アレクサンドル・スクリャービンに関する考察

そもそもの発端はSNSのXでの雑談であったが、折角の機会なのでスクリャービン (Alexandre Scriàbine) について色々深堀りしている。
書籍でも企画等でもそうであるが、一人よりは二人、二人よりは複数での研究の方が勢いづくことが多いと思うが、時に二人が一人になってしまう事故が起きる。今朝の一件がまさしく、それであった。
 
話をスクリャービンに戻して、先ほどから色々な演奏者のスクリャービンを聴いている。
思い起こせば私は中学生からスクリャービンを弾き始め、大学生になった頃にはクラシック界が現代音楽一色に染まりかけていた。猫も杓子も現代音楽 (特に作曲科界隈で‥) に傾倒し、調性音楽等書いている学生はどこか馬鹿にされるような空気があった。
私は破壊芸術側の現代音楽よりも、実は調性音楽側のロマン派辺りの作曲家を好んだが、周囲にそれを話したことは一度もなかった。そもそも人目に付かぬように日本のポップス界のど真ん中に陣を敷いたわけだが、それすらかなり特殊な方法で私はレコード会社各社を跨いで駆けずり回ったものだった。
 
話をスクリャービンに戻そう‥。
新旧色々なスクリャービンを聴いているが、どれもしっくり来ない。多くのピアニストがピアノと言う楽器の根本を、分かっていない。ピアノの打鍵の瞬間の繰り返しを音楽だと思っており、音を出さない空間を音楽として捉えていないからだろう。
だが、ピアノと言う楽器はペダリングこそがピアノらしさであり、ペダリングを制覇しなければピアノを制覇したことにはならないと、私は思っている。
 

 
特にスクリャービンの音楽はロマン派から近代音楽に跨っている為、奥底に神秘の宝がふんだんに眠っている。それはモーリス・ラヴェルクロード・ドビュッシー、或いはセルゲイ・ラフマニノフとも異なる、もっと曖昧な雲やガスのような色合いに近い不透明性とも折り重なる感性だ。
その不透明性を表現せずして、スクリャービンを演奏することは出来ないだろう。
 
だが多くのピアニストに見られるのは、胸をピーーンと張って「我こそが世界最高のピアニストなり!」と聴衆を威嚇しまくるような解釈だ。
ハキハキと打鍵し、スクリャービンの持つガス感や霞のような神秘性とは真逆の表現をして、寝た子を起こすような華やかな演奏をしているように思える。リストやブラームス、ベートーヴェンじゃあるまいし、寝た子はそのまま寝かせておけば良いものを、それらの暖かなヴェールを剥がしてしまったらそれは最早スクリャービンでも何でもない別の音楽だ。
 

 
誰彼の演奏が良い/良くない‥ と言う話のテーブルのベーシックすら完成していない状態で、音楽のネタを私に振って来ること自体どうかしている(笑)。
 
最近のクラシック音楽界は二極化しており、かたや古典やロマン派のオーソドックスな音楽を好むリスナーと、もう片方では破壊芸術やノイズ音楽にほど近い現代音楽の側を推すリスナーとに完全に二分している。
私はそのどちらでもないからこそ、自身の音楽を生み出しているわけだが、この「どちらでもないスタンス」の方が本来の音楽の進化の方向性だった点については多くの音楽家や音楽評論家が認識していないのが現状だ。
 
クラシック音楽に蔓延している「聴き比べ」の文化とでも言うべきか、そこを離脱しない限り、クラシック音楽界の成長や進化は望めないだろう。
 

 
数十年も前の音源を取り沙汰してああだこうだと言ったところで、録音技術も未熟だし、何よりクラシック音楽家の権威主義が厚く業界に根を張っているような世界で、新しい価値観が芽を出す隙など無くても当然だ。
 
古い演奏者の音源を論評するよりも、もっと空間音響の知識を身に着けたり、クラシック音楽の分析や解釈の底板を厚くすることに注力して欲しいと願わずには居られない。
 
色々なスクリャービンの音源を聴いて感じることは、スクリャービン自身が望む音楽や音楽性を再現している演奏家が殆ど見当たらないことだ。
楽譜を見れば一目瞭然、スクリャービンが何を思い、どの世界観を心に持ち、その高みをどのような心境で目指していたのか‥ 等、手に取るように分かる筈。だが、そこまでの推察を施している演奏者が現状殆ど見られないことが、ただただ残念で胸が痛く、そして切ないばかりだ。
 
現代のクラシック音楽界の「コンクール主義」や「タレント活動」体質、或いはクラシック音楽のアンバサダー主義が演奏者及び業界の見識を完全に歪めてしまっているのだろう。
そこに付け加え、クラシック音楽愛好家の「聴き比べ主義」が業界や文化そのものを衰退させていると、私は思っている。
 

もしも私に弟子と言う存在があったら、何を伝えられるだろうか‥。
勿論クラシック音楽界で生き残れる手段は伝授するだろうし、既存のコンテストにも出場させることがあるかもしれない。
だがピアニストとして長く生き残るには、それだけでは足りない。
先ずは作曲を教えなければならない。そして音楽の解釈、分析をきっちりと教え込んで、最終的にはオーケストラ全体をまとめる為の手法を伝授すると思う。
 
その上で、自分自身の世界を持つ方法を、きっと弟子には伝授することになるだろう。
 

 
肝心のスクリャービンであるが、私は上記のミハイル・プレトニョフの演奏解釈と、本記事の最後にリンクを貼るウラディーミル・アシュケナージの解釈が好みだった。
 

全く余談ではあるが、スクリャービン探索の最中に色々な音楽に遭遇した。
その中で、ピダルソ (𝗣𝗶𝗱𝗮𝗹𝘀𝗼) と言うピアニストが奏でる坂本龍一の作品『A Flower is not a Flower』に息を呑んだ。
坂本龍一氏の作品の中では最も美しい曲だと、個人的に好んで色々なバージョンを聴いてもいる。

ピダルソは多分韓国のピアニスト (兼 作曲家) と思われるが、情報詳細は未だ掴み切れていない。
その動画を補足として、このブログの最後の〆に貼っておきたい。
 

音楽は全て繋がっている。そして時間も時空も超えて行く、とても不可思議な生命体である。
 

 

関連記事:

 

最後にこの記事を書く切っ掛けを与えて下さった某人へ、感謝の意を表したい。
もう二度と関わることはないかもしれないが、このような良い機会を得られたことはとても貴重な宝だったと思う。

