中森明菜 – 瀕死の黒鳥の歌声

数年前だったかファンサイトを立ち上げたままピクリとも新譜を出さずに居た中森明菜が、遂に活動を再開した。‥と思いきや、息も絶え絶えの瀕死の黒鳥の如く、全てが変わり果てていたので驚いた。
 
特に女性歌手の場合、女性特有の体調の変化で障害が発生しやすいことは百も承知だ。元々歌が上手な人であればある程、それは顕著に出やすいと言えるだろう。
松田聖子しかりNOKKOしかり飯島真理しかり、例外として八神純子のような圧倒的な声量を現在も保持しているケースも見られるが、往々にして女性は「ある時」を機に急激に声が衰えて行く。
 
中森明菜も例外ではなかった。
個人的に彼女の音楽性が余り好きではないので入念に明菜の音楽をウォッチはしていなかったが、2015年リリース作品の歌姫4 – My Eggs Benedictの頃には既に地声の音域の大半が裏声にひっくり返ってしまっていたので、この先の彼女の歌手人生もそう長くはないなぁと予想はしていたが‥。
  


それにしてもサポーターに一体誰が付いているのか、選曲だけは攻めて来る(笑)。
やめときゃいいのにサルサだロックだジャズだ、賑々しいバンドに弱弱しい明菜の声が乗るともうそれだけで、高温の天麩羅鍋の中に崩れ落ちたシュークリームのようで胸が苦しくなる。
 

2024年4月11日の、おそらく一日前に公式から放たれた「BLONDE-JAZZ-」の明菜の声は、例えて言うならば、息を吸いながら声を出しているような‥ マッチポンプ発声で聴いている此方が呼吸困難になりそうで苦しい。
 


誰かがおだてて彼女がそれに乗った。‥そんな光景が薄目を開けると見えて来るような動画だが、一体日々のトレーニングの状況はどうなっているのだろうか。
そんなことは一切お構いなしに、まさか好きなように怠けて生きて来たのではあるまいかと思わせる程、明菜の声の劣化は明らかだ。
 
所々エッジヴォイス風な何かで語尾を誤魔化そうとしているが、声帯が割れて乾いてしまっているのがむしろ、彼女がかなりマイクに接近してレコーディングしているからバレてしまう。
元々短気な性格なのだろうか‥、ワンセンテンスごとに違う音楽に聴こえる。全体としてのまとまりに欠けるし、各メロの連携が全く為されていないので、継ぎ接ぎだらけの乾いた生地のパッチワークさながらだ。
 


動画でバックを務めているミュージシャンはall Japaneseのミュージシャンの面々だが、アレンジもスッカスカで原曲が華やかだけにかなり侘しい印象を聴き手に与える。
 
つい最近飯島真理の直近の撮影動画、『愛・おぼえていますか』で腰を抜かしたばかりだったが、女性歌手は何故その年齢、その時のコンディションに適したアレンジや音域、表現に向かって行かないのだろうかと疑問に思う。
 


若かりし頃の声質が脳内ポップアップで回ってはいるが、実際に聴かされているのはそれとは程遠い別ものである点を、誰か指摘してあげて欲しいと思う。
私がプロデューサーだったら上の動画等、絶対に表には出させない。NGだ(笑)。
 

そんなこんなで私が今日一番びっくりした中森明菜の『TATTOU-JAZZ-』を、この記事の最後にご紹介しておきたい。
中森明菜の声は勿論ガッサガサだし、この曲に関してはバックのジャズ・アレンジもスッカスカで音楽には聴こえないレベルだ。
[Arranged by Mamoru Ishida (Pf.), Keisuke Nakamura (Trp.)]
 


あと口直し用に原曲の『TATTOO』をどうぞ。

( 作詞: 森 由里子/ 作曲: 関根 安里/ 編曲: 是永 巧一 )

「ラヴ・スコール (峰不二子のテーマ)」と作詞者・槙小奈帆

このところ、80~90年代のCity Popsのカバー曲のサブスク配信が盛んだ。つい先日も何とも懐かしい今井優子の『真夜中のドア』のカバーを聴きながら、一人昭和の街並みを妄想しつつその世界観に歓喜したばかりだった。
 

  

