桜と私

暫く体調を壊して休養していました。
その間に世の中が粛々と変化して行く様を、寝室の中で感じながら悶々としていました。
通りをひっきりなしに疾走する救急車の数が日増しに増えるその度に、世界から一つまた一つと消えそうな命の叫びが聴こえるようで、胸が痛みます。
 

ずっと桜の季節が嫌いでした。それは毒親の影響が大きいのでしょう。
毎年お花見とは名ばかりのイベントが計画され、その時その前日になる度に私は母親の不当な暴力を受けました。
目や腕の皮膚を母親の握り拳が激しく殴打し続け、お花見当日の朝になる度に私は全身痣だらけになりました。当然そんな姿でお花見など行ける筈もなく、否応なく私は留守番をすることに‥。
それが私以外の三人の家族にとって、ベストな状態だったのです。
 
毎年そんな状況が続き、私は最初から家族の中に存在しなかったように私以外の家族三人が、何食わぬ顔でお花見を楽しんで帰って来ます。
千円程度のお金がテーブルの上に置かれ、それで何か食べてね‥ とにこやかな顔で母に言われ、マクドナルドでハンバーガーセットを買ったり松屋で牛めしを買って、家で一人で食べました。
 
私は家族の中で、最初から存在を許されない人でした。
 
 

 
そもそも大のカメラ好きだった父の趣味を奪うように、私が家を出る頃になると母は (本来ならばそんなお金など無い筈なのに) どこかからか資金を捻出して高額のカメラを買い始めたことを、今でも覚えています。
特に桜が好きと言うわけでもないのに、このシーズンになると母は井の頭公園に行っては桜を撮って楽しんでいました。そしてマウントするのです、私や父に対して。
母は人に「先生」とか「アーティスト」等と呼ばれたかったのではなかったかと、今になるとそう感じるのです。
 
私が大学を卒業し24歳で家を出る頃には、すっかり桜が嫌いになりました。桜と母の虐待が記憶の中でセットになり、私を苦しめるからでした。
そんな私が今では大の桜好きに変貌し、それもこれも最愛の夫のお陰だと感謝しています。
 

2022年に前の家から転居し、それまで一人で桜を撮っていた隠れスポットを離れてしまったので、去年は殆ど桜の写真を撮ることが出来ず今年。
掲載している写真の桜は各々とても細く花付きもそれほど豊かではないのですが、構図次第では大木の桜の樹のようにも見せることが出来るところがカメラの不思議なトリックです。
上達したのは私の腕ではなくて、スマートフォンのカメラの性能(笑)。文明の利器を利用しない手はありません。
 
 

 
昨年実家を売却する際に遺品の整理をし、その最中に母が撮った花の写真を大量に見つけましたが、どの写真も焦点のぼやけたものばかり。写真と呼ぶに相応しくないものでした。
結局全部処分しました。
忌わしい記憶や思い出と完全に決別しなければ一歩も前進出来ないと思い、母自身が写っている写真も殆ど処分しました。でも、だからと言って私の中に在る辛い記憶と決別出来るかと言われたらそうではなくて、私の中には未だ両親や弟からの虐待や嫌がらせの記憶が息づいているのが苦しいです。
 
四方八方が敵だらけだった私の半生。
夫に「私は間違っているのかな?」と訊ねてみたのですが、彼は頑として「一つも間違ってないよ。」と言います。それは恐らく彼の本心であり、真実だと私も確信しています。
 
私がこのブログで、亡くなった弟の奥方 (Eri Y.さん) を含め親族の過ちについて綴り始めると、すぐさま Eri Y.さんの知人を名乗る誰かしらからInstagramにメールが寄せられました。その人物は私に、自分は知っているけれど私が知らない多くのことがある‥ と告げて来ましたが、実家の真実の最も近くに居たのは私であると言う確信は物理的な証拠として手元に今も在ります。
家族も親族も、私に知られては困る何かを私に探られることを懸念したから、私を実家から早々に追い出し一歩たりとも実家に近づけさせぬようにして、徹底的に親族の輪から排除したのでしょう。
 
 

 
上記の書類も、その証拠の一つと言えます。
 
今このタイミングでこのメモを読むと、母の話していた「家にはお金がないのよ。」と言う口癖が全くの嘘であることは明白です。
ですが母はどういう訳か清貧思想を深く心に持っていて、音楽高校に進学した私が経済的には豊かではない人を友人に持つように仕向けられました。それが私はたまらなく嫌で仕方がなかったので、その頃から私は親に内緒の収入を得る為にレコード会社にデモテープを持ち込むようになりました。
その夢さえも折に触れ母は妨害し、当時爆発的に売れた「爆風スランプ」のディレクターに無理矢理私を会わせましたが、感性の合わない人とは上手くやって行ける筈がありません。
 
