2. アナザー・フォレスト – ショパンが本当に伝えたかったこと(表現手法・表現解釈について)

【前書き】
前記事シリーズ『ショパンを読み解く』 1. ショパンをリーディング(霊視)する – Spiritual Channeling of CHOPINでは先ず、ショパンと言う人物がこの世界に置いて行ったもの、そこから彼の霊体にまで触手を伸ばし、私なりのショパン像の実体に迫って行った。
 
この記事では前記事を起点とした「ショパンが本当に伝えたかったこと」を、作曲家目線で紐解いて行く。
 
(以上 前書きにて。)

 

 
「第18回ショパン国際ピアノコンクール」を私は、途中から観戦し始めた。コロナ禍の最中に於いて私はいかなるイベント、コンサートその他大音量の音声を放つ全ての演目に対し否定的な態度を通している。それは今も変わることがない。

だがそんな中、知人との食事中のテーブルで頻繁に同コンクールの予選の話題が尽きず、よくよく話しの中身を訊いてみると、今YouTuberとして活躍している若手ホープとも言われる角野隼斗(すみのはやと)氏、反田恭平氏、小林愛実さん等の、既に日本国内ではプロとして活動している面々があえての同コンクールへエントリーしている辺りに、どうやら注目が集まっていることを知り、色々な意味でこれは掴みどころ満載かもしれないと思い、観戦を開始した。

 

唐突だがここで、自分のことについ少々お話ししておきたい。

最初に付け加えておくと、私自身が学生時代に多種目で音楽コンクールには頻繁にエントリーして来た経緯がある。なので「競技向きの演奏解釈」と「そうではない解釈」との大きな差には、常に悩まされて来た。
 
同じ楽曲を数種類の解釈で弾き分けながら、さらに大先生の他に複数名の「下見の先生」に稽古に付けられ、各指導者毎に解釈を変えて弾き分けながらレッスンを進めて行くと、段々と自分自身の音楽を見失い演奏が迷走し始める。
精神状態が混沌とし始めた頃に夏が訪れ、概ね学生音楽コンクールの予選は夏の終わり頃に開催されると決まっているので、半ば深酒をして酩酊状態になった中年オヤジのような感覚に陥りつつ、その中でも自分の「芯」をしっかりキープしながら最初の予選に臨むことになる。
 
当然そんな精神状態で良い演奏など出来るわけがない。だが神様は時に皮肉な決断をするもので、そんな酩酊状態の私に次なる試練をお与えになる‥。
予選でバッハやツェルニー等を難なく弾きこなして二次予選に勝ち残ったとしても、日頃のレッスンで複数パターンの解釈を各指導者毎に弾き分けなくてはならない私は、最近流行りの言葉で言うところの「自分軸」ではなく「他人軸」の演奏をし続けていたことが災いし、どうにも本選に勝ち進むことが出来ないまま学生時代を終えることとなった。
 
(以下省略)

 

 
さて話をショパンに戻そう。
 
今回「第18回ショパン国際ピアノコンクール」にエントリーした(優勝者を除く)全ての演奏者について感じたことは、多くのショパン奏者が陥る、逃れることのきわめて難しいトラップに見事に足を取られてしまっている‥ ことだった。
 
これは解釈の一つと言われればそうかもしれないが、チャネラー及びコンタクティーである私が直接ショパン本人の霊体から語り掛けられたことを、ここに記したい。

 

彼はそれはそれは過酷な日常の中で音楽を生み出して来たが、その間だけは全ての現実の不毛や不条理を忘れることが出来たと言う。
遠くにたとえ大砲の爆音が轟く朝でも、ひとたびショパンがピアノや五線紙に向かうと彼を包囲している忌わしい日常は遠く彼方へと押しやられ、彼の部屋には深い緑の森が現れて神々が入れ替わり立ち替わり降臨した。
 
小鳥が囀り、それは彼の五線紙をあっと言う間に細かく鮮やかなアルペジオに姿を変えて埋め尽くして行った。小鳥たちは互いに会話を始め、そこに古い時代から森を司る精霊たちが現れてオーケストラを奏で始めた。
乾いた小枝を指揮棒代わりに、ショパンは自ら森のオーケストラの指揮者となり、時にはピアノをそこに重ね合わせて弾き振りを試みる。
そこでは何もかもが上手く行く。肉体から霊体だけが少しだけ抜け出しては、森のオーケストラの団員たちを一個に束ね、無重力の世界を心ゆくまで堪能した。
 
