音楽は何処から生まれるのか‥ (Where does music come from?)

普段は極力和製の音楽、特に黒玉のアタック音の衝撃だけで構成されたピアノ曲の試聴を避けているが、偶然先週末に原摩利彦の直近のアルバム『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 – オリジナルサウンドトラック』に触れ、まだまだ日本の音楽シーンも捨てたものじゃないと言う心境に至る。
 

先ず冒頭の作品を聴いて救われたことは、最近流行りのノスタルジー・ピアノの枯れた音色ではなかった点だ。
 
このところアップライトピアノの蓋を開け、あえてマイクをハンマーの近くまで寄せてカタカタと言うハンマーの動作を音源として捉えて録音する、実際には音楽には聴こえないものを音楽として配信しているピアニストが急増している。
この現象は現代人の未来への失望感を現しているように思い、楽曲開始から5~6秒で次の曲にスイッチを切り替えることが増えていた。
 


例えば上の楽曲もその一つ。
表現している人はこの音色に半ばのめり込んでいるようにも見えるが、聴く人を必ずしも幸福にする音色や音楽に聴こえないと言う観点が完全に抜け落ちているのではないか‥。
 
日本のみならず海外の “ピアニスト” と称する表現者の間でもこのノスタルジー・ピアノの音色で音楽を配信する人たちが後を絶たず、この現象は一種の音楽文化の衰退を暗示しているように、私には思えてならない。
 


そんな中、ようやく希望の光を見つけた。
勿論、原摩利彦の全ての作品が好いと言う訳ではないが、少なくともアルバム『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 – オリジナルサウンドトラック』はここ最近のピアノ系のサウンドトラックの中でも、群を抜いて秀作だ。
 
サウンドトラックと言えばこれまでは坂本龍一がその世界の第一人者のように語られていたようだが、サカモトの音楽は音楽としての独立性を持たない。映像ありきで作成されており、その大半が1分とか2分、場合によっては数十秒と言う中途半端なジングルで埋められており、一つの音楽として聴ける楽曲はアルバムの中に一曲か二曲もあれば良い方だ。
 
ジングルの欠点は、映像や映画のそのシーンと記憶を連動させなければ聴けない点にある。
単体の音楽として認識するには楽曲として未熟で未完成であり、そういう楽曲がずらりと並んだ作品集を音楽のアルバムとして認識するにはかなり骨が折れる。
 
坂本龍一の場合は映画や自身の顔をアイコンとして音楽作品にくっつけて販売(配信)している為、多くの彼のファンは音楽を聴く前の段階で既に「素晴らしいもの」だと洗脳の蓋を開けたまま思考停止に陥り、その状態でサカモトの顔アイコンを見たり妄想しながら彼の音楽に触っているから、個々の音楽を単体で聴く状況には至っていないのが現状だ。
 


思えば1980年代には既にクラシック音楽の主流が現代音楽へと移行しており、調性音楽を馬鹿にしたり「時代遅れ」の産物と認識する音楽の専門家がクラシック音楽界の過半数を占めた。
さらには調性音楽に於ける「メロディー」はもう出尽くした‥ と言うことを当たり前に口にする専門家も大多数居て、実際私も業界に居場所を失った。
 
美しい旋律や調性音楽を起点とした楽曲の作成に関わりたければ、ニューエイジやジャズ、映画音楽やCM業界ないしは歌謡曲やそれを初めとする軽音楽の世界に身を寄せる以外に出口が見つからなかった。
 
結局多くの音楽家志望の若い作曲家たちが音楽に未来も救いも見い出せず、時間稼ぎにゴーストラーターに手を染めたりスタジオ・ミュージシャンになり外国語の教材用のBGMでアメリカナイズなAOR的な音楽を多数レコーディングして糧を得る人たちも大勢現れたが、殆どのミュージシャン等は夢が叶わず枯れ落ちて年を取って行った。
 

音楽は宇宙からもたらされると私は思う。
この大いなる宇宙の闇の中に、音楽のヒントは無数に散りばめられている。
 
だが最近の多くの作曲家たちは、AやBを聴きながらそれに身の丈を当てはめて刹那的な世界観に自分の感性を漬け込みながら、「AとBを足したもの」を作り出そうとする。いつか、誰もが耳にしたことのある音楽を作り出さないと、発注者サイドが納得しないからだ。
そうこうしているうちに段々と音楽のパズル化が進み、音楽理論もクラシック音楽の基礎知識も何も無い人たちがパズル形式でメロディーを作り、それをエッジのきいた歌手に歌わせれば売れる‥ と言う勘違いの方が一人歩きを始めた。
 
