ERIC LU – third round (19th Chopin Competition, Warsaw)

ショパン国際ピアノコンクール 2025′ の三次予選があっと言う間に終了し、2025年10月19日の今、既にファイナルが進んでいる。
私はショパンコンクール以外にも複数の用事 (Kポの裁判に向けた祈りを含め) を抱え込んで居る為、なかなか時間の確保が難しかった。それに加え、今回出場しているコンテスタントの中に魅力的な演奏者が見つからず、コンテスタント一人一人に時間とエネルギーを割くモチベーションが湧かなくなってしまった。
 
審査とかジャッジメントと言う作業は、団栗の背比べの中の光を見付ける作業と言えるだろう。なので抜きん出た人材を発掘する作業ではないし、審査目線が一度身についてしまうと小さなところに強引に光を当てるようなミスも起きやすい。
なので私は昔っから、コンクールが大嫌いだった。
 
今回のショパン国際ピアノコンクールに関して言えば、どんぐりの中の個性を強引に見つけ出すと言う過酷な技も必要とされるように感じている。
なので本記事で一旦ショパンコンクール関連の記事の執筆を、中断したいと思っている。
 
ないものをあるように書くことは、私のポリシーに反する。
わずかな能力よりも、後世に残る逸材に光を当てるべきだと思うので。
 

 
確かこの方、ERIC LU (🇺🇸) さんはファイナルの演奏も終えた頃だろう。
私はファイナルのピアノ・コンツェルトも動画で試聴したが、冴え渡るものは感じなかった。むしろ三次予選の『Barcarolle in F sharp major, Op. 60』『Sonata in B minor, Op. 58』の、一歩も二歩も引いた表現が良かったと思う。
 
ショパンは時代の要因で、楽曲の緩急が大きい。そこには戦争の光景や音声等を写し込んだ楽曲も多く、それが私が今一つショパンを好きになれない大きな要因だ。
その辺りの戦闘的なモードに入りやすい音楽を、ERIC LU氏は若干抑え気味に表現しているところが良い。特に『Sonata in B minor, Op. 58』『Presto non tanto』の緊迫感のある音楽からざっくりと緊迫感を抜いて行った、ある種の緩やかさを感じる演奏は高く評価したいポイントだ。
 
多くのコンテスタントがこの作品を戦々恐々と演奏しているが、あえて速度も緊迫感もその上限に持ち上げることなく斜幕がかかったような表現に抑えている。
一つにはFazioliのピアノを選んだ点も、彼の引き算の表現に豊かさを与えている。
今回のFazioliの音色はどこか、古いピアノを思わせる鄙びた音色が妙に印象に残った。それがショパンの時代性の「背景」に潜むある種の寂しさを、楽曲全体に漂わせているように感じた。
 

ERIC LU氏のファイナルの演奏も試聴したが、選曲と出場のタイミングにリスクが生じたような印象を持った。
指揮者やオーケストラがステージに馴染んでいない点に加え、ピアノ・コンツェルトの中では若干地味な曲を選曲しており、Fazioliの音色がショパンの華を拾い切れずに靄がかかってしまったのは残念だ。
ピアノの調律の問題も、ひょっとしたらあったのかもしれない‥。
 
オーケストラのストリングスの中低音が上手く響いていないのか、ピアノの楽器とオケが溶け合わない。それが指揮者の棒の問題なのかオーケストラの持つ音質の問題なのかは、現場に私が居たわけではないので何が‥ と言う断言には至らないが‥。
 

 
そもそも「ショパン」を看板に掲げるコンクールでありながら、関係者の中にショパンの意思や魂の声を聞き取れる人が居るようには見えず、それが肝心要の「ショパン」の音楽とは全く関係のない方向へとコンクール全体を引っ張り込んでしまっているのが、作曲家の目線から見るとネガティブ要因に視えて辛くなる。
 
クラシック音楽界全体が権威主義に完全に舵を切っていて、それが演奏家の進化を大きく妨害していることに、誰か一人でも気付いて欲しいと願わずには居られない。
 
音楽も音楽家も、日々、小さな進化を重ねて居る。だが、特にクラシック音楽と名が付く世界では、厳めしくいかつい音楽性が重宝される。
演奏者がやたら顔芸で分かったような素振りで頭をカクンカクン振りながら演奏している様子も、ショパンは見て居て滑稽に感じているだろう。
正しさが正解ではないと、ショパンがひっそり嘆く声が部屋中に響いて止まない。
 
少なくともショパン本人が聴いた時に泣いて喜んでくれるような、審査員側にはそういった表現や表現者にもっと着目して欲しいと思う。