“Pavane pour une infante defunte, M. 19” – Lang Lang (album “Saint-Seans”より)

先週末の「世界の新譜チェック」は、未だ完了していない。
今週は丹念に一曲一曲を精査しながらの新譜チェックを継続しているが、そんな中私が余り好きではない中国のピアニスト Lang Lang (ラン・ラン) の新譜が飛び込んで来た。
 
元々大好きなモーリス・ラヴェルの名曲なので耳をダンボにして聴いているが、ラン・ランの表現の粗さがこの作品では特に目立ったように思う。

 
この人の持ち味はpppの音色にあるが、表情過多、感情過多な表現に陥ると手が付けられないほど気持ち悪い。
とりわけこの作品の解釈ではf (フォルテ) 部分が荒々しく演奏されており、表現としては未完成だ。 他の奏者との格差を図り過ぎたことによる表現の粗は、数年もすれば角が取れて丸くなると思われる。
 
だが如何せん、平たい顔族がそうではないかのような、あたかもお家芸でもないのにお家芸であるような過剰な演技をごっそり削ぎ落とすと言う大きな課題が、彼には残されているのではないか‥。
 


フランス音楽と言えば日本人で思い付くのが、安川 加壽子さんだ。私も何度かレッスンをして頂いたことがあったが、彼女とは感性や楽曲の解釈等の価値観も含めて合わなかった。
 
「フランス音楽は徹底的に感情解釈を除去することが基本です。」と言うのが安川氏の決まり文句だったが、それもやり過ぎると余りに無機質で音楽性を欠いた音楽になってしまうから困ったものだ。
かと言って感情解釈を過剰に音楽に持ち込むと作曲者の意図を踏み外した、全く別物に仕上がってしまうし、その匙加減が絶妙に難しい。
 


だとしてもだ。
ラン・ランの感情過多な楽曲解釈は私には到底受け容れ難い。
折角ピアニッシモの音色がとことん美しいとしてもその他の表現が余りに荒削りなので、表現バランスがガタピシになってしまって全体的なまとまりに欠ける。
感情やエモーショナルな表現をもっと洗練させて行けば、ラン・ランのフランス音楽に表現の新たな道が開けるのかもしれないが、それを聴き手として待てるのはしいて言えばラン・ランの「推し」だけだろう。
 
「推し」の為の音楽は、クラシック音楽シーンには最早不要だ。もっと客観的な表現解釈がクラシック音楽には求められる筈であり、多くのクラシック音楽奏者たちはそう言った「推し」たちの為の商業音楽手法から早々に抜け出さなくてはいけない。
そこにラン・ランも当然含まれる。
 
付け加えるならばこの曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」を再現する際のフォルテの音色には、細心の注意を払うべきだ。
実際にはフォルテの概念を新たに、ピアノのボディーをフル活用した『重厚感のあるp (ピアノ) ないしはpp (ピアニッシモ) 』と言う解釈に到達することが望ましい。
宇宙からゆっくりと地上に落ちて来る隕石を表現する時に、打鍵の速度を上げてフォルテで鍵盤を叩くことが相応しくないように、モーリス・ラヴェルがこの作品に求めるフォルテ (f) も同様に、重力を失った物体を動かす時のような打鍵の絶妙な速度感が求められるように、それがむしろ当然の解釈だと私には思えてならない。
 

バラを探せ – Cherche la rose (Henri Salvador)

ある古い知人から「日本にも素晴らしいライブがあるんですよ。」‥といきなりメールを頂いたので、そのリンクをクリックして該当メニューを応援購読。
以前深く関わりのあった女性歌手 S子さんがゲスト出演していたライブだが、正直全く期待をせずに試聴ボタンをクリック。

ピアノとフルート、男性二人のDuo演奏で開幕するが正直演奏も固くぎこちなく、何より音楽として全く美しくない。
この二人のバックに仮にどんなに世界有数のオペラ歌手が乗ったとしても、正直ろくな音楽にはならないだろう‥と言う予感が数分後、見事に的中した。

かつてマリーンがメジャー歌手からライブ歌手、つまりは夜店を毎日転々として歌い続ける歌手に転職した時のショックと言ったら、それは言葉に出来ない程だった。
名前は出せないが私の知人でかつての共演者でもある「歌手 S子」はそのクオリティーにも満たないレベルで、何より10年前よりも声の劣化が著しいことに驚いた。