思えば昭和の後期に、軒を連ねるように名曲のリリースが相次いだ。この作品『真夜中のドア』もその一曲だ。

そもそもこの作品をインドネシアの歌手 Rainych が2020年にカバーしたことでアジアに真夜中熱が再燃し、大ヒットの狼煙が焚き付けられたと言う話も伝わって来る。Rainychの声質はどことなく、日本で言うところの「初音ミク」のような感じの無機質なオモチャボイスで、正直私は余り好きではない。
だが、こういう声質が流行る理由は何となく理解は出来る。

 

 
その後日本ではTokimeki Recordsがゲストボーカルにひかりを招き、この作品をカバーしたが、これがなかなか夜の歌舞伎町のスナック色の強いさびれた感じがして良いのだ(笑)。

 

 
同じ曲を2019年に中森明菜もカバーしている。此方は完全にサルサのビートに編曲がしっかりと為されていて、私は好きだ。
 
こういう挑戦には賛否両論のレビューが付き纏うものだが、元曲通りが良いと言うのであれば原曲だけを聴けば良い。原曲にいかに寄り添いながらもどれだけ跳ね除けて再編して行くのか、それがカバー・ミュージックの妙味でもあるのだから、こういう機会を与えられた歌手や編曲家には思う存分遊んで欲しいところである。
 

 
さて、話を「ラブ・スコール (峰不二子のテーマ)」に戻さなければならない。
 

「ラブ・スコール (峰不二子のテーマ)」、このタイトルを聞く度に私は作詞者である槙小奈帆の陰影を思い出す。かつて私がシャンソン界で伴奏者としてトップに君臨していた頃は、大っ嫌いな歌手のTop3.に名前を挙げても良い程の人物だった。
センス、性格、演歌さながらの歌唱法‥ どれを取っても良いところ等一つもない人だと言っても過言ではない。

知名度のない新人歌手やピアニスト等、槙小奈帆に運悪く共演の出番が当たってしまうと、兎に角とことん虐め尽くされて帰されたものだった。だが伴奏者とは因果な商売であり、一度歌手に気に入られようものならその後の共演の出番にお断りを入れること等、けっして許されない分際だった。
だが、私は最後までこの歌手との共演に断りを入れ続け、どこかでうっかり遭遇しても無視し続けた(笑)。

 
そんな私が日本のシャンソン界にうんざりして2011年に業界を撤退し、その後偶然Facebookで「槙小奈帆」の名前を見掛けた時には即座に彼女のアカウントをアクセスブロックに処した。
色々と面倒臭い人なので、金輪際関わりを持ちたくなかったからだ。

だが、そんな折も折、最近になって「ラブ・スコール (峰不二子のテーマ)」を多くの歌手等がカバーしており、その度に作詞者欄に「Sanaho」とか「槙小奈帆」の名前を見掛けるようになり、私の音楽評論家魂がゾワゾワと疼いたのだ。
既に私は和製シャンソン界を撤退しており、今や槙小奈帆とは上下や同業者のしがらみも無い。ならば音楽評論家として大胆なジャッジメントを加えたところで、双方に何らリスクも無いだろうと判断し、つい最近になって槙小奈帆のCD「ネレイス」を中古で購入した。

 

CD「ネレイス」: 槙 小奈帆

 
作詞者自らが歌う「ラヴ・スコール (峰不二子のテーマ)」は恐らくこのアルバムの目玉と思いきや、どことなく捨て曲のような状態でアルバムの冒頭に収録されている。
彼女自身の日本語詞は封印され、全編フランス語で槙小奈帆は堂々と歌い切っている。バックを務めるピアニストはおそらく美野春樹氏だろう。どうりで饒舌を超えてお喋りで、うるさい。
 
しかも肝心の最後の最後のコードがミスタッチによるディスコードになっており、ベースの音がFから半音ズレて「E」を押している。これは明らかなミスタッチだと誰もが分かるのに訂正が為されなかったのは、多分‥ だが槙小奈帆に「この為」だけに二度歌わせ、録り直しをさせるわけには行かなかった業界特有の忖度だったのではないかと思う。
本来のコードとは全く異なるディスコードでラストに突っ込んだままの楽曲は、何とも後味が悪過ぎる。‥だがこういうところにも人柄や音楽のセンスが露骨に出てしまう辺り、本当に怖い。
 

