‘Dios Dirá, Dios Proveerá’ by CURRO (+エッセイ)

一昨日から山のように、音楽を聴いている。
2025年の始まりから私は音楽にとことん突き放されて来たが、今週末は何かが違った。世界中で言いようのないエネルギーが目覚め、覚醒しているのをひしひしと感じる。
そして私は多くの音楽と出会い、彼らを探求して行く過程で新しい自分と何度も出会う。それは現実を突き放したところで起きるミラクルでもあるし、生命としては意外に当たり前のことなのかもしれない。
 
そして私はスペインのミュージシャン/CURRO (キュロ) の音楽に出会い、心臓を半周捻ってからその3/4だけが元に戻らないような不思議な感覚に見舞われている。
 

 
CURROのインタビューを読みながら、とても深い場所に渦巻く闇と希望と、ぞして絶望と自分の力ではどうにもならない運命に抗う為の凄まじい覚悟のようなものを感じながら、私はいつになく頭を抱え込んで今書斎に居る。
 

 
今日出会った音楽の中で、最もエキセントリックで最も悩ましくて、そして最も心臓がさざめき立つ音楽だった。
プレイリストの中に混ぜることによって音楽が危険に晒されるような、この言いようのない緊張感は近年余り感じて来ない感覚だ。だが私はそれでも、世界中の音楽を地続きにして行く為に混ぜて行く。
 
フラメンコとは何であるか‥。
¿Qué es el flamenco?

 
CURROの音楽はまるで、フラメンコとは行き場のない感情を押し出す場所だ‥ とでも言っているようで、私もそのような場所に走って行きたいと思う。
(El flamenco puede ser un lugar para liberar emociones que no tienen dónde ir.)
 

 
若い頃から受験勉強に慣らされて来たが、流石に61歳にもなって一気に16時間もノンストップで音楽を聴くことになるとは思いもしなかった。
その合間に短歌を編んだり、サブブログディディエ・メラの音楽倉庫に良曲を収納し、評論し、取り留めのないようで居て濃縮した時間が過ぎて行く。
そして最後の最後でCURROが難問をぶつけて来た‥。
 
何と破天荒で、‥なのにどこかとてもメロウで繊細で細くて柔らかい針金のような感性が、風を突っ切ってぶつかって来る。
 
このうえなく美しい時間を、私は堪能している。
 

 

関連記事:

 

A playlist for the loving My God (愛する神のためのプレイリスト)

毎週末の度にSpotifyから (主に) 更新される世界の音楽の新譜から、良曲だけを選び抜いてコレクションしているDidier Merahのプレイリスト『Cafe Didier』シリーズ。これについてはサブブログ『ディディエメラの音楽倉庫』に更新していますが‥。


何と今回初めて、愛する自然神のお一方の為にコレクションしたプレイリストを作成しました。先方のお名前は公表出来ませんが、意外な自然神がこういうノリの良い音楽を好まれるとは、私も驚きでした。
いつも夫とのドライブの際に神々同士でプレイリストの取り合いになり、正直困っていました。なので今回そうならないように‥ との配慮も込めて、自然神専用のプレイリストの作成を思い付きました。
 
実際に、リアルタイムで神と交信しながら都度都度音楽を取り出して、お伺いを立てながらのプレイリストの作成にはかなりのエネルギーを使いました。ですが先方はノリノリなので、最後には此方まで楽しくなって来て調子こいてしまいました(笑)。
 
これも私だから出来るプレイリストかもしれません。
先方から「一人でも多くの人々に聴いて頂きたい。それが自身のエネルギーに返って行くことになるので、人間のエナジーを吸わせて欲しい。」との要望があり、本来ならば私一人で楽しもうと思っていたのですがここに開放します。
 

このプレイリストは主に、キューバンサルサ (アフリカ、キューバ~プエルトリコ周辺)、イタリアンポップ (古いカンツォーネを含む)、スペインのポップス (フラメンコ含む)、Tango、そしてブラジルの音楽の5つのリズム体構成を中心に作成しています。
楽曲についてはあくまで自然神の要望を重視していますので、新旧織り交ぜてスクラップしています。
 
Let’s enjoy!!!💃
 

戦う音楽/ フラメンコ (Flamenco) David Palomar – “Libertad”