ショパン自身が語るショパン – 1. 演奏解釈と楽器について

2025年秋、既に火蓋を切ったショパン国際ピアノコンクール 2025′ がエキサイトしている。
今年は控え目ながら私もその様子を時々動画で視ているが、今年はショパンの霊体がかなり頻繁に動画試聴中に干渉して来る。
例年そういうことはなかったのでショパン (フレデリック・フランソワ・ショパン) の霊体に何かあったのか、何があったのか‥ について様子を探って行くと、彼は彼自身のことを交えながら現代の演奏家が奏でるショパン音楽への違和感を語り始めた。
 
当ブログの読者ならば既にご存じの通り、私はリラ星最後の巫女だった。当時の記憶の幾つかを今世に引き継ぎながら、当時持っていたテレパシーやコンタクトのスキルも同時に現世で復活させることに成功している。
そのスキルを用いて現代のこの時に、ショパンの霊体から直接伝え聞くショパン自身の音楽の話をシリーズ化しながらここに執筆して行きたい。
 

 
ショパンは生まれついての虚弱体質で、特に呼吸器に障害を持っていたようだ。呼吸が浅く、時々過呼吸等も発症していたと (本人が) 語る。
呼吸の浅い人の特徴として、常に息せき切ったような身体状況に陥る。その為それを音楽に置き換えると、センテンスの小さな楽曲を演奏することは出来ても大曲を演奏するには不向きだったと言う。
なのでショパンは自身の体力的なリスクを極力外側には見せなくて済むような、細かいパッセージで華麗な演奏効果を引き出せるような‥ 5分から8分程度の小品をあえて大量に生み出して行ったようだ。
 
だが、現代の会場は当時のそれよりも大人数を収容するよう設計されており、大会場・大音量必須が条件だ。‥となると、ショパンが存命だった当時よりも演奏に体力が必要になり、本来軽いパッセージで演奏する筈のスケールやアルペジオ等の一音一音の音量と打鍵のパンチを増さなければならず、それは本来自分が望んでいた音楽とも音楽性とも異なるし、音楽的な意味に於いてもちっとも美しく聴こえて来ないとショパンは語る。
当然のこと現在仮に彼自身が生きていて生演奏をしたとして、聴衆が望むような自身の音楽など演奏不可能だとショパンはさらに落胆の弁を述べて行く‥。
 
又時代柄、ピアノは小柄で鍵盤数も少なく、音はコロコロとしたどんぐりを転がすような音質だったそうだ。
又弦の張りも短く、現代の楽器のような頑丈な材質ではない為、ペダルの減衰がとても短かかった。その為、音の尾を長く響かせるペダルの効果が期待出来ず、頻繁に装飾音やアルペジオ等を多用しなければ音楽的に間が持たず、サロンでの再演がとても難しい状況だったとショパンは語る。
 
現在開催されているショパン国際ピアノコンクール 2025′ の各コンテスタントの演奏をつぶさに聴いていると、虚弱体質な彼が息せき切って再演していた当時のショパン自身の音楽からはかなり解釈がズレていると言う。
最もショパンの理想に近いピアノメーカーを挙げるならばベヒシュタインらしいが、気候やその楽器自体の性質によってそれは確定出来るものでもなさそうだ。
 

 
ピアノが正式名称『ピアノフォルテ』と言うことは誰もが知ることだが、実際にショパン自身が理想とし、当時演奏していた強弱の『フォルテ』は2025年の現在演奏されているフォルテよりももっと小さな音量であり、現代のピアノよりも打鍵が軽く設定されていたピアノであれば細かいパッセージを楽器の端から端まで弾き切ることはそう難しい問題でもなかったと言う。

さらに調律の技術も今よりは未発達であり、全ての音が綺麗に整音されていたわけではなかったようだ。そもそも音を綺麗に整えて演奏すると言う概念自体がなかったので、長いスパンのスケールやアルペジオの音の大小を整えて演奏する必然性もショパン自身は全く考えて居なかった。
 
その観点で言えば、『Ballade No.1 in G Minor, Op. 23』の中盤から最終章に入って行く辺りの重音の連なり部分も、殆ど力を入れずに演奏していたと言う。
G Minorのスケールの3度で重なりながら上に向かって突き上げて行く辺りに関しては、途中かなりはちゃめちゃになりながら3度でも4度でもない‥ 言ってみればジャズで言うところのアドリブの助走のように、かなり大胆にテキトーに弾いていたとショパンが語る。
 
音程が途中で狂って行く方が正しい解釈であり、丁寧に揃えて演奏される方が迷惑だと言うショパン自身の言葉には、私も同じ作曲家としてとても納得が行った。
 

 
本記事は先ずここで一旦〆。
引き続きショパンのメッセージを綴って行くので、関心のある方は是非読者登録の上更新をお待ち頂けるとありがたい。


Comeback Chopin

人生‥ いつ、何が起きるか分からない。
このところ天界から、『いつでも誰の前でも演奏出来る小曲を幾つか用意しておきなさい。』と何度も呟かれるので、新曲も含め準備を開始している。
気付くと何曲ものスケッチが、手元に増えていた。

前職を辞めてからは、人前では一切演奏していない。だが或る事を機に、自分でも「もしかして‥」と言う予感を感じている。
その「もしかして‥」に備えて、少しの緊張感が日常に戻り始めている。
基本は即興演奏だが、今私に頻繁にささやきかけて来る存在が在る。

ショパンだ。

 

 

この世界に戻って来ようと、彼が転生の準備を始めたのかもしれない。


私はショパンへのオマージュと、プラスアルファの想いと新しい音楽の断片を織り交ぜ、私が思う新星ショパンを描きたいと思っている。

 

 

ディディエ・メラへのお仕事依頼は、info@didier-merah.jp 迄お寄せ下さい。
仕事内容はラジオ番組等の「選曲」を始め、音楽評論、コラムやライナーノートの執筆等多岐に渡ります。
尚、飲食店舗用のプレイリストの作成にも応じます。作成価格に関しましては、メンテナンス等を含み月額制とさせて頂きます。
 
各ご相談は上記メールアドレス迄お寄せ下さい。
 
『X』のメインアカウントが凍結された為、現在稼働中のSNSは、以下になります 。
 Threads: https://www.threads.com/@didiermerah
 Facebook: https://www.facebook.com/didier.merah.2019

[比較芸術論] Unfulfilled Dreams (Ryuichi Sakamoto)

毎週末恒例の “世界の新譜” の更新数が、2024年8月に突入した途端に激減しています。最初はパリ五輪の期間を外して新譜をリリースしようと狙うミュージシャン・サイドの事情だと思っていたのですが、どうも様子が違うことに気が付きました。
先々週~先週の、私の雑食系プレイリストの更新数がのべ10曲にも満たないのは、私の感覚がここに来てさらに研ぎ澄まされ、かつ厳しくなったからなのかもしれません。とは言え、新譜のリリース曲数の世界的な激減が何を意味しているのか、既にお気付きの方も沢山おられることと思います。