同アルバムの2曲目以降はもう、聴くに値しないレベルだ。これが演歌のアルバムだと言うならば歌唱力が圧倒的に足りないし、これがシャンソンのアルバムだと言うなら喉にこぶしを込めたような歌唱法に大きな支障を感じざるを得ない。

正規のボイス・トレーニングもおそらく為されておらず、良く言えば「ハスキー」でかすれた本当に耳障りな発声が延々と続いて行くので途中でディスクを止めた。これ以上このアルバムを聴き続けることは、流石に無理だった。
 

 
良い表現とは「過剰な情念を挟まない、客観的かつクールな表現」を指す。その意味で、槙小奈帆の表現は聴き手の自由度を著しく阻害した、カッカとした熱さだけが粘着いた炎のように吹き出すだけで、ただただ風通しが悪いものだと私は感じてならない。
 
アルバム「ネレイス」の冒頭のフランス語の「ラヴ・スコール (峰不二子のテーマ)」の、どこか「他所様の言語を拝借させて頂きます」‥ 的な引きの表現の方に彼女がもっと磨きをかけることが出来たなら、きっともっと多くのリスナーに愛されたに違いない槙小奈帆の名作(作詞)、「ラブ・スコール (峰不二子のテーマ)」の別バージョンをこの記事の〆に貼っておくことにしよう。
 

同じ演歌でも、石川さゆりの演歌はどこか爽やかだ。槙小奈帆の重苦しいシャンソン・ド・演歌の声の怨霊を綺麗さっぱり忘れて、和装モンマルトルの世界に浸って頂ければ幸いである。
(※歌手とは、声優さながらその作品に応じた歌い分け、声の使い分けを怠らない人を指す。)
 

 

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「ラヴ・スコール (峰不二子のテーマ)」 と作詞者・槙小奈帆

このところ、80~90年代のCity Popsのカバー曲のサブスク配信が盛んだ。つい先日も何とも懐かしい今井優子の『真夜中のドア』のカバーを聴きながら、一人昭和の街並みを妄想しながらその世界観に歓喜したばかりだった。
 


思えば昭和の後期に、軒を連ねるように名曲のリリースが相次いだ。この作品『真夜中のドア』もその一曲だ。

そもそもこの作品をインドネシアの歌手 Rainych が2020年にカバーしたことでアジアに真夜中熱が再燃し、焚き付けられたと言う話も伝わって来る。Rainychの声質はどことなく、日本で言うところの「初音ミク」のような感じの無機質なオモチャボイスで、正直私は余り好きではない。
だが、こういう声質が流行る理由は何となく理解は出来る。
 


その後日本ではTokimeki Recordsがゲストボーカルにひかりを招き、この作品をカバーしたが、これがなかなか夜の歌舞伎町のスナック色の強いさびれた感じがして良いのだ(笑)。
 

 
同じ曲を2019年に中森明菜もカバーしている。此方は完全にサルサのビートに編曲がしっかりと為されていて、私は好きだ。

こういう挑戦には賛否両論のレビューが付き纏うものだが、元曲通りが良いと言うのであれば原曲だけを聴けば良い。原曲にいかに寄り添いながらもどれだけ跳ね除けて再編して行くのか、それがカバー・ミュージックの妙味でもあるのだから、こういう機会を与えられた歌手や編曲家には思う存分遊んで欲しいところである。
 

 
さて、話を槙小奈帆 (まきさなほ) の「ラブ・スコール」に戻さなければならない。
 
「ラブ・スコール (峰不二子のテーマ)」、このタイトルを聞く度に私は作詞者である槙小奈帆の陰影を思い出す。かつて私がシャンソン界で伴奏者としてトップに君臨していた頃は、大っ嫌いな歌手のTop3.に名前を挙げても良い程の人物だった。
センス、性格、演歌さながらの歌唱法‥ どれを取っても良いところ等一つもない人だと言っても過言ではない。

知名度のない新人歌手やピアニスト等、槙小奈帆に運悪く共演の出番が当たってしまうと、兎に角とことん虐め尽くされて帰されたものだった。だが伴奏者とは因果な商売であり、一度歌手に気に入られようものならその後の共演の出番にお断りを入れること等、けっして許されない分際だった。
だが、私は最後までこの歌手との共演に断りを入れ続け、どこかでうっかり遭遇しても無視し続けた(笑)。

