AI生成音楽 VS 藤井風

週末、音楽探索をしている過程で見つけたAI生成音楽動画に、足を取られた。
素材はSMAPの「夜空ノムコウ」(作詞: スガシカオ/作曲: 川村結花) 、それをニューヨーク・ジャズのテイストで編曲されており、そこに此方もAIと思われる黒人系ヴォーカリストの声が乗っている。
 

 
昭和~平成生まれの多くのポップス愛好家ならば、この曲を知らない人は先ず居ないだろう。
編曲も上手く出来ているし、むしろ原曲よりも此方の方が耳障りもテイストも良い。何度でも聴いていたい程の出来栄えだ。
 
‥と、この曲を聴いていると私の脳内マッチングシステムが作動し、藤井風PREMAを指さした。
 

 
明らかにAIと藤井風は接近しており、上の2曲が同じ曲のように聴こえて来る。
 
最近AI生成音楽が一気に増殖している。それ自体を高く称賛することは出来ないが、製作者サイド或いはクリエイターサイドに居る多くの人材が出口を失い窒息しているのを感じてならない。

日本の売れ曲の上位を、アニソンが占めている。
アニソンの多くはテンポの速い楽曲が多く、尺が決まっていると聞く。およそ90秒/1曲の中にAメロ、Bメロ、サビからエンディングまでを仕舞い込んで行くには、当然一曲の速度を上げる必要が生じるだろう。
だが私の周囲のポップス愛好家たちの多くが、このハイスピードの曲に疲れている。
 
そこに速度の緩いR&Bのようなテイストの音楽が侵入して来れば、当然のこと、心変わりは避けられない。
私も同様の心境だ。
 
それにしても ‘AI MUSIC BOX‘ から配信された夜空ノムコウと藤井風のPREMAの酷似性が何故生じてしまったのか‥、そこに大きな疑問を感じずには居られない。
もしもコピーが起きたとしたら、藤井風の方が夜空ノムコウにインスパイアされた結果PREMAが誕生したと考えるのが、自然の流れだろう。もっと平たく言えば、藤井風の音楽自体が既にAI生成音楽の可能性が大だと言うことになる‥。
 

 
これは昔から続いている現象だが、良い音楽、良いメロディーを生み出すクリエイターの出口を、既存のレコード会社のディレクター職の人たちが頑なに塞いで来た。
これは私が身をもって経験して来たことなので、断言出来る。中には不適切な方法で仕事を勝ち取ったクリエイターも居ただろうが、長続きしなかったと思われる‥。
そうこうしているうちに「創作」や「リスニング」の基準が移り変わり、多くの音楽リスナーたちが最近では自分の満足の行く音楽に出会えない状況が増えている。
 
毎週末に更新されるディディエ・メラ監修の「世界の音楽」(主に新譜を中心に) を集めたプレイリストを聴いている人たちから、時々メールを頂く。そこには「ゆっくりと、尺が長くてメロウな音楽に触れられるのは、ディディエさんが監修したPLの中だけな気がします。」と言う内容のメールも多数見られる。
 
思うに今、シティーポップとR&B周辺の音楽に渇望している音楽リスナーが、急増しているかもしれない。
そこには理想のメロディーとコードがパッキングされた音楽があふれて居るが、そうしたテイストの音楽が日本のメジャーレーベルからは殆どリリースされていない。
従って、良い音楽に渇いて我慢が出来なくなった、実際には音楽の再現スキルを持たない人たちが、‥だったらAIと過去の名曲をカップリングして新しいスタイルのR&Bを機械生成してやろうじゃないかと立ち上がり始めた、まさに「イマココ」の状況だ。
 

 
YouTubeチャンネル ‘AI MUSIC BOX‘ は未だチャンネル開設から間がないが、多くの過去の日本の名曲と言われるポップスが新しい形のR&Bにジャズをハイブリッド化させたAI生成音楽が配信されているが、これらが仮にボタン一個で完成させられるとしても、ある程度知識がなければこの状況を完成形として配信することは難しいだろう。
年代的には昭和の空気を存分に吸った世代が、音楽ギョーカイへのリベンジのエネルギーを煮えたぎらせながら、卓をいじり倒しているように思えてならない。
 

 
但し‥。
AIにこのまま音楽業界を侵食させておいては、とても危険な状況になるだろう。何よりAIのクリエイトスキルでは、人間の作曲スキルを越えられない。
ヒトの脳の緻密さを、侮ってはいけない。
 
良曲や才能のある人材を卵になる前の段階で見抜ける人が、ディレクター職の中に居ない現状は致命的だ。要は、その階層をゼロから育成しなければ、何れJ-Pop界隈はAI音楽生成機器に駆逐される。
音楽家としては、それだけは何としても阻止しなければならないと思っている。
 
さらに付け加えるならば、藤井風の音楽が良い‥ 等と感じる感性はあながち間違いではないと言うこと。
良質なリスナーが、AI音楽生成機器とせめぎ合っているかもしれない藤井風の周辺に群がっているとしたら、’AI MUSIC BOX‘ や ‘Funny J-POP‘ 或いは ‘TOKYO BEATZ‘ 辺りに群れているリスナーがAI音楽の毒牙にヤられる前に、元ある音楽の聴き方、感じ方を取り戻させる必要に迫られている。

このところのAI生成音楽の性能が良いだけに、それは急を要する事態だと私は見ている。
 

 

 
 
以下に、ディディエ・メラ監修の最新のプレイリストのリンクを貼っておく。
 

 

音楽の洪水

体調は今一つスッキリしないが、そんなことも言っていられない。
時代は刻一刻と移り変わり、3I/ATLASもグイグイ地球に迫り来る。嫌な噂も深々と大気中を蠢くし、それにともない私の周辺も何かと騒がしい。

こんな時ウィスキーの一杯でも引っ掛けて仕事したいところだが、もう昔のようには呑めなくなった。
私は祈りに集中し、それを音楽や音楽評論、時には詞等に託して世に放たなければならない。

 
ところで、「明け方の夢は正夢になる」と言う言い伝えがある。
今朝、数年前に私たちの転居と入れ替わるようにこの世を去った愛兎/マイケルが、夢に現れた。どうやらマイケルは神獣になったようだ。ずっと私たち夫婦を、天から見ていると言う。
何となくそんな気はしていた‥。

夢に現れたマイケルは、人の言葉を話し始めている。何を話したのかについては、あえてここには書かずに居たい。長い時間をかけて、とても大切な話をしたから。
 

 
今朝早くから開始した毎週末の『世界の音楽』の新譜チェック中に、ふと‥ 見つけた友成空のフルアルバム『文明開化 (East West)』を珍しく二週した。
中でも『ベッドルーム』『ベルガモット』、そして『メトロ・ブルー』がツボだった。和もののアルバムを何週も聴くことは珍しいので、別ブログディディエ・メラの音楽倉庫に別途記事を書いた。

藤井風のファンをやめられなくてさ迷っているJPopリスナーの皆様へ、刺さる記事ではないだろうか✨
 


『メトロ・ブルー』 by 友成空 🎤

 
このブログにはテレパシーだとかスピリチュアルだとか、世に言われる「怪しげ」なネタを取り上げた記事も多数あるが、私にとっては至って普通のことだし誰にも迷惑は掛けていない。
誰かを犠牲にしたり金銭を頂いたりもしていないので、とやかく言われる覚えもない(笑)。

ショパンを聴いたかと思えばスクリャービンオリヴィエ・メシアンを聴いたり、かと思えばYMOも聴くしイタリアの古いカンツォーネやナポリ民謡からトルコの音楽やHip Hopやダブステップ等も聴く。
 

