藤井風 – ニューアルバム『Prema』 表現解説

 
光を操るリラ星最後の巫女の私が、あえてこの人物に逆光をあてることには大きな意味がある。

2025年9月5日、藤井風のニューアルバム『Prema』がリリースされた。
私はこの作品をSpotifyで試聴する前々から、編曲 & サウンドメイクに深く関わったとされる韓国の電子系ミュージシャン250 (イオゴン)に着目していた。イオゴンが日本の問題児/藤井風の音楽をどのように料理するのか、その結果を先ず見てみたいと思っていた。
 
勿論問題児/藤井風の問題とは彼の宗教観をここでは意味し、藤井はサイババ二世として有名であるばかりでなく、藤井風の綴る歌詞の中にサイババ教義をふんだんに引用し、それを藤井風のオリジナルであるように偽装して何も知らない若年層に訴求している点を、藤井自身も最近ではさほど隠していないようにも見える。
それはけっして看過出来ない行為であることについては何ら変わりないし、長年音楽に携わり分析/解析を続けて来た私からすればここで藤井風の音楽を仮に何十回聴いたとして、それで揺らぐほど私の音楽スキルは軟じゃない。
 

 
アルバム『Prema』をざっと全曲試聴した印象は、兎に角鈍いし弱いし響かない‥ と言う一言に尽きる。

楽曲全曲がアメリカ進出を念頭に作られていると見て間違いないだろう。
だが、楽曲全体が強いアタックを必要とする構成になっているにも関わらず、藤井風の声質が余りに弱くて鈍くて、日本人向けの英語の教科書みたいになってしまっている点は松田聖子の『SEIKO JAZZ2』の冴えない出来栄え同様か、それ以上に冴えない出来栄えだと言わざるを得ない。
 

 
日本人の英語コンプレックスは藤井風には余り当てはまらないだろうと思っていたが、とんでもない話だったようだ。
兎に角声のアタリも鈍く聴こえるし、英語もだらしない。
使い古しのランニングシャツ同様に、藤井風自身も「ハーレムに舞い降りた聖者」を意識しているだろうから、成功しなかった側のBohoファッションとでも言うような倦怠感が彼の英語にも強く滲み出ており、音楽全体を一層疲労させ、貧困に見せて行く。
 

 
このアルバムの売り曲はどれだろうか?
『250 (イオゴン)』のサウンドメイクを聴く限り (私の推測が合っていれば) 、やはり『M-3: Hachikō』以外にイオゴンの熱量を殆ど感じ取ることが出来なかった。

藤井風のアルバム『Prema』のラスト曲、 『M-9: Forever Youngを聴いた時はふと、1994年にリリースされた八神純子のアルバム『Communication』の冒頭曲、Imaginationが脳裏を横切ったので比べて聴いてみたら、やはり私の脳内マッチングは正確だった。
 

 
『250 (イオゴン)』と言えばどうしてもNewJeansのヒット曲のサウンドメイクが思い出され、私の中のマイ・ベスト・250は『Ditto』を抜いて『Supernatural』が首位に立つ。
 

 

 
上記2つのサウンドメイク (楽曲) を藤井風のアルバム『Prema』と比較するのが怖い程、全く別人がサウンドトラックを担当したのではないかと言う程イオゴンの出来栄えが良くない。
手を抜いたのかそれともそもそもの楽曲の身の丈に合わせた結果、藤井風のサウンドメイクが出来栄えの劣化を免れられなくなったのか、その辺りはあくまで想像の域を出ないが、兎に角藤井風のアルバム『Prema』が昭和のアルバムではないかと耳を疑う程の古い作りに聴こえて来る。
もしもそれが意図的な企画だとしたら、わざわざ藤井風のアルバム『Prema』のサウンドメイクを『250 (イオゴン)』に依頼する必要が何故生じたのか、その辺りは当事者ではないのでよく分からないが‥。
 

 
藤井風自身からもそれまでの仕事から「‥どこか燃え尽きたような感覚」を訴えるコメントが出ていたようだが、ニューアルバムのだらしのないランニングシャツのジャケ写を始めとするアルバム全域に沁み出たドロップアウトな色彩や怠惰な印象、ダボダボの下着をさらに緩々に引き伸ばして着古したような表現はもしかすると、そちらの方が今の藤井風にしっくりハマっているのかもしれない。
 
特にインドを強く意識した象との共演等の、いかにも単純な仕掛けを一体誰が思い付いて映像化に踏み切ったのか‥、考えれば考える程よく分からない。
 

 
楽曲『Prema』の歌詞の中で、藤井は段々と豹変し、本性を現して行く。
『私は愛そのものだ』と口にした直後に、『私は神そのものだ』と言う彼の本音が遂に歌詞に託される。
 

 
楽曲Premaの中で彼が伝えたかったことは、恐らくこの一文だったのだろう。
だが残念ながら、藤井風は神ではない。もしもそう思い込まされているリスナーが一人でも居たらそれが全くの間違いであると、是非とも認識を改めるべきだ。
 

人は強烈なメッセージに惹かれ、そのメッセージ主に帰依したくなる瞬間がある。だがその帰依の先に一体何があるのか、無いのか‥、或いは何かがあるかのように騙されてはいまいかと、藤井風のような人物に遭遇した時は先ず一歩二歩離れて彼の言動を俯瞰する感性を持つべきだ。
けっして自分自身を捨てて、彼に身を捧げるようなことがあってはならない。
 

