Jardin d’hiver (こもれびの庭に)/ Patrick Nugier (パトリック・ヌジェ)

Patrick Nugier  パトリック・ヌジェ

アンリ・サルヴァドール (Henri Salvador) の持ち曲の中では、最も世界的に飛んだ作品の一つ、“Jardin d’hiver” のカバー。
 
パトリック・ヌジェ (Patrick Nugier) と言えば、本国フランスでの活動を手放して長きに渡り日本で活動しているアコーディオニスト 兼 シャンソン歌手で名高い。
私も若かりし頃は数回この方と遭遇している (詳細にはここでは触れないが) が、正直余り良い印象はなかった。日本で活動しているフランス人だから「それっぽく見える」だけで、特にこれと言って取り柄のない歌手だ。
突出してアコーディオンが素晴らしいとも言えないし、本業の音楽よりも奥方の手厚いサポートでここまで生き残って来たと言っても過言ではないだろう。
 

久々に聴いたパトリック・ヌジェの “Jardin d’hiver” はどこかもの悲しく、そして彼の声も枯れ始めていた。これまでの人生は何だったのか、それを一つ一つ振り返るような彼の表現はむしろ、若くして来日し、そのまま日本に住み着いた外国人の油臭さと勢いが薄れ、むしろ説得力を増したようにも聴こえて来る。
 

 
この記事を書く上でかなり綿密な取材を重ねたが、先ずパトリック自身のレコーディング音源が少ないことに加え、彼の活動の母体がシャンソニエと言う夜店での生演奏である彼自身の音楽活動の条件等も重なり、勿体ないくらいに良質な音源が残っていない。
物理CDを漁れば幾つか作品も発掘出来るかもしれないが、現在公式サイトもCloseされており入手経路が絶たれた状態だ。
 

ようやく見つけたのが以下のLive音源だった。
 

 
皮肉な表現はなるが、こういった夜店の質の悪い音響の中で演奏する方が、なぜかパトリックの存在が生きて来るから心苦しい。
フランス人なのだからフランス語の曲が際立つのは当然のことだが、音楽の輪郭がスッキリとして聴きやすい。ヴォーカルの無駄なアドリブもなく、いたって普通に、本当に普通にオーソドックスに歌っている点に好感が持てる。
 

 
上の動画は恐らく「パリ祭」の映像だと思うが、大舞台に立つと地味になるのが何故なのか‥。ヴォーカリストでもなければアコーディオニストでもない、微妙な中途半端さが仇になる。
演目の「Vie violence」(ヴィーヴィオロンス) はクロード・ヌガロのレパートリーの名曲の一つだが、アクの強いクロード・ヌガロの個性が楽曲全体を支配している影響なのか、同じ曲をパトリック・ヌジェが再演すると線の弱さが余計に引き立って、曲が地味に聴こえて来る。
 
要はパトリック・ヌジェ自体が線の細い表現者だと言うことになるのだろう。完全に選曲ミスだと言わざるを得ないが、そもそも「パリ祭」は故 石井好子が各歌手に「あれを歌え、これを歌え」と上から目線で指令を出すシャンソン・パーティーの変形なので、言われた通りに下僕の歌手はそれに従わざるを得ない。
こうして映像に記録されればそれがその表現者の作品として永く残ってしまうのだから、立つ瀬がない。
 

話を“Jardin d’hiver” に戻すと、私がこれまで数々聴いて来たパトリック・ヌジェのレコーディング音源の中では際立って印象が良い。きっと原曲との相性が良かったのだろう。
近年の彼は主に教材を作成しているようだが、欲が抜け落ちてそれも良い感じに記録されている。それが彼の、身の丈に合った仕事なのかもしれない。
 

 
此方は歌手、岩崎良美との記録。岩崎良美の声のアタックが本当に綺麗で、そのヴォーカル力に完全にパトリックが引っ張り回されている(笑)。
だが如何せん、編曲が余りにチープだ。
 

肝心な “Jardin d’hiver” の編曲も、お世辞にも良いとは言えない出来栄えだ。業界内の演奏者事情を私は知っているので、きっとこれはあの奏者、あれは〇〇さんが担当した音源だろう‥ 等を読めてしまうのが辛いところだ。
とは言え、往年の和製シャンソン歌手が次々とこの世を去って行った今、パトリック・ヌジェは和製シャンソン界の最後の砦の一人だろう。
ならば最後まで美しく在って欲しいと、願わざるを得ない。
 