 
ふと‥ 私のもう一人の恩師/藤井一興氏は最近どうされているのか‥ と調べてみるまで、私は知らなかった。藤井一興氏まであの世へ旅立ってしまったことを‥。
藤井氏と言えばオリヴィエ・メシアンを美しく演奏する人だと私は思っていたのだが、サブスクにもYouTubeにも藤井氏のメシアンはなかった。と言うより彼自身の作曲による作品を、殆どレコーディングで遺していなかったのがただただ残念でたまらない。
 
色々ショックなことが最近続いているが、今日は12時間以上音楽の洪水にほぼ溺れていた私はもう限界。
この記事の〆に、最初想定していた曲とは全く異なるが、藤井一興氏の『水の戯れ』(Maurice Ravel) のYouTubeのリンクを貼っておく。
 
この曲は私が、藤井師に最後のレッスンで見て頂いた曲だった。中学二年生だったと記憶しているが、当時の私の十八番だった。そして藤井師に大きな花丸を頂いた一曲でもあった。
その後間もなく私は、桐朋大学音楽大学の当時の学長/三善晃氏と出会うことになり、それ以外の何もかもが全く目に入らなくなった‥。
 
私と三善晃氏の話は、私と師にとっては至って普通のことなのに人はそうは受け取らないようだ。私が普通に話すことが、聞く人によっては誇張だとか嘘めいた話に聴こえるらしい。
 
実は私のピアノの師は、もう一人居る。それは遠藤郁子さんだ。
 


遠藤先生に師事したのは、かれこれ私が小学2年~3年生辺りだった。本当に短い期間だったが急に親の教育方針が変わり、小学3年生の夏に桐朋学園音楽大学附属『子供のための音楽教室』に受験することになり、受験のプロフェッショナルの元に移動せざるを得なくなったことその他色々な要因が重なり、気付いたら遠藤郁子先生のレッスンをやめさせられていた。
 
まぁこの辺りの話はもう過去のことなのでもう何も言わずに、この辺りで記事を〆ようと思う。
 

 

【”I Need U Back” [Official video] by 藤井風】を分析する (Analyzing “I Need U Back” [Official video] by Fujii Kaze)

2025年10月9日、夜、藤井風の『I Need U Back』の動画をYouTubeより公開した。
 

 
冒頭から藤井風が、マイケル・ジャクソンの『Thriller』級のメイクアップで映し出され、動画の最後まで藤井はメイクの仮面を一切剥ぎ取ることなく主役を演じ通して行く。
 

 
楽曲『I Need U Back』は曲調の観点では、80年代に流行ったロックに同時代のアメリカン・ポップスを足したような一曲で、特に目新しさは感じない。
おそらくこれは藤井風と言う一風宗教的なアーティストを欧米圏に無難に浸透させる為の、プロデューサーサイドの戦略とも言えそうだ。
 
ふと、この動画を視ながら私は、メキシコの祭り『死者の日(ディア・デ・ムエルトス)』を思い出した。実際に一度だけ私はこのお祭りに足を運んでおり、当時の空気感が藤井風の『I Need U Back』のオフィシャルビデオにかなり色濃く反映されているように感じた。
 

※メキシコには「死者の日(ディア・デ・ムエルトス)」という、故人を偲び、明るく楽しく祝うお祭りが毎年11月1日と2日に開催されます。お盆に似た行事で、マリーゴールドの花やロウソク、ガイコツの砂糖菓子、パンで祭壇や墓を飾り付け、家族の絆を祝います。街中ではパレードやガイコツメイクの人が溢れ、メキシコを代表する伝統的な文化の一つです。
(AI説明より)

 

 
勿論、藤井風の『I Need U Back』オフィシャル動画の中にはリオのカーニバルをも彷彿させる衣装を着た演者も居れば、ハードロックテイストの衣装を着た演者等も紛れているが、時期的な条件を考えるとやはりメキシコの『死者の日』を強く意識した作りになっているように思われる。 
 

 
これまでの藤井風のインド色を徹底的に封印し、動画にはロザリオ (十字架) をあえてシンボルとして印象付けるような演出も施され、最近SNS等で声高にささやかれている『藤井風 ⇨ サイババ二世 ⇨ ステルス布教』の風向きを頑なに否定するような向きも感じられる。
 
確かに曲調がアメリカンロックを強く意識しているのだから、この楽曲にインドカラーは不向きであろう。とは言え、のっけから藤井風がギャンギャンにメイクを施し、若かった頃のデヴィッド・ボウイみたいな顔で現れると流石に違和感が先に立つ。
 
 
デヴィッド・ボウイ

 
 
藤井風

 
さらにこれまでの藤井風の持ち曲と一線を画すものがあるとすれば、それは歌詞の内容だろう。『I Need U Back』では死の色よりも「生」とか「躍動」と言った、死生観で言うところの「生」の側が生々しく描かれている。
だが、やはり背景にはメキシコの『死者の日(ディア・デ・ムエルトス)』の影が立ち込めている辺りは、やはり藤井風の中にも捨て切れない宗教観のギリギリのラインだけは維持したいと言う、意地のようなものがあったと見るのが妥当かもしれない。
 

Spotifyで聴くとM-1: Casket Girl からM-2: I Need U Back が曲続きになっており、単体では聴かないでよ‥ と言う藤井風のアルバム試聴に対する裏の意図が見えるが、この演出が果たしてどのくらいリスナーに影響を与えているかについては判然としない。

さらにこれは偶然とも必然とも付かないタイミングだが、ふと‥ Michael Jackson のBlood On The Dance Floor X Dangerousの動画がこのタイミングでYouTubeのぶら下がりに浮かび上がって来たので視てみると、なになに‥
藤井風の『I Need U Back』の動画構成とかなりかぶっているではないか!!(笑)。
 

 
これこそ神にお導きとでも言うべきか否かは私には分からないが、藤井風が仰ぐ神とは一体何者なのか‥、各動画を視ながら私なりにさらに分析を進めて行きたいと言う好奇心に駆られたことは言うまでもない。
 
残念なことに、藤井風はダンスもヴォーカルもカリスマ性に及ぶ全てに於いて、マイケル・ジャクソンの足元にも及ばない。どんなに動画構成を真似たところで、両方を見比べたリスナーは結果的にご本尊を選び取るだろうし、マイケル・ジャクソンの神々しさを追い掛けることぐらいしか藤井風にはなすすべがないだろう。
 
最後に付け加えるとするならば私は、藤井風のファンでもアンチでもない、ただの芸術家であり音楽評論家である。なので音楽 (ないしは表現) と言う切り口で物事を分析し、粛々とそれらを評論しているに過ぎない。
その上で、藤井風の新しい動画『I Need U Back』の出来栄えを点数にするならば、百点満点の63点と言ったところだろうか‥。
この記事ではあえて藤井風 VS マイケル・ジャクソンと言う切り口で綴ってみたが、意外に分かりやすい表現分析ではなかったかと思っている💃
 
 

 
 

■ 追記 ■

SNS界隈でも噂になっていた番組、「完全版」藤井風 NHK MUSIC SPECIAL【藤井風 いま、世界へ】 Fujii Kaze 2025.10.9を、遅ればせながら (2025年10月10日の早朝に) YouTubeで試聴した。
 