 
少なくとも音楽家として、藤井風はそのステータスを得られていないことは間違いない。だからこそ「サイババ」をここまで深く信仰し続けており、即ち藤井風の信仰心は、自身の才能不足の空洞を埋めるのにはうってつけの素材 (凶器) だったのかもしれない。
 
勿論音楽的にも稚拙であり、藤井風が宗教を隠し持って仮に藤井が全米進出を狙ったとしても、その夢を果たすことは出来ないだろう。
全てに於いて、(アルバム『Prema』も藤井風の声も) 響かない。
地球の裏側には届かない。
 

 

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藤井 風 – 花 (Official Video) – 藤井風の死生観

最近多々問題の動画を配信し続けている藤井 風が、新曲花 (Official Video) 』をリリースした。
そもそもサイババの信者ではないかと噂されている藤井 風が放つ新作動画だが、個人的にこの世界観は嫌いではない。

勿論動画全体にお線香とか「黄泉の国」の匂いが充満しているが、見方を変えると今っぽいとも言える。
よくよく考えてみれば現在の世界情勢はどうだろうか?
世界中のメディアやエンタメ業界が「俺たちゃ健在だぜ」と言う主張を色濃くしているのが現状だが、どう見てもそれが嘘臭いことは誰が見ても明白だ。
ディズニー映画等も大赤字を叩き出し続けているし、アメリカの長期ストライキで俳優たちも最近仕事を再開したかどうか‥ と言うタイミングだ。

世界は確実に破滅に向かって進んでいる。それはもう疑いようのない事実だ。
その「事実感」を堂々と臆することなく、しかもライトタッチで表現した一つの例がこのMVではないだろうか。
 


このPVを見ていたらふと、藤原 新也が1983年にリリースした写真エッセイ集『メメント・モリ』を思い出した。
 

 
書籍中身にはそれと思われるショッキングな写真も多いのであえて此方には掲載を控えさせて戴くが、今このご時世、生と死は当たり前に隣り合わせていると多くの人々がそれを感じているに違いない。
 


そう言えば遡ること2011年3月11日、忘れることの出来ない東北地方太平洋沖地震の直後に私もシュールな感性が全開になり、長い期間これに似た光景を夢にも現実にも見せ付けられ続けた。
別名で綴っていた当時のブログにもいわゆる「亡骸」を思われる写真等を掲載したこともあり、その時は多くの見知らぬ人たちに叩かれたものだったが、私の中では全てが現実であり目を伏せては通り抜けることの許されない出来事だと言う認識が強かった。
 

藤井 風の「花(Official Video)」の中でも、ある種それに似た描写がふんだんに為されているのに彼は叩かれない。
知名度と認知度の差とは言え、そういうことがあって良いと言う気にはなれない。‥と言うより、「生と死」も表現の一つと捉えるべきで、視聴者の機嫌によって表現手法を変えるような姑息な表現者の方がむしろ偽善的だと私は思っている。
 


動画中盤では棺桶に入った亡骸風の藤井 風が目を閉じたまま蘇り、花の紋様を纏った衣服で軽やかに自由に踊り始める。
時間が移動し夜間の設定に移り、遺影をバックに焚火を焚いてダンサー4人を従えて藤井が舞う。
まるで、生きている時よりも肉体を脱ぎ捨てた今の方が何もかもが自由だと言わんばかりに、観ている側にもそれが伝わって来る。
 
メメント・モリの書籍の帯に書かれてあるこの言葉が、ふと脳裏に浮かんで来る。
 

本当の死が見えないと、本当の生も生きられない。

 
人が宗教を思う時、それは自身の中の何かしらの迷い、その迷いとの葛藤の逃げ場所としてそこへ向かって行くような気もするが、往々にして人間は宗教以外の目的地を生きる為の焦点に定めることを案外許されていないのかもしれない。
それが両親であったり友人であったり、何れにせよ逃げ場所が「人」である場合程かえって逃げ場所が絶たれて行くようにも思える。少なくとも私の場合はそうだった。
哲学を得よ‥ と言われても皆小難しいことばかりをのたまう書籍や人が多く、私もそこで外側に哲学の理想を求めることには挫折した。
 

たかがJ-Popのたかだか藤井 風。
最近は少々いやらしい表現が鼻に付いていたきらいもあったが、この動画『花 (Official Video)』には好感が持てる。
但し楽曲のクオリティーは?と問われたら、「可もなく不可もないフツーのポップスですね」と迷わず回答する出来栄えだ(笑)。
 
K-Pop界隈もここ数年間は出口を失い、右往左往しながら新作のリリース(カムバック?)の淵を彷徨っている状況で、あっと人の意識を変えて行くような新作を下手に待ち望んで期待し続けると逆にメンタルがヤラれかねない。
期待も希望もほどほどに、今はこのコロナ禍(新型コロナワクチン薬害)の荒波を如何に上手く渡り抜いて行くか‥と言うところに、全人類はフォーカスすることがベターだろう。
 

「最高の安らぎが死の向こう側にしか存在しない」と藤井 風は心のどこかで感じているのかもしれないが、それはあくまで表現の極論に過ぎないと言う観点は捨てるべきではない。
生きて高みに到達する方法を知っているのは人類のごく一握りかもしれないが、それは何かしらの情報を「知る」のではなく精霊が指し示す希望地図を感じ取れるか否かの問題。
 
私もそんな、精霊と近しい人類の一人であるように‥👼