続編/ 歌えない校歌「KAMIYAMA」- アカデミックを考察する

昨日の明け方から少し風邪気味で、今日の夕方に開催される会食迄には治してしまいたいと思い、ずっと体を休めています。
 
布団の中で丸二日を過ごしているわけですがそんな中、先日更新したブログ記事『歌えない校歌「KAMIYAMA」』の閲覧者数が右肩上がりで伸び続け、大きな手応えを感じています。
 


『有名人の遺作として書かれた校歌だ』と言うだけで、多くのリスナーはその音楽の本質にたどり着く前に『名曲だ。』と言ってしまおうとするようです。
ジャッジメントよりも偽善の方が強くマインドを突き動かし、周囲の放つ有名税の波にあやかりたくなるのでしょう。
その一歩手前で私が先にアンチテーゼの声を上げた事は、今回の場合に於いては『吉』と出たように感じています。
 
中には反論や冷やかし或いは茶化しのコメントもFacebookの個人ページの記事へ複数寄せられていますが、それも『波』が立つから届く声。
反響の一つと捉え、私はただ冷静に次の波を起こすのみです。
 


音楽家が他の音楽家の作品をジャッジメントする事は、これまではタブーとされていました。その証拠に、自らが作品を生み出す音楽家(芸術家)たちは他者の作品に対し自身の作品でリベンジを図るのが、これまでのスタイルとされていました。
それでは何の改善も為されません。
音楽家同士の小競り合いからは、思考停止と退化しか生み出せないからです。
 
私が坂本龍一の作品にあえて斬り込む事には(多分これまでの業界の流れをご存知の方々もおられるとは思いますが)、他の人たちには考えも及ばない私なりの理由があります。
 
勿論守秘義務の範疇には触れず、いわゆる『音楽業界のディープステート』の闇を暴き出す必要性を私は今、このタイミングだからこそ痛感しています。
その意味に於いても、ブログ記事『歌えない校歌「KAMIYAMA」』の執筆は現在の音楽業界やそれを取り巻く人たちの中に、大きな一石を投じたように思います。

私自身が音楽を作り出す人間だからこそ、この記事の執筆に踏み切る事に意義があるのです。
音楽作品に対する「好き/ 嫌い」等と言う好みではなく音楽理論や世界中の全ての音楽を網羅している人間が書く文献だからこそ、大きな反響が寄せられるのです。
 
思うに「音楽を生み出す人々に聴衆はやたら品行方正な善人を求めたがり、それが音楽家の表現を妨害している」と、私は思います。
真実が闇の中に在るのだとしたら、音楽を生み出す音楽家たちの心の闇や「毒」にももっとスポットを当てて、それを理解するリスナー層を育成しなければなりません。
 


ですがそれとは逆に、例えば「校歌」の場合には、その作品には必然的に普遍性が必要になります。
 
「校歌」には、個性と言う名の汚れを纏わせてはいけないのです。
 
校歌『KAMIYAMA』に於いては、その肝心要の清潔感がゴッソリ抜け落ちてしまったようです。
それに対し、その汚れた作品性を「歌手や作詞家の個性だ云々‥ 」だと思い込ませようとするのは、ひとえにこの作品が商業作品を超えられないと言う最たる証拠を業界全体でメディアを介して露呈させている事と同じです。
 

本物の個性は、個性をさらに洗練させた普遍性に到達しなければなりません。
私が申し上げたいこととはつまりそういうことであり、古い体質の軍歌風の校歌を良しとする‥ と言う話ではありません。
 
くれぐれもそこを履き違えずに、ブログ記事『歌えない校歌「KAMIYAMA」』をあらためてお読み頂ければ幸いです。
 

 

※動画のコメント欄を見ていると、中には「歌わない校歌があっても良いではないか‥」等と言うつぶやきも幾つか見られますが、問題は坂本龍一と言うアカデミックを売りに転じた音楽家に於ける聴衆への洗脳が如何に危険であるかと言う点です。
少なくとも初演の歌手として、UAのようなタイプの歌手をセレクトしたところに大きな人選ミスが生じている点を、日本人として見過ごしてはいけないでしょう。
 
私ならば誰をセレクトしたでしょうか‥。
適任者がお一人おられますが、その方のお名前はここでは伏せます。
 
そして楽曲面で言えば、校歌がポップスであってはいけないのです。
古典音楽の楽典とコード進行をしっかり踏んだ古典的で、尚且つそれが時代を超えて行く美しさを持つものでなければなりません。
作曲者/ 坂本龍一自身、「教授」と自らを名乗らなければならなかった本当の理由を知っている筈です。彼こそ、音楽のアカデミズムを脱落し、敗北した人だからです。
 
ですが百歩譲って教授が校歌を作曲するのであれば、彼は最後の最後で彼自身のアカデミズムを呼び覚まし、全身全霊で校歌『KAMIYAMA』に刻印しなければなりませんでしたが、残念ながらそれは叶わなかったようです。

歌えない校歌「KAMIYAMA」

2023年8月10日、坂本龍一の遺作とも言うべき、おそらく坂本初の校歌「KAMIYAMA」のP/VがYouTubeから配信された。
作詞はUA、編曲は網守将平。

故人を悪く言う気はないが、故人の作品だから黒を白だと言う気もない。良いものは良いし、悪いものは悪い。その意味でこの作品「KAMIYAMA」は後者であると言うのが、私の音楽評論家としてのジャッジメントである。
 