 

関連記事:

声のないシャンソン – “Que reste-t-il de nos amours” (残されし恋には)

悲しい時に聴くシャンソンは、人の声よりもインストゥルメンタルが良いかもしれない。
 
しんしんと風が凍り付く冷たい冬の夜、珍しく(ずっと大っ嫌いだった)シャンソン – “Que reste-t-il de nos amours” (邦題: 「残されし恋には」) を聴いている。
勿論下のLinkはヴォーカルのないバージョンで、ここのところ人の肉声を回避しながら音楽に接している私にはうってつけの内容だ。

 

 

この作品は シャルル・トレネ が生み出した名曲中の名曲であるが、私はこの作品が好きではなかった。

おそらくこの作品との出会いが良くなかったのだ‥。未だ私が和製シャンソン歌手の伴奏に従事していた頃に、訳詞家 古賀力氏がこの作品を「十八番」として毎日歌っていたが、それが余りに物真似臭くて段々と嫌気がさして来た。
 

 

物真似ソングの伴奏者には、否が応でも同様に「物真似」を要求されることになる。古賀力氏が歌う “Que reste-t-il de nos amours” に於いても同様で、最初は良い曲だ‥ と思いながらも次第に物真似臭さが鼻に付いて来て、最終的には大っ嫌いな一曲となって行った。
 

話しを「声のないシャンソン」に戻すと、最初のリンク “Que reste-t-il de nos amours” (Paolo Fresu | Richard Galliano | Jan Lundgren) 版は、Live録音とは言え「作品性」に特化した録音版であり、表現の全てが細やかでナイーヴで洗練されており、その上シャンソンにありがちな「崩れ」や「泥酔感」が一切見られない。
 

フランスはネイティブの Richard Galliano(リシャール・ガリアーノ)が参加しているにも関わらず、ネイティブのアコルディオン奏者を差し置いてイタリア人トランペッターの Paolo Fresu が楽曲のTopの座に君臨しているあたりが何とも皮肉めいていて、クールでカッコいい🎺


なにせ楽曲を底からしっかり支えているスウェーデンのピアニスト Jan Lundgren (ヤン・ラングレン)氏のハーモニー構成が何とも上品で美しく、ヤン氏のピアノに触れる度にいかに「音楽に関わる人に於けるアカデミックな教育の下地」が大切か‥ について、深く考えさせられる。
 

 

さてこの名曲 “Que reste-t-il de nos amours” (邦題: 「残されし恋には」) をざっくり検索していたところ、何と同曲を歌手の岩崎良美さんが歌っている動画を見つけた。

 

 

控え目なヴォーカルは相変わらず上品だ。
ギタリストが所々コード・プログレッションを間違えている為、後半岩崎良美が若干俯き加減にそのミステイクを上手く誤魔化しながら歌い切っている様子が(専門家の私から見れば)手に取るように分かるが、これも「生演奏好き」から言うところの「ライブの醍醐味」と言うことになるのだろう。
 
全編をフランス語でしっかりと歌い切っている辺りは高感度大であるが、やはり他国の表現者のライブと比較するとツメの甘さが拭い切れない。

 
音楽を演奏する上で重要なことは、「百年後に残せる音楽を奏でる精神」ではないだろうか。少なくとも私の場合、かつて和製シャンソン & カンツォーネ等の伴奏者に従事していた時には、上記の心得を一瞬たりとも忘れたことがなかった。
仮にその日その夜のヴォーカリストが何かの拍子に表現を投げ出してしまったとしても、私はそれを一切度外視しながらその日の仕事に集中したものだった。

だが今こうして振り返ると、当時の夜な夜なの演奏がいかに実力不足で内容が不十分だったのかと、多くの心残りが蘇る。
 

 

だが、世界には上の上、その又上が居るものだ。
Paolo Fresu | Richard Galliano | Jan Lundgren‥この三人が繰り広げて行くアルバム Mare Nostrum もそんな「上のその又上」の人々が奏でる至極の作品だ。
 

悲しい人もそうではない人たちも、今この瞬間共にこのアルバムで心を一つに出来れば‥ と願いながら、この記事の最後にアルバム Mare Nostrumを置いて記事を終わりにしたい。
 