昨日の私の週末恒例の「世界の音楽/ 新譜チェック」の中には数曲のRumba Flamencoの新譜が散見出来たが、やはりフラメンコと言ったら此方だろう。

丁度YouTubeのマイリストの中に、David Palomarの最新動画を見つけた。
 


そもそも私はLive音源には肯定的ではないが、この種のフラメンコならば例外だ。

彼等は空間や外壁、家屋の壁を震わせながら社会に戦いを挑むべくフラメンコを歌う。それは戦いであり反骨精神の顕れであり、そして彼等の人生そのものだ。

かつて私もワールド・ミュージックだけを取り上げながらそれらの音楽を和訳し、日本語の詞に書き換えてはそれを再現する為のバンドを組んで活動していた。
その中では常に女性のヴォーカルがトップを取っていたが、彼女は各々のジャンルのダンス・ミュージックを再演歌唱する際、一切のダンスを拒絶した。

おそらく「照れ」感のようなものが彼女の舞いを遮っていたのだろうけど、聴衆側からすれば彼女のそれは音楽や表現に対する拒絶の意思と捉えられても致し方なかったと思う。

このフラメンコの動画を観ていても分かるように、彼等は振り付けとしてダンスを舞っているのではなく、彼等自身の社会的立場への反発や理不尽さへの訴えかけとして自然と体がその意思表示をするところの「舞い」として、世界に向かって舞っているのである。
 

骨を鳴らす。

彼等は喉のみならず骨を使って、彼等自身の音楽を体現して行く。その為に骨を使って舞うのだ。

以下に歌詞の一部の和訳を掲載しておきたい。
 

一歩を踏み出す方法がわからず、鎖で縛られました
一歩踏み出す方法もわからず もう飛びたかった
しかし、厳しい現実に直面しました
彼らは私の両翼を切り落としました

歩き始める前に
神は天国に遣わす
空腹の中で私は命令する
そしてアートではLoLaのルールがある

そしてマノロ・カラコル
誰が結ぶのか、誰がスイッチを入れるのか、
お金を盗む人。

誰が結ぶのか、誰がスイッチを入れるのか、
お金を盗む人。

誰が結ぶのか、誰がスイッチを入れるのか、
お金を盗む人。

もし私がその歌を発明したとしたら
それがインスピレーションの源だった

新しい世代の
立ち上がって叫ぶ
彼に正体を現して
アンダルシア・リブレのために戦わせてください

私は自由を売りません
私は自由を売りません
私は手綱のない馬です
手綱も頭もなし

誰も私を飼いならさない
誰も私を黙らせることはできないということ

ノー、ノーとは言わないでください
あなたがそこに到達できることを

自分の魂に制限をかけないでください
夢、願望、愛したいという願望。‥‥


日本にも多くの表現者や音楽家、演奏家たちが暗躍するが、彼等は一体何に向かって生きており、何に向かって音楽で語り掛けているのだろうか‥。

勿論戦う音楽だけが全てではないが、Liveと言う表現形態を取る音楽家が自らを「音楽家」だと名乗るのならば、それが誰の為の祈りであり、誰の為の憩いであり、そして実質的にどこに向かってその烽火を上げて叫んでいるのか‥。

一度そのようなことについて、各々考察してみるのも良いではないか。
 

VIVIR SIN TI – PACO SINAY(音楽評論)

先週の「世界の音楽/新譜チェック」は、個人的なスケジュールと体調の事情で日程が完全にズレてしまいました。
しかも300曲近くをチェックした中で更新出来たのはたった10曲程度‥ と言う程、良曲がなかったことには又々ビックリでした。
 

 

(今日も未だ体調が芳しくないので、雑記程度の更新になります。
ご理解下さい。)

良作が極端に少なかった先週末の世界の新譜チェックでしたが、中でもこの作品『Vivir Sin Ti』(by PACO SINAY)は美しいルンバ・フラメンコだったので、何度かリピートして聴いています。

※PACO SINAYはパルマ・デ・マヨルカ出身(在住)のフラメンコ歌手です。‥とはどこにも書いていないので、個人的にFacebook等で調べてみたのですが、表立ってプロフィールが紹介されてはいませんでした。
 