 
この動画の中にも、やはり藤井風に潜む多くの人格がスポットに現れては消え、又現れては消える‥ を繰り返していたように見える。
 
一つ分かりやすい彼の動向の癖を挙げるとするならば、「実際には何も無いところに物があるように見せ掛ける小技 (こわざ) 」が非常に巧みであると言うことだろう。
そもそも彼には音楽の基礎教育すらないわけだし、英語がネイティブ言語と言うわけでもない。だが、そこに才能とスキルとアイディアが元々あったように、動画の中でも後付けの見せ掛けを企んだ箇所が随所に見受けられた。
 

 
特に250 (イオゴン) との作業風景にそれが特徴的に現れており、藤井の行動の大半が過去の情報やデータの再編集で成り立っている点が悪い意味で印象的だと感じた。
 
無いものをあるように見せ掛けて商品として完成させて行くプロセスは昭和の時代からそのまま引き継がれて来た商業音楽の定番スタイルであり、ディレクターの存在がほぼ皆無でも音楽制作が成立するようになった現在の音楽シーンではむしろ、致命的な欠落を見落としたまま商品を完成させてしまう悪状況を引き寄せる。
250 (イオゴン) との作業に於いてはそれが顕著に露呈しており、そのプロセスが藤井風の新譜『Prema』全域に及ぶ過去の『焼き直し感』に直結したように、私には視える。
当然のこと、NewJeansを担当した時の250 (イオゴン) の切れが冴え渡る筈もなくそれが、藤井風の『Prema』に於いてはアルバム全体のさびれた印象を増長させた。
 
そもそも250 (イオゴン) の特性として、新しいものを懐かしく魅せて行く演出や編曲、ミックス等を得意とする人ではないかと思うが、元々古くて懐かしいサウンドをノスタルジックに焼き直す作業を250 (イオゴン) はむしろイオゴン自身、苦手とするスキルではないだろうか。
その苦手な方のデメリットが藤井風のニューアルバム『Prema』に露呈した結果、音楽単体では日持ちのしない作風に繋がったように思えてならない‥。
 

【■ 追記 ■】から後は、一度完成させたブログ記事とは別に付け足した箇所である。
記事を割っても良かったが、私のブログが藤井風ネタばかりになる状況にはしたくなかったので、繋げて加筆しました。

 
 

関連記事:


歌いたい人と歌うだけの人 (People who want to sing and people who just only sing)

先日の神人共食の疲れがなかなか癒えず、週末の日曜日は全ての作業を放り出してほぼ18時間近く床に伏していた。その間、色々な情報が静止画像と化した私の上を通過して行った。

日付が変わり、2025年10月6日 (月)。
先ず吉報として、サブスクリプション “Spotify” にロスレス音源が実装されたことを知り、書斎のパソコンの設定を思い切り変更し、ディディエ・メラ (Didier Merah) のアルバムを粛々と聴き進めて行く。
昨日までは聴こえて居なかった新たな世界が、目の前に開けて行く。
嬉しい瞬間が到来。ほぼ10年遅れで時代が追い付いて来た。
 

その流れでYouTubeを開けて、取り遅れていた情報を片っ端から拾って行く。
ふと目に入ったのが、(ショパン・コンクールの近影と中森明菜をすっ飛ばして‥) LE SSERAFIMのインタビュー ~ 歌唱動画だった。
 

 
嗚呼又この人「Kポ」ばっかり視てるのね‥ と思った人も多いと思うが、私はただそれだけの観点でこういった動画を視ているわけではない。

たった5人‥ と言えばそろそろ (預言通りに) 消え始めたNewJeansのことも頭の片隅に無いわけではないけど、今回はLE SSERAFIMの5人に焦点を当ててみる。

向かって視聴者から左端がユンジン、隣にチェウォン、中央がカズハ、並んで宮脇咲良ウンチェ‥。実際に歌唱している動画を視れば一目瞭然だが、特に中央カズハから右側3人には表現したいものを体の中に持っていない。
与えられたパートをおシゴトとして歌うだけで、体から、感性から湧き上がるものが何も無い様子が伝わって来る。
だが、特に左二人には歌いたい熱い何かが体の中に燃え滾っており、与えられたパートの中にはそれを収め込むことが難しそうに見える。
一見ただのKポップ。だが「ただのKポップ」でも表現は十人十色で、私には視覚的に左側二人が炎の色に映り込む。特に左端のユンジンは、グループの中にそもそも収まり切れていない程の熱量で攻めて来るので、振付等がないこのようなシーンだと声が前のめりにリスナーに届いて来るから不思議だ。
 

 
一方最近何かとお騒がせ状態の藤井風関連を追って行くと、ふと、こんな記事に目が留まる。

藤井 風『Prema』評 哲学者・柳澤田実:音楽の根底にある“終わり”=“死”の感覚
https://realsound.jp/2025/10/post-2175246.html
 

筆者は柳澤田実 (やなぎさわ たみ) さん、日本の哲学者とプロフィールに記載された人である。 
 

 
SNS “X” でも一部藤井風フリークとアンチが対立しており、私は中庸のスタンスを貫いているがそのスタンスに対して物申して来る輩が断続的に現れる。

私は昭和のど真ん中の世代なので、シティ・ポップも昭和の往年のアイドルの面々も含め、業界のど真ん中で業界を一望し、関わって来た一人である。
勿論私自身が音大出身者であり尚且つ一時的に作詞家でもあったので、昭和世代の人たちの中にはかつての私を知る人も大勢居るだろう。
 
そんな世代の私から見て、藤井風がZ世代や悟り世代が大騒ぎする程の大物にはとうてい見えない。だが彼ら (Z世代~悟り世代) は良くも悪くも大騒ぎしており、メディアの悪しき戦略にまんまとハマっているのだから、学が足りないと言うか教養が足りてないと言うか‥。
ただただ言葉を失い落胆するだけで、特に何とも思わないと言うのが本音であるが。
 
それよりもむしろお隣韓国から250 (イオゴン)FRNK (Jinsu Park) 等が出現し、NewJeansの背後から業界を突き動かして来た時の方が脅威だった。
 

 
話を記事『藤井 風『Prema』評 哲学者・柳澤田実:音楽の根底にある“終わり”=“死”の感覚』に戻して、記事自体はとても詳細に藤井風を熱弁しており、調査も細かく書かれていると感じた。
だが、藤井風の死生観の観察については筆者の感動や興奮が先に立つばかりで、冷静さを欠いているように見受けられた。

特に章『“死”を起点として眺める現在』に至っては、藤井風の急激な世界進出がコロナ禍を起因とするものであることや、藤井の音楽に大きくまたがる『死』の概念がリスナーに大きく響いたのではないか‥ と言うような記述も見られるが、それは私個人の見解とは全く異なる内容であり、驚きも物珍しさもなかった。
 

そもそも音楽と死生観を発見として捉える感性が、私には全くないのだろう。
生まれてからずっと私の中には、宇宙の真ん中の無音空間を漂流した記憶が当たり前のように根付いており、死は常に隣り合わせに存在していた。
毒親の暴力に耐え抜くことよりも、もしかしたらその毒に当たって命を落とせたらどんなに楽だろうか‥ と、実際にそれを模索した時期もあった。確か一度目は高校生の時で、二度目はホームレスになりかけた時期と重なるが‥。
 

Xでは藤井風のサイババ布教 (ステルス布教とも言われているが) の危険性を切々と訴えかける声も多く散見されるが、正直そこに共鳴する人は何を見ても逆の情報には共鳴しないだろう。
生きたいと願う人は生きることに真剣な人の文字を追うだろうし、逆に死にたいと願う人たちはその結果に直結しそうな文字に心酔するのだと思う。
 

