[比較芸術論] Unfulfilled Dreams (Ryuichi Sakamoto)

毎週末恒例の “世界の新譜” の更新数が、2024年8月に突入した途端に激減しています。最初はパリ五輪の期間を外して新譜をリリースしようと狙うミュージシャン・サイドの事情だと思っていたのですが、どうも様子が違うことに気が付きました。
先々週~先週の、私の雑食系プレイリストの更新数がのべ10曲にも満たないのは、私の感覚がここに来てさらに研ぎ澄まされ、かつ厳しくなったからなのかもしれません。とは言え、新譜のリリース曲数の世界的な激減が何を意味しているのか、既にお気付きの方も沢山おられることと思います。

中略‥‥

そんな折、2023年3月28日にこの世を旅立って逝かれた坂本龍一さんの遺作にて新譜の “Opus” が、各サブスクリプションより配信されていたので、夏休みを利用してじっくり聴いています。
遺作にて新譜だから‥ と言う理由で高評価を付けないのがわたくし、ディディエ・メラの音楽評論の真骨頂。
 
一つ気が付いたことを挙げるとすれば、坂本龍一氏は生涯に渡り公の場で一言もディディエ・メラ (Didier Merah) の名を口にすることがなかったにも関わらず、かなりディディエ・メラの作品を聴き込んでからこのコンサート・レコーディングに臨んだ‥ と思われる節があります。
特に低音の打鍵やペダルの踏み方のほか、Disc 1. – M-5: “for Jóhann 等に見られるような両手の打鍵位置を引き離した状態で打鍵する奏法に、ディディエ・メラの特殊奏法の断片の痕跡を見ることが出来ます。

よくよく聴くと for Jóhann ‥ ディディエ・メラの旧作 “Ancient Forest” にとてもよく似ています‥。
 


音楽家Bが音楽家Aの作風や表現手法、或いは表現哲学等に深く影響を受けることを私はけっして悪いことだとは思いません。むしろそうやって双方が切磋琢磨しながら表現を高め合えることは、長い目で見た場合に音楽史の変革に大きな影響を与えることになるでしょうし、音楽文化の底上げにも一役買うことにもなると思います。
 
その上で絶対にやってはいけないことがあるとすれば、音楽家Bが音楽家Aの影響を受けたことを徹底的に伏せて、あたかも音楽家Bが世界で最初の発明者 (この場合は作曲者と言う方が望ましいでしょうか‥) であるような顔を平然とし続けることの方かもしれません。
例えばこれがWikipediaであれば「出典元」を明記しなければままならないような状況に近く、かと言って「出典元」を明記したからと言って楽曲Bが楽曲Aの完全な物真似だと言えない出来栄えであれば、是非楽曲Bの元の曲となるべき楽曲Aの存在は公言すべきと私は考えます。
 
私の場合は作曲技法の原型がJ.S.Bachに既に在ります。勿論J.S.Bachはわたくし ディディエ・メラの過去世なので、当然と言えば当然のことです。その上で、ディディエ・メラの新譜として新たに更新される各楽曲は必ずしもJ.S.Bachの作風とは一致しないので、堂々とその旨私のルーツを含め公言することが出来ます。
 


坂本龍一氏の “Opus”、かなりの体調悪化の中で臨んだコンサートの記録として、私もリスペクトの念をもって聴かせて頂きました。
でもそれはそれとして、ではこのアルバムが作品としてどうなのかと言われると、手放しで「素晴らしい!」と言えるものではないと正直思いました。
  
レコーディングされた作品の殆どがピアノ曲として生まれた楽曲ではない、複数の楽器で編成されることを想定して生み出されたものなので、それをピアノ一本に落とし込むことにはかなり苦労されたと思います。
とは言え、ピアノは世界最小のオーケストラ楽器とも喩えられるほど音域が広く、又他の殆どの楽器にはないペダル機能が備わっているので、坂本龍一氏ほどのスキルがあればもっと違った表現手法の可能性があったように思います。
 