勿論「歌手 S子」の表現力は夜店の客の間では高く評価はされているものの、(私の感覚で聴くに)彼女の表現は正直音楽として成立していないので、この記事ではその歌手関連の出演動画のリンクの掲載は差し控えたいと思う。

その「歌手 S子」が自信たっぷりに歌う彼女のレパートリーの一曲に「バラを探せ – Cherche La Rose」と言う名曲があるが、かれこれ15年近く前にこの作品を夜店で聴いた時には何が何やらさっぱり理解出来なかった。

以来私はこの作品の原曲にずっと触れて来なかったので夜店歌手等が一体何を歌っているのか‥、皆目見当が付かなかった。
だがやはり原曲のチカラは凄まじい。昨夜、ようやくこの作品の大まかな意味を把握するに至った。
 


アンリ・サルヴァドール。名前こそフランス人のそれだが、彼をフランス人のシャンソン歌手だなんて思ってはいけない。
この人の音楽の中には常に、地中海の海と潮風の香りが漂い、それはシャンソンでもフランスでもない、かと言って南米のそれとも違う無国籍かつ多国籍なニュアンスを血の中に存分に煮えたぎらせる人と認識した方が良い。

それは彼がどこにも受け入れられずに得た、ストレスに端を発するものとも言えるだろう。
この記事を書いている私がそうであるように、この独特の無国籍感(多国籍風情)のエレメントは、似た境遇とか近しい血の匂いを持つ者でなければ到底理解には至れない。

歌詞は極めて抽象的に描かれているが、要約すれば「どのような辛い境遇・逆境の中に在っても、そこに一輪のバラのような光を探し当てた者が光の扉の鍵を得られるに違いない‥」と言うような意味になるだろう。
とても哲学的な内容が描かれており、それは表層の文字を各自が母国語に翻訳しただけでは再演もコピーも出来ないほどの深い描写に到達している。

本記事冒頭でも述べたように昨夜「歌手 S子」の同曲を聴いた時、十数年前に聴いた時以上のショックを受け酷く胸糞が悪くなったので先ほど、原曲を探して記憶と情報を上書きしたが‥(笑)。

とても興味深かったのは、下に掲載するスペインの歌手・俳優・作曲家の Alfonso de Vilallonga( アルフォンソ・ヴィラジョンガ)がカバーした同曲。
特に私はこの人の表現以上に、ピアノのコード・プログレッションに夢中になった。

「歌手 S子」のライブ動画の中でも男性ピアニストが同じ曲を伴奏しているが、それはあくまで楽譜通りにコードをぎこちなく追っただけの音声に過ぎない、とても稚拙なもので表現にも作品にも至らない代物だったが、アルフォンソ・ヴィラジョンガのカバーの背後で演奏されているピアノのグラデーション・コードチェンジは圧巻だ。

フランス音楽とジャズのハイブリッドと言っても、過言ではない。勿論ヴォーカルの表現も素晴らしい。
 


そこはかとなくラヴェル辺りの近代音楽の香りを纏わせながら、銅線を這うようなアルフォンソの細く老いた声質の「バラを探せ」が彷徨うように心の奥の秘境を這う。

日本人歌手がどんなにベテランだ古株だなんだかんだと言ったところで、肝心要の「己はただのコピー機に過ぎない」と言うある種の謙虚さを歌手自身が持てない以上、ただの騒音に過ぎないので掃いて捨てる他の方法は無いだろう。

どっちみちシャンソンやカンツォーネに於ける日本人のコピー音源(再現)は、もはや不要だ。
本物や原曲の記録が音のサブスクリプションで堂々聴ける時代になったのだ。ならば原曲の記録だけがあればじゅうぶんだ。

万が一コピーやカバーを超えようなどと言う気概のある人が居るならば是非、わたくし 花島ダリアの辛口きわまりない音楽評論の洗礼を受けてから、先へ進むが良い。
 

‥と言うことで、この記事の〆には原作者 アンリ・サルヴァドールの原曲を新たに再編曲 & リマスタリングされたと思われる『Cherche la rose (Remasterisé en 2021)』をシェアしたい。
ここは好みが分かれるところだが、どこかしこにここ数年世界的に大爆発傾向にあるシティポップのエッセンスを足したような、ライトなニュアンスが私は好きだった。

ベースラインが若干重た目で、低音が骨盤を刺して来る感じの刺激がたまらない。是非本物をご堪能あれ。