 
未だに私は「フラメンコ」と「ルンバ・フラメンコ(ルンバ・フラメンカと言う場合もある)」の音楽的な違いを正確に説明している文献を、目にしたことがありません。
何年何月に誰々が演奏してどうのこうの‥ と言う、いかにもWikipediaに掲載された文献を幾つか繋ぎ合わせたものを読んだことはありますが、音楽的なルーツの違いを説明している人は少ないのでしょうか。
 

この作品『Vivir Sin Ti』はいわば「モダン・フラメンコ」に分類され、「モダン・フラメンコ」の一部がおそらく「ルンバ・フラメンコ」にカテゴライズされるのかもしれません。
そもそもフラメンコは基本アップテンポの8ビートで(中には16ビートでカウントしている人もいるようですが)、箱割りが変則的です。オーソドックスなフラメンコにサルサビートが合わさった楽曲が多いのは、おそらくフラメンコとサルサとの相性が良いからでしょう。

『Vivir Sin Ti』も途中から完全にサルサと化していますが、言語がスペイン語なのでやはり「ルンバ・フラメンコ」色が強く響いて来ます。
 

古くは日本にも「老若男女が一緒になって歌って踊れる」音楽文化があった筈ですが、いつの頃からかその良き習慣が少しずつ薄れているように見えます。
せいぜい夏の盆踊りとか、祭囃子やよさこい祭り等のイベントが開催される時は、それが非日常の特別な報酬のように子供たちも一緒になって歌って踊っていたりもしますが、皆どこか躊躇の感を滲ませて大人たちの顔色を覗いながら‥ と言う光景が何とも皮肉めいて見えて来ます。
 

もう少し綴る予定でしたがやはり体調が良くないので、今日の記事はここで〆ます。
記事の最後に上に書いたスペイン版の、「老若男女が一緒になって歌って踊れる」音楽文化の見本のような動画を貼っておきます。
 
『Vivir Sin Ti』同様、PACO SINAYの2020年の作品『Dedicado a Parrita』になります。
 

このところ新型コロナウィルス(変異株)の新規感染者数が急増しているので、皆様も体調にはくれぐれもお気を付け下さい。

 

情熱のソングライター “Alejandro Sanz”

日本ではおそらく余り馴染がないだろう。だが、私はアジアの片隅からずっと注目し続けているのがこの人、スペインのシンガー・ソングライターのAlejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)だ。
 

先ずスペインのポップスを語る時に必要になるのが、フラメンコと言うジャンルだ。
日本人にとってフラメンコと言うと「オレーイっ」等と掛け声を掛けながら歌ったり踊ったりする、むしろ商業フラメンコの方だ。だがフラメンコと言っても奥が深い。
近年では音楽のジャンルとしては珍しいケースで、2010年にはユネスコによってスペインの無形文化遺産に登録されている。
 

『フラメンコの歴史と発展にはヒターノ(スペインにおけるロマ、いわゆるジプシー)が重要な役割を果たしている。』とWikipediaにも記載されているように、主にこのジャンルはロマによって演奏されたり歌唱されることが多く、そのロードムーヴィーとして有名な作品をあえて挙げるとすれば、映画監督 トニー・ガトリフ が監督を務めたラッチョ・ドロームを私はここに挙げたい。
 

 
さて本当ならばここでフラメンコについての記述をもっと突き進めるよう、我が社「Didier Merah Japan」の社長から通達があったのだが、フラメンコのうんちくを書き始めるとフラメンコの紹介なのかそれともこの記事の主役である Alejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)の紹介なのかが本当に分からなくなるので、やはり悩んだ末ここは主役を Alejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)に譲り渡し、内容をシンプル化したいと思う。
 

一つだけ書き添えるとしたら、民族音楽的なフラメンコの源流は楽器「ギター」に始まる。大元はクラシックギターに民族的なモードが合わさったもの、それがいわゆる「フラメンコ」の原点であり、今多くの人たちがそのジャンルの名前を聴いて連想する「ダンス主体」「リズム主体」のフラメンコは観光産業を発展させる過程で商業的に発展を遂げた形の、一種の商業フラメンコであり、そもそものこのジャンルの源流に在ったテイストとは異なるジャンルと言っても良いだろう。
 

さらに元を辿れば、フラメンコの発祥は「アラブ地域」とする説がある。


『複数の移民同士が旅の途中で出会い触れ合い‥寝食を共にし、モード色の強いアラビック音楽とクラシックギターの奏でる和声(コード進行)が見事なまでに合体した音楽がフラメンコの発祥である‥』、とは誰も言っていない(笑)。
だがなぜか私はその源流発祥の光景をまるで昨日見て来たことのように知っている。