そんな私が日本のシャンソン界にうんざりして2011年に業界を撤退し、その後偶然Facebookで「槙小奈帆」の名前を見掛けた時には即座に彼女のアカウントをアクセスブロックにした。
色々と面倒臭い人なので、金輪際関わりを持ちたくなかったからだ。

だが、そんな折も折、最近になって「ラブ・スコール (峰不二子のテーマ)」を多くの歌手等がカバーしており、その度に作詞者欄に「Sanaho」とか「槙小奈帆」の名前を見掛けるようになり、私の音楽評論家魂がゾワゾワと疼いたのだ。
既に私は和製シャンソン界を撤退しており、今や槙小奈帆とは上下や同業者のしがらみも無い。ならば音楽評論家として大胆なジャッジメントを加えたところで、双方に何らリスクも無いだろうと判断し、つい最近になって槙小奈帆のCD「ネレイス」を中古で購入した。
 


作詞者自らが歌う「ラヴ・スコール (峰不二子のテーマ)」は恐らくこのアルバムの目玉と思いきや、どことなく捨て曲のような状態でアルバムの冒頭に収録されている。
彼女自身の日本語詞は封印され、全編フランス語で槙小奈帆は堂々と歌い切っている。バックを務めるピアニストはおそらく美野春樹氏だろう。どうりで饒舌を超えてお喋りで、うるさい。

しかも肝心の最後の最後のコードがミスタッチによるディスコードになっており、ベースの音がFから半音ズレて「E」を押している。これは明らかなミスタッチだと誰もが分かるのに訂正が為されなかったのは、多分‥ だが槙小奈帆に「この為」だけに二度歌わせ、録り直しをさせるわけには行かなかった業界特有の忖度だったのではないかと思う。

本来のコードとは全く異なるディスコードでラストに突っ込んだままの楽曲は、何とも後味が悪過ぎる。‥だがこういうところにも人柄や音楽のセンスが露骨に出てしまう辺り、本当に怖い。

同アルバムの2曲目以降はもう、聴くに値しないレベルだ。これが演歌のアルバムだと言うならば歌唱力が圧倒的に足りないし、これがシャンソンのアルバムだと言うなら喉にこぶしを込めたような歌唱法に大きな支障を感じざるを得ない。
正規のボイス・トレーニングもおそらく為されておらず、良く言えば「ハスキー」でかすれた本当に耳障りな発声が延々と続いて行くので途中でディスクを止めた。これ以上このアルバムを聴き続けることは、流石に無理だった。
 

 
良い表現とは「過剰な情念を挟まない、客観的かつクールな表現」を指す。その意味で、槙小奈帆の表現は聴き手の自由度を著しく阻害した、カッカとした熱さだけが粘着いた炎のように吹き出すだけで、ただただ風通しが悪いものだと私は感じてならない。
 
アルバム「ネレイス」の冒頭のフランス語の「ラヴ・スコール (峰不二子のテーマ)」の、どこか「他所様の言語を拝借させて頂きます」‥ 的な引きの表現の方に彼女がもっと磨きをかけることが出来たなら、きっともっと多くのリスナーに愛されたに違いない槙小奈帆の名作(作詞)、「ラブ・スコール (峰不二子のテーマ)」の別バージョンをこの記事の〆に貼っておくことにしよう。

同じ演歌でも、石川さゆりの演歌はどこか爽やかだ。槙小奈帆の重苦しいシャンソン・ド・演歌の声の怨霊を綺麗さっぱり忘れて、和装モンマルトルの世界に浸って頂ければ幸いである。
 


※バックのピアノがやたら煩い。本当に上手なピアニストは、歌手が歌っている後ろで「オレ、めっちゃ弾けるんだぞ」とは言わない。
さらに付け加えるならば、どことなく息を吸いながら鼻腔で発声しているようなこの歌い方は、リスナーをただただ不快な気分にさせる。勿論ご本人はそう思ってはいないようだが‥。
 

※本記事はnote記事から此方に移動しました。

Chouchou(シュシュ)と最果ての女神

かねてから私が個人的に注目している日本の男女(夫婦)のユニット Chouchou が、2年振りにニューアルバム最果のダリアをリリースした。
 


アルバムタイトル『最果のダリア』の「最果て」の「て」をあえて抜いている理由について、彼等は一言も語っていないが、日本語として「最果て」から「て」が抜けていると若干違和感を感じる。
私が実はコテッコテの日本人だからなのか、それとも否か‥。おそらく「最果て」から「て」を抜いたことには何か、彼等なりの理由があるのだろう。そう思うことにしよう。