 
藤井風がカルトか‥? と言われると、正直微妙だ。何故って、彼はファンに出家を強制しているわけでもないし、藤井風が書いたとされるサイババ教義の切り抜きを音読しろとも言ってなければ、歌詞の暗唱を強要しているわけでもない。
その微妙なスタンスを「カルト」と言う位置づけで確定するのであれば、世に蔓延る多くのカソリック圏の音楽や某創価学会信者の音楽も同様だ。
 
だが如何せん音楽は、歌詞よりも音楽の方が先に耳に届く。
これは多くの音楽ライターが意図的に外して書いているようだが、現実問題音楽 (メロディーライン) は言語よりも鼓膜への到達が速いから、むしろサイババ教義なんかよりも中東の音楽のような、コーランの音節をそのまま音符化した楽曲の方が余程人への浸透が高速だと言えるだろう。
 
私はそちらの方がサイババ某よりも危険だと認識しており、それゆえ自身が監修する音楽のプレイリストには最近中東関連の音楽をスクラップしていない。
これは私のPLを聴いて下さるリスナーへの配慮を含め、私の宗教的 (自身は無宗教である) スタンスの意思表明も兼ねている。
 

他の記事にも綴ったかもしれないが藤井風の音楽はジャンクフードと同様であり、音楽の基礎が彼には備わっていない。
確かに藤井は近所のピアノ教師にピアノの弾き方くらいは教わったかもしれないが、後は亜流であり、近年藤井自身が接して来た音楽のメロディーやコードの切れ端を分解して再編集したような音楽が主であり、それ以上でもそれ以下でもないただの「音声」に過ぎない。
 
確かに料理でもマクドナルドを好む人も居るだろうし、二郎ラーメンのような背脂ゴッテゴテの危険な食べ物をこよなく愛する人も居るだろう。
私だって時にはマクドナルドの月見バーガーを食べるし、油多めの味噌ラーメンを食べる日もあるが、あくまでそれは多忙時に空腹を満たす為の目的に限定される。それらの料理をけっして好きにはならないし、ファンになることもない(笑)。
 

藤井風の音楽を「素晴らしい」と思う人たちは、概ねそれ以外の世界中の良曲を知らないのだろう。勿論言葉の問題もあるかもしれないが、良いものを知ったらそれ以前に人は絶対に後戻りすることが出来なくなる。
だったら藤井某のジャンク・ミュージックを飛び越えて、もっと良い音楽に接すれば良いだけの話だと私は思っている。
そういった良曲に触れる機会の少ない音楽リスナーの為に私は、毎週せっせと世界の音楽から良曲だけをピックアップして、自身監修のPL (プレイリスト) にスクラップしているので、是非そちらを聴いて頂くことをお勧めしたい。
 

 

 
LE SSERAFIMからNewJerans、そして藤井風‥ とネタがかなり広範囲に広がって行ったが、要はこの記事を簡単にまとめるとこうなる。
 
上記お三方の中に、表現者は一人も存在しないと言うことだ。
LE SSERAFIMの中に若干表現したい側の人と「ただ歌っているだけの人」とに分けてはみたが、大きく括れば全てが『自身のアイコンを売って糧にしているだけの人』にカテゴライズされる。
 
本物の音楽とは、自分以外の物事や人々の為に一心不乱に思いを致しながら生み出されたものだと私は思っている。

当然のこと、それらは自身の利を度外視して生み出されたものでなければならない。

 
それはとても難しい高みの領域に在るように一見見えるが、意外にとても身近に、世の中の切れ間や世の中心域からは少し離れたところにぽつんと点在している。人を嫌い、ひとけのない場所を好んで棲息している。
出来ればそういった良い音楽に自力で到達して欲しいと、私は願って止まない。
 
仮に世界にどれほどの数の宗教があり、それがどれだけ身近に襲って来ようが、良いもの、正しい価値観を自身の軸に置いておけば振り回されること等ないだろう。

社会現象の観点から考察する藤井風 そしてNewJeans

2025年9月11日、午後1時からソウル中央地裁で開催された公聴会にて、NewJeans 対 ADOR専属契約を巡る訴訟はメンバー不在の中20分で終了し、双方合意に至らず決裂した。
(同日、ミン・ヒジン関連の別の口頭期日も開催されていた。)
 

 
 
彼女たちも万策尽きた状況だが、その後に判決が下ると言う実感が未だ湧いてはいないようだ。現状NewJeansの5人は、兎に角ゴネ得で外界から目を逸らせばそれでやり過ごせるとでも思い込んでいるようだが、法律はそこまでアマくない。
 

音楽も音楽業界も、共に荒れている。

 
特に私が2025年9月11日未明に更新した記事藤井風と多重人格の可能性についての記事訪問者数がとんでもないことになっている他、それまでアンチ藤井風側に一見立ち位置を取っていたように見えていた私に豪雨のような、言葉にならない不満を含めた現実的な『圧』が押し寄せた。
一度藤井風を『サイババ二世がサイババの教義をコピペした詞で音楽をリリースし、信者を増やしているのだから、どれだけ叩いてもいいではないか!』と声を荒げて叩き屋と化した藤井アンチたちにとっては、上記の記事はその後のバッシング活動をやり辛くする内容を存分に孕んでいたのだろう。
 
問題は藤井風自身の闇の深さ、その闇の周囲に立ちはだかる藤井風の父親 (つまり毒親であると推測される‥) の存在。
父親が喜ぶことをしなければ藤井風が家庭の中、世の中に居場所を失うかもしれない‥ と言う藤井風自身の危機感及び強迫観念。‥彼の強迫観念の行く先がつまりはサイババへの帰依であったことや、重度のPTSD発症とそれにともなう多重人格障害の可能性について。
藤井風は今、本当の意味での拠り所を失った状態だ。
 
ざっと目に見えている状況を列挙するだけで、これだけの (藤井風の) 闇が露出している。
 

 
昨日外出中にふと気になることがあり、外出先でスマホから音楽年表を検索してみた。

「藤井風の音楽が良い」と言うファンが、今年になって急増したように私には見える。
藤井風が『死ぬのがいいわ』を紅白で歌ったのが2022年の年末だったが丁度その年は、KPopのガールズグループ、NewJeansのデビューの年と重なっている。

NewJeansのデビュー曲『Attention』は2022年8月1日にリリースされ、瞬く間に旋風を巻き起こした。
 

 
剛腕プロデューサー/ミン・ヒジンのセンスは当初から高く評価されていた。
NewJeansはその後『Ditto』『omg』等、それまでのKpopにはないヒール色の薄い、爽やかでポップかつメロディアスな楽曲を立て続けにリリースして行った。
勿論タレント性は元々備わった彼女たちだが、それより何よりもNewJeansの楽曲は世界中のポップスの中でも際立って光っていた。
 
世界の音楽の空洞化をNewJeansの5人が見事に埋めていた期間、多くのポップス愛好者たちはNewJeansの音楽性とその音楽性を深くユニークに掘り下げて演出 (& プロデュース) に集中したミン・ヒジンの魅力に取り憑かれて行った。
その流れに乗るようにして、特に2022年~2024年の2年間は世界中がKPop一色に染まった時期だったように思う。
 

一方藤井風は2021年4月22日にきらりをリリースしており、某バイクメーカーのCMに起用されたことで一躍脚光を浴びる存在となった。
但し検索して行くとOfficial MVの公開は2022年と表記されており、正確には2021年と2022年のどちらかがやや曖昧になっている。
 