まぁ余りシュールなことを書き過ぎると古いタイプの音楽学者に呪われそうなので、この話しの文字起こしはここで一旦止めておく。
 

 
さて、肝心要のこの記事の主役 Alejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)が2021年冬に、アルバムSanzを世に放った。
彼の場合はもともとスペインの民族的なモードを起点としたメロディーメーカなので、正確には彼の音楽を王道「フラメンコ」と呼ぶことは出来ない。だがしいて言うならば「ネオ・フラメンコ」と言った方がそれに近いだろう。

1968年12月18日生まれの Alejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)は、今年で52歳になる。まさに油の乗り切った世代の、王道の音楽を生み出す音楽家である。

 

 
アルバムSanzでは「ネオ・フラメンコ」的なテイストを持つ作品の他に、やはりここは営業を兼ねた意味合いなのか、M-2 “Iba のようなアメリカンテイストを持つ楽曲等も登場する。
正直アメリカに迎合するタイプの音楽をこのようなアルバムの中に見る度に、私は少しだけモチベーションが落ちてしまうのだ(笑)。

そもそもその民族にしか持ち得ないものを何故手放してまで、アメリカ万歳型の「売れ線」を狙わなければならないのかと、情けなくなるからね‥。
  

だがその次 M-3 “Yo No Quiero Suerte で、まるでいきなり目が覚めたみたいに Alejandro が拳を振り上げて立ち上がる。
王道のフラメンコのテイストの楽曲と歌唱表現の奥に、これまた王道クラシックの失われた歴史の中の「ロマン派」のコード進行の断片が浮かび上がると、多くのリスナーの中にその当時の微かな記憶が呼び覚まされ、胸をかきむしられるようなノスタルジーに身も心も包囲されて、きっと誰もがそこから一歩も動けなくなるに違いない。
 
M-4 “Rosa ではアフリカ音楽にも通ずるリズムを刻んだ打楽器とコーラスに始まり、それはまるで人々が互いに行き交う旅の途中の光景のように次第にスペインのコードやモードと折り重なりながら、そこにしか生まれ得ない一個の音楽を形成し、成長して行く。
そして歌手 Alejandro はけっして、他の経験値の浅い歌手たちのようにヒステリックに絶叫するような愚かな歌唱表現には及ばず、朝起きてシャツを着てズボンのベルトをしめて歯を磨く為に洗面台に立つかのように、きわめて普通に生活するように楽曲を最後まで歌い切って行く。
 
そして M-6 でようやく、アルバムリードのMares De Miel がお目見えする。まるでアルバム全体が舞台を見ているような鮮やかな構成になっており、この曲がアルバムの中心をしっかりと支えているのがよく分かる。
 

 

上手く日本語翻訳に至ることは難しいが、歌詞も印象的だ。
 
人は何度も行き来し、生まれ変わり再びここに戻って来る。
私はあなたに戻り、あなたになった私は再び出会う。
それは輝きの瞬間。
僕は毎日美しい女性と出会い、その中に魂の友を見つけて歓喜するだろう。
あなたが私を導き、昨日までの私を変えて行くに違いない‥。

 

ま、ざっと言えばこんなことが綴られている。それが上のPVを見てもよく分かる。

このアルバムSanzの中で最もフラメンコらしい一曲は、おそらく M-10 に収録されいるGeometríaだろう。
勿論冒頭に書いたような「オレ~イっ」等と掛け声を掛けるようなリズム体ではなく、いわゆる「バラード・フラメンコ」と言ってもよい素晴らしい一曲だ。

そしてこのアルバムのオオトリは、フルオーケストラが楽曲全編を包み込んで抱きしめて行くY Ya Te Quería。この曲で、アルバムSanzが静かに幕を下ろす。
 

M-10Y Ya Te Queríaを翻訳にかけてみると、まるで神々の人類への愛を感じさせる内容であることに気付く。
タイトルは「そして、私はすでにあなたを愛していた」と言う意味。
「わたしたちの中に、既に神々は種として宿っている、私は既に愛されていたのだ‥」と言う意味のセンテンスがリフレインで繰り返され、これは人類への新たな目覚めを呼び掛ける内容のバラードの大作だと言わざるを得ない。