今回のアルバムで注目すべき点は、さっと要約すると以下の3点に集約される。
 

juliet Heberle のヴォーカルが穏やかに、尚且つ無理のない発声になったこと。そして彼女の歌唱表現から承認欲求が、完全に抜け落ちた点。
 
②何より arabesque Choche のメロディーメイクがシンプル化し、これまでのアルバムに見られる過剰で不要な冒険欲が一切削ぎ落とされた点。
このことによってメロディー自体が普遍性を帯びたことは、他のJ-Pop系のライター陣の域を一歩二歩飛び出て、楽曲全体のクオリティーが格段に向上した。
 
③ゲストプレイヤーとしてギタリスト maya Kawadias が参加したことにより、これまでの「俺って凄いぞ!」的な、Chouchouの楽曲全般に横たわっていた嫌味が全て抜け落ちた点。
そのことにより、むしろユニット Chouchou のカラーが際立って来たことは皮肉とも言えるが、私は良いことだと捉えている。

 

juliet Heberle の真骨頂は「声」ともう一つ、独特な「詞」の世界。本作品最果のダリアでもそれは引き続き健在であるが、むしろ以前よりもシンプルで歌詞表現が控え目になった分、楽曲に詞が乗った時の音速が飛躍的に向上した点は見逃せない。
それでいて、歌詞だからゴロ合わせでしょ?と思われそうな随所随所であっても、その作品自体を散文詩としても読ませてしまおうと言うこれまでの意気込みは変わらない。
つまり完成した歌詞であると同時に、未完成(楽曲の余地を残したと言う意味)な散文詩として完成されている。

あえて一曲一曲の詳細の解説は、私自身の作品ではないのでここでは割愛するが、このアルバム全編を聴いた後にふと、岩崎良美の過去のアルバム『月夜にGOOD LUCK』の冒頭の『夏の扉』が心の中に現れた。
 


岩崎良美はこのアルバムをリリースした直後に或ることが理由で声を失い、一度芸能界から身を引いている。
この曲夏の扉(作詞: 長谷川孝水 / 作曲: Bobby Watson)で、岩崎良美はそれまでの楽曲全般に見られた、生まれ付きの「美声張り上げ系」の歌唱スタイルをガラリを変えて、出来る限り静かに静かに、静寂を壊さぬ声量と表現スタイルをキープしている。
今にして思えばこの頃から彼女のメンタル或いは体のどこかに変化があり、こういう歌い方になったのかもしれない‥ と憶測することも出来る。あくまで憶測の域を出ないが。

一方Chouchouのアルバム最果のダリアでヴォーカルと詞を担当している juliet Heberleの場合も声質の変化を私は見逃さなかった。
ここではあえて理由詳細の記載はしないでおくが、以前のアルバムと比べると彼女の声のホワイトノイズ系の成分が増している。
それが理由で、それまでの彼女が持っていた高音域のツヤ感が消えたことによりむしろ、彼女の声質の少女性から女性性への、声の変貌を感じ取ることが出来る。
聴く人によっては、それを「母性」と感じる場合もあるようだ。私の場合は「母性」と言うよりもっと広い意味での「女性性」を、彼女の声から感じて仕方がない。
 

彼等は自身の音楽を「エレクトロニック」とカテゴライズしているが、本来ならばもっと広いカテゴリーである「J-Pop」に分類しても良さそうだ。だがそのカテゴリーでは上に上がつっかえており、色々ブランディングの観点からもやりにくいのだろう。
だが arabesque Chocheの才能あふれるメロディーメイクの才能を、「エレクトロニック」や「ポスト・エレクトロニック」等のマイナー・ジャンルに閉じ込めてしまうことにより、そのジャンル・カテゴリーでは確かに首位に駆け上がれるのかもしれない。だとしても、arabesque Choche 自身の持つメロディーセンスがこの、地味なジャンルの彼方に追い遣られるのは、ただただ勿体なく感じてならない。