中略‥‥

そんな折、2023年3月28日にこの世を旅立って逝かれた坂本龍一さんの遺作にて新譜の “Opus” が、各サブスクリプションより配信されていたので、夏休みを利用してじっくり聴いています。
遺作にて新譜だから‥ と言う理由で高評価を付けないのがわたくし、ディディエ・メラの音楽評論の真骨頂。
 
一つ気が付いたことを挙げるとすれば、坂本龍一氏は生涯に渡り公の場で一言もディディエ・メラ (Didier Merah) の名を口にすることがなかったにも関わらず、かなりディディエ・メラの作品を聴き込んでからこのコンサート・レコーディングに臨んだ‥ と思われる節があります。
特に低音の打鍵やペダルの踏み方のほか、Disc 1. – M-5: “for Jóhann 等に見られるような両手の打鍵位置を引き離した状態で打鍵する奏法に、ディディエ・メラの特殊奏法の断片の痕跡を見ることが出来ます。

よくよく聴くと for Jóhann ‥ ディディエ・メラの旧作 “Ancient Forest” にとてもよく似ています‥。
 


音楽家Bが音楽家Aの作風や表現手法、或いは表現哲学等に深く影響を受けることを私はけっして悪いことだとは思いません。むしろそうやって双方が切磋琢磨しながら表現を高め合えることは、長い目で見た場合に音楽史の変革に大きな影響を与えることになるでしょうし、音楽文化の底上げにも一役買うことにもなると思います。
 
その上で絶対にやってはいけないことがあるとすれば、音楽家Bが音楽家Aの影響を受けたことを徹底的に伏せて、あたかも音楽家Bが世界で最初の発明者 (この場合は作曲者と言う方が望ましいでしょうか‥) であるような顔を平然とし続けることの方かもしれません。
例えばこれがWikipediaであれば「出典元」を明記しなければままならないような状況に近く、かと言って「出典元」を明記したからと言って楽曲Bが楽曲Aの完全な物真似だと言えない出来栄えであれば、是非楽曲Bの元の曲となるべき楽曲Aの存在は公言すべきと私は考えます。
 
私の場合は作曲技法の原型がJ.S.Bachに既に在ります。勿論J.S.Bachはわたくし ディディエ・メラの過去世なので、当然と言えば当然のことです。その上で、ディディエ・メラの新譜として新たに更新される各楽曲は必ずしもJ.S.Bachの作風とは一致しないので、堂々とその旨私のルーツを含め公言することが出来ます。
 


坂本龍一氏の “Opus”、かなりの体調悪化の中で臨んだコンサートの記録として、私もリスペクトの念をもって聴かせて頂きました。
でもそれはそれとして、ではこのアルバムが作品としてどうなのかと言われると、手放しで「素晴らしい!」と言えるものではないと正直思いました。
  
レコーディングされた作品の殆どがピアノ曲として生まれた楽曲ではない、複数の楽器で編成されることを想定して生み出されたものなので、それをピアノ一本に落とし込むことにはかなり苦労されたと思います。
とは言え、ピアノは世界最小のオーケストラ楽器とも喩えられるほど音域が広く、又他の殆どの楽器にはないペダル機能が備わっているので、坂本龍一氏ほどのスキルがあればもっと違った表現手法の可能性があったように思います。
 
思うに一度現代音楽ないしは破壊芸術に深く浸り込んだ人の感覚は、ある意味正統派の音楽を生み出す時の感性には二度と戻れない、そんな風にも感じています。
幸いわたくし ディディエ・メラは現代音楽に心酔する僅か手前でその道を引き返し、当時の恩師と決別しています。本当に美しい音楽がどこにあるのか、その記憶と残響を求めて半世紀を音楽漂流の旅に費やし、現在のディディエ・メラの表現スタイルや作風に到達した経緯があります。
 

坂本龍一氏は早い時点で自らを「教授」と名乗り、他者にもそう思い込ませることでビッグビジネスを成功させた一人です。仮にビジネス面では成功し、その勢いと名声を失うことなくこの世を旅立ったとしても、最終的に音楽や音楽家の真の価値を決めるのは『時間』と、その作曲家の全作品を含めた「時代を超えた普遍性」の有無だと思います。
その意味では坂本龍一氏の全作品を含め、普遍の神の手元には遠く及ばなかったのではないかと個人的には感じます。
 


坂本龍一が何より愛したものは音楽ではなく、ご自身の『教授アイコン』だったのかもしれません。皮肉なことに彼が最も愛した『教授アイコン』が、サカモトの音楽をコミック化させることに一役買ったのかもしれません。
日本の音楽界やメディアがそれを彼に要求し、その要求にサカモトが見事に応える形でいっときは成功した彼の音楽人生をこうして振り返ってみると、彼が最後に遺した “Opus” がどこか冗談めいたもののように聴こえて来るから不思議です。
 
今この箇所を書いている時にヘッドホンからはDisc 1. M-9: “Bibo no Aozora が聴こえていますが、ここぞと言う箇所になると破壊芸術魂が顔を出し、最も美しい旋律を破壊することで楽曲のクライマックスを突き抜けようとしている彼の心情が見て取れます。
そもそもがアカデミックな教育を受けて来た人なのに、まるでそうではなくその場の弾みで音楽を作ってしまう人のように坂本龍一の音楽が聴こえてしまう要因はもしかすると、彼の人間性の中に潜んでいるのかもしれません。
勿論坂本龍一がどんな人間性だったか‥ と言う話にはここではあえて触れずにおきますが。
 

アルバム後半は念仏のようにヘッドホンを駆け抜けて行った、アルバム “Opus” 。‥‥

坂本龍一が「大曲」と呼べる作品を遂に一作も遺さなかった理由の一つを挙げるとすれば、それは彼が映画音楽の量産に踏み切ったことにあるでしょう。
映画音楽は映像と台本が主役であり、音楽はあくまで脇役です。多くのサウンドトラック版はメインテーマの他はほぼ「ジングル」と呼ばれる効果音を音楽になぞられた小品で構成されているので、よほどその映画音楽を担当した音楽家に興味のある人でもない限り、映像から音楽だけを切り離して聴き込む人はいないでしょう。
 