 

 

既に目覚めた人たち、既に覚醒を始めた人たちが音楽家の中にこうして存在することに、私は歓びの涙を流さずにはいられない。
日々の小さなことに腹を立てている暇はないのだ。地球を想い、自然神を想い、地球の外の生命体に思いを馳せ、彼等と心から繋がる為の方法を模索し、その傍らで私も私自身の音楽を完成させて行く為の旅を止めてはならないと、今あらためて神に誓いを立てた。

 

アルバムSanzを聴き終えた時、思わず感謝の念があふれ出る‥。それは深いため息とともに全身を下から上に駆け上がり、太陽を目指して放たれて行った。
 
私の心の深い場所と幾つもの惑星や、星々の自然神等との繋がりを得る度に、私は自身が音楽家であることを心から祝福する。そして小さな自分の存在の全てを、いつまでも愛し続けたいと願って止まない。
 

🎀 🎀 🎀

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情熱のソングライター “Alejandro Sanz”

日本ではおそらく余り馴染がないだろう。だが、私はアジアの片隅からずっと注目し続けているのがこの人、スペインのシンガー・ソングライターのAlejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)だ。

先ずスペインのポップスを語る時に必要になるのが、フラメンコと言うジャンルだ。
日本人にとってフラメンコと言うと「オレーイっ」等と掛け声を掛けながら歌ったり踊ったりする、むしろ商業フラメンコの方だ。だがフラメンコと言っても奥が深い。
近年では音楽のジャンルとしては珍しいケースで、2010年にはユネスコによってスペインの無形文化遺産に登録されている。

『フラメンコの歴史と発展にはヒターノ(スペインにおけるロマ、いわゆるジプシー)が重要な役割を果たしている。』とWikipediaにも記載されているように、主にこのジャンルはロマによって演奏されたり歌唱されることが多く、そのロードムーヴィーとして有名な作品をあえて挙げるとすれば、映画監督 トニー・ガトリフ が監督を務めたラッチョ・ドロームを私はここに挙げたい。
 


さて本当ならばここでフラメンコについての記述をもっと突き進めるよう、我が社「Didier Merah Japan」の社長から通達があったのだが、フラメンコのうんちくを書き始めるとフラメンコの紹介なのかそれともこの記事の主役である Alejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)の紹介なのかが本当に分からなくなるので、やはり悩んだ末ここは主役を Alejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)に譲り渡し、内容をシンプル化したいと思う。

一つだけ書き添えるとしたら、民族音楽的なフラメンコの源流は楽器「ギター」に始まる。大元はクラシックギターに民族的なモードが合わさったもの、それがいわゆる「フラメンコ」の原点であり、今多くの人たちがそのジャンルの名前を聴いて連想する「ダンス主体」「リズム主体」のフラメンコは観光産業を発展させる過程で商業的に発展を遂げた形の、一種の商業フラメンコであり、そもそものこのジャンルの源流に在ったテイストとは異なるジャンルと言っても良いだろう。

さらに元を辿れば、フラメンコの発祥は「アラブ地域」とする説がある。
『複数の移民同士が旅の途中で出会い触れ合い‥寝食を共にし、モード色の強いアラビック音楽とクラシックギターの奏でる和声(コード進行)が見事なまでに合体した音楽がフラメンコの発祥である‥』、とは誰も言っていない(笑)。
だがなぜか私はその源流発祥の光景をまるで昨日見て来たことのように知っている。

まぁ余りシュールなことを書き過ぎると古いタイプの音楽学者に呪われそうなので、この話しの文字起こしはここで一旦止めておく。
 


さて、肝心要のこの記事の主役 Alejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)が2021年冬に、アルバムSanzを世に放った。
彼の場合はもともとスペインの民族的なモードを起点としたメロディーメーカなので、正確には彼の音楽を王道「フラメンコ」と呼ぶことは出来ない。だがしいて言うならば「ネオ・フラメンコ」と言った方がそれに近いだろう。

1968年12月18日生まれの Alejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)は、今年で52歳になる。まさに油の乗り切った世代の、王道の音楽を生み出す音楽家である。
 


