他多くのことがメディアの印象操作の末に暴走し、それらにともなう事件も後を絶たない。
何を信じて何を疑うべきか‥、そこに一個の正解がない以上全てを疑ってかかると同時に、自身の感性や直感、判断力を日々磨き込んで行くことで自分を危険から守ることが出来ると私は思っている。
 
有名だから、有名人が作り出したものだからその作品が素晴らしいとは限らない。ありとあらゆるものが印象操作の末にこの世に放たれているとしたら、その奥には必ず「大衆を洗脳している特定の人物」が存在する筈。
 
藤井風ブームもそんな「民衆を洗脳に落とし込む現象」の一つと、私はみている。
 

 

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