Chouchou(シュシュ)と最果ての女神

かねてから私が個人的に注目している日本の男女(夫婦)のユニット Chouchou が、2年振りにニューアルバム最果のダリアをリリースした。
 


アルバムタイトル『最果のダリア』の「最果て」の「て」をあえて抜いている理由について、彼等は一言も語っていないが、日本語として「最果て」から「て」が抜けていると若干違和感を感じる。
私が実はコテッコテの日本人だからなのか、それとも否か‥。おそらく「最果て」から「て」を抜いたことには何か、彼等なりの理由があるのだろう。そう思うことにしよう。

今回のアルバムで注目すべき点は、さっと要約すると以下の3点に集約される。
 

juliet Heberle のヴォーカルが穏やかに、尚且つ無理のない発声になったこと。そして彼女の歌唱表現から承認欲求が、完全に抜け落ちた点。
 
②何より arabesque Choche のメロディーメイクがシンプル化し、これまでのアルバムに見られる過剰で不要な冒険欲が一切削ぎ落とされた点。
このことによってメロディー自体が普遍性を帯びたことは、他のJ-Pop系のライター陣の域を一歩二歩飛び出て、楽曲全体のクオリティーが格段に向上した。
 
③ゲストプレイヤーとしてギタリスト maya Kawadias が参加したことにより、これまでの「俺って凄いぞ!」的な、Chouchouの楽曲全般に横たわっていた嫌味が全て抜け落ちた点。
そのことにより、むしろユニット Chouchou のカラーが際立って来たことは皮肉とも言えるが、私は良いことだと捉えている。

 

juliet Heberle の真骨頂は「声」ともう一つ、独特な「詞」の世界。本作品最果のダリアでもそれは引き続き健在であるが、むしろ以前よりもシンプルで歌詞表現が控え目になった分、楽曲に詞が乗った時の音速が飛躍的に向上した点は見逃せない。
それでいて、歌詞だからゴロ合わせでしょ?と思われそうな随所随所であっても、その作品自体を散文詩としても読ませてしまおうと言うこれまでの意気込みは変わらない。
つまり完成した歌詞であると同時に、未完成(楽曲の余地を残したと言う意味)な散文詩として完成されている。

あえて一曲一曲の詳細の解説は、私自身の作品ではないのでここでは割愛するが、このアルバム全編を聴いた後にふと、岩崎良美の過去のアルバム『月夜にGOOD LUCK』の冒頭の『夏の扉』が心の中に現れた。
 


岩崎良美はこのアルバムをリリースした直後に或ることが理由で声を失い、一度芸能界から身を引いている。
この曲夏の扉(作詞: 長谷川孝水 / 作曲: Bobby Watson)で、岩崎良美はそれまでの楽曲全般に見られた、生まれ付きの「美声張り上げ系」の歌唱スタイルをガラリを変えて、出来る限り静かに静かに、静寂を壊さぬ声量と表現スタイルをキープしている。
今にして思えばこの頃から彼女のメンタル或いは体のどこかに変化があり、こういう歌い方になったのかもしれない‥ と憶測することも出来る。あくまで憶測の域を出ないが。

一方Chouchouのアルバム最果のダリアでヴォーカルと詞を担当している juliet Heberleの場合も声質の変化を私は見逃さなかった。
ここではあえて理由詳細の記載はしないでおくが、以前のアルバムと比べると彼女の声のホワイトノイズ系の成分が増している。
それが理由で、それまでの彼女が持っていた高音域のツヤ感が消えたことによりむしろ、彼女の声質の少女性から女性性への、声の変貌を感じ取ることが出来る。
聴く人によっては、それを「母性」と感じる場合もあるようだ。私の場合は「母性」と言うよりもっと広い意味での「女性性」を、彼女の声から感じて仕方がない。
 

彼等は自身の音楽を「エレクトロニック」とカテゴライズしているが、本来ならばもっと広いカテゴリーである「J-Pop」に分類しても良さそうだ。だがそのカテゴリーでは上に上がつっかえており、色々ブランディングの観点からもやりにくいのだろう。
だが arabesque Chocheの才能あふれるメロディーメイクの才能を、「エレクトロニック」や「ポスト・エレクトロニック」等のマイナー・ジャンルに閉じ込めてしまうことにより、そのジャンル・カテゴリーでは確かに首位に駆け上がれるのかもしれない。だとしても、arabesque Choche 自身の持つメロディーセンスがこの、地味なジャンルの彼方に追い遣られるのは、ただただ勿体なく感じてならない。