[ 中略 ]
 

私は「暴きの星」を持っています。多くの虚偽が私を捉え、虚偽の側からそれを私にを暴いて欲しいと嘆く時、私の「暴きの星」が疼きます。
遠い過去世で私はジャンヌ・ダルクとして生きました。最終的にジャンヌは異端審問にかけられ、火あぶりの刑に処せられて最期を迎えています。その時周囲はほぼ敵だらけだったと記憶しています。
でもそんな中にも時折影の助っ人が現れ、彼等は自身が私の助っ人だとはバレないように私を何度も助けてくれました。
 

色々な記憶が渦巻き、それが自分の過去世だと分かるまでには数十年の月日を要しました。そして私自身を知る旅は困難を極めましたが、現在の夫が私を私自身に引き合わせてくれたのだと思っています。
 
今年はそう遠くない場所の桜のスポットでお花見を二人で楽しんで来ましたけど、いつかもう少し田舎に出向いて桜のシーズンを満喫したいと思っています。
 
桜と言えば、私の中では「木花咲耶」を連想します。何故かは分からないのですが、今日のお花見の最中も天界からずっと私たち夫婦を見守っていて下さいました。そして天照大神も‥。
自然神と大の仲良しの私は、日々の折々で彼等にとても救われているように感じます。
 
穏やかな日々がこれからも続きますように。そう祈らずには居られません。
 
 

Christmas 2023′ (ジャンヌ・ダルクから今の私まで)

2021年12月26日を起点とすると、怒涛のような2年間が経過したように感じます。
私がかつてジャンヌ・ダルクとして生きた時、私の周囲の人々の大半が敵でした。火あぶりになる私を微笑みながら見つめていた人々の顔を私も又、見返していたように記憶しています。
その中の人々の多くが転生を繰り返し、私の実母も実父も弟も「敵」側の人たちの生まれ変わりだったと感じます。
 
世界の全てが敵ならば、どんなに心からの救いや平穏を求めても味方が現れなかった、この半生にも納得が行きます。
過去の記憶はそのまま魂に引き継がれますから、私が現世に於いても孤独である理由にも整合性が見て取れます。
 
 

 
2023年、クリスマス。
世界は光と闇に分断しているように見えますが、光のある所には同時に闇も存在します。「光だけ、闇だけのどちらか片方の世界だけが在ることの方が不可能である」‥ とは、宇宙のクリエイションからのメッセージ。
常に両者は共存する、それが宇宙の法則です。
 
争いを起こすのは常に闇の分子を多く持つエレメントだと言われますが、そうとも言えない場合もあるようです。
だから私は「闇側」「光側」と言う分類を好みません。
 
今日までに私を怪訝に感じた人たちに伝えることがあるとすれば、私が私に至るには様々な人生の変遷を経て来たと言うことです。

私が仮にジャンヌ・ダルクの生まれ変わりであると言う仮説を肯定すれば、私が朱に染まらない理由をきっとご理解頂けると思います。
黒を白と言い替えないのが私であり、悪を(その相手と親しいからと言う理由で)善に引っ繰り返さない。‥それがジャンヌ・ダルクの生き方でした。
 

‥ジャンヌ・ダルク時代の多くの魂たちがどっちみち私と関係性を当時とは全く変えたがらないのであれば、私は私の生き方を貫くのみです。
当時と異なることがあるとすれば、それは現・夫と出会ったことでしょう。
夫はそもそも人/ 属性の魂ではないので、むしろ私の人間性や霊性を客観的に理解してくれますし、私が何故こうなるのかと言う理由についても理詰めで熟知しているように感じます。
 
勿論人間と言う温かい皮膚を持つ友人が欲しくないと言うわけではないですが、それは私が妥協や癒着等と言うだらしのない価値観を許容したり、‥特に親しい人が悪人であっても「善人だ」と価値観を引っ繰り返さなければ永遠に難しいのかもしれません。
魂を悪魔に売り渡すことは、私はこの先永遠に無いでしょう。それはこの先、私のようなタイプの後輩が苦しまないように私がバイブルとなることで、少しでも歴史に貢献出来ればと言うささやかな祈りにも通じていますので。
 
何も悪いことをしていないのに「悪人だ」「嘘吐きだ」と言われた私の苦しみを私は、やり返すのではなくもっと別の方法で返して行くべきだと感じているので。
 
 

 
‥これでも私は社会性を手放してはいません。
むしろ中途半端に社会性を身につけてしまったことで、誤解が生じているのかもしれません。
なので最近はみだりに人と関わらないよう、人と親しくならないよう細心の注意を払いながら生きています。
 
2023年12月24日。
この記事を読まれている皆様にこの曲を贈ります🎄