ディディエ・メラも若かりし頃は盛んに映画音楽やCMの背景音等を製作する仕事を勧められたものでした(笑)。ですが私は「音楽が主役」の人生を既に決めて人生を歩んでいたので、そうしたジングルやBGMの仕事には消極的な態度を貫きました。
なのでお仕事を頂くよりも前に、仕事の側が私を上手く避けて通過して行ってくれたと思っています。
 

記事の最後に坂本龍一の遺作にて新譜のアルバム “Opus” のSpotifyのリンクを貼っておきます。
“Merry Christmas Mr. Lawrence” とラスト曲 “Opus – ending” 以外、ほぼ全曲がマイナーコードの楽曲で埋め尽くされたこのアルバムは、喩えるならサカモト自身が坂本龍一に贈るレクイエムではなかったかと思わずにはいられません。

坂本龍一氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
 

Opus – 坂本龍一

“3days of Charlie” – Arabesque Choche (表現と鎧と)

かれこれ2011年の大地震の直後からひっそりと応援しているArabesque Chocheは、チェコ人の父と日本人の母を持つ作曲家 兼 映像作家だ。そのArabesque Chocheが、ピアノの小品3曲をスクラップした小さなアルバム 3days of Charlie をリリースした。
 

思うにこの作品集は全曲生のグランドピアノで録音されたであろうに、最近流行りの「空間を狭く捉えてピアノのハンマーに徹底的に接近した音質を聴かせる “思い出ピアノ”」の音質で全曲まとめられている。
折角一定水準以上の演奏技術を持つ人なのに、どうしても彼は何かしらの小細工に偏ってしまう傾向が最近日増しに強くなっているように見える。
 
特に決まった定型のモチーフを決めないで作られたアルバム3曲は、何れアラベスク氏の妻であるjuliet HeberleのヴォーカルをTopに乗せた全くの別曲を、同じトラックから再構築する予定があるのだろう。だからピアノのパートはあくまでパートとして割り切って、マイナスワンのようにして完成させたような気もするが、実際はどうなのだろう‥。
 


Arabesque Choche とその妻 juliet Heberle は夫婦で Chouchou と言うユニットを、かなり長く続けている。私はアラベスク氏のソロ活動よりもChouchouとして紡ぎ出す彼の世界観の方が、断然好いと思っている。
アラベスク氏が単独で全面に出ようとするとどうしてもオレオレな空気が漂って、同氏がそもそもがソリストの気質を持たない人だけに、あれもこれも‥ 家じゅうのアクセサリーを一気に持ち出して並べてしまったような雑多な感触が楽曲を占有する。
 
逆に、妻 juliet の表現はか弱い声質からさらに雑味を徹底的に削ぎ落して、歌唱表現に徹している。彼女の声の響きこそか弱くて危ういが全体を通して音楽を俯瞰している分、表現の統一感がハンパなく優れている。
引きの芸術とも言うべきセンスが夫 アラベスク氏にごっそり抜け落ちている点は否めず、それは新作 3days of Charlie にも重く影を落としている。
たった3曲なのに素材がごちゃごちゃしていて無駄なパッセージが多く、あれもこれも‥ と多くのテイストを一曲の中に詰め込んでしまうから、お腹いっぱいになって若干胃もたれする印象が否めない。
 
最近のアラベスク氏は神秘主義に傾倒していると言う噂も伝え聞くが、アラベスク氏の肉声Live等を聴く限り、彼の持つ音声からは神秘主義の気配は殆ど感じられない。

音楽表現はむしろ徹底して素のまま、ありのままの方が好印象ではないかと思うのだが、やはり何かしら不思議系の鎧が彼にはどうしても必要らしい。それが逆に作品性を削いでしまう要因を作ってしまっている事に、何れ本人が気づくまで私は黙って視ている他なさそうだ。
 

“3days of Charlie” by Arabesque Choche

[表現評論] “Aqua” (坂本龍一) by Cateen かてぃん

絶対にやると思って見てました、この人 角野隼斗‥(笑)。

誰もが知っている(多分‥)楽曲を、調律とフェルトの仕様を若干カスタムした、今流行りの「壊れたピアノ」テイストでキメて来たつもりでしょうけど、先ずはかてぃんの精神性のタガが外れているように見えて仕方がない。

そもそも原曲が然程名曲でもないので、どんなに深遠な表情だけを取り繕っても指先から放たれる音が全く呼応していない。

それにしても彼のこの出方とタイミング‥、「俺様が教授の後釜だぞ」と自ら名乗り出る辺りが何とも安っぽいではないですか(笑)。
その安っぽさだけが「ポスト教授」と言う以前にこの人には、根底となるアカデミックなエレメントがごっそり抜け落ちていると言わざるを得ない。
 


Twitterでここから上の部分だけをツイートしたところ、角野隼斗のファンからのアンチコメントがリプライで投稿された。
彼等の心情としては、「そんな評論書く必要ないと思います!」とのことだそうだが、私は角野隼斗のファンでも何でもないので淡々と表現解説をしたに過ぎない。
 
私にとっては「誰が好き」だとか「嫌い」だとか、そんなことは最早関係がない。
あるべきものとして正当か否かを評論するのが、私の音楽評論スタイルなので悪しからず。
 

さて、話を戻そう。
動画冒頭で紹介した楽曲 “Aqua” の元曲の作曲者本人のライブ動画があったので、貼ってみよう。
 


注意深く耳を澄ませば、両者の音像の取り方の相違が分かるだろう。

細かく指摘するとしたら、かてぃんこと角野隼斗との演奏解釈の違いは左手の小指の落とし方。

坂本龍一の演奏の特徴の一つとも言えるルートの音量が、メロディーを遥かに上回っている点は恐らく、サカモト氏の持病の一つである難聴と深い関係性があったと私は見ている。

付け加えるならば、サカモトの耳が他の表現者よりも高音を強くキャッチする性質を持っている可能性も大。 クラシック音楽を演奏する際には右手のメロディーが眠ってしまう点に於いては、それが「仇」となり得るところを、サカモトは自身のブランドイメージでそのリスクを回避したとも言える。
 
平たく言えば、どんなにつまらない音楽であっても「ブランディング」によってそれが高尚な音楽だとリスナーに思わせることが出来ると言う意味だ。
良くも悪くもそれは表現のマジック、或いはトリックと言っても良いだろう。それらのトリックを自身の演奏に用いることに於いては私は一切否定はしない。少なくとも母体となる原曲が「とてもつまらない作品だ」と言うことを重々認識した上で、上手にトリックを使う手法も時には必要になるからだ。

 
だとしても角野隼斗の眼鏡が似合っていない。
知的な人物像を意識してのことだとは思うが、そもそも日頃「チャラ弾き」或いはチャラい表現手法で音楽タレントに邁進しているならば、こういう時だけ出て来ずにチャラいミュージシャンとしての方向性に徹すれば良いだけのこと。
 