アルバムSanzでは「ネオ・フラメンコ」的なテイストを持つ作品の他に、やはりここは営業を兼ねた意味合いなのか、M-2 “Iba のようなアメリカンテイストを持つ楽曲等も登場する。
正直アメリカに迎合するタイプの音楽をこのようなアルバムの中に見る度に、私は少しだけモチベーションが落ちてしまうのだ(笑)。

そもそもその民族にしか持ち得ないものを何故手放してまで、アメリカ万歳型の「売れ線」を狙わなければならないのかと、情けなくなるからね‥。

だがその次 M-3 “Yo No Quiero Suerte で、まるでいきなり目が覚めたみたいに Alejandro が拳を振り上げて立ち上がる。
王道のフラメンコのテイストの楽曲と歌唱表現の奥に、これまた王道クラシックの失われた歴史の中の「ロマン派」のコード進行の断片が浮かび上がると、多くのリスナーの中にその当時の微かな記憶が呼び覚まされ、胸をかきむしられるようなノスタルジーに身も心も包囲されて、きっと誰もがそこから一歩も動けなくなるに違いない。

M-4 “Rosa ではアフリカ音楽にも通ずるリズムを刻んだ打楽器とコーラスに始まり、それはまるで人々が互いに行き交う旅の途中の光景のように次第にスペインのコードやモードと折り重なりながら、そこにしか生まれ得ない一個の音楽を形成し、成長して行く。
そして歌手 Alejandro はけっして、他の経験値の浅い歌手たちのようにヒステリックに絶叫するような愚かな歌唱表現には及ばず、朝起きてシャツを着てズボンのベルトをしめて歯を磨く為に洗面台に立つかのように、きわめて普通に生活するように楽曲を最後まで歌い切って行く。

そして M-6 でようやく、アルバムリードのMares De Miel がお目見えする。まるでアルバム全体が舞台を見ているような鮮やかな構成になっており、この曲がアルバムの中心をしっかりと支えているのがよく分かる。
 


上手く日本語翻訳に至ることは難しいが、歌詞も印象的だ。
 

人は何度も行き来し、生まれ変わり再びここに戻って来る。
私はあなたに戻り、あなたになった私は再び出会う。
それは輝きの瞬間。
僕は毎日美しい女性と出会い、その中に魂の友を見つけて歓喜するだろう。
あなたが私を導き、昨日までの私を変えて行くに違いない‥。

 
ま、ざっと言えばこんなことが綴られている。それが上のPVを見てもよく分かる。

このアルバムSanzの中で最もフラメンコらしい一曲は、おそらく M-10 に収録されいるGeometríaだろう。
勿論冒頭に書いたような「オレ~イっ」等と掛け声を掛けるようなリズム体ではなく、いわゆる「バラード・フラメンコ」と言ってもよい素晴らしい一曲だ。

そしてこのアルバムのオオトリは、フルオーケストラが楽曲全編を包み込んで抱きしめて行く『Y Ya Te Quería』。この曲で、アルバムSanzが静かに幕を下ろす。

M-10『Y Ya Te Quería』を翻訳にかけてみると、まるで神々の人類への愛を感じさせる内容であることに気付く。
タイトルは「そして、私はすでにあなたを愛していた」と言う意味。
「わたしたちの中に、既に神々は種として宿っている、私は既に愛されていたのだ‥」と言う意味のセンテンスがリフレインで繰り返され、これは人類への新たな目覚めを呼び掛ける内容のバラードの大作だと言わざるを得ない。
 


既に目覚めた人たち、既に覚醒を始めた人たちが音楽家の中にこうして存在することに、私は歓びの涙を流さずにはいられない。
日々の小さなことに腹を立てている暇はないのだ。地球を想い、自然神を想い、地球の外の生命体に思いを馳せ、彼等と心から繋がる為の方法を模索し、その傍らで私も私自身の音楽を完成させて行く為の旅を止めてはならないと、今あらためて神に誓いを立てた。

アルバムSanzを聴き終えた時、思わず感謝の念があふれ出る‥。それは深いため息とともに全身を下から上に駆け上がり、太陽を目指して放たれて行った。

私の心の深い場所と幾つもの惑星や、星々の自然神等との繋がりを得る度に、私は自身が音楽家であることを心から祝福する。そして小さな自分の存在の全てを、いつまでも愛し続けたいと願って止まない。
 

(この記事はnoteより本ブログに移動しました。)