母の才女物語

昨日 2025.05.11は母の日だった。私には該当する人物が居ないので、何もせず家で静かに休んでいた。

遠くに居る息子から短いメールが一通届いていたが、彼が「母の日」を意識して私へのメールをしたためたのかどうかすら分からない程、実に淡白で素っ気ない内容だった。

 

私の母は事あるごとに、「ママは才女だったのよ。」と口癖のように語ったものだった。

1. 某女子大の児童心理学科卒業で、皇室の某女性とはご学友で英語クラブの後輩だった。(嘘)

2. 音大に受験出来る程のピアノの実力はあったが、時代の事情で音大受験を諦めざるを得なかった。(これも嘘)

3. 異性には事欠かないし不自由を感じたこともなくて、当時のフジテレビの専務とは同級生で (彼は奥様よりも) 母を好きだった‥ と言う武勇伝をよく話していた。(実は母は再婚しており、私は母の二度目の結婚で生まれた長女だった)

 

‥ 母の死後、彼女の学歴も何もかも全て嘘だったことが発覚し、むしろ愕然としたのは私の方だった。彼女は自身の才女っぷりを盾にして日夜私を殴ったり刺したりつねったりし続けた。激昂すると母は水風呂の中に、私の顔を沈めたりもした。

まさか弟が先にあの世に旅立つとは母は思ってもみなかっただろうし、彼女が隠していたこと全てが私に明るみにバレて、今頃霊界で歯ぎしりしていることだろう。 

 

母がある時いきなり「ジャズピアノを習いたい」と言って、当時ジャズキーボーディストとして名高いN氏に師事したが、半年も持たなかった。

次に師事したのが某有名ビッグバンドのリーダーの奥様だったが、その頃からジャズの譜面を私に書かせるようになった。勿論譜面に書いたものをジャズとは言わないし、そもそもジャズとは音楽を弄ばなければ成り立たない。

それを私が楽譜に起こし、母はそれを暗譜してクラシックを演奏するみたいな解釈をして毎週のレッスンに通っていたが、肝心の音楽やジャズはそっちのけでクラスの勢力争いに夢中だった。

カルチャースクールと言うのは「素人が専門家に教えを乞う」空間だと思うが、母は教師に「何も言わせない」「ぐうの音も出させない」ことに執着していた。当然誰か他の人が書いた楽譜を暗譜して母が演奏していること等、教師はまるっとお見通しだったことだろう。

そのジャズピアノ教室は最長で2年ほど続いたようだが、弟の東大受験を言い訳に利用し、怒り狂ったようにしてある日突然辞めた。

最後にたどり着いた母の趣味が、写真だった。遺品整理で実家に入った時、母が撮影したと思われる多数の写真を目にしたが、どれも焦点の定まらないぼんやりとフォーカスがかかった写真ばかりで、嗚呼これも下手の横好きで終わったのだなぁ‥ と思った。

 

実際に創作家になったのは私だったが、もともとシャンソン好きな母は、私が訳詞コンサートを開催した直後から「訳詞」にも着手していたようだ。遺品整理の際におびただしい数の彼女の手書きの訳詞のメモを発掘したが、どれも詞として成り立ってはいなかった。

フランス語も挫折したらしい。晩年間近の母がどこかでシャンソンを歌っていたと思われる写真も見つかったが、きっとそれも挫折したのだろう。訳詞と歌手はおそらく、私が自身の訳詞コンサートでその両方を実現したことへの嫉妬、腹いせに始めたことだろう。

母には歌心がないし、きちんとした発声の基礎もなかったと思うし。

 

才女だ才女だと豪語していた母の才女っぷりが一体何を指していたのか遂に分からぬまま、私も24才で家を出た。そこから32年後の冬に、まさか母の才女伝説が全て嘘だったことが私にバレるとは、彼女も想像したくはなかっただろうに‥。

 

母の日にはカーネーションを贈るのが当たり前みたくなっているが、母にとってカーネーションは何の価値もない花だったようだ。

一度だけ私が母に、なけなしのお小遣いで買った真っ赤なカーネーションを贈った時、母は一瞬だけそれを眺めたものの気が付くと茎を真っ二つに折ってゴミ箱に捨てていた。

あれ以来、私の中でカーネーションは「嫌いな花」の一つに加わった。

勿論母も母の日も今も大っ嫌いだから、昨日は死んだように時が過ぎるのを待つしかやりようがなかった。

何度か、母の嘘まみれの才女伝説が脳内を駆け巡ったが、それはただの嵐。じっと過ぎ去るのを待つ年に一度の悪夢に、今年も無事耐え抜いた。

 

(スマホから投稿 📱)

私の半生と苦痛 – ④Yellow Sky – 黄色い空

直前の過去世のイタリア、トスカーナの空はいつもどこか緑がかっていたような記憶があります。でもそれは美しい自然の色、地球の色彩の一部だったと思います。

幼少期、多分5歳から6歳、地元の教会幼稚園に少しだけ通って卒園する前に(ある理由により)やめることになった後の私は、両親からの心身への尽きない暴力(虐待)によって少しずつ身も心も叩き壊されて行く過程にありました。
子供にとって、親は絶対的な存在です。なので当時の私は自身の過酷なまでの両親からの暴力は、誰もが経験する普通のことだと思っていました。
 