人の訃報を褌に相撲を取るような人間に、ろくな音楽家は居ないとあえて断言しておく。

余談だが、この調律不安定なピアノをあえて使用した音源がこのところ急増しているが、「これは調律が狂っているわけではないですよ」と助言して来る人も後を絶たない。
少なくとも私の耳にはこのピアノが「正しい音源」「正しい調律」に聴こえない。特にフェルトに細工を施しているのか打鍵の着地点が酷く鈍って聴こえる為、残響が濁って聴こえるが、多くのリスナーたちがそのことに全く気が付かない理由が知りたい。

誰かご存じの方がいらしたら、DMを求ム。
その際は私へのアンチ感情や敵意からのメールではなく、理知的な説明でお願いしたい。
 


さらに余談を付け加えるとするならば、角野隼斗も坂本龍一も両者共に「体を縦横に揺らしてリズムを刻むディスコ・ミュージシャン」である方が似合っている。
特に坂本龍一に於いては絶対的にピアノが下手なので、どれだけ神妙な表情で生ピアノを弾いたとて既にその音楽にもサカモト自身にも「汚れ」が施されてしまった、同一人物の劣化版なのだから。
 
リズム・ミュージックに一度逃避した音楽家は、音楽家自身のベースに強いアカデミックのエレメントが染み付いていない限り二度とアカデミックな領域には戻れない。
それは霊質や霊体(過去世の蓄積)とも深い関係性がありそうだが、その辺りの解説はここではあえて割愛する。

参考までに、以下の動画を掲載しておく。
しかめっ面で “aqua” を演奏しているサカモトよりも、余程音楽が弾けていてキラキラしている。つまり此方の方が本来の坂本龍一だと言う、これが分かりやすい証拠の品である。
 


⇩が⇧の動画の原曲(作曲者: Tei Towa)。
 

 

そしてこの記事の最後に、坂本龍一が最高のファッションでコケた “Geisha Girls” の動画も掲載しておく。
 

 

該当YouTubeは外部サイトの埋め込みを拒否しているようなので、YouTube上で閲覧して下さい。

 

“Pavane pour une infante defunte, M. 19” – Lang Lang (album “Saint-Seans”より)

先週末の「世界の新譜チェック」は、未だ完了していない。
今週は丹念に一曲一曲を精査しながらの新譜チェックを継続しているが、そんな中私が余り好きではない中国のピアニスト Lang Lang (ラン・ラン) の新譜が飛び込んで来た。
 
元々大好きなモーリス・ラヴェルの名曲なので耳をダンボにして聴いているが、ラン・ランの表現の粗さがこの作品では特に目立ったように思う。

 
この人の持ち味はpppの音色にあるが、表情過多、感情過多な表現に陥ると手が付けられないほど気持ち悪い。
とりわけこの作品の解釈ではf (フォルテ) 部分が荒々しく演奏されており、表現としては未完成だ。 他の奏者との格差を図り過ぎたことによる表現の粗は、数年もすれば角が取れて丸くなると思われる。
 
だが如何せん、平たい顔族がそうではないかのような、あたかもお家芸でもないのにお家芸であるような過剰な演技をごっそり削ぎ落とすと言う大きな課題が、彼には残されているのではないか‥。
 


フランス音楽と言えば日本人で思い付くのが、安川 加壽子さんだ。私も何度かレッスンをして頂いたことがあったが、彼女とは感性や楽曲の解釈等の価値観も含めて合わなかった。
 
「フランス音楽は徹底的に感情解釈を除去することが基本です。」と言うのが安川氏の決まり文句だったが、それもやり過ぎると余りに無機質で音楽性を欠いた音楽になってしまうから困ったものだ。
かと言って感情解釈を過剰に音楽に持ち込むと作曲者の意図を踏み外した、全く別物に仕上がってしまうし、その匙加減が絶妙に難しい。
 


だとしてもだ。
ラン・ランの感情過多な楽曲解釈は私には到底受け容れ難い。
折角ピアニッシモの音色がとことん美しいとしてもその他の表現が余りに荒削りなので、表現バランスがガタピシになってしまって全体的なまとまりに欠ける。
感情やエモーショナルな表現をもっと洗練させて行けば、ラン・ランのフランス音楽に表現の新たな道が開けるのかもしれないが、それを聴き手として待てるのはしいて言えばラン・ランの「推し」だけだろう。
 
「推し」の為の音楽は、クラシック音楽シーンには最早不要だ。もっと客観的な表現解釈がクラシック音楽には求められる筈であり、多くのクラシック音楽奏者たちはそう言った「推し」たちの為の商業音楽手法から早々に抜け出さなくてはいけない。
そこにラン・ランも当然含まれる。
 
付け加えるならばこの曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」を再現する際のフォルテの音色には、細心の注意を払うべきだ。
実際にはフォルテの概念を新たに、ピアノのボディーをフル活用した『重厚感のあるp (ピアノ) ないしはpp (ピアニッシモ) 』と言う解釈に到達することが望ましい。
宇宙からゆっくりと地上に落ちて来る隕石を表現する時に、打鍵の速度を上げてフォルテで鍵盤を叩くことが相応しくないように、モーリス・ラヴェルがこの作品に求めるフォルテ (f) も同様に、重力を失った物体を動かす時のような打鍵の絶妙な速度感が求められるように、それがむしろ当然の解釈だと私には思えてならない。
 

坂本龍一「12」- けっして心地好いとは言えない音楽

少しだけ応援しているユニットの作曲担当の男性が坂本龍一のニューアルバム「12」を聴いている‥とツイートしていたので、私は別の意味を込めて同アルバムを視聴している。
とりとめのない各音楽の上に、坂本が思う「特別な日付け」がタイトルに乗っている。

音楽にはそれぞれ(きっと)誕生秘話があると思うが、さしずめこのアルバム全体を見回すとそれが彼自身の未来を指し示すようなダークな楽曲が並んでいるので、きっとそういう意味の音楽を集めたのだろう‥。
正直私はこの世界観には参加したくないと感じる。
 


表現とは、素直に越したことはない。
技を見せつけんとして本当ならばすんなりサブドミナントからドミナントに移行すれば好いところを、あえてそうはせずに不協和音なんかを入れてコード進行やメロディーをこねくり回してみたりする‥。
そんな作曲法が「知的な作曲技法だ」等と持て囃されたのも、かれこれ3~40年も前の話。そうやって練り出された音楽の大半が土に還り、現在に至る。