ショパンの霊体 談

 
作曲家の気質にもよるが、この時代の多くの作曲家たちが革命運動や戦争等の社会情勢に悩まされ続けて来た。その中で音楽と言ういわば非日常的な営みを続けている、それが作曲家である。
 
「第18回ショパン国際ピアノコンクール」にエントリーした殆どの競技者たちは、本当に勉強熱心でありショパンをとことん学習しようと試みた形跡も見られるが、その大半が仇となり表現の足を引っ張り続けていることをどのくらいの審査員やリスナーたちが感じただろうか。
 
ショパン ・・・・・
⇨ 華やか(派手) ⇨ 時折激昂して激しく荒ぶった殴打のような打鍵をする‥ ⇨ 当時の戦争を彷彿させるような表現解釈を信じて止まない‥

実際にそういう解釈で演奏されたショパンを聴いている人たちが、こんな表現法に救われる筈がない。だが「第18回ショパン国際ピアノコンクール」の競技者たちの多くがこの、癇癪持ちの表現解釈を過信しており、それを当のショパン本人が全く以て快く思っていない‥ と言う事をここに付け加えておきたい。
 
 

 
丁度今私がこの記事を綴っている間、上の小林愛実さんの競技の模様をヘッドフォンで追い掛けているが、やはり随所に殴打するような打鍵が見られ、そこに彼女の唸り声が挟まって来るので何やら聴いている私の方が拷問にでも遭っているような切迫感に苛まれる。
 
ショパンが描きたかった「アナザーワールドの森」はどこにも存在せず、音楽の背景にかつてのかなしいポーランドの風景が黒い煙のように立ち込めて来る。
小林愛実さんは「それ」を表現することが正しいと信じているようだが、それはあくまで「ショパン・コンクール」の競技中に仕込まれた瞬時のルールに過ぎない。
 
最後の最後で三回鳴り響く乱暴な重低音の「D」の後、いきなり会場からは喝采が上がるが、それはさながらよく跳べるフィギュアスケーターが何の色気もないトリプルアクセルを飛んで着氷した瞬間同様で、演奏と言うよりはスポーツ競技としてショパンと言う音楽を滑走しただけに私には視えて仕方がない。
 
概ねコンクールは「身体能力の有無」が審査基準になっており、一先ず運動性に対して評価をし、表現力は後から何とでもなると、多くの審査員たちがそう思っている点が、コンクールとして如何なものかと私は常々感じて来た。
結果として小回りが利くか、或いは力仕事の得意な競技者だけが本選に残る為、突出して豊かな表現力を兼ね備えてた競技者の大半が振るい落とされるコンクールに存在意義があるかと言われたら、私は声を大にして「No!」と叫びたい。

 

 
私の耳元でショパンがこうささやいている。

 森で遊ぼうよ。
 小鳥たちやリスたちが天使と集う森には、大きな木の神様がいてね‥。
 朝から晩まで音楽会が開かれるんだよ。
 
 僕はそこで小枝を操って、自由自在に音楽の輪を回すんだ。
 一度回り始めた音の輪は、僕が疲れて音楽を止めようと言うまで回り続けるんだよ。

 

シリーズ『ショパンを読み解く』 1. ショパンをリーディング(霊視)する – Spiritual Channeling of CHOPIN

【前書き】
2021年10月2日~10月23日までワルシャワで開催されたショパン・コンクールは、2度の延期を跨いだコロナ禍の開催と言うこともあり、各々が熱い思いで熱戦を見守ったことだろう。
そのショパン・コンクールをこのブログでは特設カテゴリーとして企画を組み、Didier Merah独自の音楽評論をシリーズ化して展開して行こうと思う。
 
Didier Merahが最も拘る「霊質」を起点に、この記事ではショパンの奥の奥まで覗き込み、ショパンが今現在何を思い、どこを目指してこの世界を視ているのかについての独自の見解を綴って行く。

(以上 前書きにて。)

 

 

ショパンが祖国ポーランドでどのような人生を歩んだか‥ 等については既に多くの文献で書き尽くされているので、本記事では割愛したい。
ここではショパンが切望し、尚且つ実現し得なかったショパンの世界観を、霊質学の観点から解いて行く。