今回のアルバムで特に印象に残った作品は、『Sapphire』『Flashback』。そしてもう一曲、Orionである。本音を言えば、私が今現在「歌もの」のメロディーメーカーを辞めていて良かったと、胸を撫で下ろした。
楽曲Flashbackでは arabesque Choche のサブドミナント発車のメロディーに、 juliet Heberleのシンプルで洗練された言の葉ワールドが控え目なのに、大胆に炸裂して行く。
 


そしてM-7Orionを聴いた時、 juliet Heberleの背後に突如中森明菜が現れた。彼女なら、この曲を違う視点で見事に歌い込むだろう‥ と。
当時私が芸能界で何をやっていたかについては触れないが、ふと、中森明菜のJEALOUS CANDLEが蘇った。
 


名曲は時空を超える。私はそう確信している。
勿論両曲を比較することなど馬鹿げているが、名曲を論評する時はその対象として名曲を持ち込んで比較することが望ましい。

又、 arabesque Chocheの編曲の随所に、どこか坂本龍一氏の「耳」の片鱗を感じるのだ。もしもこの楽曲にmaya Kawadiasが参戦していなかったら、もっとそれが露骨に感じられただろう。だがことある毎に maya KawadiasがChouchouの空間に茶々を入れるので、 サウンド全体が丸みを帯びて深みが増して行く。言ってみれば maya KawadiasはChouchou邸の座敷童のような存在に近いかもしれない。
上手に上手に二人を邪魔しながら、幸運の種を蒔いて行く不思議な人だ。

楽曲Lovers & Cigarettesの冒頭から、 juliet Heberleの声の背後にうっすらと男性のヴォーカルがかぶっている。この手法が妙に坂本龍一氏の「耳」を彷彿とさせ、何やら私は懐かしい。
そしてM-5Girlの中サビの、男性ヴォーカルがうっすらと顔を覗かせる瞬間、 arabesque Choche の背後霊のように坂本龍一の「耳」が金粉を撒き散らす。
 


このアルバムの音楽評論を書くにあたり、私はこれまでの数十年間の新旧J-Popを引っ張り出して彼等のテイストと何が異なるかについて、丹念に紐解いて調べて行った。
そして何を比較対照として並べて行くべきかについても色々考えあぐねたが、殆どのJ-Popが Chouchou のその輝きに惨敗した。

佐野元春、松任谷由実、中島みゆき、椎名林檎、宇多田ヒカル、藤井風…、雑魚ではなく良質・売れている作家を比較してもっとゴリゴリ語り潰したかったが、Chouchouの音楽がそれを許さなかった。

音楽評論をする時、何が良くて何がいけないのか‥ を綴ることは必要最低限のルールである。なのでその為の音楽資料を探したが、むしろ比較することが罪であるかのように、 arabesque Chochejuliet Heberleの二人の睨みに評論する側の私が推し潰されそうだった。

最近の多くのメロディーメイクは、佳境に差し掛かるとラップに逃げる傾向が強い。殆どのJ-Pop、K-Popを含むアジアのポップス全般にそれは見られ、全体を一個の音楽として魅せて行く音楽が激減した。
だが未だ、Chouchou が残っているではないか!
 

心に残る音楽、記憶に残るメロディーの最大の武器は、旋律の帯である。

ヴォーカルの癖に逃げ込むことなく、何があってもヴォーカルが最後の壁一枚で音楽や楽曲を守り抜かなければならない。その力が Chouchou にだけ備わっているのは、一体何故なのか。

常に音楽を「声」と言う壁一枚で守り抜く juliet Heberleの歌声には、何かとてつもない大きな悲しみや痛みが宿っている。それがどの楽曲であっても脈々と音楽を溶かし込み、聴き手にその一部を悲しみのトリガーとして刻み付けて行く。
だがそれはやがて、愛、優しさを湛えながら大河となって聴き手の心を上から下へと滑り落ちて行き、体や魂のど真ん中の「心」へと激しくたたみかける。

日本のメロディーメイカーがこぞって失ってしまったもの(大自然にも通じる何か)が、ここ Chouchou の世界には未だ、ほぼ手つかずのまま残っている。
フランスの名水Volvicが遂に今年、地球から姿を消してしまったがそういう事態にならないように、是非とも透明で澄んだまま Chouchou には生き続けて欲しいと願わずにはいられない。
 

 

 

本記事はnoteに執筆した同名の過去記事より、移動しました。

 

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