だが実際にはメロディーラインもコードプログレッションもグチャグチャで、理論も美しさも何もない音楽がメディアや素人音楽ライターの美辞麗句で誤って飛んでしまうと言った、半ば放送事故のような状態が当たり前のように起きているのが現状だ。
 
歌ものの中にも良いものもあり、藤井風や椎名林檎等は未だ良い方だ。両者共に音楽に対するこれでもかと言う程の固執が見られるし、おそらく両者共に音楽の基礎教育を受けているだろうと言うことが傍目にも分かる。
だが宇多田ヒカルに至っては、メロディーも表現解釈も断片的で刹那的であり、彼女がただの七光りで音楽シーンに引っ張り出されたことの副反応が今頃になって、彼女の無教養なメロディーメイクに強烈に反映されて来た。
 


原摩利彦に話を戻そう。
勿論アルバム『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 – オリジナルサウンドトラック』が最高峰の作品集だ‥ とまでは言わないが、彼が誠実な音楽家であることはしんしんと伝わって来る。
何よりピアノの音粒と残響の使い方に、未来の光を感じずには居られない。
 
残響と言えば最近 Didier Merah がその片鱗を漂わせているが、彼女の作品の特徴として「頑固なまでにスローテンポの曲調を変えない」と言う点が挙げられる。
Didier Merahが生み出す残響のマジックはこの、徹底的なスローテンポから生み出されて行く。そして何より言語。
Didier Merahがもしもフランス人やスペイン人だったら、この様なスローテンポで残響同士を重ね合わせて響きを繋げて行くような音楽は生まれなかっただろう。
 
その辺りは又追々、別の記事で模索探求して行きたい。
 

残念ながら私はドラマの方の『デフ・ヴォイス 法廷の通訳士』を観なかった。
そもそも普段殆どTVを観ない生活にシフトしており、それに付け加え人が作り出したドラマに全く興味が無いのだ(笑)。
 
なので、このアルバム『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 – オリジナルサウンドトラック』がサウンドトラックとして作成されたことが、とても驚きだった。
アルバムの中には一曲の捨て曲もジングルもなく、個々がそれぞれ一個の世界観を表現した音楽として完成され、尚且つとても洗練された出来栄えだと私は感じている。
 

 
冨田勲 が日本のシンセサイザー・ミュージック界を大きくリードした時代はとうの昔に終わり、次世代の坂本龍一もこの世を去った。
アンビエント・ミュージックも細分化し、最近ではドローン・ミュージック等とも呼ばれるようになり、私も個人的にドローン系の楽曲を複数集めてプレイリストを作り、アカウントの事情でDidier Merah名義でプレイリストを放っている。
 
原摩利彦の作品も数曲その中にスクラップされているので、興味のある方は是非、Didier MerahのSpotifyチャンネルをフォローして、お目当てのプレイリストを探してみては如何だろうか。
 
本記事の最後に原摩利彦の最新アルバム『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 – オリジナルサウンドトラック』より、ピアノの音色が美しい M-1: Coda、そしてM-12: Enigma Ⅱ の壮大なドローン・ミュージックの2曲をピックアップしておこう。
 

 

Merry Christmas Mr. Lawrence/ Ryuichi Sakamoto

2022年12月12日 21時、YouTubeチャンネルcommmonsより、シリーズ「Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022」第一弾としてMerry Christmas Mr. Lawrenceが配信された。
丁度その時刻に私は別ジャンルのブログを仕込んでおり、リアルタイムでの視聴は出来なかったが、数時間遅れでその音色に追い付いた。

坂本龍一氏は現在ステージ4の癌を患っており、闘病中の身だ。画像にはその状況が色濃く映し出され、筋肉を失った坂本氏の陰影や演奏中の指先の様子までが克明に記録されていた。
 

 
昭和世代の音楽家等にとって彼は、人生になくてはならない存在だ。まして私とはほぼ一回り違いの彼は、まだまだ老いるには早すぎる年齢だった筈‥。

丁度5日前の同じチャンネルに上がって来たメッセージ動画Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022 – messageの中で坂本は、お得意のにやけ顔を全て封印し、真顔で自身の病状や体力に関する現状を説明しているが、坂本がかなり深刻な状況に置かれていることは誰の目にも明らかだ。
 