今回のアルバムで特に印象に残った作品は、『Sapphire』『Flashback』。そしてもう一曲、Orionである。本音を言えば、私が今現在「歌もの」のメロディーメーカーを辞めていて良かったと、胸を撫で下ろした。
楽曲Flashbackでは arabesque Choche のサブドミナント発車のメロディーに、 juliet Heberleのシンプルで洗練された言の葉ワールドが控え目なのに、大胆に炸裂して行く。
 


そしてM-7Orionを聴いた時、 juliet Heberleの背後に突如中森明菜が現れた。彼女なら、この曲を違う視点で見事に歌い込むだろう‥ と。
当時私が芸能界で何をやっていたかについては触れないが、ふと、中森明菜のJEALOUS CANDLEが蘇った。
 


名曲は時空を超える。私はそう確信している。
勿論両曲を比較することなど馬鹿げているが、名曲を論評する時はその対象として名曲を持ち込んで比較することが望ましい。

又、 arabesque Chocheの編曲の随所に、どこか坂本龍一氏の「耳」の片鱗を感じるのだ。もしもこの楽曲にmaya Kawadiasが参戦していなかったら、もっとそれが露骨に感じられただろう。だがことある毎に maya KawadiasがChouchouの空間に茶々を入れるので、 サウンド全体が丸みを帯びて深みが増して行く。言ってみれば maya KawadiasはChouchou邸の座敷童のような存在に近いかもしれない。
上手に上手に二人を邪魔しながら、幸運の種を蒔いて行く不思議な人だ。

楽曲Lovers & Cigarettesの冒頭から、 juliet Heberleの声の背後にうっすらと男性のヴォーカルがかぶっている。この手法が妙に坂本龍一氏の「耳」を彷彿とさせ、何やら私は懐かしい。
そしてM-5Girlの中サビの、男性ヴォーカルがうっすらと顔を覗かせる瞬間、 arabesque Choche の背後霊のように坂本龍一の「耳」が金粉を撒き散らす。
 


このアルバムの音楽評論を書くにあたり、私はこれまでの数十年間の新旧J-Popを引っ張り出して彼等のテイストと何が異なるかについて、丹念に紐解いて調べて行った。
そして何を比較対照として並べて行くべきかについても色々考えあぐねたが、殆どのJ-Popが Chouchou のその輝きに惨敗した。

佐野元春、松任谷由実、中島みゆき、椎名林檎、宇多田ヒカル、藤井風…、雑魚ではなく良質・売れている作家を比較してもっとゴリゴリ語り潰したかったが、Chouchouの音楽がそれを許さなかった。

音楽評論をする時、何が良くて何がいけないのか‥ を綴ることは必要最低限のルールである。なのでその為の音楽資料を探したが、むしろ比較することが罪であるかのように、 arabesque Chochejuliet Heberleの二人の睨みに評論する側の私が推し潰されそうだった。

最近の多くのメロディーメイクは、佳境に差し掛かるとラップに逃げる傾向が強い。殆どのJ-Pop、K-Popを含むアジアのポップス全般にそれは見られ、全体を一個の音楽として魅せて行く音楽が激減した。
だが未だ、Chouchou が残っているではないか!
 

心に残る音楽、記憶に残るメロディーの最大の武器は、旋律の帯である。

ヴォーカルの癖に逃げ込むことなく、何があってもヴォーカルが最後の壁一枚で音楽や楽曲を守り抜かなければならない。その力が Chouchou にだけ備わっているのは、一体何故なのか。

常に音楽を「声」と言う壁一枚で守り抜く juliet Heberleの歌声には、何かとてつもない大きな悲しみや痛みが宿っている。それがどの楽曲であっても脈々と音楽を溶かし込み、聴き手にその一部を悲しみのトリガーとして刻み付けて行く。
だがそれはやがて、愛、優しさを湛えながら大河となって聴き手の心を上から下へと滑り落ちて行き、体や魂のど真ん中の「心」へと激しくたたみかける。

日本のメロディーメイカーがこぞって失ってしまったもの(大自然にも通じる何か)が、ここ Chouchou の世界には未だ、ほぼ手つかずのまま残っている。
フランスの名水Volvicが遂に今年、地球から姿を消してしまったがそういう事態にならないように、是非とも透明で澄んだまま Chouchou には生き続けて欲しいと願わずにはいられない。
 

 

 

本記事はnoteに執筆した同名の過去記事より、移動しました。

 

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