 

厳しく過酷でかなしい現実の中で、ショパンはそこからの精神的な逃避を日夜試みたことだろう。だが満足の行く現実逃避はなかなか叶わなかった。
現実逃避にも集中力は必要だ。ショパンにはその集中力が圧倒的に欠けていた。一つにはもともと体が余り強くなかったことが原因だろう。もう一つの理由として、性格的な気の短さが挙げられる。

とても移り気で気の多いショパンは、一個のモチーフを思い浮かべている間に別のモチーフの展開を同時に考え始める。だがそうこうしている途中で、いきなりその世界観の探求に飽きてしまう。すると三つ目のモチーフに逃避先を移しながら、最初のモチーフから逃げ出そうとするが、それも結局は余り上手く行かない。

そうこうするうちにモチーフでも展開部でもない、全く違うメロディーを先に生み出した幾つかのモチーフから新たに産み落とし、それらをミックスしながら幻を追い掛けるようにして、心は次第に音楽から離れて行こうとする。その象徴として、彼の音楽に無意味な転調が多く見られるので、シュールな感覚を持つ人にはおそらく私の言わんとすることが直ぐに伝わるだろう。

 

常に集中力を欠いたショパンの作曲手法は良く言えば「即興的」であり、悪く言えば「気が散った子供のいたずら弾き」のようにも聴こえて来る。だが如何せん全ての彼の音楽がそれなりの形で黒玉の楽譜となって刻印されているので、それがショパンなのだと言われたら後世に生きている私たちはもはや頷く以外の手段を持たない。

 

陽のあたる世界を嫌い、夜を常に待ち続けながら生きていたショパン。全てが闇に包まれるその世界こそがショパンのもう一つの現実であり、そこでは自分の思うように夢を投影するひとり遊びが許された。
だがそこには具体的な風景や人物はなく、ショパンは常に「薄闇の黄泉の世界」を空想し続けた。誰もいない黄泉の世界に在るのは、永遠に少年で在り続けたいと言うショパンの強い願望だった。
白い馬に颯爽と跨り、呼吸を乱すことさえもなく、枯れない花々が乱れ咲く草原を駆け回る。馬の鼓動と自身の鼓動をピタリと合わせ、ショパン自身がそこでは人間から完全に離脱して行くのだ。
 
ショパンのハイテンポのパッセージは一見怒りを持つ精神性や心のほとばしりのように視えるが、それは彼の極一部であり、あのパッセージの滑走の中に私は、本当は馬の体を持ち無限に広がる草原を駆け回るもう一人のショパンが視えて来る。

  


多くの演奏家たちがショパンの作品を弾く時、言いようのない怒りや苦悩を表現しようとするが、正確にはそれはショパンが言わんとする世界からはほど遠い。
苦悩と言うより、不毛と言う方が近いだろう。望んでも望んでもその思いが叶わないことを、ショパンは生まれついた時から知っていた。そして彼の内面にある夢や理想が叶わぬことを又ショパン本人も受け容れて生きていたからこそ、そこには怒りや葛藤の欠片も生まれなかったとも言えるだろう。
 
だが、多くの演奏家たちが眉間に皺を寄せしかめっ面をして、さも‥ ショパンの葛藤を再現してる風な変顔の演出が途中から繰り広げられるが、それについてはショパンはけっして快くは思っていない。
かと言って訂正したり否定する気力も、もはや彼は持たない。

 

数年前からショパンは、この現実世界に舞い戻ったままそこを動いた形跡が見られない。なぜなら彼は、彼自身の霊体を保持しながら、本当に生きたい音楽家としての新たな自分を、もう一度やり直したいと思っているからだ。
それにはフレデリック・フランソワ・ショパンとしての自身ではない、別の構造を持つ肉体と別の感性を取得する必要がある。
その新たな宿主を長い間、ショパンは探し続けている。
 
出来れば男性ではなく、女性に生まれ変わりたいと願っているようにも見える。男性として生きた過去世の彼はこれでもかと言うほど辛酸をなめた為、似た構造の肉体に対し若干嫌悪感を持っているのを感じる。
もっと弱弱しい性に生まれ変わり、長い間望んでいた「夢の世界」を彼の思う最もやわらかくてあたたかい形で再現したいと願っているのだ。