少しだけ話題が脱線するが、フランソワーズ・アルディーの有名なシャンソンに青春は逝く(もう森へなんか行かない)と言う名曲がある。
マイナー(moll)の悲しげなコード展開の中に、意外にこざっぱりとしたメロディーが淡々と歌われて行く。

美しい春の梢に包まれている時の人は、その尊さに最も疎くなる。
今日も、明日も、同じ場所に今と変わらぬそよ風が吹き抜けて行くと信じている。その錯覚が「今」「現在」に対して、人を緩慢にさせてしまうのかもしれない。

失ってみてから「あの時」を振り返る方が、「今」それを思うよりもきらきらと眩しく輝いているのだとしたら、時の流れは余りにも残酷過ぎる。
 

 
筋肉の落ちた美しい手が映し出すのは、未だ枯れることを必死で拒んでいる坂本の心の奥底だ。

「戦場のメリークリスマス」は巨匠の速度で、しめやかに進み始める。
「まだ行かないで」と声を涸らして叫ぶ少年のようで、足取りは重くうつろで、少年はきっとそこからやがて一歩も動けなくなるだろう。

これは私の憶測だが、恐らく演奏収録時の坂本はピアノの打鍵の重さをかなり軽めに変更したのではないかと、動画の随所から感じ取れる。
殆ど筋肉を使わず、骨と手の重さだけで鍵盤を押しているように見えるからだ。

坂本がもしも闘病中でなければ私は、この演奏をもっと酷評したかもしれない。だが私も同じ音楽家として、現在の彼の体力と気力でこの演奏を成し遂げることがどれだけ大変なことか、それが痛いほどよく分かる。
所々音が計画外に途切れ、打鍵が外れて音の尾が抜けて行く。それがまるで習字の「はね」みたいで、余計に物悲しさを誘うのだ。
 

生演奏は、修正の効かない芸術だ。
元来ライブや「生演奏」を悉く嫌う私がこの動画をあえて評論の題材として取り上げたことには、言葉では言い尽くせない様々な理由があり、その理由の彼方には坂本龍一と同じ時代、同じ時間を駆け抜けて来た者にしか分からないノスタルジーが息づいている。

けっして綺麗な音でもなければ旋律のまろやかさも消えて、音楽自体はむしろ刺々しい。
匂い立つような色気のあるコードプログレッションではなくなったこの「戦場のメリークリスマス」は、さながら2022年の今を言い表しているようだ。

多くの人々が、逃げ場のない「今」を背負って生きている。視えない何かに背中を圧されて、想定外の迷路へと誘導されて行く。
残された体力と気力で、ようやく数時間後のことを考えるのが限界だ。
 

 
テクノに始まりシンセサイザーを自由自在に操り倒した坂本龍一が、2022年の自己発信に選んだ楽器はピアノだった。だが彼はけっしてピアノが上手だとは言い難く、それよりも坂本がアルヴァ・ノトとのコラボで2018年にリリースしたGlassの方が、余程美しい。

シンセサイザーを扱う坂本龍一には「華」があり、逆にピアノと言う88鍵のオーケストラに向かう彼は楽器を操り切れていないように見える。
それでも坂本龍一が今、ピアノを選んで自己発信を重ねる理由は一体何なのか‥。
 

 
クラシック音楽の様式美に満足出来ず他のジャンルに転向したものの、やはり何かを置き忘れたかのようにかつての古巣に戻りたがる音楽家たちが後を絶たない。
坂本龍一も、その一人かもしれない。

だが彼は行き先を遂に見つけ切れず、映画音楽にその拠り所を求めるしかなかった。
だが、映画音楽の世界はクラシック音楽界以上に残酷だ。映像が無ければ音楽が、音楽として成り立たないのだ。
音楽が独立出来ずに窒息して行く。
 

 
よく言う映画の「サウンドトラック盤」を私も又、何十枚何百枚と買った。だが殆どが開封しただけの状態で、中には一度もターンテーブルに乗せなかった盤もある。
映像の中で心惹かれた音楽を後から音楽単体で聴いた時の失望感は、一度経験すればもう沢山だ。

それより何より昭和後期、一度「現代音楽」の黒い水を啜った作曲家たちが作品の中で、その「水」を頻繁に逆流させる。
例えばこの記事の最後に貼り付ける音楽も、そんな「破壊の水」を永遠に纏ったまま脱げなくなってしまった一例だろうか。