「神山まるごと高等専門学校」は徳島県の位置するが、何故この学校が校歌を坂本龍一氏(作詞: UA)に依頼したのか‥。色々な意味で人選ミスではないかと思わざるを得ない、そんな作品だ。
 


少し脱線するが、知り合いに数名だが本田美奈子のファンが居る。彼等は揃って、本田美奈子の死後にファンになった人達だ。
若くして不遇な死を遂げた、ある意味「志し半ばして‥」寿命を終えた人。その「志し半ばで寿命を閉じた」から本田美奈子のファンになった‥ と言うのが、数名のファンの共通項だと言っても過言ではない。
 
特に日本人は「滅び」に弱い。その人が元気な時は下げて下げて下げまくるヘイトを日夜連発しているのに、状況が一変した途端に態度を変える人達はそう珍しくはない。
 
坂本龍一が今日もしも存命であれば、校歌「KAMIYAMA」は間違いなく酷評されるだろう。酷評されなければならないと、私は思っている。
 

音楽は、音楽教育を受けていない人たちがシェア出来るギフトでなければいけない。

これは私の音楽哲学のような心得の一つであり、その意味でも平易で美しい楽曲がもっともっと世界中から生まれ出て来なければならない筈。だが現実はそれとは全く異なる。
「平易な曲」と言うと唐突に幼稚園児が口ずさむ童謡もどきの楽曲を、多くのメロディーメイカーが想像し、想定する。失声後の「つんく」の楽曲が激変した時には私もびっくりしたが、「平易」を取り違えているメロディーメイカーは数多く存在する。
  


校歌「KAMIYAMA」の歌詞をUAが手掛けているが、後半が英語で書かれているのは何故だろうか?
日本の学校で歌われる校歌が英語である必要性を、私は全く感じない。作詞者及び作曲者双方共に優等生感情丸出しで、「校歌」と言う観点を完全に放棄し完成した作品と言わざるを得ない。
 
メロディーも分かりにくく、「KAMIYAMA]を歌えるのは恐らくこの世でUA一人だ。そのUAも声質が激変し、P/Vの生演奏を見る限り高音の発声に大きな障害が出ている。にも関わらず何故その音域で歌わなければいけないのか、そこに音域の必要性を全く感じない。
 


言い方は良くないが、薬物中毒者が歌っている様な表情や動作も、校歌を歌う人として適切ではない。
メイキングの動画を視る限り、学生とUAとのセッションでは学生の大半が後半のメロディーも歌詞も追い切れていない。

要はこれはUAの新譜であり商品ではあるが、校歌でも作品でもないと言うことに尽きる。
 


例えば「校歌」のような作品を生み出すと言う観点で一つ忘れてはいけないことは、その楽曲のメロディーがインストゥルメンタルで海の向こう側から流れて来てもそれが分かりやすく美しい音楽であることが条件だ。
美しく平易であるが、けしてそれが幼児性に侵された音楽ではいけない。それが普遍性であり、上記の条件を満たした楽曲は必ず後世にメロディーが残って行く。
 
例えば名曲「遠き山に日は落ちて(家路)」がそうであるように、この作品はとても平易で美しいメロディーとシンプルなコードで出来ているにも関わらず、作品にはドボルザークの個性も影を失うことなく刻印されている。
 


仮に「校歌」と言う命題を与えられ曲を生み出すならば、そのようにならなければいけないと私は思う。
 
それがそうならない要因の一つとして、日本のみならず世界中の人々が「歌もの中毒」に似た症状に侵されていることが挙げられる。
校歌「KAMIYAMA」を別の歌手に仮に歌わせることになった場合、おそらくそもそものメロディーにUAの歌い癖が乗り移ってしまっており、いち楽曲のメロディーとして別の歌手が歌唱しようものなら原曲とは似ても似付かぬ楽曲になる危険性を秘めている。
つまりUA以外、誰にもこの旋律は歌えないと言うことになる。

個性の暴走の果ての個性の墜落が、校歌「KAMIYAMA」に見て取れる。
 
実際に歌えないメロディーを「校歌」として書き下ろした坂本龍一の真意の程は分からないが、同時にこの楽曲の存在理由も意義もないと言えるだろう。
昼食の時間帯に校内放送で校歌をBGMとして流す、そのくらいしかこの音楽の使い道が何れ無くなるだろう。
 


滅びの美に弱い日本人のことだから、校歌「KAMIYAMA」について誰かが「名曲だ。」と言えば多くの日本人たちはその声に便乗し、この曲は名曲だ‥ と言う後出しじゃんけんの波に乗っかる以外の音楽の聴き方をしなくなるに違いない。
なのでそうなる前に私は「正しい音楽の聴き方」の一環として、俯瞰した見解をここに綴る必要性を強く感じ、この記事の執筆に至った。
 

偽善を捨てよ。
物事に対し色眼鏡をかけて向き合うべきではない。

商品と作品を見間違えてはいけない。

 
その為には、その商品や作品の「いいね」票や知名度に振り回されることなく、己の心の声、感性に従順でなければならない。

是非この観点を持つ人たちが今後少しでも増えてくれることを願いながら、この記事の執筆を終わりにしたい。