丁度その頃目に付いたのが、Vaundyの台頭と多数のアニソンが売り上げランキングの上位を占めている状況だ。
試しに2022年のヒットソングランキングを捲ってみたが、これと言って目立つ楽曲は見当たらない。翌年2023年にはYoasobiのアイドルが爆発的なヒットを遂げるが、此方はアニソン縛りと言うこともありコアな音楽ファン層の評価は低い。
 

2022年にデビューしたKPop/ガールズグループと言えばもう一組、LE SSERAFIMが記憶に新しい。(その頃から世界がKPopで溢れかえるような現象が加速して行くが) 既に韓国はHYBEでは『ミン・ヒジン率いるNewJeans 対 パン・シヒョク率いるLE SSERAFIM』の、後に言う「ヒジンの乱」の火ぶたが切られ、それが記事冒頭のニュースへと繋がっている。
丁度2022年~2025年の期間、藤井風はそれなりに音楽活動を続けて来てはいたが、2025年9月の騒動のような熱量は見られなかった。だがその間にも藤井風のPTSDと思われる症状は進行しており、それが先に私が記事に書いたような深刻な多重人格障害を発症させ、そちらも急激に病状が悪化したように見受けられる。
 
藤井風の背後には名前の上では「厳しい教育」を藤井に施す父親の強大な存在があり、いわゆる洗脳教育と藤井風のメンタル面に侵食して行ったであろう暴力のような行為が行われていた可能性を否定出来ない。
 

 
この間私はと言えば世界中の音楽を聴き漁り、それをSpotifyのプレイリストに粛々とスクラップし、それをSNS等に告知しながら音楽リスナーの底上げを試みていたが、色々な事情で露出をセーヴしている私の知名度の低さが災いし、私の活動が一部のファンに訴求した以外には大きな旋風を巻き起こすには至らなかった。
 
仕込みは万全だったが結果にコミット出来なかったこの期間、特に2024年明けの1月にはミン・ヒジン対 HYBEのトラブルが表面化し、同年11月末日のNewJeansの契約解除記者会見へと此方も又自体を一気に悪化させて行った。
 

 
一方現在の音楽シーンで目立つには、1980年代~1990年代に日本で爆発的にヒットした『シティ・ポップ』のカバーソングの台頭で、これは2025年現在も記録を更新している状況だ。
NewJeansのヘリンも2024年の6月26日/27日に東京ドームで開催された「NewJeans Fan Meeting \’Bunnies Camp 2024 Tokyo Dome\’」で、竹内まりやの『Plastic Love』を熱唱している。
 

 
近年良質な楽曲が激減している様子は私も、毎週末の「世界の音楽」の新譜をくまなくチェックしているので痛感している。
 
藤井風ファンが言う「藤井風の音楽が良い」と言う発言は方々に散見されるが、これはおそらく他に競争相手が居ない、現状は藤井ひとり圧勝の状況が招いた結果かもしれない。
確かに一見藤井風のメロディーは爽やかかつ独特のクセがあり、それがリスナーの中毒症状を引き起こす引き金にもなっている。だが多くの音楽リスナーは雑誌やメディアで持て囃されたミュージシャンの音楽しか聴いていないし、世界の音楽を探索して聴き倒すには彼らは余りにも仕事や社会に忙殺されているので、音楽を探す時間を確保出来ない状況にあるようだ。
 
世界の良質な音楽を常に耳にしていれば、藤井風如きのジャンキーな音楽を好きになる筈がないと私ならば思うのだが、手っ取り早く美味しい音楽が聴きたい層の音楽リスナーたちは「とりあえず」の感覚でメディアが紹介するところの、藤井風や椎名林檎や宇多田ヒカル辺りを聴いて周辺のリスナーとの同調を図ろうとする。
一人だけ無名のアーティストなんか応援していたらそれこそSNSや職場等で恥をかきかねないし、「とりあえず」誰もが知っているであろうアーティストの数名の新譜をごそごそと漁っているうちに、調味料で言うところの味の素をガンガン使って出来上がったカップラーメンのような藤井風のメロディーにハマり込んで行ったと見るのが妥当だ。
 

日本の教育状況や社会状況にも、大きな問題が山積している。
受験に必要な科目以外は授業内容が軽視されており、特に美術や音楽の授業は「どうでも良い科目」だと認識させるような風潮がある。
一部の合唱好きが毎週末集まるような部活がある以外、義務教育機関の中で本格的に音楽に接する機会はほぼ皆無だ。
 
そんな学生時代の日々の蓄積を経た若年層にとって、藤井風のメロディーは過剰なまでに甘美で心地好いだろう。
 

 
記事『藤井風と多重人格の可能性についてでも綴ったように、藤井風の言動や表情は誰が見ても変だ。
勿論彼がサイババ二世として活動を更新して行くことには賛同出来ないが、だからと言って心を病んでいる可能性が濃厚な藤井風を闇雲にバッシングし続けて良い理由にはならない。
むしろ今の彼を、これ以上追い詰めてはいけない。
 
問題を解決したいのか、それともアンチ活動を介して活動家たちが大勢の匿名集団を先導することで承認欲求を満たしたいのか‥。その境界線を各自が厳しく見極め、そういった一連の藤井風バッシングの波に便乗しない方が、社会的な意味での二次災害を防ぐ近道だと私は思っている。
 
寄ってたかって特定の人物を叩きのめしている輩の大半は、匿名で活動している。自分には火の粉が及ばないよう、完全防備の状態でSNSに網を張っている。
だがそこまで藤井風バッシング活動を継続したいのであれば、バッシングする側にも覚悟と責任を負う必要があるのではないか‥。
 
味の素を常習的に使用している料理人に味の素を否定するような言葉を吐いたら、当然のことその料理人は怒りキレて反撃に出るだけだ。‥ならばそこまで信仰が進んだ人々に関しては、「一人一人摘まみ上げて真実を伝える」と言うような偽善的にも見える言動は無駄に思える。
 
 
サイババ二世の藤井風が危険人物だと感じるならば、大勢で徒党を組んだりせずに各々の言葉で客観的にその旨を発信すれば良いと思う。
心ある人はその言葉に反応を示すだろうし、そうではない人たちは唾を吐くか離れるかの何れかの反応を示すだろう。それ以上を求めるべきではない。
藤井風を応援する側も応援しない人々も、反発したい人たちも、「足ることを知る」精神を胸に留め置く必要性を感じてならない。
 

 
思うに一連のトラブルは、良質な音楽家と音楽を輩出することで解決可能だ。
是非各々の意思で、良い音楽を探して吸収して欲しい。
 
世界はあなた方が思っているよりは広い。そこには未だ出会ったことのない良い音楽が静かな寝息を立てて、リスナーを待っている。
 

 

関連記事:

藤井風と多重人格の可能性について

同じ人物を立て続けに取り上げて記事を書くことは正直本意ではないが、今回は前記事【藤井風 – ニューアルバム『Prema』 表現解説】とは全く異なる視点で藤井風について検証と分析を重ねてみたいと言う心情に至った。

 
数日遅れで私もようやくTverで、徹子の部屋 – 〈藤井風〉父の教えを胸に…「努力」積み重ねた日々を試聴することが出来た。

冒頭の衣装はまさに『Hachikō』のPVでも藤井が纏っていた衣装であるが、この衣装はおそらくヒンドゥー教の最高神の一柱『シヴァ』をイメージしたものではないかと感じた。

 
シヴァ (マハーカーラ) のイメージ画像と見比べると、それは一目瞭然で分かる。
 

 
藤井の衣装の襟や袖の突起の部分が、上記の画像と重なって視えて来る。
又サングラスの黒い部分が3カ所に分かれており、真ん中の黒いレンズ部分は『第三の目』をレンズで覆ったようなイメージではないだろうか。
シヴァ (マハーカーラ) の銅像にも、第三の目はくっきりと彫られている。
 