思うに坂本龍一は上に書いた時代を疾走した一人であり、当の彼自身が「素直ではない音楽の世界」に背を向けて時代を逆光していた。
 
だがそんな坂本龍一が自ら、かつては背を向けた筈の時代の溝に立ち返って来たのは何故だろうか‥。

ニューアルバム「12」のM-8 “20220302 – sarabande” からは、淡々とピアノ曲が並ぶ。どこかハンガリーの作曲家 バルトークのようでもあり、その音色が段々とM-10 “20220307” に向かって壊れて行く。
 


音楽を娯楽として認識する人もあれば、「叫び」或いは「世への訴えかけ」として扱う人も居る。中には「祈り」を音楽に乗せて飛ばす芸術家も存在する。
勿論どれもありだが、少なくとも大自然の中でその音を鳴らした時に心地の好くない音楽を、自然も宇宙も受け入れることはないだろう。
その意味に於いては、坂本龍一のニューアルバム「12」は、大自然も宇宙も毛嫌いするアルバムと言っても過言ではないだろう。

あくまで彼「坂本龍一」にカリスマ性を感じて止まない人たちの為だけのグッズであり、これを音楽と呼ぶことは少なくとも私には出来ない。
その意味ではこのアルバム「12」を(極端に表現すれば)「宗教グッズ」とでも言った方が、より正確かもしれない。

特定のシチュエーションにしか通用しない「音の羅列」を、私は「音楽」とは呼ばないことに決めている。音楽とはもっと普遍性を帯びるべきであり、いかなるシチュエーションに於いても受け入れられるよう在るのが理想的だ。
 


YMO解散後、坂本龍一は映画音楽の作曲に長い時間を費やして来た。映画音楽は映像や俳優、映画のストーリーに主役が渡る為、どうしても音楽はそれらの背景以上の効力を発揮出来なくなる。
脇役として主を引き立てる為に多くのジングルも作成しなければならず、その蓄積が余り好くない形でこのアルバムに反映された感は否めない。
 
野菜の浅漬けが単体では食べられず、どうあがいても白米がそこに無ければ浅漬けも引き立たない、それに似ている。
このアルバムにはどうしたって「映像」が欲しくなる。映像が無ければ如何せん喉が渇いて渇いて仕方がない、そんなアルバムだ。
 
最高の音楽とは「Simple is Best.」を極めたものだと、私は思っている。
シンプルなものは絵画でも料理でも彫刻でも舞踏でも、勿論音楽に於いても、そこからあえて「個性」の部分だけを綺麗に拭き取った痕跡が視て取れる。

坂本龍一のアルバム「12」が上の条件を満たしているかどうかについては、この評論の読了後に各々の素直な感覚で是非とも確認して頂ければ幸いだ。
 

坂本龍一 “12” (Spotify)

廃屋の音色 [“Old Friends New Friends” – Nils Frahm]

かつて私が「ヴォーカルの伴奏」に従事していた頃は、日本の端から端、そしてL.A.やN.Y. ~ 一度だけベトナムを含む海外の多くの演奏旅行に恵まれた。だが一方で、その度に現地や現場の楽器には悩まされ、調律時に鍵盤をやたら重く設定してあるピアノにも度々遭遇したものだった。
中でも印象的だったのは、到着してみたら「楽器が無かった」沖縄の現場だった(笑)。

ピアニストがピアノごと現場まで持って来るものだと主催者は完全に勘違いしており、空港から車で30分走行して現地に着いたらすかさず、ヴォーカルマイクとかすかな照明だけがセッティングされた小部屋に通された。
「あの、ピアノはどれになるでしょうか?」と思わず質問すると、「えっとご持参されるんですよね?」と返された。

私は大道具さんじゃないですよ‥。
暫しの沈黙‥。

結局この仕事をどう切り抜けたかと思い出す度に今でも肩が凝る。
そう、近くの小学校から足踏み式のオルガンを借りて来て、それでソロ曲を弾けだカンツォーネを弾けだ、挙げ句の果てには「川の流れのように」の伴奏までやらされ、喧々諤々になりながら私はそのイベントの打ち上げを欠席した。
流石に気前よく「お疲れさまー!🍻」等とビールで乾杯出来る気分ではなかったし、出来れば出演料を10倍に上げて欲しかった(笑)。
 

 
或るシャンソン歌手と大分県の宝珠山近くの小学校の理科室で小さなコンサートに呼ばれた時の話しだが、楽屋で私は高熱を出した。

意外に九州は暖かい‥ と思われているようだが、特に福岡や大分の山沿い等で雪に見舞われるとほぼ極寒の地と化す。
前日に一応現場の気温を調べて行ったが、いざ現地に到着してみるといきなり雪が降り始め、やがてコンサートが開始する18時頃になるまでに大雪に変わり、現地に手慣れた観客の中にも大勢遅れて到着する人たちが現れた。

私たちは広い図工室を楽屋としてあてがわれ、-3℃のその部屋には小さな石油ストーブ以外の暖房器具がなかった。
余りの寒さで気が遠くなりそうな中、ようやく防災用の毛布と体育館で使用する一枚のマットが到着した頃には、私は酷い悪寒で木材質の椅子の上で足と背中をガタガタ震わせながらうずくまっていた。

お粥と田舎汁が出され、何とか震えながらそれを胃袋に放り込んだ。持参していた風邪薬と熱冷ましも、殆ど役に立たなくなっていたが、そのまま本番へ。
兎に角全身が震えていると言うのに、どういうわけか地元のお酒の熱燗が振る舞われ、それも殆ど役に立たないまま私の震えが段々過熱し、演奏の合間にそれが打楽器みたいに大きな音を立てて‥、それを見た観客たちに笑いが起きた。

(中略)‥‥‥
 

 
この話しをする為にこの記事を書き始めたわけではなくて、最近アンビエント系ピアノの一部で流行っている「壊れたピアノ」で演奏しているようなピアノ曲が流行っている‥ と言う話しの導入が長くなってしまった(笑)。
恐らくピアノをこういう感じで加工すると、もうそれだけで音楽になる‥ と思い込んでいるアンビエント・ピアノ系のアーティストが多いのだろう。だが、それは単に音質の奇をてらった域を出ないので、音楽や作品としては完成することがない。

ジャズでもクラシックでもないし、かと言ってアンビエント・ミュージックとも異なる、例えれば「廃屋にふらりと現れた亡霊がうっかり演奏している」ような音楽とでも言えば良いだろうか。演奏している人が「幽霊」だから、その気になって聴く人も居る‥ と言うような感じの、とても危うい音楽が最近流行っている。