ピアノの練習と共に始まる母親の暴力を母自身は英才教育だと言い、それは毎日止むことなく公然と行われていました。彼女は何故か私の目(眼球)を狙うようにして、自分の手の関節で私の目を何度も何度も殴りかかって来ました。
特に理由があったかどうかと訊かれたら、私にもそれはもう分かりません。ですが私ののんびりとした動作や、子供離れした私の一言一句が彼女のカンに障ったのでしょう。
兎に角何かと口実を付けてはマンションの一室にある北の練習部屋のドアを乱暴に開けて、私の目を狙っては何度も何度も幼い私を殴り続けました。
 
その合間に母は何事もなかったように夕食の支度をし、煮ものが一個仕上がると私の部屋に来ては又私の目や頬を殴打し、一通り殴り終えると又夕食の支度に取り掛かり、次は家族4人分のカキフライに衣をまぶし終えると又私の練習部屋に来ては、先程の続きのように私の目を何度も何度も殴りかかりました。
 
当然私に抵抗すること等許される筈もなく、私の右目は真っ赤と真っ青の中間のようなおかしな色になって腫れ上がり、冷水で顔を洗う時にまでその箇所がズキズキと痛むような、子供が普通ならば経験し得ないような痛みを常に引きずっていました。
 

 
頭上に広がる空がずっと黄色かったことも、当時の私にとっては普通のことでした。クラスの友人が時折つぶやく「空が青くて綺麗‥。」と言う言葉の意味がよく分からず私に視えている空はずっと、緑がかった黄色のままでした。
 
私が小学校の低学年の頃、夏になると殆ど毎日のように光化学スモッグ警報が発令されました。その空を見ていたクラスメイトたちは口々に、「今日は空がいつもより黄色いね。」と言うのですが、私にはいつもとさして変わらない普通に黄色い空に見えていたので、いつからいつまでが光化学スモッグ中で、いつからいつまでがそうではない空なのか‥、全く見分けが付かなかったのです。
それよりも時折、視界の真ん中に誰かがカッターで勢いよく紙を切るような線が走ることがあり、それが私の目の異常から来るものだとは知らずに「こんなものなのかな。」と思いながら過ごしていました。
※後に私が33歳の時に出会ったアメリカ在住(アメリカ系ギリシャ人)の精神科医によってそれが、母親からの虐待によって発症したPTSDの現象の一つだと判明します。
 

小学校低学年の頃から私は自分では気づかない何かしらの色々な能力を学校の教師に買われ、英語の朗読の会に急遽出場が決まったり、お習字の都展にエントリーが決まったり‥ と、両親の想定外のイベントに引っ張りだこになって行きました。
当然それらは課外授業の一環として部活のように「午後練」の時間が設けられ、私は親に内緒で午後練にひっそりと参加していました。
私にとってはそれがとても楽しい時間であり、安らぎのひと時だったのです。
 
お習字の都展にエントリーする際には半紙に二文字を書く、シンプルな稽古を何時間も続けることになり、放課後の校舎に残っては夜遅くまで何度も何度も「希望」と言う字を書き続けました。
母が一切介在出来ないこの時間は私にとってはとても神聖な静寂の時間でもあり、私は心ゆくまで「希望」の二文字を書き続けました。でも日も暮れて夜6時にもなると、母親が黙ってはいないのです。
静かに文字を書いている校舎の2階の教室に怒鳴り込んで来て、「一体いつまで続くんですか?もう外は真っ暗なのに!」と言い、監督の教師に怒鳴りかかった声を今でも私は忘れることが出来ません。
 

 

母の異様な形相を見た担当教師は慌てふためきながら、「もうあと一枚で仕上がるところなんですよ。もう少しだけお待ち下さい。」と言い、母親を別の教室に誘導すると私に目配せをして、「ゆっくり書いていいからね、落ち着いて。」と言って15分近く母の話し相手になってくれました。

その間に私は、5枚分の「希望」をしっかりと書き留めました。
そして各半紙の左隅に自分の名前を小筆で書いてそれを黒板近くの大きな箱に一枚一枚置いて、別室で大声で喚き立てている母の元に向かいました。
すると母は教師には見えないように私の手の甲をこれでもかと言わんばかりに思いっきりつねって、顔ではにっこりと微笑みながら「さあ、早く帰ってピアノのお稽古をしなきゃ!」と言って、私を教室から引きずり出しました。
 
家に帰ると室内が黄色く染まっていました。当時の私の目には、白熱灯の光も黄色く視えていたようです。しかも明るさが他の人が見ているそれよりも若干暗く写り込んでいた事を、33歳の私の心の病を診断したアメリカ人の精神科医によって後から知りました。
 
私のPTSDは小学校低学年にして既に発病していたのでしょう。
青空を知らぬまま私は高校生になり、それが改善されないまま大学に進学すると、私の視界に映り込む横断歩道の白線までも黄色く染まり、当時の私が五線紙の白い紙の色さえも認識出来ていなかったことを後から知りました。


牛乳やお豆腐、ヨーグルトや体操着の「白」が私にはずっと黄色に視えていたのですが、それを不自然とは思わないまま大人になった頃には、私の心は常に恐怖心との戦いに怯え、その合間に時折この世のものとは思えない何かの影に付き纏われるようになり、今思えば私は崩壊寸前まで壊れていたように思います。
 
ですがそのような最中でも私は、社会性だけは放棄しませんでした。
なので母や生前の弟がもしも私のことを「ピアノだけは弾けるかもしれないけど、突然奇声を上げて所かまわず大騒ぎをする気のふれた人だ。」‥ 等と言っていたとしたら、それは全くの嘘偽りです。

もしも私をそういう人だと誤解している人がいらしたら是非、私に対する認識を改めて頂きたいです。
 

to be continued…