さて、ここからがこの記事の本題である‥。
 
徹子の部屋 – 〈藤井風〉父の教えを胸に…「努力」積み重ねた日々を注意深く視ていると、藤井風の表情や目つきが話題によってコロコロ変わって行く様子がよく分かるだろう。

合計23分29秒に及ぶ映像の中には、(私の印象ではあるが) 男性が一人も出て来ない。
確かに見た目は男ではあるが、目や表情、声質、声色から仕草に至る全てが様々な女性の人格で演じられているように見える。

特に象徴的だったのが、故郷岡山や藤井風の父親の話題に触れた時だ。ここで人格が入れ替わる瞬間を、瞬時に察知することが出来る。
はっきり書いてしまうと、藤井風は多重人格者であり、彼の中には複数の人格 (主に女性) を見ることが出来る。その中の一人は明らかに女児であり、上の写真のように上目遣いになったり唇をすぼめる瞬間に女児の人格がはっきりと顔を出して来る。(写真 下 ⇩)
 

 
又、途中自身の若い頃のショパンの『革命』を演奏する映像が流れた辺り (9:44辺り) では、一瞬苦悩の表情が顔を出し、その後ベジタリアンの話題やワールドツアーの話題に触れた時と同じ、彼の中のアメリカ人女性と思われる別人格が顔を出す。
この瞬間が、人格交代の瞬間ではないかと思われる。(写真 下 ⇩)
 

 
思うに藤井風は宗教観 (サイババ教) を用いた音楽を配信すると言う意味では加害者であるが、同時に彼の父親の厳しい教育過程の中で行われた虐待 (精神的/肉体的の両面) の被害者であり、かなり重度なPTSDを発症している可能性を否定出来ない。
 
藤井風の基本人格はPTSDを発症した人格であり、おそらくその人格を守り合う別人格が複数存在すると言う仮説を立てると、一連の表情や口調、声色の変化や言動等の違和感の辻褄が合って来る。
ニューアルバム『Prema』からタイトル曲Premaの中で藤井は「私は神そのものだ」と叫びを上げているが、実は藤井風を宗教者に仕立て上げようとしているのは藤井自身ではなく、彼の父親の希望 (或いは命令に近いもの) だと考えると、一連の藤井の言動のブレに一貫性が出て来るように感じる。
 

 
Xやその他のSNS等では藤井風のサイババ二世だと言う件やステルス布教等が大きく取り沙汰されているがそれだけでは済ませることの出来ない、取返しのつかない程の大きなメンタルの傷を、実は藤井風自身が抱え込んでいるように思えてならない。
これは私自身が通って来た道とも大きく似ており、私の場合は不幸中の幸いでそもそも過去世の経験が豊富であり、尚且つ過去世の記憶や経験の蓄積が今世の私を人生の脱線から救ってくれた。
だが藤井風の場合はPTSDを抱え込んだまま日常的な人格交代を早い時期から繰り返し、それが常習的かつ長期的に行われていたのだとしたら、もはや藤井風は藤井風であって藤井風ではないと言うような状況に彼が追い込まれている可能性は濃厚だ。
 
かと言って藤井風が『ウィンディー・サイババ』として開祖したら心の傷や多重人格障害から立ち直れるのかと言われたら、もうその段階はとうに過ぎてしまったのかもしれない。
最も苦しいのは基本人格の藤井風だと思うが、第三者にはどうにも出来ないのでただただもどかしい。
 

これまでは藤井風はサイババ教を悪用したミュージシャン‥ と言う視点で見て来たが、徹子の部屋 – 〈藤井風〉父の教えを胸に…「努力」積み重ねた日々を試聴してからはそんな簡単な問題では済まされない事態が水面下で起きていたのではないかと、個人的に、藤井風が毒親の被害者ではないかと言う別の視点を心に置くに至った。
 

この記事ではここまでしか書くことが出来ないので、何かしら状況に変化や異変、進展等が見られた時に続きを書きたいと思う。
少なくとも藤井風のメンタル面や言動がこれ以上悪化しないことを、切に祈り続けたい。
 

【追記】 
そもそも藤井風 が信仰しているサイババ (サティヤ・サイ・ババ) の元は『シルディ・サイ・ババ』であり、此方は行者である。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%90

そのうち藤井が『ウィンディ・サイババ』等と名前を変えて新興宗教を立ち上げる日が来るのではないかと、ふと映像が過った。
予感が外れてくれると良いのだけど‥。

藤井風 – ニューアルバム『Prema』 表現解説

 
光を操るリラ星最後の巫女の私が、あえてこの人物に逆光をあてることには大きな意味がある。

2025年9月5日、藤井風のニューアルバム『Prema』がリリースされた。
私はこの作品をSpotifyで試聴する前々から、編曲 & サウンドメイクに深く関わったとされる韓国の電子系ミュージシャン250 (イオゴン)に着目していた。イオゴンが日本の問題児/藤井風の音楽をどのように料理するのか、その結果を先ず見てみたいと思っていた。
 
勿論問題児/藤井風の問題とは彼の宗教観をここでは意味し、藤井はサイババ二世として有名であるばかりでなく、藤井風の綴る歌詞の中にサイババ教義をふんだんに引用し、それを藤井風のオリジナルであるように偽装して何も知らない若年層に訴求している点を、藤井自身も最近ではさほど隠していないようにも見える。
それはけっして看過出来ない行為であることについては何ら変わりないし、長年音楽に携わり分析/解析を続けて来た私からすればここで藤井風の音楽を仮に何十回聴いたとして、それで揺らぐほど私の音楽スキルは軟じゃない。
 

 
アルバム『Prema』をざっと全曲試聴した印象は、兎に角鈍いし弱いし響かない‥ と言う一言に尽きる。

楽曲全曲がアメリカ進出を念頭に作られていると見て間違いないだろう。
だが、楽曲全体が強いアタックを必要とする構成になっているにも関わらず、藤井風の声質が余りに弱くて鈍くて、日本人向けの英語の教科書みたいになってしまっている点は松田聖子の『SEIKO JAZZ2』の冴えない出来栄え同様か、それ以上に冴えない出来栄えだと言わざるを得ない。
 

 
日本人の英語コンプレックスは藤井風には余り当てはまらないだろうと思っていたが、とんでもない話だったようだ。
兎に角声のアタリも鈍く聴こえるし、英語もだらしない。
使い古しのランニングシャツ同様に、藤井風自身も「ハーレムに舞い降りた聖者」を意識しているだろうから、成功しなかった側のBohoファッションとでも言うような倦怠感が彼の英語にも強く滲み出ており、音楽全体を一層疲労させ、貧困に見せて行く。
 

 
このアルバムの売り曲はどれだろうか?
『250 (イオゴン)』のサウンドメイクを聴く限り (私の推測が合っていれば) 、やはり『M-3: Hachikō』以外にイオゴンの熱量を殆ど感じ取ることが出来なかった。

藤井風のアルバム『Prema』のラスト曲、 『M-9: Forever Youngを聴いた時はふと、1994年にリリースされた八神純子のアルバム『Communication』の冒頭曲、Imaginationが脳裏を横切ったので比べて聴いてみたら、やはり私の脳内マッチングは正確だった。
 

 
『250 (イオゴン)』と言えばどうしてもNewJeansのヒット曲のサウンドメイクが思い出され、私の中のマイ・ベスト・250は『Ditto』を抜いて『Supernatural』が首位に立つ。
 