思うに一度現代音楽ないしは破壊芸術に深く浸り込んだ人の感覚は、ある意味正統派の音楽を生み出す時の感性には二度と戻れない、そんな風にも感じています。
幸いわたくし ディディエ・メラは現代音楽に心酔する僅か手前でその道を引き返し、当時の恩師と決別しています。本当に美しい音楽がどこにあるのか、その記憶と残響を求めて半世紀を音楽漂流の旅に費やし、現在のディディエ・メラの表現スタイルや作風に到達した経緯があります。
 

坂本龍一氏は早い時点で自らを「教授」と名乗り、他者にもそう思い込ませることでビッグビジネスを成功させた一人です。仮にビジネス面では成功し、その勢いと名声を失うことなくこの世を旅立ったとしても、最終的に音楽や音楽家の真の価値を決めるのは『時間』と、その作曲家の全作品を含めた「時代を超えた普遍性」の有無だと思います。
その意味では坂本龍一氏の全作品を含め、普遍の神の手元には遠く及ばなかったのではないかと個人的には感じます。
 


坂本龍一が何より愛したものは音楽ではなく、ご自身の『教授アイコン』だったのかもしれません。皮肉なことに彼が最も愛した『教授アイコン』が、サカモトの音楽をコミック化させることに一役買ったのかもしれません。
日本の音楽界やメディアがそれを彼に要求し、その要求にサカモトが見事に応える形でいっときは成功した彼の音楽人生をこうして振り返ってみると、彼が最後に遺した “Opus” がどこか冗談めいたもののように聴こえて来るから不思議です。
 
今この箇所を書いている時にヘッドホンからはDisc 1. M-9: “Bibo no Aozora が聴こえていますが、ここぞと言う箇所になると破壊芸術魂が顔を出し、最も美しい旋律を破壊することで楽曲のクライマックスを突き抜けようとしている彼の心情が見て取れます。
そもそもがアカデミックな教育を受けて来た人なのに、まるでそうではなくその場の弾みで音楽を作ってしまう人のように坂本龍一の音楽が聴こえてしまう要因はもしかすると、彼の人間性の中に潜んでいるのかもしれません。
勿論坂本龍一がどんな人間性だったか‥ と言う話にはここではあえて触れずにおきますが。
 

アルバム後半は念仏のようにヘッドホンを駆け抜けて行った、アルバム “Opus” 。‥‥

坂本龍一が「大曲」と呼べる作品を遂に一作も遺さなかった理由の一つを挙げるとすれば、それは彼が映画音楽の量産に踏み切ったことにあるでしょう。
映画音楽は映像と台本が主役であり、音楽はあくまで脇役です。多くのサウンドトラック版はメインテーマの他はほぼ「ジングル」と呼ばれる効果音を音楽になぞられた小品で構成されているので、よほどその映画音楽を担当した音楽家に興味のある人でもない限り、映像から音楽だけを切り離して聴き込む人はいないでしょう。
 
ディディエ・メラも若かりし頃は盛んに映画音楽やCMの背景音等を製作する仕事を勧められたものでした(笑)。ですが私は「音楽が主役」の人生を既に決めて人生を歩んでいたので、そうしたジングルやBGMの仕事には消極的な態度を貫きました。
なのでお仕事を頂くよりも前に、仕事の側が私を上手く避けて通過して行ってくれたと思っています。
 

記事の最後に坂本龍一の遺作にて新譜のアルバム “Opus” のSpotifyのリンクを貼っておきます。
“Merry Christmas Mr. Lawrence” とラスト曲 “Opus – ending” 以外、ほぼ全曲がマイナーコードの楽曲で埋め尽くされたこのアルバムは、喩えるならサカモト自身が坂本龍一に贈るレクイエムではなかったかと思わずにはいられません。

坂本龍一氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
 

Opus – 坂本龍一

「マツケンサンバⅡ」はサンバか否か‥

「マツケンサンバⅡ」が厳密には「サンバ」ではなくマンボかルンバ‥ と言う音楽評論を目にしました。⇩
(残念ながら該当記事は2025年6月11日現在、別記事として再アップされていました。🔗画像をタップして下さい。)
 

 
音楽には色々な解釈がありますが、上記の説に於いては半分が正解であり、半分は不正解と言えます。

サンバ論或いはサンバの解釈をする際に、度々持ち出されるのが「リオのカーニバル」です。リオのカーニバルが「サンバ論」のベースとなるサンバ解釈は方々で展開されていますが、「リオのカーニバルこそがサンバである」‥ と言う視点も、あくまで規模の問題です。