一種の「再起不能なノスタルジー」をしみじみ味わいたい人によっては、この音色はツボかもしれない。だがそれは時折うんと田舎の料理がいきなり食べたくなる時の食欲に似て、お腹が一杯になった後には必要なくなる音楽だ。

そんな「再起不能なノスタルジー」にカテゴライズされそうな音楽の中にも時に良質なものがあり、それが Nils Frahm が2021年の冬にリリースした Old Friends New Friends と言うアルバムだった。
 

Nils Frahm (ニルス・フラーム) は、ベルリンを拠点とするドイツのミュージシャン、作曲家、レコードプロデューサーである。
彼はクラシックとエレクトロニックミュージックを組み合わせ、グランドピアノ、アップライトピアノ、ローランドジュノ-60、ローズピアノ、ドラムマシン、モーグベースをミックスするという型破りなアプローチで知られていまる。

(Wikipedia より)

 
John Cageへのトリビュート曲4:33から始まるこのアルバムは全編に渡って虚無的なピアノの音色が主役であり、ミニマルともアンビエント・ミュージックともジャズともつかない、言うなれば全てが「幽霊が奏でる音楽」と言った方が適切と思えるぐらいに危うい。
 

 

ジョン・ミルトン・ケージ・ジュニアは、アメリカ合衆国の音楽家、作曲家、詩人、思想家、キノコ研究家。実験音楽家として、前衛芸術全体に影響を与えている。独特の音楽論や表現によって音楽の定義をひろげた。「沈黙」を含めたさまざまな素材を作品や演奏に用いており、代表的な作品に『4分33秒』がある。
 
(Wikipedia より)

 

因みに John Cage『4:33』については、以下の動画を参照頂きたい。特筆事項なし。
 

 
話しを Nils Frahm に戻そう。

アルバムOld Friends New Friendsでは大半の楽曲がマイナーコードを基本コードとして収録されており、全編が映画のサウンドトラックのように個性も普遍性も持たないSE(サウンドエフェクト)の要素を持つ楽曲で埋め尽くされている。
なので「音楽」として聴くにはどこか物足りなく、どうしても映像を想像するか意図的に別の映像を足して音楽を聴く‥ と言った「ながら聴き」の必要性に迫られる。

あくまで「壊れたピアノ」の音色に意識が集中し、そのサウンドエフェクトの方にリスナーの集中力を奪われる為、良くも悪くも「何度も聴ける」アルバムに仕上がっている。
だがそこはあくまで仮想空間。映画の中の廃屋のシーンに潜り込んでいることには変わりないので、一個のアルバムを存分に聴き込んで行ったと言うような充足感は得られない。
ただとてつもなく、際限のない寂しさだけが後に残る。これはおそらく「壊れたピアノ」の後遺症のようなものだろう。


「壊れたピアノ」ではないが、あえてアップライト・ピアノで楽曲配信を続けている別のアーティストにFKJ (French Kiwi Juice)」が居る。
 

フランスのキウイジュースまたは略語FKJとして専門的に知られているVincentFentonは、Toursのフランスのマルチ楽器奏者、歌手、ミュージシャンである。彼はソロライブパフォーマンスで知られており、Abletonを介してライブループを行う‥。

(Wikipedia より)

 

 
又日本国内で「壊れたピアノ」をモチーフにして楽曲配信を続けているアーティストとして、小瀬村昌橋本秀行 等が挙げられる。
興味のある人は是非、Spotifyなどで検索して聴いて下さい。
 

小瀬村昌のSpotify
橋本秀行のSpotify

 
個人的にはけっして好きなテイストではないのにも関わらず、何度も聴いてしまう音色は存在する。その一人が Nils Frahm だ。時折病的にハマってしまう辛い食べ物のように、満足感が得られないと分かっているのに足げく通う四川料理の店のようなものだろうか。

2020~2021年、多くの人々がこの世を後にした。彼等の多くはその最期すら看取られることなく、静かに人知れずあの世に旅立って行った。
その後悔の念は未だ、今もこの地上を彷徨い続けているのかもしれない。
だから私は、「廃屋の音色」に触れる時にはいつも以上に最大の防備で身を守りながら、なおかつ彼等に祈りを捧げるような気持ちでその音色に接することに決めている。

ふと気づいたら自分までもが「廃屋の一人」になっている、なんてことのないように‥。
 

追記:
この記事を書きながら色々なものを検索している最中に、うっかりマツケンサンバⅡ 振り付け完全マニュアル 松平健編をクリックして観てしまった。これがいけなかった。
真面目な記事を書く時は絶対に、笑える動画を見つけても絶対にそのボタンをクリックしてはいけません。

 

 

本記事はnoteで配信した同タイトル記事 (https://note.com/didiermerah/n/n349906a97ca2) より移動しました。

6. ポーランドのショパニストたち

【前書き】
前記事5. ピアノに於けるショパンの競演では主に、世界最高峰と言われるピアノメーカーの比較をショパンの表現に照らし合わせながら評論を進めて行った。

本記事では「第18回ショパン国際ピアノコンクール」で激しい熱戦を繰り広げた本家、ショパンの出生地・ポーランドの演奏者を3人だけピックアップして、ショパンの霊体から降りて来た霊体評論に私の主観を重ね合わせながら著述を走らせて行く。

(以上 前書きにて。)

 

第18回ショパン国際ピアノコンクール入賞者

 


「第18回ショパン国際ピアノコンクール」に於けるポーランド本国からの入賞者は、Jakub Kuszlik(Poland / 24歳)ただ一人のみだった。

総じて本国・ポーランドの演奏者の特徴として、過剰なショー要素の強いパフォーマンスを控えている点が印象的だった。ともすれば弾き映えのしない、地味な印象を与えかねないショパンの解釈は、本国ポーランド人だからこそ可能な「一歩引いた表現」と言えるだろう。

私はこの、「一歩引いたショパンの解釈」をとても好意的に受け止めることが出来たが、数人のショパンコンクール観戦メイトに質問したところ、「う~ん、これと言って印象はないかな‥。」と言うような内容な回答が複数寄せられた。
 
本物を知る人間だけが、この「一歩引いた表現」に到達することが出来る。
同じことが英語の表現にも言えるが、英語に慣れない日本人が英語を話す時は何もかもがオーバージェスチャーになってしまうのと一緒で、これは今回のショパン・コンクールに於ける日本人演奏者等の過剰表現の形振りにも当てはまる。

 