 

 
上記2つのサウンドメイク (楽曲) を藤井風のアルバム『Prema』と比較するのが怖い程、全く別人がサウンドトラックを担当したのではないかと言う程イオゴンの出来栄えが良くない。
手を抜いたのかそれともそもそもの楽曲の身の丈に合わせた結果、藤井風のサウンドメイクが出来栄えの劣化を免れられなくなったのか、その辺りはあくまで想像の域を出ないが、兎に角藤井風のアルバム『Prema』が昭和のアルバムではないかと耳を疑う程の古い作りに聴こえて来る。
もしもそれが意図的な企画だとしたら、わざわざ藤井風のアルバム『Prema』のサウンドメイクを『250 (イオゴン)』に依頼する必要が何故生じたのか、その辺りは当事者ではないのでよく分からないが‥。
 

 
藤井風自身からもそれまでの仕事から「‥どこか燃え尽きたような感覚」を訴えるコメントが出ていたようだが、ニューアルバムのだらしのないランニングシャツのジャケ写を始めとするアルバム全域に沁み出たドロップアウトな色彩や怠惰な印象、ダボダボの下着をさらに緩々に引き伸ばして着古したような表現はもしかすると、そちらの方が今の藤井風にしっくりハマっているのかもしれない。
 
特にインドを強く意識した象との共演等の、いかにも単純な仕掛けを一体誰が思い付いて映像化に踏み切ったのか‥、考えれば考える程よく分からない。
 

 
楽曲『Prema』の歌詞の中で、藤井は段々と豹変し、本性を現して行く。
『私は愛そのものだ』と口にした直後に、『私は神そのものだ』と言う彼の本音が遂に歌詞に託される。
 

 
楽曲Premaの中で彼が伝えたかったことは、恐らくこの一文だったのだろう。
だが残念ながら、藤井風は神ではない。もしもそう思い込まされているリスナーが一人でも居たらそれが全くの間違いであると、是非とも認識を改めるべきだ。
 

人は強烈なメッセージに惹かれ、そのメッセージ主に帰依したくなる瞬間がある。だがその帰依の先に一体何があるのか、無いのか‥、或いは何かがあるかのように騙されてはいまいかと、藤井風のような人物に遭遇した時は先ず一歩二歩離れて彼の言動を俯瞰する感性を持つべきだ。
けっして自分自身を捨てて、彼に身を捧げるようなことがあってはならない。
 

 
少なくとも音楽家として、藤井風はそのステータスを得られていないことは間違いない。だからこそ「サイババ」をここまで深く信仰し続けており、即ち藤井風の信仰心は、自身の才能不足の空洞を埋めるのにはうってつけの素材 (凶器) だったのかもしれない。
 
勿論音楽的にも稚拙であり、藤井風が宗教を隠し持って仮に藤井が全米進出を狙ったとしても、その夢を果たすことは出来ないだろう。
全てに於いて、(アルバム『Prema』も藤井風の声も) 響かない。
地球の裏側には届かない。
 

 

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政治と宗教と憎悪

今年の参院選が熱い。これまでの若年層の選挙不参加から打って変わって、関心度が急上昇しているらしい📈

私は今のところ、特定の推しの政党を持っていない。だが今回は何より「減税」「消費税廃止」と言う課題、それを実現してくれそうな政党に一票を投じたいと考えている。

個人的には優れていても政治力がなければ政治は成り立たないので、例えば演説回数が多いだけの人やスパイシーな発言だけで民衆の注目を集めている類いの演説屋には、票を入れても無駄だと思う。

その意味で、今回は、今回に限っては参政党に票を投じる事に決めている。 

だが、色んなSNSを巡って行くと、「参政党 = 藤井風」みたいな曲解に及んでいるユーザーを多く見掛ける。
客観的に見たら何の類似性もないのだが、彼らは何としてでも両者をくっつけて批判し、憎悪の炎を燃やしたがる。

確かに藤井風の音楽活動形態には宗教的な観点に於いて大いに問題を感じるが、参政党が掲げる移民問題や少子化対策等には何の宗教性もない。だが、アンチ参政党とアンチ藤井風はどこか混合したウィルスにでも感染したかのように両者をリンクさせ、憎しみで声を荒げる。

政治の根幹を研究しようとも思っていないだろうし、そこまでの客観性も成熟していない。 

 

そう言えば、私の実母も父親もそうだった。憎むこと、憎悪を肥大させることでしか他者とのコミュニケーションを取ることが出来ないので、物事への憎悪とは異なる視点で世界を俯瞰する私のようなタイプの人間は、かえって彼らの憎悪の標的と化すから厄介だ。

その証拠に私は家族の和から完全に排除され、彼ら家族たちは死ぬまでその (偽りを述べてでも、私を家族や親戚から排除し続ける) スタンスを貫いた。

 

今回の参院選の大きな課題は先ず、自民党と財務省の解体と破滅である。その為に何をすべきか、何がベターか‥、それを考えながら国民一人一人が客観的に思考し、着実な一票を投じることだと私は認識している。

その為には自民党を確実に割ることの出来そうな、反自民的な第二政党に票を入れなければいけないだろう。 

全てに共感出来ずとも、先ずは自民党を叩き割ること。そこにエネルギーを集約すべきだ。

 

 

日本人ファースト‥
高齢の女性は出産出来ない‥

数々の発言を炎上させてはいるものの、参政党の代表: 神谷宗幣 は間違いも違反も犯してはいない。だが彼のあの、時折ニヤけた発言や自身を「懐の大きな人物」に見せ掛けようとする時の嫌みな言動は、私も好きではない。

だが、政治は推し活ではない。ここを履き違えている国民が、余りにも多すぎる。

何より「憎悪」や「嫌悪」を心に思うことでしか他者と関われないような、思考も霊体も薄い人々で溢れかえっている地球上に、これ以上人口を増やして良いとは到底思えない。

諸々の理由でこれから10年~30年以内に、地球の人口は最低でも今の1/10に迄減らさなければならないだろう。

私はそれを願っている。なぜなら人類の知力や知性の進化が、余りにも遅延しているからだ。そんな人たちのせいで、地球環境が酷く荒らされているからである。

人類の退化と、それにともなう憎悪を起点とした人の判断力‥。全てが衝動的かつ短絡的である限り、地球も、神界の神々も救われない。

 

話を戻せば、たとえば (藤井風が心酔している) カルト宗教を憎んだり叩いたりするのではなく突き放せば良いだけなのに、その観点が持てないのは単純に思考力の低下に他ならない。

その種の人々は、目前の出来事や価値観を「憎悪」の有無と衝動でしか判断出来ない。

頼むからそういう人たちには、真っ当な顔で政治や宗教~文化や文明等を語って欲しくない。

 

ディディエ・メラへのお仕事依頼は、info@didier-merah.jp 迄お寄せ下さい。
仕事内容はラジオ番組等の「選曲」を始め、音楽評論、コラムやライナーノートの執筆等多岐に渡ります。
尚、飲食店舗用のプレイリストの作成にも応じます。作成価格に関しましては、メンテナンス等を含み月額制とさせて頂きます。
 
各ご相談は上記メールアドレス迄お寄せ下さい。
 
『X』のメインアカウントが凍結された為、現在稼働中のSNSは、以下になります 。
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“Hachikō” by 藤井 風 (魂の汚染)