基本的にリオのカーニバルの音楽(主にリズム体)の特徴として、大所帯の打楽器「バトゥカーダ」が主として16ビートの3、7、11、そして15の箇所にアクセントを感じるリズム体をキープしながら演奏されるのが特徴です。
バトゥカーダ」は本来ヴォーカルのない音楽演奏形態を指し、主にスルド、アゴゴ、カウベル、カイシャ、アビート(ホイッスル)等と言った多くの楽器で編成が組まれ、リオのカーニバルではダンサーの後ろに大きな台車が組まれチームを鼓舞しながら会場を練り歩きます。
 


確かに「マツケンサンバⅡ」の原曲にはバトゥカーダ が入っていません。
 


元記事【マツケンサンバⅡ、正確には「マツケンマンボ」か「マツケンルンバ」?音楽学者が解説】⇦ では《マツケンサンバⅡはマンボかルンバ、ないしはキューバの音楽「モントゥーノ」かもしれない》‥ と書かれていますが、どれも正解ではありません。

ざっくりとこの音楽はシンプルに、「ラテン音楽」である‥ と言う認識の方が正しいと言えます。

少し視点を変えて、さらに説明を加えましょう。
「マツケンサンバⅡ」には複数のトラックが存在し、それぞれ個性的なアレンジが施されています。
その中で同曲が見事にサンバ・チルアウトに編曲されているのが、以下のトラックです。⇩
 


上記のトラックでは若干ですがリズムセクションが増幅されており、リオのカーニバルのバトゥカーダ 程ではないですが、ブラジルのサンバにかなり近づいている箇所が数カ所あります。
リズムの刻みが16ビートから、さらにかなり細かく刻む別の打楽器が背後にミックスされていて、若干付点がかった「Swing(オンダ)」を入れて打楽器がミックスされている為、リズムに空気感と躍動感が感じられます。

time 2:36 辺りから段々とSwing(オンダ)がきつくなっており、そこに「オーレ!」がリピートされている為、かなり強いサンバ感を感じることが出来ます。
よ~く聴くと、バスドラが増幅されてミックスされているので、低音部に重厚感も感じられますね。

これは「マツケンサンバⅡ」のシングルバージョンには無いアレンジになっているので、エレクトリック・サンバとして聴いたり踊ったりすることが可能です。
まぁどんなに背後に強力なリズムが来ても、上様にとっては最早どうでもいいことのようにも見えます。楽しけりゃーいいんですから、上様は!(笑)
 


音楽、特に『舞曲』やダンス・ミュージック、リズム・ミュージックを解釈する時に必要なことは、知識よりも感性です。
ドラムの何々が何ビートを刻んでいるから「これはサンバである」と言う数学のドリルの回答を導き出すような杓子定規な解釈は、私から見ればとても短絡的に見えます。

特に民族音楽はリズムだけではなく、そこに発祥地の「モード」や言語の特徴等が折り重なって一個の世界観を形成して行きます。なので、正しいか否か‥ を超えた音楽分析力が求められます。

元記事マツケンサンバⅡ、正確には「マツケンマンボ」か「マツケンルンバ」?音楽学者が解説⇦ ではどこか、マツケンブームに乗って何かしらアンチテーゼのような一家言を叩き出すことで筆者が音楽評論界に二次的な旋風を巻き起こそうとしているようにも見えます。
ですがどこか筆者の音楽解釈のツメの甘さが目立ち、多くの音楽を複合的に解釈しようとすることを拒絶しているような意図が見え隠れしている点に、個人的には問題を感じてなりません。

音楽解釈の自由性を許さない、或いは音楽を感じるマインドに余計なバイアスを掛けて行くような音楽評論は、リスナーの自由性を大きく阻害することになりますので、そのような文献にうっかり遭遇した時は出来れば余り真剣に読まずに通過することをオススメします(笑)。


さて、この記事で折角「バトゥカーダ」に触れたので、今私が個人的にイチオシのAAINJAAのバトゥカーダの動画を最後に置いて、記事を終わりにします。
 

 

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本記事は『note』より移動しました。