Jakub Kuszlik

 
話しを元に戻して Jakub Kuszlik氏の全てのプログラムを今回、この記事を執筆するにあたり聴くことにした。

先ず音色の上品さがファースト・インプレッションとして響いて来たが、次に印象的だったのがこの演奏者の、全てに於いての気迫と一種のロック魂のようなアウェイ感に満ち満ちている点だった。
 
けっして美形とは言えないが、この人がショパンの生まれ変わりかもしれない‥ と思うと、確かにその片鱗を感じずにはいられない。が、ショパンは未だこの世に転生を果たしていないので、この話は私のたられば論として受け流して頂きたい(笑)。
 
Jakub Kuszlik氏の、ある種のツヤ消し感のあるショパンの表現は長時間彼の演奏を聴いていても色褪せず、尚且つ飽きることもない。
表面のふくよかさに相反する身体能力の切れ味も鋭いが、けっして身体の切れ味に依存してはいない。その意味では似たような身体能力の切れ味を持つ Bruce (Xiaoyu) Liu 氏と比べてもショパンの意図により近く、Jakub氏が首一つも二つも表現の奥深さに於いては上を行っている。

ただ、ワルシャワ・フィルハーモニック・シンフォニー・オーケストラの持つ、独特の音色と解釈の墨絵のようなシックさとJakub氏の持つ音色のツヤ消し感が合わさってしまうことにより生じる「-1」の相乗効果が、ショパンの求める「天界の音色」の一部を打ち消してしまう為、アンサンブルとしての華やかさには欠ける。
 
むしろJakub Kuszlik氏は完全ピアノソロのショパニストとしての方が、私個人的には加点要素が多いように感じている。彼の持つロック魂が炸裂した「お一人様ロック・ショパン」に、今後の期待を私は寄せている。
  
 

 
もう一人、私がとても気になって何度も聴いていた演奏者がこの人、Piotr Alexewicz(Poland / 21歳)である。
 
実はこの人の上の写真はこの記事を書く為に後から見つけ出したものだが、実際に「第18回ショパン国際ピアノコンクール」で彼が戦った時は「戦士」としてのいで立ちなのか、上のプロモーション写真とはおよそ似付かぬいで立ちでステージに立っていた。
 

PIOTR ALEXEWICZ – third round (18th Chopin Competition, Warsaw)

 
どちらかと言うと、日本語で言うところの「無骨者」と言った表現に近いが、そこには虚飾も見栄も張ったりもなくただただ素直なショパンの音色が在り続けた。
私はこの「嘘偽りのないPiotr氏のショパン」に好印象を持った。同じことを、ショパン(霊体)本人も語っている。
 
けして華やかさを過剰に引き出すことはないが、音色の緩急の付け方がいかにもショパンであり、尚且つマズルカの「舞曲」テイストがこの人の場合とても強く、段々とショパンを聴いていると言うよりそこから完全に「マズルカ」の世界にリスナーを引っ張り込む力が圧倒的に強かった。
 
他の演奏者と違って「歌」或いは「歌う」と言う要素には欠けており、それがショパンらしからぬ音楽としてリスナーを若干煙らせてしまうようにも感じたが、あえて「歌」感をマイナスし、それを頑固に全ての演奏に通じさせて行く底力にはある種の将来性を私は感じている。
 
何より身体能力の切れ味でショパンを華麗に演出し切ってやろう‥ と言う野心のないところが、誰よりも印象が良かった。それをコンクールの審査員がどのように受け止めたのかは定かではないが、彼の音色には絵画で言うところの「ルノワール」のような色合いが強く感じられ、リスナーを瞬時に感激させたり瞬殺するようなショック性が無い代わりに、兎に角長く長く低空飛行を試みるハングライダーのように視えて、ともすると一日中ずっと彼の演奏を聴いていられる。

 

 

そしてこの記事にもう一人、本国ポーランドのショパニストを挙げるとしたらこの人、Kamil Pacholec(Poland / 23歳)だろう。

 

KAMIL PACHOLEC – final round (18th Chopin Competition, Warsaw)

 
この人も又他国で本コンクールを戦った演奏者とは異なり、ツヤ消し感要素の高い控え目なショパンを演奏している。
特に印象的だったのは、ワルシャワ・フィルハーモニック・シンフォニー・オーケストラのツヤ消し感の高いシックな音色にKamil Pacholec氏のピアノが乗ると本来ならばツヤ消し感が増す筈が、上品かつゴージャスな音色に変貌した点である。
 
しかも指揮者共々本家ポーランドの人だと言う点が幸いしたのか、演奏中慎重に互いにアイコンタクトを重ね合い、互いの呼吸に真剣に同調している辺りが何とも好印象だった。
 
ショパン自身はどちらかと言うとワンマン・ワンオペタイプの作曲家であったから、彼が為し得なかった「ピアノコンツェルト」をショパン本人は幻想と妄想の中で書き切ったようだが、こうして実際に音になって天界のショパンに届いて行くことになるとはゆめゆめ思いもしなかっただろう。
 
厳密に言えば、Kamil Pacholec氏の奏でるショパンは「天界の音色」にはまだまだ距離と課題はあるものの、永遠の眠りを静かに、時に厳かに華やかに包み込んで行く音色としてショパン本人も、両者(ワルシャワ・フィルハーモニック・シンフォニー・オーケストラKamil Pacholec)の組み合わせにはとても満足しているようだ。
 
二次予選の動画『KAMIL PACHOLEC – second round (18th Chopin Competition, Warsaw)』を視る限りでは、ピアノソロになった時、音の立体感に若干乏しい印象を受ける。
おそらく身体能力はさほどでもなく、スタミナが足りていないのかもしれない。高音が低音の重量に完全に潰されており、ショパンの書き遺した彼独特のメロディー(主旋律~副旋律‥)の抑揚に欠けて聴こえてしまうのが残念だった。

 

 
ショパンの意図する「天界の音楽」とは何なのか‥。
それを徹底的に模索し、表現し尽くす為には、演奏者(演奏家)に絶対的に必要な「霊力」或いは「霊体」が三者三様全く足りていない。
 
勿論霊力が無ければショパンが弾けない‥ 等とは言い切れないが、楽譜に記録されたものだけで音楽の根幹までを表現するにはかなり無理がある。
残念なことに、この記事に挙げた三人全てが霊体「ショパン」に通じていない。勿論同コンクールの審査員も同様なので、これが厳密に「ショパンコンクール」であるかどうかはショパン本人が最も疑問に感じている点である。
 
ショパンを表現する為のコンクールなのか、或いはショパンの楽譜を厳密にステージ映えするように再現する為のコンクールなのか‥。
実はショパン本人は、そのどちらも望んでいない。そこに作曲家・ショパンが存在する余地は全く以て残されていないからである。