この人物を取り上げることを極力回避しているその理由は、ズバリ彼の内なる宗教及び宗教観だ。だが話のネタとして綴るには面白い素材であり、だからと言って私が藤井風の活動全般を肯定している訳ではないと言う点について、先にお断りを入れておく。


SNSでかなり噂に上っていた藤井風のHachikōのオフィシャルビデオをようやく視聴したが、やはりこの男の表現が日に日に薄汚れていることは否めない。
楽曲は比較的爽快感のある、どこかデビュー当初の「きらり」にも通じるメロディーラインが顔を覗かせる。
爽やかなものをここまで汚せるのも藤井の為せる技とも言えるが、藤井の内面に在るサイババ信仰或いはサイババ教への深い傾倒や、ある種のドロップアウト感が楽曲の印象を汚染させている点にはおそらく、本人は気付いていないだろう。
 

この曲は、ロサンゼルスのプロデューサー『Sir Nolan (サー・ノーラン)』と、NewJeansDitto」「ETA」「Attention等を担当した韓国の『250 (イオゴン)』がプロデュースを務めている。
 


いいところを掠っているこの作品『Hachikō』だが、歌詞は実にくだらない(笑)。
以下に機械翻訳のスクショを出しておく🤖
 


J-PopやK-Pop付近しか聴いていないリスナーの感性にはこの程度の軽さ、チャラい内容の歌詞がきっと響くのであろうが、海外には命がけで音楽を生んで世に放っている強豪が当たり前のように存在するから、『Hachikō』の歌詞がいかに薄っぺらいことしか言ってないのかと言う辺りは歴然だ。
 
そして藤井独特の「神様」語りを絶対に外さない辺りに、彼独自の信仰心が露骨に表れている。と言うより、藤井は既にサイババ教義の布教要員であり、布教活動に絡めて音楽を利用している辺りを私は見逃さない。
最近青少年層にも藤井フリークの風が及んでいるようだが、出来れば彼の音楽とは距離を置くことをオススメしたい。音楽を通じてサイババの教義に、心身を汚染される危険性を存分に孕んでいるからだ。
 

思うに信仰が人々を分断するし、信仰は信仰によって潰される。

そんな人たちを私は沢山見て、触れて来たし、私自身はどちらかと言うとアニミズムに近い思想を持っているので、一神教に対してはどの宗教に対しても否定的だ。
音楽を志す人たちの中に宗教を持つ人が多い要因の一つとして、商業的要因が挙げられる。同じ宗教観を持つ者同士の癒着で商品を拡散し、売り上げて行くことのメリットを悪用している音楽家は多く存在する。
スティービー・ワンダー氷川きよし等もその例に当てはまる。うっかり音楽が良かったりすると、それを武器に活動するような悪しき実例も多数見られる。
 


あえて先に藤井の新譜『Hachikō』の内容の薄っぺらさについて触れておいたが、実際の歌詞の大半は英語で書かれているので、特に日本人のリスナーには意味を知る前に韻で楽曲がインプレッションするだろう。
その辺りは藤井サイドのあざとい計算が用意周到に為されているが、「どこに行こう ハチ公」‥がうるさいぐらいにラップ形式で散りばめられているのでご自身であらためて、歌詞の意味等を確認してみると良さそうだ。
 
英語による誤魔化しを巧みに利用した歌詞とはまさにこのことで、英語に苦手意識を強く持つ日本人にはこれがカッコよく聴こえてしまうから厄介だ(笑)。
 
私はこのブログとは別に、ディディエメラの音楽倉庫と言う世界の音楽データの基盤となるブログを持っている。そこには世界中の音楽を紹介し、同時に私が監修しているSpotifyのプレイリストの情報も出している。
藤井風の楽曲は世界の音楽をコレクションしているプレイリストには、到底挟むことは出来ない。どんなに藤井が英語で世界進出を狙ったとしても、彼の宗教以前に楽曲のチープさが彼の目標を大きく妨害するだろう。
とても皮肉なことだが、藤井風の目前に高く高く立ちはだかる壁を超えることは、彼には不可能だ。仮にサイババ二世としてサイババ教の教えをどれだけ歌詞に引用したとしても、むしろその行為とマインドが藤井風を小さな集団の箱の中に完全に閉じ込めて行くに違いない。
 

霊的な解釈を加えるとしたら、藤井風の見掛けは勿論、魂の汚染の激しさは音楽を通じて感じ取れる。そこそこ売り物の生産と拡散は最低限果たせるかもしれないが、それ以上に飛ぶことを創造神「クリエイション」が許さないだろう。
 

新譜『Hachikō』だが、私個人的には聴けるのは2回までだ。3回目以降になるとK-Popの立役者である『250 (イオゴン)』の、一見斬新に見えて実は使い回しの手業が視えて飽きてしまう。

250 (イオゴン)』マジックの賞味期限も、そろそろ切れて来た頃だろうか。色々な意味で使い果たしてしまった感も拭えない。つまり商業音楽の限界の壁に、既に遮られた結果だろう。
藤井風と『250 (イオゴン)』、『サー・ノーラン』の三者全員を揃えたとしても、それは魂の汚れに汚れを加えただけの結果に終わり、創造神『クリエイション』が果たして彼らに新たな境地への地図を手渡すとは到底思えない。
 

 

ディディエ・メラへのお仕事依頼は、info@didier-merah.jp 迄お寄せ下さい。
仕事内容はラジオ番組等の「選曲」を始め、音楽評論、コラムやライナーノートの執筆等多岐に渡ります。
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壁の内側と外側

本来ならば何カ所か旅行をする筈だった今年、私達夫婦は春先から一気に体調を崩した。夫婦共々そう若い方ではないので遂に、今年は冒険はやめよう‥ と言う話になり、私は風邪の次に足の爪周りを酷く化膿し始めたので現在整形外科に通院中の身である。 

医師と弁護士は、どこか似ている。味方のようで居て、両者はけっして患者や被告の味方ではない。尋問する側 (医師、弁護士) とされる側 (患者、被告) にそもそも分かれているのだから、致し方ないと思う。

私は子供の頃から、両親家族の次に医者の目が嫌いだった。患者の患部を睨み付けるようなあの目つきと、尋問しながら此方の言葉の穴を探して突っつき回すような、あの物言いが。

今回の整形外科の医者はかなりクセがある。クセはあるものの熱心で良い医者だが、時折私の言葉にミサイルでも打ち込むような反撃が為され、少々辛い。

 

数日間一日置きに整形外科に通院したが、特に昨日は帰宅後ぐったりと倒れ込んだ。車を出してくれた夫まで、体調を壊してしまった。

クリニックのある場所との相性の問題もありそうだが、その話は夫にはしていない。わざわざ言わなくてもきっと、彼も同じことを考えているだろう。

 

 

今朝は雨。気持ちも鬱ぐし、頭痛もキツい。

毎朝多摩川の写真を掲載しているXのアカウントの今朝の多摩川を見ながら、自分は海よりもやっぱり川が好きだと実感している。

 

そう言えばここ数日間、私のブログの藤井風関連の記事に訪問者が集中しているが、何かあったのだろうか?

 

 

音楽的には良い素材を秘めている人なだけに、藤井の宗教観は正直残念だ。

Xでこれを発信したら色々騒がしくなるのでコソっとブログでつぶやくに留めるが、(音楽とか歌と言った) 聴き手の精神性に深く入り込む類の素材に宗教観を乱用するのは、法と同格のレベルでルール違反だ。

まして彼が崇高している対象が世界三大宗教でも何でもないペテン師さながらのサイババだから、「宗教の自由」と言う盾をもって放置して良いとは私も思わない。

 

 

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